JOHN SYKES TRIVIA
Trivia
1994年のシン・リジィ再結成は、日本側の問いかけから始まっている。サイクスは2008年の取材でその経緯を語り、当時の自分は日本での活動が非常に充実しており、取材のたびにシン・リジィが再び集まる可能性を訊かれ続けたと述べた。彼は最初それを馬鹿げた話として退けていたが、質問は数年にわたって止まなかった。ブルー・マーダーのライヴ盤でシン・リジィの曲を演奏したこともあり、彼はついにスコット・ゴーハムに相談する。ゴーハムがブライアン・ダウニーに話を回すと、周囲の予想に反してダウニーが乗り気を示し、リハーサルから公演へと進んだ。Blabbermouth がこのインタビューを報じた。
サイクス名義の最初のレコードは、シン・リジィに加入する前に出ている。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、彼は1982年夏にMCAとソロ契約を結び、初のソロ・シングル「プリーズ・ドント・リーヴ・ミー」をリリースした。この曲はシン・リジィのフィル・ライノットとの共作で、歌っているのもライノット本人である。つまりサイクスは、リジィのギタリストになるより先に、リジィの首謀者と曲を書き、その歌声を自分のシングルに迎えていたことになる。
サイクスはホワイトスネイクからの誘いを一度断っている。公式サイトのバイオグラフィによれば、デイヴィッド・カヴァデールに見出された彼が最初に固辞した理由は、フィル・ライノットとシン・リジィへの義理だった。その後も連絡が続き、最終的にライノット本人から「行っていい」という後押しを受けて加入を決めている。参加はまず『Slide It In』のアメリカ盤に反映され、続くツアーは1985年のロック・イン・リオで50万人を前に締めくくられた。この公演は南米全域でテレビ放送されている。
ブルー・マーダーは最初、まったく別の顔ぶれで動き出している。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、1987年に活動拠点をロサンゼルスへ移したサイクスが結成時に組んだのはコージー・パウエル、トニー・フランクリン、レイ・ギランの3人で、バンドはゲフィン・レコードと契約した。しかしギランとパウエルが相次いで離脱する。1988年にカーマイン・アピスがドラムで加わり、結果としてサイクスがギターとヴォーカルを兼ね、フランクリンとの3人組という形に落ち着いた。1989年4月にデビュー作を出し、8月には来日公演を行っている。
『Loveland』のジャケットに写っているギターは、サイクス本人の1959年製レス・ポール・サンバーストである。公式サイトの機材ページによれば、この個体はジャケットに使われただけでなく、同作のレコーディングの大半でも弾かれた。彼は数回のライヴでも持ち出したが、これほどの価値を持つ楽器をツアーの過酷さにさらすことの意味を考え直し、いつもの黒のレス・ポール・カスタムに戻している。
サイクスの没年は、いまも誤って伝えられることがある。公式サイトは2025年2月、トップページの追悼画像に記された「1959-2024」という表記について問い合わせが相次いだことを受け、経緯を説明した。彼が亡くなったのは2024年12月の下旬で、その事実が公表されたのが翌2025年だったため、一部の媒体が没日を2025年1月として報じてしまった、というのがサイト側の説明である。同じ告知は、追悼行事に関する噂には取り合わず、正確な情報は公式サイトと公式SNSからのみ出ると添えている。
「Is This Love」はもともとホワイトスネイクの曲として書かれていない。Songfacts によれば、アルバムの初期の作曲期に南フランスへ渡ったカヴァデールは、渡英前にEMIの知人から、ティナ・ターナーに合う曲があれば知らせてほしいと頼まれていた。「What’s Love Got To Do With It」の世界的成功を受けた次の一手を探していたためである。ヴィラでその曲をいじっていた彼にサイクスが反応し、これはターナー向けだと聞かされたうえで一緒に組み立てていった。最終的にレコード会社の総帥デイヴィッド・ゲフィンが聴き、ホワイトスネイクで出すよう促したことで曲の行き先が変わった。
アルバム『Whitesnake』の9曲を共作したサイクスは、その発売前にバンドから外されている。彼は2017年の英Rock Candy誌でこの件を語り、ベースのニール・マーレイ、ドラムのエインズレー・ダンバーとともに解雇されたこと、カヴァデールからは誰にも何も伝えられなかったこと、自分がもうメンバーでないと知ったのはA&R担当のジョン・カロドナーに事情を尋ねたときだったことを述べている。サイクスによれば、メンバー交代はレコード会社の指示だというカヴァデールの説明も、ギター・パートの95パーセントを自分が書いたという主張も事実に反する。同誌の取材を Blabbermouth が報じた。
