LED ZEPPELIN
LED ZEPPELINの詳しいBiographyと全作品のディスコグラフィ。アルバムごとの個別ページも掲載するMETAL BOOSTのアーティストページ。
Biography
レッド・ツェッペリン (LED ZEPPELIN)
伝記的軌跡と音楽的遺産の全貌
1. Introduction
レッド・ツェッペリン (LED ZEPPELIN)は、1968年にイギリス (United Kingdom) のロンドン (London) で結成されたロックバンドであり、現代のポピュラー音楽、とりわけハードロック (Hard Rock) とヘヴィメタル (Heavy Metal) の形成において決定的な役割を果たした文化的アイコンである。ジミー・ペイジ (Jimmy Page)、ロバート・プラント (Robert Plant)、ジョン・ポール・ジョーンズ (John Paul Jones)、ジョン・ボーナム (John Bonham) という4人の卓越したミュージシャンによって構成されたこのグループは、ブルース (Blues)、フォーク (Folk)、サイケデリア (Psychedelia)、そしてケルト (Celtic) やアラブ (Arabic) の音楽的要素を、極めて大音量かつ重厚なエレクトリック・サウンドと融合させることで、ロックミュージックの構造的定義を根本から書き換えた。
LED ZEPPELINの影響力は音楽性のみならず、ビジネスモデルにおいても革命的であった。「アルバム志向のロック (Album-Oriented Rock)」の確立、スタジアム級の巨大会場でのコンサートツアー、そしてマネージャーであるピーター・グラント (Peter Grant) が主導したアーティスト主権の契約形態は、今日の音楽産業の基礎を築いたと言っても過言ではない。
2. バイオグラフィー (Biography)
2.1 黎明期:ヤードバーズの終焉とニュー・ヤードバーズ (The Yardbirds & The New Yardbirds)
レッド・ツェッペリンの物語は、1960年代半ばのブリティッシュ・ブルース・ロックの中核であったザ・ヤードバーズ (The Yardbirds) の崩壊から始まる。当時、ロンドンのセッション・ギタリストとして名を馳せていたジミー・ペイジ (Jimmy Page)は、1966年にベーシストとしてヤードバーズに加入し、後にジェフ・ベック (Jeff Beck) とのツイン・ギター体制を経て、唯一のギタリストとなっていた。
1968年7月、ラトン・テクニカル・カレッジ (Luton Technical College) でのライブを最後に、ボーカルのキース・レルフ (Keith Relf) とドラムのジム・マッカーティ (Jim McCarty) が脱退し、ヤードバーズは事実上解散した。しかし、バンドにはスカンディナヴィア (Scandinavia)でのツアー契約が残されていた。ペイジとマネージャーのピーター・グラントは、この契約を履行するため、そしてペイジ自身が構想していた「よりヘヴィでダイナミックな音楽」を実現するために、新メンバーの招集に着手した。
メンバーの選定プロセス
- ボーカリスト: ペイジの第一候補はテリー・リード (Terry Reid)であったが、リードは自身のソロ契約があったためこれを辞退し、代わりにバーミンガム (Birmingham) のバンド「ホブストウィードル (Hobbstweedle)」で歌っていたロバート・プラント (Robert Plant) を推薦した。ペイジはバーミンガムの師範学校へプラントのライブを見に行き、その圧倒的な声量とカリスマ性に感銘を受け、彼をロンドンの自宅(テムズ川のボートハウス)に招いた。
- ドラマー: プラントの加入が決まると、彼はかつて「バンド・オブ・ジョイ (Band of Joy)」で共に活動していたドラマー、ジョン・ボーナム (John Bonham) を推薦した。当時、ボーナムは他の著名なアーティストからもオファーを受けていたが、プラントとグラントの度重なる説得により加入を決意した。
