VANDENBERG TRIVIA

Trivia

日本はこのバンドが早くから強く支持された土地である。ワーナーミュージック・ジャパンのプロフィールは、第2作がアメリカでは厳しい評を受けた一方、日本ではシングル「Friday Night」がヒットして幅広い聴き手を得、来日公演の実現につながったと記している。ヴァンデンバーグ本人も Classic Rock 誌に、第2作は国によっては1作目より売れ、日本では「Different Worlds」が大きなヒットになったと語っている。アメリカではオジー・オズボーンやKISSの前座だったバンドが、日本では自ら主役として公演を打てるだけの人気を得ていた。

出典: ワーナーミュージック・ジャパン 公式アーティスト・プロフィール

アルバムのジャケットを描いているのは、ギターを弾いている本人である。ワーナーミュージック・ジャパンのプロフィールは、バンドのロゴと第2作・第3作のジャケットをヴァンデンバーグ自身がデザインし、現在は画家として活動していると記している。Metal Rules は1980年代の3作すべてのカヴァー・アートを彼が手がけたとしており、公式サイトも、彼の作風が絵画とアルバム・ジャケットの双方に見て取れる、その多くは自らデザインしたものだと書いている。『Heading for a Storm』の、砂漠のハイウェイの上を飛ぶサメは、その代表例である。

出典: ワーナーミュージック・ジャパン 公式アーティスト・プロフィール

公式サイトのバンド史が「おまけの事実」として書き添えているのは、1995年にポール・ロジャースから招かれ、再録音版の「Fire and Water」でソロを弾いたことである。ロジャースはヴァンデンバーグが自分の一番好きな歌い手として名を挙げる相手で、本人はこれを、カヴァデールへの加入と満員のウェンブリー・スタジアムと並ぶキャリアの頂点の一つに数えている。

出典: Vandenberg 公式サイト Band History

2027年4月30日には、ティルブルフの013で一夜限りの公演。公式サイトの告知によれば、これはエイドリアン・ヴァンデンバーグがロック・ギタリストとして50年を迎えることを記念する、キャリアを横断する一回だけの公演で、ヴァンデンバーグ、ホワイトスネイク、マニック・エデン、ヴァンデンバーグズ・ムーンキングスの各時代の曲が演奏される。ゲストの名は後日発表とされている。本人はそこで「50年前に、半世紀後もまだ世界中のステージに立って髪を背中まで伸ばしたまま大音量のロックンロールを演っていると言われたら、たぶん少しのあいだ頭を掻いていただろう」と述べている。

出典: Vandenberg 公式サイト 50周年公演の告知

アトランティックとの契約は、客席にただ一人しか座っていないステージから始まった。デモに反応したのは、レッド・ツェッペリンやAC/DCを手がけた重役フィル・カーソンだった。ヴァンデンバーグは、カーソンが実演を見たいと言ってきたときバンドには公演の予定が一つも無く、そこで地元の劇場を借りてカーソンのためだけに演奏したと語っている。ホールにいたのは彼一人で、契約はその場で決まった。

出典: MyGlobalMind インタビュー

1982年、ヴァンデンバーグはシン・リジィから加入を打診されている。本人は Classic Rock 誌に、美術の学業を終えたかったので断ったと語り、その席にはジョン・サイクスが座ったと述べている。同じ記事で彼は、バンドの周囲で薬物の使用が激しかったことも断った理由の一つだったと付け加えている。

出典: Classic Rock(Louder)インタビュー

ホワイトスネイクが全米1位を獲った「Here I Go Again」のギターは、ヴァンデンバーグが買ったばかりの安物で弾かれている。BraveWords が伝える本人の回想によれば、1987年のアルバムのギターは1曲を除いてジョン・サイクスの演奏で、その1曲だけがヴァンデンバーグだった。ゲフィン側がそれまでのアレンジを「メタル・カントリー・ウェスタンのようだ」と評したため、彼が組み直したのである。使ったのは買ったばかりの安価な日本製ストラトキャスターのコピー・モデルで、その曲が1位まで昇っていくのを見るのは奇妙な経験だったと彼は語っている。録り直しの作業中、コントロール・ルームではサイクスとカヴァデールが解雇をめぐって言い争っていたという。

