AC/DC TRIVIA
Trivia
AC/DCが初めて日本でコンサートを行なったのは1981年2月である。日本の発売元ソニーミュージックの年表は会場と日付まで記録していて、2月1日が大阪万博ホール、2日が愛知県勤労会館、4日と5日が日本青年館だった。前月にソールドアウトのワールドツアーを終えたばかりの時期で、この来日のあとバンドは4年ぶりにオーストラリアで凱旋ツアーを行なっている。2度目の来日は1982年6月で、6月4日の大阪フェスティバルホール、6日の大阪万博ホール、8日の京都会館、9日の名古屋市公会堂、10日の日本武道館という4都市5公演だった。
1982年6月の日本公演を最後に、AC/DCは19年間、日本でプレイしていない。日本の発売元ソニーミュージックの年表は、この年に5年以上ノンストップで続いたツアーとレコーディングをようやく中断して休息を取ったこと、そしてこの来日を最後に2001年まで日本公演が行なわれなかったことを記録している。19年ぶりの来日が実現したのは2001年2月で、19日と20日が横浜アリーナ、22日が大阪城ホールだった。
2001年の19年ぶりの来日に合わせて、AC/DCは日本でチャリティを実施している。BARKSが伝えたところによれば、対象は2000年夏の噴火で三宅島を離れることになった小学生たちだった。アンガス・ヤングが愛用しているのと同じモデルのギターにメンバー全員のサインを入れ、それを楽天のオークションに出品。その収益で、東京都三宅村教育委員会を通じて三宅島の小学生全員に図書カードを贈るという内容で、オークションは2月16日から公開された。
ボン・スコットがAC/DCに加わるきっかけは、一夜の飛び入りだった。バンドの公式サイトによれば、1974年9月、南オーストラリア州アデレードのプーラカ・ホテルでのライヴにボン・スコットが飛び入りし、AC/DCと一緒に演奏した。彼が正式にバンドの一員になったのは、その数日後である。
『For Those About To Rock』の表題曲は、一冊の本から生まれている。バンドの公式サイトの説明によれば、着想源はダニエル・マニックスの『Those About To Die』——古代ローマの見世物を扱った本で、ボン・スコットが何年も前にアンガス・ヤングに贈ったものだった。そしてもうひとつ、この曲とアルバムのジャケットに大砲を持ち込むという発想は、パリでのレコーディング中にチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式の中継を観ていて出てきたものである。
AC/DCという名前の出どころについては、確認できるだけで二つの説明が並立している。広く報じられてきたのは、マルコムとアンガスのヤング兄弟が覚えやすい名前を探していたところ、姉のマーガレットがミシンの電源アダプターか掃除機の背面に「AC/DC」の文字を見つけた、というものである。電気に関係する語だから自分たちに合っている、と兄弟は考えたとされる。一方、初代シンガーのデイヴ・エヴァンスは2025年のポッドキャストで別の経緯を語っている。名前が決まらないので次のリハーサルに各自3案ずつ持ち寄って帽子から引く約束をしたところ、当日マルコムが「兄ジョージの妻が名前を提案してきた」と切り出し、それがAC/DCだった。エヴァンスは、交流電流と直流電流を意味するその表記が当時多くの電化製品の側面に書かれていたことに気づき、覚えやすくて力を連想させるうえ、どこでも無料の宣伝になると考えて即座に賛成したという。全員が手を挙げて満場一致で決まり、彼は用意していた3案を家に帰って捨てた。
アンガス・ヤングの学生服姿は、本人の思いつきではなかった。マルコム・ヤングが生前に受けた未発表インタビューで説明したところによれば、当初アンガスにはステージでの見せ方がまだなく、そこを助けたのが兄ジョージと姉だった。二人はアンガスに「何かギミックが要る」と言い、良いステージには観客が自分に引きつけて見られる何かがあるものだ、と考えていた。そこで姉が出した案が「学生服を短パンで着てみたら」というものである。ちなみにそもそもアンガスがこのバンドにいるのも偶然に近く、マルコムがバンドを組むにあたって当初はキーボード奏者を入れるつもりだったところ、自分のバンドをたたんだばかりの弟が代わりに入ってきた、というのがマルコムの語る経緯だった。
「Hells Bells」の冒頭で鳴る鐘は、効果音ではなく本物である。Songfactsの解説によれば、ボン・スコットを悼む曲に音源集の鐘を使うわけにいかないとバンドは考え、本物の、しかも大きな鐘を必要とした。最初の録音はイングランドのレスターシャーにあるCarillon and War Memorial Museumで試みられたが不十分で、バンドはステージでも使うつもりで地元の鋳造所に1トンの青銅の鐘を発注する。ところが鐘は録音に間に合わず、製作元のJohn Taylor Bellfoundersが近くの教会で似た鐘を録れるよう手配した。これも上手くいかなかった。エンジニアのトニー・プラットによれば、その鐘には鳥が住んでいて、鳴らすと羽ばたきまで一緒に録れてしまったのである。結局バンドは製作中の自分たちの鐘を使うことにし、ロニー・レインが所有していた移動録音車を借りて鋳造所に乗り入れた。鐘は滑車で吊るされ、それを作った本人が打った。
2001年の来日を前に、アンガス・ヤングは19年待ってもらっただけの価値があるステージを見せられると思う、と語っている。ステージ上のエネルギーをどう保っているのかと問われた彼の答えは、まず冗談で、そのうえで実際の説明が続いた。演奏していると自分の気持ちが盛り上がり、客席の盛り上がりを感じ取ってさらにエネルギーが高まる——大きな波にサーフボードで乗るようなものだ、というのが彼の言い方だった。
日本の発売元ソニーミュージックが公開しているAC/DCの年表は、1973年12月31日のシドニー・チェッカーズクラブでのニューイヤーズイヴ・コンサートをバンドのデビューとして記録している。新しいリード・シンガーとしてボン・スコットを迎えたのは翌1974年11月で、ファースト・アルバム『ハイ・ヴォルテージ』はヴァンダ&ヤングのプロデュースにより10日間で録音された。
