UFO TRIVIA

Trivia

1990年代のUFOは、日本でも足跡を残している。ピート・ウェイが10年ぶりに戻った1992年の『High Stakes & Dangerous Men』のツアーでは、川崎のクラブチッタでの公演を録音して、ライヴ・アルバム『Lights Out in Tokyo』を作った。新作の「Running Up the Highway」「Borderline」などに加えて「Lights Out」「Rock Bottom」「Doctor Doctor」といった代表曲も並び、最後はEddie Cochranの「C'mon Everybody」で締めくくっている。レーベルのCleopatra Recordsは、マイケル・シェンカーが加わる前のUFOが日本で絶大な人気を得ていたことを思えば、ここで録音したのは当然の選択だったと紹介している。翌1993年にはシェンカーとアンディ・パーカーが戻って黄金期の顔ぶれがそろい、パーカーによれば、同年12月のドイツでの短いツアーに続いて、1994年6月に日本で何度か公演を行った。その年の12月には、旧知のプロデューサーであるロン・ネヴィソンと『Walk on Water』の制作に取りかかっている。

出典: UFO公式サイト(Internet Archiveの保存版)Andy Parker「Bio」(2007年3月署名、2026年10月18日参照)

デビューしたばかりのUFOを熱心に迎えたのは、本国イギリスではなく日本だった。『UFO 1』はイギリスでもアメリカでも振るわなかったが、日本と、それほどではないもののドイツが思いがけずこの新人バンドを歓迎し、宇宙的なサウンドの路線をもうしばらく続けるだけの勢いを与えた。その流れは1971年のライヴ・アルバム『Live』まで続き、ギターのミック・ボルトンはその後バンドを去っている。ずっと後に、レーベルのCleopatra Recordsは2枚組『High Stakes & Dangerous Men / Lights Out in Tokyo』の商品紹介で、マイケル・シェンカーが加わる前の最初の顔ぶれが、1970年代初めの日本でTHE BEATLESの熱狂に迫るほどの人気を得ていたと書いている。

出典: Ultimate Classic Rock「45 Years Ago: UFO Get Their First Sighting on 'UFO 1'」(Eduardo Rivadavia、2015年10月31日)

アンディ・パーカーがUFOのドラマーになったのは、1969年の夏、まだ17歳の時だった。パーカーによれば、ホッデスドンの行きつけのパブThe Golden Lionで仲間と飲んでいたところへ、フィル・モグ、ピート・ウェイ、ミック・ボルトンの3人が、ドラマーのオーディションをする場所を探してやって来た。前のドラマーをくびにしたばかりだったという。一緒に飲んでいた仲間の1人がウェイと学校で一緒だったことから話が始まり、ボルトンから、バンドでドラマーを探していると持ちかけられた。ボルトンがマーシャルのアンプにギブソンのレスポール、そのうえマネージャーまで持っていると聞いて、パーカーはこれは大舞台だと色めき立ち、オーディションを受けて採用された。当時のパーカーは、のちにMICHAEL SCHENKER GROUPで客席から見えない位置でギターを弾くことになるSteve Caseyと、ブルース・バンドを組んでいた。

出典: UFO公式サイト(Internet Archiveの保存版)Andy Parker「Bio」(2007年3月署名、2026年10月18日参照)

UFOのデビュー・アルバム『UFO 1』は、1970年にBeacon Recordsから出た。ドラムのアンディ・パーカーは、契約書にサインするのに18歳の誕生日まで待たなければならなかったという。だまされているに違いないと考えた両親が、代わりにサインするのを断ったからである。パーカーは、結局は両親の見立て通りで、Beaconでの録音からは1度もお金を受け取れなかったと認めている。それでも、あの録音がUFOの名前を世界に広め、もっと大きな舞台につながったのだから、自分の決断は正しかったと書いている。実際、レーベルに資金が乏しかったこともあって、『UFO 1』は本国イギリスではほとんど売れず、翌年にMotown傘下のRare Earthからライセンス発売されたアメリカでは、さらに振るわなかった。

