MOTLEY CRUE
MOTLEY CRUEのキャリアは、全世界で1億枚を超えるアルバムセールスという商業的成功だけでなく、メンバーの薬物依存、アルコール中毒、法的なトラブル、そしてバンド内の激しい確執といった「過剰さ (Excess)」によって定義されてきた。
Biography
モトリー・クルー (Mötley Crüe)
歴史的軌跡、音楽的進化、文化的影響
1. Introduction
MOTLEY CRUEのキャリアは、全世界で1億枚を超えるアルバムセールスという商業的成功だけでなく、メンバーの薬物依存、アルコール中毒、法的なトラブル、そしてバンド内の激しい確執といった「過剰さ (Excess)」によって定義されてきた。しかし、その混沌としたエネルギーこそがMOTLEY CRUEの音楽の源泉であり、ファンを惹きつけるカリスマ性の正体でもある。
2. 結成前夜と初期の歴史 (1981-1983)
2.1 サンセット・ストリップの喧噪とメンバーの邂逅
1980年代初頭のロサンゼルス、特にサンセット・ストリップ (Sunset Strip)は、ポスト・パンクとニュー・ウェイヴの波が押し寄せる一方で、新たなハードロックの胎動が始まった場所であった。このシーンの中心にいたのが、後にモトリー・クルーを結成するメンバーたちである。
ベーシストのニッキー・シックス (Nikki Sixx) (本名: フランク・カールトン・セラフィーノ・フェランナ・ジュニア / Frank Carlton Serafino Feranna, Jr.)は、バンド「ロンドン (London)」のメンバーとして活動していたが、音楽的な方向性の違いから脱退し、独自のヴィジョンを実現できるバンドを模索していた。彼は、「スイート19 (Suite 19)」というバンドでドラムを叩いていたトミー・リー (Tommy Lee) と出会い、リズム隊の核を形成することに合意した。トミー・リーのアグレッシブなドラミングと視覚的な派手さは、ニッキーが求めていた要素と合致していた。
当初、彼らはグレッグ・レオン (Greg Leon) というギタリスト兼ボーカリストとリハーサルを行っていたが、ラインナップは固定されなかった。より強力なギタリストを求めていた彼らは、地元紙『リサイクラー (The Recycler)』に掲載された、「ラウドでルード、アグレッシブなギタリスト求む (Loud, rude and aggressive guitar player available)」という広告に目を留めた。この広告主こそが、ミック・マーズ (Mick Mars) (本名:ロバート・アラン・ディール / Robert Alan Deal) であった。ミックは他のメンバーより年長であり、ブルース・ロックに根差した重厚なプレイスタイルを持っていた。オーディションの際、ニッキーとトミーはミックの演奏に即座に魅了され、彼を採用した。
2.2 ボーカリストの選定: オーディーンからヴィンスへ
インストゥルメンタル・パートは固まったものの、フロントマンの不在が課題であった。当初、「オーディーン (O'Dean)」あるいは「オーディーン・ピーターソン (O'Dean Peterson)」という名のボーカリストがオーディションを受け、リハーサルに参加していた。資料によれば、彼は歌唱力はあったものの、白い手袋を常に着用するなど独特のこだわりがあり、ニッキー・シックスの目指す「スウィート (The Sweet) のブライアン・コノリー (Brian Connolly) のような」スタイルとは異なっていたため、不採用となった。
トミー・リーは高校時代 (チャーター・オーク高校/ Charter Oak High School) の知人であるヴィンス・ニール (Vince Neil)を推薦した。当時、ヴィンスは「ロック・キャンディ (Rock Candy)」というバンドで活動しており、ハリウッドのクラブ「スターウッド (Starwood)」などで人気を博していた。ミック・マーズもヴィンスのパフォーマンスを見て、彼がバンドに必要なフロントマンであることを確信した。当初、ヴィンスは加入を拒否したが、ロック・キャンディの他のメンバーが別プロジェクトに関わり始めたことでバンドが崩壊しつつあったため、最終的にニッキーたちの誘いを受け入れた。1981年4月1日、ヴィンス・ニールの加入により、モトリー・クルーのクラシック・ラインナップが完成した。
2.3 バンド名の由来と「レザー・レコーズ」