サイクスが初めて日本の舞台に立ったのは、シン・リジィの最後のワールド・ツアーだった。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、彼が加入したのは1982年秋で、その数ヶ月後にバンドは解散を宣言している。結果として彼はシン・リジィ最後のギタリストとなり、最終スタジオ作とライヴ盤に参加し、その最後のツアーの一環として日本で初めて演奏した。バンドの正式な解散は翌年8月である。
ホワイトスネイクのギタリストとしてのサイクスを日本の観客が最初に見たのは、1984年8月の『スーパーロック’84』だった。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、彼が加入したのは1983年末で、最初の仕事はすでに録音の終わっていた『スライド・イット・イン』をアメリカ市場向けにリミックスするためのギターの録り直しである。その作業を経て、翌年夏に来日した。
ブルー・マーダーが残した唯一のライヴ盤は、日本公演の記録である。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、1993年9月に『ナッシング・バット・トラブル』を出したバンドは同年12月に来日し、その模様を収めた『スクリーミング・ブルー・マーダー』を翌1994年3月に発表した。この時期の編成はサイクス(ギター&ヴォーカル)、マルコ・メンドーサ(ベース)、ニック・グリーン(キーボード)、ケリー・キーリング(バッキング・ヴォーカル)を含む5人体制だった。
1982年のソロ・シングル「プリーズ・ドント・リーヴ・ミー」は、日本で繰り返しCD化されている。ユニバーサル ミュージック ジャパンのディスコグラフィには、1992年12月16日発売のCD(品番MVCM-309)に加え、2008年5月7日(UICY-93470)と2016年5月18日(UICY-25650)のSHM-CD盤が並ぶ。フィル・ライノットが歌ったこの一曲が、シングルとして出てから四半世紀以上を経てなお日本の店頭に置かれ続けたことになる。
ジョン・サイクスがギターを覚えたのはイギリスではなく、地中海のイビサ島だった。1959年7月29日にイングランドのレディングで生まれた彼は、10代前半に両親の仕事の都合でスペインのイビサへ移り、そこでギターを手にしてブルースにのめり込んでいる。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、70年代後半にイギリスへ戻った時点での彼はまだ建築関係の仕事に就いており、音楽で生きると決めたのはコロシアムIIでのゲイリー・ムーアの演奏を目にした後のことだった。そこからローカル・バンドでの活動が始まる。
シン・リジィの「フェアウェル」ツアーが終わっても、サイクスとフィル・ライノットの関係は途切れなかった。公式サイトのバイオグラフィによれば、彼はツアー後にライノットのヨーロッパ・ソロ・ツアーへ合流し、そのバンドはザ・スリー・マスケティアーズ(三銃士)と呼ばれていた。同じページは、シン・リジィ最後の公演となった1983年のレディング・フェスティヴァルの模様をBBCがライヴ盤として記録していることも書き添えている。
サイクスにミュージシャンになる決心をさせたのはゲイリー・ムーアの演奏だったが、彼は後年そのムーアへの追悼作に参加している。公式サイトのニュースによれば、2011年に亡くなったムーアを悼むトリビュート企画『Moore Blues for Gary – A Tribute To Gary Moore』は、80年代初頭からムーアとベースを弾いてきたボブ・デイズリーが立ち上げたもので、当時の死に際して十分に語られなかったという思いから、ムーアの音楽を新たに録音し直す形を取った。サイクスはここで「Still Got The Blues」を演奏している。
ブルー・マーダーの2作目はリズム隊が総入れ替えになっている。公式サイトのバイオグラフィによれば、『Nothin’ But Trouble』ではベースにマルコ・メンドーサ、ドラムにトミー・オスティーンを新たに迎えた。同じページは、デビュー作がサイクスの燃えるようなメロディアスなギターだけでなく彼の歌の力量も示した一枚だったと位置づけ、壮大な「Valley of the Kings」からポップ寄りの「Jelly Roll」まで曲の幅があったことを挙げている。
