VAN HALEN
ヴァン・ヘイレン (VAN HALEN) は、1972年にカリフォルニア州パサデナ (Pasadena, California) で結成され、ハードロックの概念を根底から覆したアメリカ合衆国のロックバンドである。
Biography
ヴァン・ヘイレン (VAN HALEN)
音楽的革新、バンドの変遷、遺産
1. Introduction
ヴァン・ヘイレン (VAN HALEN) は、1972年にカリフォルニア州パサデナ (Pasadena, California) で結成され、ハードロックの概念を根底から覆したアメリカ合衆国のロックバンドである。VAN HALENの登場は、1970年代後半のパンク・ロックやディスコ・ミュージックが台頭していた音楽シーンにおいて、ハードロックの復権を決定づけた歴史的転換点であった。特にギタリスト、エドワード・ヴァン・ヘイレン (Edward VAN HALEN) による革新的な「ライトハンド奏法(タッピング奏法)」や、改造ギターとアンプによる独特のディストーション・サウンド(通称「ブラウン・サウンド」)は、エレクトリック・ギターの奏法と音響工学の歴史を「ヴァン・ヘイレン以前」と「以後」に分かつほどの技術的革命をもたらした。
2. バイオグラフィ (Biography): 栄光、葛藤、そして再生の全史
2.1 黎明期: オランダからの旅立ちとパサデナでの形成 (1960s - 1973)
ヴァン・ヘイレン家の音楽的ルーツ
ヴァン・ヘイレンの物語は、アメリカ大陸から遠く離れたオランダ (The Netherlands) で幕を開ける。父ヤン・ヴァン・ヘイレン (Jan VAN HALEN) はクラリネットやサックスを演奏するジャズ・ミュージシャンであり、インドネシア系オランダ人の母ユージニア・ヴァン・ビワーズ (Eugenia Van Beers) との間に、1953年に兄のアレキサンダー・アーサー・ヴァン・ヘイレン (Alexander Arthur VAN HALEN、通称アレックス)、1955年に弟のエドワード・ロデヴィイク・ヴァン・ヘイレン (Edward Lodewijk VAN HALEN、通称エディ)が生まれた。
1962年、一家はより良い生活と機会を求めてアメリカ合衆国へ移住し、カリフォルニア州パサデナ (Pasadena)に定住した。移住当時、兄弟は英語をほとんど話せず、音楽が彼らにとっての共通言語となった。両親の勧めでクラシック・ピアノのレッスンを受け始めた二人は、幼少期から高い音楽的才能を発揮した。特にエディは、楽譜を読むことは苦手であったものの、耳で聴いた曲を即座に再現する驚異的な聴音能力を持ち、ピアノコンクールで数年連続優勝するなど神童ぶりを見せた。
楽器の交換とロックへの傾傾
1960年代半ば、ビートルズ (The Beatles) やデイヴ・クラーク・ファイヴ (The Dave Clark Five) などのブリティッシュ・インヴェイジョン (British Invasion) の影響を受け、兄弟はロック音楽に傾倒し始める。当初、兄のアレックスがギターを、弟のエディがドラムを担当していたという事実は、バンドの歴史における最も有名な逸話の一つである。エディが新聞配達のアルバイトをしてドラムセットの支払いを工面している間に、アレックスがそのドラムセットを使って練習を重ね、またたく間に上達してしまった。その演奏を聴いたエディは、「わかった、お前がドラムを叩け。僕はギターを弾くから」と告げ、互いの楽器を交換した。この偶然の配置転換がなければ、後のギター・ヒーローとしてのエディ・ヴァン・ヘイレンは誕生していなかったであろう。
マンモス (Mammoth) の結成とバックヤード・パーティ
1964年、兄弟は最初のバンド「ブロークン・コームズ (The Broken Combs)」を結成し、地元の小学校で演奏を行った。その後、パサデナ・シティ・カレッジ (Pasadena City College)、「トロージャン・ラバー・カンパニー (Trojan Rubber Co)」、「ジェネシス (Genesis)」とバンド名を変遷させていった。1972年、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド「ジェネシス」が既に存在することを知った彼らは、バンド名を「マンモス (Mammoth)」に変更した。
当時のマンモスは、エディ(ボーカル兼リードギター)、アレックス (ドラム)、マーク・ストーン (Mark Stone) (ベース)のトリオ編成であった。彼らはパサデナ地域の民家の裏庭で行われる「バックヤード・パーティ (Backyard Parties)」を中心に活動し、大音量の演奏で近隣の評判(と苦情)を集めていた。この時期、彼らはPAシステム (音響機材)を所有しておらず、近所に住む裕福な家庭のデヴィッド・リー・ロス (David Lee Roth) から機材をレンタルしていた。
2.2 第1期: クラシック・ヴァン・ヘイレンの確立 (1974-1985)
