QUEEN TRIVIA
Trivia
1975年4月17日、初めての日本ツアーのために羽田空港に降り立ったQUEENを、3,000人を超える若いファンが出迎えた。公式サイトによれば、4人は目に見えて圧倒され、この熱狂は「クイーン・マニア」と呼ばれて、その後の日本ツアーのたびにくり返された。ロジャー・テイラーは公式映像シリーズ『Queen The Greatest』で、日本に需要があることは知っていたが、空港に着いて初めて想像とは桁の違う歓迎だと気づいたと語っている。長年QUEENと親交のあるKAZ宇都宮は、あの日空港にいた人なら誰でもTHE BEATLESの再来だと思ったはずだと振り返っている。
日本では4月17日が「QUEENの日」である。初来日から40年にあたる2015年、QUEENが初めて羽田空港に降り立ったこの日が、日本における「QUEENの日(The Queen Day)」として正式に認定され、当日には羽田空港の国際線旅客ターミナルで記念のイベントが開かれた。ユニバーサル ミュージックによれば、この記念日は一般社団法人・日本記念日協会が認定し、登録している。
QUEENの日本での最初の公演は、1975年4月19日の日本武道館だった。2016年9月、QUEEN + アダム・ランバートとして1985年以来31年ぶりに武道館に立った3夜のうち、最終日の23日の公演は、その1975年4月19日から数えてQUEENにとって20回目の武道館公演となった。この日が追加公演として決まった際、ロジャー・テイラーは、1975年に日本で初めて演奏した会場で3度目の公演ができることを誇りに思うと語り、一巡して元の場所に戻ってきたと喜んだ。
1976年の『A Day at the Races』に収められた「Teo Torriatte (Let Us Cling Together)」は、初来日で結ばれた日本との絆から、ブライアン・メイが日本のファンに捧げる曲として書いたもので、2回のサビが日本語で歌われる。日本でだけシングルとして出たため、1981年の『Greatest Hits』にこの曲が入っているのは日本盤だけで、同じように「Love of My Life」は南米盤にだけ収められている。日本盤の邦題は「手をとりあって」である。
元MUSIC LIFE編集長の東郷かおる子は、「Teo Torriatte」の存在を録音される前に聞いていたと書いている。1976年9月18日、ロンドンのハイド・パークでのフリー・コンサートを取材して次のアルバムについて尋ねると、ロジャー・テイラーは、まだ秘密だが今度のアルバムには日本語を交えた曲が入ると答えたという。曲名も曲調もわからなかったその曲が、翌年に日本盤が出た『A Day at the Races』の「手をとりあって」だった。
QUEEN初のライヴ・アルバム『Live Killers』は、1979年1月から3月のヨーロッパ・ツアーで録音されたが、ジャケットの写真は日本で撮られている。公式サイトによれば、写真は1979年4月の日本ツアーの際に長谷部宏が撮影したもので、公演の終わりにステージへ下りてくる巨大な照明装置Pizza Ovenを背に、ほとんどシルエットになった4人の姿をとらえている。
1982年の日本ツアーは5都市で6公演を行い、11月3日の西武ライオンズ球場での野外公演で締めくくられた。この公演は撮影され、日本だけでビデオ『Live in Japan』として発売されている。同じツアーで1982年10月29日に札幌で演奏した後、QUEENが次に札幌に立ったのは42年後の2024年2月10日で、QUEEN + アダム・ランバートとしての札幌ドーム公演には、地元北海道出身のGLAYがスペシャル・ゲストとして出演した。
2004年に日本だけで発売された編集盤『Jewels』は、テレビドラマ『プライド』で使われたQUEENの曲を集めたもので、100万枚を超える大ヒットになった。この年の売上により、QUEENは第19回日本ゴールドディスク大賞の洋楽部門でアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。続く『Jewels II』と合わせた売上は160万枚を超え、2014年には来日を記念して2作が初めてデジタル配信された。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、2018年11月9日に日本の438館で封切られた。日本公開から75日目の2019年1月22日に興行収入100億円を超え、2月17日までに116億6,000万円に達して、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の116億3,000万円を抜き、日本の歴代興行収入で21位となった。ユニバーサル ミュージックによれば、日本での興行収入はアメリカに次いで世界で2番目だった。