AC/DCが最初のシングルを録音したのは1974年1月、シドニーのEMIスタジオでのことだった。曲は「Can I Sit Next To You Girl」と、B面の「Rockin' In The Parlour」。プロデュースはジョージ・ヤングとハリー・ヴァンダが手がけている。バンドの公式サイトは2024年1月に、この録音からちょうど50年が経ったことを告知した。
AC/DCの最初のアルバム『High Voltage』は1975年2月、オーストラリアのAlbert Productions/EMIからリリースされた。バンドの公式サイトによれば、その19日には発売を記念してメルボルンのハードロック・カフェで特別公演が行なわれている。この最初の『High Voltage』は翌1976年に国際市場向けに編み直されることになる別物で、オーストラリアだけで出た版である。
世界で流通している『ハイ・ヴォルテージ』は、オーストラリアで先に出た2枚のアルバムから編み直された別物である。1976年4月、イギリスのアトランティックが、オーストラリア盤の『ハイ・ヴォルテージ』と『TNT』から曲を選んで編集した同名アルバムをリリースした。同年10月にはアメリカでも発売され、バンドはクラブ・ツアーを行なっている。アメリカのレーベルはこの1枚のプロモーションに専念する方針を採り、そのためにオーストラリア・イギリス・ヨーロッパで出たばかりの3作目『悪事と地獄』の全米発売を見送った。
1976年3月1日、メルボルンのLazarsでAlbert ProductionsがAC/DCのためのパーティを開き、バンドは6つのゴールド・レコード賞を受け取った。バンドの公式サイトの説明によれば、最初の2枚のアルバムに対してそれぞれ3つずつで、オーストラリア国内での合計9万枚の売上を表すものだった。
1976年6月、アンガス・ヤングがイギリスの音楽週刊誌『Sounds』の表紙を飾った。バンドの公式サイトは、これがオーストラリア国外での初めての表紙特集だったと記録している。
「It's A Long Way To The Top (If You Wanna Rock 'n' Roll)」は1975年、Alberts/EMIからオーストラリアでシングルとして発売され、バンドにとって初めてのトップ5ヒットになった。
AC/DCが最初のアルバム『High Voltage』を録音したのは1974年11月、シドニーのAlberts Studiosでのことだった。バンドの公式サイトは、このときの収録曲のひとつ「Love Song」について、マルコム・ヤング、ボン・スコット、フィル・ラッドが語る音源を公開している。この曲はオリジナルのオーストラリア盤にのみ収められている。
『Let There Be Rock』の録音は1977年1月、シドニーのAlbert Studiosで始まった。バンドの公式サイトは、このアルバムで何をやろうとしたのかをマルコムとアンガスが説明した2003年のインタビュー音源を公開している。
『Powerage』の録音は、シドニーのAlbert Studiosで仕上げられた。バンドの公式サイトは2024年3月、その完成から46年になるとして、マルコムとアンガスが2003年にこのアルバムの制作について語った音源を公開している。
バンドの公式サイトは、『Powerage』収録の「Sin City」について、ボン・スコットが何から着想を得たのかをマルコムとアンガスが語る音源を公開している。『Powerage』が世に出たのは1978年5月である。
『Highway To Hell』が録音されたのは1979年4月、ロンドンのRoundhouse Studiosでのことだった。バンドの公式サイトによれば、この制作はオーストラリアで始まっていたもので、そこからの過程をアンガスが振り返る音源が公開されている。同じ年の1月には、シドニーのAlbert Studiosで「If You Want Blood」のデモが録られている。
AC/DCは、サンフランシスコの興行師ビル・グレアムが手がけたオークランド・スタジアムの〈Day On the Green〉に3度出演している。1978年7月、1978年9月、そして1979年7月である。バンドの公式サイトは、1979年の出演当日にボン・スコットが受けたインタビュー映像を公開している。
バンドの公式サイトは、マルコム・ヤングがAC/DCの出発点を振り返るインタビュー音源を公開している。サイトが見出しに掲げているのは、一生クラブで演奏していられるならそれでよかった、という趣旨の彼の言葉である。世界最大級のバンドになったあとで残された発言として、彼らがどこから来たのかを示す一節になっている。
ブライアン・ジョンソンがAC/DCのオーディションを受けたのは1980年3月、ロンドンのVanilla Studiosでのことだった。バンドの公式サイトは、加入の経緯を彼自身が語る1983年のインタビュー映像を公開している。
1983年5月、ナッソーでのレコーディング・セッション中にドラマーのフィル・ラッドが脱退した。後任に入ったのはマンチェスター出身の当時20歳、サイモン・ライトである。同年に出た10作目『Flick Of The Switch』はマルコムとアンガスのヤング兄弟によるプロデュースで、AC/DCにとって初のセルフ・プロデュース作となった。21か月ぶりの新作で、イギリスで4位、アメリカで15位に入っている。
1984年夏、AC/DCはヨーロッパ各地で開かれた〈Monsters Of Rock〉にオジー・オズボーンやヴァン・ヘイレン、モトリー・クルーらと共に出演した。その締めくくりとなったキャッスル・ドニントンでは、当時の記録となる6万5000人を集めている。同じ会場でAC/DCは1991年8月、史上初の3度目のヘッドライナーとして登場し、メタリカやモトリー・クルー、ブラック・クロウズらが並んだこの日は7万2500人という新記録を打ち立てた。
1984年10月に出た5曲入りEP『'74 Jailbreak』は、AC/DC結成10周年を記念した作品だった。収録されているのは1975年から76年にかけてのボン・スコット期の音源で、オリジナルのオーストラリア盤『High Voltage』と『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』からアメリカでは未発表だった曲を集めたものである。
