MOTLEY CRUE TRIVIA
Trivia
2025年11月18日、モトリー・クルーは2026年の北米ツアー<The Return of the Carnival of Sins>を発表した。7月に始まるこのツアーは、2005年からの<Carnival of Sins>ツアーの20周年と、バンドの結成45周年を同時に祝うもので、公演数は33本。演出を作り直し、セットリストも入れ替えるとしている。ゲストとしてテスラとエクストリームが同行する。加えて、チケット1枚につき1ドルが、バンドのギヴバック・イニシアティヴを通じてASAP!(After School Arts Program)へ寄付される。音楽や芸術の実習型プログラムで学生を支援する団体である。
『Shout at the Devil』は、もともと「Shout WITH the Devil(悪魔と共に叫べ)」になるはずだった。バンドをエレクトラと契約させたトム・ズタウトが自伝『The Dirt』に書いているところでは、当時のニッキー・シックスは悪魔崇拝に関心を寄せており、この題名で押し切るつもりでいた。シックス自身は、見た目が格好いいだけの無意味な記号で、人を怒らせるためにやっているだけだ、サタンを崇拝しているわけではない、とズタウトに説明していたという。ところが二晩後、ズタウトはシックスの前でナイフとフォークがテーブルから浮き上がり天井に突き刺さるのを目撃したと書いている。彼はシックスに、悪魔と共に叫び続ければ命を落とすと告げた。そしてシックスは自分の判断で題名を「AT(悪魔に向かって)」へ変えた。
「Home Sweet Home」がヒットしたのは、レーベルの反対を押し切った結果である。ニッキー・シックスによれば、エレクトラは『Shout at the Devil』の提出時にも受け取りを拒み、前作と音が違う、ロゴも見た目も変えたと言った。バンドが他社へ行くと言い返したのでレーベルは結局出し、そのアルバムは400万枚売れて、破綻寸前だったエレクトラを救った。同じことが『Theatre of Pain』でも起きる。レーベルはこのアルバムも拒み、「Home Sweet Home」を外せ、お前たちはバラードのバンドではない、と告げた。さらにこの曲をシングルとビデオで出したいという申し出も拒まれたため、バンドは自費でビデオを撮り、MTVへ持ち込んだ。シックスは、この曲はラジオでプロモートされたことが一度もなく、当時MTVがビデオを流していなかったら今日の姿にはなっていないと述べている。
「Home Sweet Home」の発表から40年にあたる2025年6月20日、モトリー・クルーはドリー・パートンを迎えた新しいヴァージョンを発表した。パートンはコーラスに声を重ねたうえで、2番のヴァースではリード・ヴォーカルを取っている。収益の一部は、住まいを失った若者や危機的な状況にある若者に居場所と支援を提供する非営利団体コヴナント・ハウスへ寄付された。
『Dr. Feelgood』という題名はニッキー・シックスの造語ではない。もとはマックス・ジェイコブソンという実在の医師の異名である。ジェイコブソンは1972年のニューヨーク・タイムズの調査記事で取り上げられた人物で、記事によれば彼は多くの著名人にアンフェタミンの注射を打っており、その中にはジョン・F・ケネディ大統領も含まれていた。当時72歳。記事が出たあと、メディアが彼に付けた呼び名が「ドクター・フィールグッド」だった。
「Kickstart My Heart」の題名は比喩ではない。この曲が書かれたのは、1987年12月23日にニッキー・シックスがヘロインの過剰摂取で死亡と判定されたことを踏まえてである。駆けつけた救急隊員が最後の手段として打ったアドレナリンが、文字どおり彼の心臓を再始動させた。曲はそこで終わらず、シラフになったバンドが以前は薬から得ていた高揚を別のもっと自然な方法で得るようになったことも歌っている。
モトリー・クルーの楽屋要求書には、長らくグレイ・プーポンのマスタードが一瓶入っていた。1988年のある日、ヴィンス・ニールは楽屋に別の銘柄が置かれているのを見つけて激昂し、瓶を壁へ投げつけた。瓶は跳ね返ってきて、彼の親指の動脈を切った。
ステージの火薬がモトリー・クルーの見せ場になっているのは、ニッキー・シックス個人の執着による。彼は火に取り憑かれており、パイロを演出の柱に据えることを譲らなかった。中でも長かったのがベースに仕込む火炎放射器で、まともに動くものができるまでにおよそ10年を費やしている。それが完成したのは2014年のツアーで、彼はそれを使ってバンドのペンタグラムのロゴに火を点けた。