デヴィッド・リー・ロスとマイケル・アンソニーの加入
エディとアレックスは、機材レンタル料を節約するため、またエディがボーカルよりもギター演奏に専念したいという意向から、デヴィッド・リー・ロスをバンドに正式に迎え入れた。当初、兄弟はロスのR&Bやボードヴィル (Vaudeville) 趣味、エンド派手なステージ衣装に違和感を抱いていたが、彼の圧倒的なショーマンシップとカリスマ性がバンドに不可欠な要素であることを理解するようになった。
1974年、ベースのマーク・ストーンが学業専念等の理由でバンドを離れることになり、彼らはパサデナ・シティ・カレッジの別のバンド「スネイク (Snake)」で活動していたマイケル・アンソニー (Michael Anthony) をオーディションの末に引き抜いた。アンソニーの加入は、強力なリズム隊の完成だけでなく、彼の特異な高音域のバッキング・ボーカルをもたらし、これが後に「ヴァン・ヘイレン・サウンド」のシグネチャーとなった。
4人が揃った時点で、ロスの提案によりバンド名は「ヴァン・ヘイレン (VAN HALEN)」と改められた。これは、家族の名前を冠することで、サンタナ (Santana) のような威厳とアイデンティティを持たせる意図があった。
サンセット・ストリップへの進出とデビュー契約
バンドは活動の拠点をパサデナの裏庭から、ハリウッドのサンセット・ストリップ (Sunset Strip) にある有名クラブ 「ギャザリーズ (Gazzarri's)」 や 「スターウッド (Starwood)」、「ウィスキー・ア・ゴーゴー (Whisky a Go Go)」 へと移した。VAN HALENは「フライヤー(チラシ)」を自ら配り歩き、エネルギッシュなライブ・パフォーマンスで徐々にファン層を拡大していった。
1976年、キッス (KISS) のジーン・シモンズ (Gene Simmons) がVAN HALENのライブを目撃し、その才能に惚れ込んでデモ・テープの制作資金を提供した。シモンズはVAN HALENを自身のマネージメント会社に引き入れようとし、「ニューヨークへ来い」と誘ったが、キッスの他のメンバーやマネージメント側が「商業的な成功が見込めない」と判断したため、この話は立ち消えとなった。
転機は1977年に訪れた。ワーナー・ブラザース・レコード (Warner Bros. Records) のテッド・テンプルマン (Ted Templeman) とモー・オスティン (Mo Ostin)が、スターウッドでのVAN HALENのライブを見て衝撃を受け、即座に契約を申し出たのである。テンプルマンは後に、「エディのギタープレイに圧倒されたが、ロスのカリスマ性も無視できなかった」と語っている。
衝撃のデビューと黄金時代
1978年2月10日、デビュー・アルバム『炎の導火線 (VAN HALEN)』 がリリースされた。1曲目の「悪魔のハイウェイ (Runnin' with the Devil)」 における重厚な車のクラクションのような音響効果とベースライン、そして2曲目 「暗闇の爆撃 (Eruption)」 におけるエディのタッピング奏法は、当時のロック・シーンに衝撃を与えた。このアルバムは新人バンドとしては異例のセールスを記録し、ブラック・サバス (Black Sabbath) のオープニング・アクトとしてツアーを行った際、メインアクトを食ってしまうほどのパフォーマンスを見せつけた。
続く数年間、バンドは過酷な「アルバム制作→ ツアー」のサイクルをこなしながら、ヒット作を連発した。
- 1979年: 『伝説の爆撃機 (VAN HALEN II)』 - 「踊り明かそう (Dance the Night Away)」が初のトップ20ヒットとなる。
- 1980年: 『暗黒の掟 (Women and Children First)』 - よりヘヴィで実験的なサウンドへ移行。
- 1981年: 『戒厳令 (Fair Warning)』 - エディの音楽的苦悩とダークな側面が反映された、ファンやミュージシャンからの評価が極めて高い作品。
- 1982年: 『ダイヴァー・ダウン (Diver Down)』 - 「オー・プリティ・ウーマン ((Oh) Pretty Woman)」 や 「ダンシング・イン・ザ・ストリート (Dancing in the Street)」などのカバー曲が中心だったが、商業的には成功を収めた。
『1984』 と亀裂の表面化
1984年1月、アルバム 『1984』 がリリースされた。エディが自宅スタジオ 「5150スタジオ」で制作の主権を握り、物議を醸したシンセサイザー導入曲「ジャンプ (Jump)」が全米シングルチャート (Billboard Hot 100) で1位を獲得。アルバムもマイケル・ジャクソン (Michael Jackson) の 『スリラー (Thriller)』 (エディも「今夜はビート・イット」でギターソロを担当)に次ぐ全米2位を記録し、バンドの人気は頂点に達した。
