VAN HALEN BIOGRAPHY
プロフィール
| 結成 | 1972年、カリフォルニア州パサデナ |
|---|---|
| 出身 | アメリカ |
| ジャンル | ハードロック、ヘヴィメタル |
Biography
ヴァン・ヘイレン (VAN HALEN)
音楽的革新、バンドの変遷、遺産
1. Introduction
ヴァン・ヘイレン (VAN HALEN) は、1972年にカリフォルニア州パサデナ (Pasadena, California) で結成され、ハードロックの概念を根底から覆したアメリカ合衆国のロックバンドである。VAN HALENの登場は、1970年代後半のパンク・ロックやディスコ・ミュージックが台頭していた音楽シーンにおいて、ハードロックの復権を決定づけた歴史的転換点であった。特にギタリスト、エドワード・ヴァン・ヘイレン (Edward VAN HALEN) による革新的な「ライトハンド奏法(タッピング奏法)」や、改造ギターとアンプによる独特のディストーション・サウンド(通称「ブラウン・サウンド」)は、エレクトリック・ギターの奏法と音響工学の歴史を「ヴァン・ヘイレン以前」と「以後」に分かつほどの技術的革命をもたらした。
2. バイオグラフィ (Biography): 栄光、葛藤、そして再生の全史
2.1 黎明期: オランダからの旅立ちとパサデナでの形成 (1960s - 1973)
ヴァン・ヘイレン家の音楽的ルーツ
ヴァン・ヘイレンの物語は、アメリカ大陸から遠く離れたオランダ (The Netherlands) で幕を開ける。父ヤン・ヴァン・ヘイレン (Jan VAN HALEN) はクラリネットやサックスを演奏するジャズ・ミュージシャンであり、インドネシア系オランダ人の母ユージニア・ヴァン・ビワーズ (Eugenia Van Beers) との間に、1953年に兄のアレキサンダー・アーサー・ヴァン・ヘイレン (Alexander Arthur VAN HALEN、通称アレックス)、1955年に弟のエドワード・ロデヴィイク・ヴァン・ヘイレン (Edward Lodewijk VAN HALEN、通称エディ)が生まれた。
1962年、一家はより良い生活と機会を求めてアメリカ合衆国へ移住し、カリフォルニア州パサデナ (Pasadena)に定住した。移住当時、兄弟は英語をほとんど話せず、音楽が彼らにとっての共通言語となった。両親の勧めでクラシック・ピアノのレッスンを受け始めた二人は、幼少期から高い音楽的才能を発揮した。特にエディは、楽譜を読むことは苦手であったものの、耳で聴いた曲を即座に再現する驚異的な聴音能力を持ち、ピアノコンクールで数年連続優勝するなど神童ぶりを見せた。
楽器の交換とロックへの傾倒
1960年代半ば、ビートルズ (The Beatles) やデイヴ・クラーク・ファイヴ (The Dave Clark Five) などのブリティッシュ・インヴェイジョン (British Invasion) の影響を受け、兄弟はロック音楽に傾倒し始める。当初、兄のアレックスがギターを、弟のエディがドラムを担当していたという事実は、バンドの歴史における最も有名な逸話の一つである。エディが新聞配達のアルバイトをしてドラムセットの支払いを工面している間に、アレックスがそのドラムセットを使って練習を重ね、またたく間に上達してしまった。その演奏を聴いたエディは、「わかった、お前がドラムを叩け。僕はギターを弾くから」と告げ、互いの楽器を交換した。この偶然の配置転換がなければ、後のギター・ヒーローとしてのエディ・ヴァン・ヘイレンは誕生していなかったであろう。
マンモス (Mammoth) の結成とバックヤード・パーティ
1964年、兄弟は最初のバンド「ブロークン・コームズ (The Broken Combs)」を結成し、地元の小学校で演奏を行った。その後、パサデナ・シティ・カレッジ (Pasadena City College)、「トロージャン・ラバー・カンパニー (Trojan Rubber Co)」、「ジェネシス (Genesis)」とバンド名を変遷させていった。1972年、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド「ジェネシス」が既に存在することを知った彼らは、バンド名を「マンモス (Mammoth)」に変更した。
