DIO

ロニー・ジェイムス・ディオが1982年に結成したDIO(ディオ)のバイオグラフィとディスコグラフィー。『Holy Diver』から『Master of the Moon』までのスタジオ・アルバム10作とライヴ盤『Intermission』を、収録曲、CD情報、ライナーノーツ、公式映像、来日公演の記録とともに掲載。

Biography

DIO
バイオグラフィー

DIO(ディオ)は、アメリカの歌手ロニー・ジェイムス・ディオが1982年に結成し、2010年に亡くなるまで率いたヘヴィ・メタル・バンドである。ELF、RAINBOW、BLACK SABBATHで名を上げたディオは、BLACK SABBATHを離れたのち、同じバンドにいたドラムのヴィニー・アピス、RAINBOWでの仲間だったベースのジミー・ベイン、北アイルランド出身の若いギタリストのヴィヴィアン・キャンベルとこのバンドを始めた。1983年のデビュー作『Holy Diver』はRIAAのダブル・プラチナ、1984年の『The Last in Line』はプラチナ、1985年の『Sacred Heart』はゴールドに認定され、イギリスでは『The Last in Line』と『Sacred Heart』がともにアルバム・チャートの4位に入った。その後はメンバーの交代を重ねながら、2004年の『Master of the Moon』まで10作のスタジオ・アルバムを残している。1985年には、ヘヴィ・メタル界の音楽家を集めた飢餓救済のチャリティ・プロジェクトHear 'n Aidを主導した。ディオは2010年5月16日、胃癌のため67歳で亡くなった。

結成までの歩み:ELF、RAINBOW、BLACK SABBATH(1957〜1982年)

ロニー・ジェイムス・ディオは1942年7月10日、ニューハンプシャー州ポーツマスでRonald James Padavonaとして生まれた(ガーディアン紙、2010年/ロサンゼルス・タイムズ紙、2010年)。両親はニューヨーク州コートランドの出身で、第二次世界大戦中に父が陸軍に勤めていたためにポーツマスで暮らしていたが、一家はほどなくコートランドに戻っている(公式サイト)。音楽の道は1957年、地元のバンドVEGAS KINGSで始まった(公式サイト/ロサンゼルス・タイムズ紙、2010年)。1960年代の終わりには、のちにELFと名を変えるELECTRIC ELVESを結成し、ELFはDEEP PURPLEの前座をたびたび務めた(公式サイト/ガーディアン紙、2010年/ロサンゼルス・タイムズ紙、2010年)。

1975年、DEEP PURPLEを離れたギタリストのリッチー・ブラックモアがRAINBOWを始めると、ロニー・ジェイムス・ディオはその歌い手となり、在籍中に3作のスタジオ・アルバムを残した(公式サイト/AP通信、2010年)。発端は、ブラックモアが1974年12月にタンパ・ベイのスタジオで、ディオらELFのメンバーと録音したQUATERMASSの「Black Sheep of the Family」だった(uDiscover Music、2025年)。1979年にはオジー・オズボーンの後任としてBLACK SABBATHに加わり(公式サイト/ガーディアン紙、2010年/Rhinoの発表/ブラバマウス、2007年)、1980年の『Heaven and Hell』と1981年の『Mob Rules』で歌った(ガーディアン紙、2010年/アルティメット・クラシック・ロック、2015年)。

1982年、ライヴ盤『Live Evil』の仕上げのミックスの最中にBLACK SABBATHの内部の緊張が高まり、ロニー・ジェイムス・ディオは、ビル・ワードの後任としてバンドに加わっていたドラムのヴィニー・アピスを連れてBLACK SABBATHを離れた(アルティメット・クラシック・ロック、2015年/Rhinoの発表/ブラバマウス、2016年/ローリング・ストーン誌、2022年)。ディオが夜のうちにスタジオに入って自分の歌の音量を上げていると、ギタリストのトニー・アイオミとベーシストのギーザー・バトラーに疑われた、という話も伝わるが、アルティメット・クラシック・ロックはこれを作り話の可能性が高いとし、むしろディオがかねて自分の道を進みたがっていたことを理由に挙げている(アルティメット・クラシック・ロック、2015年)。ガーディアン紙は、ほかのメンバーが歌の音量をめぐってディオを責め、ディオは自分の声のミックスに誰であれ口を出すことを拒んだと書いている(ガーディアン紙、2010年)。

ロニー・ジェイムス・ディオは、ヘヴィ・メタルのファンが掲げる角の形の手振りを広めた人物としても知られる。ディオ自身は、イタリア系の祖母が邪視を払うために使っていた仕草を受け継いだのだと語っていた(公式サイト/ガーディアン紙、2010年/Permuted Pressの発表/ブラバマウス、2021年)。

結成(1982年)

Warner Bros.は、ロニー・ジェイムス・ディオがBLACK SABBATHにいたころから、バンドの空いた時間に自分の作品を作る気はないかと打診しており、BLACK SABBATHを離れたディオはこの機会に自分のバンドを立ち上げた(Loudwire、2023年)。のちに『Holy Diver』に収める曲のいくつかはBLACK SABBATHの在籍中から書き始めていたもので、ディオは「Holy Diver」と「Don't Talk to Strangers」をBLACK SABBATHで録音することも望んでいたという(ローリング・ストーン誌、2022年)。新しいバンドのマネージメントは、ディオの妻で、RAINBOWを離れたころからディオのマネージャーを務めていたウェンディ・ディオが担い、その仕事はディオが亡くなるまで続いた(Permuted Pressの発表/ブラバマウス、2021年/ブラバマウス、2022年)。

1982年、ロニー・ジェイムス・ディオはまず、ウェンディ・ディオがマネージメントを手がけていたROUGH CUTTにいたギタリストのジェイク・E・リーと何曲かを書いたが、リーは6週間ほどで外された。リーはのちに、ディオが求めていたのはヨーロッパ風の音で、自分のアメリカ的な弾き方は合わなかったのだと語り、ウェンディ・ディオも、ディオはイギリスのミュージシャンの考え方を好んでいたと述べている。リーはこのあとオジー・オズボーンのバンドに加わった(ブラバマウス、2018年/ギター・ワールド誌、2026年)。

