DEEP PURPLE
DEEP PURPLEの詳しいBiographyと全作品のディスコグラフィ。アルバムごとの個別ページも掲載するMETAL BOOSTのアーティストページ。
Biography
ディープ・パープル (DEEP PURPLE)
歴史、作品群、音楽的変遷
1. Introduction
1968年の英国 (United Kingdom)における結成以来、ディープ・パープル (DEEP PURPLE) は半世紀以上にわたり、ハードロック (Hard Rock) およびヘヴィメタル (Heavy Metal) のジャンル形成とその発展において、記念碑的な役割を果たしてきた。レッド・ツェッペリン (Led Zeppelin)、ブラック・サバス (Black Sabbath) と並び、英国ハードロックの「不浄の三位一体(Unholy Trinity)」の一角として称されるDEEP PURPLEの功績は、単なる商業的成功 (アルバム総売上枚数は1億枚を超えると推定される) に留まらない。
DEEP PURPLEの音楽的特異性は、クラシック音楽 (Classical Music) の素養を持つキーボーディスト、ジョン・ロード (Jon Lord)と、攻撃的かつ叙情的なフレージングを操るギタリスト、リッチー・ブラックモア (Ritchie Blackmore) の相互作用にある。そこに、ジャズ (Jazz) やスウィング (Swing) に裏打ちされたイアン・ペイス (Ian Paice) のドラミングが加わることで、同時代のブルース (Blues) ベースのロックバンドとは一線を画す、プログレッシブかつ重厚サウンドスケープを構築した。
2. 結成前夜: ラウンドアバウト・プロジェクト(Origins: The Roundabout Project)
ディープ・パープルの歴史は、1967年のロンドン (London) に遡る。発端は、元サーチャーズ (The Searchers) のドラマー、クリス・カーティス (Chris Curtis) が構想した「ラウンドアバウト (Roundabout)」 というプロジェクトであった。
2.1 クリス・カーティスの構想と投資家たち
クリス・カーティスは、ロンドンの繊維業界で成功を収めていたビジネスマン、トニー・エドワーズ (Tony Edwards) に接近し、「メンバーがメリーゴーランド (ラウンドアバウト)のように乗り降りするスーパーグループ」というコンセプトを提案した。エドワーズは、パートナーであるジョン・レッタ (John Coletta) と共に「HECエンタープライズ (HEC Enterprises)」を設立し、この未知のプロジェクトへの出資を決断した。
2.2 ジョン・ロードとリッチー・ブラックモアの出会い
カーティスは、当時「アート・ウッズ (The Artwoods)」で活動していたハモンドオルガン (Hammond Organ) 奏者のジョン・ロード (Jon Lord) をスカウトした。ロードはクラシック音楽の正規教育を受けており、ロックにバロック音楽や古典派の要素を持ち込む野心を持っていた。一方、ギタリストには、セッション・ミュージシャンとして既に卓越した評判を得ていたリッチー・ブラックモア (Ritchie Blackmore) が候補に挙がった。ブラックモアは当時ハンブルク (Hamburg) に拠点を移そうとしていたが、ロードとマネージメントの説得によりロンドンへ呼び戻された。
しかし、発案者のカーティスは情緒不安定な行動が目立ち始め、LSDの使用も相まってプロジェクトから離脱することとなる。皮肉にも、「ラウンドアバウト」 というコンセプトの発案者が最初に「降りる」形となったが、残されたロードとブラックモアは、HECエンタープライズの支援を受け、バンド編成を継続することを決意した。
2.3 リズム隊とボーカルの選定
ベーシストには、ジョニー・キッド&ザ・パイレーツ (Johnny Kidd & The Pirates) で活動していたニック・シンパー (Nick Simper)が、ロードとの親交を通じて加入した。シンパーは初期のバンド運営において、メンバー募集の広告対応やオーディションの手配など実務的な役割も担っていた。
ボーカリストの選定は難航したが、「メイズ (The Maze)」 というバンドのシンガー、ロッド・エヴァンス (Rod Evans) の声質(バラードに適した深みのある低音)が評価され採用された。そして、エヴァンスのオーディションに同行していたのが、同じくメイズのドラマー、イアン・ペイス (Ian Paice) であった。当時、バンドにはボビー・クラーク (Bobby Clarke) というドラマーがいたが、ブラックモアはハンブルク時代にペイスの演奏を目撃しており、その実力を高く評価していた。ペイスのオーディションは急遽行われ、その圧倒的なテクニックにより即座に加入が決定した。こうして1968年3月、後に「第1期(Mark I)」と呼ばれるラインナップが完成した。
バンド名は、ブラックモアの祖母が好きだった1930年代のジャズ・スタンダード曲「DEEP PURPLE」(ピーター・デ・ローズ (Peter DeRose) 作曲) から採られた。これはスカンジナビア (Scandinavia) ツアー中に決定され、それまでの「ラウンドアバウト」や「コンクリート・ゴッド (Concrete God)」といった候補は破棄された。
3. バイオグラフィ: 第1期 (Mark I) 1968-1969
サイケデリックとプログレッシブの融合
3.1 メンバー構成
- リッチー・ブラックモア (Ritchie Blackmore) - Guitar