出典: UFO公式サイト(Internet Archiveの保存版)Andy Parker「Bio」(2007年3月署名、2026年10月18日参照)

ドイツの公式チャートには、UFOの初期のシングルが2曲記録されている。1971年2月22日付で初登場した「Boogie」が最高30位、同じ年の10月4日付で入ったBeacon盤のシングル「Prince Kajuku」が最高26位で、こちらは10週チャートにとどまった。アルバムでは、Deccaから出た『Live』が1972年9月15日付で入り、最高23位まで上がっている。これはUFOがドイツのアルバム・チャートで記録した最高位で、続くのは2015年の『A Conspiracy of Stars』の28位である。マイケル・シェンカーの在籍時に出たスタジオ・アルバムでは、1975年8月15日付で入った『Force It』の35位が最高だった。

出典: Offizielle Deutsche Charts「Prince Kajuku」チャート詳細(UFOの全チャート記録を含む、2026年10月18日参照)

全英シングル・チャートでのUFOのヒットは多くない。1974年にChrysalisが『Phenomenon』からの最初のシングルとして出した「Doctor Doctor」はチャートに入らず、UFOが初めて全英チャートに顔を出したのは1978年8月の「Only You Can Rock Me」で、最高50位だった。翌1979年1月27日付で入った、ライヴ・アルバム『Strangers in the Night』からの「Doctor Doctor」が35位まで上がり、これが初めてのトップ40入りとなる。その後トップ40に届いたのは1980年1月の「Young Blood」の36位だけで、全英チャートに入った8枚のシングルのうち、トップ40はこの2曲にとどまった。最後のチャート入りは1986年3月の「Night Run」で、94位だった。

出典: Official Charts「UFO songs and albums | full Official Chart history」(Official Charts Company、2026年10月18日参照)

全英アルバム・チャートでUFOがトップ10に入ったのは2回だけである。最高位はライヴ・アルバム『Strangers in the Night』で、1979年2月10日付で初登場7位を記録し、11週チャートにとどまった。もう1枚は1982年2月20日付で入った『Mechanix』の8位である。その間の『No Place to Run』も、1980年1月に11位まで上がった。一方、1977年の『Lights Out』は同年6月に54位まで上がったものの2週で姿を消し、翌1978年の『Obsession』も26位だった。

出典: Official Charts「UFO songs and albums | full Official Chart history」(Official Charts Company、2026年10月18日参照)

UFOという名前は、ロンドンのクラブ「UFO」から取られている。Syd Barrettがいた頃のPINK FLOYDが最初期に出演していた店で、のちにはスウィンギング・ロンドンのスターたちが集う人気の場所にもなった。バンドが最初に考えていた名前はHOCUS POCUSだったが、この店の名に切り替えた。ヴォーカルのフィル・モグ、ギターのミック・ボルトン、ベースのピート・ウェイ、ドラムのアンディ・パーカーの4人はこのクラブで目に留まり、インディペンデントのBeacon Recordsと契約している。パーカー自身も、1969年に初めて会ったボルトンから、HOCUS POCUSというバンドでドラマーを探していると声をかけられたと書いている。

出典: Ultimate Classic Rock「45 Years Ago: UFO Get Their First Sighting on 'UFO 1'」(Eduardo Rivadavia、2015年10月31日)