結成時のギタリストとなったのは、北アイルランド出身の20歳のヴィヴィアン・キャンベルである。1982年9月、RAINBOWでロニー・ジェイムス・ディオと組んでいたベースのジミー・ベインが、ロンドンのホテルから深夜にキャンベルの家に電話をかけ、BLACK SABBATHを辞めたディオとアピスがギタリストを探しているので、翌日の晩にオーディションに来られないかと尋ねた。ベインはキャンベルの演奏を聴いたことがなかったが、腕が立つという評判を聞いて、ジョン・サイクスと並ぶ候補に挙げていた。キャンベルは、NWOBHMのバンドSWEET SAVAGEを自ら結成して活動していた。ロンドン北部のリハーサル・スタジオでディオがベースを手に「Holy Diver」のリフを弾き、4時間の演奏ののち、キャンベルは加入を求められた(Louder、2026年)。

キャンベルによれば、ロニー・ジェイムス・ディオはこのとき、ソロの契約を持ちかけられているが、作りたいのはソロ作ではなくバンドであり、ただ名前を知ってもらうためにバンド名はDIOにする、と説明した。さらに、最初は報酬をわずかしか払えないが、成功したら3作目のあとの契約の見直しで公平な形に改める、と握手で約束したという(Louder、2026年)。ガーディアン紙は、この名を、誰がバンドを率いるのかに疑いを残さない名前だと評している(ガーディアン紙、2010年)。

1982年の秋、ロニー・ジェイムス・ディオ、アピス、ベイン、キャンベルの4人はカリフォルニア州ヴァン・ナイズのSound City Studiosに入り、6週間ほどアイデアやリフを持ち寄ってから、のちに『Holy Diver』となる録音に取りかかった(ブラバマウス、2015年/Loudwire、2023年)。

『Holy Diver』(1983年)

デビュー・アルバム『Holy Diver』はロニー・ジェイムス・ディオ自身の制作で(Loudwire、2023年)、1983年5月25日に発売された(RIAA/Loudwire、2023年/ギター・ワールド誌、2026年)。アメリカではWarner Bros. Records、イギリスではVertigoが発売元となり(MusicBrainz)、2012年に最初の3作の拡大盤が出た際にも、北米の権利はWarner Bros.が、それ以外の地域の権利はユニバーサル ミュージックが持っていた(ブラバマウス、2012年)。

シングルになった「Holy Diver」と「Rainbow in the Dark」は、イギリスのシングル・チャートでそれぞれ72位と46位に入った(Loudwire、2023年/オフィシャル・チャート・カンパニー)。アピスによれば、「Rainbow in the Dark」のキーボードを弾いたのはベインで、このころのバンドに鍵盤奏者はおらず、ほかにはロニー・ジェイムス・ディオがいくつかの曲で和音を添えた程度だった(ブラバマウス、2023年)。アルバムはBillboard 200で最高56位を記録して39週にわたりチャートにとどまり(ビルボード)、イギリスでは13位に入った(オフィシャル・チャート・カンパニー)。RIAAは1984年9月12日にゴールド、1989年3月21日にプラチナ、2022年5月6日にダブル・プラチナに認定している(RIAA)。

ジャケットには、山の向こうに立ち、水中の司祭らしき男に巻きつけた鎖を握る悪魔のマスコットMurrayが描かれた。この不気味な絵柄は、ロニー・ジェイムス・ディオを悪魔崇拝者とするうわさを呼んだ(Loudwire、2023年)。

曲作りと録音を終えたあと、バンドはROUGH CUTTにいた鍵盤奏者のクロード・シュネルを迎え、ギターでは出せない彩りをいくつかの曲に添える役を任せた。シュネルはこれ以降、ライヴに欠かせない一員となった(ブラバマウス、2015年/アルティメット・クラシック・ロック、2019年)。

1983年には、イギリスのドニントンで開かれたフェスティバルMonsters of Rockに出演した。ウェンディ・ディオによれば、これがDIOにとってイギリスでの最初のステージだった(ローリング・ストーン誌、2010年/ブラバマウス、2010年)。TWISTED SISTERは1983年からDIOとツアーを重ねている(AP通信、2010年)。12月28日のカリフォルニア州フレズノ、Selland Arenaでの公演は録音され、2022年に出た『Holy Diver』の4枚組の拡大盤に収められた(ローリング・ストーン誌、2022年)。

『The Last in Line』(1984年)

2作目の『The Last in Line』は、1984年の前半にロッキー山脈にあるCaribou Ranchで録音された。レコード会社はVAN HALENの作品で知られるテッド・テンプルマンに制作を任せたがったが、ロニー・ジェイムス・ディオは前作と同じく自ら制作にあたった(アルティメット・クラシック・ロック、2019年/Louder、2024年)。キャンベル、ベイン、アピスにシュネルを加えた5人による最初のアルバムで、1984年7月2日にアメリカで発売された(アルティメット・クラシック・ロック、2019年/RIAA)。

アルバムはBillboard 200で23位まで上がって35週チャートに残り(ビルボード)、イギリスでは4位を記録した(オフィシャル・チャート・カンパニー)。1984年9月12日には『Holy Diver』と同じ日にRIAAのゴールドに認定され、1987年2月3日には、DIOの作品として初めてプラチナに達した(RIAA)。シングルの「We Rock」と「Mystery」は、イギリスでそれぞれ42位と34位に入った(オフィシャル・チャート・カンパニー)。

ツアーは1984年6月から年末までアメリカ、イギリス、ヨーロッパを回り、1985年1月27日に終わったアメリカでの最後の行程までに100公演を超えた(アルティメット・クラシック・ロック、2019年)。QUEENSRYCHEのジェフ・テイトは、バンドに初めてのヨーロッパ・ツアーの機会をくれたのが、スペシャル・ゲストとして招いてくれたロニー・ジェイムス・ディオだったと振り返り(ブラバマウス、2021年)、DOKKENのドン・ドッケンも、DIOとのツアーでディオと親しくなったと語っている(ブラバマウス、2020年)。

Hear 'n Aidと『Sacred Heart』(1985年)

1985年5月20日と21日、ロニー・ジェイムス・ディオの呼びかけで、ヘヴィ・メタル界の音楽家40人がハリウッドのA&M Recordsのスタジオに集まり、アフリカの飢餓救済のための曲「Stars」を録音した。JUDAS PRIEST、IRON MAIDEN、MOTLEY CRUE、QUIET RIOT、TWISTED SISTER、BLUE ÖYSTER CULTのメンバー、それにSPINAL TAPの面々までが加わり(ブラバマウス、2020年)、DOKKENのドン・ドッケン、QUEENSRYCHEのジェフ・テイト、W.A.S.P.のブラッキー・ローレスもこの録音に参加した(ブラバマウス、2020年・2021年・2022年)。企画を率いたのはディオ、キャンベル、ベインの3人で、「Stars」はもともと彼らの曲だった。ギターにはキャンベルやイングヴェイ・マルムスティーンらが次々に加わった(アルティメット・クラシック・ロック、2015年・2021年)。