ミック・マーズが以前所属していたバンド「ホワイト・ホース (White Horse)」の時代に、メンバーが自分たちを「雑多な連中 (motley looking crew)」と呼んだことに由来する。このフレーズを気に入っていたミックの提案により、「Mottley Cru」という案が出され、最終的に「Mötley Crüe」へと定着した。
「ö」と「ü」に使用されているウムラウト (変母音記号)は、彼らが愛飲していたドイツビール「レーベンブロイ (Löwenbräu)」のラベルから着想を得たものであり、文法的な意味はなく、あくまで視覚的なインパクトと「ヘヴィメタルらしさ」を演出するためのデザインであった。
彼らはマネージャーのアラン・コフマン (Allan Coffman) の支援を受け、自主レーベル「レザー・レコーズ (Leathür Records)」を設立した。このレーベル名は「Leather (革)」の綴りを変形させ、ウムラウトを加えたものであり、彼らのDIY精神と美的感覚を象徴していた。
2.4 デビューアルバム『華麗なる激情 (Too Fast for Love)』
1981年11月、自主制作盤としてデビューアルバム『華麗なる激情 (Too Fast for Love)』がリリースされた。わずか3日間で録音されたこのアルバムは、粗削りながらもパンク・ロックの疾走感とヘヴィメタルの重量感が融合した独自のアグレッシブなサウンドを持っていた。
ロサンゼルス周辺でのライブ活動、特に「ウィスキー・ア・ゴーゴー (Whisky a Go Go)」や「スターウッド (Starwood)」での過激なパフォーマンスは口コミで評判を呼んだ。MOTLEY CRUEのステージ衣装は、映画『マッドマックス (Mad Max)』や『ニューヨーク1997 (Escape from New York)』に影響を受けたレザー、スタッズ、性能過剰なメイクアップで構成されており、当時の音楽シーンに強烈なインパクトを与えた。1981年4月24日の初ライブでは早くも乱闘騒ぎが起きるなど、MOTLEY CRUEの活動は常に暴力とスキャンダルの匂いを漂わせていた。
このローカルな成功はメジャーレーベルの注目を集め、1982年にエレクトラ・レコーズ (Elektra Records) と契約を締結した。エレクトラは、名プロデューサーのロイ・トーマス・ベイカー (Roy Thomas Baker) にアルバムのリミックスを依頼し、1982年8月にメジャー盤として再リリースした。この際、オリジナル盤に収録されていた「Stick to Your Guns」がカットされるなどの変更が加えられた。
3. 栄光と狂気: 世界的成功 (1983-1989)
3.1 『シャウト・アット・ザ・デヴィル (Shout at the Devil)』と悪魔的イメージ
1983年9月、セカンドアルバム『シャウト・アット・ザ・デヴィル (Shout at the Devil)』がリリースされた。このアルバムでバンドは、黒を基調とした衣装、ペンタグラム(五芒星)、火薬を多用したステージセットなど、オカルト的なイメージを全面的に押し出した。
タイトルトラック「Shout at the Devil」や「Looks That Kill」などの楽曲は、キャッチーなリフとアンセム的なコーラスを持っており、MTVでのミュージックビデオの放映も相まって全米チャート (Billboard 200)のトップ20入りを果たした。1983年5月の「USフェスティバル (US Festival)」への出演は、MOTLEY CRUEの存在を全米のハードロックファンに知らしめる決定的な瞬間となった。
しかし、この成功の裏でメンバーの生活は荒廃していった。アルコールと薬物の乱用は常態化し、MOTLEY CRUEの奇行はタブロイド紙の格好のネタとなった。
3.2 ラズルの死と『シアター・オブ・ペイン (Theatre of Pain)』
1984年12月8日、バンドの運命を揺るがす悲劇が起きた。ヴィンス・ニールが自宅でパーティを開いていた際、酒がなくなったため、ハノイ・ロックス (Hanoi Rocks) のドラマーであるラズル (Razzle) (本名: ニコラス・ディングリー / Nicholas Dingley) を助手席に乗せて酒を買いに出かけた。その帰路、ヴィンスが運転するデ・トマソ・パンテーラ (De Tomaso Pantera) がスピードの出し過ぎでコントロールを失い、対向車と正面衝突した。この事故によりラズルは死亡し、対向車の乗員も重傷を負った。
ヴィンスは飲酒運転および過失致死罪で起訴され、最終的に30日間の拘禁刑 (模範囚として短縮され、実際に服役したのは15~19日間程度とされる)、200時間の社会奉仕活動、および被害者への賠償金支払いを命じられた。この軽い刑罰は世間から批判を浴びたが、バンド活動への物理的な影響は最小限に留まった。
