DIO TRIVIA

Trivia

DIOの初来日は、1985年の<SUPER ROCK '85>への出演だった。この時のステージは日本でだけビデオ(VHS)として発売され、2010年、ロニー・ジェイムス・ディオとウェンディ・ディオが設立したNiji Entertainment Groupは、初めてのDVD化を翌年の計画に挙げた。翌1986年9月には、DIOは日本武道館公演を含むジャパン・ツアーを行っている。その3か月前の1986年6月17日にフィラデルフィアのスペクトラムで収録された映像には、新しく加わったクレイグ・ゴールディを迎えたステージが記録されており、タワーレコードによれば『Intermission』のスタジオ曲「Time to Burn」の演奏を映像で見られるのはこの作品だけである。

出典: タワーレコード「ディオ、1986年フィラデルフィア公演がリマスター&コンプリート仕様で蘇る」(2013年3月14日)

人差し指と小指を立てる「メタル・ホーン」を世界に広めたのはロニー・ジェイムス・ディオだとされる。公式サイトによれば、ディオは、邪視を払うためにこのしぐさを使っていたイタリア系の祖母から受け継いだと話していた。2001年の取材では、自分が最初とは思わない、流行らせたと言うべきだろうと語っている。ダグ・アルドリッチによれば、悪いものを遠ざけるしぐさなので、ディオは決して手を自分の方に向けず、いつも相手に向けていた。一方、ギーザー・バトラーは、自分は1968年から「Black Sabbath」の演奏中にこのサインをしていて、観客にオジー・オズボーンのピースサインを向けられて困ったディオに頼まれて教えたと語っている。ただしバトラーは、広めたのはディオで、このサインはいつまでもディオと結びつけられるとも書いた。2017年にジーン・シモンズがこのしぐさの商標を出願した時は2週間足らずで取り下げられ、ウェンディ・ディオは、これは皆のもので誰のものでもないと批判した。

異説あり出典: RonnieJamesDio.com「Biography」(2026年10月16日参照)

アメリカでDIOのアルバムが初めてゴールド・ディスクに認定されたのは1984年9月12日で、この日に『Holy Diver』と『The Last in Line』が同時に認定された。最初にプラチナに達したのは『The Last in Line』(1987年2月)だが、『Holy Diver』も1989年3月にプラチナとなり、発売から39年後の2022年5月にはDIOで唯一のダブル・プラチナに認定された。このほか『Sacred Heart』が1985年10月に、2000年のベスト盤『The Very Beast of Dio』が2009年3月に、映像作品『Holy Diver Live』が2015年2月に、それぞれゴールドに認定されている。

出典: RIAA「Gold & Platinum」DIOの認定記録(2026年10月16日参照)

DIOの曲がグラミー賞を受けたのは、ロニー・ジェイムス・ディオの死後のことである。2015年2月の第57回グラミー賞で、トリビュート・アルバム『Ronnie James Dio - This Is Your Life』(2014年、Rhino)に収められたTENACIOUS Dによる「The Last in Line」のカヴァーが最優秀メタル・パフォーマンス賞を受けた。同じ部門には、同じアルバムからANTHRAXによるBLACK SABBATHの「Neon Knights」もノミネートされていた。アルバムの収益はすべてディオを記念したがん基金に寄付され、受賞の時点で13万2,000ドルに達していた。ウェンディ・ディオは、受賞が決まるとジャック・ブラックがすぐに興奮して電話をくれたと話し、心残りはディオ本人がこの場にいないことだけだと述べた。

出典: Recording Academy(grammy.com)「Best Metal Performance 2015 Winners & Nominees」(2026年10月16日参照)

ロニー・ジェイムス・ディオの死後、ファンから寄せられた寄付をもとに、2010年にRonnie James Dio Stand Up and Shout Cancer Fundが生まれた。ウェンディ・ディオらが設立した基金で、その名には『Holy Diver』の1曲目と同じ「Stand Up and Shout」の言葉が入っている。追悼式では息子のDan Padavonaが、父は「ショーは続けなければ」と何年も兆候を無視していたとして、ファンに定期的に検診を受けるよう訴えた。公式サイトによれば、基金はこれまでに200万ドルを超える額を集め、ディオが最後の半年間治療を受けたヒューストンのM.D. Anderson Cancer CenterやT.J. Martell Foundationのがん研究に寄付したほか、唾液でがんを早期に見つける検査を開発するUCLA歯学部の研究にも資金を出した。毎年、著名人も参加するボウリング大会「Bowl for Ronnie」と、数百台のバイクがロサンゼルスを走って公園でのライブに向かう「Ride for Ronnie」を開いている。