- ロッド・エヴァンス (Rod Evans) - Vocals
- ニック・シンパー (Nick Simper) - Bass, Backing Vocals
- ジョン・ロード (Jon Lord) - Hammond Organ, Keyboards, Backing Vocals
- イアン・ペイス (Ian Paice) - Drums
3.2 『ハッシュ』でのデビューとアメリカでの成功
1968年7月、デビューアルバム『ハッシュ (Shades of DEEP PURPLE)』 がリリースされた。わずか数日間のスタジオワークで制作されたこのアルバムは、当時流行していたサイケデリック・ロック (Psychedelic Rock) の色彩が濃厚であった。特筆すべきは、ジョー・サウス (Joe South) のカバー曲 「ハッシュ (Hush)」のアメリカでの爆発的ヒットである。ビルボード・ホット100 (Billboard Hot 100) で4位を記録し、バンドは本国イギリスよりも先にアメリカでスターダムにのし上がった。この時期のサウンドは、アメリカのバンド、バニラ・ファッジ (Vanilla Fudge) の影響を強く受けており、既存のポップソングをスローテンポかつドラマチックにアレンジする手法(例: ビートルズの「ヘルプ (Help!)」 のカバー) が特徴的であった。
3.3 『詩人タリエシンの世界』と過酷なツアー
セカンドアルバム 『詩人タリエシンの世界 (The Book of Taliesyn)』(1968年)も、アメリカツアーの合間を縫って性急に制作された。このアルバムでは、ニール・ダイアモンド (Neil Diamond) のカバー 「ケンタッキー・ウーマン (Kentucky Woman)」が小ヒットしたが、同時にオリジナル楽曲におけるクラシック音楽への接近(「Anthem」や「Exposition」におけるバッハやベートーヴェンの引用) が顕著になり始めた。DEEP PURPLEはクリーム (Cream)の「さよならツアー」の前座を務めるなど、アメリカでの活動を中心に行ったが、マネージメントのトラブルや過酷なスケジュールにより、メンバー間の疲労は蓄積していった。
3.4 『ディープ・パープル』と方向性の乖離
1969年発表のサードアルバム『ディープ・パープル (DEEP PURPLE)』は、第1期の集大成とも言える作品である。特に12分に及ぶ大作「4月の協奏曲 (April)」は、オーケストラ・セクションを含む野心作であり、ジョン・ロードの音楽的ビジョンが具現化したものであった。しかし、リッチー・ブラックモアは、レッド・ツェッペリン (Led Zeppelin) のデビューアルバムに衝撃を受け、よりハードで重厚なロックサウンドへの転換を強く志向するようになった。ロッド・エヴァンスのクルーナー (Crooner) スタイルのボーカルと、ニック・シンパーの旧来的なベースプレイは、ブラックモアが目指す新しい方向性 (ハードロック)には不適合であると判断された。ブラックモアとロードは、エヴァンスとシンパーに告げることなく、秘密裏に後任探しを開始した。
4. バイオグラフィ: 第2期 (Mark II) 1969-1973
黄金期の到来とハードロックの確立
4.1 メンバー構成
- リッチー・ブラックモア (Ritchie Blackmore) - Guitar
- イアン・ギラン (Ian Gillan) - Vocals, Harmonica, Percussion
- ロジャー・グローヴァー (Roger Glover) - Bass
- ジョン・ロード (Jon Lord) - Hammond Organ, Keyboards
- イアン・ペイス (Ian Paice) - Drums
4.2 ギランとグローヴァーの加入
ブラックモアとロードは、エピソード・シックス (Episode Six) というバンドのボーカリスト、イアン・ギラン (Ian Gillan) に白羽の矢を立てた。ギランは作詞作曲のパートナーであったベーシストのロジャー・グローヴァー (Roger Glover) と共に行動することを条件としたため、結果としてエヴァンスとシンパーの両名が解雇され、ギランとグローヴァーが加入することとなった。このラインナップは、後に「黄金の第2期」と呼ばれ、ロック史上で最も重要なバンド編成の一つとなる。
4.3 『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの協奏曲』
第2期の最初の公式活動は、ハードロックアルバムの制作ではなく、ジョン・ロードが作曲した『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの協奏曲 (Concerto for Group and Orchestra)』の演奏であった。1969年9月24日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール (Royal Albert Hall) において、マルコム・アーノルド (Malcolm Arnold) 指揮のもと行われたこの公演は、ロックバンドとオーケストラの融合という史上初の本格的な試みとして大きな話題を呼んだ。しかし、ブラックモアはこのプロジェクトに対し、「バンドがオーケストラと演奏する奇抜なグループとして認知されること」を危惧していた。彼は、次のアルバムで徹底的にハードなロックを演奏することを条件に、この協奏曲への参加を承諾したとされる。
4.4 『イン・ロック』によるハードロック宣言