この悲劇的な状況下で制作されたのが、1985年リリースの3rdアルバム『シアター・オブ・ペイン (Theatre of Pain)』である。バンドはこのアルバムでイメージを一新し、黒魔術的な要素を捨て、より華やかなグラム・ロック・スタイル (スパンコール、スカーフ、ポルカドットなど)を採用した。
音楽的にも、ブラウン・スヴィル・ステーション (Brownsville Station) のカバー「Smokin' in the Boys Room」や、パワーバラードの名曲「Home Sweet Home」など、よりラジオフレンドリーな方向へとシフトした。「Home Sweet Home」の大ヒットは、ヘア・メタル・バンドが「パワーバラード」をシングルカットしてチャートを駆け上がるという、80年代後半の成功の方程式を確立した。
3.3 『ガールズ、ガールズ、ガールズ (Girls, Girls, Girls)』とニッキーの臨死体験
1987年、4thアルバム『ガールズ、ガールズ、ガールズ (Girls, Girls, Girls)』がリリースされた。このアルバムは、ハーレーダビッドソン (Harley-Davidson) やストリップクラブといったバイカー・カルチャーへの傾倒を反映し、よりブルージーで荒々しいサウンドへと回帰した。タイトル曲「Girls, Girls, Girls」や、複雑なリズム構成を持つ「Wild Side」などが収録され、アルバムは全米チャート2位を記録した。
しかし、この時期のバンド内部、特にニッキー・シックスの状態は最悪であった。重度のヘロイン中毒に陥っていた彼は、1987年12月23日、過剰摂取により心肺停止状態となった。救急隊員によるアドレナリンの心臓への直接注射により奇跡的に蘇生したが、一説には約2分間、医学的に死亡していたとされる。この衝撃的な体験は、後の楽曲「Kickstart My Heart」のインスピレーション源となった。
この事件を受け、マネージメントはバンド全員に対し、リハビリ施設への入所を強く勧告した。バンド存続の危機に直面したMOTLEY CRUEは、初めてシラフ (Sobriety) になることを決意する。
3.4 『ドクター・フィールグッド (Dr. Feelgood)』での頂点
クリーンになったメンバーは、プロデューサーにボブ・ロック (Bob Rock) を迎え、カナダのバンクーバーでレコーディングを開始した。ボブ・ロックは、メンバーがスタジオ内で衝突しないようスケジュールを調整し、徹底的に演奏のクオリティを追求した。
こうして1989年にリリースされた5thアルバム『ドクター・フィールグッド (Dr. Feelgood)』は、モトリー・クルーの最高傑作と評されることが多い。分厚いギターサウンド、タイトなリズム、性能洗練されたソングライティングにより、バンド史上初 (そして唯一)の全米アルバムチャート1位を獲得した。シングルカットされた「Dr. Feelgood」、「Kickstart My Heart」、「Without You」、「Don't Go Away Mad (Just Go Away)」、「Same Ol' Situation (S.O.S.)」はいずれもヒットし、バンドは名実ともに世界の頂点に立った。
4. 激動の90年代: 分裂と迷走 (1990-1999)
4.1 ヴィンス・ニールの脱退とジョン・コラビの加入
1991年、初のベストアルバム『デケイド・オブ・デカダンス (Decade of Decadence '81-'91)』をリリースし、エレクトラ・レコーズと2500万ドルとも言われる巨額の契約更新を行った。しかし、成功の反動か、バンド内の人間関係は再び悪化していた。特に、ニッキー・シックスとヴィンス・ニールの間の溝は深まっていた。
1992年2月、ヴィンス・ニールがバンドを脱退した。この脱退が自主的なものであったか、解雇であったかは長年議論の的となっているが(双方が異なる主張を展開)、結果としてバンドは「声」を失った。
後任として迎えられたのは、バンド「ザ・スクリーム (The Scream)」のボーカリスト、ジョン・コラビ (John Corabi) であった。彼の声はヴィンスの高音とは対照的な、ハスキーで力強いものであり、ギターも演奏できたため、バンドの音楽性に新たな可能性をもたらした。
4.2 セルフタイトルアルバム『モトリー・クルー (Mötley Crüe)』の商業的苦戦