当時のマンモスは、エディ(ボーカル兼リードギター)、アレックス (ドラム)、マーク・ストーン (Mark Stone) (ベース)のトリオ編成であった。彼らはパサデナ地域の民家の裏庭で行われる「バックヤード・パーティ (Backyard Parties)」を中心に活動し、大音量の演奏で近隣の評判(と苦情)を集めていた。この時期、彼らはPAシステム (音響機材)を所有しておらず、近所に住む裕福な家庭のデイヴィッド・リー・ロス (David Lee Roth) から機材をレンタルしていた。
2.2 第1期: クラシック・ヴァン・ヘイレンの確立 (1974-1985)
デイヴィッド・リー・ロスとマイケル・アンソニーの加入
エディとアレックスは、機材レンタル料を節約するため、またエディがボーカルよりもギター演奏に専念したいという意向から、デイヴィッド・リー・ロスをバンドに正式に迎え入れた。当初、兄弟はロスのR&Bやボードヴィル (Vaudeville) 趣味、エンド派手なステージ衣装に違和感を抱いていたが、彼の圧倒的なショーマンシップとカリスマ性がバンドに不可欠な要素であることを理解するようになった。
1974年、ベースのマーク・ストーンが学業専念等の理由でバンドを離れることになり、彼らはパサデナ・シティ・カレッジの別のバンド「スネイク (Snake)」で活動していたマイケル・アンソニー (Michael Anthony) をオーディションの末に引き抜いた。アンソニーの加入は、強力なリズム隊の完成だけでなく、彼の特異な高音域のバッキング・ボーカルをもたらし、これが後に「ヴァン・ヘイレン・サウンド」のシグネチャーとなった。
やがてバンド名は「ヴァン・ヘイレン (VAN HALEN)」と改められた。「マンモス」の名は、すでに別のグループが権利を持っていたためである。
サンセット・ストリップへの進出とデビュー契約
バンドは活動の拠点をパサデナの裏庭から、ハリウッドのサンセット・ストリップ (Sunset Strip) にある有名クラブ 「ギャザリーズ (Gazzarri's)」 や 「スターウッド (Starwood)」、「ウィスキー・ア・ゴーゴー (Whisky a Go Go)」 へと移した。VAN HALENは「フライヤー(チラシ)」を自ら配り歩き、エネルギッシュなライブ・パフォーマンスで徐々にファン層を拡大していった。
1976年、キッス (KISS) のジーン・シモンズ (Gene Simmons) がVAN HALENのライブを目撃し、その才能に惚れ込んでデモ・テープの制作資金を提供した。シモンズはVAN HALENを自身のマネージメント会社に引き入れようとし、「ニューヨークへ来い」と誘ったが、キッスの他のメンバーやマネージメント側が「商業的な成功が見込めない」と判断したため、この話は立ち消えとなった。
転機は1977年に訪れた。ワーナー・ブラザース・レコード (Warner Bros. Records) のテッド・テンプルマン (Ted Templeman) とモー・オスティン (Mo Ostin)が、スターウッドでのVAN HALENのライブを見て衝撃を受け、即座に契約を申し出たのである。
衝撃のデビューと黄金時代
1978年2月10日、デビュー・アルバム『炎の導火線 (VAN HALEN)』 がリリースされた。1曲目の「悪魔のハイウェイ (Runnin' with the Devil)」 における重厚な車のクラクションのような音響効果とベースライン、そして2曲目 「暗闇の爆撃 (Eruption)」 におけるエディのタッピング奏法は、当時のロック・シーンに衝撃を与えた。このアルバムは新人バンドとしては異例のセールスを記録し、ブラック・サバス (Black Sabbath) のオープニング・アクトとしてツアーを行った際、メインアクトを食ってしまうほどのパフォーマンスを見せつけた。
続く数年間、バンドは過酷な「アルバム制作→ ツアー」のサイクルをこなしながら、ヒット作を連発した。
- 1979年: 『伝説の爆撃機 (VAN HALEN II)』 - 「踊り明かそう (Dance the Night Away)」が初のトップ20ヒットとなる。
- 1980年: 『暗黒の掟 (Women and Children First)』 - よりヘヴィで実験的なサウンドへ移行。