1970年6月、アルバム『イン・ロック (DEEP PURPLE in Rock)』が発表された。ジャケットには、アメリカのラシュモア山 (Mount Rushmore) の大統領彫像をメンバーの顔に置き換えたイラストが採用され、DEEP PURPLEの自信と野心を示していた。1曲目の「スピード・キング (Speed King)」から、歪みきったオルガンとギターが炸裂し、ギランのスクリーミング・ボーカルが響き渡る本作は、それまでのアート・ロック的な雰囲気を完全に払拭した。特に10分を超る大作「チャイルド・イン・タイム (Child in Time)」は、冷戦 (Cold War) への恐怖をテーマにした叙事詩であり、静寂から狂気的なクライマックスへと展開する構成は、ハードロックの様式美を決定づけた。シングルとして発表された「ブラック・ナイト (Black Night)」は全英チャート2位を記録し、バンドはイギリス国民的な人気を獲得した。
4.5 『ファイアボール』と実験性
1971年のアルバム 『ファイアボール (Fireball)』は、過酷なツアーの合間を縫って制作された。タイトル曲におけるイアン・ペイスのツーバス (ダブル・バスドラム)の連打や、「誰かの娘 (Anyone's Daughter)」でのカントリー風のアプローチなど、実験的な要素が強い作品となった。ブラックモア自身はこのアルバムに対して後に批判的な発言もしているが、「ストレンジ・カインド・オブ・ウーマン (Strange Kind of Woman)」(米国盤や日本盤に収録)などの重要曲を生み出した。
4.6 『マシン・ヘッド』とモントルーの火災
1971年12月、バンドはスイス (Switzerland) のモントルー (Montreux) にあるカジノで次作のレコーディングを行う予定であった。しかし、フランク・ザッパ (Frank Zappa) のコンサート中に観客がフレアガン (信号弾)を発射し、カジノが全焼するという事件が発生した。メンバーは、煙がレマン湖 (Lake Geneva) の上を漂う光景をホテルの窓から目撃し、ロジャー・グローヴァーが即座に「スモーク・オン・ザ・ウォーター (Smoke on the Water)」というタイトルを思いついた。レコーディング場所を失ったバンドは、グランド・ホテル (Grand Hotel) を借り切り、ローリング・ストーンズ・モバイル・スタジオ (Rolling Stones Mobile Studio) を持ち込んで廊下や部屋で録音を行った。こうして完成したアルバム『マシン・ヘッド (Machine Head)』 (1972年)は、ハードロックの教科書とも呼べる完成度を誇り、「ハイウェイ・スター (Highway Star)」、「スペース・トラッキン (Space Truckin')」、「レイジー (Lazy)」など、全ての曲がライブの定番となる名盤となった。
4.7 『ライヴ・イン・ジャパン』 と崩壊への序曲
1972年8月、バンドは初来日を果たし、大阪フェスティバルホール (Festival Hall, Osaka) と日本武道館(Nippon Budokan, Tokyo) で公演を行った。この模様を収録したライブアルバム『ライヴ・イン・ジャパン (Made in Japan)』は、当初日本限定企画であったが、その演奏のあまりの凄まじさに世界発売が決定された。スタジオ盤を凌駕するエネルギーと即興演奏の応酬は、ロック・ライブアルバムの最高峰として現在でも評価されている。
成功の裏でバンド内の人間関係、特にブラックモアとギランの確執は修復不可能なレベルに達していた。ブラックモアはギランの歌唱スタイルやステージでの振る舞いに不満を持ち、会話すら交わさない状態が続いた。1973年のアルバム『紫の肖像(Who Do We Think We Are)』制作後、ギランは脱退を表明 (事実上の解雇に近い状況とも言われる)。さらにブラックモアは、ベーシストのロジャー・グローヴァーの解雇も要求し、これを飲まなければ自分が辞めるとマネージメントに迫った。結果として、黄金の第2期は1973年6月の大阪公演を最後に幕を閉じた。
5. バイオグラフィ: 第3期 (Mark III) 1973-1975
ソウルとファンクの導入
5.1 メンバー構成
- リッチー・ブラックモア (Ritchie Blackmore) - Guitar
- デヴィッド・カヴァデール (David Coverdale) - Lead Vocals
- グレン・ヒューズ (Glenn Hughes) - Bass, Vocals
- ジョン・ロード (Jon Lord) - Keyboards
- イアン・ペイス (Ian Paice) - Drums
5.2 新メンバーの発掘
グローヴァーの後任には、トラピーズ (Trapeze) でベースとボーカルを担当していたグレン・ヒューズ (Glenn Hughes) が抜擢された。ヒューズは当初、ポール・ロジャース (Paul Rodgers) とバンドを組む予定があったが、ディープ・パープルへの加入を選択した。リードボーカルには、当時無名でブティックの店員をしていたデヴィッド・カヴァデール (David Coverdale)が、テープオーディションを経て採用された。カヴァデールのブルージーで深みのある中低音と、ヒューズのソウルフルなハイトーンボイスによる「ツイン・ボーカル」体制が確立された。
5.3 『紫の炎』と成功の持続
1974年に発表されたアルバム『紫の炎 (Burn)』は、タイトル曲の強烈なリフと疾走感により、第2期ファンからも熱狂的に迎えられた。「ミストリーテッド (Mistreated)」のようなスロー・ブルースでは、カヴァデールの表現力が遺憾なく発揮され、ヒューズのファンキーなベースラインもバンドに新しいグルーヴをもたらした。