しかし、成功の裏でデヴィッド・リー・ロスとエディ・ヴァン・ヘイレンの確執は修復不可能なものとなっていた。エディはより音楽的な探求とキーボードの導入、複雑な構成を求めたのに対し、ロスは従来のギター主導のハードロックと、「パーティ・バンド」としてのイメージ維持を主張した。また、ロスがソロEP 『クレイジー・フロム・ザ・ヒート (Crazy from the Heat)』を成功させ、映画制作への野心を抱いたことで、バンド活動への関心が薄れていると見なされた。1985年4月、ロスはバンドを脱退 (事実上の分裂)し、ヴァン・ヘイレンの第一期黄金時代は幕を閉じた。
2.3 第2期: サミー・ヘイガーとの出会い (1985-1996)
ロスの後任探しは難航したが、エディが自身のランボルギーニの修理を担当していたメカニック、クラウディオ・ザンポリ (Claudio Zampolli) から、元モントローズ (Montrose) のボーカリストであり、ソロ・アーティストとしても成功していたサミー・ヘイガー (Sammy Hagar) を紹介されたことで状況が一変した。ジャム・セッションを行った瞬間、両者は意気投合し、ヘイガーの正式加入が決定した。ワーナー・ブラザースは当初、バンド名を「ヴァン・ヘイガー (Van Hagar)」に変えるよう提案したが、バンド側はこれを拒否した。
全米No.1アルバムの連発と音楽性の変化
1986年3月、新生ヴァン・ヘイレンによるアルバム 『5150』がリリースされた。ヘイガーの力強く音域の広いボーカルは、エディに新たな楽曲制作の自由を与えた。バラード曲「ラヴ・ウォークス・イン (Love Walks In)」や、高揚感あふれるアンセム「ドリームス (Dreams)」などが収録され、アルバムはバンド初の全米チャート1位を獲得した。
この時期のヴァン・ヘイレンは、ロス時代の「パーティ・ロック」から、よりメロディアスで歌詞の内容も「愛」や「内省」を含む成熟したスタジアム・ロックへと変貌を遂げた。古くからのファンの一部からは「ヴァン・ヘイガー」と揶揄されたが、商業的成功はそれを凌駕した。続く『OU812』(1988)、『F.U.C.K. (For Unlawful Carnal Knowledge)』 (1991)、『バランス (Balance)』 (1995) も全て全米1位を記録し、4作連続No.1という偉業を達成した。
バンドの軋轢と崩壊
1990年代半ば、バンドは再び内部崩壊の危機に直面した。エディは股関節の壊死やアルコール依存症の問題を抱え、アレックスも首の負傷に苦しんでいた。さらに、長年のマネージャーであったエド・レフラー (Ed Leffler)の死後、新たに就任したレイ・ダニエルズ (Ray Danniels) のマネージメント手法がメンバー間の不信感を煽った。
決定的な決裂は、映画『ツイスター (Twister)』のサウンドトラック制作中に起きた。1996年、ヘイガーは妻の出産のためにハワイに滞在し、休養を求めていたが、エディとレイ・ダニエルズはサントラ曲 「ヒューマンズ・ビーイング (Humans Being)」 のレコーディングを強行しようとした。歌詞の内容やレコーディングのスケジュールを巡って激しい口論となり、1996年6月 (父の日)、ヘイガーはバンドを去った(脱退か解雇かは双方の主張が食い違っている)。
2.4 第3期: ゲイリー・シェローンの加入 (1996-1999)
デヴィッド・リー・ロスの一時的復帰と再決裂
1996年、ベストアルバム『ベスト・オブ・ヴァン・ヘイレン Vol.1 (Best Of - Volume I)』のプロモーションのため、デヴィッド・リー・ロスが一時的に呼び戻され、新曲2曲(「Me Wise Magic」、「Can't Get This Stuff No More」)が録音された。9月のMTVビデオ・ミュージック・アワードにオリジナル・メンバー4人でサプライズ登場し、会場は狂喜乱舞したが、舞台裏では既にエディとロスの関係は破綻していた。ロスが自分の復帰を既成事実化しようとしたことに対しエディが激怒し、このリユニオンは一瞬で消滅した。
ゲイリー・シェローンの加入と 『VAN HALEN III』
新たなボーカリストとして、エクストリーム (Extreme) のゲイリー・シェローン (Gary Cherone) が抜擢された。1998年にリリースされたアルバム『ヴァン・ヘイレンIII (VAN HALEN III)』は、エディが初めて歌詞やボーカル・メロディに深く介入し、実験的な要素が強い作品となった。しかし、既存のファン層には受け入れられず、セールスはゴールド認定(50万枚)にとどまり、商業的失敗と見なされた。続くツアーでは、シェローンがロス時代とヘイガー時代の両方の曲を分け隔てなく歌い、ライブ自体の評価は悪くなかったが、1999年にシェローンは友好的にバンドを離脱した。
2.5 沈黙とリユニオン (1999-2006)
シェローン脱退後、バンドは長い沈黙期間に入った。この間、エディは舌癌の治療 (舌の3分の1を切除)や、妻ヴァレリー・バーティネリ (Valerie Bertinelli) との離婚など、私生活での苦難が続いた。
