MICHAEL MONROE トリビア 全97件
MICHAEL MONROEにまつわる事実を、出典付きで97件掲載しています。
Trivia
「Last Train To Tokyo」のミュージック・ビデオに映っているクラブの客席は、東京で仕込まれたものである。2019年8月に来日した際、彼らはELECTRIC EEL SHOCKの公演にスペシャル・ゲストとして出演し、ビデオ撮影を兼ねたシークレット・ギグを行なった。言い出したのはリッチ・ジョーンズで、クラブでのライヴ・シーンを入れたいという意図だった。撮影のために何度か演奏し、最終的にはフル・セットをやりきっている。告知はELECTRIC EEL SHOCKの公演にスペシャル・ゲストが加わるという形だけだったが、口コミで話が広がり、150人ほどを見込んでいたところへ300人ほどが集まった。天井のパイプにぶら下がったら客も一緒にぶら下がって歌い出した、というのがマイケルの記憶である。
2024年2月の来日公演はすべて完売し、休みの日に彼は京都を訪れている。行き先は東映の映画村で、そこで侍役の俳優、平井力に会った。実は1983年にハノイ・ロックスが同じ映画村を訪れたときにも彼はそこにいて、アンディ・マッコイから自分のスカーフを1枚贈られていた。カラオケでハノイの曲を歌っていたという話もマイケルの耳に入っている。2024年に訪れた際、平井のほうから挨拶に来た——40年以上を経て、彼はまだそこで侍をやっていたのである。マイケルは2025年11月の大阪公演に彼を招待すると語っていた。
彼が初めて日本に来たのは、1983年のハノイ・ロックス初来日である。以来の来日回数を、彼は2023年の時点で「30回ぐらい」と見積もっていた——以前数えたときは25回だったが、それも随分前のことだから、という理由である。日本の書体はそれ以前から気に入っており、日本風の文字でタトゥーを入れたいと考えていた。当初はバラと一緒に当時のガールフレンドの名前を入れるつもりだったのだが、バンドのメンバーから「日本風の書体でバンド名を入れろ」と言われ、そのとおりにした。着物も日本の文化も好きで、人々が互いに気を使い礼儀正しいこと、人生に対する態度も含めて好きになったのだと語っている。
『SENSORY OVERDRIVE』は2つの国で年間最高の評価を受けている。2011年11月、イギリスのロック専門誌『Classic Rock』の音楽式典で年間最優秀アルバムに選ばれ、続く2012年1月には、フィンランドのグラミー賞とも言われる音楽賞〈Emma Gaala〉で、MICHAEL MONROEが最優秀バンド、『SENSORY OVERDRIVE』が最優秀ロック・アルバムに選出された。このアルバムは母国フィンランドでは1位を記録している。
マイケル・モンローという名前は、本人が机の上で考え出したものではない。彼の本名はマッティ・アンテロ・クリスティアン・ファーゲルホルムで、フィンランド名は国外の誰にも発音できない——ハノイ・ロックスを組むときにメンバー全員が本名を使わないと決めたのはそのためだった。マリリン・モンローもアリス・クーパーも本名ではない、という理屈である。ファーストネームの出どころは偶然で、当時ジャムをしていたバンドにいたベネズエラ人のキーボード奏者に名前を訊かれ、8歳の頃からの愛称である「マッケ」と答えたところ、「マイクと呼んでいいか」と返された。そこからマイクが生まれ、彼はマイクよりマイケルのほうが格好いいと考えた。姓のほうは、自分が生まれたのとちょうど同じ夏にマリリン・モンローが世を去っていたことと、単純に響きが良かったことによる。
ラズルの加入は、散々な一夜から始まっている。ロンドンでの3公演のうち初日は完全な失敗だった。ヘッドライナーはLORDS OF THE NEW CHURCH。マイケルとアンディ・マッコイは5日間スピードで起きたままで、彼は「Don't Follow Me I'm Lost Too」の途中でステージ上で吐き、アンディとナスティは最初のコードで揃って弦を切り、サミはアンプの裏で吐いた。それでも客は良かったと言ってきたという。その夜トイレで用を足していると、一人の男が横に寄ってきて「あんたのバンドはいいが、ドラマーは俺がやるべきだ」と告げた。彼はその番号を控えた。ホテルの部屋に戻ってジップの後任をどうするかとアンディに相談すると、アンディも「俺がドラマーをやるべきだと言い続けて付きまとってくる奴がいる」と返す。同じ男だった。オーディションでの演奏は技術的に上手いとは言えなかったが、態度は見事で、見た目も申し分なかった——大量の髪、黒い口紅、そして厚底のブーツ。それで叩くのかとメンバーは尋ねている。低調だったバンドはこの加入で息を吹き返した。
「Ain't It Fun」の録音現場には、亡くなった友人の作法が持ち込まれた。生前のスティーヴ・ベイターズは、モンローとスタジオでヴォーカルを録るとき、火を点けた蝋燭をぐるりと円形に並べ、その「守りの円」の内側で歌わせるという儀式を持っていた。そこでモンローとアクセル・ローズはスタジオにある蝋燭を集められるだけ集めて自分たちの周りに円を作り、向かい合って立ち、火を点けて顔を突き合わせたまま歌った。何箇所かでアクセルの声はベイターズそのものに聴こえた、と彼は言う。二人は同じ種類の呪術を持っていたのだと思った、というのが本人の述懐である。
2022年9月23日、故郷ヘルシンキで行なわれた60歳記念公演で、ハノイ・ロックスのオリジナル・メンバーが1夜限りの再結成を果たした。マイケル・モンロー、アンディ・マッコイ、ナスティ・スーサイド、サミ・ヤッファ、ジップ・カジノというこの5人が同じステージに立ったのは1982年7月27日以来、40年ぶりである。演奏されたのは「Tragedy」「11th Street Kids」「Oriental Beat」「Boulevard of Broken Dreams」「Don't You Ever Leave Me」「Motorvatin'」「Malibu Beach Nightmare」「Million Miles Away」「Up Around The Bend」の9曲だった。公演全体ではDEMOLITION 23.とオリジナル・ハノイの分を含めて合計37曲。歌う量が多かったが自分の声はよく持ちこたえた、と彼は振り返っている。
『SENSORY OVERDRIVE』が日本で発売されたのは、東日本大震災の翌週だった。日本の発売元ビクターエンタテインメントは、このアルバムのリリースをその時期の出来事として自社のプロフィールに書き留めている。彼はその3か月後の2011年6月、HARDCORE SUPERSTARと組んでジャパン・ツアーを行なった。同年10月には〈V-ROCK FESTIVAL〉出演で3度目の来日を果たしている。
『BLACKOUT STATES』の日本盤デラックス・エディションのカラー・ブックレットには、日本のファンの名前が並んでいる。2015年7月、日本の発売元ビクターエンタテインメントがVICTOR ROCKSのFacebookページで行なった参加型企画によるもので、ページに「いいね!」をしたうえで告知投稿に「いいね!」または「シェア」をした人全員のFacebook上のユーザー名を、「もれなく」ブックレットに記載するという条件だった。掲載されるのはライナーや対訳が載る日本制作のモノクロの冊子ではなく、カラーのブックレットのほうである。締切は同月31日に設定されていた。