- 1981年: 『戒厳令 (Fair Warning)』 - エディの音楽的苦悩とダークな側面が反映された、ファンやミュージシャンからの評価が極めて高い作品。
- 1982年: 『ダイヴァー・ダウン (Diver Down)』 - 「オー・プリティ・ウーマン ((Oh) Pretty Woman)」 や 「ダンシング・イン・ザ・ストリート (Dancing in the Street)」などのカバー曲が中心だったが、商業的には成功を収めた。
『1984』 と亀裂の表面化
1984年1月、アルバム 『1984』 がリリースされた。エディが自宅スタジオ 「5150スタジオ」で制作の主権を握り、物議を醸したシンセサイザー導入曲「ジャンプ (Jump)」が全米シングルチャート (Billboard Hot 100) で1位を獲得。アルバムもマイケル・ジャクソン (Michael Jackson) の 『スリラー (Thriller)』 (エディも「今夜はビート・イット」でギターソロを担当)に次ぐ全米2位を記録し、バンドの人気は頂点に達した。
しかし、成功の裏でデイヴィッド・リー・ロスとエディ・ヴァン・ヘイレンの確執は修復不可能なものとなっていた。エディはより音楽的な探求とキーボードの導入、複雑な構成を求めたのに対し、ロスは従来のギター主導のハードロックと、「パーティ・バンド」としてのイメージ維持を主張した。また、ロスがソロEP 『クレイジー・フロム・ザ・ヒート (Crazy from the Heat)』を成功させ、映画制作への野心を抱いたことで、バンド活動への関心が薄れていると見なされた。1985年、ロスはバンドを脱退し、ヴァン・ヘイレンの第一期黄金時代は幕を閉じた。脱退の日付は、4月1日とする記事と、8月半ばに正式になったとする記事がある。
2.3 第2期: サミー・ヘイガーとの出会い (1985-1996)
ロスの後任探しは難航したが、エディが自身のランボルギーニの修理を担当していたメカニック、クラウディオ・ザンポリ (Claudio Zampolli) から、元モントローズ (Montrose) のボーカリストであり、ソロ・アーティストとしても成功していたサミー・ヘイガー (Sammy Hagar) を紹介されたことで状況が一変した。ジャム・セッションを行った瞬間、両者は意気投合し、ヘイガーの正式加入が決定した。ワーナー・ブラザースは当初、バンド名を「ヴァン・ヘイガー (Van Hagar)」に変えるよう提案したが、バンド側はこれを拒否した。
全米No.1アルバムの連発と音楽性の変化
1986年3月、新生ヴァン・ヘイレンによるアルバム 『5150』がリリースされた。ヘイガーの力強く音域の広いボーカルは、エディに新たな楽曲制作の自由を与えた。バラード曲「ラヴ・ウォークス・イン (Love Walks In)」や、高揚感あふれるアンセム「ドリームス (Dreams)」などが収録され、アルバムはバンド初の全米チャート1位を獲得した。
この時期のヴァン・ヘイレンは、ロス時代の「パーティ・ロック」から、よりメロディアスで歌詞の内容も「愛」や「内省」を含む成熟したスタジアム・ロックへと変貌を遂げた。古くからのファンの一部からは「ヴァン・ヘイガー」と揶揄されたが、商業的成功はそれを凌駕した。続く『OU812』(1988)、『F.U.C.K. (For Unlawful Carnal Knowledge)』 (1991)、『バランス (Balance)』 (1995) も全て全米1位を記録し、4作連続No.1という偉業を達成した。
バンドの軋轢と崩壊
1990年代半ば、バンドは再び内部崩壊の危機に直面した。エディは股関節の壊死やアルコール依存症の問題を抱え、アレックスも首の負傷に苦しんでいた。さらに、長年のマネージャーであったエド・レフラー (Ed Leffler)の死後、新たに就任したレイ・ダニエルズ (Ray Danniels) のマネージメント手法がメンバー間の不信感を煽った。
決定的な決裂は、映画『ツイスター (Twister)』のサウンドトラック制作中に起きた。1996年、ヘイガーは妻の出産のためにハワイに滞在し、休養を求めていたが、エディとレイ・ダニエルズはサントラ曲 「ヒューマンズ・ビーイング (Humans Being)」 のレコーディングを強行しようとした。歌詞の内容やレコーディングのスケジュールを巡って激しい口論となり、1996年6月 (父の日)、ヘイガーはバンドを去った(脱退か解雇かは双方の主張が食い違っている)。