『Out of My Tree』はサイクス個人の名義ではなく、"サイクス" というバンド名で出ている。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、これは1995年8月に発表されたマーキュリー移籍第1弾で、自らのルーツに立ち返ったギター中心の作品として位置づけられた。同年12月には来日公演を行い、翌1996年初頭にはアイルランドのダブリンで、フィル・ライノットの没後10年を記念するシン・リジィの再会公演に出演している。
サイクスの代名詞である分厚い歪みは、「Is This Love」では鳴っていない。公式サイトの機材ページによれば、彼は1961年製フェンダー・ストラトキャスターをクリーンなギター音の録音によく使っており、ホワイトスネイクの「Is This Love」の録音でもこのギターを多く用いた。レス・ポール・カスタムの持ち主として知られる彼が、あの曲の質感のためにまったく別の楽器を選んでいたことになる。
サイクスの黒いレス・ポール・カスタムを一目で見分けられるものにしたのは、フィル・ライノットの提案だった。公式サイトの機材ページによれば、シン・リジィ在籍時にライノットの助言を受けて、ピックアップのマウント・リング、ピックガード、トグルスイッチのプレートを純正部品からクローム製に交換している。彼の主力機は1978年製のレス・ポール・カスタムで、同ページはこの1本が数千回の公演と、直近20年のすべてのレコーディングで使われてきたと記す。ペグはグローヴァーに替えられ、ナットは真鍮、ブリッジ側のピックアップは長年使ったギブソンの「Dirty Fingers」が不調になったため、出力の低いPAFの復刻版に載せ替えられた。
『Whitesnake』とブルー・マーダーのデビュー作の音は、同じアンプから出ている。公式サイトの機材ページによれば、サイクスはこの2作の多くの部分でメサ・ブギーのコロシアム・ヘッドを2台使った。マークIIIのプリアンプ部を持ちながら6L6を6本積んだ仕様で、1台あたり180ワットに達する。同ページは、シン・リジィやサイクス名義のツアーでは対照的に、レス・ポールを50ワットのJCM800マーシャル1台と4x12キャビネット1台へ直結する簡素な構成を10年以上続けたことも記している。
サイクスのギター・コレクションには、他人からの贈り物が一本ある。公式サイトの機材ページによれば、彼が持つジョー・サトリアーニ・モデルのアイバニーズは、サトリアーニ自身がツアーで使った後にサイクスへ譲ったものだという。同じページは、彼が近年に手に入れたギターのなかで最も気に入っているのがEVHのフランケンシュタインだとも書いている。
ギブソンは2006年、サイクスの名を冠したレス・ポールを製造している。公式サイトのバイオグラフィによれば、これは彼の70年代製レス・ポール・カスタムを手本にした「Inspired By」シリーズのシグネチャー・モデルで、実機の風合いまで再現したエイジド仕様と、標準的なVOS仕様の2種類が用意された。生産数はエイジドが66本の限定、VOSが100本強にとどまり、いずれもほぼ即座に完売して以後は収集対象になっている。
『Nuclear Cowboy』は、サイクスの作品としては異質な作り方をしている。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、2000年10月に出たこの3年ぶりの作品には、ブルー・マーダー時代のカーマイン・アピスとトニー・フランクリンが参加した一方で、ドラム・ループやプログラミングといった、それまでのジョン・サイクス作品には無かった手法が持ち込まれている。結果としてこれが彼の最後のスタジオ・アルバムとなった。
2019年に発表されたゴールデン・ロボット・レコーズとの契約は、その年のうちに解消されている。公式サイトのニュースによれば、サイクス側は契約後に取り決めが履行されなかったとし、こちらの努力と忍耐にもかかわらず前進の試みがほとんど見られなかったと説明した。書面の契約が果たされない口約束に戻ってしまえば会社としての誠実さは失われる、というのが彼らの表明である。以後はアルバムを自分たちの管理下で出す方針を示した。
サイクスが授賞式の壇上に立ったのは、自分の受賞のためではなかった。公式サイトのニュースによれば、2019年1月、彼は友人のボブ・デイズリーがHall of Heavy Metal Historyに殿堂入りするにあたり、本人に代わって賞を受け取るために招かれている。デイズリーはオジー・オズボーン、ゲイリー・ムーア、ユーライア・ヒープ、ブラック・サバスらと仕事をしてきたベーシストで、直近ではムーアへのトリビュートでサイクスとも並んでいた。式の進行を務めたのは、やはりサイクスと親しいラジオ・パーソナリティのエディ・トランクだった。