2015年9月9日、ハノイ・ロックスの初期6作品のハイレゾ配信が日本で一斉に始まった。『白夜のバイオレンス』『オリエンタル・ビート』『セルフ・ディストラクション・ブルース』『ミステリー・シティ~ハノイ・ロックス IV』『トゥー・ステップス・フロム・ザ・ムーヴ』『ミリオン・マイルス・アウェイ~ハノイ・ロックス・ベスト』の6枚である。日本の発売元がこれを告知したのは、『ブラックアウト・ステイツ』の発売を翌月に控えた時期だった。
『I LIVE TOO FAST TO DIE YOUNG!』には日本だけの完全限定生産デラックス・エディションがあり、そこには2016年のストックホルム公演を収めたライヴCD『LIVE! TOO FAST TO DIE YOUNG IN STOCKHOLM!』が同梱された。日本の発売元は、これはこのデラックス・エディションでのみ入手できるライヴ・アルバムであると明記している。
2024年2月の来日公演で、彼は東京の2日間をそれぞれ別の作品の周年に充てた。2月6日の渋谷Spotify O-EASTはハノイ・ロックス『Two Steps From The Move』の40周年、翌7日の同会場はソロ作『Not Fakin' It』の35周年である。ツアーは4公演で、ほかに8日の名古屋クラブクアトロと9日の梅田クラブクアトロがあり、公式サイトが告知した1月16日の時点で大阪は既に完売、残る3公演もチケットは僅少と案内されていた。
2024年2月の来日に際して、東京では特別サイン会が開かれた。公式サイトの日本語告知によれば、これは「マイケル・モンローをはじめバンドたっての希望により」急遽決まったもので、ビクターオンラインストアで対象商品を期間内に購入した先着の人が対象という形だった。開催は2月7日である。
『OUTERSTELLAR』の日本だけの完全限定生産デラックス・エディションには、『ON THE ROCKS - ACOUSTIC LIVE』というCDが付属する。2024年9月9日、母国フィンランドはヘルシンキのOn The Rocksという会場で行なわれたアコースティック・ライヴの記録である。選曲がそのまま彼の来歴を辿っていて、アメリカのガレージ・ロック・バンドTHE CHOIRが1966年に発表した「It's Cold Outside」(邦題「冷たい初恋」)、ニューヨーク・ドールズのシルヴェイン・シルヴェインのバンドSYL SYLVAIN AND THE TEARDROPSが1981年に発表した「Medicine Man」、スティーヴ・ベイターズが1980年に発表したアルバム『DISCONNECTED』収録の「The Last Year」といったカヴァーが並び、そこにマイケル自身が1987年に発表した最初のソロ・アルバム『NIGHTS ARE SO LONG』の「Can't Go Home Again」(邦題「二度と帰さない」)が加わる。
『SENSORY OVERDRIVE』は2022年6月10日、日本で紙ジャケット仕様・税込1,430円の完全生産限定盤として再発された。ビクターエンタテインメントの作品ページはこれを「ジンジャー(g)やサミ・ヤッファ(b)をフィーチュアしたマイケル・モンロー・バンド初のスタジオ作」と位置づけ、プロデューサーがエアロスミスなどを手がけたジャック・ダグラスであることを明記している。日本盤には「Trick Of The Wrist」「'78」ほかボーナス・トラック2曲を含む全13曲が収録され、解説・歌詞・対訳が付いた。発売日は『I LIVE TOO FAST TO DIE YOUNG!』と同じ日である。
そのシークレット・ギグで共演したELECTRIC EEL SHOCKは、続くUKツアーのサポート・バンドに決まった。マイケルによれば、サポートの候補として持ち込まれるのはグラム系のバンドばかりだという。自分たちがグラム・ロック・バンドだと誤解されているせいで、実際にはロックンロール・バンドなのだから、彼らのパンク・ロック的なスタイルのほうがずっと合う、というのが彼の考えである。
2019年8月の〈SUMMER SONIC〉出演について、彼は「これまでやったライヴの中で一番暑かったかもしれない」と語っている。東京と大阪の2会場に出たが、特に東京は室内だったぶん堪えたという。同じフェスにはTHE DAMNEDも出演しており、彼は自分の好きなバンドであり友人でもあるキャプテン・センシブルのステージを観に行った。すると「Jet Boy, Jet Girl」の場面でステージへ呼ばれ、最後にはギターまで手渡されている。
『One Man Gang』の「Built For Speed」は日本盤のボーナス・トラックであり、そのためライヴで演奏されるのも日本だけである。2019年12月の東京公演では、アンコールでこの曲が演奏された。同じアンコールで彼がドラムを叩いてラモーンズの「Blitzkrieg Bop」をやったのは、メンバーがまだ楽屋にいる段階での思いつきだったという。ドラムを叩くのは久しぶりで結構大変だったが平気な顔をしていた、と本人は明かしている。その次に本来の1曲目である「Low Life In High Places」をやると告げたとき、サミ・ヤッファは「ヘイホーの後に本当にこれでいいのか」と何度も念を押してきた。責任は自分が取るとマイケルは押し切り、実際に盛り上げてみせている。
1983年の初来日で、日本のレコード会社はハノイ・ロックスをティーン向けのポップ・バンドのように売り出した。実際の彼らは相当に荒れており、本人は笑い話にしている。翌1984年の来日では男性ファンも増えていたが、迎えたのはビートルズさながらのヒステリックな熱狂で、どこにいても落ち着ける場所が無かったという。サミ・ヤッファのホテルの部屋のクローゼットに女性ファンが隠れていて、サインをくれと言われたこともあった。どうやって部屋に入ったのかは本人にも分からないままである。東京駅のホームで見送っていたのと同じファンが、新幹線の到着駅で待っていたこともあった。
1984年の来日中、彼は原宿あたりの一般のプールへ泳ぎに行っている。歩いて地下鉄へ向かおうとするとセキュリティに止められたが、構わず歩き出すと数十人のファンが後をついてきて、どの地下鉄に乗ればいいか教えてくれた。走ると事故になりかねないので落ち着いて普通に歩いたという。プールの水は非常に冷たかったが、彼は構わず泳いだ。ところが途中で何かのアナウンスが入り、泳いでいた全員が水から上がってプールの縁に並び、体操を始めた。何が起きているのか分からず、彼はこっそりその場を離れている。
2012年6月13日に発売されたL'Arc-en-Cielのトリビュート・アルバム『L'Arc-en-Ciel TRIBUTE』に、マイケル・モンローは8曲目「HEAVEN'S DRIVE」で参加している。海外アーティストがL'Arc-en-Cielの楽曲をカバーする企画で、ヴィンス・ニール、オリアンティ、TLC、エリック・マーティンとJOHN 5、ZEBRAHEAD、BOYZ II MEN、マキシ・プリースト、ダニエル・パウター、クレモンティーヌ、そしてマイケル・モンローの計10組が名を連ねている。ボーナス・トラックには国内勢としてPOLYSICS、シド、Hemenway、TOTALFATの4組が加わっている。
2025年11月24日、大阪・インテックス大阪5号館で開かれた〈ROCK BEYOND ROCK Vol.2〉に、マイケル・モンローはB'z、LOUDNESS、黒夢とともに出演した。このイベントは、大阪・心斎橋アメリカ村にある老舗ミュージック・バー、ROCK ROCKのオープン30周年を記念して開かれたものである。