出典: BraveWords

バンド名をめぐる争いがあった。ヴァンデンバーグが Classic Rock 誌と、のちに The Metal Voice のインタビューで語ったところでは、1980年代の元メンバーたちがバンド名の権利を主張して訴えを起こした。争われていたのは彼自身の姓である。彼は相手を友人だと思っていたこと、相手が25年以上音楽的な活動をしていなかったこと、それが悲しくもきまりが悪くもあったと述べ、相手は6件の訴訟に全て敗れ、もう終わったことだとしている。

出典: Classic Rock(Louder)インタビュー

1980年代の3作には、それぞれ日本独自の邦題が付けられた。ワーナーミュージック・ジャパンのディスコグラフィは、デビュー作を『ネザーランドの神話』、第2作を『誘惑の炎』、第3作を『アリバイ』として掲載している。『誘惑の炎』は原題「Heading for a Storm」の直訳ではなく、当時の日本の担当者が作品の内容から付け直した名である。同社は2008年11月12日に3作すべてを紙ジャケット仕様で、2011年9月21日には最初の2作を〈ワーナー・ハード・ロック1500〉で再発している。

出典: ワーナーミュージック・ジャパン 公式ディスコグラフィ

2021年に英HNE/チェリー・レッドが編んだボックス『The Complete ATCO Recordings 1982-2004』のライヴ・ディスクには、日本公演の録音が入っている。amass が伝える収録内容によれば、「Friday Night」と「Welcome To The Club」の2曲が日本で録られたものだという。当時の来日公演が音として残り、公式にパッケージされた数少ない例である。

出典: amass

2026年、ヴァンデンバーグは細菌感染症で活動を止めている。公式サイトは、北米ツアーの中止に続いて10月のドイツ公演も医師の強い助言で中止になったと告知した。amass によれば、本人は9月13日にSNSへ投稿した動画で、完全に治り臓器にも体のどこにも損傷は残っていないと述べ、入院した最初の2週間に届いた回復を願う言葉が何よりも支えになったと語っている。同じ動画で彼は、翌月のマルタでの大型フェス、そのあと日本での大型フェス、12月の南米ツアーという予定を挙げている。

出典: amass

バンドの前身は、エイドリアン・ヴァンデンバーグが1976年に22歳で組んだティーザーである。当時の彼はまだ美術学校の学生だった。公式サイトのバンド史によれば、ティーザーのデビュー作はヒルフェルスムに開いたばかりのヴィッセルロード・スタジオで録音され、同スタジオで録られた最初のアルバムになったという。のちにミック・ジャガーやエルトン・ジョン、デフ・レパード、スコーピオンズが使うことになる部屋の、最初の客だったことになる。

出典: Vandenberg 公式サイト Band History

バンド名はギタリストの姓そのものである。公式サイトのバンド史によれば、1979年にティーザーの歌い手ヨス・フェルトハウゼンとの間で音楽的な方向の違いが表面化し、より軽いブルース寄りを望む彼と、より重く野心的な音を求めるヴァンデンバーグは円満に別れた。残ったドラムのヨス・ゾーマーに、歌のバート・ヘーリンクとベースのディルク・ケンパーが加わり、しばらくはティーザー名義のまま活動したが、音楽はすでに別のものになっていた。アトランティックとの契約が決まったとき、バンドはその野心に見合う名前を手にした。

出典: Vandenberg 公式サイト Band History

最初の2枚は、ジミー・ペイジが所有していたソル・スタジオで録音された。公式サイトのバンド史は、デビュー作と『Heading for a Storm』の両方がこの場所で作られたと記している。Metal Rules はデビュー作の制作を、ヴァンデンバーグとエンジニアのスチュアート・エップスが共同で担ったと伝えており、ワーナーミュージック・ジャパンのプロフィールも「ジミー・ペイジのスタジオを使ってセルフ・プロデュースで完成させた」としている。

出典: Vandenberg 公式サイト Band History

公式サイトのエイドリアン紹介ページは、デビュー作から生まれたバラード「Burning Heart」が全米ビルボード Hot 100 で39位に達したと記している。アルバム自体の順位については、Classic Rock 誌のインタビュー記事が全米65位と書いている。オランダのバンドがアメリカのラジオに残した最初の足跡であり、以後この曲はバンドの代名詞であり続けている。