出典: RonnieJamesDio.com「Biography」(2026年10月16日参照)

バンド名のDIOはロニー・ジェイムス・ディオの芸名そのものだが、本人はソロ作を作るつもりではなかったという。ギタリストのヴィヴィアン・キャンベルによれば、1982年9月にロンドンで行われたオーディションの最後に、ディオは、BLACK SABBATHを辞めてソロ契約の話を受けているが、作りたいのはソロ作ではなくバンドで、バンド名をDIOにするのは知名度のためだと説明した。最初のレコードではわずかしか払えないが、成功したら3作目の後の契約見直しで対等な取り分にすると約束し、契約書は交わさず、互いの目を見て握手しただけで決まったとキャンベルは語っている。キャンベルはのちに、この約束をディオに問いただしたことが解雇の理由になったと主張している。

出典: Louder「The story of Vivian Campbell's life-changing audition for Dio」(Paul Brannigan、2026年9月20日)

DIOのギタリスト探しは真夜中の電話から始まった。1982年9月のある日の午前2時、ヴィヴィアン・キャンベルの実家に、ロンドンのホテルにいるジミー・ベインから電話がかかり、BLACK SABBATHを辞めたロニー・ジェイムス・ディオとヴィニー・アピスがギタリストを探している、明日の夜オーディションに来られるかと聞かれた。キャンベルがベルファストで組んでいたSWEET SAVAGEはベインのWILD HORSESの前座を何度か務めていたが、ベインは楽屋で騒いでばかりで、キャンベルの演奏を聴いたことがなかったという。キャンベルは父親に借りた金でベルファストからロンドンへ飛び、北ロンドンのリハーサル室でディオがベースで弾く「Holy Diver」のリフに合わせて演奏を始めた。4時間後、20歳のキャンベルは加入を告げられた。ベインにはもう一人ジョン・サイクスという候補がいたが、サイクスはすでにWHITESNAKEで給料をもらっていた。ディオはのちに、サンセット・ストリップの腕利きを集めるのではなく、アメリカとイギリスのロックの混ざり合いを保ちたかったとミック・ウォールに語っている。

出典: Louder「The story of Vivian Campbell's life-changing audition for Dio」(Paul Brannigan、2026年9月20日)

『Holy Diver』は、ロサンゼルスのヴァン・ナイズにあるSound Cityで作られた。中庭をはさんでリハーサル室と録音スタジオが向かい合う建物で、メンバーはオーディションから数週間のうちにそこに入った。ヴィヴィアン・キャンベルによれば、4人は毎晩通い、曲を仕上げるとその夜のうちに録音することも多く、機材はばらさずに駐車場を転がしてスタジオへ運んだという。仲間も遊びに来る、和やかな雰囲気だったとキャンベルは振り返っている。ロニー・ジェイムス・ディオはこのアルバムを、自分が手がけた中で最も誇らしいものの一つと呼んだ。

出典: Louder「Rainbow In The Dark by Dio: The real story behind the song」(Mick Wall、2025年12月10日)

表題曲「Holy Diver」は悪魔を歌った曲と受け取られやすいが、ロニー・ジェイムス・ディオ本人の説明は違う。ドキュメンタリー映画『Metal: A Headbanger's Journey』でディオがサム・ダンに語ったところでは、主人公は地球ではない遠い星にいるキリストのような存在で、その星の人々の罪のために死んで彼らを救った後、別の世界でも同じことをしようと旅立つところを、人々が行かないでくれ、ここにいてくれと引き止める。人間の身勝手さを描いたのだという。のちにはアニメ『South Park』に漫画になったディオが登場し、この曲を歌っている。

出典: Songfacts「Holy Diver by Dio」(2026年10月16日参照)