2010年1月に新バンド結成が発表された時点の顔ぶれは、いまのメンバー表とはかなり違っていた。ハノイ・ロックス時代からの盟友サミ・ヤッファに加え、THE WiLDHEARTSのジンジャー、DANZIGなどでの経験を持つトッド・ユース、そしてDEMOLITION 23.でマイケルとサミと同じ場にいたジミー・クラークという編成である。ところがツアーのリハーサルに入った段階でジミーが脱退し、トッドの推薦でカール・ロックフィストが迎えられる。次にそのトッドが元KISSのエース・フレーリーのバンドに加わるため抜け、後任として元ニューヨーク・ドールズのスティーヴ・コンテが入った。作品を1枚も出す前にラインナップが二度動いたことになる。
『BLACKOUT STATES』の本格的なレコーディングは2015年2月にスウェーデンで始まった。ちょうどその同じ月に、彼は父を亡くしている。その悲しみを背負ったままヴォーカルの録音を行なったことを、日本の発売元は自社のプロフィールに書き留めている。アルバムは10月上旬に発売され、彼はその発売のタイミングからHARDCORE SUPERSTARとともにヨーロッパを回った。
2018年5月28日、公式サイトに短い報告が載った。先週ナスティ・スーサイドがスタジオに立ち寄って新作でギターを弾いていった、もう一人「気の利いた」ゲストも引っ張り込んだ、詳細は追って——という内容である。ハノイ・ロックス時代の相棒がレコーディングに顔を出したことを、バンドは作品の完成を待たずに自分たちの口から知らせていた。
『I LIVE TOO FAST TO DIE YOUNG!』というタイトルは、ロックの歴史につきまとう若死にのイメージを裏返したものである。日本の発売元ビクターエンタテインメントの解説によれば、これは「あまりに生き急ぎ過ぎて、若死にするヒマすらなかった」という意味になる。27歳で世を去った音楽家たちが「27 CLUB」と呼ばれるように、ロック・スターは早くに死ぬものだという通念があるが、この作品を出した年に還暦を迎えたマイケル・モンローは、そんな暇すらないほどの速度で生きてきた、という趣旨である。ちなみにこの前年の2021年は、1981年のハノイ・ロックス『BANGKOK SHOCKS, SAIGON SHAKES, HANOI ROCKS』でのプロ・デビューから40周年にあたっていた。
『I LIVE TOO FAST TO DIE YOUNG!』のタイトル・トラックには、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュがゲストとしてギター・ソロとアディショナル・ギターを弾いている。日本の発売元は、この共演の背景として彼がマイケル・モンローをリスペクトしていることを挙げている。そして偶然にも、アルバム発売翌日の2022年6月11日、スウェーデンのフェスティヴァル〈Sweden Rock〉にはガンズ・アンド・ローゼズとMICHAEL MONROEが揃って出演した。
マイケル・モンローは声優としてもデビューしている。アニメーション映画『SING/シング:ネクストステージ』のフィンランド語版で、バッファローのダリウス役を務めた。同じ役は日本語版では木村昴、オリジナルの英語版ではコメディアンのエリック・アンドレが演じている。
2018年11月、彼らはウェイン・クレイマーによるMC5の50周年ツアー〈MC50〉のイギリス公演にゲストとして参加した。公式サイトでマイケルは、MC5は常に自分の最も好きなバンドの一つであり、ロックンロールの歴史のなかで最も重要なバンドの一つでもあるとして、この招きを大きな名誉だと述べている。日程はグラスゴー、マンチェスター、ロンドンの3公演だった。
2024年はハノイ・ロックス『Two Steps From The Move』の40周年にあたり、マイケル・モンローはこれを記念する特別公演を4本行なった。サミ・ヤッファ、スティーヴ・コンテ、リッチ・ジョーンズ、カール・ロックフィストという自身のバンドで、このアルバムを全曲演奏し、加えて全時代からのマイケル・モンローの曲によるベスト・セットを組む形である。会場はコペンハーゲン(9月10日)、ストックホルム(9月11日)、ロンドンのElectric Ballroom(11月27日)、ウルヴァーハンプトンのKK's Steel Mill(11月28日)だった。
『Outerstellar』の先行シングル「Rockin' Horse」のミュージック・ビデオで、マイケル・モンローは初めてノーメイクの姿を見せている。監督はリー・ブルックス。「Waking Up With Michael Monroe」という架空の朝のテレビ番組という設定で、彼自身が司会者を演じた。公式サイトのコメントで彼は、メンバーがそれぞれ別の役柄になりきったこと、そして自分のノーメイクが見られるのはこれが初めてであることを、わざわざ感嘆符付きで書いている。
『OUTERSTELLAR』の「One More Sunrise」には、イギリスの伝説的ロック・バンドMOTT THE HOOPLEでも活躍したモーガン・フィッシャーがピアノで参加している。同じ曲にはフィンランド人ミュージシャンのオスカル・グレスベックがアコーディオンで加わっている。
このバンドの2本のギターには、それぞれ違う経歴が乗っている。スティーヴ・コンテは11歳でキャリアを始め、最初のアルバムを実家の居間で作り、ジャズ・シンガーだった母親のバックをニューヨークとニュージャージーで務めていた。その後THE CRAZY TRUTHとCOMPANY OF WOLVESという自分のバンドを率い、スージー・クアトロ、ウィリー・デヴィル、エリック・バードンらを支えている。2004年、再結成したニューヨーク・ドールズでジョニー・サンダースが遺した大きな空白を埋める役に呼ばれたのも彼だった。もう一方のリッチ・ジョーンズはTHE GINGER WILDHEART BANDとTHE BLACK HALOSの出身で、公式バイオはマイケルがこれまで一緒にやったなかで最も気性の激しいギタリストだと評している。彼が加わったのは2013年の夏、一時的に不在だったドレゲンの代役としてだった。バンドに与えた刺激が十分に強かったため、正式メンバーとして迎えられている。
リズム隊の2人にも長い前史がある。ベースのサミ・ヤッファとマイケルの付き合いは1980年代まで遡り、ハノイ・ロックスでベースを弾き、マイケルとDEMOLITION 23.を立ち上げ、1990年代にはスペインでカルト的なバンドMAD JUANAを始めた。その後は再結成したニューヨーク・ドールズに加わり、今世紀にはジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツでも演奏している。ドラムのカール・ロックフィストはロサンゼルスのTHE CHELSEA SMILESの出身で、グレン・ダンジグやジョーン・オズボーンといった顔ぶれの後ろで叩いてきた。公式バイオは、この2人をバンドの「鼓動する心臓」と呼んでいる。
1962年6月17日生まれ。スウェーデン語を話すフィンランド人で、3人兄弟の末っ子として育った。両親はともに放送の世界の人で、父はフィンランドでは知らぬ者のいないラジオのアナウンサー、母もラジオで働いており、ラジオドラマの録音技師として出発している。二人が出会ったのもそこだった。ドラマで子どもの声が要るときには彼と兄たちが使われ、テレビCMにも出ている。ハノイ・ロックスを始めた当初、彼は「あのアナウンサーの息子」として知られていたが、まもなく父のほうが「マイケル・モンローの父親」として知られるようになった。
家で流れていたのはクラシックだけだった。両親は交響曲やシベリウスを聴き、母方の祖父はチェロとコントラバスを弾き、その父はオーボエ奏者だったという家系である。その一色の世界が8歳のときにテレビで壊れた。ブラック・サバスの演奏を目にしたのだ。それまで耳にしたことのない音で、彼は前で暴れている男を見ながら、自分にもあれができるかもしれない、しかもそれで食べていけるとしたらとんでもないことだ、と考えた。以後、彼はこの一場面を自分の出発点として繰り返し語っている。
