VAN HALEN トリビア 全41件

VAN HALENにまつわる事実を、出典付きで41件掲載しています。

Trivia

1970年代から80年代にかけてのヴァン・ヘイレンの日本盤には、原題と関係のない邦題が付けられていた。『Van Halen』が『炎の導火線』、『Van Halen II』が『伝説の爆撃機』、『Women and Children First』が『暗黒の掟』、『Fair Warning』が『戒厳令』である。一方で『Diver Down』以降は原題のカタカナ表記や原題そのままになり、この付け方は続かなかった。

出典: BARKS

2013年の来日公演は、エディ・ヴァン・ヘイレンとデイヴィッド・リー・ロスが揃って日本の舞台に立つ、1979年以来のものだった。初日は愛知県体育館で、5,000人の客で満員になった会場を「Unchained」で始めている。編成はロス、エディ、アレックスに、エディの息子ウルフギャングがベースという4人。この後、6月21日に東京ドーム、24日と26日に大阪市中央体育館という日程が続いた。

出典: BARKS(ライヴレポート)

1991年の『For Unlawful Carnal Knowledge』は、バンドにとって9作目のスタジオ・アルバムで、初登場1位を獲得し3週にわたってその座を保った。サミー・ヘイガーを迎えた編成としては3作連続の全米1位である。この作品はバンドに初めてのグラミー賞をもたらした。

出典: Rhino / Shore Fire Media(レーベル公式発表)

2026年に世に出たライヴ音源の元は、1986年8月27日、コネティカット州ニューヘイヴンのニューヘイヴン・ヴェテランズ・メモリアル・コロシアムでの公演である。90分を超える未発表音源で、編成はサミー・ヘイガー、エディ、アレックス、マイケル・アンソニー。同じ夜に撮影されたのが、後にダブル・プラチナとなる映像作品『Live Without a Net』だった。つまり音源と映像は同じ一夜の記録である。

出典: Rhino / Shore Fire Media(レーベル公式発表)

ヴァン・ヘイレンと契約したのはワーナー・ブラザースのテッド・テンプルマンである。きっかけは、当時バンドの面倒を見ていたマーシャル・バール——コメディアンのミルトン・バールの甥——から、とにかく一度観に行けと勧められたことだった。テンプルマンはスターウッドへ足を運び、気づかれないよう二階から見ている。エディの演奏を目にして、こんなものは見たことがないと思った。彼はバンドに存在を知られないまま帰り、ワーナーの会長モー・オースティンに電話をかけ、翌晩に連れ出して、その場で楽屋に入って契約を告げた。それまでこのバンドは複数のレーベルに断られており、A&Mもその一つだった。ジーン・シモンズが一時面倒を見ていた時期があってさえ、契約は決まっていなかった。

出典: Guitar Player(テッド・テンプルマン インタビュー)

1978年のデビュー作はサンセット・サウンドで録られた。作り方はほぼライヴである。バンドはスタジオで一緒に演奏し、ロスだけがアイソレーション・ブースに入ったが、そこはテンプルマンからも、エディとアレックスからも互いに顔が見える配置にしてあった。普段のライヴと同じ視線が通るようにするためである。ロスのヴォーカルは演奏と同時に録り、後から必要な箇所だけ直した。テンプルマンによれば、この作品は2週間かからずに出来ている。曲は既にライヴで演奏し込まれていた。

出典: Guitar Player(テッド・テンプルマン インタビュー)

「Eruption」がアルバムに入ったのは偶然である。テンプルマンはスタジオの隣の小部屋で電話をかけていて、ふと入っていったところ、エディが座って何かを弾いていた。それは何かと尋ねると、毎回ライヴの前に指を慣らすために弾いているだけのものだという答えが返ってきた。テンプルマンはエンジニアのドン・ランディに録れと叫んだが、ランディは既に録音を始めていた。彼も同じものを聴いていたのである。テンプルマンは、あんなタッピングも、あれほど見事なものも聴いたことがなかったと述べている。当のエディは、あれは何でもないと言い、そもそも彼に聴かせるつもりすら無かった。

出典: Guitar Player(テッド・テンプルマン インタビュー)

「Jump」はギターではなく鍵盤から生まれた曲で、しかも書かれた場所はスタジオですらない。エディは5150スタジオを建てている最中、自宅の寝室でシーケンシャル・サーキッツのプロフェット10を使ってこの曲を書いている。ところが、鍵盤の右手側の音色で欲しい音を出すたびに、その機械は煙を吹いてヒューズを飛ばした。買い直しても同じことが起きる。知人からオーバーハイムのOB-Xaを試せと言われて買い替え、それでようやく求めていた音が出た。

