HANOI ROCKS TRIVIA

Trivia

HANOI ROCKSという名前で始まったわけではない。マイケル・モンローによれば、1979年に組まれた最初の形はThe Nymphomaniacsという名前だった。ギタリストはアンディ・マッコイの知り合いのスウェーデン人で、モンローは彼の部屋の床で寝るためにストックホルムまで行っている。マネージャーらしき人物がそのギタリストを質屋へ連れて行き、多額の電話代を残して姿を消したところで話は途切れ、モンローはいったんフィンランドへ戻った。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

HANOI ROCKSが生まれたきっかけは、ひとつの断りだった。ヘルシンキの教会の地下室にあったリハーサル・ルームを共有していた縁で、マイケル・モンローはパンク・バンドBriardのギタリスト、アンディ・マッコイと知り合う。マッコイはBriardのシンガーに、モンローをセカンド・ギタリストに入れてはどうかと持ちかけた。メンバーは外で相談して戻ってくると、髪を切るなら入れてやると告げた。腰まで髪を伸ばしていたモンローはこれを断る。話は流れたが、二人はそのまま話し込み、自分たちでバンドを組もうと決めた。それがHANOI ROCKSになった。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

フィンランドとスウェーデンではすでに名の知れたバンドだったが、ロンドンでは誰も彼らを知らなかった。アンディ・マッコイが振り返るところでは、ロンドンでの最初のクラブ公演で金を払って入った客は3人。あとは何人かが顔で入り、会場には足が3本しかなく片目の見えない犬が歩き回っていたという。彼はその光景を忘れられないと語っている。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

『Oriental Beat』のミックスがなぜあれほど不評だったのかは、関係者の証言がそろっている。エンジニアのピーター・ウーリスクロフトはロックのプロデューサーではなく、マネージャーのリチャード・ビショップによれば、彼はこのアルバムをスパンダー・バレエのように鳴らそうとしたのだという。サミ・ヤッファはこれをバンドのキャリアで最も音の悪いアルバムと呼び、マイケル・モンローはプロデューサーがバンドの本質を何ひとつ分かっておらず、そのミックスはひどく間違っていたと述べている。

出典: Blabbermouth「HANOI ROCKS Announces 40th-Anniversary Redux Release Of 'Oriental Beat'」

ラズルはバンドに選ばれたのではなく、自分で売り込んできた。マイケル・モンローの回想では、彼はジグザグ・クラブでモンローを捕まえ、あんたのバンドは最高だが自分がドラマーになるべきだと言い、その前にもマーキーのジョニー・サンダース公演で同じ話をしていた。同じ時期にアンディ・マッコイのほうにも、ドラマーにしろとしつこく言ってくる男がいた。同一人物だった。オーディションに来たラズルは技術的にずば抜けてはいなかったが、スタイルがあった――なにしろ彼はプラットフォーム・シューズを履いてドラムを叩きに来たのである。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

『Back to Mystery City』でイギリスの音楽誌の寵児になった直後、バンドが送り込まれた先は妙な場所ばかりだった。マイケル・モンローによれば、フランスやイタリアやスペインへ行くものだと思っていたのに、実際に回されたのはボンベイとニューデリー、それから香港である。極めつけはテルアビブで、彼らはホテルの角にあるクラブで1週間、毎晩演奏した。出国する際には損害の弁償として多額の罰金を払わされ、現地の新聞には「Havoc in the Holy Land!」という見出しが出た。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

マイケル・モンローとヴィンス・ニールが直接顔を合わせたのは、2023年6月9日のことだった。場所はフィンランドで開かれた<Rockfest>のバックステージである。ラズルはニールと親しかったが、モンロー自身がニールに会うのはこれが初めてだった。モンローは二人で写った写真をSNSに公開し、あの晩の対面は自分の人生でもっとも重要な瞬間のひとつだったと書いている。ラズルはずっと二人が会うことを望んでいて、シンガー同士の自分たちには似たところが多いと思っていた、状況が違えば二つのバンドはたぶん良い友人になっていただろう――そう続けたうえで、時間を割いてくれたことへの礼と、この日のニールの歌が素晴らしかったことを書き添えた。同じ日、彼はニッキー・シックスとも再会している。

出典: BARKS「マイケル・モンローとヴィンス・ニール、初対面を果たす」(文:Ako Suzuki)