2004年、ベストアルバム『ベスト・オブ・両・ワールズ (The Best of Both Worlds)』のリリースに伴い、サミー・ヘイガーが復帰して全米ツアーが行われた。しかし、このツアーは多くの関係者やファンにとって「悪夢」として記憶されている。エディのアルコール依存と薬物使用の影響は深刻で、ステージ上で演奏が崩壊することもしばしばだった。特にノースカロライナ州グリーンズボロ公演での「ジャンプ」では、ギターのチューニングが著しく狂ったまま演奏を続け、キーボードの同期音源と不協和音を奏でるという惨劇が起きた。ツアー終了後、ヘイガーとマイケル・アンソニーは再びバンドを離れた。
2.6 第4期・最終章: ウルフギャングの加入とロスの帰還 (2007-2020)
息子ウルフギャングの加入とマイケル・アンソニーの排除
2006年、エディの息子ウルフギャング・ヴァン・ヘイレン (Wolfgang VAN HALEN)が、わず か15歳で正式ベーシストとして加入した。これに伴い、オリジナル・メンバーのマイケル・アンソニーは完全に排除された。この時期、バンドの公式サイトからアンソニーの写真が削除され、アルバムジャケットから彼の姿が消される(後にファンの猛反発を受けて元に戻された)という事件が発生し、ファンの間で大きな物議を醸した。ウルフギャングの加入は、エディのリハビリと精神的安定のために不可欠であったと後に語られている。
デヴィッド・リー・ロスの復帰と 『A Different Kind of Truth』
2007年、デヴィッド・リー・ロスが正式に復帰し、北米ツアーが行われた。そして2012年、ロス復帰後初となるスタジオ・アルバム『ア・ディファレント・カインド・オブ・トゥルース (A Different Kind of Truth)』 がリリースされた。このアルバムは、1970年代のデモ・テープに残されていた未発表曲を再構築して制作されたものであり、全盛期の勢いと現代的なへヴィネスが融合した作品として高く評価され、全米2位を記録した。
エディ・ヴァン・ヘイレンの逝去
2015年にはライブ・アルバム『東京ドーム・ライヴ・イン・コンサート (Tokyo Dome Live in Concert)』をリリースし、最後のツアーを行った。その後、エディの健康状態が悪化し、バンドは活動を停止した。エディは長年、咽頭癌や肺癌と闘病していたが、2020年10月6日、癌の合併症による脳卒中により65歳でこの世を去った。彼を失ったことにより、息子ウルフギャングはヴァン・ヘイレンの解散を明言した。
3. ディスコグラフィ (Discography)
以下に、ヴァン・ヘイレンの全スタジオ・アルバム、主要なライブ・アルバム、コンピレーション・アルバムの詳細を記述する。日本盤独自のタイトル (邦題) と英語原題を併記する。
3.1 スタジオ・アルバム (Studio Albums)
| 発売日 (Release Date) |
原題 (Original Title) |
邦題 (Japanese Title) |
ボーカル | 全米順位 | RIAA認定 | プロデューサー |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1978年2月10日 | VAN HALEN | 炎の導火線 | D.L. Roth | 19位 | ダイヤモンド (10x P) | Ted Templeman |
| 1979年3月23日 | VAN HALEN II | 伝説の爆撃機 | D.L. Roth | 6位 | 5x プラチナ | Ted Templeman |
| 1980年3月26日 | Women and Children First | 暗黒の掟 | D.L. Roth | 6位 | 3x プラチナ | Ted Templeman |
| 1981年4月29日 | Fair Warning | 戒厳令 | D.L. Roth | 5位 | 2x プラチナ | Ted Templeman |
| 1982年4月14日 | Diver Down | ダイヴァー・ダウン | D.L. Roth | 3位 | 4x プラチナ | Ted Templeman |
| 1984年1月9日 | 1984 | 1984 | D.L. Roth | 2位 | ダイヤモンド (10x P) | Ted Templeman |
| 1986年3月24日 | 5150 | 5150 | S. Hagar | 1位 | 6x プラチナ | Mick Jones, etc. |
| 1988年5月24日 | OU812 | OU812 | S. Hagar | 1位 | 4x プラチナ | VAN HALEN, etc. |
| 1991年6月17日 | For Unlawful Carnal Knowledge | F.U.C.K. | S. Hagar | 1位 | 3x プラチナ | Andy Johns, etc. |