「Rainbow in the Dark」は、ほとんど偶然のように10分ほどでできた曲である。ヴィヴィアン・キャンベルによれば、曲の音楽はすべて彼が16歳の時にSWEET SAVAGEのために書いた曲から来ていて、ジミー・ベイン、ヴィニー・アピスとリハーサル室で遊びで合わせていたところへロニー・ジェイムス・ディオが来て、すぐにメロディを歌い始めた。休憩中にベインが小さなヤマハのキーボードで弾いたフレーズは、ベインが以前のバンドWILD HORSESのために書いた「Criminal Tendencies」の鍵盤パートを下敷きにしたものだった。ところがディオ自身はこの曲を嫌い、アルバムにはポップに過ぎると感じて、完成したテープをかみそりで切ると宣言してかみそりを手に取ったが、メンバーに止められ、のちに何度も礼を言ったと語っている。シングルは全英チャートで46位、ビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで14位まで上がった。

出典: Louder「Rainbow In The Dark by Dio: The real story behind the song」(Mick Wall、2025年12月10日)

『Holy Diver』のジャケットには、鎖に絡まれて海で溺れる司祭と、その鎖を振るう悪魔のような怪物が描かれている。発案したのはウェンディ・ディオで、ウェンディ・ディオとロニー・ジェイムス・ディオが練り上げた案をGene Hunterが図案にし、Randy Berrettが絵を仕上げた。2020年には、遺産管理団体とZ2 Comicsがグラフィック・ノベル『Dio - Holy Diver』の制作を発表した。なぜ司祭は海に投げ込まれたのか、本当の悪役は誰なのかという、30年にわたってファンが推測してきた問いに答える物語で、文はホラー漫画のSteve Niles、作画はScott Hamptonが担当した。ウェンディ・ディオは、見た目で絵を判断してはいけないという物語で、人を外見で判断するなとディオが何度も歌に書いてきたことと同じだと語っている。

出典: Louder「Dio's Holy Diver to be transformed into a graphic novel」(2020年8月25日)

『Holy Diver』のジャケットで司祭を溺れさせている怪物には、Murrayという名前がある。ロニー・ジェイムス・ディオはClassic Rock誌の取材で、Murrayはバンドのロゴのような存在で、『The Last in Line』のジャケットにも登場していると説明した。大げさな名前をつけるのはばかげている、怪物の名前がMurrayだというのがおかしいのだと話し、IRON MAIDENにはEddieがいるし、BLACK SABBATHの空飛ぶ悪魔の名前はHenryだったと付け加えている。同誌には以前、ステージで使った機械仕掛けのドラゴンの本当の名前はDeanで、イギリス人はなぜかDenzilと呼んでいたとも明かしている。

出典: Louder「Q&A: Ronnie James Dio」(Geoff Barton、Classic Rock誌の記事、2014年5月16日)

「The Last in Line」のミュージック・ビデオはDon Coscarelliが監督した。Coscarelliは2022年のドキュメンタリー映画『Dio: Dreamers Never Die』の中で、初めて曲を聴いた後に「地獄の10代」という単純な案をロニー・ジェイムス・ディオに持ち込んだところ、ディオが、人は生まれてから死ぬまで列に並んでいるのだから、自分が列の最後だったらと想像してみればいいと言って、話に深みを与えたと振り返っている。ディオはすぐに、もちろんMurrayも入れなきゃと付け加えたという。

出典: Rolling Stone「Ronnie James Dio Adds a Philosophical Twist to 'Last in Line' Video in New Doc Clip」(Jon Blistein、2022年8月18日)

1980年代のDIOのステージは大がかりな仕掛けで知られた。クレイグ・ゴールディによれば、『Sacred Heart』のツアーには本当に口から火を吹く全長18フィート(約5.5メートル)のドラゴンが登場し、目から放たれたレーザーが当たった場所で爆発が起きた。『Dream Evil』のツアーでは巨大な金属の蜘蛛が天井から降りてきて、ゴールディがギターから撃つレーザーで仕留める演出だった。ゴールディは、ロニー・ジェイムス・ディオがそのために利益をほとんど半分に削っても入場料は上げなかったといい、セットの組み立てにはウェンディ・ディオが大きく関わったと語っている。2018年にJulien's Auctionsが開いた遺品のオークションには、『The Last in Line』のツアーで使われた機械仕掛けのスフィンクスと『Sacred Heart』ツアーのドラゴンの頭部が出品され、Barry Jacksonが描いた『The Last in Line』のジャケットの原画には2万〜3万ドルの予想価格がついた。