出典: Guitar World(エディ・ヴァン・ヘイレン インタビュー/Chris Gill)

エディが自前のスタジオ5150を建てたのは、レコードの作り方を自分で決めたかったからである。この考えに同調したのがエンジニアのドン・ランディで、彼はそれまでの5作すべてを録ってきた人物だった。ランディはスタジオの建設にも関わり、『1984』の録音を担っている。名前を付けたのも彼だった。5150というのは、精神的に不安定な人物の非自発的な収容を定めたカリフォルニア州福祉施設法の条文番号である。このスタジオは以後、バンドが作る全アルバムの拠点になった。

出典: Guitar World(Chris Gill)

『Diver Down』はエディにとって転機だった。収録の半分がカヴァーだったからである。彼とテンプルマンは、良いレコードとは何かという点で長く衝突していた。テンプルマンの考えは、既に当たった曲をやり直せば半分は勝ったも同然だ、というものだった。エディの立場はその逆で、他人の曲で半分勝つくらいなら自分の曲で沈むほうがいい、というものである。彼が自前のスタジオを建てた理由の一つはここにあり、そして『1984』は、ヴァン・ヘイレンのレコードとは本来どう作るものかをテンプルマンに示した作品だった、というのが本人の総括である。

出典: Guitar World(エディ・ヴァン・ヘイレン インタビュー/Chris Gill)

『Diver Down』から『1984』の途中までの時期、エディはヴァン・ヘイレン以外の仕事を大量にこなしている。マイケル・ジャクソンの「Beat It」への参加、ブライアン・メイとの Star Fleet Project、映画『The Seduction of Gina』と『The Wild Life』のサウンドトラック、そしてドン・ランディと組んでのドゥイージル・ザッパのシングルのプロデュース。最後のものは、『Diver Down』のツアー・リハーサルをゾエトロープ・スタジオでやっている最中にフランク・ザッパから電話がかかってきたことから始まっている。エディは、当時は書くことしかしていなかったので手元に曲が余っていたのだと説明している。

出典: Guitar World(エディ・ヴァン・ヘイレン インタビュー/Chris Gill)

1984年の時点で、ヴァン・ヘイレンは世界最大級のロック・バンドだった。『1984』はアメリカだけで500万枚を超えて売れ、ビルボード200で2位に達している。これは当時としての自己最高位で、1位を阻んだのはマイケル・ジャクソンの『Thriller』だった。同作から出た「Jump」は、彼らにとって唯一のシングル・チャート首位曲である。付随したツアーは101公演すべてが完売した。

出典: Guitar World(Chris Gill)

サミー・ヘイガーがヴァン・ヘイレンに辿り着いた経路は、音楽業界ではなく車屋である。仲を取り持ったのはエディの友人で高級車ディーラーのクラウディオ・ザンポリだった。1985年6月末、ヘイガーはフェラーリを見にウィルシャー大通りにあるザンポリの店へ立ち寄る。エディはこの店からランボルギーニを何台も買っており、少し前の雑談でロスの後任を探していると漏らしていた。ザンポリがその話をヘイガーに伝え、ヘイガーは自分の電話番号を渡してよいと答え、エディが電話をかけて面会とオーディションが組まれた。

出典: Guitar World(Chris Gill)

編成の交代が公になる過程は、順序が入り組んでいる。バンドがデイヴィッド・リー・ロスの脱退を認める声明を出したのは1985年8月。ヘイガーが正式に披露されたのはその後で、1985年9月22日、イリノイ州シャンペーンで開かれたファーム・エイドの舞台上でのことだった。しかもその日は、ヘイガーが自分のバンドと演奏する最後の日でもあった。エディがステージに合流する直前、生放送の司会者がその数秒前に事実を先に口にしてしまい、噂はそこで確定した。

出典: Guitar World(Chris Gill)

『5150』を誰が作るかは、思わぬ事情で決まった。バンドとヘイガーの双方にとって当然の選択はテッド・テンプルマンだったが、彼はデイヴィッド・リー・ロスの『Eat 'Em and Smile』のプロデュースを引き受けており、手が空いていなかった。そこで12月まではエディとドン・ランディが自分たちでプロデューサーの役を担い、その後フォリナーのミック・ジョーンズを迎えている。きっかけは、ジョーンズがフォリナーの公演で近くに来た際にヘイガーを招待したことで、その場でヘイガーが共同プロデュースを持ちかけ、ジョーンズが承諾した。外部の耳が要るというのが、バンド側の判断だった。