サイクス本人のSNSアカウントは存在しなかった。公式サイトは2019年1月、彼になりすますFacebookのプロフィールが作られたことを受けて注意を促し、ジョンは個人のSNSアカウントを一切持っていないと明言している。彼に紐づくのは公式サイトからリンクされたFacebookページと関連するTwitterページだけで、いずれも管理者がニュース配信として運用し、時折り本人のメッセージが載る形だった。同サイトは、なりすましをせず彼の歴史を伝えているファン・ページについては、その働きを歓迎するとも述べている。
サイクスの死後、彼の仕事を扱ったドキュメンタリーが作られている。公式サイトは2025年8月、映像作家ダミアン・コロディが『John Sykes: His Words, His Music』と題する2部構成の作品を完成させたことを伝えた。ギタリストとして、また作曲者としての彼の経歴をたどる内容で、YouTubeで公開されている。
サイクスは2025年のロックの殿堂授賞式で追悼された。公式サイトによれば、同年11月に行われた式典の「In Memoriam」で彼の名が読み上げられ、その場面は式の開始からおよそ3時間8分の位置にあたる。式の模様は期間限定でDisney+にて配信された。
没後に出ているサイクス名義の音源をめぐって、遺族側は公式サイトで見解を示している。2026年9月の声明によれば、遺産管理者はゴールデン・ロボット・レコーズに対し、同社が録音物を発売・利用する契約上および法律上の根拠、権利の範囲、既発分の会計情報の開示を求めた。同社の法務担当は有効な権利を有すると考えている旨を回答したものの、求められた契約書面と詳細な説明は示されず、2026年6月18日に「追って」実質的な回答を出すと伝えたきり、約3か月を経ても届いていないという。遺産管理者は、当該リリースを承認しておらず決定にも関与していないと明言し、自らの立場をファンと公衆に理解してもらうために声明を出したと述べている。
タイガース・オブ・パンタンを離れた直後のサイクスは、オジー・オズボーン・バンドの一員になる可能性を追ってアメリカへ渡っている。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、彼はメンバー候補として渡米したものの話はまとまらず、イギリスへ戻った。シン・リジィ加入もホワイトスネイク加入も、この不発の後に起きたことである。
1987年の『Whitesnake』は全世界でおよそ2000万枚を売っている。公式サイトのバイオグラフィはこの数字を挙げたうえで、サイクスがアルバムの全曲を共作し、「Still of the Night」や「Is This Love」といった、いまもラジオでかかり続ける代表曲を生んだことを記す。同ページによれば、2017年後半にはこの作品の30周年記念コレクターズ・ボックスが組まれ、オリジナルのデモ音源と当時のセッション写真が収められた。
1997年のサイクスは、性格の異なる2枚を同じ年に出している。ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、初のソロ名義によるフル・アルバム『ラヴランド』はストリングスを加えたバラード作で、続く『20thセンチュリー』はサイクス名義の作品として作られた。後者ではベースにマルコ・メンドーサを残し、ドラムはサイモン・フィリップス、トミー・アルドリッジらセッション・ミュージシャンで固めている。翌年には来日ツアーが行われた。
サイクスのベスト盤は日本のカタログにしか見当たらない。ユニバーサル ミュージック ジャパンのディスコグラフィには、1998年12月16日発売の『ベスト・オブ・ジョン・サイクス〜第一章(チャプター・ワン)』(品番PHCR-82)と、2000年8月9日にあらためて出た『第一章 ベスト・オブ・ジョン・サイクス』(PHCW-1074)が並ぶ。同じ一覧には1995年10月5日のCDマキシ・シングル『マイ・ライフ』(PHCR-8335)も残っており、日本のマーケットが彼のソロ期の主戦場だったことがそのまま品番の連なりに表れている。
サイクスが最初に音源を残したバンドはタイガース・オブ・パンタンではない。Louder の追悼記事によれば、彼は1978年にストリートファイターという最初のバンドに加わり、そこで録音した唯一の曲「She’s No Angel」が1980年のNWOBHMコンピレーション『New Electric Warriors』に収められた。タイガース・オブ・パンタンに加入したのはその同じ1980年で、以後バンドの2作目『Spellbound』と3作目『Crazy Nights』で弾いている。ティーンエイジャーの彼にギターを握らせたのはエリック・クラプトンの音楽だった。