- ベーシスト/キーボーディスト: ジョン・ポール・ジョーンズ (John Paul Jones) は、ペイジとはセッション・ミュージシャン時代からの旧知の仲であり、ドノヴァン (Donovan) の『ハーディー・ガーディー・マン (Hurdy Gurdy Man)』 のセッションなどで共演していた。ジョーンズは妻を通じてペイジに連絡を取り、新バンドへの参加を希望した。
1968年8月、ロンドンのジェラード・ストリート (Gerrard Street) にあるリハーサル・ルームで4人は初めて音を合わせた。最初に演奏された曲は「トレイン・ケプト・ア・ローリン (Train Kept A-Rollin')」 であったとされ、その瞬間、彼らは互いの間に生まれた強烈な化学反応を確信したといわれる。
1968年9月7日、彼らは「ニュー・ヤードバーズ (The New Yardbirds)」 としてデンマーク (Denmark) のグラッドサクセ (Gladsaxe) にあるティーン・クラブ (Teen Club) で初のライブを行った。このスカンディナヴィア・ツアーを通じて、バンドのアレンジと結束は急速に固まっていった。
2.2 伝説の始まり: レッド・ツェッペリンの誕生 (The Birth of LED ZEPPELIN)
ツアー終了後、彼らはバンド名を変更する必要に迫られた。「レッド・ツェッペリン (LED ZEPPELIN)」という名称の由来には有名な逸話がある。ザ・フー (The Who) のドラマー、キース・ムーン (Keith Moon) とベーシスト、ジョン・エントウィッスル (John Entwistle)が、ペイジのスーパーグループ構想について「鉛の風船 (Lead Balloon) のように墜落するだろう」と冗談を言ったことに起因する。ペイジはこの言葉を気に入り、発音の誤読を避ける為「Led」に変更し、さらに「Balloon」をより巨大で荘厳なイメージを持つ 「Zeppelin (飛行船)」に置き換えた。
1968年10月、バンドはロンドンのオリンピック・スタジオ (Olympic Studios) に入り、デビューアルバム『レッド・ツェッペリンI (LED ZEPPELIN)』を録音した。レコーディングとミキシングに要した時間はわずか36時間であり、費用はペイジとグラントが自費で負担した(約1,782ポンド)。完成したテープを手に、グラントはアトランティック・レコード (Atlantic Records) と交渉を行い、新人バンドとしては異例の20万ドル(諸説あり) という契約金と、完全な芸術的自由(アートワーク、リリースのタイミング、プレス活動の拒否権など)を勝ち取った。
2.3 初期の爆発的成功(1969-1970)
1969年1月にリリースされたデビューアルバムは、アメリカでのツアーと連動してチャートを上昇した。続く『レッド・ツェッペリン II (LED ZEPPELIN II)』は、過酷なツアーの合間を縫って様々なスタジオで断片的に録音されたにもかかわらず、バンドのエネルギーが凝縮された傑作となった。「胸いっぱいの愛を (Whole Lotta Love)」のヒットにより、アルバムはビートルズ (The Beatles) の 『アビイ・ロード (Abbey Road)』を蹴落として全米1位を獲得した。
『レッド・ツェッペリン III (LED ZEPPELIN III)』では、音楽的な転換が見られた。過密なスケジュールに疲弊したペイジとプラントは、ウェールズ (Wales) のスノードニア (Snowdonia) にある電気も水道もないコテージ「ブロン・イ・アー (Bron-Yr-Aur)」に隠遁し、アコースティック・ギターを中心とした曲作りに没頭した。この経験から生まれたフォークやケルト音楽の影響色濃い楽曲群は、当初「ハードロックを期待していた」 批評家やファンを戸惑わせたが、バンドの音楽的深みを証明する重要なステップとなった。
2.4 絶頂期: IVと聖なる館 (1971-1973)
1971年に発表された4作目のアルバム (通称『レッド・ツェッペリン IV (LED ZEPPELIN IV)』)において、LED ZEPPELINの音楽性は完成の域に達した。
ヘッドリィ・グランジでの実験
