YNGWIE MALMSTEEN トリビア 全160件
YNGWIE MALMSTEENにまつわる事実を、出典付きで160件掲載しています。
Trivia
『Fire & Ice』は日本で初登場1位を記録している。日本のレーベルの公式バイオによれば、この作品は発売当日に10万枚以上を売り上げ、ヨーロッパとアジア諸国でもゴールドおよびプラチナ・ディスクを獲得した。
エレクトラを離れた彼を引き受けたのは、日本のレコード会社だった。公式バイオによれば、彼は1993年にポニーキャニオンと契約し、新しいシンガーには元ラウドネスのマイク・ヴェセーラ、ドラマーには元トニー・マカパインのマイク・テラーナ、キーボードにはマッツ・オラウソンが入り、ベースはイングヴェイ自身が弾いた。ツアー用のベーシストにはバリー・スパークスが選ばれている。
『The Seventh Sign』は、まず日本で発売された。公式バイオによれば、発売日は1994年2月18日。生々しくアグレッシヴなこの作品はすぐに初期作『Marching Out』と比較され、日本ではトリプル・プラチナに認定された。ヨーロッパとアメリカの流通権はCMCインターナショナル・レコードが取得している。日本ツアーはソールドアウトとなり、アメリカがグランジ全盛でなお難しい市場だった一方、日本とアジア諸国ではこの作品が彼の他の全アルバムの売り上げを上回った。
日本でだけ出たミニ・アルバムに、彼がプロレスラーのために書いたテーマ曲が入っている。公式バイオによれば、1994年の9月と10月にポニーキャニオンは『パワー・アンド・グローリー』と『アイ・キャント・ウェイト』という2枚のミニ・アルバムを出した。前者には高田のテーマが収められ、後者には未発表2曲と武道館公演からのライブ音源がいくつか入っている。武道館のライブは日本版がコンサート・ビデオとして発売され、その世界流通はCMCが担当した。
この協奏曲を彼が初めて生で演奏したのは、東京だった。公式バイオによれば、2001年後半、新日本フィルハーモニー交響楽団との共演という形で初演の機会が与えられ、その模様を収めたDVD/CD/VHSのパッケージが2002年1月に発売された。これがその年の彼の最初のリリースとなり、以後、世界各地のオーケストラから共演のオファーが舞い込むことになる。
彼のソロ契約は、日本から始まっている。Classic Rockの記事によれば、アルカトラスが日本で成功したことがきっかけとなって、イングヴェイは日本でソロ契約を結んだ。本人の言葉では、『Rising Force』はアメリカに来てから1年後にレコーディングされ、全米60位に入った。
彼の初期を代表するライブ映像は、東京で撮られている。BLABBERMOUTH.NETによれば『Live '85』は1985年1月24日、中野サンプラザで『Rising Force』ワールド・ツアー中に撮影された85分の作品で、イングヴェイ(ギター)、ジェフ・スコット・ソート(ヴォーカル)、マルセル・ヤコブ(ベース)、イェンス・ヨハンソン(キーボード)、アンダース・ヨハンソン(ドラムス)というラインナップが収められている。
『Unleash the Fury』は、まず日本だけで発売された。BLABBERMOUTH.NETが2005年3月に伝えた時点で、アメリカとヨーロッパの発売日はまだ決まっていなかった。参加メンバーはイングヴェイ(全ギター)、ドゥギー・ホワイト(ヴォーカル)、パトリック・ヨハンソン(ドラムス)、ヨアキム・スヴァルベリ(キーボード)である。
デビュー40周年を彼は日本で迎えている。BARKSによれば、<Yngwie Malmsteen 40th Anniversary Japan Tour 2024>は2024年5月に名古屋(5月7日・Zepp Nagoya)、大阪(5月9日・Zepp Namba)、東京(5月11日・Zepp DiverCity)で行われた。単独での来日公演は2015年2月以来9年ぶりのことだった。
40周年ツアーの公式ライブ盤は、東京公演から作られた。BLABBERMOUTH.NETによれば『Tokyo Live』は2025年4月25日にMusic Theories Recordingsから発売され、収録は2024年5月11日のZepp DiverCity東京公演である。100分におよぶこの公演のセットリストは「Hiroshima Mon Amour」「Evil Eye」から「Rising Force」「Far Beyond The Sun」「Arpeggios From Hell」「Seventh Sign」を経て、2021年の『Parabellum』からの曲まで彼のキャリアをたどり、「Paganini's 4th」や「Smoke On The Water」も演奏された。同記事によれば、これは彼にとって5作目のライブ作品にあたる。
2014年、彼はももいろクローバーZの楽曲でギターを弾いている。BARKSによれば、2014年6月4日に配信された「猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」(Emperor Style)」がそれで、オリジナル・バージョンにはマーティ・フリードマンが参加していたところ、この配信限定シングルではイングヴェイがギタリストとして加わった。楽曲は日本テレビ系「第34回 高校生クイズ」の応援ソングにも決まっており、映画『劇場版 モーレツ宇宙海賊 ABYSS OF HYPERSPACE -亜空の深淵-』の公開とメディアミックス化を記念して制作されたものである。配信は日本国内にとどまらず、世界約120か国のiTunes Music Storeなどで6月18日から行われた。
アルカトラスの初来日公演は、34年後に完全版として世に出た。BARKSによれば、グラハム・ボネットとイングヴェイが結成したアルカトラスは『No Parole From Rock 'n' Roll』(1983年)を携えて来日し、初の日本公演は全公演ソールドアウト、1日に昼夜2公演を行う日もあった。1984年1月28日の中野サンプラザ公演は同年に映像作品『メタリック・ライヴ'84』として発売されていたが、2018年、倉庫に眠っていた素材から未発表アングルを交えて再構成した完全版『ライヴ・イン・ジャパン1984 -コンプリート・エディション』が、ワードレコーズ・ダイレクトの通販限定で8月17日から発売された。音源は奇跡的に発見された24チャンネルのマルチトラック・テープからリミックスされ、代表曲でありながら過去作に未収録だった「ジェット・トゥ・ジェット」も初めて収められている。メンバーはグラハム・ボネット(ヴォーカル)、イングヴェイ・マルムスティーン(ギター)、ゲイリー・シェア(ベース)、ヤン・ウヴェナ(ドラムス)、ジミー・ウォルドー(キーボード)だった。
生まれたときの名前はイングヴェイ・マルムスティーンではない。日本のレーベルの公式バイオグラフィーによれば、彼はラーズ・ヨハン・イングヴェイ・ランネルバックとして1963年6月の最終日にストックホルムで生まれた。軍の司令官だった父と芸術家肌の母は彼が生まれてまもなく離婚し、母リグモア、姉アン・ルイーズ、兄ビヨルンの家庭で末っ子として育っている。イングヴェイという名は、母の昔の恋人にちなんで付けられたという。
マルムスティーンは父方ではなく母方の姓である。公式バイオによれば、彼は10歳で母親の旧姓を名乗ることになった。以降は音楽に全精力を注いで学校にはあまり行かなくなり、トラブルメーカーとして扱われることが多かったが、興味を持った英語と美術の2科目には長けていたという。
彼の代名詞であるスキャロップ加工された指板は、ギター店で17世紀のリュートに出会ったことから始まっている。公式バイオによれば、15歳で退学した彼はしばらくギター修理店でリュート製作の仕事をしており、そこへ入荷した17世紀のリュートで初めてスキャロップ・ネックを目にした。木材が削り取られてフレットが尖端として残る構造に魅せられ、古いギターのネックを同じように削ってみたところ十分に満足したので、より上等なギターでも試すことにしたという。通常のネックより弾きにくかったが、弦に対するコントロールが大きく向上したため、自分の機材は永久にこの仕様にすると即座に決めた。