マイケル・シェンカーがUFOに加わったいきさつは、本人とフィル・モグとで覚えていることが少し違う。モグによれば、ピート・ウェイと2人でSCORPIONSで弾くシェンカーを見て、求めていたのはまさにこれだと言い合ったものの、どうやって引き抜けばいいか分からなかった。そこへギタリストのバーニー・マースデンが姿を見せなかった日があり、シェンカーがUFOと一緒に音を出したのだという。シェンカー自身は、UFOとSCORPIONSが一緒にツアーを回っていた時にUFOのギタリストがパスポートをなくし、ツアーを続けるために2日ほど、SCORPIONSで最初のステージを務めてからUFOでも弾いたと語り、その時に加入を誘われたという。ドイツではロックは死んだも同然でディスコばかりだったから、イギリスのバンドに誘われたら行くとかねてSCORPIONSに言っていたとも振り返っている。年齢の記憶も分かれる。シェンカーの公式サイトは加入を1973年の暮れ、18歳の時としているが、シェンカーは2014年の取材で、2つのバンドを掛け持ちしたのは16歳の時だったと話している。

異説あり出典: Songfacts「Michael Schenker: Songwriter Interviews」(Greg Prato、2014年4月16日)

加入したばかりのマイケル・シェンカーは英語をほとんど話せなかった。どうやって意思を通わせたのかとUltimate Classic Rockに聞かれたフィル・モグは、確かに難しかったが、ああいう状況ではうまくやるしかなかったと笑い、困ったのはある音の呼び方が食い違ったことくらいで、それもたいていは冗談で乗り切ったと答えている。シェンカーは飲み込みが早かったという。曲作りはカセット・テープで進んだ。シェンカーがリフや長いソロを吹き込んだテープをモグに渡し、モグがそれに合わせて思いつくままに歌を乗せ、リハーサルで曲にまとめた。ピート・ウェイも、リフや思いつきを録ったテープを持ってきた。シェンカー自身は、加入した時のUFOはサイケデリックなバンドだったが、自分が次々にリフを出してモグがそこに歌を付けるうちに、まったく別のバンドになったと語っている。

出典: Ultimate Classic Rock「How UFO Aimed for the Stars With 'Lights Out'」(Matt Wardlaw、2024年4月13日)

「Doctor Doctor」のリフは、加入したばかりのマイケル・シェンカーが持ち込んだものだった。シェンカーはSCORPIONS時代から手放さずにいたWatkinsのテープ・エコー、Copycatでリードとリズムの両方のギターにハーモニーを重ね、手持ちのカセット・レコーダーで簡単なデモを録った。それをフィル・モグに聴かせたのは、Chrysalisとの打ち合わせに向かう地下鉄のエスカレーターの上だったという。当時シェンカーはロンドン北部のPalmers Greenに越してきていて、モグはその近所に住んでいた。モグは、デモではドラムの代わりに段ボール箱をたたいていたと笑い、シェンカーのカセット・プレーヤーを自分のものと並べて言葉を吹き込んだと振り返る。デモの完成度は高く、バンドはアレンジをほとんど変えなかった。歌詞は失恋の歌のように聞こえるが、モグによれば、ツアー中にピート・ウェイとアンディ・パーカーが看護師たちと関わったあげく医者の世話になった一件がもとで、何も知らないシェンカーは得意げにこの曲をドイツの両親に聴かせたという。TEN YEARS AFTERのベーシストでもあるプロデューサーのレオ・ライオンズは『Phenomenon』でも指折りの曲と評価したが、メンバーは内心、少しポップすぎないかと思っていた。

出典: Songfacts「Doctor Doctor by UFO」(2026年10月18日参照)

IRON MAIDENのコンサートでは、メンバーが登場する前にいつも「Doctor Doctor」が流れる。ブルース・ディッキンソンは2022年2月11日、シカゴのThe Vic Theatreで行ったスポークン・ワードのショーで、オープニングのテープの前に5分ほど「Doctor Doctor」をかけるのは誰もが知る決まりごとで、それを合図に観客がトイレを切り上げ、残りのビールを飲み干して席へ急ぐのだと説明している。IRON MAIDENはブレイズ・ベイリーが歌っていた時期に、この曲を自分たちでも録音した。Louderが選んだIRON MAIDENのカヴァーのベスト10では、1996年の作品として4位に挙げられている。

出典: Songfacts「Doctor Doctor by UFO」(2026年10月18日参照)