5.4 カリフォルニア・ジャムの伝説
1974年4月6日、アメリカのオンタリオ・モーター・スピードウェイ (Ontario Motor Speedway)で開催された巨大フェスティバル「カリフォルニア・ジャム (California Jam)」に出演。25万人(一説には40万人)の観衆の前で、日没のタイミングに合わせてステージに上がることを要求したブラックモアは、主催者と対立し楽屋に立てこもる騒動を起こした。最終的にステージに上がったブラックモアは、演奏のクライマックスでテレビカメラのレンズをギターで突き破り、マーシャル・アンプに火を放って爆発させた。この衝撃的なパフォーマンスは全米に生中継され、バンドの「危険な」イメージを決定づけた。
5.5 『嵐の使者』とブラックモアの脱退
しかし、続くアルバム 『嵐の使者 (Stormbringer)』(1974年)では、ヒューズとカヴァデールが持ち込んだファンク (Funk) やソウル (Soul) ミュージックの要素がさらに色濃くなった。ブラックモアはこの方向性を「靴磨きの音楽(シューシャイン・ミュージック)」と呼んで嫌悪し、自身のハードロック志向との乖離を深めた。1975年4月、パリ (Paris) 公演を最後にブラックモアは脱退。彼はエルフ (Elf) のボーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオ (Ronnie James Dio) と共に「レインボー (Rainbow)」を結成する道を選んだ。バンドの核であったブラックモアの離脱により、ディープ・パープルは解散の危機に瀕した。
6. バイオグラフィ: 第4期 (Mark IV) 1975-1976
アメリカン・スタイルの導入と悲劇的結末
6.1 メンバー構成
- トミー・ボーリン (Tommy Bolin) - Guitar, Vocals
- デヴィッド・カヴァデール (David Coverdale) - Lead Vocals
- グレン・ヒューズ (Glenn Hughes) - Bass, Vocals
- ジョン・ロード (Jon Lord) - Keyboards
- イアン・ペイス (Ian Paice) - Drums
6.2 トミー・ボーリンの加入
ブラックモアの後任として、アメリカ人のギタリスト、トミー・ボーリン (Tommy Bolin) が加入した。ビリー・コブハム (Billy Cobham) のアルバム 『スペクトラム (Spectrum)』でのプレイや、ジェイムス・ギャング (James Gang) での実績を買われての起用であった。ボーリンはジャズ・フュージョン (Jazz Fusion) の背景を持ち、エフェクター (エコープレックス等)を多用するスタイルで、バンドのサウンドを劇的に変化させた。
6.3 『カム・テイスト・ザ・バンド』
1975年発表のアルバム『カム・テイスト・ザ・バンド (Come Taste the Band)』は、従来の重厚なハードロックとは異なる、軽快でグルーヴィーなロックアルバムとなった。楽曲の質は高く評価されたが、古くからのファンの一部は、あまりの変貌ぶりに戸惑いを隠せなかった。
6.4 薬物問題と解散
第4期の活動は、メンバー(特にボーリンとヒューズ)の深刻な薬物中毒によって蝕まれた。1975年の来日公演では、ボーリンの左腕が注射の失敗による麻痺で動かず、まともな演奏ができないという事態に陥った(この模様の一部はライブ盤『ラスト・コンサート・イン・ジャパン (Last Concert in Japan)』 として後にリリースされたが、評価は散々であった)。1976年3月15日、リヴァプール・エンパイア・シアター (Liverpool Empire Theatre) での公演後、疲弊しきったカヴァデールはロードとペイスに解散を提案し、合意に至った。同年7月、ディープ・パープルは正式に解散を発表した。その年の12月、トミー・ボーリンはマイアミ (Miami) でヘロインの過剰摂取により25歳の若さで死去した。
7. 空白期間とソロ活動 (1976-1984)
解散後、メンバーはそれぞれのプロジェクトで成功を収めた。
- リッチー・ブラックモア: レインボー (Rainbow)を率い、ロニー・ジェイムス・ディオ、グラハム・ボネット (Graham Bonnet)、ジョー・リン・ターナー (Joe Lynn Turner) らと共に様式美ハードロックからアメリカ市場向けの産業ロックへとスタイルを変化させながら成功した。
- デヴィッド・カヴァデール: ホワイトスネイク (Whitesnake) を結成。ジョン・ロードとイアン・ペイスも後に合流し、ブルースロックを基調とした活動を展開した。
- イアン・ギラン: イアン・ギラン・バンド (Ian Gillan Band) やギラン (Gillan)を結成。一時期ブラック・サバス (Black Sabbath) に加入しアルバム『悪魔の落とし子 (Born Again)』を残した。
7.1 「偽ディープ・パープル」事件(1980)
1980年、第1期のボーカリストであったロッド・エヴァンスが、無名のミュージシャンを集めて「ディープ・パープル」を名乗り、北米ツアーを行うという事件が発生した(通称: Bogus DEEP PURPLE)。オリジナルメンバーはエヴァンス一人だけであったが、プロモーターはこれを「ディープ・パープルの再結成」として宣伝した。これに対し、ブラックモアとマネージメント側は即座に法的措置をとり、名称使用の差し止めと損害賠償を求めた。裁判の結果、エヴァンス側は敗訴し、ディープ・パープルの名義使用権の剥奪と、過去のロイヤリティ (印税)の没収という厳しい判決が下された。以後、エヴァンスは音楽業界から完全に姿を消し、公の場に現れていない。