シン・リジィがサイクスに求めた席は、スノーウィー・ホワイトが去った後のリード・ギターだった。Louder の追悼記事によれば、1982年にタイガース・オブ・パンタンを離れた彼はソロ・シングル「Please Don’t Leave Me」をフィル・ライノット、ダレン・ウォートン、ブライアン・ダウニーというシン・リジィの3人を含む顔ぶれで録音しており、まもなくホワイトの後任として声がかかっている。バンドで残した唯一のスタジオ盤『Thunder and Lightning』は、彼が持ち込んだNWOBHM由来の手つきによってシン・リジィ史上もっとも重い一枚になった。
サイクスは自分が加入したバンドが解散寸前だとは聞かされていなかった。スコット・ゴーハムは2020年のClassic Rock取材でその件に触れ、『Thunder and Lightning』が最後のアルバムになることをバンド側は分かっていたのに、自分たちでさえ信じ切れずにいたためサイクスには伝えなかったと語っている。ゴーハムはこの一件でサイクスが割を食ったという見方を示した。Louder の追悼記事は、この証言をサイクスのシン・リジィ在籍を語るくだりに置いている。
サイクスがホワイトスネイクで最初に手を入れた『Slide It In』は、アメリカのレコード会社が発売を拒んでいた作品だった。Louder の追悼記事によれば、シン・リジィ解散後の彼はライノットの新バンド、グランド・スラムでの活動を考えていたが、1984年初頭に届いたホワイトスネイクからの誘いを受け、宙に浮いていた『Slide It In』にギターを加えるのに間に合っている。同記事は、この盤が最終的に全世界で600万枚以上を売り、次の『1987』はアメリカだけで800万枚を超えたと記している。
サイクスを迎えた側の理由も記録に残っている。デイヴィッド・カヴァデールは2009年のMetal Hammer取材で、当時のホワイトスネイクをより引き締まった攻撃的な音へ変えたかったと述べ、短期間に6枚を作って十分な成果を挙げた一方、従来のブルースとポップの延長に留まりたくなかったと説明している。その転換を担える人材として招いたのがサイクスだった、というのがカヴァデール側の説明である。Louder の追悼記事がこの発言を引いている。
『Whitesnake』のミュージック・ビデオに映っているギタリストは、その音を弾いた人物ではない。Songfacts によれば、先行シングル「Still Of The Night」はカヴァデールとサイクスの共作だが、アルバムが世に出る頃にサイクスはすでにバンドを離れており、ビデオにはエイドリアン・ヴァンデンバーグとヴィヴィアン・キャンベルが立っている。同じ記事は、カヴァデールがこの曲の音楽面の着想を1957年のエルヴィス・プレスリーのヒット「Jailhouse Rock」に求めたと述べていることも記録している。
カヴァデール側の説明も残っている。彼は2023年のMetal Edge取材でサイクスとの関係を問われ、二人の音楽的な相性は素晴らしかったが個人としては噛み合わなかった、どれほど良いアルバムを一緒に作ろうと人間同士としては通じ合えなかった、と述べた。サイクスは『Whitesnake』に不可欠な存在であり優れたライヴ・プレイヤーだとも認めている。自身のソロ作『Into The Light』のデモ作業中、15年ほどの不仲を経て二人は一度話をして良い雰囲気になり、再びの共作が頭をよぎったが、話すほどに互いの変化を実感して同じことの繰り返しになると判断した、というのがカヴァデールの説明である。BARKS が日本語で報じた。
サイクスはブルー・マーダーの全曲を書いているが、これをソロ・プロジェクトと呼ばれることを嫌った。Classic Rockの取材(2014年に掲載され、彼の死去に際して2025年にLouderで再掲)で彼は、自分は常にバンドの中にいるときが一番良く、作曲を担っていても他の全員が対等な構成員だと考えていたと述べている。デビュー作については、ホワイトスネイクを過去にして自分のやり方で一枚作りたかったこと、最初から徹底して重い作品にするつもりだったことを説明した。彼が最も誇りに思うのもこのデビュー作である。
ブルー・マーダーが2枚で終わったのは当初の計画ではなかった。サイクスはClassic Rockの取材で、1993年に2作目『Nothin’ but Trouble』を出す頃には音楽業界が大きく変わっており、グランジの台頭とともに自分たちのやっていた種類の音楽が突然求められなくなった、と説明している。彼はまた、2作目でラジオでの露出を狙い、より商業的であれという説得に応じたことを判断の誤りとして挙げ、皮肉にも発売時にはその手の音楽への関心自体が失われていたと述べた。
ブルー・マーダーの再結成が実現しなかった理由を、サイクス自身が2008年の取材で説明している。カーマイン・アピスが日本公演の計画を語っていた件について問われた彼は、契約を交わしていたのは自分だけで、これは自分のバンドであり、演奏する面々は自分が選んだのだと述べた。アピスがバンドを自分のものであるかのように語ることが、集まれない理由だという説明である。Blabbermouth がこのインタビューを報じた。