| 1995年1月24日 | Balance | バランス | S. Hagar | 1位 | 3x プラチナ | Bruce Fairbairn |
| 1998年3月17日 | VAN HALEN III | ヴァン・ヘイレンIII | G. Cherone | 4位 | ゴールド | Mike Post, etc. |
| 2012年2月7日 | A Different Kind of Truth | ア・ディファレント・カインド・オブ・トゥルース | D.L. Roth | 2位 | - | John Shanks, etc. |
各アルバム詳細分析
1. VAN HALEN / 炎の導火線 (1978)
- 概要: ロック史における最も偉大なデビュー・アルバムの一つ。ジャケット写真でエディが持っている白黒ストライプのストラトキャスター (後のフランケンシュタイン)は象徴的である。
- 重要曲:
- Runnin' with the Devil (悪魔のハイウェイ): 独特の不協和音的な車のクラクション音(実際には彼らの車から取り外したホーンをバッテリーに繋いで録音)から始まる。
- Eruption (暗闇の爆撃): ロック・ギターの定義を変えた1分42秒のインストゥルメンタル。元々はライブ前のウォーミングアップだったものを、テッド・テンプルマンが録音させた。
- You Really Got Me: キンクスのカバー。
2. VAN HALEN II / 伝説の爆撃機 (1979)
- 概要: 1作目の大成功を受け、ツアーの合間を縫って短期間で録音された。前作の勢いをそのままに、よりキャッチーなメロディが強調されている。
- 重要曲:
- Dance the Night Away (踊り明かそう): バンド初のトップ20ヒット。ポップなコーラスワークが光る。
- Spanish Fly: ガット・ギター (ナイロン弦) による超絶技巧インストゥルメンタル。「Eruption」のアコースティック版とも言える。
3. Women and Children First / 暗黒の掟 (1980)
- 概要: 全曲オリジナル楽曲で構成された初のアルバム。サウンドはよりヘヴィになり、実験的な要素が増した。
- 重要曲:
- And the Cradle Will Rock... (ロックン・ロール・ベイビー): 冒頭の歪んだギターのような音は、実はエレクトリック・ピアノ (Wurlitzer) をマーシャル・アンプに通してフランジャーをかけた音である。鍵盤楽器導入の先駆けとなった。
4. Fair Warning / 戒厳令 (1981)
- 概要: バンド史上最もダークでシリアスな作品。エディの個人的なフラストレーションや音楽的な探求心が色濃く反映されており、商業的なキャッチーさよりもリフの鋭さや複雑さが際立つ。ジャケットのアートワークにはウィリアム・クレレク (William Kurelek) の絵画 『The Maze』の一部 (精神病院の患者を描いたもの)が使用されている。
- 重要曲:
- Mean Street: スラップ奏法とタッピングを組み合わせたイントロが有名。
- Unchained: フランジャー (MXR Flanger) をかけたリフが特徴的な代表曲。
5. Diver Down / ダイヴァー・ダウン (1982)
- 概要: レコード会社からの圧力により、カバー曲やインストゥルメンタルが多く収録された作品。エディ自身はこのアルバムの制作過程に不満を持っていたが、「(Oh) Pretty Woman」の大ヒットにより商業的には成功した。
- 重要曲:
- Cathedral: ボリューム奏法 (バイオリン奏法)を駆使した幻想的なインストゥルメンタル。
- Little Guitars: 小型のミニ・ギター (レスポール・タイプ)を使用して録音された。
6. 1984 / 1984 (1984)
- 概要: ヴァン・ヘイレンの商業的頂点。エディが自宅に建設した「5150スタジオ」で録音され、彼の意向であったシンセサイザーが全面的に導入された。
- 重要曲:
- Jump: Oberheim OB-X シンセサイザーによるリフが世界を席巻した。
- Panama: エディの愛車 (またはレースカー) にちなんで名付けられたハードロック・ナンバー。
- Hot for Teacher: アレックスのツーバス連打とエディのシャッフル・ビートが炸裂する高速チューン。
7. 5150 / 5150 (1986)
- 概要: サミー・ヘイガー加入第一弾。シンセサイザーとギターの融合が進み、より洗練されたアメリカン・ロックとなった。アルバムタイトルはエディのスタジオ名であり、精神医学的な隠語でもある。
- 重要曲:
- Why Can't This Be Love: ヘイガーのソウルフルな歌声が光るヒット曲。
- Dreams: 映画 『パワーレンジャー』などでも使用された、高揚感あふれるアンセム。
8. OU812 / OU812 (1988)