IRON MAIDENのスティーヴ・ハリスは、人生を変えた8曲の1つにUFOの「Love to Love」を選んでいる。それもスタジオ録音ではなく、『Strangers in the Night』のライヴ版である。ハリスの心をとらえたのは、静と動の対比と、じわじわと盛り上がっていく構成だった。子どもたちを車で学校へ送る朝によくこのアルバムをかけて、1日の気合いを入れていたという。ハリスはマイケル・シェンカーとポール・チャップマンのギターやフィル・モグの歌も絶賛し、1981年にはカリフォルニアのロングビーチとサン・バーナーディーノで、IRON MAIDENがUFOの前座を2回務めたと振り返っている。今度は自分たちのツアーにUFOを連れて行きたかったが、なぜか実現しなかったという。モグが新たに結成したMOGGS MOTELのデビュー・アルバムは、エセックスにあるハリスのスタジオで録音された。

出典: Louder「Iron Maiden's Steve Harris: 8 songs that changed my life」(Paul Brannigan、2021年6月24日)

「Rock Bottom」は、ほとんどその場で生まれた曲だった。マイケル・シェンカーによれば、もう1曲欲しいと皆で考えあぐねていた時にシェンカーがこのリフを弾くと、フィル・モグが跳び上がって「それだ、それだ」と叫び、そこから曲の形にしていったのだという。曲の中ほどには、自由に弾ける部分が残されている。シェンカーは、純粋な自己表現が好きな自分にはうってつけの場所で、あのコードの上ならその場でいくらでも新しいアイデアを試せると語る。骨組みは変えずにいるが、ソロは年月とともに変わってきたという。ライヴ・アルバム『Strangers in the Night』では、シェンカーはこの曲を11分に及ぶギターの見せ場に仕立てている。

出典: Songfacts「Michael Schenker: Songwriter Interviews」(Greg Prato、2014年4月16日)

「Only You Can Rock Me」と「Lights Out」は、ピート・ウェイのリフから始まった曲だとマイケル・シェンカーは語っている。ウェイが最初のリフを出し、それに刺激されたシェンカーが残りのパートを付け足していったのだという。ただ「Lights Out」については、フィル・モグの記憶は違う。モグによれば、この曲はリハーサルでのジャムから生まれたもので、たぶんシェンカーがリフを弾き始め、ポール・レイモンドが加わり、皆が後に続いて一気に形になった。サビの大半はもう少し後でできたという。「Lights Out」は2011年にSTRYPERがカヴァー・アルバム『The Covering』で取り上げている。STRYPERのマイケル・スウィートは、自分たちの曲「More Than A Man」はこの曲から生まれたもので、メロディーも歌詞も違うがリフは同じだと認めている。

異説あり出典: Songfacts「Michael Schenker: Songwriter Interviews」(Greg Prato、2014年4月16日)

『Lights Out』で、UFOはプロデューサーを替えた。フィル・モグによれば、『No Heavy Petting』をはじめ数作をレオ・ライオンズと作ってきて、そろそろ変わらなければ、一段上を目指さなければと感じていた。好きなアルバムのクレジットを見ると、エンジニアやプロデューサーとしてロン・ネヴィソンの名前がやたらと出てくる。ネヴィソンに頼めないかと持ちかけると、Chrysalisが話をまとめ、レーベルがジョージ・マーティンと始めたばかりのAIR Studiosにバンドを送り込んだという。録音はすべて24トラックのテープで、具合の悪い箇所を切り取ってつなぐ作業を、ネヴィソンは継ぎ目がまったく分からないほど見事にこなした。大作「Love to Love」は、マイケル・シェンカーのソロが入る中間部を残したまま、残りがリハーサルのたびに長くなっていった。モグは、パブに行くたびにさらに長くなったと冗談を飛ばしている。

出典: Ultimate Classic Rock「How UFO Aimed for the Stars With 'Lights Out'」(Matt Wardlaw、2024年4月13日)