8. バイオグラフィ: 第2期再結成(Mark II Reunion) 1984-1989
「パーフェクト・ストレンジャーズ」
8.1 奇跡の再結成
1984年、世界中のロックファンが待ち望んだ黄金の第2期メンバー (ブラックモア、ギラン、グローヴァー、ロード、ペイス) による再結成が実現した。レコード会社 (ポリドール) からの破格の契約金も後押しとなったが、メンバー自身も「適切なタイミング」と感じていた。
8.2 『パーフェクト・ストレンジャーズ』
1984年リリースの再結成アルバム『パーフェクト・ストレンジャーズ (Perfect Strangers)』は、プラチナディスクを獲得する大ヒットとなった。タイトル曲や「ノッキング・アット・ユア・バック・ドア (Knocking at Your Back Door)」など、往年のスタイルを踏襲しつつも80年代的なプロダクションを取り入れたサウンドは高く評価された。続くワールドツアーは、アメリカでその年の興行収入トップクラスを記録し、イギリスではネブワース・フェスティバル (Knebworth Festival)に出演した。
8.3 『ハウス・オブ・ブルー・ライト』と再度の亀裂
1987年のアルバム『ハウス・オブ・ブルー・ライト (The House of Blue Light)』も商業的には成功したが、制作過程でブラックモアとギランの対立が再燃した。ギランは歌詞やメロディにおいて自分のスタイルを主張し、ブラックモアはそれを拒絶するという構図が繰り返された。1989年、ついにブラックモアはギランの解雇を強行。ギランにとって2度目のバンド追放となった。
9. バイオグラフィ: 第5期 (Mark V) 1989-1992
AOR路線への転換
9.1 ジョー・リン・ターナーの加入
ブラックモアは、レインボー時代の同僚であるジョー・リン・ターナー (Joe Lynn Turner) をボーカルに迎えた。
- メンバー: リッチー・ブラックモア、ジョー・リン・ターナー、ロジャー・グローヴァー、ジョン・ロード、イアン・ペイス
9.2 『スレイヴス・アンド・マスターズ』
1990年のアルバム『スレイヴス・アンド・マスターズ (Slaves and Masters)』は、極めて洗練されたメロディック・ロック (AOR) 作品となった。楽曲のクオリティは高かったものの、従来のディープ・パープルらしい 「スリル」や「野生味」に欠け、一部のファンからは「ディープ・レインボー (Deep Rainbow)」と揶揄された。ツアーの集客も芳しくなく、レコード会社(BMG) は結成25周年記念アルバムに向けて、イアン・ギランの復帰を強く要請した。
10. バイオグラフィ: 第2期再々結成とブラックモアの最終的脱退(1992-1993)
10.1 憎しみの中での『紫の聖戦』
ブラックモアは当初ギランの復帰に反対したが、商業的な圧力と他のメンバーの説得により渋々承諾した(口座に25万ドルが振り込まれたから、という説もある)。1993年のアルバム『紫の聖戦 (The Battle Rages On...)』は、タイトルが示す通り、レコーディング中からメンバー間の「戦い」が続いていた。ブラックモアとギランは顔を合わせることなく別々に録音を行い、完成した作品はブラックモアの意図とは異なるものとなっていた。
10.2 リッチー・ブラックモアの脱退
1993年のヨーロッパツアー中、ブラックモアの不満は爆発寸前であった。彼は契約上の義務である日本公演を行うことを拒否し、11月のヘルシンキ (Helsinki) 公演を最後にバンドを脱退した。彼はカメラマンに水をかけ、アンコールを拒否するなど荒れたステージを見せ、二度とディープ・パープルに戻ることはなかった。残された日本公演のチケットは完売しており、バンドは急遽ジョー・サトリアーニ (Joe Satriani) に代役を依頼。サトリアーニは見事にその役目を果たし、ツアーを成功させた(この期間を便宜上、第6期(Mark VI) と呼ぶことがある)。
11. バイオグラフィ: 第7期 (Mark VII) 1994-2002
スティーヴ・モースの加入と再生
11.1 メンバー構成
- スティーヴ・モース (Steve Morse) - Guitar
- イアン・ギラン (Ian Gillan) - Vocals
- ロジャー・グローヴァー (Roger Glover) - Bass
- ジョン・ロード (Jon Lord) - Keyboards
- イアン・ペイス (Ian Paice) - Drums
11.2 新しい血の導入
サトリアーニは自身の契約の関係で正式加入できず、バンドはディキシー・ドレッグス (Dixie Dregs) やカンサス (Kansas) で知られるアメリカ人ギタリスト、スティーヴ・モース (Steve Morse) を迎えた。モースはブラックモアとは全く異なるスタイル (正確無比なオルタネイト・ピッキング、カントリーやジャズの要素)を持っていたが、彼の温厚な人柄と真摯な姿勢は、長年の人間関係の軋轢に疲弊していたバンドに癒しと活気をもたらした。
11.3 『パーペンディキュラー』
1996年のアルバム『パーペンディキュラー (Purpendicular)』は、新生ディープ・パープルの傑作として高く評価された。特にバラード「サムタイムズ・アイ・フィール・ライク・スクリーミング (Sometimes I Feel Like Screaming)」は、ギランの感動的なボーカルとモースの泣きのギターが融合し、新たな代表曲となった。このラインナップはバンドに長期的な安定をもたらし、1999年にはロイヤル・アルバート・ホールで『協奏曲』の再演も行われた。