レーベルどうしの契約の調整に時間がかかったため、シングルとアルバム『Hear 'n Aid』が出たのは1986年の元日で、アナログ盤とカセットだけの発売だった(ブラバマウス、2020年/アルティメット・クラシック・ロック、2021年)。公式サイトによれば、このプロジェクトは1年のうちに200万ドルを超える資金をアフリカの飢餓救済のために集めた(公式サイト)。

3作目の『Sacred Heart』は1985年8月に出た(アルティメット・クラシック・ロック、2015年/ビルボード)。シングル「Rock 'n' Roll Children」はイギリスで26位に入り(オフィシャル・チャート・カンパニー)、アルバムはBillboard 200で29位、イギリスでは前作に続いて4位を記録した(ビルボード/オフィシャル・チャート・カンパニー)。RIAAは1985年10月15日にゴールドに認定している(RIAA)。

これに続くツアーは13か月にわたって100公演を超え、ROUGH CUTT、イングヴェイ・マルムスティーン、KEEL、ACCEPTらが前座を務めた。舞台には火を噴くドラゴンの大きな仕掛けが据えられ、ロニー・ジェイムス・ディオが毎晩それと渡り合う場面は語り草になった(アルティメット・クラシック・ロック、2015年/ブラバマウス、2017年)。この舞台装置の制作にはウェンディ・ディオが深く関わっていた(ブラバマウス、2017年)。

ギタリストの交代、『Intermission』と『Dream Evil』(1986〜1988年)

1986年、ツアーの途中でキャンベルは解雇され、ROUGH CUTTやGIUFFRIAで弾いていたクレイグ・ゴールディが後を継いだ(アルティメット・クラシック・ロック、2015年/ブラバマウス、2017年)。いきさつについては当事者の言い分が分かれている。キャンベルは、結成のときにロニー・ジェイムス・ディオが約束した3作目以降の公平な分け前を求めたことが原因だったと語り、アピスも金銭をめぐる問題だったと振り返っている(ブラバマウス、2021年・2022年・2023年)。一方、ウェンディ・ディオは、お金だけの話ではなく、キャンベルがバンドをより商業的な方向へ引っ張ろうとしていたと述べ、キャンベルを解雇したのはディオではなく自分だとも語った(ブラバマウス、2021年・2022年)。ディオ自身は、キャンベルがかつてのようにバンドに打ち込まなくなっていたと語っている(アルティメット・クラシック・ロック、2015年/ブラバマウス、2023年)。キャンベルは1987年にWHITESNAKEに加わり(ブラバマウス、2022年・2023年)、のちにDEF LEPPARDの一員となった(ブラバマウス、2015年)。

1986年には、キャンベルが弾いていたころのライヴ録音に、ゴールディを迎えて録音したスタジオ曲「Time to Burn」を加えた『Intermission』が出た(Rhinoの発表/ブラバマウス、2016年/MusicBrainz)。Billboard 200では70位、イギリスでは22位を記録している(ビルボード/オフィシャル・チャート・カンパニー)。

1987年の春、ロニー・ジェイムス・ディオ、ベイン、アピス、シュネル、ゴールディの5人はロサンゼルスのSound City Studiosで次のアルバムに取りかかり、制作はここでもディオが自ら担った(Louder、2014年)。4作目の『Dream Evil』は1987年に発売され、Billboard 200で43位、イギリスで8位に入った(ビルボード/オフィシャル・チャート・カンパニー)。シングルには「I Could Have Been a Dreamer」と「All the Fools Sailed Away」が選ばれ、前者はイギリスで69位を記録した(Rhinoの発表/ブラバマウス、2016年/オフィシャル・チャート・カンパニー)。

『Dream Evil』のツアーでは、巨大な金属製の蜘蛛が天井から降りてきて、ゴールディのギターから放たれたレーザーがそれを撃つ演出が用いられた(ブラバマウス、2017年・2016年)。DIOはこの年もMonsters of Rockに出演し、その演奏は1983年の出演とあわせて、2010年に2枚組のライヴ・アルバム『Dio at Donington UK: Live 1983 & 1987』として発表された(ブラバマウス、2010年/ローリング・ストーン誌、2010年)。ゴールディの最初の在籍は1988年までだった(ブラバマウス、2003年)。

新しい編成と『Lock Up the Wolves』(1989〜1990年)

後任のギタリストに選ばれたローワン・ロバートソンは、DIOのファン・クラブを通じてデモ・テープを送った17歳の若者だった。1989年の初めにロサンゼルスで2度のオーディションを受けて加入が決まり、7月18日にそれが発表された(ブラバマウス、2010年)。次のアルバムの曲作りと録音はベイン、アピス、鍵盤のイェンス・ヨハンソンと始まったが、途中でベインとアピスが外れ、ベースのテディ・クックと、AC/DCにいたドラムのサイモン・ライトが加わった(ブラバマウス、2010年)。

5作目の『Lock Up the Wolves』は1990年5月に出て(MusicBrainz/オフィシャル・チャート・カンパニー)、Billboard 200で61位、イギリスで28位に入った(ビルボード/オフィシャル・チャート・カンパニー)。アメリカではReprise Records、ヨーロッパではVertigoが発売元だった(MusicBrainz)。

BLACK SABBATHへの復帰(1990〜1992年)

『Lock Up the Wolves』のツアーの途中、ミネアポリスでの公演にBLACK SABBATHのギーザー・バトラーが飛び入りし、BLACK SABBATHの「Neon Knights」を一緒に演奏した。これをきっかけに、ロニー・ジェイムス・ディオとバトラーはトニー・アイオミを交えて再びアルバムを作ることになった(Loudwire、2023年)。DIOとしては1991年5月の発売を目指してロバートソンと新しい曲を書いていたが、その作品は棚上げになった(ブラバマウス、2010年)。

ドラムは当初コージー・パウエルが務めるはずだったが、リハーサルの時期に、死んだ馬が倒れかかって腰の骨を折り、ロニー・ジェイムス・ディオが望んだライトではなくアピスが起用された。アルバム『Dehumanizer』はウェールズのRockfield Studiosで録音され、1992年に発表された(Loudwire、2023年)。ツアーの途中、BLACK SABBATHはロサンゼルスでのオジー・オズボーンの引退公演で前座を務めることになったが、ディオはその公演を前にバンドを離れ、当日はJUDAS PRIESTのロブ・ハルフォードが代わりに歌った(Loudwire、2023年)。

再始動、『Strange Highways』と『Angry Machines』(1993〜1998年)