1986年の『Who Made Who』は、スティーヴン・キングが監督した映画『Maximum Overdrive』(邦題『地獄のデビルトラック』)のサウンドトラックとして出た作品である。日本の発売元ソニーミュージックの年表によれば、キングはAC/DCの大ファンだった。内容はAC/DCの旧曲6曲に、ヴァンダ&ヤングがプロデュースした新曲3曲を加えたもの。表題曲と1980年の「You Shook Me All Night Long」については、デイヴィッド・マレット監督による新しいミュージック・ビデオも撮影された。アルバムはイギリスで11位、アメリカで33位に入り、42週間チャートに留まっている。
1988年5月3日に始まった6か月間の北米ツアーは全公演がソールドアウトで、サポートにはシンデレラ、L.A.ガンズ、ホワイト・ライオンが付いた。この期間、マルコム・ヤングが一時的にバンドを離れており、その代わりに甥のスティーヴィー・ヤングがツアーに参加している。翌1989年11月にはサイモン・ライトが6年半の在籍を経て脱退しディオへ加入、後任には元マンフレッド・マンズ・アース・バンド、ユーライア・ヒープ、ザ・ファームのクリス・スレイドが入った。
バンドの公式サイトは、『The Razors Edge』について、マルコムとアンガスが2003年に語ったインタビュー音源を公開している。1990年に出たこのアルバムについて、サイトは「Thunderstruck」「Are You Ready」「Moneytalks」といったアリーナ規模の曲を揃え、発表と同時にバンドのディスコグラフィの柱のひとつになったと記している。
1991年9月28日、AC/DCはモスクワのトゥシノ飛行場で開かれた無料コンサート〈Rock Around The Block〉にヘッドライナーとして出演した。日本の発売元ソニーミュージックの年表によれば、観客数は50万人から100万人と言われ、ロシア軍による過剰な警備のためにコンサートは中止寸前まで行ったという。この模様は翌1992年に長編ビデオとして発売されている。
「Big Gun」は1993年、ロサンゼルスで録音された。バンドの公式サイトはこの録音を月単位で記録している。Songfactsによれば、この曲はアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画『Last Action Hero』のために録られたもので、エンドクレジットの冒頭で流れる。プロデュースを手がけたのはリック・ルービンで、日本の発売元ソニーミュージックの年表によれば、ビデオはデイヴィッド・マレット監督がロサンゼルスのヴァンナイズ空港の格納庫でシュワルツェネッガー本人をフィーチャーして撮影した。
1994年の夏、フィル・ラッドが11年ぶりにAC/DCへ復帰し、新作のレコーディング・セッションが始まった。そうしてできたのが1995年9月22日に出た16作目『Ballbreaker』で、プロデュースはリック・ルービン。アメリカで4位に入り、33週間チャートに留まっている。
1999年3月16日、RIAAは『Back In Black』にダイアモンド賞を授与した。アルバム1枚でアメリカ国内1000万枚以上を売り上げた作品に贈られる賞である。ニューヨークでの授賞式にはブライアン・ジョンソンとクリフ・ウィリアムズが出席した。さらに2001年1月22日、同作は19×プラチナ——すなわち1900万枚——の認定を受けている。
2001年1月、AC/DCのアルバム売上はアメリカ国内で6300万枚に達した。日本の発売元ソニーミュージックの年表によれば、この週の認定が15枚目にあたり、これによって彼らはアメリカ史上のバンド別売上でビートルズ、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、イーグルスに次ぐ5位に位置することになった。同じ数字はBARKSも2001年2月の来日時の記事で伝えている。
AC/DCは2000年9月15日、ハリウッドのロック・ウォーク・オブ・フェイムに殿堂入りし、ハリウッド・ブールバードのギターセンターに手形を残した。ロックンロールの殿堂のほうは時間がかかっている。日本の発売元ソニーミュージックの年表によれば、彼らが投票で選ばれたのは3年目の2002年11月8日で、実際の殿堂入りは翌2003年3月10日、ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルで行なわれた第18回の式典でのことだった。同じ年に殿堂入りしたのはザ・クラッシュ、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ、ザ・ポリス、ライチャス・ブラザーズである。
2000年、マドリードのレガネスに「Calle de AC/DC」——AC/DC通り——が誕生した。バンドの公式サイトによれば、その除幕式にはアンガスとマルコムのヤング兄弟が出席している。
2000年2月に出た17作目『Stiff Upper Lip』のプロデュースを手がけたのは、兄のジョージ・ヤングだった。日本の発売元ソニーミュージックの年表によれば、このアルバムはアメリカで7位、アルゼンチン、オーストリア、ドイツ、フィンランド、スウェーデンで1位、フランス、スイス、スペインで2位、オーストラリアで3位に入っている。2002年12月6日、AC/DCはソニーミュージック傘下のエピック・レコードと全世界での契約を結ぶことを発表した。
『Black Ice』の録音は2008年、カナダ・バンクーバーのWarehouse Studiosで終えられた。バンドの公式サイトはその日を記録している。
日本の発売元ソニーミュージックのプロフィールによれば、『Back In Black』はこれまでに全世界で推定5000万枚を売り上げており、オリジナル・アルバムのセールスとしてはマイケル・ジャクソンの『Thriller』に次ぐ記録と言われている。同アルバムは全英1位、全米4位に入り、アメリカではその後5か月間トップ10を維持した。またAC/DCは、ブレイク以前の作品を含むすべてのオリジナル・アルバムがマルチ・ミリオン・セラー(200万枚以上)に達しており、アルバム全作品の累計はアメリカのみで7500万枚以上、全世界で推定2億枚とされる。
