CATHEDRAL TRIVIA
Trivia
1997年4月13日、東京のON AIR EASTでの公演は撮影され、1998年に日本でEarache/トイズファクトリーからビデオ『アワー・ゴッド・ハズ・ランデッド(ライヴ・イン・トーキョー)』として出た。「Utopian Blaster」「Hopkins (The Witchfinder General)」「Ride」などを収めている。翌1999年、Earacheはこの東京公演にバンドのプロモーション・ビデオを加え、『Our God Has Landed (AD 1990 - 1999)』として出し直した。
CATHEDRALの最後の日本公演は、2011年4月20日の渋谷CLUB QUATTROだった。東日本大震災の直後に取材を受けた時点では、リー・ドリアンは来日すべきか迷っていたが、当日の会場は満員になった。ドリアンは「Ebony Tears」を、自分のレーベルRise Aboveに所属する日本のバンドCHURCH OF MISERYをはじめとする日本の知人たちに捧げ、最後の曲の前には、自分は魔女狩り人マシュー・ホプキンスだと名乗ってみせた。
リー・ドリアンは日本のポップ・カルチャーの愛好家でもある。2011年の来日前のインタビューでは、今のアニメより、1960年代末から70年代初めの『ウルトラマン』や『スペクトルマン』のほうが好きだと話している。1980年代の日本のグラインドコアやパンクについても、S.O.B.、LIP CREAM、OUTO、SWANKYS、GISMの名を挙げ、ヨーロッパやアメリカのたいていのバンドよりはるかに過激だったと語った。
バンド公式サイトのバイオグラフィーによれば、CATHEDRALの始まりは1989年の暮れ、カーディフで開かれたCARCASSの公演だった。CARCASSのローディーとしてステージに映すゴア映像を受け持っていたマーク・“グリフ”・グリフィスとリー・ドリアンは、TROUBLEやSAINT VITUSへの愛を語り合ううちに杯を重ね、同じようなドゥーム・バンドを組もうと決めた。翌朝、ひどい二日酔いの2人に残ったのは、デス・メタルが全盛に向かう時代に、遅い音楽を愛する仲間がほかに誰がいるのかという疑問だった。
ギャリー・ジェニングスを誘うきっかけは、ファンジンだった。マーク・グリフィスはドゥーム・メタルだけを扱うファンジン『Under The Oak』を作っていて、その1冊を1年近く前にCANDLEMASSの公演でジェニングスに売っていた。スラッシュ・メタル・バンドACID REIGNにいたジェニングスは、MORBID DOOMの名でドゥームとスラッシュを合わせたデモ『Sorrow's Epitaph』を自ら演奏し、歌い、制作するほどのドゥーム好きで、リー・ドリアンとはNUCLEAR ASSAULTのダン・リルカーの紹介ですでに知り合っていた。バンドの公式サイトは、ジェニングスが2人の「標的第1号」になったと書いている。
2作目『The Ethereal Mirror』には、録音中『Decadence』という仮題がついていた。バンド公式サイトのバイオグラフィーは、ある雑誌の広告では『Journey into Jade』の題で告知されていたことにも触れている。日本では1993年6月、このアルバムが『デカダンス』の題で発売された。
1994年のEP『Statik Majik』は40分ほどの長さで、その半分を「The Voyage of the Homeless Sapien」1曲が占め、最後には水洗トイレを流す音まで入っている。Columbiaはこの曲を外して「Fountain of Innocence」を入れようとし、バンドに知らせないまま『Innocence Requiem』という題のカセットまで出していたが、バンドは最後まで譲らなかった。アメリカ盤は別のジャケットで1曲を差し替えた『Cosmic Requiem』として出ており、公式サイトは、ここからColumbiaとの蜜月が陰り始めたと書いている。
アダム・リーハンとマーク・ラムゼイ・ワートンが去った後、CATHEDRALはBLACK SABBATHのヨーロッパ・ツアーの前座に誘われ、PENTAGRAMのヴィクター・グリフィンとジョー・ハッセルヴァンダーの助けを借りて出演した。グリフィンがブダペスト公演の後で帰国し、ギター1本で臨んだ最初の夜、トニー・アイオミがバンドに歩み寄り、ずっと良くなったと声をかけた。バンド公式サイトのバイオグラフィーは、これがその後もバンドが4人編成を通した理由だろうと書いている。