スウェーデンCBS向けに録った3曲入りデモは、結局リリースされなかった。公式バイオによれば、これに落胆した彼は国内にとどまっていても埒が明かないと考え、海外のレコード会社や音楽関係者にデモ・テープを送りつけるようになる。そのうちの1本がギター・プレイヤー誌のライターでありシュラプネル・ミュージックの創始者でもあったマイク・ヴァーニーの手に渡り、彼はシュラプネルの新人バンド、スティーラーのレコーディングに招かれた。
グラミー賞のデータベース上、イングヴェイ・マルムスティーンの記録は受賞0、ノミネート1である。その1件は第28回グラミー賞のロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門で、対象はアルバム『Rising Force』だった。
日本のレーベルの公式バイオグラフィーは、1986年の『Trilogy』について、歌詞の内容からも音楽のパフォーマンスからも今なお彼が気に入っている作品だと記している。同バイオは、この時点でギター・テクニックと作曲の両面における彼の影響力は紛れもないものになっていた、とも書いている。
24歳の誕生日を迎える直前、彼はキャリアを断ちかねない事故に遭っている。日本のレーベル公式バイオによれば、1987年6月22日の交通事故の衝撃で脳に血の塊ができ、右手へ通じる神経が傷ついた。1週間近い昏睡から意識を取り戻したとき、ピッキングする側の手が全く動かなかった。彼はセラピーを始め、神経が戻るのを待つことになる。
1989年2月、彼はソビエト連邦で公演を行っている。公式バイオによれば、モスクワとレニングラードの双方でソールドアウト公演が続けて行われ、これはボン・ジョヴィらによるモスクワ・ミュージック・ピース・フェスティヴァルに先立つこと半年近くのことだった。最終公演を収めた映像作品『トライアル・バイ・ファイアー:ライヴ・イン・レニングラード』は後にゴールドを獲得している。この公演のあとメンバーはそれぞれの道へ進み、ライジング・フォースという名前は退いた。
『Inspiration』は、子供の頃に聴いた曲を録りたいという長年の思いから始まっている。公式バイオによれば、1996年1月、彼はジョー・リン・ターナー、ジェフ・スコット・ソート、デヴィッド・ローゼンタール、マルセル・ヤコブ、マーク・ボールズといった旧知の面々を呼び集めた。取り上げたのはディープ・パープル、レインボー、U.K.、カンサス、スコーピオンズ、ラッシュ、ジミ・ヘンドリックスの曲で、ドラム・トラックとキーボードの一部はヨハンソン兄弟が担当している。
『Inspiration』のジャケットを描いたのは日本人の画家である。公式バイオによれば、1996年4月中旬にテープのマスタリングが行われ、アートワークが依頼された。ヨダ・アサリによるその絵には、このアルバムでカバーされたバンドの数々を表す視覚的な要素が織り込まれている。
『Concerto Suite for Electric Guitar and Orchestra』の録音は、プラハでわずか3日間で行われた。公式バイオによれば、彼は1997年6月に初の完全なクラシック作品を書き上げてプラハへ飛び、創立100周年を祝ったばかりのチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演した。指揮を執ったのはアトランタ交響楽団の指揮者ヨエル・レヴィで、フル・オーケストラと自作を録音するという彼の夢はここで実現した。この結果をファンが聴けるようになるのは1998年になってからだった。
『Alchemy』という題を選んだ理由を、彼はこう説明している——錬金術は科学と魔法が交わるところだから、と。レコーディング・プロセスという科学と音楽の魔法が混ざり合っている、というのが彼の言い分である。公式バイオによれば、この作品は商業的な価値を考えず自分のプレイができる限り極端になるように作られ、歌詞にはレオナルド・ダ・ヴィンチのような、彼にとって最も興味のある題材が使われた。
フェンダーのシグネチャー・モデルは、彼の弾き方に合わせて細部が決まっている。フェンダー公式の解説によれば、スキャロップ加工された指板は指が指板の木部ではなく弦に触れるようにするためのもので、速さとグリップが増し、チョーキングやプリング、タッピングが楽になる。9.5インチ・ラジアスのスキャロップ指板にはスーパー・ジャンボ・フレットが21本打たれ、ナットはサステインと明るい音色のために真鍮製。ピックアップはセイモア・ダンカンのYJM Furyシングルコイル3基で、ブリッジとミドルにはノーロードのトーン・コントロールが付く。ネックプレートを4点留めにしているのは、もともと3点留めだった彼自身の1971年製ストラトを4点に改造した経緯に倣ったものである。
公式サイトによれば、2021年の『Parabellum』は全米ビルボード200で初登場89位に入り、日本、インド、中国のロック・チャートでは1位を記録した。
ギターを始めた日を、彼は1970年9月18日と特定している。オーストラリアの媒体X-Press Onlineに語ったところでは、母から5歳の誕生日にギターを、6歳の誕生日にトランペットをもらったものの当初は音楽家になる気がなく、7歳のときにテレビでジミ・ヘンドリックスの特集を観たのが転機になった。音は流れずギターを燃やす映像だけが映っていて、それを「格好いい」と思った彼は、すでに持っていたギターをその日のうちに弾き始めた。9月18日はヘンドリックスが亡くなった日である。
彼のギターの手本はギタリストではなくヴァイオリニストだった。本人の説明では、自分のギター・プレイは99.9パーセントがクラシックのヴァイオリン、とりわけパガニーニ、ヴィヴァルディ、チャイコフスキーの影響下にあり、作曲面はバッハ的な構築に負っている。テレビでニコロ・パガニーニの音楽をヴァイオリンで弾く姿を観たときに「ギターでこれをやりたい」と決めたという。ディープ・パープルからはハード・ロックへの愛情を受け取ったが、クラシック的な要素はそこから来ていないと明言している。
ライジング・フォースというバンドは、実は1979年のスウェーデンに存在した。米ラジオ局のインタビューで本人が語ったところでは、1984年1月にソロ・アーティストとしてレコード契約を結んで以降はバンドではなく、『Rising Force』はソロ・デビュー作の題名にすぎない。ただし1979年のスウェーデン時代には、彼はライジング・フォースという名のバンドを本当にやっていた。
マイク・ヴァーニーは、届いたテープを聴いた瞬間の判断を後にこう説明している——クラシックの影響を受けたフレーズを信じがたい速さで弾いており、この男がアメリカのプレイヤーに最も大きな影響を与える次の存在になると即座に分かった、と。呼ばれた側の記憶も残っていて、イングヴェイは「駄目でもともとでテープを送ってみた」だけのつもりだったところにヴァーニーから電話が来て、荷物をまとめて来い、と言われた。当時の彼にはバンドも恋人も猫もスタジオもあったが、それでも行くことにしたと語っている。
アメリカでの初ステージに集まったのは30人だった。Classic Rockの記事によれば、1983年3月3日、ロサンゼルスのカントリー・クラブで行われたスティーラーでのライブ・デビューの客はそれだけだったが、その1週間後にトルバドールで演奏したときには口コミで人が押し寄せた。ほどなく街には「Yngwie Is God」という落書きが広がったという。
UFOに入る道もあった。2025年のGuitar Playerのインタビューで本人が語ったところでは、渡米してまもなくUFOへの加入を打診されたが、まさに同じ日に、のちにアルカトラスとなるプロジェクトからも接触があった。そちらはまだバンド名も曲も無く、彼が全曲を書くことになる。既にある誰かの世界に入るのではなく自分で曲を書きたかったから、彼はそちらを選んだ。