BLACK SABBATHを離れたロニー・ジェイムス・ディオは、アピスを軸にDIOを立て直した。新たに加わったのは、DOKKENにいたベースのジェフ・ピルソンとギターのトレイシー・Gである(アルティメット・クラシック・ロック、2015年/Eagle Rockの発表/ブラバマウス、2014年)。6作目の『Strange Highways』は1993年10月にヨーロッパで出たのち、1994年1月にアメリカで発売され(MusicBrainz)、Billboard 200では142位にとどまった(ビルボード)。1993年12月12日、ヨーロッパ・ツアーの最終日にロンドンのHammersmith Apolloで行われた公演は撮影され、2014年に『Live in London: Hammersmith Apollo 1993』として発表されている(Eagle Rockの発表/ブラバマウス、2014年)。

アルティメット・クラシック・ロックは、このころのDIOの作品を、グランジによって一変した音楽界でロニー・ジェイムス・ディオが自分の居場所を探った、実験的な作品の続いた時期と位置づけている(アルティメット・クラシック・ロック、2016年)。

1996年の7作目『Angry Machines』は、ロニー・ジェイムス・ディオ、トレイシー・G、ピルソン、アピスに鍵盤のスコット・ウォーレンを加えた5人で作られた(BMGの発表/ブラバマウス、2019年)。アメリカではMayhem、ヨーロッパではSPVのSteamhammerから出たが(MusicBrainz)、Billboard 200には入らなかった(ビルボード)。1998年には、2枚組のライヴ・アルバム『Dio's Inferno: The Last in Live』が出ている(MusicBrainz)。

『Magica』と『Killing the Dragon』(1999〜2003年)

1999年、ゴールディがDIOに戻り、ベインとライトも再び加わった(ブラバマウス、2003年/アルティメット・クラシック・ロック、2015年)。独立系のSpitfire Recordsと契約して2000年3月に出た8作目『Magica』は、架空の世界を舞台にした物語仕立てのコンセプト・アルバムで、3部作の第1作として構想された(アルティメット・クラシック・ロック、2015年)。ファンに熱く迎えられ、ツアーは2001年まで続いた(アルティメット・クラシック・ロック、2015年)。イギリスでは、ロックとメタルのアルバム・チャートで15位に入っている(オフィシャル・チャート・カンパニー)。

2001年の暮れ、ゴールディは本業のリムジン会社の経営との両立が難しくなって再び離れた(ブラバマウス、2003年)。後を継いだのはダグ・アルドリッチで、2002年5月に出た9作目『Killing the Dragon』は、ロニー・ジェイムス・ディオ、アルドリッチ、ベイン、ライトの編成で作られた(BMGの発表/ブラバマウス、2019年/MusicBrainz)。曲はすでにほぼ出来上がっていたため、アルドリッチが共作したのは「Scream」と「Along Comes a Spider」の2曲だった(ブラバマウス、2019年)。アルバムはBillboard 200に199位で1週だけ入り(ビルボード)、イギリスのロックとメタルのアルバム・チャートでは16位を記録した(オフィシャル・チャート・カンパニー)。アルドリッチがいた時期には、ニューヨークでのライヴを収めた映像作品『Evil or Divine: Live in New York City』も作られている(ブラバマウス、2019年)。

2003年になると、アルドリッチは再結成したWHITESNAKEのツアーに加わった。RATTのウォーレン・デマルティーニがツアーのギタリストとして発表されたが、ステージに立つ前に外れ、5月にはゴールディの復帰が伝えられた(ブラバマウス、2003年)。デマルティーニが降りた理由は当初「個人的な理由」と伝えられたが、ロニー・ジェイムス・ディオはのちに、3週間リハーサルを重ねてもデマルティーニはバンドのやり方に合わなかったと説明している(ブラバマウス、2003年)。ゴールディの復帰後最初のステージは6月27日のドイツのフェスティバルBang Your Headで、7月からはIRON MAIDEN、MOTÖRHEADとともに北米を回った(ブラバマウス、2003年)。

『Master of the Moon』と『Holy Diver Live』(2004〜2005年)

2004年4月、QUIET RIOT、WHITESNAKE、オジー・オズボーン、イングヴェイ・マルムスティーンのバンドで弾いてきたルディ・サーゾが新しいベーシストとして加わった。並行して録音が進んでいた次のアルバムでは、ピルソンがベースを担当した(ブラバマウス、2004年)。10作目の『Master of the Moon』はロニー・ジェイムス・ディオ、ゴールディ、ピルソン、ライトの編成で作られ、2004年に、ヨーロッパではSPV、アメリカではSanctuary Recordsから発売された(BMGの発表/ブラバマウス、2019年/ブラバマウス、2004年/MusicBrainz)。これがDIOの名で出た最後のスタジオ・アルバムとなった(BMGの発表/ブラバマウス、2019年)。イギリスのロックとメタルのアルバム・チャートでは13位に入っている(オフィシャル・チャート・カンパニー)。

2005年、バンドは『Holy Diver』の全曲を曲順どおりに演奏し、満員のロンドン公演の録音は2006年に『Holy Diver Live』として発表された(ブラバマウス、2009年/MusicBrainz)。この公演の映像作品は、2015年にRIAAのゴールドに認定されている(RIAA)。同じ2005年の10月には、ロシアで腕を痛めたゴールディに代わり、オランダのアイントホーフェン公演からアルドリッチがツアーの残りを務めた(ブラバマウス、2005年)。

HEAVEN & HELL(2006〜2009年)

2006年、Warner Music傘下のRhinoがBLACK SABBATHのロニー・ジェイムス・ディオ在籍期の曲を集めた『Black Sabbath: The Dio Years』を企画し、未発表の曲を収めたいと申し入れた。使える曲が残っていなかったため、アイオミがディオに新しい曲を一緒に書こうと持ちかけた(ブラバマウス、2006年)。この年の終わりにディオ、アイオミ、バトラー、アピスの4人が3曲を録音し、『The Dio Years』は2007年4月に発売された(Rhinoの発表/ブラバマウス、2007年)。4人はオジー・オズボーンを擁するBLACK SABBATHと区別するためにHEAVEN & HELLの名を名乗り、2007年3月からツアーに出て(ブラバマウス、2006年/Rhinoの発表/ブラバマウス、2007年/ガーディアン紙、2010年)、2009年にはスタジオ・アルバム『The Devil You Know』を発表した(ブラバマウス、2010年)。HEAVEN & HELLの最後のツアーは2009年8月29日、ニュージャージー州アトランティックシティのHouse of Bluesで終わり、これがディオが人前で歌った最後の公演になった(ローリング・ストーン誌、2017年)。