- 概要: タイトルは「Oh, You Ate One Too (お前も1つ食べたのか)」の語呂合わせ。前作に続き全米1位を獲得。
- 重要曲:
- Black and Blue: ヘイガーのパワフルなボーカルとエディの重厚なリフが融合。
- When It's Love: シンセサイザーを多用したパワー・バラード。
9. For Unlawful Carnal Knowledge / F.U.C.K. (1991)
- 概要: タイトルの頭文字を取ると卑猥な言葉になる。アンディ・ジョンズをプロデューサーに迎え、シンセサイザーを控えめにしてギター・サウンドを前面に押し出した「原点回帰」的な作品。
- 重要曲:
- Poundcake: エディが電動ドリルをピックアップに近づけてモーター音を楽曲に取り入れた。
- Right Now: ピアノのリフが印象的な楽曲。ミュージックビデオの社会的メッセージが話題となり、ペプシ・コーラのCM (クリスタル・ペプシ) にも使用された。
10. Balance / バランス (1995)
- 概要: ヘイガー期最後のアルバム。プロデューサーはブルース・フェアバーン (Bruce Fairbairn)。全体的に内省的でダークな歌詞が多く、バンド内の緊張感が反映されているとも言われる。日本盤の帯には「結合双生児」のジャケット・アートワークが使用されたが、文化的な配慮から一部地域では別のデザインに差し替えられたという噂もあった(実際には日本でもオリジナル・ジャケットで発売された)。
- 重要曲:
- Can't Stop Lovin' You: ポップなラブソングで、ロマンティックな側面を見せた大ヒット曲。
- Don't Tell Me (What Love Can Do): ヘヴィでグランジ的なアプローチが見られる楽曲。
11. VAN HALEN III / ヴァン・ヘイレンIII (1998)
- 概要: ゲイリー・シェローン在籍時唯一のアルバム。マイク・ポスト (Mike Post) とエディの共同プロデュース。曲が長く、複雑な構成が多い。エディがリードボーカルをとる「How Many Say I」 など実験的な試みも行われたが、評価は芳しくなかった。
12. A Different Kind of Truth / ア・ディファレント・カインド・オブ・トゥルース (2012)
- 概要: ロス復帰後、そしてウルフギャング加入後のラスト・アルバム。1970年代のデモ音源(「She's the Woman」 「Bullethead」 「Big River (元のタイトルはBig Trouble)」など)をベースに再構築された楽曲が多く、初期のエネルギーが充填されている。
3.2 ライブ・アルバム & コンピレーション (Live & Compilations)
Live: Right Here, Right Now / ライヴ・ライト・ヒア、ライト・ナウ (1993年2月23日)
- ヘイガー時代のライブを集大成した2枚組。フレズノ (Fresno) での公演を中心に収録。
Best Of - Volume I / ベスト・オブ・ヴァン・ヘイレン Vol.1 (1996年10月22日)
- ロスとヘイガー両時代のヒット曲を網羅。新曲「Me Wise Magic」 「Can't Get This Stuff No More」収録。
Tokyo Dome Live in Concert / 東京ドーム・ライヴ・イン・コンサート (2015年3月31日)
- 2013年6月21日の東京ドーム公演を完全収録。ボーカルの修正等を行わない「生のまま」の音源としてリリースされた。ロスのアクションやMC、エディの神懸かり的な演奏が記録されている。
3.3 日本独自の企画盤
The Japanese Singles 1978-1984 / 1978-1984 (2019年)
- ロス在籍時の日本盤シングル・ジャケットを復刻した7インチ・シングル13枚組ボックスセット。当時の邦題(「叶わぬ賭け (Ain't Talkin' 'bout Love)」 「必殺のハード・ラヴ (Somebody Get Me a Doctor)」など)が確認できる貴重な資料である。
4. メンバー詳細プロフィールと役割
エディ・ヴァン・ヘイレン (Eddie VAN HALEN)
- 本名: Edward Lodewijk VAN HALEN
- 生年月日: 1955年1月26日 - 2020年10月6日
- 出身: オランダ・ナイメーヘン
- 役割: リードギター、キーボード、バッキングボーカル
- 使用機材:
- Frankenstrat (フランケンシュタイン): エディが自作した伝説的なギター。フェンダー・ストラトキャスターのボディ (Boogie Bodies製)に、ギブソン ES-335のハムバッカー・ピックアップ (PAF)を搭載し、トレモロ・ユニット (初期はフェンダー、後にフロイド・ローズ)を取り付けたもの。赤地に白と黒のストライプ塗装は彼のトレードマークとなった。