ピアノを習い始めたのは5歳の頃で、譜面の読み方も覚えたが、音符を追うより耳で弾くほうがずっと楽だった。8歳でブラック・サバスを観たあと、彼はピアノでもロックンロールが弾けると気づき、母親にもう少しレッスンを続けたいと申し出ている。その後ギターは独学で覚え、クラシックのフルートも1年学んだ。このフルートの経験が、のちに彼の代名詞となるサックスにつながった。サックスのほうはリトル・リチャードやコースターズのレコードに合わせて吹き続けることで自分のものにしていった。
最初に家にやってきたレコードは父が買ってきたものだった。父はレコード店で「今どきの子どもは何を聴いているのか」と店員に尋ね、家族として最初に手にした一枚がレッド・ツェッペリンの『Led Zeppelin II』になった。彼が自分のものとして初めて所有したアルバムは、父からのクリスマス・プレゼントであるディープ・パープルの『Fireball』である。決定打はそのあとに来た。父が兄のために買ってきたアリス・クーパーの『Love It To Death』で、本人はこの一枚を指して「あれだった」と語っている。
小学校に上がった時点で彼はすでに字が読めた。母が兄たちに読み聞かせる童話を横で一緒に追っていたためで、まわりの子どもがアルファベットを覚えている教室は退屈でしかなかった。担任の年配の女性教師とも折り合いが悪く、やり返しては校長室に送られ、問題児という評判がついた。学校は彼を児童精神科医のもとへ送る。ときは1969年、少年は人類初の月着陸に夢中で、アポロの宇宙飛行士全員の名前を諳んじていた。彼はその興奮と計画の中身を医師に事細かに説明した。診断結果は学校へ伝えられた——この子は年齢相応にまったく正常である、代わりに教師のほうを寄越しなさい。
ハノイ・ロックスは、断られたオーディションから生まれている。ヘルシンキの教会の地下にあるリハーサル場所を、彼のジャム・バンドとアンディ・マッコイのパンク・バンドBRIARDが共用していた。忘れ物を取りに戻ったときにマッコイと話し込み、マッコイはBRIARDのシンガーに「こいつをセカンド・ギターに入れよう」と持ちかける。メンバーは外で相談してから戻ってきて、条件を一つ出した——髪を切るなら入れてやる。当時の彼の髪は腰まであった。正気か、と彼は断った。話はそこで終わったが、彼とマッコイのほうは話し続け、それなら自分たちでバンドを組もうという結論に至る。それがハノイ・ロックスの計画の始まりだった。
最初のステージで彼が手にしていたのはマイクではなくギターだった。デビューはヘルシンキの自宅近くの学校でのライヴで、彼はギターを弾き、歌っていたのは2つ年上の少年である。それでも本人はシンガーになるつもりを崩さなかった。歌い手としての初舞台は、アンディ・マッコイもサミ・ヤッファもまだいないハノイ・ロックスの最初期の編成だった。ナスティ・スーサイドと、ステファン・ピエスナック、ネド・ソイニネン、ペキ・シロラという3人のフィンランド人という顔ぶれである。
1979年、ハノイ・ロックスの最初のかたちはTHE NYMPHOMANIACSという名前だった。ギタリストはマッコイの知り合いのスウェーデン人で、彼はストックホルムまで出向いてその男の部屋の床で寝起きしている。マネージャーを名乗る人物もいたが、ギタリストを質屋へ連れて行き、多額の電話代を踏み倒して姿を消した。結局何も動かず、彼は一度フィンランドへ戻っている。
1980年、彼らはフィンランドを引き払ってストックホルムへ移る。用意されているはずだった部屋の話は反故にされ、彼とサミ・ヤッファ、ナスティ・スーサイドの3人は路上に出た。ハノイ・ロックスが本格的に始動したのはその夏の終わりで、最初の半年間、3人は路上のままだった。救いはドラマーのジップ・カジノが郊外の地下鉄駅の下に持っていたリハーサル場所である。核シェルターのような空間で、終電後は警備員が見回って鉄の扉を降ろすため泊まることは許されていなかったが、彼らはスピーカーの陰に隠れてやり過ごし、朝まで演奏した。ある夜にはエスカレーターを上がって門をこじ開け、近くの畑からニンジンを失敬している。ジップが高齢者向けジムの受付で働いていたので、荷物はそのボイラー室に置かせてもらい、こっそりシャワーを浴びて着替えてからまた路上に戻った。バンドの結束は、この時期に作られたものだと本人は語っている。
彼が人前で最初に演奏した曲は「Kill City Kills」だった。ハノイ・ロックスのデビュー・シングルのB面にあたる曲で、1980年、ストックホルムのGlädjehusetという場所で行なわれた最初の編成による最初のハノイ・ロックス公演は、この曲から始まっている。
バンドが飲酒と乱行で名を上げていた時期、彼自身は比較的しらふだった。酒がそもそも好きではなく、パブで酔って中身のない話をするタイプでもなかった。転機は1984年で、プロデューサーのボブ・エズリンから呼吸を助けるために発声のレッスンを受けるよう勧められる。クラシックの声楽教師についた彼は、喉に負担をかけるのではなく横隔膜から歌うことを覚え、以後30公演を難なくこなせるようになった。ほかのメンバーが夜通し飲んでいる横で、彼は昼間にホテルのプールで泳ぎ、夜にステージに立った。朝から機嫌よくしている彼に、二日酔いのメンバーは腹を立てていたという。
ハノイ・ロックスの終わりについて、マイケル・モンローは「ハノイ・ロックスはラズルと一緒に死んだ」と言い切っている。1984年12月8日にドラマーのラズル——本名ニコラス・ディングリー——を失ったあと、サミ・ヤッファも去り、ドラマーもベーシストも一度にいなくなった。残ったのは彼とアンディ・マッコイ、ナスティ・スーサイドの3人だが、当時の3人はもう噛み合っておらず、彼はその状態を「向こうはずっと下にいて、自分はずっと上にいた」と表現している。彼にとって最も大事だったのはバンドの筋を通したまま終わらせることだった。
ラズルを失った直後、レミー・キルミスターは彼に対してモーターヘッドをバックバンドとして提供すると申し出た。ラズルの死にレミー自身がひどく参っていたためで、「なあ、俺たちがお前の後ろでやるよ」という言い方だったという。モンローは、それがどれほどの意味を持つ申し出かを理解して絶句している。当時の自分は若く顔つきも幼かったから、モーターヘッドのファンには食い殺されていただろう、というのが本人の振り返りである。それでもレミーの器量については、いつ会っても同じ、変わらず素晴らしい人だったと語っている。
ハノイ・ロックスの終幕後、彼はDEAD BOYSとLORDS OF THE NEW CHURCHのスティーヴ・ベイターズと同居している。始まりは家事の手伝いで、ベイターズが不在のあいだ彼が飼い猫のジギーに餌をやっていた。ベイターズの妻が家を出たあと、家賃を分け合って節約するため彼が転がり込む形になった。そこへリトル・スティーヴンがLORDSのプロデュースのためにやって来て、さらにスウェーデンで恋人の家族に追い出されたジョニー・サンダースまで住み込んだ。本人はこの時期を「あの頃だよ、良かった悪かったあの頃」と呼んでいる。