2022年9月23日、ヘルシンキ・アイスホールで開かれたマイケル・モンローの60歳記念コンサートに、HANOI ROCKSのオリジナル・メンバー5人が揃った。モンロー、アンディ・マッコイ、サミ・ヤッファ、ナスティ・スーサイド、そして初代ドラマーのジップ・カジノである。この5人が同じステージに立ったのは、1982年7月27日にヘルシンキのタヴァスティアで演奏して以来のことだった。

出典: Loudwire「Hanoi Rocks To Reunite For Singer's 60th Birthday」(文:Alicia Selin)

日本での人気は解散のはるか前からのものだった。Classic Rock誌の記事は、1983年の終わりまでにHANOI ROCKSは日本で巨大な存在になっていたと書いている。再結成後の2002年にはサマーソニックで日本のファンの前に戻り、2003年2月にジャパン・ツアーを行い、同じ年の10月には<ROCK LEGENDS SPECIAL>と3か所のツアーのために再び来日した。10月8日の日本武道館公演では、「Oriental Beat」「Tragedy」「Malibu Beach」といった初期の曲から復活作の「People Like Me」「A Day Late, A Dollar Short」までが演奏され、アンコールの最後は「Up Around the Bend」だった。

出典: BARKS「ポップでハードでハチャメチャなハノイのロックンロールに魅惑された来日公演」

HANOI ROCKSのベーシスト、サミ・ヤッファとマイケル・モンローの付き合いは1980年代から途切れていない。モンローの公式サイトは、自身のバンドの中核をヤッファとドラマーのカール・ロックフィストだと紹介している。ヤッファはHANOI ROCKSでベースを弾いたあと、モンローとデモリション23を立ち上げ、1990年代にはスペインでマッド・ファナを始め、その後は再結成したニューヨーク・ドールズや、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツでも演奏してきた。

出典: マイケル・モンロー公式サイト BIOGRAPHY

メンバーが誰も本名を名乗っていないのには理由がある。マイケル・モンローの本名はファーゲルホルムで、彼はその名を誇りに思っていたが、フィンランド語の名前は誰にも発音してもらえない。バンドを組むにあたって全員が別の名前を使うことに決めたのだという。マリリン・モンローもアリス・クーパーも本名ではない、というのが彼の理屈だった。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

マイケル・モンローは放送の家に育っている。父はラジオのアナウンサーで、口調の静かな、旧い作法の、よく知られた人物だった。母もラジオで働いており、出発点はラジオ・ドラマの録音エンジニアである。二人はそこで出会った。子どもの声が要るとき、モンローと兄弟が使われることもあった。HANOI ROCKSを始めた頃の彼は「あのアナウンサーの息子」として知られていたが、ほどなくして父のほうが「マイケル・モンローの父」として知られるようになった、と彼は語っている。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

1980年、バンドはフィンランドを引き払ってストックホルムへ移る。用意されているはずだった部屋は反故にされ、モンロー、サミ・ヤッファ、ナスティ・スーサイドの3人は路上に出た。ガールフレンドの家があったアンディ・マッコイだけが屋根の下にいた。HANOI ROCKSが本当の意味で動き出すのはその夏の終わりで、3人はそこから最初の半年を路上で過ごしている。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

HANOI ROCKSの「バンド=ギャング」という空気がどこから来たのかについて、マイケル・モンローの答えははっきりしている。路上で互いの面倒を見ていたことだ、という。俺たち対世界、誰にも止められない、この集団に手を出すな――そういう態度はそこで身についたもので、自分とサミ・ヤッファ、ナスティ・スーサイドの間にあるつながりは今も変わらない、と彼は述べている。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

1981年のウィッシュボーン・アッシュのサポートは3公演だった。マイケル・モンローによれば初日の客は2、3千人で、彼らが前座だとは誰も知らなかったらしい。暗がりの中でバンドが出ていくと客席は歓声を上げたが、照明が点いた瞬間、会場は完全な沈黙に落ちたという。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

バンドをロンドンへ運んだのは一人のマネージャーだった。フィンランドで知り合ったゼッポという駆け出しのマネージャー兼プロモーターは、興味を示したものの半年トルコへ行ってしまう。半年後、ストックホルムで路上生活をしていた彼らの前に現れた彼は、フィンランドでの公演を取り付けた。これがバンドの最初の収入になる。その後ゼッポはロンドンへ渡ってリチャード・ビショップと組み、ロンドンでの公演を取り始めた。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