出典: Guitar World(Chris Gill)

2作目が急いで作られたのには理由がある。デビュー作がプラチナに達し、1年間ツアーを回った後、ワーナー・ブラザースはバンドに対し、200万ドルの負債があると告げた。当時の契約が年に2枚という条件だったためである。バンドは1978年12月10日にテッド・テンプルマンとスタジオへ戻り、『Van Halen II』を数週間で録り上げた。

出典: Louder / Classic Rock

ヴァン・ヘイレンの契約書に「楽屋に茶色のM&Mを置くな」という条項があったという話には、実物の裏付けがある。2008年、報道サイト The Smoking Gun が、ニューヨーク州北部の故プロモーター、ジャック・ベルの遺族から1982年のワールド・ツアーのライダーを入手して公開した。タイプ打ちで53ページあり、この条項のほか、サワークリーム添えのニシンや16オンス缶のシュリッツ・モルト・リカー4ケースといった要求が並んでいた。バンドに同行していた写真家の説明では、この条項の目的は菓子の好き嫌いではなく、会場側がライダーを本当に読んだかどうかを確かめるための仕掛けだったという。条項が使われ始めたのは1980年3月22日、オレゴン州ユージーンで始まったワールド・インヴェイジョン・ツアーからである。

出典: Blabbermouth / Louder / Classic Rock

2012年の『A Different Kind of Truth』に入っている曲の多くは、新曲ではない。「Beats Workin'」「Big River」「Bullethead」「Outta Space」「She's the Woman」などは、1978年のデビュー作より前に録られたデモまで遡る。「Let's Get Rockin'」は「Outta Space」に改題されている。この企画を動かしたのはウルフギャング・ヴァン・ヘイレンで、彼が5150スタジオの倉庫から曲を選び出したところから始まった。バンドは35曲をデモに起こしている。もっとも彼の当初の構想はアルバムではなく、ベスト盤ならぬB面集のようなものだった。

出典: Guitar World(エディ・ヴァン・ヘイレン)

マイケル・ジャクソン「Beat It」のソロについて広く言われている「クレジットされなかった」という話は、実際とは逆である。エディは自分の名前が『Thriller』のクレジットに出ることを望まなかった。理由は主に、この仕事を自分のバンドの面々に知られたくなかったからである。ところがレコード会社と音楽家組合の取り決めのために、彼の名前は結局ライナーノーツに4回も載った。妻のヴァレリーと、それまでのヴァン・ヘイレン全作を録ってきたエンジニアのドン・ランディまで謝辞に並んでいる。もっとも隠す意味は最初から無かった。デイヴィッド・リー・ロスは、コンビニの駐車場で車から流れてきた「Beat It」を耳にした瞬間、それがエディだと分かったという。

出典: Guitar World

エディ・ヴァン・ヘイレンは2020年10月6日に亡くなった。65歳だった。同日、息子のウルフギャングがソーシャル・メディアで父の逝去を伝えている。その文章で彼は、父エドワード・ロデヴァイク・ヴァン・ヘイレンが長く続いた癌との闘いをその朝に終えたことを明かした。エディは1955年1月26日にアムステルダムで生まれ、兄のアレックスとともに1962年2月にカリフォルニア州パサデナへ移っている。

出典: Loudwire / Guitar World

その2013年の来日は、本来は前年に行われるはずだった。2012年8月、バンドは公式に、エディが重い憩室炎のため緊急手術を受けたことを発表している。全快までに4か月から6か月を要する見込みで、同年に予定されていた日本公演は延期となり、翌2013年に組み直された。

出典: Loudwire

1995年の『Balance』は、サミー・ヘイガーを擁した編成が作った最後のスタジオ・アルバムである。1995年1月24日に発売され、ビルボード200に初登場1位で入り、RIAAからトリプル・プラチナの認定を受けた。2025年8月に出た拡張版に収められた未発表のライヴ音源8曲は、同年6月24日のウェンブリー・スタジアム公演のもので、当時BBCが放送していた音源である。

出典: Rhino / Shore Fire Media(レーベル公式発表)