1994年、ジョン・コラビを擁する新生モトリー・クルーは、アルバム『モトリー・クルー (Mötley Crüe)』をリリースした。ボブ・ロックが再びプロデュースを手掛けたこのアルバムは、当時全盛であったグランジ (Grunge) やオルタナティブ・ロック (Alternative Rock) の影響を受け、ダウンチューニングを多用したヘヴィでダークなサウンドが特徴であった。
批評家の一部やミュージシャン仲間からは、その音楽的成熟度やコラビの歌唱力が高く評価された。収録曲「Hooligan's Holiday」や「Power to the Music」は、バンドの新たな側面を見せる強力な楽曲であった。しかし、長年のファンはヴィンスの声を求めており、また世間的には「ヘア・メタル・バンドがグランジを真似ている」という冷ややかな目で見られたこともあり、アルバムのセールスは前作に遠く及ばなかった。ツアー規模はアリーナからクラブやシアターへと縮小し、エレクトラ・レコーズからのサポートも失われていった。
この時期に制作された楽曲のアウトテイクや各メンバーのソロ曲を集めたEP『クォータナリー (Quaternary)』もリリースされたが、商業的な流れを変えることはできなかった。コラビはこの時期の重圧とバンド側 (特にレーベルやマネージメント) からの扱いに苦悩し、後に自殺を考えたと告白している。
4.3 ヴィンスの復帰と『ジェネレーション・スワイン (Generation Swine)』
商業的な危機感を抱いたレーベルとマネージメントの主導により、ヴィンス・ニールとニッキー・シックスの会談がセッティングされ、1997年にヴィンスの復帰が決定した。これによりジョン・コラビはバンドを去ることとなった。
当時制作中であったアルバムは、コラビのボーカルパートをヴィンスが録り直す形で完成され、1997年に『ジェネレーション・スワイン (Generation Swine)』としてリリースされた。このアルバムは、ナイン・インチ・ネイルズ (Nine Inch Nails) などのインダストリアル・ロックやテクノの要素を取り入れた実験作であったが、ヴィンスのボーカルスタイルと楽曲の相性が悪く(ヴィンス自身、後に「このアルバムは嫌いだ」と公言している)、ファンや批評家からは酷評された。
4.4 トミー・リーの脱退と法的トラブル
バンドはエレクトラとの契約満了後、原盤権を買い戻し、自主レーベル「モトリー・レコーズ (Mötley Records)」を設立した。しかし、バンド内の不和は解消されず、1999年にトミー・リーが脱退を表明した。彼は自身のラップ・メタル・プロジェクト「メソッド・オブ・メイヘム (Methods of Mayhem)」に専念するため、またバンド内の絶え間ない争いに疲弊したためとされている。
5. 2000年代: 混迷から再起へ (2000-2010)
5.1 『ニュー・タトゥー (New Tattoo)』とドラマーの変遷
トミー・リーの後任として、オジー・オズボーン・バンド (Ozzy Osbourne Band) での名演で知られるランディ・カスティロ (Randy Castillo)が加入した。2000年にリリースされたアルバム『ニュー・タトゥー (New Tattoo)』は、実験的な要素を排し、80年代のMOTLEY CRUEらしいロックンロール・サウンドへの回帰を図った作品であった。
しかし、ツアー直前にカスティロが重病(後に癌と判明)に倒れ、ツアーへの参加が不可能となった。代役として、元ホール (Hole) のサマンサ・マロニー (Samantha Maloney) が抜擢され、ツアーおよびライブビデオ『Lewd, Crüed & Tattooed』に参加した。彼女はバンドに新しいエネルギーをもたらしたが、カスティロは闘病の末、2002年3月に死去した。バンドはその後、一時的な活動休止状態に入った。
5.2 オリジナル・ラインナップの再結成と『セインツ・オブ・ロスアンゼルス』
2004年、プロモーターからの強い要望とファンの期待に応える形で、ニッキー、ヴィンス、ミック、トミーのオリジナル・メンバー4人による再結成が発表された。2005年から始まった「Carnival of Sins」ツアーは、サーカスをテーマにした壮大なステージセットとトミーのアクロバティックなドラムソロが話題を呼び、世界中で大成功を収めた。
2001年に出版された自伝『The Dirt: Confessions of the World's Most Notorious Rock Band』(邦題: 『モトリー・クルー自伝―ザ・ダート』)がベストセラーとなっていたことも、再結成ブームを後押しした。