12. バイオグラフィ: 第8期 (Mark VIII) 2002-2022
ドン・エイリーの加入とボブ・エズリン・トリロジー
12.1 ジョン・ロードの引退
2002年、創設メンバーのジョン・ロードが、膝の不調と個人的なプロジェクトへの専念を理由に引退を表明した(ロードは2012年に膵臓癌により死去)。後任には、レインボーやオジー・オズボーン (Ozzy Osbourne) バンドで活躍したベテラン、ドン・エイリー (Don Airey) が加入した。エイリーはロードのスタイルを継承しつつも、自身の個性 (シンセサイザーの多用など)を加味し、バンドにスムーズに溶け込んだ。
12.2 ボブ・エズリンとの共作
2013年、プロデューサーにボブ・エズリン (Bob Ezrin) (アリス・クーパー、ピンク・フロイド等を手掛けた巨匠)を迎え、アルバム『ナウ・ホワット?! (Now What?!)』を発表。これがドイツでチャート1位を獲得するなど世界的なヒットとなった。エズリンとのコラボレーションは続き、『インフィニット (Infinite)』 (2017年)、『ウーッシュ! (Whoosh!)』 (2020年) と、質の高いアルバムを連発。これらは「タイム・トリロジー (時間三部作)」とも呼ばれ、バンドが「老い」や「時間の経過」と向き合いながらも、依然として現役であることを高らかに宣言する作品群となった。
12.3 『ターニング・トゥ・クライム』
2021年には、キャリア初の全曲カバーアルバム『ターニング・トゥ・クライム (Turning to Crime)』を発表。コロナ禍によるロックダウン中、各メンバーがリモートで録音データをやり取りして制作された。クリームやフリートウッド・マックなどの楽曲をリラックスした雰囲気で演奏しており、メンバーのルーツを垣間見ることができる。
13. バイオグラフィ: 第9期 (Mark IX) 2022-現在
新たなる章
13.1 スティーヴ・モースの脱退
2022年、スティーヴ・モースは、癌闘病中の妻ジャニーン (Janine) の看病に専念するため、バンドを一時離脱し、その後正式に脱退を発表した。28年間という最も長い期間バンドを支えた彼の功績は計り知れない。代わって、アイルランド出身のギタリスト、サイモン・マクブライド (Simon McBride) が加入した。マクブライドは以前からイアン・ギランやドン・エイリーのソロツアーに参加しており、気心知れた仲であった。
13.2 最新作『=1』
2024年、通算23枚目のスタジオアルバム 『=1 (イコール・ワン)』が発表された。タイトルは「複雑化する世界において、すべての本質は一つに帰結する (Everything equals one)」という意味が込められている。40代のマクブライドが持ち込んだ若々しいエネルギーと、70年代回帰とも言えるハードなリフワークが融合し、批評家からは「近年で最もエネルギッシュな作品」と評された。「ポータブル・ドア (Portable Door)」 などの楽曲では、79歳になろうとするイアン・ギランのボーカルも依然として力強く、バンドの旅がまだ終わっていないことを証明している。
14. ディスコグラフィ (Discography)
ディープ・パープルはこれまでに23枚のスタジオアルバムを発表している。以下に主要なチャート順位(英・米)と当時の編成 (Mark)を記載した一覧表を示し、主要作品について詳述する。
14.1 スタジオ・アルバム一覧表
| No. | タイトル(原題) | 発売年 | Mark | UK | US | 概要と主要曲 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | ハッシュ (Shades of DEEP PURPLE) |
1968 | I | - | 24 | デビュー作。全米4位のヒット曲「Hush」収録。サイケ色が強い。 |
| 2 | 詩人タリエシンの世界 (The Book of Taliesyn) |
1968 | I | - | 54 | 「Kentucky Woman」収録。クラシック要素の萌芽。 |
| 3 | ディープ・パープル (DEEP PURPLE) |
1969 | I | - | 162 | アート・ロックの傑作。「April」収録。通称「サード・アルバム」。 |
| 4 | イン・ロック (DEEP PURPLE in Rock) |
1970 | II | 4 | 143 | ハードロック転向。「Speed King」「Child in Time」。 |
| 5 | ファイアボール (Fireball) |
1971 | II | 1 | 32 | 全英1位。「Fireball」「Strange Kind of Woman」(米/日)。 |
| 6 | マシン・ヘッド (Machine Head) |
1972 | II | 1 | 7 | 最高傑作。「Smoke on the Water」「Highway Star」。 |
| 7 | 紫の肖像 (Who Do We Think We Are) |
1973 | II | 4 | 15 | 「Woman from Tokyo」収録。バンド内の緊張が反映。 |
| 8 | 紫の炎 (Burn) |
1974 | III | 3 | 9 | 第3期デビュー。「Burn」「Mistreated」。 |