出典: Vandenberg 公式サイト Adrian ページ

35年ぶりの新作となった『2020』で歌ったのは、レインボーのフロントマンを務めたロニー・ロメロだった。マスコット・レーベル・グループの公式バイオグラフィが引くヴァンデンバーグの説明によれば、ヴァンデンバーグという名前をもう一度使うことに意味を持たせるには途方もない歌い手が要ると考え、フェイスブックで連絡を取って加入の意思を尋ねた。ロメロがこちらのファンであり、自分も彼のファンだと分かったので、彼の住むマドリードで顔を合わせ、うまくやれるか確かめたという。

出典: Mascot Label Group 公式バイオグラフィー

初めての本格的なツアーは、イングランドでのマイケル・シェンカー・グループの前座だった。ヴァンデンバーグは Classic Rock 誌に、オランダのバンドにとって国外で演奏すること自体が夢で、音楽誌で読むばかりだった有名な会場を回れたことが信じられなかったと語っている。続いて渡ったアメリカではオジー・オズボーンのスペシャル・ゲストを務めたが、彼はオジーがアメリカでどれほど大きな存在になっていたかを知らなかったといい、毎晩2万から3万の観客を前に演奏することになって驚いたと述べている。

出典: Classic Rock(Louder)インタビュー

第3作『Alibi』の制作は、それまでの2作から担当者が替わっている。Metal Rules によれば、プロデュースを担ったのはゴールデン・イアリングの元ドラマーで、のちにポップスの作り手として知られたヤープ・エッヘルモントだった。同じオランダの、一世代上の音楽家が持ち込んだ視点が、この作品の手ざわりを決めている。

出典: Metal Rules

1980年代のバンドが終わった理由を、ヴァンデンバーグは Classic Rock 誌で二つ挙げている。一つは第3作『Alibi』でついたドイツのA&R担当者で、デュラン・デュランのような音に寄せろと迫り、応じないと分かると手を引いたという。もう一つは歌い手についての彼自身の見立てで、大きなアリーナの観客をつかむ個性がバート・ヘーリンクには無いと感じていたと述べている。頂点は過ぎたと思ったところへ、デイヴィッド・カヴァデールから三度目の誘いが来た、というのが彼の語る順序である。

出典: Classic Rock(Louder)インタビュー

デイヴィッド・カヴァデールからの誘いは一度ではなかった。ヴァンデンバーグは SiriusXM の番組で、1982年から三度声をかけられており、二度目はジミー・ペイジのスタジオで第2作を作っている最中、ドニントンの楽屋でのことだったと語っている。アトランティックと契約したばかりでアルバムの途中でもあり、受けられる状況ではなかった。三度目は1986年で、A&Rのジョン・カロドナーがヴァンデンバーグの新契約という名目で彼をアメリカへ呼び寄せ、そこで「実は二つ提案がある」と切り出した——ロサンゼルスの腕利きを集めて新しいヴァンデンバーグを作るか、ホワイトスネイクに入るか。

出典: Blabbermouth.net

1989年の『Slip of the Tongue』でヴァンデンバーグがギターを弾けなかった原因が分かったのは、それから10年以上あとだった。BraveWords に語ったところでは、1980年代初めに遭った自動車事故でむち打ちになっていたが誰にも告げられず、数週間で痛みが引いたためそれきりだと思っていた。実際には首に二つのヘルニアが残り、右手へ向かう神経を圧迫していた。判明したのは2000年の手術のときで、執刀医はこの状態を、途中で二度折り曲げた庭のホースから水が出なくなるのに喩えたという。

異説あり出典: BraveWords

『Slip of the Tongue』のギターを代わりに録ったスティーヴ・ヴァイは、後年ヴァンデンバーグに詫びたという。Blabbermouth が伝える本人の話では、ヴァイは「あの時期、自分のエゴは少し膨らんでいた」と言い、謝罪めいた言葉を口にした。ヴァンデンバーグは二人の間に対立は無かったとし、自分はメロディを弾く側、ヴァイは当時まだ証明する必要を感じていた側だったと説明している。ヴァイ自身は Guitar World に、自分が加わった時点でトラックはすでに録音済みで、ヴァンデンバーグのガイドのリズム・ギターが入っており、そこからリフをかなり取ったと語っている。