出典: Blabbermouth.net「CRAIG GOLDY Says 'Certain Members' Of Original DIO Band 'Didn't Have The Same Heart For The Fans' As RONNIE Did」(2017年12月2日)

ギーザー・バトラーは2021年、DIOの作品名のいくつかは自分から来ていると語った。バトラーによれば、『Sacred Heart』はバトラーが通っていた学校の名前で、のちに『Strange Highways』に収められる「One Foot in the Grave」は、バトラーがBLACK SABBATHのアルバム名にと冗談で言った言葉だった。またバトラーはサインを頼まれると「Magic」と書き添えていて、ロニー・ジェイムス・ディオも同じように書くようになり、やがてアルバムを『Magica』と名づけたという。バトラーは、ディオがそれを有名にしたのだから気にしなかったと言い、本人に直接言ったのはメタル・ホーンのことだけだったと話している。

出典: Blabbermouth.net「GEEZER BUTLER Once Again Says He Was Using 'Devil Horns' Hand Gesture Years Before RONNIE JAMES DIO」(2023年6月24日)

1985年のチャリティ企画HEAR 'N AIDは、ラジオでの一言から始まった。ヴィヴィアン・キャンベルによれば、当時一緒に暮らしていたジミー・ベインとロサンゼルスのラジオ局KLOSの取材を受けた際、「We Are the World」にどうしてハード・ロック界から誰も呼ばれていないのかと聞かれ、ベインがその場で、自分たちでやってHEAR 'N AIDと名づけようと冗談を言ったのがきっかけだった。2人は『Sacred Heart』の録音の最中に曲を作り、名前の力を借りようとロニー・ジェイムス・ディオに持ちかけた。ディオは初め取り合わなかったが、2週間ほど説得されて引き受け、歌詞を書いた。ヴィニー・アピスによれば、土台の演奏はSound Cityで録り、アピスとQUIET RIOTのフランキー・バナリが2人同時にドラムを叩いた。キャンベルは広報担当者の名刺ファイルを借り、面識のないミュージシャンにも何週間も電話をかけ続けたという。1985年5月20日と21日、ハリウッドのA&Mスタジオには約40人のミュージシャンが集まり、SPINAL TAPの面々まで顔を出した。

出典: Blabbermouth.net「WENDY DIO Says There Is 'An Offer' From METAL BLADE To Release Long-Awaited Reissue Of Eighties Metal All-Star Project HEAR 'N AID」(2026年4月30日)

HEAR 'N AIDの作品が店に並ぶまでには、録音から半年以上かかった。参加者の所属レコード会社がばらばらで、権利上の許可を取りつけるのに手間取ったためで、アルバムが出たのは1986年1月だった。アルバムにはKISS、RUSH、MOTÖRHEAD、ACCEPT、SCORPIONS、DIOなどの提供曲も収められ、「Stars」は1986年5月に全英シングル・チャートで26位まで上がった。集まった額は、公式サイトでは1年で200万ドル超、Ultimate Classic Rockでは約100万ドルと、伝え方が分かれている。作品はアナログ盤とカセットでしか出ておらず、CDにはなっていない。2026年4月、ウェンディ・ディオは、Metal Bladeから再発の申し出を受け、アナログ盤とCDでの再発と写真集を準備していると語った。

異説あり出典: Ultimate Classic Rock「The Day Heavy Metal Legends Convened for 'Hear 'n Aid'」(Eduardo Rivadavia、2015年5月20日)

ロニー・ジェイムス・ディオとともにDIOを結成したヴィヴィアン・キャンベルは1986年、『Sacred Heart』のツアーの途中で解雇され、クレイグ・ゴールディが後任に入った。理由は当事者によって語り方が違う。キャンベルによれば、3作目までには対等な取り分にするという約束が果たされず、自分が何度もその話を持ち出したために外されたのであって、お金より筋の問題だった。望んだのはせめてスタッフより多い報酬で、ディオと同じ取り分を求めたというのは事実ではないとも語っている。一方ウェンディ・ディオは2011年に、解雇したのはディオではなく自分だと語り、キャンベルはディオと同じ額を求め、ディオと同じくらい重要な存在のつもりでいたと述べた。2022年には、キャンベルがバンドをより商業的な方向へ引っ張ろうとし、ディオはそれに抵抗し続けていたとも話している。ジミー・ベインは2012年に、キャンベルの解雇はディオの経歴で最大の過ちだったと述べている。キャンベルはのちに、2人とも報道を通じて互いを攻撃したのは間違いだったと語った。