2016年のワールドツアーの途中で、ブライアン・ジョンソンが聴力障害の治療のためツアーを離れた。日本の発売元ソニーミュージックのプロフィールによれば、このときガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズが自ら志願してピンチ・ヒッターを務め、大きな話題になった。翌2017年11月には、AC/DCのサウンドの要でありながら認知症の治療のため2014年にバンドを離れていたマルコム・ヤングが亡くなっている。
2026年4月6日、アルテミスIIの飛行士たちが月の周回飛行を行ない、人の目がまだ見たことのなかった部分を目にした。彼らはそれを言葉と写真で記録し、そこに「Back In Black」を使った。AC/DCの公式サイトは同月、NASAが公開したその投稿を紹介している。
バンドの公式サイトは、マルコム・ヤングが2003年のインタビューで1983年の『Flick Of The Switch』を振り返る音源を公開している。このアルバムはマルコムとアンガスによる初のセルフ・プロデュース作にあたる。
1977年12月7日、AC/DCはニューヨークで少数の観客を前にした演奏を収めたライヴ・アルバム『Live At Atlantic Studios』を制作した。これはラジオでのプロモーション目的だけに配布されたもので、一般に売られたものではない。日本の発売元ソニーミュージックの年表は、この盤が結果としてロック史上でも屈指の貴重なプロモ・アイテムとしてコレクターの的になった、と記している。
1995年9月、AC/DCのオーストラリアとニュージーランド以外での配給を担っていたワーナー・ミュージック・インターナショナルが、世界でのアルバム売上8000万枚超を記念してバンドを表彰した。日本の発売元ソニーミュージックの年表に記録されている出来事である。
1985年6月、AC/DCはニューヨークのロウアー・イースト・サイドにあるワールズ・エンドという会場で、新作収録曲のプロモーション・ビデオ5本を撮影した。日本の発売元ソニーミュージックの年表によれば、アニメーションと俳優、ライヴ・パフォーマンスを組み合わせたもので、AC/DCにとって初めての長編コンセプト・ビデオとなった。
AC/DCの最初のステージは、1973年12月31日の大晦日だった。会場はシドニーのチェッカーズ・ナイトクラブで、初代シンガーのデイヴ・エヴァンスによればオーストラリアで一番のナイトクラブである。バンドを手がけたがっていたアラン・キサックという人物が数週間先のこの日程を取ってきたため、まだ名前も決まっていなかった彼らは急いで名前を決めなければならなかった。大晦日の深夜という枠はオーストラリアで最高のギグだった、というのがエヴァンスの言い方である。
デイヴ・エヴァンスはAC/DCの最初の2枚のシングル「Can I Sit Next To You Girl」と「Baby, Please Don't Go」で歌ったが、初ライヴから1年と経たない1974年10月にバンドを離れている。理由について彼が繰り返し語っているのは金である。オーストラリア随一の会場をソールドアウトにし、アメリカから来たルー・リードのツアーにも同行しながら、報酬が支払われなかった。マルコムとアンガスは実家暮らしだったが、自分はシドニーのアパートと車のローンを抱えていたので同じ条件ではなかった、というのが彼の説明である。ある夜の話し合いでマネージャーと衝突し、ツアー終了後も解決しなかったため、彼はバンドを抜けた。
「It's A Long Way To The Top」でギター・ソロの代わりに鳴るのはバグパイプである。Songfactsの解説によれば、この曲はアンガス・ヤングのリードとボン・スコットのバグパイプの掛け合いで組み立てられていて、長いソロを置かないという点でこの種の曲としては異例だという。バグパイプが出てくる理由はボン・スコットの出自にある。彼はスコットランド生まれで、ヤング兄弟も同じくスコットランド生まれ。年上のスコットは兄弟より11年ほど早く家族とオーストラリアへ渡っており、リコーダーとドラムを覚え、バグパイプの奏者としても達者だった。曲そのものは、夜ごと全力のライヴをやりながら上を目指す自分たちを描いた自伝的な内容で、5分15秒というシングルとしてはかなり長い尺を持つ。
「It's A Long Way To The Top」のプロモーション映像は、1976年2月23日にメルボルン中心部で撮影された。バンドは屋根のないトラックの荷台に乗って市街を走り、そこにRats of Tobruk Pipe Bandのメンバー3人が同乗している。Songfactsは、この映像で目を引くのはボン・スコットが心底楽しそうにしていることだと書いている。
『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』という題は、アニメの悪役の名刺から来ている。Songfactsの解説によれば、アンガス・ヤングがこの題を思いついたのは1962年のアメリカのアニメ・シリーズ『Beany and Cecil』からで、具体的には作中の悪役ディスオネスト・ジョンが持ち歩いていた名刺の文面だった。そこには「Dirty Deeds Done Dirt Cheap. Holidays, Sundays, and Special Rates.」——汚れ仕事を格安で、休日も日曜も、特別料金あり——と書かれていた。
「Jailbreak」の下敷きになっているのは実在の受刑者である。Songfactsの解説によれば、ボン・スコットは新聞でマーク・ブランドン・リード(出典の綴りは Reid)——通称「チョッパー」——の脱獄未遂の記事を読み、そこから歌詞を書き始めた。リードはギャングの頭目を殺害して16年の刑を受け、服役3年目に刑務所の暮らしに嫌気がさし、仲間のジミー・ロクナンが脱走を計画したが、ロクナンが狭い場所を恐れたために捕まり、二人は2週間の独房入りとなった。犯罪を題材にするという発想をメンバー全員が気に入り、曲は1週間ほどで仕上がったという。
AC/DCの歌詞について、Songfactsは一貫した見方を書いている。このバンドは音楽については極めて真剣だが、歌詞の多くはそうではなく、深刻に受け取られないようユーモラスな文句を並べることが多い、というものである。「Big Balls」はその典型で、社交界の舞踏会を描きながら題名が明らかな二重の意味を持つ。歌詞のこうした作法に大きな影響を与えた人物としてSongfactsが挙げているのはチャック・ベリーで、彼は際どい内容の曲を数多く書きながら、それを笑いのかたちで提示することで不快にさせなかった。