ジョン5を迎えた編成でモトリー・クルーが初めて日本で演奏したのは、2023年11月3日と4日、神奈川のKアリーナ横浜だった。デフ・レパードとの共同ツアー<The World Tour>の日本公演で、モトリー・クルーが日本でプレイするのは2015年2月以来のことである。ニッキー・シックスは以前、これまで行った中で一番好きな場所を訊かれて日本と答えており、公演前日には、クルーとSixx:A.M.が終わった時点でもうここで演奏することはないと思っていたと書き添えている。
モトリー・クルーは自分たちの博物館を持っている。公式サイトから入れるCRÜESEUMは、バンドのアーカイヴから集めた品を並べたオンラインの展示で、メンバーの私物の機材、ステージ衣装、写真、ポスター、ツアーの記念品などが公開されている。所蔵品の多くはこれが初公開で、展示は随時追加されると案内されている。
公式サイトがバンドの実績として掲げている数字は次のとおりである。全世界で1億枚を超えるアルバム・セールス、アメリカでのプラチナおよびマルチ・プラチナ認定7作、メインストリーム・ロック・チャートのトップ40ヒット22曲、ポップ・シングルのトップ20入り6曲、グラミー賞ノミネート3回、ニューヨーク・タイムズのベストセラーとなった書籍5冊、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星、そしてNetflixでヒットした映画。
『Theatre of Pain』は発表から40年を機に、2025年11月にボックス・セットとして出し直された。中身は、リマスターしたオリジナル・アルバムをカラー・ヴァイナル1枚に収めたもの、これまで未発表だった1985年のロングビーチ公演2枚組(もともとウェストウッド・ワンのラジオ放送用に録音されたもの)、珍しいデモを集めた1枚、そして『Theatre of Pain』期のツアーの未公開写真を多数収めた76ページのハードカバー本である。発売は11月14日、それ以外の地域は11月28日と案内された。
ニッキー・シックスという名前には元ネタがある。1958年生まれの彼の本名はフランク・フェランナで、父が家を出たあとは母と祖父母のもとで育った。1978年にバンドLONDONを共同で立ち上げたのを機に、彼は父の姓を持ち歩きたくないという理由で改名する。そのとき借りたのが、カリフォルニアのカヴァー・バンドSQUEEZEのフロントマンだったジェフ・ニコルソンが名乗っていたニキ・シックスという名前だった。
『Shout at the Devil』の頭に置かれ、ライヴでも定番の導入になっていた語りのトラック「In the Beginning」を書いたのはニッキー・シックスである。ただしクレジットされているのは彼の名前ではなく、シックスが考え出したアリスター・フィーンドという架空の人物で、実際に声を当てたのはエンジニアのジェフ・ワークマンだった。内容は、悪が善を覆した、だから悪魔に向かって叫ぶ時が来た、という不穏な独白である。
「Shout at the Devil」はシングルカットされていない。それでいて、このバンドがキャリアを通じて最も多くステージで演奏してきた曲であり、その回数はおよそ1,500回にのぼる。
『Theatre of Pain』の代表曲「Home Sweet Home」が生まれたのは、家に帰ってきて何をすればいいのか分からなかったからである。ニッキー・シックスの説明では、『Shout at the Devil』のツアーは彼らにとって初めての長期ツアーで、小さなアパートの前までツアー・バスが迎えに来てから、同じ場所に降ろされるまでに18か月が経っていた。トミー・リーに電話して、何してる、座ってる、こっちも何をしていいか分からない――そんな調子だったという。どうしていいか分からないまま次のアルバムの曲を書き始め、そこから出てきたのがこの曲だった。歌詞は長く離れていて帰りたいという感情から出ている。バンドを組んで路上に出ることだけを望んでいたのに、いざ路上に出ると家に帰りたくなる、という皮肉である。
ヴィンス・ニールは「Home Sweet Home」ができた瞬間を、昨日のことのように覚えていると述べている。スタジオに座っていて、トミー・リーがあのピアノのコードを弾き出し、自分はほとんど間を置かずに口ずさみ始めていたという。
「Home Sweet Home」のビデオを監督したのはウェイン・アイシャムである。曲が始まる前、メンバーが一人ずつ電話を受けて「今から帰る」と答える短い場面が置かれているが、そこで受話器を差し出している男には見覚えがあるはずだ。演じているのはマイケル・ベリーマンで、彼はモトリー・クルーの「Smokin' in the Boys Room」のビデオで校長を演じた人物であり、映画『カッコーの巣の上で』や『サランドラ』にも出ている。