このニューヘイヴンの音源が世に出たのは、『5150』の40周年企画としてである。ライノは2026年3月27日、アルバムの40周年の数日後に『5150 (Expanded Edition)』を発売した。アルバム本体はオリジナルのマスター・テープから直接リマスターされており、その作業を監修したのはバンドの長年のエンジニア、ドン・ランディだった。先行して2026年2月3日には、ニューヘイヴンの「Summer Nights」がHDリマスターの映像とともに配信されている。

出典: Rhino / Shore Fire Media(レーベル公式発表)

デイヴィッド・リー・ロスとの再結成が発表されたのは2007年8月13日である。この同じ発表で、エディの息子ウルフギャング・ヴァン・ヘイレンがベーシストとして紹介された。告知されたのは25公演で、初日は同年9月27日のノースカロライナ州シャーロット。ロスを擁したツアーとしては22年ぶりだった。バンドはこの年の3月にロックの殿堂入りも果たしている。

出典: van-halen.com 公式発表(Wayback Machine の保存版)

契約後、テンプルマンがまず取り掛かったのはデモだった。エンジニアのドン・ランディと二人で、バンドの持ち曲を全部まとめて1日で録っている。バンドを仕上げるための場所として使われたのは、デイヴィッド・リー・ロスのパサデナの自宅の地下室だった。テンプルマンはそこでバンドをリハーサルさせ、その間にエディとアレックスの兄弟は彼の自宅にも出入りするようになっていたという。

出典: Guitar Player(テッド・テンプルマン インタビュー)

デビュー作が完成した後、まだ発売前の時期に、テンプルマンはパサデナ・シヴィック・オーディトリアムでのバンドの公演を観に行っている。そこで「Ain't Talkin' 'Bout Love」が始まると、2,000人ほどの客が歌詞を一緒に歌い出した。レコードはまだ世に出ていない。テンプルマンはこの光景をキャヴァーン時代のビートルズになぞらえ、この連中はパサデナでは既にスターだったのだと述べている。何かが起きていると確信したのはこの瞬間だったという。なお彼は、自分がプロデューサーとして関わった全作品の中で、この「Ain't Talkin' 'Bout Love」が一番好きな1曲だとも語っている。

出典: Guitar Player(テッド・テンプルマン インタビュー)

「Jump」はヴァン・ヘイレンにとって、ビルボードのHot 100で1位に達した最初で唯一の曲である。シンセサイザーを前面に出したことへの反発もあった時期だが、結果として同誌のシングル・チャートの頂点に立ったのはこの1曲だけだった。

出典: Guitar World(Chris Gill)

エディは1981年の『Fair Warning』を、自分たちの本質に最も近い作品だと考えていた。自分たちはハード・ロックのバンドであり、シングルではなくアルバムで聴かせる種類のバンドなのだ、というのが彼の言い分である。ただしテンプルマンとワーナーはシングルを求めており、この作品にはそれが無かった。商業的な失敗というほどではなかったが成功でもなく、その結果として次に作られたのが『Diver Down』だった。

出典: Guitar World(エディ・ヴァン・ヘイレン インタビュー/Chris Gill)

『1984』収録の「Girl Gone Bad」が形になった場所は、ホテルの部屋のクローゼットの中である。当時エディはマイクロカセット・レコーダーを常に持ち歩いており、同室で妻が眠っている横でそれを持ってクローゼットに入り、鼻歌と口笛で曲を吹き込んだ。彼によれば、この曲はほぼその状態で書き上がっており、帰宅してから組み立て直しただけだという。

出典: Guitar World(エディ・ヴァン・ヘイレン インタビュー/Chris Gill)

『1984』はギターのアルバムとして聴き始めると出だしで面食らう構成になっている。冒頭の2曲では、エディのギターの音が鳴り出すまでに2分10秒かかる。全9曲のうちシンセサイザーが主体の曲は3曲で、残りは従来どおりのギターの作品である。なお「Eruption」のタッピングが世に出たとき、多くの聴き手はそれをシンセサイザーの音だと思い込んだ。その6年後、今度は本当にシンセサイザーが鳴っていたことになる。

出典: Guitar World(Chris Gill)

エディがロスの復帰を諦めきれずにいたのは1985年7月15日までだった。この日、ヘイガーが5150スタジオに来て、バンドと数曲を演奏して録音している。最初に演奏したのが「Summer Nights」で、ヘイガーはその場で歌詞と歌のメロディを付けた。20分で1曲が丸ごと出来上がったという。ヘイガーが候補として魅力的だったのは実績のためでもある。当時の彼はソロで上り調子で、直近の3作がいずれもゴールド認定を受けていた。ヴァン・ヘイレン兄弟は彼が1970年代半ばにモントローズで歌った作品の愛好者でもあった。