AC/DCを知らない人に聴かせるなら何を選ぶかと問われて、アンガス・ヤングが挙げたのは最大のセールスを誇る『Back In Black』ではなく、1977年の4作目『Let There Be Rock』だった。スイスのSRF 3ラジオでのインタビューで彼が説明したところによれば、このアルバムをプロデュースした兄ジョージがまず二人に「今回はどんなアルバムを作りたいのか」と尋ね、マルコムが「純粋なハード・ロックのギター・アルバムにしたい」と答えた。当時の音楽界はパンクやニュー・ウェーヴをはじめ別のジャンルに向かっていたなかでの選択で、アンガスの目にはこの1枚がAC/DCというものを明確にしたと映ったという。
AC/DCの初期を作ったのは、実はもう一人の兄だった。ジョージ・ヤングはデビュー作『High Voltage』から『T.N.T.』『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』『Let There Be Rock』『Powerage』という初期5作をプロデュースし、さらに1988年の『Blow Up Your Video』や2000年の『Stiff Upper Lip』も手がけている。2017年にジョージが亡くなったとき、バンドは声明を出し、彼の助けと導きがなければAC/DCは存在しなかっただろうと述べた。ミュージシャンとしても、ソングライターとしても、プロデューサーとしても、助言者としても、これ以上献身的な人は望めなかった——というのがその内容である。
「Let There Be Rock」は、単純なロック賛歌に見えて実はロックンロールの誕生を語った曲である。Songfactsの解説によれば、冒頭で1955年に言及し、白人にはシュマルツが、黒人にはブルースがあったと歌う箇所は、ロックンロールが生まれた瞬間を指している。実際1955年にはビル・ヘイリーの「Rock Around The Clock」とチャック・ベリーの「Maybellene」が世に出ている。曲はアンガスとマルコムのヤング兄弟と、作詞のボン・スコットによる共作で、6分をわずかに超える長さを持ち、プロデュースはハリー・ヴァンダとジョージ・ヤング。1977年10月に「Problem Child」をB面としてシングルでも発売された。
「The Jack」の「ジャック」はオーストラリアの俗語で、性感染症を指す。Songfactsが引く1976年の『Sounds』誌のインタビューでボン・スコットが説明したところによれば、当時バンドは女性たちが大勢いる家で暮らしていて、メンバー全員がこの病気をもらっていた。そこでこの曲を書き、初めてステージで演奏したとき、その女性たちは何が起きるか知らないまま最前列にいたという。「彼女はジャックを持っている」という一節を繰り返す場面で、ボンは彼女たちを一人ずつ指さした。同じ記事でアンガス・ヤングは、それ以来この曲をやるとどこでも女性客が会場の後方へ逃げていくようになった、と付け加えている。
「The Jack」については、演奏された場所そのものが逸話になっている。Songfactsによれば、AC/DCは2003年、トロントで50万人を前にこの曲を演奏した。この公演はSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行で観光客が激減した市を支援するためのチャリティで、ローリング・ストーンズやラッシュらも出演している。ある病気のための慈善公演で別の病気を歌うことに、バンドも観客もまったく頓着しなかった、というのがSongfactsの書きぶりである。
「Whole Lotta Rosie」には実在のモデルがいる。Songfactsが引く1976年の『Sounds』誌のインタビューで、マルコム・ヤングに促されたボン・スコットが語ったところによれば、オーストラリアでの公演の楽屋に、彼らが「ビッグ・バーサ」と呼んでいた恰幅の良い女性が現れた。事を終えたあと彼女は友人に向かって「今月これで37人目」と言い、自分の記録をつけている黒い手帳を取り出したという。ボンはこの出来事を曲にし、その際に女性の名前をロージーに変えた。なお同じアルバムの「Go Down」に出てくるルビー・リップスも実在の人物で、これは『Let There Be Rock』のライナーノーツで確認できるとSongfactsは書いている。
「Whole Lotta Rosie」の音楽的な土台になっているのは、チャック・ベリーの「No Money Down」である、とSongfactsは記している。AC/DCの歌詞の作法にチャック・ベリーの影響を指摘する見方は同サイトの複数の曲の解説に共通していて、曲の側でも同じ人物の名前が挙がっていることになる。
「Highway To Hell」という題の由来として、Songfactsは二つの説明を並べている。ひとつは実在の道路である。オーストラリアのカニング・ハイウェイは、ボン・スコットが住んでいたフリーマントルからThe Rafflesというパブへ至る道で、そのパブは70年代のロック好きが集まる場所だった。パブに近づくと道は急な下りに変わり、丘の上の交差点を飛ばして通る人が多く亡くなったために「地獄へのハイウェイ」と呼ばれた。もうひとつはブライアン・ジョンソンが2009年10月に『The Metro』へ語った説明で、メルボルンやシドニーからパースまでナラボー平原を横切るバス移動が延々と続き、西に沈む夕日が火の玉のように見えるなかで何もすることがなく、そこからボンが歌詞を思いついたのだという。なおこの曲はAC/DCにとってアメリカで初めてチャートに入った曲であり、同名アルバムはアメリカだけで700万枚以上を売っている。
『Highway To Hell』を締めくくる6分半の「Night Prowler」は、AC/DCの曲としては異色のブルース寄りの1曲である。Songfactsによれば、この曲はボン・スコットが最後に録音した曲のひとつでもあった。彼が最後に録音したのはフランスのバンドTRUSTと1980年2月10日に吹き込んだAC/DCの旧曲「Ride On」のカヴァーで、「Night Prowler」は彼の最後のアルバムの最後の曲という位置にある。ちなみに曲の終わりで彼が発しているのは、彼が好きだったロビン・ウィリアムズが『Mork & Mindy』で母星への通信を締めるときに使っていた決まり文句である。