Guitar One誌が2005年2月号で発表した「Top 10 Shred Albums of All Time」で、1位に置かれたのは『Rising Force』だった。2位以下にはRACER X、ヴィニー・ムーア、トニー・マカパイン、スティーヴ・ヴァイ、ジョー・サトリアーニらが並んでいる。
1985年、彼はAC/DCの前座として4か月をともに過ごしている。Classic Rockに語ったところでは、その『Fly On The Wall』ツアーでアンガス・ヤングとブライアン・ジョンソンとはすっかり親しくなった。ブライアンも車好きで、当時のイングヴェイはV12エンジンのジャガーEタイプ、ブライアンは6気筒のEタイプに乗っており、排気量の話でよくやり合ったという。アンガスには「A、C、D、Cというコード進行の曲のアイデアがある」と持ちかけ、「それはもうやった」と返されたと本人が語っている。
人生で初めて観たコンサートは、12歳のときのレインボーだった。Classic Rockでの回想によれば、会場はクラシックのためのストックホルム・コンサートホールで、なぜかそこにロック・バンドが入っており、ステージにはロニー・ジェイムス・ディオ、リッチー・ブラックモア、コージー・パウエルが立っていた。のちにレインボー・バー&グリルでディオと出会ったとき、その光景を思い出して不思議な気分になったと語っている。
彼はディープ・パープルの『Made In Japan』を、自分の演奏に差し替えて聴いていた。2008年にClassic Rockへ語ったところによれば、この作品はギターが左、ハモンド・オルガンが右に振り分けられている。彼はブラックモアのソロの音量を絞り、そこへ自分の演奏を重ねて叔父のカセット・レコーダーに録音し、それを学校へ持って行って友人に聴かせた。友人たちは「『Made In Japan』だろ、それがどうした」と返したが、弾いていたのは彼自身だった。ブラックモアがピックアップ・スイッチに触れる瞬間まで把握していて同じことをしていた、誰でも騙せたはずだ、と本人は語っている。
『Odyssey』は今も彼の全米最高位アルバムである。Louderの記事によれば、1984年のレインボー解散で職を失っていたジョー・リン・ターナーが1987年にイングヴェイと組み、この作品で優れた相方となった。ターナーはレインボーでそうしたのと同じように彼を洗練された商業的サウンドへ寄せたが、一方でイングヴェイのプレイは、昏睡に至った瀕死の事故のあとということもあり以前より抑制されていた。
彼が人の助言に従ったと認めている相手は、コージー・パウエルただ一人である。Classic Rockのインタビューで、共演から何かを教わったことがあるかと問われた彼が唯一挙げたのが、『Facing the Animal』でドラムを叩いたパウエルだった。パウエルは「アルバムにはバラードを2曲入れなければならない」と彼に言い、それが誰かの言葉に従った唯一の機会だったという。パウエルは自分の歴代のヒーローの一人で、自分のドラマーたちにその音を出させるために図まで描いていた、とも語っている。
『Attack!!』でキーボードとのバトルが無いのは、意図的なものだった。BLABBERMOUTH.NETによれば、新しいキーボード奏者は元ドリーム・シアターのデレク・シェリニアンだったが、ギターとキーボードの掛け合いは置かれていない。彼の説明では、それをやると自分が後にしてきた古い空気へ一歩戻ることになる。前に進み続けたいので、過去にやったことを再現しようとはしないというのが理由で、シェリニアンは求められたものを弾きつつ独自のアプローチを持ち込み、その結果キーボードの支えが新鮮に響いたと語っている。新シンガーは元レインボーのドゥギー・ホワイト、新ドラマーはパトリック・ヨハンソンだった。
『Unleash the Fury』という題は、日本へ向かう機内での出来事から来ている。BLABBERMOUTH.NETによれば、1988年のこのやりとりを同行者の一人がテープに録っており、その音源が世に出たのは14年後の2002年12月だった。2021年にGuitar Worldへ語った回想で本人は、今なら違う反応をするのは間違いないとしつつ、この一件は今でもおかしいと述べている。彼の説明では、普段はバンドとクルーがエコノミー、彼だけがファーストクラスなのだが、そのときは誰かの手配で全員がファーストクラスに座っており、日本までの16時間で全員が出来上がってしまった。眠り込んだ彼に女性が氷水を注いだところから騒ぎになった、というのが本人の語る流れである。
2008年、彼は自分の旧譜の権利をおおむね取り戻している。Guitar World誌に語ったところでは、ポリグラムに録音した最初の5枚のスタジオ・アルバムを除くすべてのバック・カタログの権利を取得し、リマスターCDはライジング・フォース・レコードとオンラインで入手できるようになった。
フェンダー・カスタムショップは、彼の1971年製ストラトキャスターを100本限定で複製した。BLABBERMOUTH.NETによれば、この「Play Loud」と呼ばれるトリビュート・シリーズは2008年11月に発売され、複製元は彼の躍進を支えた歴戦の1971年製ストラトである。使い込まれたオリンピック・ホワイトの塗装、スキャロップ加工された指板、ボディに描かれた独特のグラフィックまで再現された。同じ年の別の記事によれば、予約価格は12,500ドルだった。
2012年を境に、彼はシンガーを雇うのをやめて自分で歌うようになった。米ラジオ局のインタビューで語ったところによれば、自分の曲ではベース、ドラム、ギター、キーボード、ヴォーカルの各パートを作り歌詞も書く。アンサンブルやオーケストラ、ブロードウェイのミュージカルと同じで、作品があって、それを演じる者が雇われる関係だという理解である。それを「これはバンドだ」「シンガーはエルヴィス・プレスリーのような存在であるべきだ」と考える者がいることに嫌気がさし、2012年にもう雇うのはやめて自分で歌うと決めた、というのが本人の説明だ。
『Relentless』という題は、アルバムだけでなく自伝にも使われている。BLABBERMOUTH.NETが2012年10月に伝えたところでは、彼はマルムスティーン自身が書いた唯一の本物の物語と説明される自伝『Relentless』を2013年初頭に出す予定で、あわせて教則サイトRelentlessShred.comも立ち上げた。同記事は、2008年2月から彼のバンドでライブとスタジオの双方を担ってきたティム・"リッパー"・オーウェンズが、DIO DISCIPLESの日程と重なって同年7月のGetaway Rockに参加できず、そのときリード・ヴォーカルの大半をベースのラルフ・チャヴォリーノが務めたことも伝えている。
2015年、彼はスウェーデン・ミュージック・ホール・オブ・フェイムに迎えられている。Louderが伝えた選考委員の文章は、のちにイングヴェイ・マルムスティーンとして知られることになる少年が、70年代初頭のヘッセルビーの自室にエレクトリック・ギターと共に閉じこもっていた様子から始まる。母親は時折その部屋へ食事の盆を差し入れた。少年の計画は、パガニーニと同じ水準に楽器を習得するまで部屋から出ないことだった——パガニーニとは、あまりに上手いので悪魔に魂を売ったと噂されたイタリアのヴァイオリンの名手である。やがて彼が部屋から出てきたとき、手には『Rising Force』のような作品があった、と選考委員の文章は続く。
ブルース・アルバムを作ろうと言い出したのは、彼ではなくレーベルだった。Classic Rockの記事によれば、2019年の『Blue Lightning』はレーベルのマスコットからの提案で作られている。新曲に加え、「Smoke On The Water」「Purple Haze」「Paint It Black」といったよく知られた曲と、エリック・クラプトンの「Forever Man」のような意表を突く選曲が並んだ。