- Brown Sound (ブラウン・サウンド): マーシャル (Marshall) のプレキシ・アンプ(1959 Super Lead)の電圧を、スライダック (Variac) を使って定格 (110V程度)から89V程度まで下げることで得られる、温かみがありながら強烈に歪んだサウンド。
- 功績: タッピング奏法の一般化、フロイド・ローズ (Floyd Rose) トレモロ・システムの開発協力、D-Tuna (瞬時にドロップDチューニングにする装置)の発明。
アレックス・ヴァン・ヘイレン (Alex VAN HALEN)
- 本名: Alexander Arthur VAN HALEN
- 生年月日: 1953年5月8日
- 出身: オランダ・アムステルダム
- 役割: ドラム、パーカッション
- スタイル: ジャズの影響を受けたスウィング感のあるハードロック・ドラミング。巨大なドラムセット (4本のバスドラムなど)と、エディのリズムに完璧に同期する独特のタイム感が特徴。「Hot for Teacher」のイントロにおけるドラム・ソロは、彼の技術の結晶である。
デヴィッド・リー・ロス (David Lee Roth)
- 本名: David Lee Roth
- 生年月日: 1954年10月10日
- 出身: インディアナ州ブルーミントン
- 役割: リードボーカル
- スタイル: 「ダイヤモンド・デイヴ」の異名を持つ。歌唱力そのものよりも、観客を扇動するMC、アクロバティックなジャンプ (開脚ジャンプ)、派手な衣装によるエンターテインメント性を重視した。歌詞の世界観は「パーティー、女性、車、享楽」が中心。
サミー・ヘイガー (Sammy Hagar)
- 本名: Samuel Roy Hagar
- 生年月日: 1947年10月13日
- 出身: カリフォルニア州サリナス
- 役割: リードボーカル、リズムギター
- スタイル: 「レッド・ロッカー」の異名を持つ。4オクターブ近い声域を持つ実力派シンガー。ギターも堪能で、ライブではエディと共にギターを弾くことでサウンドに厚みを加えた。歌詞はより内省的で、愛や社会的テーマを扱うことが多かった。自身のテキーラ・ブランド「カボ・ワボ (Cabo Wabo)」でも成功している。
マイケル・アンソニー (Michael Anthony)
- 本名: Michael Anthony Sobolewski
- 生年月日: 1954年6月20日
- 出身: イリノイ州シカゴ
- 役割: ベース、バッキングボーカル
- スタイル: 堅実なルート弾き中心のベースプレイに加え、エディのギターとロスのボーカルの間を埋める、極めて重要な高音域のハーモニー (コーラス) を提供した。ジャック・ダニエルのボトル・ベースをライブで使用するパフォーマンスで知られる。
ウルフギャング・ヴァン・ヘイレン (Wolfgang VAN HALEN)
- 本名: Wolfgang William VAN HALEN
- 生年月日: 1991年3月16日
- 出身: カリフォルニア州サンタモニカ
- 役割: ベース、バッキングボーカル
- 経歴: エディと女優ヴァレリー・バーティネリの息子。2006年に加入。父の死後はソロ・プロジェクト 「マンモス WVH (Mammoth WVH)」で活動し、グラミー賞にノミネートされるなど成功を収めている。
5. 日本との深い関わり (The Japanese Connection)
ヴァン・ヘイレンは日本市場において特別な人気を誇ったバンドである。
日本独自のアートワークと邦題
ディスコグラフィで示したように、初期の作品にはインパクトのある邦題が付けられた。『伝説の爆撃機 (VAN HALEN II)』や『戒厳令(Fair Warning)』 といったタイトルは、バンドの「攻撃的でパワフル」なイメージを日本のファンに植え付けるのに一役買った。また、ライナーノーツや帯 (OBI strip)は、コレクターズアイテムとして世界的に価値が高い。
主な来日公演の歴史
- 1978年: 初来日。東京、大阪などで公演。その圧倒的なパフォーマンスは日本の音楽誌で大々的に報じられた。
- 1979年: 2度目の来日。京都などでも公演。
- 1989年: アルバム 『OU812』ツアー。東京ドーム2日間公演など。ヘイガー加入後初の来日であり、爆発的な盛り上がりを見せた。
- 1995年: 『Balance』 ツアー。
- 1998年: 『VAN HALEN III』ツアー。ゲイリー・シェローンを含むラインナップでの来日。
- 2013年: 最後の来日公演。東京ドーム、大阪市中央体育館などで公演。エディの体調も比較的安定しており、往年の名曲が次々と披露された。この時の東京ドーム公演が後にライブ・アルバム化された。
6. ヴァン・ヘイレンの遺産
ヴァン・ヘイレンは、エディ・ヴァン・ヘイレンという一人の天才によって「ハードロック・ギター」の概念を書き換えただけでなく、デヴィッド・リー・ロスとサミー・ヘイガーという二人の偉大なフロントマンと共に、ロック・ミュージックを巨大なエンターテインメント・ビジネスへと昇華させた。