「Night Prowler」は、バンドの意図とは無関係なかたちで事件と結び付けられたことがある。Songfactsの説明によれば、カリフォルニアの連続殺人犯リチャード・ラミレスがAC/DCを愛好し『Highway To Hell』を一番好きなアルバムに挙げたことから、報道がこの曲と事件を結び付けた。ただしこの結び付き自体はほぼ報道が作ったもので、曲が犯行に影響したという証拠は無い。バンドはこの連想に強い衝撃を受け、この曲は恋人の部屋に忍び込むだけの内容だと説明した。マルコム・ヤングは、昔の恋人たちのところへ夜中に忍んでいく話にすぎないと述べている。Songfactsは、バンド名が「反キリスト・悪魔の子供たち」の略だという噂も流れたが、実際にはミシンの背面で見かけた表記から採ったものだと付け加えている。
ボン・スコットは、自分の最後の日々にAC/DCが何かを掴みつつあることを知っていた。1979年の『Highway To Hell』はバンドにとって初の100万枚超えで、1980年の年明けにロンドンで新曲の作業が始まったとき、彼は手応えを感じていた。この段階のデモはアンガスとマルコムが録り、ボンはドラムを叩いている——オーストラリア時代の最初のバンドで彼が担当していた楽器である。彼はオーストラリアの母イサに電話をかけ、次の作品は『Highway To Hell』よりさらに大きくなる、これで決まりだ、という趣旨のことを伝えていた。
ボン・スコットが亡くなったのは1980年2月19日、ロンドンのイースト・ダリッジでのことだった。前夜は友人たちと飲んでいた。正式な検死で下された結論は「不慮の死(death by misadventure)」で、彼は33歳だった。バンドが続くことを決めたきっかけは、西オーストラリア州フリーマントルで行なわれた彼の葬儀にある。そこでボンの父チックが、マルコムとアンガスにバンドを続けるよう促したのである。新しいシンガーとして、グラム・ロック・バンドGEORDIE出身の当時32歳のブライアン・ジョンソンが発表されたのは、同年4月1日だった。
ブライアン・ジョンソンを迎えたAC/DCが初めて人前に立ったのは、1980年6月29日、ベルギーのナミュールにあるPalais des Expositionsだった。楽屋でアンガス・ヤングはいつもどおりジーンズとTシャツから学生服に着替えたが、この日はいつものギグではない。開演直前、彼はジョンソンの顔にはっきりと緊張を見て取っている。ジョンソンの側は、自分がファンにどう受け止められるか、とりわけボンの書いた古い曲を歌うときにどうなるかを気にしていた。彼の不安を解いたのは客席だった。ステージに出て見渡したとき、掲げられた横断幕に「R.I.P. Bon Scott. Good Luck Brian.」と書かれていたのである。それに救われた、と彼は振り返っている。
ナミュールでの初日、ブライアン・ジョンソンは緊張のあまりセットの中盤で頭が真っ白になり、2曲に同じ歌詞を乗せて歌ってしまった。マルコム・ヤングからは直後に厳しい一言が飛んできたという。この日AC/DCは『Back In Black』から7曲を演奏し、1曲目はアルバムの冒頭曲「Hells Bells」だった。セットの最後は「Let There Be Rock」——その5か月前、1980年1月27日のサウサンプトン・ゴーモントで、ボン・スコットが最後にステージで歌った曲である。
『Back In Black』が作られたのは、バハマのニュープロビデンス島ナッソーだった。ロンドンの寒さと灰色、そしてボンの死をめぐる重い空気から遠く離れた場所である。バンドをそこへ引き寄せたのはCompass Point Studiosという世界水準の施設で、アイランド・レコードの創設者クリス・ブラックウェルが作ったものだった。プロデューサーのロバート・「マット」・ラングと組んでいたエンジニアのトニー・プラットによれば、ロンドンやシドニーの雑音から切り離された辺鄙な場所にいたこと自体が、この作品にとって良い方向に働いた。全員をひとつにまとめる助けになった、というのが彼の見方である。ブライアン・ジョンソンのほうは『Record Mirror』に、バハマでの録音はむしろ難しい、浜辺で寝そべっていたくなるしまともなビールも手に入らない、と冗談混じりに語っている。
鐘を録るのは難しい。倍音が多いためで、Songfactsによればエンジニアのトニー・プラットは特性の異なるマイクを15本ほど鋳造所内の各所に立てて音を収めた。テープに収めたあと、彼はその音源をニューヨークのElectric Lady Studiosへ持ち込み、プロデューサーのマット・ラングと二人で組み合わせを選び、ミックスを作ったうえで半分の速度に落とした。1トンの鐘を、より重々しい2トンの鐘のように聴かせるためである。耳の良い聴き手なら、ライヴで鳴る鐘がレコードより1オクターヴ高いことに気づくという。
「Hells Bells」は『Back In Black』の1曲目である。Songfactsによれば、ボン・スコットへの追悼として、ギター・リフが入る前に鐘が4回鳴り、そのあとさらに9回鳴って徐々に消えていく。ライヴではブライアン・ジョンソン自身が鐘を打っていた。なおアルバムをプロデュースしたジョン・「マット」・ラングは前作『Highway to Hell』も手がけた人物で、『Back In Black』のあとにはフォリナーの『4』(1981年)、デフ・レパードの『High 'N' Dry』(1981年)と『Pyromania』(1983年)を続けて手がけている。
『Back In Black』の真っ黒なジャケットは、レーベルの反対を押し切って実現している。アルバムは6週間で完成し、バンドもアトランティック・レコードも手応えを感じていたが、レーベルから見た唯一の問題がこのジャケット案だった。全面黒で、AC/DCのロゴとアルバム題以外に何も置かない——それは商売にならない、というのがアトランティックの言い分である。バンドは譲らなかった。アンガス・ヤングの説明によれば、『Back In Black』というアルバム全体がボンへの献辞であり、だからジャケットは純粋な黒であり、だからアルバムは鐘の音という、これまでの彼らのどれとも違う重い響きから始まるのだった。