ブルース・アルバムの依頼は、30年前から来ていた。Classic Rockのトラック解説で彼は、30年間ずっとブルース・アルバムをやってくれと言われ続けており、今回ようやく「いいだろう、やってみよう」と答えたと語っている。ただし標準的なペンタトニックの12小節に収まるつもりはなかった、というのが彼の条件だった。
『Parabellum』という題は、収録曲から土壇場で採られた。BLABBERMOUTH.NETによれば、この作品は2021年7月23日にMusic Theories Recordings/Mascot Label Groupからリリースされ、歌の入った曲は4曲だけである。題はラテン語で「戦への備えをせよ」を意味し、収録曲「(Si Vis Pacem) Parabellum」は「平和を望むなら、戦への備えをせよ」にあたる。本人によれば、これをアルバム題にしたのは最後の最後の判断だったが、よく合っていると思うという。
『Parabellum』のために彼が用意したアイデアは、100近くあった。Loudwireのインタビューで語ったところでは、時間をかけすぎるのも良くない——考えすぎると、良くなりかけたものが自分で変え続けるうちに悪くなる——という前提のもと、彼が時間をかけたのはアイデア出しで、80か90、ほぼ100に届く数を作り、そこから10曲を選んだ。録音したものを車で聴きながら、ここはこうすべきだと動かし、ハーモニーを足し、声色を変えて細部を詰めていったという。ソロについては、スタジオでは1テイクで決めた。何度もやり直しても良くはならない、というのが彼の考えである。
発声の技術を、彼は身内から教わっている。Loudwireのインタビューで語ったところでは、彼の叔父はスウェーデン王立歌劇場のテノールで、ウォームアップの技術の多くをその叔父から教わった。彼自身、9歳か10歳から18歳までは自分でバンドを組んでは歌っていた側で、80年代にもステージで歌う機会が増え、曲によっては自分で歌ってきたので、歌うこと自体は目新しいことではないと述べている。
ステージ袖に控える白いストラトキャスターは、4〜5本あった。BARKSのライブ・レポートによれば、彼の代表的な白ストラトはそれぞれヘッドのロゴ位置やボディ裏のステッカーが異なっていた。「Black Star」で使うオベーションのエレガット・ギターは、このときは白だった。ソロの一部で音を伸ばしている間に右手のロレックスでその長さを計ってみせるのも、毎回の楽しみの一つだと同レポートは書いている。
ステージ後方に積まれたマーシャルは、実際に52台ある。2023年のClassic Rockのインタビューで、壁のうち何台が繋がっているのかと問われた彼は、通常アクティブなのは12台ほどで、すべて実機であり全部が動くと答えた。それでも52台のヘッドを帯同している理由については、マーシャルが好きで、たくさんあるのが好きだからだと述べている。
子供の頃に何時間も練習したのかと問われた彼は、練習は一度もしていないと答えている。2024年のUnited Rock Nationsのインタビューによれば、彼は練習ではなく本番のつもりで弾いており、スケールをなぞるような弾き方は自分に許さなかった。常に完璧に弾くこと、何かをやろうとしているように聞こえさせないことを自分に言い聞かせていたという。弾く量が多いので結果として練習にはなっているが、やっていたのは即興で、たとえばイ短調の和声的短音階で即興すると決めたら、その音階に無い音は絶対に弾かない、というやり方だった。音楽理論は熟知しているが「練習」という言葉は当たらない、というのが彼の主張である。
「あなたを見てギターをやめた」という声に、彼は自分から答えたことがある。2024年9月1日、彼はSNSで、そういうコメントを多く見かけると書いたうえで、音楽もギターも競争ではないと述べた。キャリアの初めからそう描かれてきたし、だからこそ「最高のギタリスト」といった企画が並ぶのだが、音楽とギターは内側から出てくるもので、人生のどの段階でもどの水準でも楽しめるものだ、というのが彼の言い分である。他のギタリストや音楽家と競うつもりで弾けば惨めになる、競争はスポーツと競技者のためのものだ、と書き、最後に「さあ、そのギターを手に取れ」と結んだ。
次のアルバムは、アナログ盤に合わせて作られている。2026年6月、カナダのThe Metal Voiceのインタビューで彼が語ったところによれば、次作の題は『Hell Or High Water』で、11月に発売予定。収録は9曲プラス1曲のボーナス・トラックで、全体はちょうど46分。もっと多くのアイデアも曲もあったが、レコード盤に完璧に収まるよう意図的にこの長さにしたという。1曲を取り出しても作品を代表しないので、アルバムとして通して聴いてほしい——映画を3分だけ観ても仕方がないのと同じで、曲順もテンポも調性も考えて組んである、というのが彼の説明である。同記事によれば、彼はこの作品のためにほぼ5か月間スタジオにこもった。
2026年11月13日、彼はMusic Theories Recordings/Artone Label Groupから『Hell Or High Water』を発表する。BLABBERMOUTH.NETが2026年8月5日に伝えたところによれば、収録は9曲で、先行シングルは「Now Or Never」。本人の説明では、キャリアの初期は手元にあった曲をそのまま使い、その後は「作る、回る、次を書く」という周期に入っていたが、パンデミック期に中断せず集中する方がいいと気づき、この作品は8か月かけて自宅で書いた。仕上げた曲は80から90ほどあり、そこから最も強いものを選んだという。この作り方は2021年の『Parabellum』で初めて試したもので、手応えがあったので以降の流儀にしたと述べている。
『Hell Or High Water』の最後に置かれた「Father」は、前年に亡くなった彼の父に捧げられている。BLABBERMOUTH.NETが伝えた本人の言葉によれば、素晴らしい人で、父として誇りに思っていたし愛していた。この作品全体を父に捧げたいと考え、その1曲は特に父のためのものだという。聴いた人にも自分が感じたものを感じてほしいと述べ、「強く感じなければ、人を強く感じさせることはできない」というパガニーニの言葉を引いている。タイプライターであることと、人の心に触れる物語を書く人間であることは別だ、それが常に要点だったのだ、というのが彼の説明である。
ソロ名義での初来日は1985年だった。日本のレーベルによる『ライジング・フォース:ライヴ・イン・ジャパン’85』の商品説明には、1985年にソロとして初来日を果たしたイングヴェイの中野サンプラザ公演を収めた作品で、アルカトラス時代のレパートリーも含まれていると書かれている。
『Eclipse』はアメリカでは伸びず、日本とヨーロッパで結果を出した。公式バイオによれば、レコード会社のポリグラムが十分なプロモーションを行わなかったためアメリカでの売り上げは伸びなかったが、日本とヨーロッパでゴールドおよびプラチナ・ディスクを獲得し、それがライジング・フォースを解いた彼の判断の正しさを裏づけた。
『Magnum Opus』のツアーは、日本での動員記録を塗り替えた。公式バイオによれば、この作品は1995年6月にポニーキャニオンからリリースされ、同年9月の日本ツアーは空前の17都市を回って、それまでの最大動員数を記録した。バンドはそこから2か月のイギリス・ヨーロッパ・ツアーへ向かっている。
協奏組曲のDVDは2001年に新日本フィルハーモニー交響楽団と収録され、指揮は竹本泰蔵が務めた。BLABBERMOUTH.NETはこのDVDの北米発売を伝えた2005年の記事で、彼がこの協奏組曲をオーケストラと生演奏したのはわずか7回だと書いている。
『Perpetual Flame』の日本盤は、本国盤より3か月早く出ている。BLABBERMOUTH.NETが2008年5月に伝えたところでは、日本での発売日は7月9日で、限定盤は高音質のSHM-CD仕様に加え、収録曲などをイングヴェイ自身が語るインタビュー映像のボーナスDVDが付いた。