2023年12月31日の第74回NHK紅白歌合戦には、QUEEN + アダム・ランバートが特別企画で出場し、「Don't Stop Me Now」を披露した。演奏は夜9時50分ごろに放送され、その後、この曲のダウンロード数は前週の9,266%に達した。
QUEENという名前を考えたのは、フレディ・マーキュリーである。SMILEが歌い手を失ったとき、フレディはすでにブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと同じアパートに住んでおり、2人にSMILEの名を捨ててまったく新しいバンドとして出直すよう説いた。ローリング・ストーン誌によれば、名前の候補にはほかにBUILD YOUR OWN BOAT、THE GRAND DANCE、THE RICH KIDSもあったが、フレディが音楽紙メロディ・メイカーに語った、王者のような気品と威厳を備えたバンドという構想にかなう名前は、QUEENのほかになかった。
公式サイトの公演記録によれば、QUEENの名で初めてステージに立ったのは1970年6月27日、ロジャー・テイラーが育ったコーンウォールのトゥルーロ市庁舎だった。当時のベーシストはまだ定まらず、最初の3公演をマイク・グロースが、続く11公演をバリー・ミッチェルが務めている。BBCも、1970年にQUEENを結成した4人として、フレディ・マーキュリー、テイラー、ブライアン・メイとともにグロースの名を挙げている。
公式サイトのジョン・ディーコンのページによれば、ディーコンは1970年10月にQUEENの公演を見ていたが、そのときは黒ずくめの4人が暗い照明のなかで影のようにしか見えず、強い印象は残らなかったという。1971年の初めにブライアン・メイとロジャー・テイラーに紹介されると、数日後にはインペリアル・カレッジの講義室でオーディションを受け、自分で手を加えたアンプを持ち込んだ。のちにDeacy Ampの名で知られ、メイも使うようになるアンプである。ディーコンは1971年3月1日、19歳で4人目のメンバーとなり、デビュー作のクレジットでは、面白みを出すためにDeacon Johnと名前を逆さに記された。なお、2024年の『Queen I』の資料は、ディーコンの加入を1971年7月としている。
デビュー前のQUEENは、新しいスタジオの試運転を手伝っている。1971年、De Lane Leaがロンドンのウェンブリーに新しいスタジオを開いた際、ミキシング卓や各部屋の音を試すバンドが必要になり、ブライアン・メイとロジャー・テイラーがQUEENを名乗り出た。1971年11月から翌年1月にかけての作業の見返りに、バンドは主任エンジニアが仕上げた5曲入りのデモを手にした。のちにTrident Studiosでデビュー作を録音した際、バンドは「The Night Comes Down」だけはこのデモの録音を使うと譲らず、マルチトラック・テープを新たに「Trident」と書いた箱に入れてスタジオに持ち込んだ。
アメリカでQUEENと契約したElektra Recordsの創設者ジャック・ホルツマンは、1973年4月9日、ロンドンのMarquee ClubでのQUEENの公演を見ている。2024年の『Queen I』のボックス・セットに収められたロジャー・テイラーの日記には、この夜の公演が大受けし、ホルツマンも気に入ってくれたと記されていた。ホルツマンはスタッフに回したメモで、ポップ音楽の未来をQUEENというバンドに見たと書いている。
QUEENの音楽が世界で初めて放送されたのは、BBCのラジオだった。1973年2月、デビュー作の発売より5か月早く、バンドはジョン・ピールのBBCレディオ1の番組Sounds of the Seventiesのためにセッションを録音し、すでに録ってあったバッキング・トラックに新しく歌などを重ねた。BBCのためのセッションはその後も続き、最後の録音は1977年10月28日、イギリスで『News of the World』が発売された当日だった。これらのセッションは、2016年の『Queen on Air』にまとめられている。
QUEENが初めてのヒット曲を手にしたきっかけは、デヴィッド・ボウイの欠席だった。1974年3月のロンドンのレインボー・シアター公演の直前、BBCの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスに出られなくなったボウイに代わって出演の機会が回ってきて、QUEENは新しいシングル「Seven Seas of Rhye」を演奏した。この出演が曲をトップ10に押し上げ、2作目『Queen II』はイギリスで5位まで上がった。