出典: Guitar World(Chris Gill)

『5150』に入っている「Summer Nights」と「Get Up」は、新しい楽器を手にした直後に書かれている。1985年夏、ニューオーリンズで開かれたNAMMショウで、製作者のネッド・スタインバーガー本人がエディにヘッドレス・ギターのGL2Tを贈った。この楽器にはトランストレムという機構が付いており、ヴィブラート・バーで和音全体を上げ下げしても音程が保たれる。エディは受け取ってから数日でこの2曲を書き上げた。

出典: Guitar World(Chris Gill)

『5150』の1曲目「Good Enough」でエディが使ったのは、クレイマーの1984モデルに手を加えたギターである。6弦の低いEを外し、そこにベース用の低いA弦を張った。結果として低音側からA・A・D・G・B・Eという並びになり、リズム・パートにバリトン・ギターのような響きを与えつつ、リード・パートは普段どおりに弾けるようになっている。

出典: Guitar World(Chris Gill)

1980年の『Women and Children First』は、全曲がバンドの書き下ろしで占められた最初の作品である。制作は速かった。エディによれば、演奏部分は6日、アルバム全体でも8日で終わっており、費用は3万から4万ドルの範囲だった。発売はアメリカで1980年3月26日。

出典: Louder / Classic Rock

エディがスタジオで鍵盤を弾いた最初の曲は「And the Cradle Will Rock…」である。使ったのは古いウーリッツァーの電気ピアノで、それを自分のマーシャルに通し、MXRのフランジャーをかけた。ギター・ヒーローが舞台で鍵盤を弾くのをバンドが嫌がったため、公演ではマイケル・アンソニーが弾くことになった。

出典: Guitar World

1988年の『OU812』という題名は、前年にデイヴィッド・リー・ロスが出した『Eat 'Em and Smile』への当てこすりである。アルファベットと数字の並びを声に出して読むと、相手に向けた一言になる。

出典: Louder / Classic Rock

1991年の作品について、サミー・ヘイガーは題名をただ一語の卑語にしたいと考えていた。実際に付いたのは『For Unlawful Carnal Knowledge』で、頭文字を並べるとその一語になる。なおヘイガーが在籍した4作のスタジオ・アルバムは、いずれも全米チャートの首位に立っている。

出典: Louder / Classic Rock

1998年の『Van Halen III』は、ゲイリー・シェローンがヴォーカルを務めた唯一のアルバムである。ビルボードのチャートに4位で初登場したものの、認定はゴールド、つまり50万枚にとどまった。それまでのヴァン・ヘイレンのアルバムはどれも200万枚以上を売っていた。この作品の後、次のアルバムが出るまでに14年が空くことになる。

出典: Louder / Classic Rock / Blabbermouth

ゲイリー・シェローンがヴァン・ヘイレンに入ったのは、自身のバンドであるエクストリームが解散してから3か月と経たない時期だった。本人は、この近さのせいで、この仕事を取るためにエクストリームを辞めたのだと誤解されるようになったと述べている。作品の作り方についても彼の説明が残っている。『Van Halen III』はほぼ全曲を一から書いたもので、後の『A Different Kind of Truth』が倉庫にあった素材を使ったのとは事情が違う、というのが彼の言い分である。

出典: Blabbermouth(ゲイリー・シェローン)

『A Different Kind of Truth』のプロデュースはジョン・シャンクスが担当し、基本の録音はヘンソン・スタジオで行われた。ただし完成した音のうち、ギターとベースはすべて5150スタジオで録り直されている。ミックスも当初はヘンソンで進んでいたが、これも5150へ移された。ヘンソンで使われていたテープ経由の録音システムが、音を軒並み眠くしてしまったためである。

出典: Guitar World(エディ・ヴァン・ヘイレン)

「Beat It」でのエディの仕事は、ソロを弾いただけではない。彼はまず曲の構成に手を入れ、エンジニアに中間部を切り直させたうえで、その新しい編集に合わせてソロを2度即興で弾いた。2本目を弾き終えたところへマイケル・ジャクソンが入ってきて、それを了承したという。報酬は受け取っていない。

出典: Guitar World