2.4 第3期: ゲイリー・シェローンの加入 (1996-1999)
デイヴィッド・リー・ロスの一時的復帰と再決裂
1996年、ベストアルバム『ベスト・オブ・ヴァン・ヘイレン Vol.1 (Best Of - Volume I)』のプロモーションのため、デイヴィッド・リー・ロスが一時的に呼び戻され、新曲2曲(「Me Wise Magic」、「Can't Get This Stuff No More」)が録音された。9月のMTVビデオ・ミュージック・アワードにはオリジナル・メンバー4人で姿を見せたが、10月2日、ロスは再結成は実現しないとして、その責任はエディにあるとする声明を出し、バンドも24時間たたないうちに声明を出して応じた。
ゲイリー・シェローンの加入と 『VAN HALEN III』
新たなボーカリストとして、エクストリーム (Extreme) のゲイリー・シェローン (Gary Cherone) が抜擢された。1998年にリリースされたアルバム『ヴァン・ヘイレンIII (VAN HALEN III)』は、エディが初めて歌詞やボーカル・メロディに深く介入し、実験的な要素が強い作品となった。しかし、既存のファン層には受け入れられず、セールスはゴールド認定(50万枚)にとどまり、商業的失敗と見なされた。続くツアーでは、シェローンがロス時代とヘイガー時代の両方の曲を分け隔てなく歌い、ライブ自体の評価は悪くなかったが、1999年にシェローンは友好的にバンドを離脱した。
2.5 沈黙とリユニオン (1999-2006)
シェローン脱退後、バンドは長い沈黙期間に入った。この間、エディは舌癌の治療 (舌の3分の1を切除)や、妻ヴァレリー・バーティネリ (Valerie Bertinelli) との離婚など、私生活での苦難が続いた。
2004年、ベストアルバム『ベスト・オブ・ボース・ワールズ (The Best of Both Worlds)』のリリースに伴い、サミー・ヘイガーが復帰して全米ツアーが行われた。しかし、このツアーは多くの関係者やファンにとって「悪夢」として記憶されている。エディのアルコール依存と薬物使用の影響は深刻で、ステージ上で演奏が崩壊することもしばしばだった。特にノースカロライナ州グリーンズボロ公演での「ジャンプ」では、ギターのチューニングが著しく狂ったまま演奏を続け、キーボードの同期音源と不協和音を奏でるという惨劇が起きた。ツアー終了後、ヘイガーとマイケル・アンソニーは再びバンドを離れた。
2.6 第4期・最終章: ウルフギャングの加入とロスの帰還 (2007-2026)
息子ウルフギャングの加入とマイケル・アンソニーの排除
2006年、エディの息子ウルフギャング・ヴァン・ヘイレン (Wolfgang VAN HALEN)が、わずか15歳で正式ベーシストとして加入した。これに伴い、オリジナル・メンバーのマイケル・アンソニーは完全に排除された。この時期、バンドの公式サイトからアンソニーの写真が削除され、アルバムジャケットから彼の姿が消される(後にファンの猛反発を受けて元に戻された)という事件が発生し、ファンの間で大きな物議を醸した。ウルフギャングの加入は、エディのリハビリと精神的安定のために不可欠であったと後に語られている。
デイヴィッド・リー・ロスの復帰と 『A Different Kind of Truth』
2007年、デイヴィッド・リー・ロスが正式に復帰し、北米ツアーが行われた。そして2012年、ロス復帰後初となるスタジオ・アルバム『ア・ディファレント・カインド・オブ・トゥルース (A Different Kind of Truth)』 がリリースされた。このアルバムは、1970年代のデモ・テープに残されていた未発表曲を再構築して制作されたものであり、全盛期の勢いと現代的なへヴィネスが融合した作品として高く評価され、全米2位を記録した。
エディ・ヴァン・ヘイレンの逝去
2015年にはライブ・アルバム『東京ドーム・ライヴ・イン・コンサート (Tokyo Dome Live in Concert)』をリリースし、最後のツアーを行った。その後、エディの健康状態が悪化し、バンドは活動を停止した。エディは長年、咽頭癌や肺癌と闘病していたが、2020年10月6日、癌の合併症による脳卒中により65歳でこの世を去った。彼を失ったことにより、息子ウルフギャングはヴァン・ヘイレンの解散を明言した。