この間もDIOは活動を続けており、2008年5月27日のイギリス・バーミンガム公演から短いヨーロッパ・ツアーを行った(ブラバマウス、2008年)。2009年8月にはイギリスでの11月の公演が発表され、9月には、オーストラリアでのBUDGIEのツアーが先に決まっていたゴールディに代わって、アルドリッチが11月から12月のヨーロッパ・ツアーで弾くことが伝えられた。このツアーにはロニー・ジェイムス・ディオ、サーゾ、ライト、ウォーレンも出ることになっていた(ブラバマウス、2009年)。

生前のロニー・ジェイムス・ディオは、2004年に故郷コートランドの殿堂入りを果たしており、町にはディオの名を冠した通り「Dio Way」がある。2006年にはクラシック・ロック誌の授賞式でMetal Guru Awardを受け、2007年にはハリウッドのRock Walkに迎えられて手形を残した(公式サイト/ガーディアン紙、2010年)。

病と死(2009〜2010年)

2009年11月、ロニー・ジェイムス・ディオが体調を崩して入院したため、DIOのヨーロッパ・ツアーは取りやめになった(ブラバマウス、2009年)。11月25日、ウェンディ・ディオはディオが初期の胃癌と診断され、すぐに治療を始めると発表した(ブラバマウス、2009年)。ウェンディ・ディオはのちに、医師からはステージ4の癌だと告げられていたと明かしている(ブラバマウス、2021年・2025年)。ディオはテキサス州ヒューストンのM.D. Anderson Cancer Centerで化学療法を受けた(ブラバマウス、2010年・2021年)。

2010年2月には、取りやめになったツアーのために用意されていた1,500セット限定のボックス・セット『Tournado』がファンに向けて売り出された。そこには、ロニー・ジェイムス・ディオが『Magica』の続編2作のために進めていた曲作りのなかで完成していた「Electra」が収められている(ブラバマウス、2010年/BMGの発表/ブラバマウス、2019年)。

2010年4月8日、ロニー・ジェイムス・ディオはロサンゼルスのClub Nokiaで開かれたRevolver Golden Godsの授賞式に姿を見せ、HEAVEN & HELLの『The Devil You Know』での歌唱によって最優秀ヴォーカリストに選ばれた。これが公の場に現れた最後になった(ブラバマウス、2010年/公式サイト)。その場でディオは、ヒューストンの病院と主治医を心から信頼していると語っている(ブラバマウス、2010年)。5月の初めには、HEAVEN & HELLが夏のヨーロッパでの公演を取りやめた(ブラバマウス、2010年/AP通信、2010年)。

ロニー・ジェイムス・ディオは2010年5月16日の朝、67歳で亡くなった。ウェンディ・ディオは、多くの友人や家族がひそかに別れを告げたのち、安らかに息を引き取ったと伝えた(ブラバマウス、2010年/ロサンゼルス・タイムズ紙、2010年/ローリング・ストーン誌、2010年)。ウェンディ・ディオによれば、その2日前の金曜日にディオがひどい痛みを訴えて病院に入り、モルヒネを投与されて昏睡に陥り、日曜日の朝に息を引き取ったという(ブラバマウス、2021年)。

2週間後、ロサンゼルスのフォレスト・ローン・ハリウッド・ヒルズにあるHall of Libertyで公開の追悼式が開かれた。会場は1,200人を超える人々で埋まり、さらに多くのファンが外のスクリーンで式を見守った(公式サイト/ローリング・ストーン誌、2010年)。ロサンゼルス市議会は5月30日を「Ronnie James Dio Day」と定めた(公式サイト)。

没後(2010年〜)

ロニー・ジェイムス・ディオをしのんで寄せられた多くの寄付をもとに、2010年、癌の研究と早期発見を支援する基金Ronnie James Dio Stand Up and Shout Cancer Fundが生まれ、ウェンディ・ディオがその設立に加わった(公式サイト/Permuted Pressの発表/ブラバマウス、2021年/Rhinoの発表/ブラバマウス、2016年)。基金は、ディオが最期の半年に治療を受けたM.D. Anderson Cancer CenterやT.J. Martell Foundationの研究を支え、UCLAで進む唾液による癌の検査法の研究にも資金を出している(公式サイト)。2025年までに集めた額は300万ドル近くに達した(ブラバマウス、2025年)。

2010年10月23日、ブルガリアのカヴァルナにロニー・ジェイムス・ディオのブロンズ像が建てられた。イギリスのフェスティバルBloodstock Open Airは、メイン・ステージにディオの名を冠している(公式サイト)。

ウェンディ・ディオは、ロニー・ジェイムス・ディオとともに準備していたレーベルNiji Entertainment Groupを2010年に自ら立ち上げ、最初の作品として11月に『Dio at Donington UK: Live 1983 & 1987』を出した(ローリング・ストーン誌、2010年)。このライヴ・アルバムはBillboard 200で98位に入った(ビルボード)。その後も、2016年にRhinoが最初の6作のスタジオ・アルバムをまとめたボックス・セット『A Decade of Dio: 1983-1993』を出し(Rhinoの発表/ブラバマウス、2016年)、2020年にはBMGが1996年から2004年までの4作を拡大盤として出し直し(BMGの発表/ブラバマウス、2019年)、2022年には『Holy Diver』の4枚組の拡大盤が出た(ローリング・ストーン誌、2022年)。

2011年3月には、DIOの最後の編成からサーゾ、ライト、ゴールディ、ウォーレンが、JUDAS PRIESTにいたティム・“リッパー”・オーウェンズとトビー・ジェプソンを歌い手に迎え、DIO DISCIPLESとして活動を始めると発表された(ブラバマウス、2011年)。

結成時のメンバーだったキャンベル、ベイン、アピスは、2011年にロサンゼルスのリハーサル・スタジオで再び音を合わせ、2012年には歌い手のアンドリュー・フリーマンを迎えてLAST IN LINEとして活動を始めた(ブラバマウス、2016年)。当初はDIOの最初の3作の曲だけを演奏するバンドで、シュネルも加わって南カリフォルニアからイギリス、日本までステージに立った(ブラバマウス、2015年・2021年)。やがて新曲を作ることになり、ピルソンの制作によるアルバム『Heavy Crown』が2016年2月19日にFrontiersから出たが(ブラバマウス、2015年・2016年)、その発売を待たずに、ベインは1月23日、DEF LEPPARDが催したクルーズの船上で亡くなった。68歳で、死因は肺癌だった(ブラバマウス、2016年)。