異説あり出典: Blabbermouth.net「WENDY DIO Says VIVIAN CAMPBELL Wanted To Take DIO In A 'More Commercial' Direction」(2022年9月22日)

『Lock Up the Wolves』でギターを弾いたローワン・ロバートソンは、加入時17歳だった。ロバートソンによれば、DIOがギタリストを探していると雑誌で読み、4トラックのカセット録音機で「The Last in Line」にギター・ソロを重ねたデモを作って、まずロンドンのフォノグラムに送ったが送り返され、次にアメリカのファン・クラブへ自分の写真を添えて送り直した。数か月後、諦めかけた頃にウェンディ・ディオから電話があり、2万人の前で弾く気はあるかと聞かれた。ロサンゼルスで2度のオーディションを経て加入し、アルバムの全曲を共作した。「Hey Angel」のリフは、Sound Cityの向かいのリハーサル・スタジオで、ロニー・ジェイムス・ディオが部屋を出ている間のジャムから生まれたという。

出典: Guitar World「How 17yo guitarist Rowan Robertson joined Ronnie James Dio」(Andrew Daly、2026年6月19日)

DIOはアメリカよりイギリスで高いチャート順位を記録した。全英アルバム・チャートでは『The Last in Line』(1984年)と『Sacred Heart』(1985年)がともに初登場4位、『Dream Evil』(1987年)が初登場8位に入ったが、ビルボード200での最高位は『The Last in Line』の23位で、トップ10入りした作品は無い。『Holy Diver』は全英13位に対してビルボード200では56位どまりだったが、39週にわたってチャートに入り続けた。ビルボードのメインストリーム・ロック・チャートでトップ10に入った曲は「The Last in Line」(10位)だけで、代表曲の「Holy Diver」は40位だった。

出典: Official Charts Company「DIO」チャート履歴(2026年10月16日参照)

『Sacred Heart』に収められた「Hungry for Heaven」は、アルバムより先に映画のサウンドトラックで世に出た曲である。1985年の映画『Vision Quest』のサウンドトラックに提供され、ビルボードのメインストリーム・ロック・チャートには1985年3月に登場して30位まで上がった。その後『Sacred Heart』からのシングルとしても発売され、全英シングル・チャートでは1985年10月に72位、1986年5月に再びチャートに入った時には56位を記録した。

出典: Ultimate Classic Rock「Rock's 31 Best Movie Soundtrack Songs of 1985」(Jeff Giles、2025年6月23日)

2001年、TENACIOUS Dは「Dio」という曲を発表した。ロニー・ジェイムス・ディオに向かって、もう十分ロックしてきたのだから自分たちにたいまつを渡せと歌う曲で、ジャック・ブラックは、敬意を込めた曲だったが侮辱と受け取られてもおかしくなかったと振り返っている。ディオはある人から電話で、連中はお前に辞めろと言っているぞと聞かされたが、自分たちはあなたが好きだ、時が来たら後を継いでいくからたいまつを渡してくれという讃歌として受け止めたと語った。ジャック・ブラックが初めてディオに会ったのは2002年、DIOの「Push」のビデオの撮影現場で、ディオに頼まれてTENACIOUS Dは小さな役で出演した。2006年の映画『Tenacious D in The Pick of Destiny』では、少年時代のジャック・ブラックが歌いかけるポスターの中からディオが現れ、ハリウッドへ行けと告げる。

出典: Blabbermouth.net「RONNIE JAMES DIO Discusses Appearance In 'The Pick Of Destiny' Movie」(Los Angeles Timesの記事の引用、2006年10月15日)

DIOはイギリスのドニントンで1983年と1987年の2度演奏しており、1983年のステージは『Holy Diver』を携えたDIOにとって初めてのイギリス公演だった。この2公演を収めた2枚組『Dio at Donington UK: Live 1983 & 1987』は、ロニー・ジェイムス・ディオとウェンディ・ディオが設立したレーベル、Niji Entertainment Groupの最初の作品となった。ディオは製作総指揮として発売を楽しみにしていたが、作品が出たのはディオの死から半年後の2010年11月で、アメリカでは発売初週に5,800枚を売り、ビルボード200に98位で初登場した。