19年も新作が出なかった理由の一端が、2019年のBARKSの記事に残っている。5枚目のソロ作は当初2016年から2017年にかけて出す予定でティーザーも公開されていたが、マネージャーが亡くなったことでサイクスは信頼できる相手を失い、作品を凍結したという。この時点で録音にはジョシュ・フリース、トニー・フランクリン、クリス・チェイニーらの名が挙がっており、タイトルは『Sy-Ops』とされていた。
短命に終わったゴールデン・ロボットとの契約だが、日本のリスナーへの供給経路は別に用意されていた。BARKSが2019年2月に報じたところによれば、この新作は海外ではゴールデン・ロボット・レコーズから、日本と全アジアではWard Recordsから発売される予定だった。録音には旧知のトニー・フランクリンがベースで久々に復帰し、ドラムはフレッド・ボズウェルJr.が務めるとされていた。
サイクスはガンズ・アンド・ローゼズのオーディションを受けたことがある。BARKSが2021年に報じたリチャード・フォータスの証言によれば、それはロビン・フィンクの後任を探していた2009年のことで、リハーサル室に現れたサイクスを見たトミー・スティンソンは当初、聴くまでもないと考えたという。ところが本人がアンプにつないで弾き始めた2分後には、その場にいた全員が驚嘆していた。フォータスはトーンが驚異的だったと振り返っている。なぜ選ばれなかったのかという問いに対する彼の答えは、評判の問題だった、というものである。
サイクスがシン・リジィの名義でステージに戻ったのは、ブルー・マーダーを失った直後だった。Louder の追悼記事によれば、ライヴ盤の発売後にレーベルから契約を打ち切られたバンドに代わり、彼はブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ダレン・ウォートンを迎えてツアー版のシン・リジィを立ち上げている。ソロ・キャリアの開始はその翌年で、1995年の『Out Of My Tree』がその第一作である。
サイクスはシン・リジィ名義で新曲を録ることに長く反対していた。2008年の取材で彼は、いま録音を始めるのは敬意を欠くのではないかという考えから、長いあいだそれを拒んできたと述べている。新しい音を聴きたいという声が多く寄せられ、スコット・ゴーハムがついに乗り気になったことで、彼も「そろそろ時期かもしれない」と考え直した。素晴らしいものが作れるのなら取り組む用意がある、というのがその時点での彼の立場だった。Blabbermouth がこのインタビューを報じた。
2000年代前半に流れたホワイトスネイク再結成の噂について、サイクスは2008年の取材で経緯を語っている。彼によれば、カヴァデールから電話があり、どんなバンドを組むべきか、誰を入れるべきかについて助言を求められたという。サイクスはトミー・アルドリッジとマルコ・メンドーサの名を挙げたが、その後カヴァデールから連絡が来ることはなかった。Blabbermouth がこのインタビューを報じた。
ブルー・マーダーを見つけた当時のマイルス・ケネディは、ケーブルテレビを持たない家の10代だった。彼は Classic Rock に寄せた文章で、友人の家でMTVを見ていてこのバンドを知ったこと、局がかけていたのは「Valley Of The Kings」と「Jelly Roll」の2曲だったこと、そこから引っ掛かるものがあってデビュー作にたどり着いたことを書いている。ケネディは、若きボブ・ロックのプロデュースによる音の良さに触れつつ、それ以上に強く残ったのはサイクスのギターで、技巧と情感の釣り合いを保つ奏者だと評した。彼らが超大物にならなかった理由については、時代の巡り合わせを挙げている。
2000年の『Nuclear Cowboy』を最後に、サイクスのスタジオ作は途絶えた。Louder の追悼記事によれば、およそ20年の沈黙を経て彼が動いたのは2021年で、「Dawning Of A Brand New Day」と「Out Alive」という2曲のシングルを出し、続く音源があると予告している。だがその新作が届くことはなかった。
サイクスがツアー版シン・リジィを離れたのは2009年である。BARKSが2021年に報じたところによれば、彼はその年にバンドを脱退しており、同じ2021年の1月1日には新曲「Dawning Of A Brand New Day」のミュージック・ビデオを公開した。記事は、この映像が4年前に作られたものだと言われていること、ソロ・アルバム『SY-OPS』のリリースが期待されていることも伝えている。