エディの死後も、ボックス・セットや過去の公演を収めたライヴ盤の発売が続いた。2023年10月6日には、ヘイガー在籍期の『5150』『OU812』『For Unlawful Carnal Knowledge』『Balance』の4作を2023年リマスターで収め、5枚目にこの時期のレア音源を集めた5枚組ボックス・セット『The Collection II』(全48曲) がWarner Recordsから輸入盤のみで発売された。1991年12月4日のダラス公演を収めた『ライヴ・イン・ダラス 1991 (Live in Dallas 1991)』は、2024年11月29日のアナログ盤2枚組に続いて2025年3月28日にCD化され、日本盤CDは同年4月23日に発売された。2026年には、1995年6月24日のロンドン、ウェンブリー・スタジアム公演を初めて公式に商品化した『ライヴ・アット・ウェンブリー 1995 (Live at Wembley 1995)』(1月9日、日本盤も同日発売) と、5150ツアーの1986年8月27日ニューヘイヴン公演を初めて単独のCDとした『Live in New Haven 1986』(6月24日) が発売された。同年3月27日には、サミー・ヘイガーを迎えた1986年の7作目の40周年記念盤『5150 (Expanded Edition)』が、未発表ライヴ13曲を含むCD3枚+Blu-ray+LPの5枚組で発売され、日本盤は4月8日に続いた。
ボックス・セットとしては、2013年の『The Studio Albums 1978-1984』(デイヴィッド・リー・ロス時代のスタジオ作6作を収めたボックス)、2024年の『For Unlawful Carnal Knowledge (Expanded Edition)』(1991年12月4日ダラス公演の未発表の音源と映像を加えた5枚組)、2025年の『Balance (Expanded Edition)』(『Balance』の30周年記念の5枚組)も出ている。
3. メンバー詳細プロフィールと役割
エディ・ヴァン・ヘイレン (Eddie VAN HALEN)
- 本名: Edward Lodewijk VAN HALEN
- 生年月日: 1955年1月26日 - 2020年10月6日
- 出身: オランダ・ナイメーヘン
- 役割: リードギター、キーボード、バッキングボーカル
- 使用機材:
- Frankenstrat (フランケンシュタイン): エディが自作した伝説的なギター。フェンダー・ストラトキャスターのボディ (Boogie Bodies製)に、ギブソン ES-335のハムバッカー・ピックアップ (PAF)を搭載し、トレモロ・ユニット (初期はフェンダー、後にフロイド・ローズ)を取り付けたもの。赤地に白と黒のストライプ塗装は彼のトレードマークとなった。
- Brown Sound (ブラウン・サウンド): マーシャル (Marshall) のプレキシ・アンプ(1959 Super Lead)の電圧を、スライダック (Variac) を使って定格 (110V程度)から89V程度まで下げることで得られる、温かみがありながら強烈に歪んだサウンド。
- 功績: タッピング奏法の一般化、フロイド・ローズ (Floyd Rose) トレモロ・システムの開発協力、D-Tuna (瞬時にドロップDチューニングにする装置)の発明。
アレックス・ヴァン・ヘイレン (Alex VAN HALEN)
- 本名: Alexander Arthur VAN HALEN
- 生年月日: 1953年5月8日
- 出身: オランダ・アムステルダム
- 役割: ドラム、パーカッション
- スタイル: ジャズの影響を受けたスウィング感のあるハードロック・ドラミング。巨大なドラムセット (4本のバスドラムなど)と、エディのリズムに完璧に同期する独特のタイム感が特徴。「Hot for Teacher」のイントロにおけるドラム・ソロは、彼の技術の結晶である。
デイヴィッド・リー・ロス (David Lee Roth)
- 本名: David Lee Roth
- 生年月日: 1954年10月10日
- 出身: インディアナ州ブルーミントン
- 役割: リードボーカル