出典: Blabbermouth.net

負傷の前の打鍵は戻らなかった、とヴァンデンバーグは Guitar World に語っている。それでも弾きたい曲があったので、彼は右手の人差し指の爪をピック代わりに使う別の奏法を編み出した。爪が厚く鋭いので Amazon の段ボール箱も開けられる、と笑いながら述べたうえで、いま自分の音と呼ばれているものは、あの手首の負傷のあとに新しい弾き方を見つけたことから来ているのだと説明している。

出典: Guitar World インタビュー

1990年代半ばのマニック・エデンは、空き時間から生まれたバンドだった。ヴァンデンバーグの説明では、デイヴィッド・カヴァデールがジミー・ペイジとのアルバム制作へ向かい、誰もがそれに数年はかかると見ていた。ところが二人が一緒に演奏したのは日本での1週間だけだった。その間に彼はルディ・サーゾ、トミー・アルドリッジ、リトル・シーザーの歌い手ロン・ヤングとマニック・エデンを組み、1994年に1枚を残している。いまも誇りに思っている作品だと彼は述べている。

出典: Classic Rock(Louder)インタビュー

ホワイトスネイクの活動が止まったあと、ヴァンデンバーグは音楽から15年ほど離れている。Classic Rock 誌には、2、3年のつもりで絵と娘の養育に専念したが、結局2013年まで戻らなかったと語っている。ツアーのたびに数か月ずつ娘の生活から消えたくなかった、父親の仕事が何なのかを説明できる年齢になるまでそばにいたかった、というのが理由である。amass が伝えた別のインタビューでは、その間は絵で生計を立てると決めていたと述べている。彼は音楽を職業にする前から画家だった。

出典: Classic Rock(Louder)インタビュー

音楽へ戻るきっかけは、地元のサッカー・クラブだった。ヴァンデンバーグが MyGlobalMind に語ったところでは、故郷のFCトゥウェンテがリーグを制したとき、チームのための歌を作ってほしいと頼まれた。その録音に歌い手が要るので探し回り、そこで行き当たったのがヤン・ホーヴィングである。この出会いがヴァンデンバーグズ・ムーンキングスになった。

出典: MyGlobalMind インタビュー

ムーンキングスを続けずにヴァンデンバーグ名義へ戻った理由を、本人は Classic Rock 誌ではっきり述べている。歌い手のヤン・ホーヴィングは大きな農業の会社を経営しており、それを手放して音楽に専念することができなかった。そのため国際的なツアーが組めず、彼にはそれが歯がゆかった。全員がいまも親しい友人なので編成を変える気はなく、代わりにヴァンデンバーグを復活させることにした、というのが理由である。

出典: Classic Rock(Louder)インタビュー

ロニー・ロメロとの別れは、仲違いではなく日程の問題だった。ヴァンデンバーグが BraveWords に語ったところでは、ルーマニアに住むロメロの周辺ではオランダやドイツ、イギリスより早くライヴが再開できたため、彼の予定は先に埋まっていった。こちらがようやくツアーに出られるようになったときには、互いの日程がもう噛み合わなくなっていた。3年近く動けずにいた彼はさらに10か月待つつもりはなく、そこで別の歌い手を探すことにしたという。後任には、イングヴェイ・マルムスティーンやキャンドルマスで知られるマッツ・レヴィンが2021年に加わった。ヴァンデンバーグは当時の声明で、このバンドを懐古の見世物ではなく「レガシーのある名前を持つ、まったく新しいダイナミックなバンド」だと述べている。

出典: BraveWords

5作目の題は3文字である。amass が伝えたバンドのコメントによれば、この短い語には、ささやかな白い嘘から殺人まで、その間にあるすべてを含む広く強い意味があり、だからこそそれに見合う力強く重厚で壮大な曲が必要だったという。

出典: amass

『Sin』のジャケットは、40年前の絵の続きである。ヴァンデンバーグが MyGlobalMind に語ったところでは、1983年か84年に砂漠のハイウェイの上を飛ぶサメを描いており、あれ以来はじめて同じシュルレアリスム的な作風でもう一枚描いてみようと考えた。三日ほどで済むと思っていたのがまた見誤りで、空を塗るだけで三日かかったという。その空は、望んだ奥行きを出すために薄い緑をおよそ15層重ねたものだと彼は説明している。マスコットのプレス文が「『Heading For A Storm』のサメが帰ってきた」と書いているのは、この絵のことである。

出典: MyGlobalMind インタビュー