表題曲「Back In Black」が世に出たのは、ボン・スコットが亡くなった5か月後である。Songfactsはこの曲を彼への追悼と説明し、霊柩車のことは忘れてくれ、自分は決して死なないのだから、という歌詞が、彼が音楽を通じて生き続けることを含意していると読んでいる。新しいシンガーとしてブライアン・ジョンソンを立てたこのアルバムは、AC/DCがスコット抜きでも続けられることを証明した。
「You Shook Me All Night Long」は、ブライアン・ジョンソンを迎えたAC/DCの最初のシングルだった。Songfactsによれば、彼が冒頭の一節を思いついたのは、車と女性はよく似ていると気づいたからだという——速く走り、こちらを落胆させ、それでも新型を見ればまた気分が良くなる。またジョンソンは、この曲の着想は『Back In Black』の録音でバハマにいたときにアメリカの女性たちの姿を目にしたことから来たとも語っている。アンガスとマルコムのギターについてはこの曲でとりわけ高い評価が集まり、ロック史上のギター・ソロを選ぶ企画に何度も採り上げられている。
『Back In Black』の最後に録音された曲は「Rock And Roll Ain't Noise Pollution」で、その場で15分ほどで書き上げられている。Louderによれば、この曲の冒頭でブライアン・ジョンソンがやっているのは、彼自身が「南部の説教師のようなもの」と呼んだ即興の語りで、ロックンロールの力を伝道師めいた熱心さで讃えるものだった。またアンガスは1991年のインタビューで、このアルバムの何曲かにボンが書いた歌詞が使われていることを認めている。
『Back In Black』が発売されたのは1980年7月25日、バンドが北米ツアーの1週目でカナダにいたときだった。ツアーは1981年2月にオーストラリアでの7公演を迎え、シドニーでの3日目——2月23日——にブライアン・ジョンソンにとって生涯忘れられない出来事が起きる。客席にはボンの母イサがいて、終演後に彼女はブライアンに、うちのボンならあなたを誇りに思ったでしょう、と声をかけたのである。ツアーはメルボルンのSidney Myer Music Bowlでの2月27日と28日の2公演で幕を閉じた。最終日は、ボンとの最後のギグからちょうど1年と1日後にあたっている。この時点で『Back In Black』はアメリカだけで300万枚を超えていた。
1980年8月1日、ニューヨークのパラディアムでAC/DCの前座を務めたのは、その一夜だけデフ・レパードだった。ヴォーカルのジョー・エリオットはその日21歳の誕生日を迎えている。当時デビュー作を携えていた彼らは、前年の『Highway To Hell』ツアーでもAC/DCの前座を務めており、マネージャーのピーター・メンシュを共有していた関係で、AC/DCの内輪の外では最も早く『Back In Black』を聴いた人たちの一組でもあった。エリオットによれば、メンシュがカセットを持ってツアー・バスに乗り込んできて、「Hells Bells」が流れたとき全員が言葉を失ったという。
ブライアン・ジョンソンのハンチング帽は、AC/DCに入るより前、GEORDIE時代に生まれている。Planet Rockのインタビューで彼が語ったところによれば、イングランド北東部のワーキングメンズ・クラブを回っていた頃、汗が目に入って赤くなっているのを見た兄モーリスが、新しく買ったスポーツカーに合わせて買った帽子を差し出した。試しにかぶったのがきっかけである。北イングランドでは戦後、誰もが帽子をかぶっていて、ジョーディーやヨークシャーの人間にとっては一種の制服のようなものだった、と彼は言う。後半のセットをそれでやってみて具合が良く、自分も買うと言ったところ、兄は「持っていけ、俺はもうかぶらない」と答えた。やがて客のあいだで「帽子をかぶって歌うバンド」として覚えられるようになり、それが仕事を呼んだ。
『For Those About To Rock We Salute You』という題は、古代ローマの剣闘士が皇帝ら支配者に向けて発したとされる「死にゆく我らが汝に敬礼する」という句をひねったものである。Songfactsは、アンガス・ヤングがこの発想を得た本について、彼自身はロバート・グレーヴスの『For Those About To Die We Salute You』として記憶しているが、グレーヴスにその題の著作は無いと指摘している。ダニエル・マニックスの『Those About to Die』である可能性が高い、というのが同サイトの見立てである。
AC/DCのステージに大砲が並ぶようになったきっかけは、パリのリハーサルにあった。Songfactsによれば、近くのテレビでチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式が流れていて、祝砲の音が聞こえてきたことから、この曲に大砲を使うという案が出た。以来ライヴではバンドの背後に2門の大砲が据えられ、この曲で使われている。バンドが型どおりでない道具をステージに持ち込んだのはこれが最初ではなく、1980年には「Hells Bells」を鳴らすために巨大な鐘を舞台上に置いていた。
AC/DCの全米アルバム・チャート1位は、意外にも『Back In Black』ではない。Songfactsによれば、史上最も売れたアルバムのひとつである『Back In Black』は全米で1位に届いておらず、その次の『For Those About To Rock』が1位を獲っている。2008年の『Black Ice』も同じく首位に立った。なおこのアルバムから全米Hot 100に入ったシングルは「Let's Get It Up」だけだが、表題曲はライヴの定番としてファンに愛される曲になった。