2008年、オリジナル・メンバーとしては『Dr. Feelgood』以来19年ぶりとなるスタジオアルバム『セインツ・オブ・ロスアンゼルス (Saints of Los Angeles)』をリリースした。このアルバムは自伝『The Dirt』のストーリーを楽曲化したコンセプト・アルバムであり、ニッキー・シックスのサイド・プロジェクト「シックス:A.M. (Sixx:A.M.)」のメンバーであるジェームス・マイケル (James Michael) やDJアシュバ (DJ Ashba) がソングライティングに深く関与した。アルバムは好評を博し、グラミー賞にもノミネートされた。
6. 「ファイナル・ツアー」と契約書の爆破 (2014-2019)
6.1 ツアー活動停止契約書 (Cessation of Touring Agreement)
2014年1月、バンドは「ファイナル・ツアー (The Final Tour)」の開催を発表した。記者会見において、MOTLEY CRUEは「ツアー活動停止契約書(Cessation of Touring Agreement)」に署名するというパフォーマンスを行った。これは、2015年末をもってモトリー・クルーとしてのツアー活動を永久に終了し、将来的に再結成ツアーを行った場合は訴訟の対象になるという法的拘束力を持つ(とされる) 文書であった。
ニッキー・シックスは当時、「還暦を過ぎてボロボロの状態で『Kickstart My Heart』を演奏したくない」「絶頂期のうちに終わりたい」と語っていた。アリス・クーパー (Alice Cooper) をスペシャル・ゲストに迎えたこのツアーは、2014年から2015年にかけて世界を回り、トミー・リーのドラムセットが観客席の頭上を移動する「Crüecifly」などの巨大なセットで観客を圧倒した。
2015年12月31日、地元ロサンゼルスのステイプルズ・センター (Staples Center) で行われた最終公演をもって、バンドはその歴史に幕を下ろした(はずであった)。
6.2 映画『ザ・ダート』と契約の破棄
2019年3月、Netflixで自伝映画『ザ・ダート:モトリー・クルー自伝 (The Dirt)』が配信されると、世界中でモトリー・クルー旋風が再燃した。映画のヒットにより、ストリーミング再生数は激増し、バンドを知らなかった若年層のファンが急増した。
「新しいファンがバンドのライブを見たがっている」という事実を前に、バンドは契約書の破棄を決断した。2019年11月、MOTLEY CRUEは「契約書を爆破する」という映像を公開し、活動再開を宣言した。ニッキー・シックスは、「契約書には『4人全員が合意すれば無効にできる』という抜け穴があった」と後に語っている。
7. 分裂の再来: ミック・マーズとの訴訟と現在 (2022-2025)
7.1 スタジアム・ツアーとミック・マーズの引退
コロナ禍による延期を経て、2022年にデフ・レパード (Def Leppard)、ポイズン (Poison)、ジョーン・ジェット (Joan Jett) と共に北米スタジアム・ツアー「The Stadium Tour」を敢行。商業的に大成功を収めたが、ツアー終了後の2022年10月、ミック・マーズがツアー活動からの引退を発表した。
ミックは10代の頃から強直性脊椎炎(Ankylosing Spondylitis) という進行性の難病を患っており、長年のツアー生活で身体的負担が限界に達していた。彼の代理人は「ツアーからは引退するが、バンドの正式メンバーであり続ける」と声明を出した。
7.2 ジョン5の加入と泥沼の法廷闘争
ミックの後任として、ロブ・ゾンビ (Rob Zombie) やマリリン・マンソン (Marilyn Manson) のギタリストとして知られるジョン5 (John 5) が加入した。彼は以前からニッキー・シックスと親交があり、テクニカルなプレイとバンドへの敬意を持っていたため、スムーズに受け入れられた。
外部、ミック・マーズとバンド側の関係は急速に悪化した。2023年4月、ミックはバンド (特にニッキー・シックス)を相手取り、ロサンゼルス上級裁判所に訴訟を起こした。
ミック側の主張:
- バンド側がミックを不当に排除し、利益配分を25%から5%に引き下げようとした。
- ニッキー・シックスがミックに対し「ギターが弾けていない」「覚えが悪い」とガスライティング(心理的虐待)を行った。
- 実際にはニッキーこそがライブでベースを弾いておらず、録音済みトラック (バッキング・トラック)を使用していた。
バンド側の反論:
- ミックの演奏能力は著しく低下しており、他のメンバーがそれをカバーせざるを得なかった。