このアルバムのレコーディングの多くは、ハンプシャー (Hampshire) の元救貧院「ヘッドリィ・グランジ (Headley Grange)」で行われた。LED ZEPPELINはローリング・ストーンズ・モバイル・スタジオ (Rolling Stones Mobile Studio) を持ち込み、建物の独特な音響効果を利用した。「レヴィー・ブレイク (When the Levee Breaks)」では、ジョン・ボーナムのドラムセットを吹き抜けの玄関ホールに設置し、2階の踊り場にマイクを吊るすことで、極めて重厚で自然なリバーブ(残響) を含んだドラムサウンドを録音した。
フォー・シンボルズ (The Four Symbols)
『IV』のジャケットにはバンド名もタイトルも一切記載されず、代わりに4つのシンボルマーク(ルーン文字風の記号)のみが記された。
- ジミー・ペイジ (Zoso): 意味は公式に明かされていないが、土星や魔術的な意味を持つとされる。
- ジョン・ポール・ジョーンズ: 三位一体や信頼を表す円と三つの楕円。
- ジョン・ボーナム: 三つの円が交差するマーク(三位一体、あるいはビール会社のロゴの逆さまであるとも言われる)。
- ロバート・プラント: マアト(真実)の羽を円で囲んだもの。
「天国への階段 (Stairway to Heaven)」 を含むこのアルバムは、商業的にも批評的にも大成功を収め、バンドを不動の地位へと押し上げた。
1973年の『聖なる館 (Houses of the Holy)』では、さらに音楽的実験が進み、レゲエを取り入れた「ディジャ・メイク・ハー (D'yer Mak'er)」や、ファンク色の強い 「クランジ (The Crunge)」などが収録された。この時期の北米ツアーでは、専用ジェット機 「スターシップ (The Starship)」を使用し、興行収益の記録を次々と塗り替えた。
2.5 日本公演の衝撃 (1971 & 1972 Japan Tours)
レッド・ツェッペリンはキャリアの中で2度来日している。特に1971年9月の初来日公演は、日本のロック史における一大事件であった。
- 1971年: 東京 (Tokyo) の日本武道館(Budokan) 2公演、広島(Hiroshima)、大阪(Osaka) 2公演の計5回。
- 広島公演: 平和記念公園を訪問した後に行われたチャリティーコンサートであり、収益は被爆者援護のために寄付された。メンバーは広島市から感謝状とメダルを授与された。
- 大阪公演: 伝説的な「フェスティバルホール (Festival Hall)」での公演では、3時間を超える熱演が繰り広げられた。当時のブートレッグ (海賊盤)は、現在でも高値で取引されている。
- 1972年: 東京、大阪、名古屋(Nagoya)、京都 (Kyoto) などで公演。プラントの声の調子が完全ではなかったものの、演奏の成熟度は増していた。
2.6 スワン・ソングとフィジカル・グラフィティ (1974-1975)
1974年、バンドは自身のレコードレーベル「スワン・ソング (Swan Song)」を設立した。レーベルのロゴには、ウィリアム・リマー (William Rimmer) の絵画 『夕暮れ (Evening: Fall of Day)』に描かれたアポロン (あるいはイカロス)が採用された。
1975年にリリースされた『フィジカル・グラフィティ (Physical Graffiti)』は、LP2枚組の大作であり、新録音と過去のアウトテイク (『III』 『IV』 『聖なる館』 セッションからの未発表曲)が混在していたが、アルバムとしての統一感と質の高さは圧倒的であった。「カシミール (Kashmir)」や「トランプルド・アンダー・フット (Trampled Under Foot)」など、バンドの代表曲が含まれており、商業的にも英米両国で1位を獲得した。
2.7 困難の時代と後期 (1975-1979)
1975年8月、ロバート・プラントがギリシャ (Greece) のロードス島 (Rhodes) で休暇中に自動車事故に遭い、足首を複雑骨折する重傷を負った。このため予定されていたツアーはキャンセルされ、バンドは活動休止を余儀なくされた。
この療養期間中に制作されたのが、1976年の『プレゼンス (Presence)』である。プラントは車椅子に座ってボーカルを録音した。このアルバムはキーボードの使用を極力排除し、ジミー・ペイジのギター・オーケストレーションが前面に出たハードな作品となった。ジャケットにはヒプノシス (Hipgnosis) によるデザインで、謎の黒い物体「オービック (The Object)」が描かれている。