「Home Sweet Home」はシングルとしては大きな成績を残していない。1985年の発売時の全米最高位は89位で、1991年に「Home Sweet Home '91」として出し直された版が37位。2009年にキャリー・アンダーウッドがカントリー寄りに録り直した版は21位まで上がり、オリジナルより高い順位を記録した。
「Home Sweet Home」がハード・ロックの様式をひとつ作ってしまったことを、ニッキー・シックスは自覚的に語っている。それ以前は、パワー・バラードとMTVを組み合わせてヒットを取るという発想がそもそも無かった。この曲のあと、どのバンドも2枚目か3枚目のシングルとしてバラードを1曲持つようになった。彼はまた、この曲をやった理由はあまりにモトリー・クルーらしくなかったからだとも述べ、それが結果としてバンドを主流へ押し出したこと、そしてメンバーの誰一人それを予見していなかったことを認めている。
『Theatre of Pain』を作っていた時期のバンドがどういう状態だったかについて、プロデューサーのトム・ワーマンの見方は率直である。彼は『Shout at the Devil』『Theatre of Pain』『Girls, Girls, Girls』の3枚を手がけた人物だが、Songfactsの取材に対し、行動の面ではこの時期が彼らの最低点だったと述べている。理由も明快で、彼らはツアーとツアーに挟まれていた。前作を支えるツアーに出なければならず、戻ってきたら次のツアーがすでに押さえられていたので、12曲か14曲を急いで書かねばならなかったのである。
「Dr. Feelgood」の中心にあるギター・パートとコーラスのメロディを持ってきたのはミック・マーズで、ニッキー・シックスがそこに詞を乗せた。このバンドで主にソングライティングを担っていたのはこの二人である。
「Dr. Feelgood」には、いま歌われているのとはまるで別の歌詞が存在する。セッションが始まった時点でニッキー・シックスが用意していたのは題名だけが同じで主題の異なる詞で、それを書き直させたのはプロデューサーのボブ・ロックだった。書き直された詞が題材にしたのは、彼が世話になっていた複数の売人である。まともな中毒者なら売人を一人しか持たないということはない、というのがシックスの言い方だった。彼は今も元の歌詞を持っていると述べている。
『Dr. Feelgood』の前年にあたる1988年、モトリー・クルーは一本もツアーを行っていない。音楽とシラフでいることに集中するためだった。そして立ち直りをそのまま歌にするのではなく、ニッキー・シックスは自分の依存と臨死の経験を疾走するロック・ナンバーへ流し込んだ。1989年のアルバムから最初に切られた2枚のシングル――表題曲と「Kickstart My Heart」――がそれである。
『Dr. Feelgood』はモトリー・クルーにとって唯一の全米1位アルバムであり、チャートに109週にわたって留まった。デビュー作『Too Fast for Love』から5作目にあたり、順位はそこまで着実に上がってきていた。
アルバム『Dr. Feelgood』は、42秒の「T.n.T. (Terror 'n Tinseltown)」という短いトラックから始まる。サイレンの音と、17歳の少年の薬物過剰摂取を告げる警察無線が流れるだけの導入である。その直後に本編の「Dr. Feelgood」が来るため、この曲はその少年がどうやって薬を手に入れ、何が起きたのかを説明する回想として置かれていることになる。薬物を格好よく見せるのではなく、高揚とその代償の両方を正直に並べた構成である。
ニッキー・シックスは「Kickstart My Heart」を捨て曲だと思っていた。Rolling Stone誌に語ったところでは、この曲は非常に短時間で書いてリハーサルに持ち込んだもので、彼の見立てでは『Too Fast for Love』に入っているような類の曲だった。ところが曲が勝手に育ってしまい、本来収まるはずのない場所――『Dr. Feelgood』――にぴたりと収まった。
1987年12月のあの晩に何が起きたのかについては、異なる証言がある。ガンズ・アンド・ローゼズの元ドラマー、スティーヴン・アドラーは2018年5月にオーストラリアのラジオ局トリプルMで、注射器を使ったのは救急隊員ではないと述べた。彼の話では、骨折してギプスをはめた手でニッキー・シックスをシャワーへ引きずり込み、冷水をかけ、ギプスで顔を叩き続けたところ、紫色になっていた顔から色が引いた。救急隊員が来たのはその直後で、彼らはシックスをシャワーから引き上げ、居間に下ろして手で胸を圧迫したのだという。アドラーはそのうえで、いい曲になったのだから構わない、これはエンターテインメントなのだから、とも述べている。
