MOTÖRHEAD トリビア 全27件
MOTÖRHEADにまつわる事実を、出典付きで27件掲載しています。
Trivia
レミーを別にすれば、最も長くバンドに在籍したのはギターのフィル・キャンベルである。公式サイトは彼の訃報のなかで、1984年の加入から31年間ギターを弾き続けたこと、レミーを除けば最長在籍のメンバーであったことを記している。キャンベルは2026年3月13日に亡くなった。
『On Parole Sessions』の日本盤は、ワーナーミュージック・ジャパンから2026年4月17日に税込9,020円、品番WPZR-31105/8で発売された。同社の商品ページは封入特典としてポスターが付くことを記している。TOWER RECORDS ONLINEの商品ページはこれを「輸入盤:国内流通仕様」に分類し、構成数5、規格品番WPZR-31105として掲載している。
ワーナーミュージック・ジャパンのディスコグラフィには、MOTÖRHEADの国内盤が3枚並んでいる——『アンダー・カヴァー』のSHM-CD(2017年12月13日、WPCR-17951)、『バッド・マジック』(2015年8月28日、WPCR-16754)、『ザ・ワールド・イズ・ユアーズ』(2011年3月9日、WPCR-50301)。一方で『AFTERSHOCK』は同じ一覧に「輸入盤」として2013年10月29日の扱いで載っており、国内盤が作られなかったことが分かる。
『The Manticore Tapes』の日本盤は、ユニバーサルミュージックから2025年6月27日に発売された。TOWER RECORDS ONLINEの商品ページは邦題を「ザ・マンティコア・テープス」とし、仕様を国内盤・構成数1・紙ジャケット・規格品番UICB-15002・JAN 4988031772201と記している。
1975年から76年にかけて録音された最初のスタジオ作『On Parole』の顔ぶれを、ワーナーミュージック・ジャパンは商品ページでこう書いている——ギターはラリー・ウォリス、ドラムはフィル・テイラーとルーカス・フォックス、ベースとボーカルはレミー。ドラマーがふたり並ぶのは、録音の途中でフォックスからテイラーへ交代したためである。
レミー、エディ・クラーク、フィル・テイラーという有名な3人編成が初めて一緒に録音したのは、1976年8月、ロンドン・フラムにあるエマーソン・レイク・アンド・パーマーのマンティコア・スタジオでのことだった。バンドの公式サイトは、この日をリハーサルを兼ねた初の共同録音と説明している。
そのマンティコア・スタジオのテープは、長く行方が分からなくなっていた。公式サイトによれば、およそ50年を経て発掘・修復され、結成50周年を記念して2025年6月27日に『The Manticore Tapes』として発売された。デラックスなブックパック仕様には24ページのブックレットが付き、ライナーノーツは長年バンドと関わってきたクリス・ニーズが書いている。
MOTÖRHEADが全英アルバム・チャートの1位に立ったのは、スタジオ作ではなくライヴ盤でだった。Official Charts Companyのデータベースは、1981年のライヴ・アルバム『No Sleep 'til Hammersmith』の最高位を1位とし、レーベルをブロンズ、品番をBRON535、初登場を1981年6月27日、チャート在位を6月27日から10月10日までの16週間としている。
フィル・キャンベルが加入した1984年、バンドはITVの子ども向け土曜朝番組『The Saturday Starship』のために「Iron Fist」を演奏した。公式サイトによれば、演奏の場所はバーミンガムにあるセントラルTVスタジオの駐車場で、その音量について近隣の住民から苦情が寄せられたという。
四人編成になった1984年にも、3人で舞台に立った夜がある。公式サイトは、『The Löst Tapes』第8集がマーゲイトのウィンター・ガーデンズでの1984年の公演を収めたものであり、その日はワーゼルがニューカッスルで腎臓の病気のため入院していたため、レミー、ピート・ギル、加入したばかりのフィル・キャンベルという珍しい3人編成だったと説明している。
レミーの死後、フィル・キャンベルは3人の息子とバンドを組んだ。公式サイトは、キャンベルがトッド、デイン、タイラの息子たちとフィル・キャンベル・アンド・ザ・バスタード・サンズを結成し、何年にもわたって録音とツアーを共にしたと書いている。
解散から9年が経った2024年10月、MOTÖRHEADは「Lawman」で全英シングル・チャートのトップ10に返り咲いた。バンドは公式サイトで、同じ2024年に世界での再生回数が3億2,000万回を超え、Spotifyのリスナーが2,000万人に達し、YouTubeの再生が1億1,200万回を超えたという数字も併せて公表している。
バンドは自らのサイトで、キャリアを通じて2,500万枚以上のアルバムを売り上げ、数百万人の観客の前で演奏してきたと述べている。同じ文でバンドは、新しい世代の若いファンを引き寄せ続けていることを誇りに思うとも書いている。
『Bad Magic』はMOTÖRHEADにとって23作目にして最後のスタジオ・アルバムである。公式サイトは2023年のリイシュー『Seriously Bad Magic』を紹介する文でそう呼び、収録された「Greedy Bastards」を、そのセッションの保管庫から見つかった2つ目の未発表音源だと説明している。