2作目『Oriental Beat』は1981年、ロンドンで1日200ポンドという条件で録音された。イギリスのパンクとニュー・ウェイヴが最も熱かった時期で、この頃のバンドはフィル・ライノットからザ・ダムドの面々まで、ロンドンのあらゆる連中と一緒にいた。

出典: Blabbermouth「HANOI ROCKS Announces 40th-Anniversary Redux Release Of 'Oriental Beat'」

バンドは『Oriental Beat』をやり直したかったが、40年やり直せなかった。レーベルの資金が尽きたためリミックスも再録音もできないまま発売され、そのうえマスター・テープが行方不明になったからである。そのテープがユニヴァーサルの倉庫から出てきたことで、ようやく作り直しが実現した。40周年盤は2023年3月17日にデラックス仕様のアナログとCDで発売され、フィンランドのE-Studiosでペトリ・マユリがバンドと共同でミックスしている。オーヴァーダブもサンプルも足していない。

出典: Blabbermouth「HANOI ROCKS Announces 40th-Anniversary Redux Release Of 'Oriental Beat'」

初代ドラマー、ジップ・カジノの解雇はバンドにとって重い決断だった。マイケル・モンローによれば、彼は曲の途中で演奏をやめてスタジオを出て行き、ブロックを一周してから戻ってくるようなことをしていた。あるフィンランドでの公演では、アンディ・マッコイがローディーを怒鳴りつけたのを見てドラム・セットから立ち上がり、ステージを横切ってマッコイを殴った。演奏の最中である。マッコイのほうは、彼を彼自身から守るための解雇だった、友人を切るのは本当に辛かったが、バンドが続くためにはやるしかなかったと述べており、現在の彼は立ち直って素晴らしい友人だとも語っている。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

ラズルがバンドにもたらしたものは、ドラムだけではなかった。アンディ・マッコイによれば、結成以来ほぼ休みなくツアーを続けるうちにバンドからユーモアが消えており、それを連れ戻したのがラズルだった。彼は笑いの塊のような男だったという。マイケル・モンローも、ラズルが入ってようやくバンドが完全なものになった、当時のHANOI ROCKSは調子が良いとは言えない状態だったが彼の加入が確かな後押しになったと述べている。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

ラズルはHANOI ROCKSに来る前から無名だったわけではない。本名をニコラス・ディングリーという彼は、ほとんど売れなかったメタル・バンドThe Darkと、後にエイリアン・セックス・フィーンドとなるニック・フィーンドと組んだDemon Preacherでの数枚のパンク・シングルを持っていた。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

3作目『Back to Mystery City』は住み込み式のスタジオで作られ、3週間で終わっている。曲を書いたのはほぼアンディ・マッコイで、彼自身の記憶では全体の95パーセントほど。マイケル・モンローが共作者に名を連ねているのは「Beating Gets Faster」で、歌詞の面でこのアルバムはマッコイのその時期の日記のようなものだという。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

『Back to Mystery City』のバラード「Until I Get You」の歌に泣き声が入っているのは、演技ではない。マイケル・モンローによれば、当時デッド・ボーイズおよびロード・オブ・ザ・ニュー・チャーチのスティヴ・ベイターズがアレンジについて助言をくれており、この曲については「泣き出すまで考えてから歌え」と言われたのだという。曲の終わりで彼は実際に泣いている。当時の彼は人間関係が壊れた直後で、本当に打ちのめされていた。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

アルバムの先行シングルになった「Malibu Beach Nightmare」は、最初は冗談で作られた曲だった。マイケル・モンローによれば、原型はイアン・デューリーのような歌い方で、バック・ヴォーカルはチップマンクス風という、ふざけただけのものだったという。ツアー・バスの中で彼がアンディ・マッコイに、ラモーンズのようにやってみないかと持ちかけたことでロックンロールのアレンジに変わり、ライヴでやり始め、そのままシングルになった。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

『Back to Mystery City』のプロデュースを手がけたのは、モット・ザ・フープルの創設リズム隊であるデイル・グリフィンとオーヴァーエンド・ワッツだった。アンディ・マッコイによれば、バンドはもともとモットが大好きで、余計な手を加えられずに自分たちの音のままでいたかった。二人はバンドとつるむようになり、いくつかのライヴを見に来ていて、まさに適任だったのだという。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