1995年の3作目『The Carnival Bizarre』の「Utopian Blaster」では、BLACK SABBATHのトニー・アイオミがギター・ソロを弾いている。リー・ドリアンは解散を前にした2011年のインタビューで、アイオミが自分たちのアルバムで弾いてくれたことは商業的な成功よりずっと大きな意味を持つと語り、2013年にも、バンドの歩みのなかの大きな出来事として真っ先にこのことを挙げた。
1996年の『Supernatural Birth Machine』は、前作『The Carnival Bizarre』の録音のちょうど1年後、同じヘイスティングスのParkgate Studiosで、ツアーの終わりからわずか1週間の準備で録音された。リー・ドリアンは録音の数分前に歌詞を書いていたといい、2013年には、一度もリハーサルしていない曲ばかりで、ほとんどが最初のテイクだったと振り返っている。1週間でアルバム1枚分の歌詞を求められたドリアンは、バンドを辞めようとさえした。
2010年の『The Guessing Game』に収められた「Requiem for the Voiceless」は、動物の権利を主題にした曲で、バンド公式サイトは、CATHEDRAL史上もっとも激しく怒りに満ちた曲かもしれないと紹介した。リー・ドリアンによれば、NAPALM DEATH時代にはこうした曲を書いていたが、現実逃避の色が濃いCATHEDRALではその機会がなかった。このアルバムでは失うものは何もないと考え、音楽でも歌詞でも思い切って踏み込んだという。
リー・ドリアンのレーベルRise Above Recordsは、ドリアンがまだNAPALM DEATHのヴォーカリストだった1988年に始まった。Enterprise Allowance Schemeという制度を使って立ち上げたもので、当初の狙いは、ごく少数のハードコア・パンクの7インチを出すことだった。CATHEDRALの最初のデモ『In Memorium』も、1990年10月に自費で作ったカセットとしてこのレーベルから出ている。
CATHEDRALが最後に録音した曲は、『The Last Spire』の録音の最後、2012年に録られた約30分の「Society's Pact With Satan」である。当時はなぜかミックスされず、関係者全員に忘れられていたが、プロデューサーのハイメ・ゴメス・アレジャーノが古い録音を整理していて見つけ、メンバーも発表に同意した。2025年にRise Aboveから出て、日本盤は2026年5月に『絶望-ソサエティーズ・パクト・ウィズ・サタン』の題で出ている。
CATHEDRALという名前は、リー・ドリアンの地元コヴェントリーにある大聖堂の廃墟から取られている。1940年のドイツ軍の空襲で破壊されたこの大聖堂について、ドリアンは2011年のインタビューで、あの大聖堂の見た目のように響くバンドを組めたら素晴らしいとずっと思っていたと語り、名前だけでなく音楽の着想もそこから得たという。
結成当初のメンバーは、リー・ドリアンがコヴェントリー、ギャリー・ジェニングスがハロゲイト、マーク・グリフィスがリヴァプールと離れて住んでいたため、リフを録ったカセットを送り合って曲を作った。ドリアンによれば、初期のリハーサル室はBLACK SABBATHの部屋の隣で、練習する代わりに壁に耳を当てて隣の音を聴いていたこともあったという。
2人目のギタリスト、アダム・リーハンが加わったのは、最初のデモを録音する前日だった。リーハンはギャリー・ジェニングスがリーズのレコード・フェアで出会った人物で、2人は時期こそ違うが、どちらもACID REIGNに在籍していた。バンドは初期TROUBLEのような2本のギターの掛け合いを求めており、リー・ドリアンによれば、リーハンがドゥーム、とりわけCANDLEMASSを好きだったのは幸運だった。
最初のデモを出した後、CATHEDRALはすぐには契約先が決まらなかった。リー・ドリアンによれば、Peacevilleは契約に乗り気で、Roadrunnerも関心を示したが音沙汰がなくなり、デモがCMJ誌で評されて、ようやく少し注目されるようになった。Earacheが獲得に動くと、今度はRoadrunnerから毎日のようにファックスが届いたが、バンドはNAPALM DEATH時代にドリアンと仕事をしていたディグ・ピアソンのEarache Recordsを選んだ。