1977年、バンドは大規模な全米ツアーを再開したが、オークランド (Oakland) でのバックステージでの暴力事件や、ツアー中にプラントの5歳の息子カラック (Karac) がウイルス性急性胃腸炎で急死するという悲劇に見舞われ、ツアーは中断された。
深い悲しみに包まれたプラントは引退も考えたが、1978年に再始動を決意。税金対策のためにイギリスを離れ、スウェーデン (Sweden) のストックホルム (Stockholm) にあるABBAのポーラー・スタジオ (Polar Studios)で『イン・スルー・ジ・アウト・ドア (In Through the Out Door)』を録音した。この時期、ペイジとボーナムの状態が不安定であったため、ジョン・ポール・ジョーンズが主導権を握り、シンセサイザーを多用した新しいサウンドが生まれた。
1979年8月、ネブワース・フェスティバル (Knebworth Festival) での2日間の公演により、LED ZEPPELINはステージへの復帰を果たした。
2.8 終焉: ジョン・ボーナムの死と解散 (The Death of John Bonham & Disbandment)
1980年、バンドは「Over Europe」 と題された小規模なヨーロッパ・ツアーを行い、原点回帰を目指して装飾を削ぎ落としたステージを展開した。次いで秋には北米ツアーが計画されていた。
しかし、リハーサル期間中の1980年9月24日、ジョン・ボーナムは朝から大量のウォッカ (Vodka)を摂取し続けていた。ウィンザー (Windsor) にあるジミー・ペイジの旧邸宅でリハーサルを行った後、泥酔して就寝したが、翌9月25日の午後、アシスタントによってベッドで死亡しているのが発見された。死因は嘔吐物の誤嚥による窒息死であった。享年32歳。
偉大なドラマーであり、バンドの不可欠なエンジンであったボーナムを失い、残された3人とマネージャーのピーター・グラントは、バンドの解散を決断した。1980年12月4日、以下の声明が世界に向けて発表された。
「私たちの親愛なる友を失ったこと、そして彼の家族に対する深い尊敬、私たち自身とマネージャーが感じている分かち難い調和の念から、私たちはこれ以上(バンドとして) 以前のように続けていくことはできないと決断しました。」
("We wish it to be known, that the loss of our dear friend and the deep respect we have for his family, together with the deep sense of undivided harmony felt by ourselves and our manager, have led us to decide that we could not continue as we were.")
2.9 解散後の活動と再結成 (Post-Zeppelin Era)
解散後、メンバーはそれぞれのソロ活動へと進んだ。
- ロバート・プラント: ソロアーティストとして成功し、ハニードリッパーズ (The Honeydrippers)などでも活動。
- ジミー・ペイジ: ザ・ファーム (The Firm) やカヴァーデイル・ペイジ (Coverdale-Page) などを結成。
- ジョン・ポール・ジョーンズ: プロデューサー、アレンジャーとして多方面で活躍。
再結成は数回行われたが、いずれも単発的なイベントであった。
- 1985年 ライヴ・エイド (Live Aid): フィル・コリンズ (Phil Collins) とトニー・トンプソン (Tony Thompson) をドラマーに迎えたが、リハーサル不足などで不本意な出来に終わった。
- 1988年 アトランティック・レコード40周年: ジェイソン・ボーナム (Jason Bonham) が父の代わりを務めた。
- 1994年 ペイジ・プラント (Page and Plant): 『ノー・クォーター (No Quarter)』プロジェクトで再タッグを組み、ワールドツアーを行った (ジョーンズは不参加)。