ソロに踏み出せと彼を説得したのはスティーヴ・ベイターズだった。曲を書くところに戻れ、というのがベイターズの言い分である。当時CBSは、ハノイと同じ全世界契約をソロ・アーティストとして維持するか切るかを判断するためにデモを求めており、彼はレーベルに残る気はなかったがデモは作った。そこへリトル・スティーヴンが〈Artists United Against Apartheid〉名義の『Sun City』を作るために現れ、ソロでいくべきだという意見に同調し、しかもマイクよりマイケル・モンローのほうがいいと言って、彼とベイターズの二人を「Sun City」に参加させた。ハノイ後のソロ・キャリアで彼が最初に関わった作品はこれで、大きな仕事に加われたことを彼は誇りに思っている。
彼がニューヨークへ移った直接の理由は、「Sun City」のビデオ撮影だった。リトル・スティーヴンが撮影のために彼らをワシントン・スクエア・パークへ呼んだのである。到着して見回すと、RUN-DMC、ブルース・スプリングスティーン、ピーター・ガブリエル、グランドマスター・フラッシュ、ピート・タウンゼント、マイルス・デイヴィス、ロン・ウッド、リンゴ・スターがそこにいた。彼はその場で、この夏に一から始めよう、自分の居場所はここだと決めている。
ニューヨークでも彼は最初、住む場所を持たなかった。救いになったのはライムライト・クラブで、朝6時まで開いていたため路上にいる代わりにそこで時間を過ごせた。やがてイースト3丁目に部屋を借りる。ヘルズ・エンジェルスの向かいだった。そこで最初の妻となるジュード・ワイルダーと暮らし始め、曲を書き、レコーディングに入っている。
『Nights Are So Long』は、少額の予算で、北欧と日本での発売を前提に録られたアルバムだった。本人の言い方では、これは事実上「国際的なデモ」として機能した一枚である。そしてその役目を果たした——この作品を元にPolygramと全世界7枚契約を結び、次作『Not Fakin' It』の制作に入っている。
1989年、ニューヨークのミッドタウンで「Dead, Jail Or Rock 'N' Roll」のミュージック・ビデオを撮影していると、アクセル・ローズが現れた。ハノイ・ロックスの大ファンだと伝えるためである。アクセルは発売前の『Not Fakin' It』のテープを聴いていて気に入っていた。レコードでバッキング・ヴォーカルを歌っているのはリトル・スティーヴンだが、その場でモンローが「上がって何テイクか一緒にやらないか」と誘うと、アクセルは応じ、その映像をビデオに使うことまで許した。モンローは、これで自分は少し名前が売れ、代わりに相手には少しストリートの信用を渡せたかもしれないと述べている。
1989年の『Not Fakin' It』のタイトル曲は、彼のオリジナルではなくNAZARETHのカヴァーである。この一点がアクセル・ローズとの距離を一気に詰めた。二人はもともとNAZARETHのファンで、モンローの側からすればアクセルの歌い方にダン・マッキャファティの影響が聴き取れたので驚きはなかったのだが、アクセルのほうはこの曲を知らなかった。NAZARETHの曲だと聞かされて、彼はこのアルバムをいっそう好きになったという。
『Not Fakin' It』は本人の見立てでは突破口になりかけていた。それを潰したのはレーベル自身が作ったテレビCMだった。CMは彼を「ハノイ・ロックスの頭脳」と呼んだ。ハノイに頭脳などなかった、そこがあのバンドの一番格好いいところだった、というのが彼の反論である。あの言い方では全部が計算された企画のように聞こえてしまうため、彼はレーベルに「評判を壊す前に引っ込めろ」と要求した。CMは取り下げられ、そしてレーベルはこの作品を見捨てることに決めた。
ガンズ・アンド・ローゼズの側もハノイ・ロックスからの影響を公に認めていた。アクセル・ローズがモンローに明かしたところでは、イジー・ストラドリンは以前から「髪をマイケル・モンローみたいにしろ」と言っていたという。モンロー自身、初期の写真や「Welcome To The Jungle」のビデオにその気配を少し見て取っている。さらにガンズは自身のレーベルUzi Suicideを通じてハノイのヨーロッパ盤カタログをアメリカでリリースした。アクセルの理由は明快で、ハノイ・ロックスが何者だったのかを人に知らせたかったのだという。
ガンズ・アンド・ローゼズの「Bad Obsession」への参加は、ラフ・ミックスを送られてハーモニカとサックスを頼まれたことから始まった。曲を気に入った彼は引き受け、録音のためロサンゼルスへ呼ばれる。スタジオに着くと、録り終えたばかりの新曲——「Live And Let Die」など——を大きなスピーカーで聴かせられた。結果として彼はこの曲にサックスのホーン・セクションを丸ごと入れている。ハーモニカのメロディについてはスラッシュに明確な希望があり、二人はそれが望みどおりになるまで作業を続けた。
ガンズ・アンド・ローゼズが1993年のカヴァー集『"The Spaghetti Incident?"』でDEAD BOYSの「Ain't It Fun」を取り上げたのは、一本のカセットテープから始まっている。アクセル・ローズが電話でDEAD BOYSをよく知らないと言うので、モンローは彼らの1stアルバムと2ndの良いところをまとめたテープを作り、『Use Your Illusion』のセッションでロサンゼルスに着いたときに渡した。ハリウッドをアクセルの車で走りながらそのテープを流していると「Ain't It Fun」が流れ、アクセルはこれは録らなければならないと反応した。そして即座にスラッシュに電話をかけている。
「Ain't It Fun」への参加に対して、彼は金銭を要求しなかった。ガンズ・アンド・ローゼズが絡むと途端に金の話をし始める人間が多く、それを見苦しいと感じていたからである。彼が求めたのは二つだけだった——アルバムのクレジットに「In memory of Stiv Bators」と入れること、そして自分の名前の綴りを間違えないこと。アクセル・ローズはもちろんだと答えた。亡き友のためにこれができたこと、そして何百万人ものガンズのファンがスティーヴ・ベイターズとDEAD BOYSの名前を目にする機会になったことを、彼は素直に喜んでいる。
「Ain't It Fun」のヴォーカルを録り終えたあと、彼はスタジオに置かれていたピアノに座って弾いていた。すると背後にあったローリング・ストーンズとキッスのピンボール台が、誰も触っていないのに勝手に動き出した。コントロール・ルームに戻った彼はアクセル・ローズに、あのピンボール台はひとりで動くことがあるのかと尋ねる。答えは「いや、絶対にない」だった。彼は、映画『素晴らしき哉、人生!』の「鈴が鳴るたびに天使が翼を得る」にかけて、あれはスティーヴが翼を得たのだろうと言った。アクセルは、誰かが他人について言ったことでこれほど優しい言葉は聞いたことがないと返している。
90年代前半、彼のアメリカでのキャリアはスティーヴ・スティーヴンスとの共同プロジェクトで一度止まっている。スティーヴンスの側からギタリストとして参加を申し出てきた話だったが、彼がプロデューサーにリトル・スティーヴンを望んだのに対し、レーベルはマイケル・ワグナーを立てた。1992年に『Jerusalem Slim』として発表されたその作品は、スティーヴンスがスタジオ作業を終えた時点で総額70万ドル前後に達しており、彼はレーベルに100万ドル近い借りを負う形になった。彼は待つことに決め、レーベルはやがて彼を切った。皮肉なことに、それでようやく自由になっている。
レーベルから解放された彼が最初に作ったのがDEMOLITION 23.のアルバムで、プロデュースは念願のリトル・スティーヴンだった。制作にかかった期間は2週間。それでいて彼は今もこの一枚を、自分がやったなかで最も音が良いアルバムのひとつだと語っている。