『Forest of Equilibrium』でドラムを叩いたマイク・スメイルとリー・ドリアンの縁は、1988年のクリスマスにさかのぼる。NAPALM DEATHのミック・ハリスがドリアンに黙ってオーディションに呼んでいたため、スメイルはコヴェントリーにあるドリアンの母親の家にいきなり現れ、そのまま泊まっていったという。1991年の初めにドラマーがいなくなっていたCATHEDRALは、ピッツバーグに住むスメイルに手紙を書いて呼び寄せ、7月にレディッチのWorkshop Studiosでアルバムを録音した。
デイヴ・パチェットとの出会いは偶然だった。当時はやりのゴア趣味のジャケットを避けたかったリー・ドリアンは、コヴェントリーの中心街で、地元の画家を紹介する画廊のウィンドウにあったパチェットの絵に目を留めた。芳名帳に、アルバムのジャケットを手がけてくれる人を探しているコヴェントリーのバンドの者だと書いて住所を残すと、翌日パチェット本人からのメモが届き、聞けばドリアンが住む高層住宅の隣の棟に住んでいたという。
『Forest of Equilibrium』という題がどう生まれたかについて、リー・ドリアンの説明は時期によって異なる。2005年のインタビューでは、マーク・グリフィスが「Equilibrium」を提案し、ジャケットの構想から自分が森を付け加えたと語っている。一方2021年には、自分の書いた曲「Equilibrium」の題が先にあり、その歌詞から、相反する2つの世界のあいだを中性的な人物が進み、背景に森が広がるというジャケットの構想が生まれたと振り返っている。
1992年、CATHEDRALはNAPALM DEATH、CARCASS、BRUTAL TRUTHとの北米ツアー「Campaign for Musical Destruction」で、初めて大西洋を越えた。アダム・リーハンの記憶では、Columbiaと契約しなければこのツアーの費用は出せないと、ロンドンの小さなパブで聞かされたという。2か月にわたる道中、CATHEDRALには車を運転できるメンバーが1人もおらず、同じバンに乗ったBRUTAL TRUTHがずっとハンドルを握った。
『The Guessing Game』の「Funeral of Dreams」では、1970年代のアイルランドのフォーク・ロック・バンドMELLOW CANDLEのアリソン・オドネルがゲストで歌っている。MELLOW CANDLEは、その19年前、1991年の『Forest of Equilibrium』初回盤のブックレットに並んでいた、あまり知られていないバンドの名前の1つでもあった。
CATHEDRALの最後のミュージック・ビデオ「Tower of Silence」は、AmicusやHammer House of Horrorといったイギリスの古典的なカルト映画の作り手に触発され、2012年の冬にロンドンのガナーズベリー・パークの塔で撮影された。監督はイギリスのParaffin City Productionsで、PURSONのロザリー・カニンガムが出演し、終盤ではメンバー1人ずつの墓石に象徴の黒い蘭を供えていく。
2011年5月、12月3日のロンドン、ケンティッシュ・タウンのフォーラム公演を最後にCATHEDRALがステージを去ることが告知され、共演にはGRAND MAGUS、COMUS、GENTLEMAN'S PISTOLSが並んだ。COMUSは、20年前の『Forest of Equilibrium』初回盤のブックレットに名前が載っていたバンドの1つで、リー・ドリアンによれば、当時バンドが掘り起こしていた1970年代初めのアンダーグラウンドなプログレッシヴ・ロックのなかでも、マーク・グリフィスはCOMUSのようなバンドを好んでいた。ただしドリアンは2013年、バンドの最後のツアーとしてオーストラリアやブラジルの名も挙げている。
なぜ解散したのかについて、リー・ドリアンは2013年、このバンドを続けることはずっと闘いで、もう闘いたくなかったのだと語っている。ドリアンによれば、それは何年も前から考えてきたことで、何もできずに過ごした年もあれば素晴らしい時期もあったが、もう以前ほどこのバンドに打ち込めなくなっていた。解散を先に告げたことで、喧嘩別れではなく、終わりを楽しむ時間が持てたともドリアンは話している。