ライヴ・アルバム『Strangers in the Night』の音源は、1978年秋、『Obsession』を携えたアメリカ・ツアーで録られた。失敗を避けたいChrysalisはRecord Plantの移動録音車を手配し、前2作を手がけたプロデューサーのロン・ネヴィソンを送り込んで6公演を録音させた。録音の大半はシカゴとルイヴィルで行われ、アルバムの冒頭には、ステージ・マネージャーのSteve Brooksがしゃがれ声でシカゴの観客にバンドを紹介する場面が収められている。録音車には、のちにGUNS N' ROSESの『Appetite for Destruction』をプロデュースするマイク・クリンクも乗っていた。もっともネヴィソンは、ケンタッキー州ルイヴィルの公演を録ったことさえ覚えていないという。フィル・モグはそもそもライヴ・アルバムを作りたくなかったと打ち明け、当時のバンドは誰が何をしでかしたかで調子が上下していたと語っている。

出典: Louder「UFO's Strangers In The Night: the live album that nearly restarted World War 2」(Dave Ling、2016年6月28日)

『Strangers in the Night』にどこまで手が加えられたのかは、長く議論の的になってきた。ジャケットにマイケル・シェンカーの後任となるポール・チャップマンの名前があったため、シェンカーが抜けた後にチャップマンがスタジオでギターを差し替えたという噂が広まったが、これはシェンカーもプロデューサーのロン・ネヴィソンもそろって否定している。シェンカーは、もしそうならはっきり聴き分けられるはずだと言い、ネヴィソンはチャップマンには会ったことさえないと語る。とはいえ手直しが無かったわけではない。LP2枚の4面に収めるため、ネヴィソンは実際の演奏順を並べ替えざるを得なかった。また「Mother Mary」と「This Kid's」の2曲は後からスタジオで録り直し、ツアーで録った歓声を重ねている。2009年の再発盤では本来の曲順に戻され、「Hot 'N' Ready」と「Cherry」が加えられた。

出典: Louder「UFO's Strangers In The Night: the live album that nearly restarted World War 2」(Dave Ling、2016年6月28日)

マイケル・シェンカーが1978年にUFOを去る決め手になったのは、「Rock Bottom」のテイクだった。ニューヨークのRecord Plantでライヴ・アルバム『Strangers in the Night』をミックスしていた時、シェンカーは自分の見せ場であるこの曲にプロデューサーのロン・ネヴィソンが選んだテイクが気に入らず、差し替えるか、ギターを録り重ねさせてほしいと迫ったが、ネヴィソンは応じなかった。30年以上たってもシェンカーは、あの曲には間違った音がある、自分はミスが大嫌いなのだと語っている。ネヴィソンに言わせれば、シェンカーは自分のギターしか聴いていなかった。フィル・モグは、シェンカーがかわいそうなRock Bottomとつぶやきながらスタジオを出て行き、それきり姿を見せなかったと振り返る。シェンカーは『Obsession』のツアーが終わったら辞めると前から告げていたが、これほど突然だとは誰も思っていなかった。1977年の『Lights Out』の頃にも一度辞めると言い出し、ピート・ウェイに説得されて思いとどまっていたという。

出典: Louder「UFO's Strangers In The Night: the live album that nearly restarted World War 2」(Dave Ling、2016年6月28日)

マイケル・シェンカーが抜けた後の『No Place to Run』で、UFOはTHE BEATLESのプロデューサーだったジョージ・マーティンと組んだ。録音したのは、マーティンがカリブ海のモンセラート島に開いたばかりのAIR Studiosである。レーベルから見れば、洗練された雰囲気でバーも少ないこの島は、ロンドンやロサンゼルスよりよほど安全な仕事場だった。だがピート・ウェイは、その気になればラム酒で倒れるまで酔えたと笑う。作業は午前11時頃に始まって午後6時に一区切りとなり、白い上着の男性がマーティンにジン・トニックを運んできたという。フィル・モグも、6時になるとエンジニアのジェフ・エメリックにベランダでジン・トニックの時間だと声をかけるマーティンの姿が、UFOとの噛み合わなさを何より物語っていたと振り返る。マーティンは歌詞がなかなか上がらないのを気にしたが、当のモグは浜で水上スキーをしていた。マーティンのプレイバックは音量が小さく、マーティンが帰るとウェイとポール・チャップマンが音を思い切り上げた。期待されたヒット・シングルは生まれず、「Young Blood」は全英36位どまりだった。