- スタイル: 「ダイヤモンド・デイヴ」の異名を持つ。歌唱力そのものよりも、観客を扇動するMC、アクロバティックなジャンプ (開脚ジャンプ)、派手な衣装によるエンターテインメント性を重視した。歌詞の世界観は「パーティー、女性、車、享楽」が中心。
サミー・ヘイガー (Sammy Hagar)
- 本名: Samuel Roy Hagar
- 生年月日: 1947年10月13日
- 出身: カリフォルニア州サリナス
- 役割: リードボーカル、リズムギター
- スタイル: 「レッド・ロッカー」の異名を持つ。4オクターブ近い声域を持つ実力派シンガー。ギターも堪能で、ライブではエディと共にギターを弾くことでサウンドに厚みを加えた。歌詞はより内省的で、愛や社会的テーマを扱うことが多かった。自身のテキーラ・ブランド「カボ・ワボ (Cabo Wabo)」でも成功している。
マイケル・アンソニー (Michael Anthony)
- 本名: Michael Anthony Sobolewski
- 生年月日: 1954年6月20日
- 出身: イリノイ州シカゴ
- 役割: ベース、バッキングボーカル
- スタイル: 堅実なルート弾き中心のベースプレイに加え、エディのギターとロスのボーカルの間を埋める、極めて重要な高音域のハーモニー (コーラス) を提供した。ジャック・ダニエルのボトル・ベースをライブで使用するパフォーマンスで知られる。
ウルフギャング・ヴァン・ヘイレン (Wolfgang VAN HALEN)
- 本名: Wolfgang William VAN HALEN
- 生年月日: 1991年3月16日
- 出身: カリフォルニア州サンタモニカ
- 役割: ベース、バッキングボーカル
- 経歴: エディと女優ヴァレリー・バーティネリの息子。2006年に加入。父の死後はソロ・プロジェクト 「マンモス WVH (Mammoth WVH)」で活動し、グラミー賞にノミネートされるなど成功を収めている。
4. 日本との深い関わり (The Japanese Connection)
ヴァン・ヘイレンは日本市場において特別な人気を誇ったバンドである。
日本独自のアートワークと邦題
ディスコグラフィで示したように、初期の作品にはインパクトのある邦題が付けられた。『伝説の爆撃機 (VAN HALEN II)』や『戒厳令(Fair Warning)』 といったタイトルは、バンドの「攻撃的でパワフル」なイメージを日本のファンに植え付けるのに一役買った。また、ライナーノーツや帯 (OBI strip)は、コレクターズアイテムとして世界的に価値が高い。
主な来日公演の歴史
- 1978年: 初来日。東京、大阪などで公演。その圧倒的なパフォーマンスは日本の音楽誌で大々的に報じられた。
- 1979年: 2度目の来日。京都などでも公演。
- 1989年: アルバム 『OU812』ツアー。東京ドーム2日間公演など。ヘイガー加入後初の来日であり、爆発的な盛り上がりを見せた。
- 1995年: 『Balance』 ツアー。
- 1998年: 『VAN HALEN III』ツアー。ゲイリー・シェローンを含むラインナップでの来日。
- 2013年: 最後の来日公演。東京ドーム、大阪市中央体育館などで公演。エディの体調も比較的安定しており、往年の名曲が次々と披露された。この時の東京ドーム公演が後にライブ・アルバム化された。
5. ヴァン・ヘイレンの遺産
ヴァン・ヘイレンは、エディ・ヴァン・ヘイレンという一人の天才によって「ハードロック・ギター」の概念を書き換えただけでなく、デイヴィッド・リー・ロスとサミー・ヘイガーという二人の偉大なフロントマンと共に、ロック・ミュージックを巨大なエンターテインメント・ビジネスへと昇華させた。
VAN HALENが残した音楽的遺産は計り知れない。
- テクニカル・ギターの標準化: タッピング、スウィープ、アーミングなどの技術は、1980年代以降のメタルの標準装備となった。
- 機材の進化: エディの改造ギターとアンプへの探求心は、現在のハイゲイン・アンプやコンポーネント・ギター市場の基礎を築いた。
- ポップとハードの融合: 「Jump」 に代表されるように、ハードロック・バンドがシンセサイザーを取り入れ、ポップ・チャートを制覇する道筋を作った。
2020年のエディの死により、バンドとしての活動は永遠に終了したが、その音楽と遺伝子(息子のウルフギャングを含め)は、今後もロック・シーンの中で生き続けるであろう。