MOTÖRHEADの50周年は2年にまたがる。ワーナーミュージック・ジャパンの商品ページは、2025年が結成50周年と初ライヴ50周年、さらにレミーの生誕80年に当たる年であり、続く2026年は1976年初頭に完成した最初のレコーディングから50周年に当たると説明している。『On Parole Sessions』の発売はこの後者を記念したものである。
バンド名は曲名から採られている。uDiscover Music Japanは、ホークウインドを解雇される直前にレミーが書き上げていた曲の題名にちなんで、彼が自分の新しいバンドをモーターヘッドと名付けたと記している。同じ記事によれば候補にはもうひとつ「バスタード」という名前も挙がっていたが、そちらは採用されなかった。
バンドが始まるきっかけは解雇だった。Classic Rock誌の記事は、レミーが1975年にカナダ国境でホークウインドを解雇されたこと、そしてその後アメリカの地を踏まなかったのが5年後の1980年『Ace of Spades』ツアーまで続いたことを書いている。同記事は、彼がその時点ですでにアメリカにいつか住みたいと決めていたとも記す。
『Ace of Spades』のリフは、リハーサルをしなかった時間から生まれている。エディ・クラークはClassic Rockの取材にこう語っている——1980年初頭に南ウェールズのロックフィールド・スタジオへ入ったものの、レミーはリハーサルに乗り気ではなかった。自分とフィル・テイラーは演奏するのが好きだったので、釣りやその他のことが一段落すると2人で少し叩いてみるようになり、それがリフを組み立てる機会になった、と。
「Ace of Spades」には、完成形になる前の姿が残っている。Louderの記事によれば、バンドはロックフィールドでこの曲をインストゥルメンタルとして録音し、ロンドンに戻ってヴォーカルとオーヴァーダブを重ねた。その初期版は1989年の寄せ集め盤『Dirty Love』で初めて世に出たが、そこにはあの鋼板のような中心リフも、レミーが「タップダンスの部分」と呼んだブレイクダウンも入っていない。
『Ace of Spades』のプロデューサーだったヴィック・メイルは、レミーの前のバンドであるホークウインドも手がけていた人物である。Louderの記事は、あの中心リフとブレイクダウンのどちらを仕上げるうえでもメイルが大きな役割を果たしたと書いている。
レミーのベースの音は、一緒に演奏する側にとって難物だった。エディ・クラークはClassic Rockの取材で、低音がまるで出ていなかったこと、当時のベースは低音で成り立つものだったので非常にやりにくかったこと、そしてプロデューサーのヴィック・メイルが譲らなかったおかげで『Ace of Spades』でようやく噛み合ったことを語っている。
「Ace of Spades」の歌詞に出てくる賭博の言葉は、どれも具体的な意味を持っている。Louderの記事によれば「snake eyes」はサイコロの目がゾロ目の1になった状態を指し、「dead man's hand, aces and eights」については、ワイルド・ビル・ヒコックが撃たれたときに握っていた手だとレミー自身が説明していた。
MOTÖRHEADがイギリスのチャートを上っていった時期、ラジオはほとんど味方ではなかった。Louderの記事は、1979年の『Bomber』が全英12位に入ったこと、そして翌1980年夏の4曲入りライヴEP『The Golden Years』が、ラジオでの放送がほぼ皆無だったにもかかわらずバンドを初めて全英トップ10に押し上げたことを書いている。
1980年10月にシングルとして出た「Ace of Spades」は、やはりほとんど放送されないまま全英15位に初登場した。Louderの記事によれば、これによってバンドは再び『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演し、音楽週刊誌の表紙を飾ることになる。そしてレミーにとって本当に効いたのは、アルバムのほうが初登場4位でチャートに飛び込んだことだった。
バンド史上もっとも売れたレコードは、アルバムではなく合作のEPだった。1981年2月、ブロンズはMOTÖRHEADとガールスクールを組ませた3曲入りEP『St Valentine's Day Massacre』を発売する。Louderの記事によれば、これは全英5位に入り20万枚以上を売り上げた。両バンドは「Headgirl」名義でクレジットされ、表題にはレミーの愛したジョニー・キッド・アンド・ザ・パイレーツの「Please Don't Touch」が置かれた。残る2曲は、MOTÖRHEADがガールスクールの「Emergency」を——ヴォーカルはエディ・クラーク——、ガールスクールが「Bomber」を演奏したものである。
メタリカのラーズ・ウルリッヒは、かつてアメリカのMOTÖRHEADファンクラブ会長を務めていた。彼はClassic Rockの取材で、フィル・テイラーこそ自分がツー・バス・ドラムというものを初めて聴いたドラマーだったと語っている。『Overkill』を初めて聴いたときは頭が吹き飛ぶ思いで、耳にしているものが信じられず、そして当然のように自分もそう叩きたくなった、と。
MOTÖRHEADがグラミー賞を受けたのは一度きりで、それは自分たちの曲ではなくメタリカのカヴァーによるものだった。Recording Academyの記録によれば、2005年のベスト・メタル・パフォーマンス部門を「Whiplash」で受賞している。同部門はこの年、2003年10月1日から2004年9月30日までに発表された録音を対象としていた。