出典: Louder「When George Martin went 'heavy metal'」(Dave Ling、2016年3月10日)

ポール・チャップマンは、UFOに2度加わったギタリストである。ウェールズ生まれのチャップマンは、1971年にSKID ROWでゲイリー・ムーアの後任を務めた後、1974年に初めてUFOに加わったが、1年ほどで個人的な行き違いから離れ、LONE STARを結成した。フィル・モグによれば、チャップマンとマイケル・シェンカーの2人のリード・ギターはぶつかり合ったという。1978年にシェンカーの後任として戻ると、『No Place to Run』『The Wild, the Willing and the Innocent』『Mechanix』『Making Contact』の4作に参加し、1983年の解散まで在籍した。チャップマンは2015年、シェンカーはリッチー・ブラックモアのようにきっちり組み立てて弾くタイプで、自分はジミ・ヘンドリックスやフランク・ザッパのように自由に弾くタイプだと語り、毎晩ほとんど同じ美しいソロを弾くシェンカーに、たまには羽目を外してみたらと言っていたと振り返っている。チャップマンは2020年6月9日、66歳の誕生日に亡くなった。

出典: Ultimate Classic Rock「Former UFO Guitarist Paul 'Tonka' Chapman Dead at 66」(Martin Kielty、2020年6月10日)

ポール・レイモンドが1976年にUFOに加わったのは、バンドが音のバランスを探しあぐねていたからだった。フィル・モグによれば、それまではポール・チャップマンとマイケル・シェンカーの2人のリード・ギターでやっていたが、2人はぶつかり合い、代わりにキーボードだけを入れてみてもうまくいかなかった。UFOはキーボードが主役のバンドではなかったのである。SAVOY BROWNにいたレイモンドはギターもキーボードも弾けたうえ、ブルースの素地もあって、すんなりバンドに溶け込んだという。レイモンドはそれ以前、FLEETWOOD MACに移ったChristine McVieの後を継いでCHICKEN SHACKにも在籍していた。UFOには4度在籍し、『Lights Out』『Obsession』『No Place to Run』とライヴ・アルバム『Strangers in the Night』で弾いたほか、2003年からは欠かせないメンバーとしてラインナップに定着していた。マイケル・シェンカーのMICHAEL SCHENKER GROUPや、ピート・ウェイのWAYSTEDでも演奏している。

出典: Louder「UFO guitarist and keyboard player Paul Raymond dead at 73」(2019年4月13日)

創設メンバーのピート・ウェイは、1970年の『UFO 1』から1982年の『Mechanix』まで、最初の10枚のスタジオ・アルバムのすべてで弾いた後、MOTORHEADのギタリストだったエディ・クラークとFASTWAYを組むつもりでUFOを離れた。ところがレーベルとの契約の問題で、FASTWAYが1983年にデビュー作を録る前に抜けざるを得なかった。親友のオジー・オズボーンのバンドで「Speak of the Devil」ツアーを短い間手伝った後、自分のバンドWAYSTEDを結成し、オズボーンの「Bark at the Moon」ツアーで前座を務めている。WAYSTEDにはUFOの仲間も集まった。UFOが1983年4月に活動を止めた後、アンディ・パーカーは1984年に短期間WAYSTEDで叩き、ポール・レイモンドとポール・チャップマンもWAYSTEDに在籍した。ウェイは2020年8月、2か月前の事故で負った命に関わるけががもとで亡くなった。69歳だった。