出典: Blabbermouth.net「'Dio At Donington UK: Live 1983 & 1987' Cracks U.S. Top 100」(2010年11月17日)

2009年10月、ロニー・ジェイムス・ディオはClassic Rock誌に、翌月からのヨーロッパ・ツアーで新曲「Electra」を演奏し、限定シングルとして出すつもりだと語った。2000年の『Magica』で始めた物語の残る2部を、翌年にバンドで録音したいとも話している。だがツアーはディオが病に倒れて中止となり、「Electra」は、そのツアーのために作られたボックス・セット『Tournado』に収められて、署名と番号入りの1,500セット限定で出た。ディオは、この曲は『Magica』3部作の一部で単独では分かりにくいので、物語の説明を書き添えたと語っている。ツアーに加わるはずだったダグ・アルドリッチによれば、ディオは初め別の曲でアルドリッチにギター・ソロを頼んでいたが、ツアーの宣伝のために1曲を仕上げようと、新しく思いついた「Electra」に切り替えたという。「Electra」はのちに2012年のベスト盤『The Very Beast of Dio Vol. 2』にも収められた。

出典: Blabbermouth.net「DIO To Play New Song On European Tour」(2009年10月23日)

DIOの活動は、ロニー・ジェイムス・ディオの病で終わった。2009年11月、ウェンディ・ディオはDIOのイギリス・ツアーの中止とディオの入院を発表し、続いて初期の胃癌と診断されたこと、メイヨー・クリニックですぐに治療を始めることを公表した。ディオはのちにヒューストンのM.D. Anderson Cancer Centerで化学療法を受け、2010年5月にHEAVEN & HELLの夏のツアーが中止された時には、ツアーも音楽もこれからまだあると声明を出した。最後の公の場は、2010年4月8日にロサンゼルスのClub Nokiaで開かれたRevolver Golden Gods Awardsで、HEAVEN & HELLでの歌により最優秀ヴォーカリスト賞を受けた。ディオは2010年5月16日、ロサンゼルスで67歳で亡くなった。

出典: Pollstar「Dio Has Cancer」(Jay Smith、2009年11月25日)

ロニー・ジェイムス・ディオが育ったニューヨーク州コートランドには、1988年11月に「Dio Way」と名づけられた通りがある。少年時代の家があったセントラル・アヴェニューの近くに新しく作られた道である。ディオは2004年にコートランドの殿堂に迎えられ、2007年にはハリウッドのロック・ウォークに手形を残した。ディオの死後、2010年5月30日にフォレスト・ローン・ハリウッド・ヒルズのHall of Libertyで開かれた公開の追悼式には1,200人を超えるファンが集まり、入りきれなかった数百人が外のモニターで見守った。式の中では、ロサンゼルス市議会が5月30日を「Ronnie James Dio Day」と定めたことが発表された。

出典: Blabbermouth.net「'RONNIE JAMES DIO Day' In Los Angeles; Video Of Official Announcement Available」(2010年6月1日)

ブルガリアの黒海沿岸の町カヴァルナには、ロニー・ジェイムス・ディオの像が立っている。2010年10月23日に町の中央公園で除幕され、DIOでドラムを叩いたサイモン・ライトとロード・マネージャーのSteve Mignardiが式に立ち会った。高さは2メートルを超え、海から運んだ大きな石と組み合わされた像で、彫刻家のAlexander PetrovとKrasimir Krastev-Lomskyが2か月かけて制作し、費用はすべて寄付でまかなわれた。ディオはカヴァルナで演奏した最初期の大物ハード・ロック歌手の一人とされ、ブルガリアでは少なくとも5回公演し、リビアで投獄されたブルガリア人看護師の解放運動にも加わっていた。公式サイトによれば、ディオの誕生日には像の前にファンが集まるという。

出典: Blabbermouth.net「RONNIE JAMES DIO Statue Unveiling In Kavarna: Video Footage, Photos Available」(2010年10月24日)