2014年に出たロニー・ジェイムス・ディオのトリビュート・アルバム『This Is Your Life』では、TENACIOUS Dが「The Last in Line」を取り上げ、この演奏はのちにグラミー賞の最優秀メタル・パフォーマンス賞を受けた(Louder、2024年)。

2016年8月、ドイツのWacken Open Airに出演したDIO DISCIPLESのステージに、Eyellusionが制作したロニー・ジェイムス・ディオのホログラムが現れ、「We Rock」を歌った。歌声はディオ自身の録音である(アルティメット・クラシック・ロック、2016年)。ホログラムを中心にした「Dio Returns」ツアーは2017年12月にヨーロッパで最初の7公演を行い、ホログラムの作り直しを経て、2019年5月末からアメリカを回った(ブラバマウス、2017年・2018年・2019年)。

ロニー・ジェイムス・ディオが生前に書き進めていた自伝は、ウェンディ・ディオと音楽ライターのミック・ウォールが仕上げ、『Rainbow in the Dark: The Autobiography』として2021年7月27日に、アメリカとカナダではPermuted Pressから、イギリスではConstableから出た(ローリング・ストーン誌、2021年/Permuted Pressの発表/ブラバマウス、2021年)。ドン・アーゴットとDemian Fentonが監督した、その生涯を通して描く初めてのドキュメンタリー映画『Dio: Dreamers Never Die』は、2022年のSXSW映画祭で初上映され、同じ年の秋に600を超える映画館で特別上映されたのち、12月1日にShowtimeで放送された(ブラバマウス、2022年・2023年)。2023年9月29日には、Mercury StudiosからDVDとBlu-rayが出ている(ユニバーサル ミュージック・カナダ、2023年/ブラバマウス、2023年)。

ディスコグラフィ(当サイト登録分)

年タイトル種別
1983Holy Diverスタジオ・アルバム
1984The Last in Lineスタジオ・アルバム
1985Sacred Heartスタジオ・アルバム
1986Intermissionライヴ・アルバム(スタジオ録音の1曲を含む)
1987Dream Evilスタジオ・アルバム
1990Lock Up the Wolvesスタジオ・アルバム
1993Strange Highwaysスタジオ・アルバム
1996Angry Machinesスタジオ・アルバム
2000Magicaスタジオ・アルバム
2002Killing the Dragonスタジオ・アルバム
2004Master of the Moonスタジオ・アルバム

このほかに、ライヴ・アルバムの『Dio's Inferno: The Last in Live』(1998年)、『Holy Diver Live』(2006年)、『Dio at Donington UK: Live 1983 & 1987』(2010年)、『Finding the Sacred Heart: Live in Philly 1986』(2013年)、『Live in London: Hammersmith Apollo 1993』(2014年)、『Donington '83』と『Donington '87』(2022年)、『Live in Fresno 1983』(2023年)、映像作品の『Sacred Heart: The Video』(1986年)と『Evil or Divine: Live in New York City』、ベスト盤の『The Very Beast of Dio』(2000年、RIAAゴールド)、ボックス・セットの『A Decade of Dio: 1983-1993』(2016年)と『The Studio Albums: 1996-2004』(2023年)などがある(公式サイト/RIAA/オフィシャル・チャート・カンパニー/MusicBrainz)。

日本公演

日本では、『Holy Diver』(1983年)から『Angry Machines』(1996年)までを日本フォノグラム(のちのマーキュリー・ミュージックエンタテインメント)が、『Magica』(2000年)をポリドールが、『Killing the Dragon』(2002年)と『Master of the Moon』(2005年1月)をビクターエンタテインメントが発売した(日本盤の帯/ユニバーサル ミュージック)。デビュー作には『情念の炎~ホーリィ・ダイヴァー』の邦題が付き、日本語の言葉を含む邦題はこの1作だけである(日本盤の帯/ユニバーサル ミュージック/タワーレコード)。『Magica』は日本で先に発売された(日本盤の帯/オリコン)。日本盤だけのボーナス・トラックとして、『Angry Machines』には「God Hates Heavy Metal」、『Magica』には「Annica」、『Master of the Moon』には「The Prisoner of Paradise」が加えられた(日本盤の帯/ブラバマウス)。オリコンのアルバム・チャートでは、『Lock Up the Wolves』が70位、『Magica』が71位、『Killing the Dragon』が85位、『Master of the Moon』が259位を記録している(オリコン)。

DIOの初来日は、1985年のSUPER ROCK '85 IN JAPANへの出演であった(タワーレコード)。日本テレビが主催したこの催しは、東京湾のお台場運動広場のとなりを会場に、8月10日の18時30分から夜を徹して12時間続いたコンサートで、出演者にはスティング、FOREIGNER、MAMA'S BOYS、ROUGH CUTT、EARTHSHAKERも名を連ねた。DIOがステージに立ったのは、日付が変わった11日の午前2時過ぎであった(公演のチラシとチケット、東芝のビデオ)。この演奏は東芝からビデオとして発売された(東芝のビデオ)。

1986年には日本武道館公演を含む日本ツアーを行った。ヴィヴィアン・キャンベルの後任としてクレイグ・ゴールディが加入した後のことである(タワーレコード)。ツアーはDIO JAPAN TOUR '86と銘打たれ、8月30日の札幌に始まり、9月1日と2日の大阪、3日の東京、5日の広島、8日の福岡を経て、9日の名古屋まで7公演を行った(BURRN!のポスター)。日本武道館公演はキョードー東京の主催、ニッポン放送の後援、日本フォノグラムの協力によるもので、開場は17時30分、開演は18時30分、S席は4,300円であった(キョードー東京のチケット)。

1997年には、5月1日まで続いたアメリカ・ツアーの直後に日本公演が組まれた(マーキュリー・ミュージックエンタテインメント)。そのうち5月10日の川崎のクラブチッタ公演はクラブチッタ自身の主催で、日本のレーベルであるマーキュリー・ミュージックエンタテインメントが協力し、開場17時、開演18時、全立見で6,500円(税込)であった(クラブチッタのチケット)。

2000年6月には4公演を行い、22日に大阪のBIG CAT、23日に名古屋のクラブクアトロ、25日と26日に新宿リキッドルームで演奏した(クリエイティブマン、DIO公式サイト)。ベースのジミー・ベインは入国ビザを取得できずに来日できず、L.A. GUNSにいたChuck Garricが代わりに来日した(クリエイティブマン)。