DEMOLITION 23.のツアーは、始まる前に崩れた。ギタリストのヤン・ヘニングが薬物を抱えており、アルファベット・シティで車に轢かれてベルヴュー病院に3か月入院し、退院後、ツアー直前に薬物を入手しようとして逮捕された。アメリカの音楽業界に自分の居場所がないことに彼は嫌気が差し、ロンドンへ戻るつもりでいたが、兄が手を入れ終えたフィンランドの田舎の家があったため、正反対の場所へ移ることになった。そこで彼と当時の妻、そして飼い猫のスシで過ごし、巨大な雪だるまと氷のランタンを作っていたという。
『Peace Of Mind』というタイトルは、願掛けだった。ほかの何もかもが上手くいっていない、全部が機能していない、ならばもっと前向きに考えるべきなのかもしれない——そう思って、タイトルが現実を引き寄せてくれることを期待して名付けたのだと本人は説明している。このアルバムでドラムを叩いたのはジミー・クラークで、それ以外の楽器はほぼ全部を彼自身が演奏した。
『Life Gets You Dirty』はフィンランドで作った2枚目のアルバムで、ここでもベースとドラム以外はほぼ彼自身が演奏している。曲そのものについて本人は良いものが入っていると評価しているが、ミックスの段階では自分が疲れ切っていて仕上がりが良くなかったと認めており、いずれリミックスして音を良くしたうえで出し直したいと語っている。
ハノイ・ロックスの再結成は、二つの不幸の上に成り立っていた。2001年に最初の妻ジュード・ワイルダーを脳内出血で失った彼は、ヘルシンキから2時間ほど離れたトゥルクへ移る。そこで、長く互いに関わりを持っていなかったアンディ・マッコイと再会するのだが、当時のマッコイはバルコニーから落ちて両脚を骨折したところだった。生きていて歩けること自体が奇跡で、砕けた脚はほとんどがチタンになっていたという。マッコイはその回復途上にあり、彼は妻を失った痛みから回復しようとしていた。再結成の土台はそれだった、というのが本人の説明である。
ソロ作『Whatcha Want』のために書かれた曲のうち5〜6曲が、最終的にハノイ・ロックスの『Twelve Shots On The Rocks』に移されている。タイトル曲までがそうだった。理由は単純で、ハノイ・ロックスの名前が後ろについていたほうがその曲たちにとって勝算があると彼が判断したためである。
2009年にハノイ・ロックスを完全に終えたあと、現在のソロ・バンドが動き出したきっかけはサミ・ヤッファだった。ニューヨーク・ドールズの一員としてフィンランドに来たヤッファが、また一緒にやりたいと言い出したのである。ちょうど自分もソロに戻るところだ、という噛み合い方だった。バンドはそこから組み上がっていく。ジンジャー(THE WILDHEARTS)が抜けたあとドレゲンが入り、その後にリッチ・ジョーンズが加わって現在の顔ぶれになった。過去の作品も良いものだが、この編成が自分のお気に入りであり、望みうる最高のバンドだと彼は言い切っている。
『Sensory Overdrive』は、ロサンゼルスでジャック・ダグラスをプロデューサーに迎えて録られた。エアロスミス、ジョン・レノン、CLUTCH、SLASH'S SNAKEPIT、ニューヨーク・ドールズなどを手がけてきた人物である。ゲストにはモーターヘッドのイアン「レミー」キルミスターと、グラミー3度受賞のカントリー/フォーク系シンガー・ソングライター、ルシンダ・ウィリアムスが参加した。ユニバーサル傘下のSpinefarm Recordsから2011年3月14日に発売され、北米では同年8月23日にリリースされている。
2013年8月27日にSpinefarm Recordsから発売された『Horns And Halos』は、発売から1週間のうちにフィンランドで1万枚を超え、ゴールド認定を受けた。前作『Sensory Overdrive』が『Classic Rock』誌の年間最優秀アルバムとフィンランド1位を獲ったあとの一枚である。
リッチ・ジョーンズがこのバンドに入ってきたのは、2013年秋のドレゲンの不在をきっかけにしている。ただし理由の説明は2つ並立している。ドレゲン本人は2013年9月、自分のソロ・デビュー作のプロモーションに集中するため年内の残りの日程には同行せず、その間は「素晴らしいギタリスト、リッチ・ジョーンズ」が代役を務めると声明を出した。同じ年に良質なロック・レコードを2枚作ったのだから、どちらもツアーに出さなければファンを失望させる、という理屈である。一方、日本の発売元ビクターエンタテインメントのプロフィールは、同年11月の日本公演以降の日程にドレゲンが帯同しなかった理由を健康面としている。その後ドレゲンはBACKYARD BABIESの再始動もあって正式に脱退し、リッチがそのまま定位置に収まった。
『One Man Gang』の「Wasted Years」でギターを弾いているのは、ハノイ・ロックスのナスティ・スーサイドである。ナスティは薬剤師として普通に働いており、ロックや酒の世界から距離を置きたいという気持ちをマイケルは尊重してきた。それでも時折ライヴに顔を出しては一緒に演奏していたという。マイケルの評価は率直で、ナスティはアンディ・マッコイの影に隠れていたけれど、ギタリストとしてはナスティのほうが優れていると考えている。全体のサウンドにおける役割としては、AC/DCにおけるマルコム・ヤングのような存在だ、というのが彼の説明である。せっかくだからソロを弾いてみないかと声をかけると本人がスタジオに現れ、好きなようにやってもらった結果、いつもどおりのワンテイクだった。
タイトル曲「One Man Gang」でリード・ギターを弾いているのはTHE DAMNEDのキャプテン・センシブルである。曲そのものがどこかTHE DAMNEDらしいとマイケルが感じたことがきっかけで、友人でもある彼に電話をかけて弾いてくれるかと頼んだところ、即座に引き受け、翌日からメールで音が送られてきたという。マイケルはこのソロの出来を周囲に自慢しているほど気に入っている。二人はロンドンで〈International Artist Of The Year〉の表彰の場でも顔を合わせている。
『One Man Gang』の最終曲「Low Life In High Places」でチェロを弾いているのは、APOCALYPTICAのエイッカ・トッピネンである。二人の付き合いは長く、最初の出会いがいつだったかマイケル自身も正確には覚えていない。ただ交差の記録ははっきり残っていて、2014年の『The Voice Of Finland』シーズン3でマイケルがコーチを務めた際にはエイッカがそのアドバイザーを務め、マイケルが自チームのファイナリスト、シル・アイリストラと「Say Something」をデュエットしたときにもエイッカがチェロで加わっている。マイケルは、エイッカが妻と組んでいる別プロジェクトCHERRY & THE VIPERSにも参加したことがある。
『One Man Gang』というタイトルは、その曲が書けた瞬間に決まった。5人でやっているバンドの作品に「一人のギャング」という題を掲げるという矛盾を、彼はそのまま面白がっている。もっともアルバムの中身は正反対で、バンド全員に曲を書かせた結果、彼自身が書いたのは4曲ほどしかない。リッチ・ジョーンズが次々と曲を持ってきたためで、そのなかにはTHE DAMNED風のものもTHE CLASH風のものもあり、方向としてもいいと彼は判断した。スタジオでは18曲を録音し、ボーナス・トラック扱いにするには惜しいと感じたものは別に取ってある。ちなみにリッチはアートワークとマーチャンダイジングのデザインも手がけている。