2019年11月、ジェネレーション・アックスは日本を回っている。BARKSによれば、この特別公演にはイングヴェイに加えてスティーヴ・ヴァイ、ザック・ワイルド、ヌーノ・ベッテンコート、トーシン・アバシが参加し、福岡、大阪、名古屋、東京の4都市で行われた。
2024年の来日公演は、発表からわずか1か月半で東京公演が売り切れた。BARKSのライブ・レポートによれば、公演の約1か月半前という急な発表にもかかわらず東京Zepp DiverCity公演はソールドアウトした。ツアー・メンバーはニック・マリノ(キーボード、ヴォーカル)、エミリオ・マルティネス(ベース)、ケビン・クリンゲンシュミッド(ドラムス)で、開幕は定番の「Rising Force」だった。前回の来日は5人のギタリストによる<GENERATION AXE>公演で、それから約5年が経っていた。
クラシックへの入口は姉が開いた。日本のレーベル公式バイオによれば、彼は古いモズライト、次いで安価なストラトキャスターに没頭したのち、リッチー・ブラックモアのクラシカルなプレイに惹かれ、姉の手引きでバッハ、ヴィヴァルディ、ベートーヴェン、モーツァルトへ遡っていった。毎日何時間も弾き続け、ギターに覆いかぶさったまま眠ってしまうこともたびたびあったという。
彼をクラシックへ決定的に振り向けたテレビ番組には、演奏者の名前が残っている。公式バイオによれば、彼が観たのはロシアのヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルによるパガニーニ『24のカプリース』だった。この演奏を通じて、クラシックへの愛情と、伸び始めていたギターの技術やステージ上の存在感をどう結び付ければよいのかを理解したとされる。
学校をやめた理由は、公式バイオが具体的に書いている。15歳の頃には校内の廊下をバイクで走り抜けるようなことをやっており、居場所がないのは明らかだったので退学した、というものだ。
兵役は、本人が拒んで免れている。公式バイオによれば、18歳になったとき成績優秀を理由に軍が将校候補として入隊させようとしたが、兵役に就くくらいなら死んだ方がましだと言明したためあっさり追い払われた。
スティーラーのデビュー作で今も語られるのは、1曲のイントロだけである。公式バイオはこのアルバムを典型的なヘヴィ・メタル作と位置づけたうえで、主として思い起こされるのは「ホット・オン・ユア・ヒールズ」でイングヴェイが弾いた無伴奏のイントロ・ソロだと書いている。このアルバムがカルト的な人気を得た頃、彼はすでにグラハム・ボネット率いるアルカトラスに移っていた。
デビュー直後の彼は、読者投票の常連だった。公式バイオによれば、いくつかの読者人気投票で彼はまずベスト・ニュー・タレントに選ばれ、翌年にはベスト・ロック・ギタリストに、そして『Rising Force』が年間ベスト・アルバムに選ばれている。
公式サイトが挙げる受賞・顕彰は多岐にわたる。Time誌の「史上最高のエレクトリック・ギタリスト10人」に選ばれたこと、ローランドからBOSS Lifetime Achievement Awardを贈られたこと、Guitar Center RockWalk of Fameに迎えられたこと、2008年にNAMMのオーラル・ヒストリー・プログラムへ招かれたこと、そしてGuitar World誌が『Rising Force』を史上最高の速弾きアルバムに選んだことが並んでいる。
事故のあと、彼を襲ったのは怪我だけではなかった。公式バイオによれば、危険な状態を脱してまもなく、人生最大のインスピレーションだった母親がスウェーデンで癌のため亡くなったことを知らされる。さらに山積みの医療費を前に、財政的にはほぼ一文無しだった。
「Heaven Tonight」は、彼が初めてラジオでかかりまくる経験をした曲である。公式バイオによれば、このヒット・シングルとビデオのおかげで『Odyssey』の売り上げはアメリカでゴールド・ディスク寸前まで行き、ジョー・リン・ターナーをフロントマンに迎えたツアーで彼は、向上心に燃えるギタリスト以外の新たな聴き手と接することができた。
ライジング・フォース解散後、彼はスウェーデン人の友人たちでバンドを組み直した。公式バイオによれば、リード・ヴォーカルには元ジョン・ノーラムのヨラン・エドマンが座り、ベースにシンフォニー・オーケストラ出身のスヴァンテ・ヘンリソン、キーボードに経験豊富なスタジオ奏者兼アレンジャーのマッツ・オラウソン、ドラムにマイケル・フォン・ノリングが入った。いずれもスウェーデン国外では知られていないが、類まれな音楽的才能の持ち主だったと書かれている。
ポリグラムとの関係を解消した彼は、1991年3月にエレクトラ・レコードと契約している。公式バイオによれば、別れは友好的なものではなかったが、新しいマネージャーのナイジェル・トーマスが尽力して移籍がまとまった。同バイオは、自分の人生は常に「火と氷で、すごく良いかすごく悪いかのどちらかで中間がない」という彼の言い回しも紹介している。
オーケストラとの録音という長年の望みは、『Fire & Ice』で初めて形になった。公式バイオによれば、バッハの管弦楽組曲第2番から「バディネリ」をアレンジしたものが「No Mercy」に組み込まれ、「Cry No More」にはクラシックに着想を得たソロ・ブレイクが置かれている。
1993年は、彼にとって災難が続いた年だった。公式バイオによれば、4年間マネージャーを務めたナイジェル・トーマスが死去し、エレクトラは契約を打ち切り、彼自身も突拍子もない事故で右手を骨折した。8月には誤認逮捕の犠牲となって国際的なニュースになったが、9月には告訴が全て取り下げられ、10月には手も完治している。
シンガーが倒れた5公演で、マイクを取ったのは彼自身だった。公式バイオによれば、『Magnum Opus』のツアー中にマイク・ヴェセーラが風邪をこじらせて気管支炎になり、5回のライブを休まざるを得なくなった。公演は予定どおり行われ、イングヴェイが自分の声域に合う曲を選んでシンガー役を引き受けている。ヴェセーラはドイツでバンドに合流し、サクソンら4組と回るフェスティヴァル形式のミニ・ツアーに参加した。
『Inspiration』のツアー・バンドには、トミー・アルドリッジが座った。公式バイオによれば、『Magnum Opus』時のラインナップが解散して各自別のプロジェクトへ移っていたため、キーボードにマッツ・オラウソン、ベースに『Live in Leningrad』を経験したバリー・スパークス、ヴォーカルに『Trilogy』のマーク・ボールズ、そしてオジー・オズボーンやホワイトスネイク、パット・トラヴァースを渡り歩いたアルドリッジという編成が組まれた。南米ではブラジルとアルゼンチンの大会場が連日埋まったという。
『Inspiration』ツアーの締めくくりは、ギター・クリニックだった。公式バイオによれば、イギリスとヨーロッパで12回近いクリニックを行って1996年12月にツアーは幕を閉じた。自分のヒーローとの和やかなイベントに対するファンの反応が良かったため、今後もこうした企画をもっとやると彼は約束したという。その後、長年の友人であるウリ・ジョン・ロートのもとに短期間滞在している。
公式サイトはこの作品を、フュージョン作品ではなく本物の協奏曲だと位置づけている。1998年に発表された『Concerto Suite for Electric Guitar and Orchestra in E-flat minor, Op. 1』は全12楽章からなり、作曲もオーケストレーションも指揮も彼自身が担い、エレクトリック・ギターを主役の声として据えた。「Icarus Dream Fanfare」「Fugue」「Prelude to April」といった曲では、速さだけでなく作曲面の深さと旋律の感覚が示されている、というのが公式サイトの説明である。