2005年5月にも来日し、このツアーではSPIRITUAL BEGGARSがオープニング・アクトを務めた(LOUD PARK 06公式サイト、トゥルーパー・エンタテインメント)。クリエイティブマンはこれを5年ぶりの来日、ARCH ENEMYのマイケル・アモットが率いるSPIRITUAL BEGGARSとのジョイント・ツアーとして告知し、27日のZepp Nagoya、28日のZepp Osaka、29日のZepp Tokyoの3公演を組んだ(クリエイティブマン)。ツアーはDio with Spiritual Beggars Japan Tour 2005と銘打たれた(クリエイティブマンのチラシ)。

2006年10月には、クリエイティブマンとハウリング・ブル・エンタテインメントが始めたメタル・フェスティバルLOUD PARK 06の2日目、15日に幕張メッセの9~11ホールに出演し、BIG ROCK STAGEの最後を19時40分から務めた。この日を締めくくったのは、THE UNHOLY ALLIANCE STAGEに20時50分から登場したSLAYERであった(LOUD PARK 06公式サイト)。翌16日には、大阪のZepp Osakaで行われたLOUD PARK Osakaに、MEGADETH、ANTHRAXとともに出演した(LOUD PARK 06公式サイト、タワーレコード)。ロニー・ジェイムス・ディオは翌2007年10月にもHEAVEN & HELLのヴォーカリストとして来日し、LOUD PARK 07に出演した(LOUD PARK 07公式サイト)。

日付会場公演
1985年8月10日東京湾お台場運動広場となり(東京)SUPER ROCK '85 IN JAPAN。初来日。出演は11日の午前2時過ぎ
1986年9月3日日本武道館(東京)DIO JAPAN TOUR '86。7公演のうちの東京公演
1997年5月10日クラブチッタ川崎(神奈川)単独公演
2000年6月22日BIG CAT(大阪)単独公演。2000年の来日の初日
2000年6月23日名古屋クラブクアトロ(愛知)単独公演
2000年6月25日新宿リキッドルーム(東京)単独公演
2000年6月26日新宿リキッドルーム(東京)単独公演。2000年の来日の最終日
2005年5月27日Zepp Nagoya(愛知)SPIRITUAL BEGGARSとのジョイント・ツアー。SPIRITUAL BEGGARSがオープニング・アクト
2005年5月28日Zepp Osaka(大阪)同上
2005年5月29日Zepp Tokyo(東京)同上。2005年の来日の最終日
2006年10月15日幕張メッセ(千葉)LOUD PARK 06の2日目。BIG ROCK STAGEの最後に出演
2006年10月16日Zepp Osaka(大阪)LOUD PARK Osaka。MEGADETH、ANTHRAXと共演

出典について

出典は、公式サイト(ronniejamesdio.com)、レーベルと出版社(Rhino、BMG、Eagle Rock、Permuted Press、Mercury Studios)の発表、RIAA(アメリカレコード協会)のゴールド&プラチナ認定のデータベース、ビルボードとオフィシャル・チャート・カンパニーのチャートの記録、ガーディアン紙、ロサンゼルス・タイムズ紙、AP通信、ローリング・ストーン誌、ブラバマウス、Louder(クラシック・ロック誌)、Loudwire、アルティメット・クラシック・ロック、ギター・ワールド誌、uDiscover Music、ユニバーサル ミュージック・カナダである。作品の発売元、発売国と発売時期の一部、クレジットはMusicBrainzで確かめた。

Trivia

DIOの初来日は、1985年の<SUPER ROCK '85>への出演だった。この時のステージは日本でだけビデオ(VHS)として発売され、2010年、ロニー・ジェイムス・ディオとウェンディ・ディオが設立したNiji Entertainment Groupは、初めてのDVD化を翌年の計画に挙げた。翌1986年9月には、DIOは日本武道館公演を含むジャパン・ツアーを行っている。その3か月前の1986年6月17日にフィラデルフィアのスペクトラムで収録された映像には、新しく加わったクレイグ・ゴールディを迎えたステージが記録されており、タワーレコードによれば『Intermission』のスタジオ曲「Time to Burn」の演奏を映像で見られるのはこの作品だけである。

出典: タワーレコード「ディオ、1986年フィラデルフィア公演がリマスター&コンプリート仕様で蘇る」(2013年3月14日)

人差し指と小指を立てる「メタル・ホーン」を世界に広めたのはロニー・ジェイムス・ディオだとされる。公式サイトによれば、ディオは、邪視を払うためにこのしぐさを使っていたイタリア系の祖母から受け継いだと話していた。2001年の取材では、自分が最初とは思わない、流行らせたと言うべきだろうと語っている。ダグ・アルドリッチによれば、悪いものを遠ざけるしぐさなので、ディオは決して手を自分の方に向けず、いつも相手に向けていた。一方、ギーザー・バトラーは、自分は1968年から「Black Sabbath」の演奏中にこのサインをしていて、観客にオジー・オズボーンのピースサインを向けられて困ったディオに頼まれて教えたと語っている。ただしバトラーは、広めたのはディオで、このサインはいつまでもディオと結びつけられるとも書いた。2017年にジーン・シモンズがこのしぐさの商標を出願した時は2週間足らずで取り下げられ、ウェンディ・ディオは、これは皆のもので誰のものでもないと批判した。

異説あり出典: RonnieJamesDio.com「Biography」(2026年10月16日参照)

アメリカでDIOのアルバムが初めてゴールド・ディスクに認定されたのは1984年9月12日で、この日に『Holy Diver』と『The Last in Line』が同時に認定された。最初にプラチナに達したのは『The Last in Line』(1987年2月)だが、『Holy Diver』も1989年3月にプラチナとなり、発売から39年後の2022年5月にはDIOで唯一のダブル・プラチナに認定された。このほか『Sacred Heart』が1985年10月に、2000年のベスト盤『The Very Beast of Dio』が2009年3月に、映像作品『Holy Diver Live』が2015年2月に、それぞれゴールドに認定されている。

出典: RIAA「Gold & Platinum」DIOの認定記録(2026年10月16日参照)

DIOの曲がグラミー賞を受けたのは、ロニー・ジェイムス・ディオの死後のことである。2015年2月の第57回グラミー賞で、トリビュート・アルバム『Ronnie James Dio - This Is Your Life』(2014年、Rhino)に収められたTENACIOUS Dによる「The Last in Line」のカヴァーが最優秀メタル・パフォーマンス賞を受けた。同じ部門には、同じアルバムからANTHRAXによるBLACK SABBATHの「Neon Knights」もノミネートされていた。アルバムの収益はすべてディオを記念したがん基金に寄付され、受賞の時点で13万2,000ドルに達していた。ウェンディ・ディオは、受賞が決まるとジャック・ブラックがすぐに興奮して電話をくれたと話し、心残りはディオ本人がこの場にいないことだけだと述べた。