『One Man Gang』は、完成してから発売までに間が空いている。ベーシック・トラックは2018年3月にはほぼ録り終えており、夏はフェス出演のためレコーディングを休み、秋にスタジオへ戻ってリッチ・ジョーンズと作業を仕上げ、ミックスとマスタリングが終わったのは2018年12月だった。発売は2019年10月である。彼が待ったのは、チームが整うのを見届けるためだった。マネージャーが付き、レコード契約が取れ、ブッキング・エージェントとしてUTA(ユナイテッド・タレント・エージェンシー)も付いた。良い形で出さなければもったいないアルバムだと考えたので、タイミングを少し待ったのだと語っている。
『One Man Gang』の「In The Tall Grass」で、彼はそれまでにない柔らかい声を使っている。歌詞がティーンエイジャーの視点で、この世界はそれほど安全な場所ではないと気づき、子ども時代の無邪気さが終わっていく過程を扱っているためで、最初は少し子どもっぽく優しく歌い、途中から激しくなるように組み立てた。あとで聴いたリッチ・ジョーンズが驚くほどはまっていたといい、これは一体誰が歌っているのかとインタビューで訊かれたこともあったという。
「Heaven Is A Free State」でトランペットを吹いているのは、フィンランドのジャズ界では知られた奏者で、UUDEN MUSIIKIN ORKESTERIというオーケストラに所属している。マイケルはホーンを多く入れたバンドで演奏したことがあり、そこで彼と出会った。曲を作った段階ではマイケル自身がサックスを入れていたのだが、スタジオでトランペットに差し替えることが決まり、毛色の違う曲になった。5年前ならこういう曲はやらなかっただろう、というのが本人の弁である。スティーヴ・コンテは半分笑っていたが、サミ・ヤッファは最初から乗り気だった。なおこの曲はトランペットが入っているという理由で、ヘルシンキ公演では演奏できていない。
2019年は『Not Fakin' It』の30周年にあたっていたが、記念盤は出なかった。理由は権利で、マイケル自身は原盤を持っていない。リマスターやベスト盤で音が良くなっているのは認めつつ、もし自分が原盤を持っていればアニバーサリー・エディションをやりたいところだ、と彼は語っている。手元にはまだ当時のデモがたくさん残っているという。加えて、複数のバージョン違いが出ているはずなのに自分のところにはサンプルすら送られてこないので、噂を聞いて自分で買った、とも述べている。
ハノイ・ロックスは80年代のグラム・メタル/ヘア・メタルの隆盛に影響を与えたバンドと見なされているが、マイケル・モンロー自身はその一括りを歓迎していない。認められること自体は喜ばしいとしたうえで、あの手のバンドの多くが音楽よりも髪とパーティーに夢中で的を外していた点に苛立ちを表明している。彼にとって重要だったのは音楽と、言動のほうだった。何百万枚も売りながら愚かに振る舞い、本物のロッカーの評判を汚したバンドと同類に見られているのだとしたら恥ずかしい、という言い方である。フィンランドで育ったので自分のメンタリティは違うのだろう、とも語っている。
彼のドキュメンタリー映画は、数年がかりの企画である。2021年、SLASH FEATURING MYLES KENNEDY & THE CONSPIRATORSのベーシスト、トッド・カーンズのポッドキャストで近況を訊かれた彼は、2022年までに完成させたいと答えた。題材は自分がニューヨークにいた10年間で、そこはハノイ・ロックスの始まりでもある。人生で一度しか作らないであろうものだからきちんと仕上げたい、というのが彼の言い分だった。この時点でスラッシュ、ダフ・マッケイガン、フー・ファイターズのクリス・シフレットへのインタビューは済んでいたが、彼はそれをやり直すつもりだと述べている。自分の業績だけを並べるのはやめた——自分やロックンロールに興味のない人でも楽しめる話にしたい、というのがその理由だった。
あの再結成は、当初の計画にはなかった。マイケルが最初にジップ・カジノを呼ぼうと考えた理由は別のところにある。ジップはTHE BOYSのカジノ・スティールの大ファンで、アーティスト名もそこから採ったほどなので、カジノ・スティール作の「Jimmy Brown」を本人に歌ってもらい、ジップがドラムで共演したら面白い、という発想だった。サミ・ヤッファがいて、ナスティ・スーサイドの出演も決まっていたところへ、アンディ・マッコイから電話がかかってくる。還暦公演の話を聞いた、自分のワールド・ツアーの合間に時間があれば出演して「Tragedy」をやってもいい——つまり自分で自分を招待してきたのである。それでオリジナル・ハノイ・ロックスの5人が揃うことになり、「Jimmy Brown」の案は取り下げてジップの出番を最後に回し、オリジナルの曲を数曲やる形に変わった。サプライズにする案も出たが、事前告知が無かったことに怒るファンが出かねないため、Tavastiaで記者会見を開いて発表している。チケットは既に売れていたが、発表の翌日の午後までに完売した。視界に多少の障害物がある席まで可能な限り売りに出し、8000人以上が集まっている。
あの夜、ジップ・カジノは40年ぶりにドラムに触った。ハノイ・ロックスを去ってからの40年間、彼はドラムを叩いていなかったのである。それにもかかわらず堂々と演奏し、問題なくやりきったとマイケルは語っている。信じられないほどだった、というのが本人の評だ。マイケルがジップと再会したのはその前年の12月、自身のドキュメンタリー映画の撮影でストックホルムを訪れたときだった。なお、この再結成は1夜限りで、その後の予定は無い。
ハノイ・ロックスの2作目『Oriental Beat』のリミックス盤は、行方不明だったマスターテープが見つかったことで実現した。ミックスの出来はバンドにとって長年の不満で、聴かされた時点で既にレコードはプレスされており手の打ちようがなかった。90年代初頭、ガンズ・アンド・ローゼズがハノイのヨーロッパ盤をアメリカで出そうとした際にもリミックスを望んだが、フィンランドのレーベルからマスターテープが紛失していると告げられている。ところが2020年前後、ユニバーサル ミュージックの倉庫でテープを見かけたという情報が届いた。マイケルは同社の社長に連絡して写真を撮って送ってもらい、そこに記された「Advision Studios London」の文字で『Oriental Beat』の録音テープだと確認した。最新作を除く彼のアルバムのミックスを担当してきたペトリ・マユリとE-Studioで作業が始まり、サミ・ヤッファも立ち会い、仕上がりはナスティとジップに送られた。そして12年ほど会っていなかったアンディ・マッコイが最後にスタジオへ入って完成している。冗談めかして、完成までに最も時間のかかったアルバムだ、と彼は言う。
『Oriental Beat』のリミックスで新しく録音されたものは一つも無い。使われたのはすべて当時のテープに入っていた素材である。4曲については別のヴォーカル・トラックが見つかり、たとえば「Oriental Beat」の冒頭には、オリジナルで採用されたのとは異なるテイクが使われていて、そこにはオリジナルには入っていない絶叫が入っている。バッキング・ヴォーカルのトラックにアンディとマイケルの会話が残っていた箇所もあった。手を加えなかった曲が1曲だけある。最後の「Fallen Star」で、リミックスを試してはみたものの変える必要はないという結論になった。アンディがごく若い頃に書いた曲で、アルバム上ではサイレント映画の女優メアリー・ピックフォードに捧げられている。