2012年、DIO初期のメンバーヴィヴィアン・キャンベル、ヴィニー・アピス、ジミー・ベイン、クロード・シュネルが、歌い手にアンドリュー・フリーマンを迎えてLAST IN LINEを結成した。バンド名はDIOの2作目から取られ、キャンベルは、初期の曲の大半はバンドで書いたものだから自分たちには演奏する資格があり、トリビュート・バンドではないと語った。2013年10月20日に埼玉スーパーアリーナの<LOUD PARK>に出演した時は、ベインに代わって、キャンベルがかつて組んでいたSWEET SAVAGEのRay Hallerがベースを弾いた。ベインは2016年1月23日、DEF LEPPARDが主催したクルーズ・イベントの船上で68歳で亡くなり、メンバーは死因を肺がんと発表した。DIOでもベースを弾いたジェフ・ピルソンがプロデュースした、バンド初のアルバム『Heavy Crown』の発売を翌月に控えた時期だった。

出典: Blabbermouth.net「SWEET SAVAGE's RAY HALLER To Fill In For JIMMY BAIN At LAST IN LINE's LOUD PARK Performance」(2013年10月12日)

ロニー・ジェイムス・ディオの死後、最後期のDIOのメンバーは2011年3月、元JUDAS PRIESTのティム・オーウェンズとDIO DISCIPLESとして活動すると発表した。2016年8月の<Wacken Open Air>では、DIO DISCIPLESが「We Rock」を演奏した時、Eyellusion社が1年がかりで作ったディオのホログラムが現れ、7万5,000人を超える観客を驚かせた。歌はディオ自身の録音で、ホログラムはメタル・ホーンのしぐさも見せた。2017年12月に始まった世界ツアー<Dio Returns>は最初の7公演の後にホログラムに手直しを加え、2019年5月末からアメリカを回った。クレイグ・ゴールディは、自分にとってDIO DISCIPLESの公演は演奏会ではなく、演奏会の形をとった追悼式だと語ったが、ヴィヴィアン・キャンベルは、DIO DISCIPLESには結成時のDIOのメンバーが一人もいないとして、トリビュートとしての信頼性はないと批判した。

出典: Ultimate Classic Rock「Ronnie James Dio Returns to the Stage as a Hologram」(Nick DeRiso、2016年8月6日)

2022年の『Dio: Dreamers Never Die』は、ロニー・ジェイムス・ディオの遺産管理団体が初めて正式に認めたドキュメンタリー映画である。監督はドン・アーゴットとDemian Fentonで、ウェンディ・ディオも製作総指揮に加わった。テキサス州オースティンのSXSWで世界初公開された後、2022年9月28日と10月2日の2日間だけ世界600館以上の映画館で上映され、同年10月にはバルセロナのIn-Edit音楽ドキュメンタリー映画祭で観客賞を受けた。ウェンディ・ディオによれば、素材は5時間の映画になるほどあり、多くを削らなければならなかった。初代ギタリストのヴィヴィアン・キャンベルは取材されておらず、Fentonは、ウェンディ・ディオとキャンベルが今も一緒に仕事をしない間柄だからだと説明し、キャンベルが抜ける場面はどちらにも偏らないよう15回も編集し直したと語っている。

出典: Blabbermouth.net「RONNIE JAMES DIO Documentary 'Dreamers Never Die': Official DVD And Blu-Ray Release Details Revealed」(2023年6月27日)

ロニー・ジェイムス・ディオの自伝『Rainbow in the Dark: The Autobiography』は、本人の死から11年後の2021年7月27日に出版された。ディオは手書きで、時間を置きながら少しずつ書き進め、RAINBOW時代の終わり近くまで書いていた。病気になってからは本に入れたいことをメモに書き留めていたが、完成させることはできなかった。ウェンディ・ディオは、長年ディオを取材してきたイギリスの音楽ジャーナリスト、ミック・ウォールに何度も促されて、2人で本を仕上げることにした。本人の言葉で書くため、ディオの母親が残していた取材記事のスクラップ帳から言葉を拾い、ウェンディ・ディオ自身の記憶も加えたという。物語は1986年のDIOのマディソン・スクエア・ガーデン公演で始まり、そこで終わる。ウェンディ・ディオは、関心が集まれば続編も作りたいと語っている。

出典: Blabbermouth.net「WENDY DIO Explains How RONNIE JAMES DIO's Memoir Was Completed After His Death」(2021年8月1日)