- ミックは自ら辞任を申し出たのであり、解雇ではない。
2024年初頭の判決において、裁判官はバンド側がミックの要求した資料開示を不当に遅延させたと認定し、ミック側の弁護士費用の支払いをバンドに命じた。これにより、ミック側は「前哨戦」での勝利を宣言した。しかし、本件の核心部分 (株の保有権や不当解雇の是非)については、非公開の仲裁 (Arbitration) 手続きへと移行しており、2025年現在も完全な解決には至っていないと見られる。
7.3 現在の活動: ビッグ・マシーン契約とラスベガス・レジデンシー
ジョン5を迎えた新体制のモトリー・クルーは、精力的に活動を続けている。2024年、MOTLEY CRUEはビッグ・マシーン・レコーズ (Big Machine Records) と契約し、新曲「Dogs of War」をリリースした。さらに同年10月には、EP『キャンセルド (Cancelled)』を発表。このEPには、ビースティ・ボーイズ (Beastie Boys) のカバー「(You Gotta) Fight for Your Right (To Party!)」などが収録されている。
2025年には、ラスベガスのパーク MGM (Park MGM) 内「ドルビー・ライブ (Dolby Live)」にて、3度目となるレジデンシー公演 (長期滞在型公演)を開催予定である。また、2026年には結成45周年および「Carnival of Sins」ツアー20周年を記念した大規模な北米ツアー「The Return of the Carnival of Sins」が計画されており、サポートアクトとしてテスラ (Tesla) やエクストリーム (Extreme) が同行することが発表されている。
8. ディスコグラフィ (Discography)
ここでは、スタジオアルバムを中心に、その詳細データと内容について解説する。
8.1 スタジオ・アルバム (Studio Albums)
| 発売年 | タイトル (英語/カタカナ) | チャート最高位 (US) | 解説 |
|---|---|---|---|
| 1981 | Too Fast for Love 華麗なる激情 |
77 | 記念すべきデビュー作。自主制作盤をエレクトラがリミックス。パンクの影響が色濃く、生々しいエネルギーに満ちている。代表曲「Live Wire」は現在もライブの定番。 |
| 1983 | Shout at the Devil シャウト・アット・ザ・デヴィル |
17 | ブレイク作。悪魔的イメージとヘヴィなリフが融合。ヘア・メタルの様式美を確立した。「Looks That Kill」やビートルズのカバー「Helter Skelter」を収録。 |
| 1985 | Theatre of Pain シアター・オブ・ペイン |
6 | グラム・ロックへの転換作。ラズルの死を乗り越え制作された。バラード「Home Sweet Home」の大ヒットにより、バンドのファン層を拡大した。 |
| 1987 | Girls, Girls, Girls ガールズ、ガールズ、ガールズ |
2 | ブルース色が強く、退廃的なライフスタイルを反映した作品。ニッキーの薬物中毒がピークに達していた時期だが、「Wild Side」などの複雑な楽曲も生まれた。 |
| 1989 | Dr. Feelgood ドクター・フィールグッド |
1 | バンド史上最大のヒット作。ボブ・ロックのプロデュースにより、サウンドプロダクションが劇的に向上。メンバー全員がシラフで制作した唯一の (80年代の) アルバム。 |
| 1994 | Mötley Crüe モトリー・クルー |
7 | ジョン・コラビ加入作。グランジ/オルタナティブ寄りのヘヴィなサウンド。商業的には失敗したが、音楽的な評価は近年再評価されている。「Hooligan's Holiday」収録。 |
| 1997 | Generation Swine ジェネレーション・スワイン |
4 | ヴィンス復帰作。デジタルサウンドやインダストリアル要素を取り入れた実験作。制作過程の混乱が楽曲の統一感を欠く結果となった。 |
| 2000 | New Tattoo ニュー・タトゥー |
41 | トミー・リー不在 (ランディ・カスティロ参加)。原点回帰を目指したストレートなロックアルバム。セールスは振るわなかった。 |
| 2008 | Saints of Los Angeles セインツ・オブ・ロスアンゼルス |
4 | オリジナルメンバー再集結によるコンセプトアルバム。自伝『The Dirt』の内容を楽曲化。往年のサウンドを現代的にアップデートし、好評を博した。 |