| 9 | 嵐の使者 (Stormbringer) |
1974 | III | 6 | 20 | ファンク色濃厚。「Stormbringer」「Soldier of Fortune」。 |
| 10 | カム・テイスト・ザ・バンド (Come Taste the Band) |
1975 | IV | 19 | 43 | トミー・ボーリン参加。「Gettin' Tighter」。 |
| 11 | パーフェクト・ストレンジャーズ (Perfect Strangers) |
1984 | II | 5 | 17 | 再結成。「Perfect Strangers」「Knocking at Your Back Door」。 |
| 12 | ハウス・オブ・ブルー・ライト (The House of Blue Light) |
1987 | II | 10 | 34 | 実験的サウンド。「Bad Attitude」。 |
| 13 | スレイヴス・アンド・マスターズ (Slaves and Masters) |
1990 | V | 45 | 87 | J.L. ターナー参加。メロディアスな「King of Dreams」。 |
| 14 | 紫の聖戦 (The Battle Rages On...) |
1993 | II | 21 | 192 | ギラン復帰。「Anya」。ブラックモア最後の参加作。 |
| 15 | パーペンディキュラー (Purpendicular) |
1996 | VII | 58 | - | モース初参加。多様性豊かな傑作。「Vavoom: Ted the Mechanic」。 |
| 16 | アバンダン (Abandon) |
1998 | VII | 76 | - | ヘヴィ路線への回帰。「Any Fule Kno That」。 |
| 17 | バナナ (Bananas) |
2003 | VIII | 85 | - | エイリー初参加。「House of Pain」。 |
| 18 | ラプチャー・オブ・ザ・ディープ (Rapture of the Deep) |
2005 | VIII | 81 | - | 実験的要素を含む意欲作。 |
| 19 | ナウ・ホワット?! (Now What?!) |
2013 | VIII | 19 | 110 | エズリン・プロデュース。「Vincent Price」。 |
| 20 | インフィニット (Infinite) |
2017 | VIII | 6 | 105 | 「Time for Bedlam」。 |
| 21 | ウーッシュ! (Whoosh!) |
2020 | VIII | 4 | 161 | 批評家からの高評価。「Throw My Bones」。 |
| 22 | ターニング・トゥ・クライム (Turning to Crime) |
2021 | VIII | 28 | - | 全曲カバーアルバム。 |
| 23 | =1 (イコール・ワン) (=1) |
2024 | IX | 12 | - | マクブライド初参加。「Portable Door」。 |
14.2 必聴アルバム詳細
『マシン・ヘッド (Machine Head)』 (1972)
ロック史を語る上で避けて通れない金字塔。前述の通り、モントルーのカジノ火災というアクシデントを経て、ホテルの廊下で録音された。この「デッド」な (残響の少ない) 録音環境が、逆に各楽器の音をタイトで生々しいものにし、比類なきドライブ感を生んだ。「ハイウェイ・スター」のギターソロは、バッハ的なコード進行をアルペジオで弾くという、後のネオ・クラシカル・メタルの原点とも言えるプレイである。「スペース・トラッキン」の単純だが強力なリフは、ライブでのインプロビゼーションの核となった。
『紫の炎 (Burn)』 (1974)
メンバーチェンジの不安を一掃した名盤。タイトル曲 「紫の炎 (Burn)」におけるブラックモアのリフ、ペイスの疾走するドラム、そしてカヴァデールとヒューズのツイン・ボーカルのハーモニーは圧巻である。また、インストゥルメンタル曲 「A200」ではシンセサイザーが導入され、バンドのサウンドパレットが広がったことを示している。
『パーペンディキュラー (Purpendicular)』 (1996)
リッチー・ブラックモアという絶対的な柱を失ったバンドが、スティーヴ・モースという新たな才能を得て蘇った作品。モースのピッキング・ハーモニクスを多用したテクニカルなプレイは、バンドにモダンな響きを与えた。「サムタイムズ・アイ・フィール・ライク・スクリーミング」の哀愁漂うメロディは、第2期の名曲群に匹敵する評価を得ている。
14.3 主要ライブ・アルバム
- 『ライヴ・イン・ジャパン (Made in Japan)』 (1972) 1972年8月15-17日の大阪・東京公演を収録。オーバーダビング (手直し)がほとんど行われていない、真実のドキュメント。ビルボードチャートで6位を記録。
- 『メイド・イン・ヨーロッパ (Made in Europe)』 (1976) 第3期の終焉を記録した作品。ブラックモア在籍時の最後のツアーから収録されており、ファンク色とハードロックがせめぎ合うスリリングな演奏が聴ける。
- 『ノーバディーズ・パーフェクト (Nobody's Perfect)』(1988) 再結成後のツアーを収録。「ブラック・ナイト」の新たなアレンジや、「チャイルド・イン・タイム」の再演が含まれる。
15. 音楽的解剖: 機材とスタイル (Musical Anatomy & Equipment)
15.1 ジョン・ロードの「ビースト」サウンド