『Oriental Beat』のレコーディングそのものについて、マイケルは楽しい記憶として語っている。ハノイ・ロックスにとって初めてのロンドンでのレコーディングだった。「Walking On Sunshine」で知られるKATRINA AND THE WAVESのカトリーナがスタジオに来て、「Don't Follow Me」でハーモニーを歌っている。彼女がヒットを出す前の話である。とてもクールな女性で、一緒に過ごした時間は楽しかった、というのが彼の回想だ。もっともプロデューサーのビジョンが何だったのかは彼には最後まで分からず、ジップ・カジノとの空気も良くなかった。演奏そのものはそれなりに録れていたのに、ミックスが全部を台無しにしたのだと彼は言う。
『I Live Too Fast To Die Young!』は2021年11月から12月にかけて、ヘルシンキのInkfish Studiosで録音された。プロデュースはバンド自身とエンジニアのエルノ・ライティネンで、録音とミックスも彼が担当している。マスタリングはChartmakersのスヴァンテ・フォシュベック。演奏はマイケル(リード・ヴォーカル、ハーモニカ)、スティーヴ・コンテ(ギター、ヴォーカル)、リッチ・ジョーンズ(ギター、ヴォーカル)、カール・ロックフィスト(ドラム)、サミ・ヤッファ(ベース、ヴォーカル、ギター)という現行の5人である。Silver Lining Musicにとっては2枚目のマイケル・モンロー作品にあたる。
2023年6月、フィンランドのRockfestで、マイケル・モンローはモトリー・クルーのヴィンス・ニールと初めて対面した。1984年12月にハノイ・ロックスのドラマー、ラズル(ニコラス・ディングリー、当時24歳)が命を落とした事故の当事者どうしが、それまで一度も直接会っていなかったのである。マイケルは自身のInstagramに、ヴィンス・ニールと初めて会えたことは人生で最も重要な瞬間の一つだったと書いた。ラズルはいつも「シンガーどうし、お前たちは似ている」と言って二人を会わせたがっていたこと、状況が違えば両バンドはおそらく良い友人になっていただろうが運命は別のことを用意していたこと、多くは話さなかったが相手の目が千の言葉より多くを語っていたことを、彼はその投稿に記している。
その初対面のあと、マイケル・モンローはヴィンス・ニールに手紙を書いている。相手がいまだにあの事故の痛みを抱えているのが見て取れたためだった。会場でその日、彼は自分のハーモニカを持ってモトリー・クルーのステージに飛び入りするつもりでいたのだが、開演の5分前に着いたためステージ袖から観ることになった。対面が実現したのはクルーの出番が終わった直後である。1週間後、彼は手紙を書き、ニッキー・シックスに託してヴィンスに渡してもらった。数日後、シックスからは、ヴィンスが部屋に来て手紙を読み、満面の笑みで「素晴らしい」と言っていたという報告が届いた。マイケルは、ヴィンスはもうあの件で苦しむのをやめて自分を許し、幸せに生きるべきだ、それがラズルの望むことだと語っている。
フィンランドで彼が続けているアコースティックのソロ公演は、思いがけず定着した企画である。始まりは、ジュッシ69のロックバーThe Riffの8周年記念で初めて公にアコースティックのソロ・ライヴをやったことだった。2回目はポルヴォーのHaikon Kartanoで、3時間半に及んでいる。ドラムとエレキ・ギターの音がないぶん観客と会話しながら演奏でき、リクエストにも応えられる——スティーヴ・ベイターズやジョニー・サンダースの曲を求められることもあるという。気づけば3時間を超えるのが常で、2024年秋の最終公演となったオウルでは自己最長の4時間半に達した。ヘルシンキのアイスホールでやった60歳記念コンサートよりこちらのほうが良いと言われたこともある、と彼は笑っている。
『Outerstellar』のジャケットに大写しになっているのは、マイケル・モンローの右目である。これは2011年3月に発売された『Sensory Overdrive』と対になるように作られていて、あちらに使われていたのは左目だった。発案したのはギタリストのリッチ・ジョーンズである。色調も意図的に対照させてあり、『Outerstellar』の目は冷たい色、『Sensory Overdrive』の目は暖かい色になっている。レコードのジャケットを開くと両目が揃って顔になる、という案も検討され、レコード会社からは両目をプリントしたアイマスクという提案も出た。日本盤の解説は、『OUTERSTELLAR』が青、『SENSORY OVERDRIVE』が赤をメイン・カラーとしていること、そして『OUTERSTELLAR』のアートワークの中には『SENSORY OVERDRIVE』のカヴァー・アートがそれと示唆するように差し込まれていることを指摘している。
「Rockin' Horse」のミュージック・ビデオの現場では、スタジオに入ってきた人物を彼が知らない人だと思って道を譲ったところ、それがサミ・ヤッファだった。互いに相手が誰なのか分かっていなかったのである。撮影は公開の1年ほど前、彼が肋骨を骨折したイギリス・ツアーの最中で、ロンドン公演のあとウルヴァーハンプトンへ向かう道中のスタジオで行なわれた。事前にセカンドハンド・ショップへ寄って、グレーのジャケットに白いシャツという可能な限りつまらない普通の服を買い、そこに眼鏡を足している。撮影場所から母親に電話でその姿を見せると、お父さんに似ていると言われた。彼には兄が2人いて、父に似ているのは上の兄のヤリだと本人は思っているのだが、父が眼鏡をかけていたので眼鏡のせいでそう見えたのだろう、と考えている。当初はビデオの最後で本来の自分たちに戻る予定だったが、これまで何本も素の姿でビデオを作ってきたので、今回は最後まで貫くことにしたという。
2025年秋、彼は半月板の損傷でツアーをキャンセルしている。同年11月の時点でもまだ病気休暇中だったが、膝は徐々に良くなってきているとBARKSのインタビューで語り、11月24日の大阪公演については素晴らしいロックンロール・ショーを期待していいと約束していた。
2023年のイギリス・ツアーは、PHIL CAMPBELL & THE BASTARD SONS、BLACK STAR RIDERSとの3組編成だった。マイケルは感謝を込めてフィル・キャンベルのステージに加わり、「Born To Raise Hell」でブルースハープを吹いている。BLACK STAR RIDERSの「Tonight The Moonlight Let Me Down」ではリッキー・ウォーウィックと並んで歌った。この曲のアルバム版で彼はサックス・ソロを吹いているのだが、スコット・ゴーハムのギター・ソロが入ったため、ライヴではハーモニーを歌ってリッキーとのデュエットになったという。
ミックスのとき、彼が基準に置いているレコードがある。イアン・ハンターがミック・ロンソンと共同プロデュースした1975年のソロ・デビュー作で、とりわけそのドラムの音を参照するのだという。あのアルバムは今でも最高の音がしている、というのが彼の評価である。同作収録の「Boy」については、自分を泣かせる曲として挙げ、傑作だと述べている。
自分の葬儀でかけてほしい曲を訊かれて、彼はアリス・クーパー『Killer』の最後に入っている長いオルガンの曲を挙げた。ただし答えには但し書きが付く。子どもの頃はそう言っていたが、その後、死なないことにしたのだという。まだ誰も永遠に生きていないというだけでは、それが不可能である証明にはならない——だからもしかしたら自分は永遠に生きるかもしれない、というのが彼の理屈である。それでも大半の人と同じようにこの身体を離れる可能性のほうが高いので、そのときは親しい友人たちに『Killer』の終わりを聴きながら自分を思い出してほしい、と続けている。