『For Those About To Rock』のセッションは、1981年7月6日の月曜日、パリのEMIパテ・マルコーニ・スタジオで始まった。プロデューサーは『Highway To Hell』と『Back In Black』を手がけたマット・ラングである。南アフリカ出身のラングは、その場の勢いで正解が出るという考え方を持たない完璧主義者で、テイクを重ねる姿勢は後年デフ・レパードの『Hysteria』で頂点に達することになる。このときのエンジニア、マーク・ダーンリーによれば、ラングは頭の中に鳴っている音があり、そこに当たるまで叩き続ける人で、パリでは最初の3日間をスネア・ドラムの音だけに費やした。2日目の終わりにラングから「どう思う」と訊かれたダーンリーは、見当もつかない、と答えたという。
パリでの制作は、バンドの側から見ると待ち時間の連続だった。アンガス・ヤングによれば曲はほぼすべてスタジオ入り前に書き上がっており、自分たちは完成した曲を持って入り、何をやりたいかも分かっている、というのが彼らのやり方である。ところがラングは違った。ブライアン・ジョンソンとヤング兄弟は大きなソファに腰かけて、ラングが細部をいじり終えるのを待つ時間が長かった。マルコムはとりわけ苛立っていた。手持ち無沙汰のあいだバンドは延々とジャムをしていて、エンジニアのマーク・ダーンリーの手元には、アンガスが「Feelings」を歌っているようなアウトテイクまで残っているという。
「Thunderstruck」の冒頭で鳴る特徴的なギターについて、Songfactsは書籍『The Story of AC/DC: Let There Be Rock』の記述を引いている。アンガス・ヤングはB弦以外の全弦をテープで塞いだ状態で弾いてあの音を作った、というものである。これは兄ジョージ・ヤングから教わったスタジオでの小技だった。ジョージはAC/DCの何枚かをプロデュースした人物で、THE EASYBEATSのメンバーでもあった。
「Thunderstruck」の成り立ちについては、二つの説明が流通している。バンドがよく語っていたのは、アンガス・ヤングの乗った飛行機が落雷を受けて墜落しかけた出来事から生まれた、というものである。一方、2003年の『The Razors Edge』再発盤のライナーノーツでアンガス自身が述べているのは別の経緯で、ギターでのちょっとした仕掛けから始まり、それをマルコムに聴かせたところ「後ろに置くといいリズムの案がある」と返ってきて、そこから曲を積み上げた。数か月いじり続けてすべてが噛み合ったという。歌詞については良い題を見つけるという話で、『Powerage』や『Highway To Hell』と同じ筋の、雷というモチーフに良い響きを感じたのだと彼は説明している。
『The Razors Edge』というアルバム題にアポストロフィが無いのは表記の揺れではなく、曲との呼応である。Songfactsによれば、オーストラリアでは近づいてくる嵐の黒い雲を「the razor's edge」と呼ぶ。「Thunderstruck」で幕を開けるアルバムの題として、この語は理に適っていた。アルバムはプロデューサーのブルース・フェアバーンとバンクーバーのLittle Mountain Sound Studiosで録音されている。フェアバーンがボン・ジョヴィの『Slippery When Wet』やエアロスミスの『Permanent Vacation』『Pump』を手がけたのと同じ場所で、AC/DCが彼と組んだのはこれが初めてだった。
「Thunderstruck」のビデオを撮ったのは、「You Shook Me All Night Long」も手がけたデイヴィッド・マレットである。Songfactsによれば、彼はAC/DCのライヴの熱量をそのまま映した「究極のパフォーマンス・ビデオ」を作ろうとした。撮影はロンドンのブリクストン・アカデミーで行なわれ、アンガスのダック・ウォークを下から撮るためにアクリル板の上を歩かせ、小型カメラをギターとドラムスティックの1本に取り付けている。
「Thunderstruck」はアルバムの冒頭を飾り、『The Razors Edge』ツアーの1曲目として観客を沸かせた曲だが、アメリカではシングルとして発売されていない。Songfactsによれば、これがアルバムそのものの売上を押し上げる結果になった。アメリカでのチャート・ヒットになったのは、よりラジオ向きの「Moneytalks」のほうで、こちらは23位まで上がっている。
アンガス・ヤングは、オーストラリアのテレビ番組『60 Minutes』のインタビューで兄マルコムの最期の日々を振り返っている。BARKSが伝えたところによれば、彼にとって最も辛かったのは死そのものではなく、その手前の衰えだった。自分たちの知っている彼が消えていくのを見ることが堪えた、という趣旨である。それでも会いに行くと兄は満面の笑みを見せ、ギターを弾くと喜んで足踏みをしようとしたという。兄はいつも自分がそこにいることを分かっていた、最後まで一緒にいた、と彼は語っている。
2020年11月の『Power Up』は、2017年に亡くなったマルコム・ヤングに捧げられた作品である。BARKSが伝えたインタビュー映像で、アンガス・ヤングはこのバンドは兄のベイビーであり、兄の人生だったと述べ、兄がいつも「やり続けろ」と言っていたことを明かしている。マルコムは存命中の演奏がこのアルバムに収められることはなかったが、収録12曲すべてに作者としてクレジットされている。アンガスは別のインタビューでも、マルコムの貢献は主に曲のアイディアであり、アルバム全体に及んでいると説明した。
『Power Up』について、アンガス・ヤングは聴けばすぐにAC/DCだと分かることが常に自分たちの目指すところだと語っている。一度聴いて「これは彼らだ、他にいない」と思ってもらいたい、というのがその説明である。同じインタビューで彼は、新作の間隔が以前より空いていてもリタイアやバンドの終わりは考えていないと明言し、AC/DCの音楽を作って演奏することが好きで、長くやってきた分だけ何よりもそれについて知っている、と述べた。
AC/DCの日本での位置づけを、日本の発売元ソニーミュージックは「真のロックンロール・モンスター」と表現している。『Back In Black』はブライアン・ジョンソン加入後の最初の作品でありながら、バンドを一躍世界最高峰の一角へ押し上げた1枚となった。Songfactsも同じ点を短く記していて、ボン・スコットの死から5か月後に出たこのアルバムは、AC/DCがスコット無しでも続けられることを証明した作品だった、というのがその評価である。