- 2007年 アーメット・アーティガン追悼コンサート (Celebration Day): ロンドン (London) のO2アリーナ (O2 Arena)で行われた、フルセットでの本格的な再結成ライブ。ジェイソン・ボーナムがドラムを務め、全盛期を彷彿とさせる完璧な演奏を披露した。この公演は後に映画『祭典の日 (Celebration Day)』として公開された。
3. ディスコグラフィー (Discography)
以下にレッド・ツェッペリンの主要な公式作品を詳述する。日本盤独自の邦題や仕様についても特記する。
3.1 スタジオ・アルバム (Studio Albums)
| 発売年 | 原題 | 日本盤タイトル (Japanese Title) | 詳細・備考 |
|---|---|---|---|
| 1969 | LED ZEPPELIN | レッド・ツェッペリン |
概要: デビュー作。録音時間は約36時間。ヒンデンブルク号の爆発写真がジャケット。 主要曲: Good Times Bad Times, Dazed and Confused (幻惑されて), Communication Breakdown 日本盤: 当初は日本グラモフォンより発売。帯には「驚異のニュー・ロック・サウンド!」等のコピー。 |
| 1969 | LED ZEPPELIN II | レッド・ツェッペリン II |
概要: ツアー中に録音されたハードロックの金字塔。英米1位。 主要曲: Whole Lotta Love (胸いっぱいの愛を)、Heartbreaker, Ramble On 日本盤: 帯コピーは「ロックの王者! レッド・ツェッペリン」。 |
| 1970 | LED ZEPPELIN III | レッド・ツェッペリン III |
概要: アコースティック・サイドを強調。ジャケットに回転するホイールの仕掛け。 主要曲: Immigrant Song (移民の歌), Since I've Been Loving You (貴方を愛しつづけて) 日本盤: 日本盤でもホイール・ジャケットを忠実に再現。 |
| 1971 | (Untitled) / LED ZEPPELIN IV | レッド・ツェッペリン IV |
概要: 通称『IV』 『フォー・シンボルズ』。ロック史上屈指のベストセラー。 主要曲: Black Dog, Rock and Roll, Stairway to Heaven (天国への階段), When the Levee Breaks (レヴィー・ブレイク) 日本盤: 帯には「天国への階段」の文字が強調されることが多い。 |
| 1973 | Houses of the Holy | 聖なる館 |
概要: 音楽的多様性が爆発。ヒプノシスによるジャケット。 主要曲: The Song Remains the Same (永遠の詩), The Rain Song, No Quarter 日本盤: 邦題『聖なる館』が定着。内袋の歌詞カード帯(通称: 赤帯/オレンジ帯) が付属した時期もある。 |
| 1975 | Physical Graffiti | フィジカル・グラフィティ |
概要: 2枚組。窓がくり抜かれたジャケット。 主要曲: Kashmir, Trampled Under Foot, Ten Years Gone 日本盤: ジャケットのギミック (インナースリーブの出し入れで窓の絵が変わる)も再現。 |
| 1976 | Presence | プレゼンス |
概要: プラントの怪我によりツアーができない状況で制作。「オービック」がジャケットに登場。 主要曲: Achilles Last Stand (アキレス・最後の戦い), Nobody's Fault But Mine (俺の罪) 日本盤: ジャケットの「オービック」は日本でも話題に。 |
| 1979 | In Through the Out Door | イン・スルー・ジ・アウト・ドア |
概要: シンセサイザー主体のサウンド。ジャケットは6種類あり、茶色の紙袋に入って販売された。 主要曲: In the Evening, All My Love, Fool in the Rain 日本盤: 水で濡らすと色が変わるインナースリーブも再現された。 |
| 1982 | Coda | コーダ (最終楽章) |