ジョン・ロードのハモンドオルガン (Hammond C3) のサウンドは、ディープ・パープルのアイデンティティそのものである。通常、ハモンドオルガンはレスリー・スピーカー (Leslie Speaker) という回転スピーカーを通して独特の揺らぎを得るが、ロードはこれをギター用のマーシャル・アンプ (Marshall Stack) に直接接続した。これにより、ギターに負けない歪みと音圧(オーバードライブ・サウンド)を得ることに成功し、これを「Beast (野獣)」と呼んだ。キーボードがリズムギターの役割も果たせるこの手法は、ハードロックにおける鍵盤楽器の在り方を定義した。
15.2 リッチー・ブラックモアの革新
ブラックモアは、フェンダー・ストラトキャスター (Fender Stratocaster) を使用。最大の特徴は「スキャロップ加工 (Scalloped Fretboard)」である。これは指板のフレット間をU字型にえぐり取る加工で、弦を押さえた際に指が指板に触れないため、軽いタッチで押弦でき、かつ深いビブラートやチョーキングが可能になる。また、彼は楽曲の構成において「リフ」の重要性を最大限に高めた。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のシンプルな4度進行のリフは、ロックギターの象徴である。
15.3 イアン・ペイスのドラミング
唯一のオリジナルメンバーであるペイスは、ラディック (Ludwig) やパール (Pearl) のドラムセットを使用。彼のドラミングは、バディ・リッチ (Buddy Rich) などのジャズドラマーから影響を受けており、ハードロックの重量感の中に、スウィング感 (ハネるリズム)を持ち込んでいる。片手だけで高速連打を行う「ワンハンド・ロール」は彼のトレードマークである。
16. レガシーとロックの殿堂、そして未来 (Legacy, Hall of Fame & Future)
16.1 ロックの殿堂入りを巡る論争(2016)
2016年、ディープ・パープルは遂に「ロックの殿堂 (Rock and Roll Hall of Fame)」入りを果たした。しかし、殿堂入りの対象メンバー選定は論争を呼んだ。
- 選出されたメンバー: Ritchie Blackmore, David Coverdale, Rod Evans, Ian Gillan, Roger Glover, Glenn Hughes, Jon Lord, Ian Paice.
- 除外された主要メンバー: Nick Simper (オリジナル・ベーシスト), Steve Morse (20年以上在籍), Don Airey(10年以上在籍).
特にニック・シンパーの除外は、同じ第1期のロッド・エヴァンスが選ばれたことと矛盾しており、ファンやシンパー本人から疑問の声が上がった。また、バンドを最も長く支えてきたモースとエイリーが除外されたことに対し、イアン・ギランは主催者を強く批判した。式典にはブラックモアは欠席し、ギラン、グローヴァー、ペイス、カヴァデール、ヒューズが出席した。現在のラインナップ (モースとエイリーを含む)で演奏が行われた。
16.2 終わらない旅
多くの同世代のバンドが引退したり、懐メロバンドとなる中で、ディープ・パープルは2024年に至るまで新作『=1』を発表し、アリーナツアーを続けている。DEEP PURPLEの影響力は、メタリカ(Metallica)、アイアン・メイデン (Iron Maiden)、イングヴェイ・マルムスティーン (Yngwie Malmsteen) などを通じて、現代のヘヴィメタル、プログレッシブ・メタルの中に脈々と受け継がれている。「DEEP PURPLE」 という名は、特定の個人の集合体を超え、進化と伝統を併せ持つ「ロックの制度 (Institution)」として、音楽史にその名を深く刻んでいる。
News
DEEP PURPLEのトリビュート盤『Purple Storm』が11月13日に発売 Graham Bonnetらによる「Smoke On The Water」公開
Cleopatra Recordsから。先行公開された「Smoke On The Water」は、Graham Bonnet(vo)、George Lynch(g)、Derek Sherinian(key)、Joe Bouchard(b)、Vinny Appice(ds)による演奏。
MVを再生RITCHIE BLACKMORE、33年ぶりのDEEP PURPLE共演を語る
8月12日のニューヨーク州ウォンタ公演で「Smoke On The Water」に加わった件について、米Guitar Player誌のインタビューで本人が言及。Ian Gillanとの関係についても語っている。
RITCHIE BLACKMORE、33年ぶりにDEEP PURPLEと共演
8月12日、ニューヨーク州ウォンタのNorthwell at Jones Beach Theaterで「Smoke On The Water」を演奏。Ian Gillanが本人を紹介した。1993年以来の共演。
RITCHIE BLACKMORE、1993年以来初めてDEEP PURPLEと共演すると明かす
8月12日(水)夜、ニューヨーク州ウォンタのNorthwell at Jones Beach Theaterで行われるDEEP PURPLEのヘッドライナー公演に加わる。1993年の脱退以降、同バンドとの共演はなかった。
GLENN HUGHES、心臓手術のためツアー活動から引退を表明
DEEP PURPLEのベーシスト/ヴォーカリストで今月75歳になるHughesが、医師の助言によりツアーとライヴ活動からの引退を発表した。