VAN HALENが残した音楽的遺産は計り知れない。
- テクニカル・ギターの標準化: タッピング、スウィープ、アーミングなどの技術は、1980年代以降のメタルの標準装備となった。
- 機材の進化: エディの改造ギターとアンプへの探求心は、現在のハイゲイン・アンプやコンポーネント・ギター市場の基礎を築いた。
- ポップとハードの融合: 「Jump」 に代表されるように、ハードロック・バンドがシンセサイザーを取り入れ、ポップ・チャートを制覇する道筋を作った。
2020年のエディの死により、バンドとしての活動は永遠に終了したが、その音楽と遺伝子(息子のウルフギャングを含め)は、今後もロック・シーンの中で生き続けるであろう。
Trivia
1970年代から80年代にかけてのヴァン・ヘイレンの日本盤には、原題と関係のない邦題が付けられていた。『Van Halen』が『炎の導火線』、『Van Halen II』が『伝説の爆撃機』、『Women and Children First』が『暗黒の掟』、『Fair Warning』が『戒厳令』である。一方で『Diver Down』以降は原題のカタカナ表記や原題そのままになり、この付け方は続かなかった。
2013年の来日公演は、エディ・ヴァン・ヘイレンとデイヴィッド・リー・ロスが揃って日本の舞台に立つ、1979年以来のものだった。初日は愛知県体育館で、5,000人の客で満員になった会場を「Unchained」で始めている。編成はロス、エディ、アレックスに、エディの息子ウルフギャングがベースという4人。この後、6月21日に東京ドーム、24日と26日に大阪市中央体育館という日程が続いた。
1991年の『For Unlawful Carnal Knowledge』は、バンドにとって9作目のスタジオ・アルバムで、初登場1位を獲得し3週にわたってその座を保った。サミー・ヘイガーを迎えた編成としては3作連続の全米1位である。この作品はバンドに初めてのグラミー賞をもたらした。
2026年に世に出たライヴ音源の元は、1986年8月27日、コネティカット州ニューヘイヴンのニューヘイヴン・ヴェテランズ・メモリアル・コロシアムでの公演である。90分を超える未発表音源で、編成はサミー・ヘイガー、エディ、アレックス、マイケル・アンソニー。同じ夜に撮影されたのが、後にダブル・プラチナとなる映像作品『Live Without a Net』だった。つまり音源と映像は同じ一夜の記録である。
ヴァン・ヘイレンと契約したのはワーナー・ブラザースのテッド・テンプルマンである。きっかけは、当時バンドの面倒を見ていたマーシャル・バール——コメディアンのミルトン・バールの甥——から、とにかく一度観に行けと勧められたことだった。テンプルマンはスターウッドへ足を運び、気づかれないよう二階から見ている。エディの演奏を目にして、こんなものは見たことがないと思った。彼はバンドに存在を知られないまま帰り、ワーナーの会長モー・オースティンに電話をかけ、翌晩に連れ出して、その場で楽屋に入って契約を告げた。それまでこのバンドは複数のレーベルに断られており、A&Mもその一つだった。ジーン・シモンズが一時面倒を見ていた時期があってさえ、契約は決まっていなかった。
1978年のデビュー作はサンセット・サウンドで録られた。作り方はほぼライヴである。バンドはスタジオで一緒に演奏し、ロスだけがアイソレーション・ブースに入ったが、そこはテンプルマンからも、エディとアレックスからも互いに顔が見える配置にしてあった。普段のライヴと同じ視線が通るようにするためである。ロスのヴォーカルは演奏と同時に録り、後から必要な箇所だけ直した。テンプルマンによれば、この作品は2週間かからずに出来ている。曲は既にライヴで演奏し込まれていた。
「Eruption」がアルバムに入ったのは偶然である。テンプルマンはスタジオの隣の小部屋で電話をかけていて、ふと入っていったところ、エディが座って何かを弾いていた。それは何かと尋ねると、毎回ライヴの前に指を慣らすために弾いているだけのものだという答えが返ってきた。テンプルマンはエンジニアのドン・ランディに録れと叫んだが、ランディは既に録音を始めていた。彼も同じものを聴いていたのである。テンプルマンは、あんなタッピングも、あれほど見事なものも聴いたことがなかったと述べている。当のエディは、あれは何でもないと言い、そもそも彼に聴かせるつもりすら無かった。
「Jump」はギターではなく鍵盤から生まれた曲で、しかも書かれた場所はスタジオですらない。エディは5150スタジオを建てている最中、自宅の寝室でシーケンシャル・サーキッツのプロフェット10を使ってこの曲を書いている。ところが、鍵盤の右手側の音色で欲しい音を出すたびに、その機械は煙を吹いてヒューズを飛ばした。買い直しても同じことが起きる。知人からオーバーハイムのOB-Xaを試せと言われて買い替え、それでようやく求めていた音が出た。
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