概要: 解散後に発表された未発表曲集。初期から後期までのアウトテイクを収録。 主要曲: We're Gonna Groove, Bonzo's Montreux (モントルーのボンゾ) 日本盤: 邦題には『最終楽章』の副題が付く。 |
3.2 ライブ・アルバム (Live Albums)
| 発売年 | 原題 | 日本盤タイトル | 詳細 |
|---|---|---|---|
| 1976 | The Song Remains the Same | 永遠の詩 (狂熱のライヴ) | 1973年MSG公演のサウンドトラック。2007年/2018年にリマスター完全版が発売。映画の邦題は『狂熱のライヴ』だがアルバムは『永遠の詩』とされることが多い。 |
| 1997 | BBC Sessions | BBCライヴ | 1969-1971年のBBC録音集。2016年に『ザ・コンプリート・BBC・ライヴ (The Complete BBC Sessions)』として拡大再発。 |
| 2003 | How the West Was Won | 伝説のライヴ - HOW THE WEST WAS WON - | 1972年のLAおよびロングビーチ公演を収録。バンドの演奏の頂点を記録したとされる。 |
| 2012 | Celebration Day | 祭典の日 (奇跡のライヴ) | 2007年の再結成コンサートの記録。CD/DVD/Blu-rayで発売。 |
3.3 コンピレーション・アルバム (Compilations)
- LED ZEPPELIN Boxed Set (1990): ジミー・ペイジ監修による初のリマスター・ボックス。
- LED ZEPPELIN Remasters (1990)
・日本盤タイトル: レッド・ツェッペリン・リマスターズ
・解説: 日本で爆発的に売れたベスト盤。徳用盤として長らく親しまれた。 - Mothership (2007)
・日本盤タイトル: マザーシップ〜レッド・ツェッペリン・ベスト
・解説: 最新リマスター音源を使用したオールタイム・ベスト。
4. メンバーと役割 (Members and Roles)
ジミー・ペイジ (Jimmy Page)
- 役割: ギター、テルミン (Theremin)、プロダクション (Production)
- 詳細: バンドの創設者であり、音楽的リーダー。すべてのアルバムのプロデューサーを務めた。「リフ・マスター」としての作曲能力に加え、スタジオにおける多重録音の魔術師としても知られる。使用機材としては、ギブソン・レスポール・スタンダード (Gibson Les Paul Standard) No.1 & No.2、ギブソン・EDS-1275 (ダブルネック・ギター)、スプロ (Supro) アンプなどが有名。
ロバート・プラント (Robert Plant)
- 役割: ボーカル、ハーモニカ (Harmonica)
- 詳細: ロック・ボーカリストの理想像を体現したフロントマン。初期のブルース・スタイルから、中近東や北アフリカ音楽への傾倒まで、幅広い表現力を持つ。歌詞の面では、北欧神話、『指輪物語 (The Lord of the Rings)』、ウェールズの歴史などからインスピレーションを受け、神秘的な世界観を構築した。
ジョン・ポール・ジョーンズ (John Paul Jones)
- 役割: ベース、キーボード、マンドリン (Mandolin)、リコーダー
- 詳細: 音楽的な屋台骨を支えたマルチプレイヤー。クラシックやジャズの素養があり、複雑なアレンジを可能にした。「天国への階段」のリコーダー・アンサンブルや、「ノー・クォーター」のエレクトリック・ピアノ、「カシミール」のオーケストラ・アレンジなどは彼の貢献によるものである。ライブではベース・ペダル (Bass Pedals) を駆使し、キーボードを弾きながらベースラインを維持した。
ジョン・ボーナム (John Bonham)
- 役割: ドラム、パーカッション
- 詳細: 通称「ボンゾ (Bonzo)」。そのパワフルかつグルーヴィーなドラミングは、レッド・ツェッペリンのサウンドの心臓部であった。ラディック (Ludwig) の大口径ドラムセット(特に26インチのバスドラム)や、パイステ (Paiste) のシンバルを使用。手首のスナップだけで爆音を出す独自の奏法や、驚異的なフットワーク (三連符のキック)は、後のドラマーに計り知れない影響を与えた。