8.2 主要EPおよびコンピレーション (Notable EPs & Compilations)
- Decade of Decadence '81-'91 (1991): 初のベスト盤。新曲「Primal Scream」や、セックス・ピストルズ (Sex Pistols) のカバー「Anarchy in the U.K.」を収録。
- Quaternary (1994): アルバム『Mötley Crüe』期のアウトテイクや各メンバーのソロ楽曲を収録したEP。日本盤にはボーナストラックとして「10,000 Miles」が収録された。
- Supersonic and Demonic Relics (1999): レアトラック集。廃盤となっていた『Quaternary』や『Decade of Decadence』の収録曲、未発表デモなどを網羅。2024年にアナログ盤で再発された。
- The Dirt Soundtrack (2019): 自伝映画のサウンドトラック。新曲「The Dirt (Est. 1981)」 (feat. Machine Gun Kelly) など4曲の新録を含む。
- Cancelled (2024): ジョン5加入後初のEP。「Dogs of War」「Cancelled」「Fight for Your Right」の3曲を収録。
9. メンバー詳細プロフィール (Members Profile)
現メンバー (Current Members)
ニッキー・シックス (Nikki Sixx) - Bass, Backing Vocals (1981-現在)
バンドの創設者であり、主要なソングライター。歌詞の多くを手掛け、バンドのコンセプトやビジュアル・イメージを決定づけるリーダー。
- プレイスタイル: 複雑なテクニックよりも、ルート弾きを中心としたドライヴ感のあるベースラインを好む。ギブソン・サンダーバード (Gibson Thunderbird) やシェクター (Schecter) の変形モデルを愛用。
- 人物: 致死量のヘロイン摂取からの生還、破天荒な女性遍歴など、ロック・スターのステレオタイプを地で行く人物。近年は写真家やラジオDJ、作家(『The Heroin Diaries』など)としても成功している。
ヴィンス・ニール (Vince Neil) - Lead Vocals (1981-1992, 1997-現在)
バンドの顔。特徴的な甲高い歌声とブロンドの長髪で、80年代グラム・メタルのフロントマン像を確立した。
- プレイスタイル: ライブでは観客を煽るパフォーマンスに重点を置く。リズムギターを演奏することもある。
- 人物: カーレース愛好家であり、インディ・ライツ (Indy Lights) などに参戦した経歴を持つ。実業家としてもタトゥーショップや飲食店を展開。ラズルの死亡事故や娘の病死など、私生活では多くの悲劇に見舞われている。
トミー・リー (Tommy Lee) - Drums, Piano, Backing Vocals (1981-1999, 2004-現在)
バンドのエンジン。パワフルで視覚的に派手なドラミングで知られる。
- プレイスタイル: ヒップホップやファンクの影響を受けたグルーヴィーなビートが得意。ライブでは、ドラムセットごと回転する「ドラム・ローラーコースター (The Drum Rollercoaster)」や、客席上空を移動する「クルーシフライ (Crüecifly)」など、常識外れのギミックで観客を驚かせる。
- 人物: パメラ・アンダーソン (Pamela Anderson) との結婚や流出したプライベートビデオなど、ゴシップ欄の常連。電子音楽への傾倒も強く、ソロ活動ではDJとしても活動。
ジョン5 (John 5) - Guitars (2023-現在)
ミック・マーズの後任として加入した「ギター・ヴァーチュオーゾ(名手)」。
- プレイスタイル: カントリー・ミュージックのフィンガーピッキング技術(チキン・ピッキング)をメタルに応用した超絶技巧を持つ。フェンダー・テレキャスター (Fender Telecaster)を愛用。
- 人物: 酒もタバコもやらないクリーンな生活を送っており、他のメンバー(特に過去の)とは対照的。ニッキーとは「Sixx:A.M Circa」の楽曲制作などで長年の信頼関係がある。
旧メンバー (Former Members)
ミック・マーズ (Mick Mars) - Guitars, Backing Vocals (1981-2023)