『Facing the Animal』のツアー準備中に、コージー・パウエルは他界した。公式バイオによれば、イギリスで起きた自動車事故がパウエルの命を奪い、動揺しながらも続行を決めた彼は、ツアー用ドラマーとしてヨナス・オストマンを起用して日本、南米、ヨーロッパ、イギリスを回った。ブラジルでのソールドアウト公演の最中に新しいコンサート・ビデオとCDが収録され、『イングヴェイ・マルムスティーン・ライヴ!!』と名づけられている。
1998年3月6日、彼は父親になった。公式バイオによれば、第一子アントニオ・イングヴェイ・ヨハン・マルムスティーンが生まれたが、イングヴェイと妻エイプリルには新しい役割に慣れる時間がほとんどなかった。かなり前から押さえてあったツアー日程を履行しなければならなかったからで、生後3週間にしてアントニオは初めてのパスポートを取得している。飛行機でも汽車でもバスでもタクシーでも機嫌が良く、父親同様ロード生活向きだったという。
『Alchemy』のブックレットは、曲ごとに絵を割り当てるという作りになっている。公式バイオによれば、通常の「フォトブック」型のCDライナー・デザインとは異なり、トータルなデザイン・コンセプトとして各曲に別々のイラスト・パネルが用意された。歌い手には『Trilogy』のマーク・ボールズが呼び戻され、この作品のためにイングヴェイが求めたオペラ風のヴォーカルをしばしば聴かせている。
『Unleash the Fury』には18曲が収められている。日本のレーベルの公式バイオは、1枚のアルバムに18曲という分量と、長年の相方だったドゥギー・ホワイトのヴォーカルがイングヴェイのギターに噛み合ったことを、この作品の完成度の理由として挙げている。
公式サイトによれば、2009年の『Angels Of Love』はビルボードのニューエイジ・アルバム・チャートで2位に達し、その上にいたのはエンヤだった。
公式サイトには、名前と肖像の無断使用に関する声明が置かれている。マネージメント名義のその文書によれば、彼の名前、肖像、イメージ、音楽スタイル、ブランド・アイデンティティは法的に保護された知的財産であり、「YJM」といった略称を含む名前の無断使用や、スタイルへの言及、承認を装う行為は権利侵害にあたるとされている。ギターのプリセットやサウンド・パックを売る第三者が、彼の名前と肖像を使って承認があるかのように宣伝している例が確認されており、法務チームが対応を検討していると書かれている。公式チャンネルで明示されていない限り、彼はいかなる第三者の製品も承認・許諾・協業していない、というのが声明の主旨である。
公式サイトのリリース一覧には、スタジオ作以外の作品も並んでいる。『Tokyo Live』『Spellbound (Live in Tampa)』『G3 Live: Rockin in the Free World』『Trial by Fire - Live in Leningrad』『Double Live, Vol. 1』『Double Live, Vol. 2』『Angels of Love』『The Genesis』、そして『Concerto Suite』とその新日本フィルハーモニー交響楽団とのライブ版が、スタジオ・アルバムと同じ一覧に置かれている。
最初のディープ・パープル体験は姉から渡された。同じインタビューで彼は、ギターを弾き始めた1年後に姉のルルから『Fireball』を手渡され、翌日には自分で『In Rock』を買いに行ったと話している。「Fireball」や「Flight Of The Rat」といった曲のソロを片端から覚えたという。
一家はまるごと音楽家だった。彼自身の説明では、両親も叔父叔母もみな音楽をやっており、祖父はドラマーだった。兄と姉がいる末っ子として、音楽と美術に囲まれた家で育ったことを「非常に芸術的な育ち方」と表現している。
手に負えない生徒だったにもかかわらず、学校側は彼に協力的だった。Classic Rockのインタビューで本人が振り返るところでは、学校は木工室の鍵を彼に持たせてくれ、そこでギターのフレットを削る作業ができた。ほとんど登校しなかったにもかかわらず全科目でAを取っていたとも語っている。
70年代のスウェーデンで音楽情報を得る手段は限られていた。本人の回想では、テレビ局も音楽ラジオ局もそれぞれ1つ、レコード店と楽器店が1軒ずつ、あとは学校の友人しかいなかった。ディープ・パープルは好きだったが、レインボーの存在を誰も教えてくれなかったという。
スウェーデン語の「lagom(ラーゴム)」という語を、彼は自分と正反対のものとして挙げている。多すぎず少なすぎず、という意味のこの語に対して自分の性分は「もっと」だ、という説明である。全員が同じであるべきだという空気に馴染めなかったとも語っており、皆が同じなら芸術は生まれない、というのが彼の言い分だ。
スティーラーへの加入は、ヴァーニーの紹介で決まっている。同じ記事でヴァーニーは、ロン・キールが並外れたリード・ギタリストとバンドを組みたがっていたのでイングヴェイを薦めたところ、キールが乗り気になった、それがスティーラーだったと述べている。ヴァーニー自身、イングヴェイは野心が大きすぎてシュラプネルに長くはとどまらないと分かっていたとも語っている。
アルカトラスの潤沢な資金は、あとになって出所が判明した。Classic Rockに語った回想では、バンドには大きな金が付いていてファーストクラスの航空券もリムジンも当たり前だったが、それが横領された金だったと彼は後で知る。サンフランシスコにはよく足を運び、アルカトラズ島で写真を撮ったりしていたという。
『Rising Force』は1984年3月にポリドールから発売され、全米ビルボード200で60位に達した。大半がインストゥルメンタルのギター・アルバムとしては異例の到達点で、公式バイオはラジオでかからない作品としては感動的な偉業だったと記している。
Guitar Player誌は2005年4月号の「101 Greatest Moments in Guitar History」に『Rising Force』を選び、その解説で、彼の瞬間は1983年2月号のスポットライト欄に登場したときだと主張することもできる、と書いた。ただし大半のギタリストが初めて彼を聴いたのは翌年のソロ・デビュー作で、そこで打ちのめされた曲は「Far Beyond the Sun」だった、というのが同誌の書きぶりである。
自分のデビュー作がフェンダーを救ったのだ、と彼は主張している。Guitar.comのインタビューで語ったところによれば、70年代末にフェンダーは倒産寸前まで行き、1981年に買収されて出直したが苦戦が続いていた。そこへ『Rising Force』が出て、しかもジャケットにはストラトキャスターが写っていた——あのアルバムが会社を救ったのだ、というのが彼の言い分である。フェンダー側からは、あのアルバムが出てからは生産が追いつかなくなった、それ以前は全く売れていなかったと聞かされたという。
各社からの提供話を、彼はほぼ全て断っている。同じインタビューでの回想では、世界中のギター・メーカーとアンプ・メーカーから「何でも好きなものを渡す」と言われたがすべて辞退し、ギターはフェンダーのストラトキャスター、アンプはマーシャルだけでいいと答えたという。ギブソンからの申し出も同様に断ったと語っている。
ジェフ・スコット・ソートは、『Rising Force』と『Marching Out』の2作で歌っている。Louderの記事は、マイク・ヴァーニーによってアメリカに呼ばれ、アルカトラスでグラハム・ボネットと腕前を見せたのち、イングヴェイが自らを前面に出すようになった時期の歌い手としてソートを挙げている。
1985年には自身のヘッドライナーによる全米ツアーも行っており、前座はビリー・シーンのバンドTALASだった。Classic Rockでの回想では、当時ヴァン・ヘイレンを離れる直前だったデイヴィッド・リー・ロスがしばしば客席に来ていて、インタビューでの受け答えについて「あんな喋り方はするな」と助言してきたという。