モトリー・クルーの結成日と初ライヴの日付は別である。ニッキー・シックスは最初のライヴを振り返って1981年1月17日のスターウッドでの公演と述べたことがあるが、Songfactsはこれを日付の取り違えとし、バンドが結成されたのが1981年1月17日、ハリウッドのクラブ、スターウッドで初めて演奏したのが1981年4月24日だとしている。なおシックスがその回想で語っているのは、誰も気に留めず、レコード契約も取れず、唯一手に入ったのが逮捕だったこと、そして初日は客席で殴り合いが起きて終わったが、殴り合っていたのはバンド同士ではなく、絡んできた連中に対してバンドが応じた結果だったということである。
2006年、モトリー・クルーはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を授与された。通し番号は2,301番目である。
自伝『The Dirt: Confessions of the World's Most Notorious Rock Band』は、ニューヨーク・タイムズの記者ニール・ストラウスとの共著である。2001年にニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに4週間入り、その18年後、Netflixの映画版が公開されると再びリストに戻ってきた。
トミー・リーが最初に入れたタトゥーは、バスドラムのセットを突き破って飛び出してくるマイティ・マウスだった。右肩に入っている。彼はまた、ニッキー・シックスがいなければ自分はタトゥーを一つも入れていなかっただろうとも述べている。
ヴィンス・ニールが自分は歌えると気づいたのは、ローラースケート場だった。十代の彼は仲間と各地のスケート場を回って口パク(リップシンク)の大会に出ては毎回優勝していたのだが、そのうちに自分が口を動かしているのではなく実際に歌っていること、しかもうまく歌えていることに気づいていった。それが音楽への関心の出発点になった。
ミック・マーズが背中の痛みに処方された薬を自分の判断でやめたのは、幻覚が出たからである。医師はじきに収まると言ったが収まらず、彼には自分の足跡がオレンジ色に光って地面に残るのが見え、幽霊も見えるようになった。それで彼は服用をやめた。
2023年4月、モトリー・クルーはボブ・ロックとスタジオに入った。ロックがこのバンドのスタジオ・アルバムを手がけたのは『Dr. Feelgood』(1989年)と『Mötley Crüe』(1994年)の2枚である。ニッキー・シックスがその数日前に書いていたところでは、彼らは曲を書いており、ソングライティングという創造の過程はいつでもこのバンドの鼓動であり続けてきた。大きなスタジオに入って数曲録ってみてどうなるか見るつもりで、明確な計画は無く、曲に導かせるだけだという。
ミック・マーズとバンドの争いは、2026年1月に仲裁の裁定が出て決着した。バンドの代理人サーシャ・フリッドが出した発表によれば、仲裁人を務めた元判事パトリック・ウォルシュはバンド側の主張を全面的に認め、マーズの請求をすべて退けたうえで、彼にバンドへの支払いを命じた。裁定の根拠となったのは、ツアーを離れたメンバーはツアー収入の分配を受けないという規定で、この条項は2008年にマーズ自身が求めてバンドの取り決めに書き加えたものだったとされる。それでもマーズは演奏をやめたあともツアー収入の25パーセントを受け取り続けることを求めており、仲裁人はこれを退けた。裁定はまた、マーズを役員から解任したバンドの判断を法的に正当なものと認め、未回収のツアー前払金75万ドル超の返還を命じている。
この裁定に対して、ミック・マーズ側は納得していない。彼の弁護士エド・マクファーソンはRolling Stone誌に、決定はひどいもので公正ではない、このバンドはミックに対して一度も公正だったことがないと述べている。彼の説明では、ミックは酷い病気のためツアーはできないが曲作りも単発の公演もレジデンシーもレコーディングもできると言ったのに、バンドは43年やってきた相手に対して、お前は外だ、もう払わない、と告げた。仲裁人はそれを構わないとした。異議を申し立てるかどうかは検討中だが、ミック自身はもうモトリー・クルーとは終わりにしたい気持ちだ、というのがマクファーソンの言い方である。