出典: Ultimate Classic Rock「UFO Bassist Pete Way Dead at 69」(Matthew Wilkening、2020年8月14日)

1993年の再結成には条件が付いていた。マイケル・シェンカーによれば、UFOをもう一度盛り立ててほしいとロサンゼルスまで頼みに来たフィル・モグに対して、シェンカーは、自分が力を注ぐ以上、UFOという名前の権利の半分を渡してほしいと求めたという。録音が始まって再会したモグは見違えるほど元気で、1995年の『Walk on Water』は、シェンカーにとって17年ぶりの恵みのようなアルバムだった。だが関係は長続きしなかった。シェンカーはその後も2000年の『Covenant』と2002年の『Sharks』に参加したが、再結成するなら元の顔ぶれとプロデューサーでなければ化学反応は生まれないとモグに言い続けていたのに、アンディ・パーカーとポール・レイモンドが外され、『Sharks』ではロン・ネヴィソンに代わってマイク・ヴァーニーがプロデュースを担当したことで、バンドの自然な流れは失われたとシェンカーは語る。最後は2002年、名前を返してほしいと頼んできたモグに、シェンカーは無償で返し、それで終わりにしたという。

出典: Blabbermouth「MICHAEL SCHENKER Looks Back On His Final Exit From UFO: 'The Natural Flow Of The Chemistry Was Destroyed'」(2021年2月1日)

2003年にマイケル・シェンカーの後任となったヴィニー・ムーアは、子どもの頃からUFOのファンだった。ムーアによれば、UFOのレコードを何枚も持っていて、ギターのレッスンでは先生からシェンカーのソロをいくつか教わった。15、16歳の頃には自分の部屋でRAINBOWやUFOのレコードに合わせて弾いていたから、いつか自分がUFOに入るなど夢にも思わなかったという。偉大な前任者の後を継ぐ重圧は、それほど感じなかった。UFOにはそれまでに17人ものギタリストがいたと聞いていたので、後任が1人だけの場合より気が楽だったと冗談めかしている。2005年、ジェイソン・ボーナムがFOREIGNERに移ったため、ポール・レイモンドがアンディ・パーカーにPiorno Rock Festivalへの出演を打診した。ギターがムーアだと聞いたことも、パーカーが引き受けた理由の1つだった。パーカーはそのまま正式に戻り、2006年3月に『The Monkey Puzzle』を録音している。

出典: Blabbermouth「VINNIE MOORE Doesn't Know How Long UFO's Final Tour Will Last」(2018年8月26日)

METALLICAのカーク・ハメットは、2019年10月12日、ハリウッドのAvalon Theaterで開かれたクルーズ・イベントMegacruiseの前夜祭で、UFOのステージに加わり、「Doctor Doctor」と「Shoot Shoot」の2曲で共演した。UFOが50年の活動を締めくくる最後のツアーの最中だった。ハメットは、初めてUFOとマイケル・シェンカーを聴いた時に自分の姿勢ががらりと変わったと語り、今もシェンカーとジミ・ヘンドリックスが自分の大きな手本だという。初めて「Mother Mary」を聴いた時には、2つ目のソロに出てくる、それまで聴いたこともない速さの下降フレーズで完全にとりこになった。2015年にテレビ番組That Metal Showのセットで初めてシェンカーとジャムをした時には、すっかり憧れのヒーローを前にした一ファンになっていたと認め、2018年にはシェンカーのアルバム『Resurrection』にソロで参加している。

出典: Ultimate Classic Rock「Watch Kirk Hammett Guest With UFO」(Martin Kielty、2019年10月13日)