KISSから電話がかかってきたことがある。2025年のGuitar Playerのインタビューで語ったところでは、まだスウェーデンにいた1982年、彼のテープが出回っていたためKISSから声がかかった。ところが先方の質問は身長で、6フィートあるかと聞かれた彼はメートル法しか知らず「192センチだ」と答えた。相手にはその意味が分からず、彼にも6フィートが何センチか分からないまま、二度と連絡は来なかったという。
アメリカに着いた初日の夜、彼はロニー・ジェイムス・ディオと知り合っている。Classic Rockに語ったところでは、スティーラーのメンバーが空港から彼をそのままロサンゼルスのレインボー・バー&グリルへ連れて行き、着いて数時間のうちに憧れの一人と話し込むことになった。二人は後に近所同士になり、近くのインド料理店「スター・オブ・インディア」でよく一緒に過ごしたという。
リッチー・ブラックモアとの最初の接触は、あまり歓迎されなかったらしい。Classic Rockでの回想によれば、アルカトラス在籍中の19歳のとき、レインボー・バー&グリルで一人で座っているブラックモアに近づき「今夜ライブをやる、あんたの元シンガーが俺のバンドにいる」と話しかけたが、返ってきたのは食事中だと言わんばかりの視線だった。約1年半後、彼はブラックモアと同じギター・テックを雇うことになり、そのテックの案内でディープ・パープル公演の楽屋を訪ねている。「リッチーに挨拶できる人間などいない」と笑われた直後、当のブラックモアに呼び戻され、そこからは一晩中音楽の話をした。手の腱鞘炎に悩んでいた彼に、ブラックモアはブレスレットを一つ渡し、バナナを食べろ、ゲータレードを飲めと助言したという。
メタリカとは、彼らが世に出る前に会っている。Classic Rockに語ったところでは、アルカトラス時代にサンフランシスコへ行った1983年、現地のシーンでEXODUSやARMORED SAINTの面々が新しいバンドの話をしていて、その流れでメタリカの小さな家に行き着き、全員かなり酔った状態でジャムをした。その後もロサンゼルスのレインボーで顔を合わせては、彼の家でディープ・パープルを聴き、彼らは床に頭を打ちつけていたという。自分はスウェーデン人でラーズ・ウルリッヒはデンマーク人、言葉はほぼ同じで訛りが違うだけだ、という共通点もあったと本人は言う。
ブライアン・メイとの出会いは、楽器の見本市だった。Classic Rockでの回想によれば、フランクフルトのMusikmesseで小さなブースに座って弾いていたところ、部屋の奥から誰かが自分のプレイに驚いて声を上げているのが聞こえた。あとになってそれがクイーンのブライアン・メイだったと気づいたという。二人は親しくなり、食事に行き、イギリスでも何度か一緒に過ごした。
レミーとは音楽性が正反対でも、人としては付き合いが続いた。Classic Rockでの回想によれば、最初に会ったのはロンドンのソーホー、ワードゥア・ストリートにあった小さなバーで、レミーはいつもそこにいた。レミーがアメリカに移ってからも会っていたが、イギリスにいた頃ほどではなかったという。二人が話したのは歴史のような、他の連中がしない類の話題だった。
『Made In Japan』を家に持ち帰ったのは兄だった。同じ記事で彼は、9歳か10歳のときに兄がこの作品を持ち帰ったと語っている。すでに『In Rock』と『Fireball』は聴いていたが、なぜか『Machine Head』を知らなかったため、『Made In Japan』が気に入って後から『Machine Head』を買いに行き、「Lazy」や「Space Truckin'」が急に短くなっているのが理解できなかったという。アナログ盤は3〜4枚すり切らせたとも述べている。
1990年、彼はストックホルムでイアン・ギランと同じステージに立っている。Classic Rockに語った回想では、ディープ・パープルの第2期を生で観たのは1984年の『Perfect Strangers』での再結成後になってしまったが、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァーとはその後親交ができ、1990年のストックホルムではイアン・ギランと共演した。その映像はYouTubeにある、とも述べている。
『Trilogy』は、彼の中で「最も集中して作った作品」の基準として残り続けている。2021年に『Parabellum』を発表した際、SiriusXMの番組で本人は、ここ10年から15年はツアーの合間に1週間ずつスタジオに入る作り方をしてきたと述べたうえで、これほど没入して作ったのは『Trilogy』以来だと語った。レコーディングだけでなく、曲作りもアレンジも含めての話である。
彼の自伝の題名は、この時期の姿勢から来ている。2017年、10年近くぶりとなるロンドン単独公演の際のインタビューで、1987年の事故からどう立ち直ったのかを問われた彼は、だから本の題が『Relentless』なのだと答えた。障害が目の前に増えるほど強く押す性分で、諦めたことは一度もない、医者からは良くなると言われたが、たとえ駄目だと言われても「見ていろ、やってみせる」と返しただろう、というのが彼の説明である。
『Trial By Fire: Live in Leningrad』はレニングラードSKKスタジアムで録音された。BLABBERMOUTH.NETによれば、参加したのはジョー・リン・ターナー(ヴォーカル)、イェンス・ヨハンソン(キーボード)、アンダース・ヨハンソン(ドラムス)、バリー・ダナウェイ(ベース)で、ショウの締めくくりはジミ・ヘンドリックスの「Spanish Castle Magic」だった。
『Eclipse』と『Fire & Ice』では、スタジオでの作り方がまるで違っていたという。この2作で歌ったヨラン・エドマンがポッドキャストで振り返ったところでは、『Eclipse』のレコーディング中イングヴェイはほとんど現場におらず、エンジニアがプロデュースやハーモニー、コーラスの面倒をかなり見ていた。出来上がった作品をイングヴェイは作り込みすぎだと考え、『Fire & Ice』ではもっと生々しくライブ感のある音にしたいと望んで、今度は自分がその場にいて全体を管理しようとした——というのがエドマンの説明である。
報酬をめぐって、法廷手前まで行ったことがある。エドマンによれば、彼はイングヴェイ在籍時に12曲でクレジットを得ていたが、契約書があったにもかかわらず支払いがなく、提訴も辞さないと通告する必要があった。スウェーデンの音楽関係の組合に入っていたため弁護士費用は組合が負担し、支払いに至るまでにはおよそ3年を要したという。
この協奏曲を、彼は自ら頂点と位置づけている。Classic Rockの記事は、1998年の『Concerto Suite for Electric Guitar and Orchestra』を彼自身が語る到達点と紹介し、熱心なディープ・パープル・ファンである彼が、ジョン・ロードの『Concerto For Group And Orchestra』の構想を発展させながら、クラシックの素養とメタルの成熟を合流させたものだと書いている。
コージー・パウエルを自分のスタジオに迎えた感慨を、彼はこう語っている。人生で初めて観たコンサートが12歳のときのレインボーで、そこにはディオ、ブラックモア、そしてパウエルがいた。『Rising』でのツーバス・プレイは圧倒的だった。その本人が自分のスタジオで録音している——技術的にはイアン・ペイスが怪物だが、コージーには別のものがあり、まるで貨物列車のようだった、というのが彼の評である。
『Alchemy』の現場で、彼は歌のことを本気で相談していたらしい。4作で彼と歌ったマーク・ボールズがポッドキャストで語ったところによれば、1999年のこの作品を録っていたときイングヴェイは彼のところへ来て、ボイス・レッスンを8年間受けているのに何が悪いのかと尋ねた。ボールズは何と答えればいいか分からなかったが、彼が本気で努力しているのは確かだと述べている。