ブライアン・メイによれば、「We Will Rock You」を締めくくるギター・ソロは1回しか弾いていない。メイは公式映像シリーズ『Queen The Greatest』で、ソロを曲の途中ではなく最後に突然鳴らす、決まりごとを破った曲にしたかったと語っている。ヘッドフォンから聞こえる感触に合わせて手探りで1テイクだけ弾き、聞き返して偶然見つけたフレーズを気に入ると、テープを複製してその部分を切り出し、3つ並べて粘着テープでつないだ。耳に残るあの終わり方は、その切り貼りから生まれている。
1981年2月28日に始まった初の南米ツアーで、QUEENはアルゼンチンとブラジルのサッカー・スタジアムを回った。公式サイトによれば、ブエノスアイレスの空港に着いた一行を迎えたのは館内放送で流れる彼ら自身の曲で、アルゼンチン大統領の特別な指示によって、長い入国の手続きも省かれたという。
1985年7月13日のライヴ・エイドは、エチオピアの深刻な飢饉の救済を呼びかけて、ロンドンとフィラデルフィアで同時に開かれた。出演の誘いは、主催者のボブ・ゲルドフがBPIアワードの会場で声をかけてきたもので、ブライアン・メイは、そんな催しが本当に実現するとは思えなかったと振り返っている。持ち時間は1組20分で、ロジャー・テイラーは、どこで見ている人にもわかる曲を演奏すべきだと考えていた。QUEENはウェンブリー・スタジアムで21分間演奏し、その模様は世界で19億人が見たとされる。
1986年のマジック・ツアーは、フレディ・マーキュリーと回った最後のツアーになった。7月27日のブダペスト公演は、大物ロック・バンドが東欧圏のスタジアムで行った初めての公演で、ハンガリーの国営映画会社が、国内で使える35ミリのテレビ・カメラのほぼすべて、17台を使って撮影した。ツアーは8月9日のネブワース・パーク公演で幕を閉じ、これがフレディが加わった最後のコンサートとなった。
デビュー作『Queen』の裏ジャケットに載ったQUEENの紋章は、イーリング・カレッジ・オブ・アートでデザインを学んだフレディ・マーキュリーが描いたものである。ローリング・ストーン誌によれば、紋章にはメンバー4人の星座が描き込まれ、獅子座のジョン・ディーコンとロジャー・テイラーは2頭のライオン、蟹座のブライアン・メイは蟹、乙女座のフレディは2人の妖精で表されて、それらを大きな不死鳥が見下ろしている。不死鳥は、フレディが少年時代に通った学校の校章から借りたものだった。この紋章は、のちに彩色されて『A Night at the Opera』のジャケットの中央にも置かれた。
QUEENの前身SMILEは、1968年、インペリアル・カレッジで物理学を学んでいたブライアン・メイと、イーリング・カレッジ・オブ・アートの学生ティム・スタッフェルが組んだバンドだった。2人がインペリアル・カレッジの掲示板にドラマー募集の貼り紙を出し、それに応じたのが、歯科医を目指して学んでいたロジャー・テイラーである。アルティメット・クラシック・ロックによれば、大きく笑った唇と歯を描いたSMILEのロゴはスタッフェルの作で、THE ROLLING STONESの有名な唇のロゴより数年早かった。ユニバーサル ミュージックが掲載したスタッフェルのインタビューは、SMILEの結成を1968年10月としている。
ブライアン・メイがQUEENのすべてのアルバムで弾いてきたギター、レッド・スペシャルは、10代の彼が父親と2人で作ったものである。1963年、16歳のメイは本物のエレキ・ギターを欲しがったが、家には買う余裕がなく、電子技術者だった父が自宅に設けた工作部屋で、2人は自分たちで作り始めた。完成までに2年かかり、作業はすべて手工具で行われた。ネックには古い暖炉の一部が使われ、フレットの目印は古い真珠貝のボタンを削って作り、トレモロ・アームは自転車のサドルバッグの金具の先に母の編み針の先を付けたものだった。
日本レコード協会の日本ゴールドディスク大賞で、QUEENは洋楽部門のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに4度選ばれている。最初は2004年の売上による第19回で、その後、映画『ボヘミアン・ラプソディ』が公開されてからは、第33回から第35回まで3年続けて受賞した。オリコンによれば、2年連続の受賞となった第34回では、前年1年間にアルバム46万2,485枚、音楽ビデオ10万2,234枚、音楽配信60万2,513ダウンロードを売り上げていた。