5. 日本におけるレッド・ツェッペリン (LED ZEPPELIN in Japan)
5.1 コンサートツアー
レッド・ツェッペリンと日本の関係は深く、特に1971年の初来日は社会的現象となった。
- 1971年1月 初来日ツアー
・日程: 9月23日・24日(武道館)、27日(広島県立体育館)、28日・29日(大阪フェスティバルホール)。
・広島公演: メンバーの強い希望により実現したチャリティー・コンサート。被爆地への敬意を表し、売上金約700万円が広島市に寄付された。コンサート前には平和記念公園を訪れ、献花を行った。
・伝説のフェスティバルホール: 特に9月29日の大阪公演は、約3時間に及ぶマラソン・コンサートとなり、音響の良さも相まって、ファンの間で「929」として神格化されている。この公演では、当時未発表だった「フレンズ (Friends)」 なども演奏された。 - 1972年10月 2度目の来日ツアー
・日程: 10月2日・3日(武道館)、4日(大阪)、5日(名古屋)、9日(京都)、10日(京都)。
・特徴: ロバート・プラントの声の不調が見られたものの、バンド・アンサンブルはより緻密になっていた。このツアーでは、日本独自シングルとして発売されていた「移民の歌」のB面曲 「ヘイ・ヘイ・ホワット・キャン・アイ・ドゥ (Hey, Hey, What Can I Do)」 についてのMCなどが記録されている。
5.2 日本盤独自の文化
日本のレコード市場では、独自のマーケティングが行われた。
- 帯 (Obi): 日本盤LP/CD最大の特徴。キャッチコピー (例:「ロックの王者」「天国への階段」)や価格が記載された紙の帯は、海外コレクターにとって希少価値が高いアイテムとなっている。
- シングル盤: アルバム主義のバンドであったため、英米ではシングル・カットされなかった楽曲も、日本では独自にシングル化された(例:「移民の歌」など)。
- 邦題: 原題のカタカナ表記だけでなく、『聖なる館』『永遠の詩』『最終楽章』のような文学的な邦題が採用され、作品のイメージ形成に寄与した。
6. マネージメントの革命 (The Managerial Revolution)
レッド・ツェッペリンの成功の裏には、マネージャーであるピーター・グラント (Peter Grant) の存在が欠かせない。元プロレスラーという巨漢のグラントは、その威圧的な容貌と並外れたビジネスセンスで、音楽業界の慣習を打破した。
- 90/10スプリット: 当時、コンサートの収益配分はプロモーターとアーティストで「60/40」あるいは「50/50」が一般的であったが、グラントはレッド・ツェッペリンの圧倒的な動員力を背景に、プロモーターに対し 「収益の90%をバンドに渡す(経費はプロモーター持ち)」 という前代未聞の条件を飲ませた。これにより、バンドは莫大な富を得ることになった。
- 海賊盤対策: グラントは海賊盤 (ブートレッグ)の販売を徹底的に嫌い、レコード店に自ら乗り込んで商品を破壊したり、会場での録音機没収を指揮したりした武勇伝が残っている。
7. Conclusion
レッド・ツェッペリンは、ジョン・ボーナムの死という悲劇的な結末によって活動を終えたが、その音楽的遺産は歳月を経るごとに輝きを増している。LED ZEPPELINは既存のブルースやフォークを解体・再構築し、ハードロックというジャンルを芸術の域まで高めた。日本においても、LED ZEPPELINの作品は世代を超えて愛聴され続けており、帯付きのアナログ盤から最新のハイレゾ音源に至るまで、その需要は絶えることがない。ジミー・ペイジによる近年のリマスター・プロジェクト (デラックス・エディションの発売など)は、LED ZEPPELINの音楽がいまだに発見と再評価の対象であることを証明している。レッド・ツェッペリンは、まさに「永遠の詩 (The Song Remains the Same)」として、ロックの歴史にその名を刻み続けているのである。
News
LED ZEPPELIN、1970年バース・フェスティバルの映像85分がオンラインに
1970年6月の公演のために撮影されながら、長く未公開だった映像。