結成50周年にあたる2019年のツアーを最後に、フィル・モグはUFOを退くと決めた。モグは、2016年のツアーの後にも身を引くことを考えた、長いあいだ温めてきた決断だと語り、フェアウェル・ツアーという言葉は大嫌いだが、これがこのバンドで見せる最後のタップダンスになると冗談めかした。ヴィニー・ムーアによれば、モグがこのツアーに付けた正式な呼び名は「Last Orders」だった。イギリスとアイルランドを回った第1弾の日程は、ロンドンのForumで締めくくられた。その8日後の2019年4月13日、ポール・レイモンドが心臓発作で亡くなる。73歳だった。バンドはツアーを続けることを選び、WILD HORSESから移って1981年から1983年に在籍し、『The Wild, the Willing and the Innocent』『Mechanix』『Making Contact』で弾いた後にゲイリー・ムーアのバンドでも活動したニール・カーターを呼び戻して、残りの日程を務めた。アンディ・パーカーは追悼文で、いつもバスに最後に乗ってくるレイモンドを待った時間を足せば寿命が10年延びると冗談を言っていたが、今ならその10年を喜んで返したいと書いている。

出典: Ultimate Classic Rock「UFO Announce 'Last Orders' Farewell Tour」(Dave Lifton、2019年2月27日)

UFOの本当の最終公演は、予告されていたものとは違う。2019年に始まった「Last Orders」のツアーはコロナ禍で日程が次々に取り消され、バンドは2021年9月、最後のツアーを2022年に行い、10月29日のギリシャ・アテネのFuzz Club公演で幕を閉じると発表した。6月20日にはハノーファーのBeatboxで、80人だけが見られる公開リハーサルを行うとも告知している。アンディ・パーカーは2022年6月、今年がたぶんUFOの最後の年になると書いた。ところがアテネ公演の2か月前、フィル・モグが心臓発作を起こし、冠動脈に2本のステントを入れる手術を受けて、医師の指示で歌うことをやめた。残りの公演は中止されたまま振り替えられず、2022年7月16日のドイツでの公演がUFOの最後のライヴになった。モグは2024年、UFOはもう区切りがついた、コロナ禍の直前の2019年のイギリス・ツアーが事実上の終わりだったと語っている。

出典: Ultimate Classic Rock「Phil Mogg Confirms UFO Is Done: 'It's Come to a Conclusion'」(Corey Irwin、2024年4月18日)

UFOを終えたフィル・モグは、新しいバンドMOGGS MOTELを率いている。メンバーにはUFOで一緒だったギターとキーボードのニール・カーターのほか、VOODOO SIXのトニー・ニュートン、ドラムのジョー・ラザラス、THE RAVEN AGEのギタリストのトミー・ジェントリーが名を連ね、デビュー・アルバムはIRON MAIDENのスティーヴ・ハリスがエセックスに持つスタジオで録音された。2枚目のシングル「Sunny Side Of Heaven」は、モグが録音中に見た鮮やかな夢から生まれたという。夢の中でモグはソーホーの上空を飛んで、ウォーダー・ストリートのパブThe Intrepid Foxにたどり着き、カウンターで、2020年に亡くなった旧友のポール・チャップマンとピート・ウェイの間に立っていた。チャップマンはワインを1パイントとチェイサーを頼み、ウェイはスパークリング・ワインを半パイントと、20ポンドを貸してくれと頼んだ。

出典: Louder「Moggs Motel release new single Sunny Side Of Heaven, inspired by a Soho pub and Phil Mogg's old UFO bandmates」(Fraser Lewry、2024年8月18日)

1975年7月に出た『Force It』のジャケットは、Hipgnosisが手がけた、いかにも彼ららしい刺激的で謎めいたデザインだった。アメリカ向けにはジャケットが変更され、写っている男女はほとんど透けて見えるように加工されている。それでも売れ行きには響かず、このアルバムでUFOは初めてアメリカのチャートに入り、デビューから5年の苦労の末に、ようやく熱のこもった評価も受けるようになった。ドイツでも1975年8月15日付でアルバム・チャートに入り、最高35位を記録している。

出典: Ultimate Classic Rock「How UFO Finally Landed on the U.S. Chart With 'Force It'」(Eduardo Rivadavia、2015年7月31日)