「Tooting Bec Wreck」の題になっているトゥーティング・ベックは、ロンドン南部の郊外で、金の無かったバンドがロンドンで腰を落ち着けた場所である。アンディ・マッコイの言い方は容赦がない。ひどい町で、住むには陰気で気の滅入る場所だった。彼らがそこを出たのはネズミが入ってきたときだった。1980年代初頭のロンドンは雨ばかりで暗く、金も無く、あの曲の歌詞はそこで感じたことをそのまま内側へ向けたものだという。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

復活作『Twelve Shots on the Rocks』には作り直された版がある。マイケル・モンローによれば、2002年に発売されたものはバンドが不在の間にミックスされたため納得のいくものではなく、2003年のイギリス・ツアーのあとにスタジオで曲順を変えてリミックスし直した。アンディ・マッコイの説明では、その版はおよそ90分あり、2枚組に相当する分量だという。

出典: BARKS「ポップでハードでハチャメチャなハノイのロックンロールに魅惑された来日公演」

HANOI ROCKSを1980年代グラム・メタルの祖として扱う呼び方を、マイケル・モンローは一貫して拒んできた。2003年に日本での取材に答えた彼は、80年代メタル・バンドの先駆者と呼ばれるのは迷惑だと述べている。Classic Rock誌の取材でも、人からはグラムの王と呼ばれたが自分はいつも俺たちはロックンロール・バンドだと言ってきた、グラムの責任を負わされたくない、人は自分らしくしていればいいのだと語っており、ロサンゼルスのグラム・ムーブメントの責任を自分に押しつけるなという言い方をしている。

出典: BARKS「ポップでハードでハチャメチャなハノイのロックンロールに魅惑された来日公演」

マイケル・モンローが、身をよじらずに最後まで聴ける最初のHANOI ROCKSのアルバムだと述べているのは『Two Steps from the Move』である。それ以前の作品については、あの部分は自分ではなくアンディが歌えばよかった、というような思いがどうしても湧いてくるのだという。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)

1984年12月にラズルを失ったあと、バンドがどう終わっていったかについてマイケル・モンローの説明は簡潔である。ラズルが死ぬとサミ・ヤッファが去り、残った自分とアンディ・マッコイ、ナスティ・スーサイドは噛み合っていなかった。とりわけマッコイとの間がそうだった。次に何をするかも分からず、ただHANOI ROCKSをそのままの形で終わらせたかったのだという。彼はその後スティヴ・ベイターズの家に転がり込み、そこへジョニー・サンダースまで越してきた。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

事故を起こしたヴィンス・ニールについて、マイケル・モンローは2026年の取材でこう述べている。数年前に初めて彼と会って分かったのは、事故で傷を負った人たちを別にすれば、ラズルを知る全員の中で最も苦しんだのは彼だということだ。あの一件で彼の人生は壊れてしまった。ただ運が悪かったとしか言いようがない――そういう述べ方である。

出典: Louder(Classic Rock)マイケル・モンロー・インタビュー「My life in and out of Hanoi Rocks」

この日の演奏について、マイケル・モンローは再結成ではないとはっきり述べている。5人が揃うのに相応しい時と場所はここしかない、しかしこれはHANOI ROCKSの再結成ではなく記念コンサートの一部だ、というのが彼の説明である。彼はこの共演を秘密にしておくつもりでいたが、考え直した。とりわけファンに対して、事前に知らせずにおくのは公平ではないと思ったからだという。同じ夜には、1995年以来一度も揃っていなかったデモリション23も演奏した。

出典: Loudwire「Hanoi Rocks To Reunite For Singer's 60th Birthday」(文:Alicia Selin)

2013年の時点で、マイケル・モンローは再結成の可能性を明確に否定していた。オリジナルのHANOI ROCKSこそがロックンロール史に名を残す唯一のHANOI ROCKSであり、集まって何かをすることは考えられない、HANOI ROCKSが再び揃うことはない――そう述べている。アンディ・マッコイのほうはもう少し含みがあり、2、3公演ならいいかもしれないがその先に何の意味があるのか、自分は新しい曲をやりたい、と答えていた。

出典: Louder(Classic Rock)「The wild story of Hanoi Rocks' Back To Mystery City」(文:Ken McIntyre)