バンドのサウンドの要。彼のリフこそがモトリー・クルーの音であると言われる。
- プレイスタイル: ブルースを基調としたヘヴィで粘りのあるトーン。スライドギターやトーク・ボックス (Talk box) の使用も特徴的。派手な速弾きよりも、楽曲の雰囲気を決定づけるリフ作りを重視する。
- 人物: 10代から強直性脊椎炎を患い、背骨が固まる激痛と闘いながらステージに立ち続けた。寡黙でミステリアスなキャラクターで知られる。「エイリアン」という愛称を持つ。
ジョン・コラビ (John Corabi) - Lead Vocals, Rhythm Guitar (1992-1996)
ヴィンス脱退期の救世主であり、悲運のフロントマン。
- 貢献: 彼の加入により、バンドはより音楽的に複雑なアレンジやヘヴィなリフを取り入れることができた。作詞作曲能力も高く、『Mötley Crüe』アルバムの質を高めたが、ファンの保守的な反応に阻まれた。
ランディ・カスティロ (Randy Castillo) - Drums (1999-2002)
トミー脱退後に加入。オジー・オズボーン・バンドでの実績を買われたが、病魔により短い在籍期間となった。
サマンサ・マロニー (Samantha Maloney) - Drums (2000-2002 ツアーメンバー)
『New Tattoo』ツアーでドラムを担当。女性ドラマーとしてパワフルな演奏を見せ、バンドの窮地を救った。
10. 日本との関係 (Relationship with Japan)
モトリー・クルーは日本市場において極めて高い人気を誇り、80年代のバンドブームやヴィジュアル系バンドの形成にも多大な影響を与えた。以下に主な来日公演の歴史を詳述する。
- 1985年 - Theatre of Pain Tour: 初来日公演。7月7日から中野サンプラザ等で4公演を行った。セットリストには「Live Wire」などの初期の楽曲に加え、ビートルズやエルヴィス・プレスリー (Elvis Presley) のカバーも含まれていた。日本のファンにとっては、MOTLEY CRUEの「危険な」イメージを直接目撃した最初の機会となった。
- 1987年 - Girls, Girls, Girls Tour: 12月に来日。日本武道館(Budokan) での公演を含む大規模なツアーとなった。ドラムセットが回転するギミックが初めて日本で披露され、度肝を抜いた。
- 1990年 - Dr. Feelgood Tour: 5月に来日。横浜アリーナ、日本武道館、大阪城ホールなどで公演。バンドの演奏、演出ともにピークの状態であり、伝説的なライブとして語り継がれている。
- 1994年 - Anywhere There's Electricity Tour: ジョン・コラビ在籍時の来日。10月に公演が行われた。会場規模は縮小したが、コラビを含むバンドの結束は固く、演奏のクオリティは非常に高かったと評価されている。
- 1997年 - Generation Swine Tour: 8月、有明レインボータウンで開催された「Rock Around the Bay '97」フェスティバルに出演。ヴィンス・ニール復帰後初の日本公演となり、ファンを熱狂させた。
- 2015年 - The Final Tour: 2月、神戸ワールド記念ホール、日本ガイシホール (名古屋)、東京ドーム (さいたまスーパーアリーナとの情報もあるが、最終ツアーの一環として大規模会場を使用)、福岡国際センターなどで公演。トミーのドラムコースター「Crüecifly」が持ち込まれ、感動的なフィナーレを飾った。
- 2023年 - The World Tour: 契約破棄後の再来日。デフ・レパードとの共同ヘッドライナーとして、11月3日・4日にKアリーナ横浜 (K-Arena Yokohama)で公演。ミック・マーズ不在、ジョン5加入後初の日本公演であったが、往年のヒット曲の連発で健在ぶりをアピールした。
11. Conclusion
モトリー・クルーの物語は、ロックンロールそのものである。MOTLEY CRUEは成功の頂点と絶望の底の両方を経験し、幾度もの解散の危機やメンバーの死、法的な争いを乗り越えてきた。ミック・マーズとの訴訟問題は、バンドの晩節に暗い影を落としているが、それでもMOTLEY CRUEは止まることなく、ラスベガスでのレジデンシーや2026年の大規模ツアーへと突き進んでいる。
MOTLEY CRUEの音楽と生き様は、今なお多くのファンを惹きつけてやまない。モトリー・クルーは、現在進行形の「悪名高き (Notorious)」ロック・アイコンとして君臨し続けているのである。