出典: Recording Academy(grammy.com)「Best Metal Performance 2015 Winners & Nominees」(2026年10月16日参照)

ロニー・ジェイムス・ディオの死後、ファンから寄せられた寄付をもとに、2010年にRonnie James Dio Stand Up and Shout Cancer Fundが生まれた。ウェンディ・ディオらが設立した基金で、その名には『Holy Diver』の1曲目と同じ「Stand Up and Shout」の言葉が入っている。追悼式では息子のDan Padavonaが、父は「ショーは続けなければ」と何年も兆候を無視していたとして、ファンに定期的に検診を受けるよう訴えた。公式サイトによれば、基金はこれまでに200万ドルを超える額を集め、ディオが最後の半年間治療を受けたヒューストンのM.D. Anderson Cancer CenterやT.J. Martell Foundationのがん研究に寄付したほか、唾液でがんを早期に見つける検査を開発するUCLA歯学部の研究にも資金を出した。毎年、著名人も参加するボウリング大会「Bowl for Ronnie」と、数百台のバイクがロサンゼルスを走って公園でのライブに向かう「Ride for Ronnie」を開いている。

出典: RonnieJamesDio.com「Biography」(2026年10月16日参照)

バンド名のDIOはロニー・ジェイムス・ディオの芸名そのものだが、本人はソロ作を作るつもりではなかったという。ギタリストのヴィヴィアン・キャンベルによれば、1982年9月にロンドンで行われたオーディションの最後に、ディオは、BLACK SABBATHを辞めてソロ契約の話を受けているが、作りたいのはソロ作ではなくバンドで、バンド名をDIOにするのは知名度のためだと説明した。最初のレコードではわずかしか払えないが、成功したら3作目の後の契約見直しで対等な取り分にすると約束し、契約書は交わさず、互いの目を見て握手しただけで決まったとキャンベルは語っている。キャンベルはのちに、この約束をディオに問いただしたことが解雇の理由になったと主張している。

出典: Louder「The story of Vivian Campbell's life-changing audition for Dio」(Paul Brannigan、2026年9月20日)

DIOのギタリスト探しは真夜中の電話から始まった。1982年9月のある日の午前2時、ヴィヴィアン・キャンベルの実家に、ロンドンのホテルにいるジミー・ベインから電話がかかり、BLACK SABBATHを辞めたロニー・ジェイムス・ディオとヴィニー・アピスがギタリストを探している、明日の夜オーディションに来られるかと聞かれた。キャンベルがベルファストで組んでいたSWEET SAVAGEはベインのWILD HORSESの前座を何度か務めていたが、ベインは楽屋で騒いでばかりで、キャンベルの演奏を聴いたことがなかったという。キャンベルは父親に借りた金でベルファストからロンドンへ飛び、北ロンドンのリハーサル室でディオがベースで弾く「Holy Diver」のリフに合わせて演奏を始めた。4時間後、20歳のキャンベルは加入を告げられた。ベインにはもう一人ジョン・サイクスという候補がいたが、サイクスはすでにWHITESNAKEで給料をもらっていた。ディオはのちに、サンセット・ストリップの腕利きを集めるのではなく、アメリカとイギリスのロックの混ざり合いを保ちたかったとミック・ウォールに語っている。

出典: Louder「The story of Vivian Campbell's life-changing audition for Dio」(Paul Brannigan、2026年9月20日)

『Holy Diver』は、ロサンゼルスのヴァン・ナイズにあるSound Cityで作られた。中庭をはさんでリハーサル室と録音スタジオが向かい合う建物で、メンバーはオーディションから数週間のうちにそこに入った。ヴィヴィアン・キャンベルによれば、4人は毎晩通い、曲を仕上げるとその夜のうちに録音することも多く、機材はばらさずに駐車場を転がしてスタジオへ運んだという。仲間も遊びに来る、和やかな雰囲気だったとキャンベルは振り返っている。ロニー・ジェイムス・ディオはこのアルバムを、自分が手がけた中で最も誇らしいものの一つと呼んだ。

出典: Louder「Rainbow In The Dark by Dio: The real story behind the song」(Mick Wall、2025年12月10日)

トリビアをすべて見る

Albums

Master of the Moon CD
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DIOの10作目にして最後のスタジオ・アルバム。2004年8月30日にヨーロッパで発売された。クレイグ・ゴールディが戻り、ベースはジェフ・ピルソンが弾いた。

Killing the Dragon CD
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DIOの9作目。2002年5月21日にSpitfireから発売された、ギタリストのダグ・アルドリッチを迎えた唯一のアルバムで、ビルボード200で199位に入った。

Magica CD
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DIOの8作目。2000年3月21日にSpitfireから発売された、ロニー・ジェイムス・ディオ初のコンセプト・アルバムで、3部作の第1部として構想された。

Angry Machines CD

DIOの1996年のスタジオ・アルバム。前作と同じトレイシー・G、ジェフ・ピルソン、ヴィニー・アピスと作り、プロデュースはロニー・ジェイムス・ディオ自身が務めた。

Strange Highways CD

DIOの6作目のスタジオ・アルバム。BLACK SABBATHでの『Dehumanizer』を経て再始動し、1993年10月にヨーロッパで発売。ギターはトレイシー・G。

Lock Up the Wolves CD

DIOの5作目のスタジオ・アルバム。1990年5月発売。ロニー・ジェイムス・ディオ以外のメンバーを一新し、オーディション当時17歳だったギターのローワン・ロバートソンらを迎えた。

Dream Evil CD

DIOの4作目のスタジオ・アルバム。1987年7月発売。ギターにクレイグ・ゴールディを迎えた最初の作品で、全英8位、全米43位を記録した。

Intermission Live CD

DIOが1986年6月に出した6曲入りのミニ・アルバム。ライヴ5曲と、新ギタリストのクレイグ・ゴールディが弾くスタジオ録音「Time to Burn」を収める。

Sacred Heart CD
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DIOの3作目。1985年8月12日発売。ヴィヴィアン・キャンベルが参加した最後のアルバムで、ビルボード200で29位、イギリスで4位に入った。

The Last in Line CD
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DIOの2作目。1984年7月2日発売。コロラド州のCaribou Ranchで録音され、DIOで最初にRIAAのプラチナ認定を受けたアルバムとなった。

Holy Diver CD
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DIOのデビュー作。1983年5月25日発売。ロサンゼルスのSound City Studiosで録音され、のちにRIAAのダブル・プラチナに認定された。