『Attack!!』は、書かれた曲のうち3分の1近くが落とされている。2002年6月のBLABBERMOUTH.NETによれば、当時この作品のために約19曲が書かれ、最終的にCDに入る見込みは14曲だった。プロデュースはイングヴェイ自身、エンジニアはトム・フレッチャーで、作業はマイアミで行われている。「静かなギター・バラード、ステロイドを打ったバッハとでも呼べそうなクラシック調の曲、大きなコーラスを持つキャッチーな曲、『Seventh Sign』や『Pyramid Of Cheops』の系譜にある大作」と、収録候補の幅の広さを彼自身が説明していた。
2003年、彼はジョー・サトリアーニ、スティーヴ・ヴァイとG3ツアーを回った。BLABBERMOUTH.NETが2003年8月に伝えたところでは、G3 '03は10月初旬に始まり、当時発表されていた唯一の日程は10月11日カリフォルニア州サンディエゴのHumphrey's By The Bay公演だった。日本のレーベルの公式バイオによれば、このときのイングヴェイのオール・インストゥルメンタル編成は『Attack!!』時のバンドからシンガーを抜いたものだった。
『Unleash the Fury』は2005年7月26日にスピットファイア・レコードから店頭に並んだ。BLABBERMOUTH.NETによれば、この作品と『Concerto Suite for Electric Guitar and Orchestra』のDVDを携えた全米ツアーを終えたのち、彼は2006年12月にスカンジナビア・ツアーへ向かう予定になっていた。同記事は、2006年7月にマイアミのスタジオでパトリック・ヨハンソンと次作のデモ録音に入り、ドゥギー・ホワイトが再びヴォーカルを担当する見込みだとも伝えている。
『Perpetual Flame』は、彼が自分のレーベルから出した最初の作品である。BLABBERMOUTH.NETによれば、この作品は2008年10月14日にライジング・フォース・レコードからリリースされた。
『Perpetual Flame』のために録音された曲は39曲にのぼる。Guitar World誌に語ったところでは、彼はこの作品のラインナップを自身最強と位置づけていた。ティム・"リッパー"・オーウェンズ(ヴォーカル)、ビョーン・エングレン(ベース)、マイケル・トロイ(キーボード)、パトリック・ヨハンソン(ドラムス)という編成で、弦楽器はイスタンブールから調達し、ドラムはこれまで聴いた中で最も重いと語っている。
2010年代の彼のアルバムが全米でどれだけ売れていたかは、数字が残っている。BLABBERMOUTH.NETによれば、2010年11月22日にライジング・フォース・レコードから出た『Relentless』は初週に全米で約1,600枚を売り、2008年10月の『Perpetual Flame』は約2,000枚で始まった(ニールセン・サウンドスキャン調べ)。『Relentless』は60分を超える新曲を収め、『Perpetual Flame』に続いてティム・"リッパー"・オーウェンズが歌っている。
2009年、彼はバラードだけを集めたアコースティック作品を出している。BLABBERMOUTH.NETによれば『Angels Of Love』は全編インストゥルメンタルで、自作のバラードをアコースティック・ギターと弦・コーラスのアレンジのみで組み直したもので、新曲も1曲含まれる。収録曲には「Forever One」「Like An Angel」「Brothers」「Memories」などが並び、北米では2009年3月10日にライジング・フォース・レコードから発売される見込みと伝えられた。
2011年8月6日、彼はメジャーリーグの試合で国歌を演奏し、始球式も務めた。BLABBERMOUTH.NETによれば、舞台はフロリダ・マーリンズがセントルイス・カージナルスを迎えたホーム・ゲームだった。
2011年2月3日、彼はアメリカの深夜番組でハウス・バンドと共演している。BLABBERMOUTH.NETによれば、NBCの『Late Night With Jimmy Fallon』でザ・ルーツと一緒に演奏し、番組を通していくつもの曲に加わった。
『Spellbound』は2012年12月5日にリリースされた。BLABBERMOUTH.NETが伝えた収録曲は「Spellbound」「High Compression Figure」「Let Sleeping Dog Lie」「Repent」「Majestic 12 Suite 1,2 & 3」「Electric Duet」「Nasca Lines」「Poisoned Mind」「God Of War」「Iron Blues」「Turbo Amadeus」「From A Thousand Cuts」の12曲である。
2015年、彼はギター演奏そのものから視覚作品を作る試みに参加した。BLABBERMOUTH.NETによれば、同年6月18日に発表された彼の初のファイン・アート・コレクションは、ロサンゼルスを拠点とするアート・チームSceneFourとの共同制作で、ギターのパフォーマンスを通じて視覚芸術を作るという新しい手法によるものだった。同記事はまた、2012年の『Spellbound』にちなむライブ盤『Spellbound Live In Tampa』とライブDVD『Spellbound Live In Orlando』が、連日行われた2公演を収めて2014年9月17日に発売されたことも伝えている。
自宅のスタジオが、彼の作り方を変えている。オーストラリアのラジオ局3D Radioに語ったところでは、彼のレコーディング・スタジオは自宅にあり、しかも簡易な宅録設備ではない本格的なスタジオである。そこに入って出てきた音が気に入れば使い、気に入らなければ使わない。以前はデモを作り、バンドとリハーサルし、スタジオを借りて録音する、という段階を踏んでいたため、実際に録音される頃には自発性が失われていたと述べている。
『World On Fire』は、ツアーの合間に2年かけて作られた。Louderが2016年5月に伝えたところでは、6月1日にリリースされたこの作品について彼は、2年間ツアーとレコーディングを交互に続けたと語り、その方がむしろ良いと述べている。以前は曲を書き、ミュージシャンとリハーサルし、バックトラックを録り、録音してミックスし、ツアーで演奏するために曲を覚え直して、また同じことを繰り返す——という手順だったが、それは最良の音楽を作るのに必ずしも適していない、というのが彼の説明である。スタジオは24時間いつでも開いていて、書きたいときに書き、録りたいときに録れると語っている。
ジェネレーション・アックスの2016年の遠征は、27公演で7万人以上を集めた。BLABBERMOUTH.NETによれば、スティーヴ・ヴァイ、ザック・ワイルド、ヌーノ・ベッテンコート、トーシン・アバシと組んだこのツアーは、その後の『World On Fire』全米ヘッドライン・ツアーに先立つ、彼にとって前回の全米公演にあたる。
共演から得たものを尋ねられた彼が、比較的すんなり挙げたのがジェネレーション・アックスだった。Classic Rockのインタビューによれば、2016年以降のスティーヴ・ヴァイ率いるこのギター集団での3度のツアーは彼にとって心地よい時間で、バスで一緒に過ごすのは実にいい気分だと語っている。前年にはヴァイの編曲による「Bohemian Rhapsody」をこの「ギター・オーケストラ」の一員として演奏しており、これを規律の面白い試験だったと表現した。
「Foxey Lady」を、彼はカバーとは呼ばない。Classic Rockのトラック解説では、この曲はずっと好きだったので取り上げたが、自分はこれをカバーとは呼ばず「解釈」であり、よりクラシック的に言えばジミ・ヘンドリックスの「変奏」だと述べている。
「Demon's Eye」を選んだのは、子供の頃に打ちのめされた曲だからである。Classic Rockのトラック解説によれば、彼が子供の頃に手に入れたディープ・パープルの『Fireball』は常に過小評価されていると考えており、その中でも特にやられたのがこの曲だった。ただし今の自分のスタイルはリッチー・ブラックモアの影響下にはない、と彼はここでも念を押している。
ZZ TOPの「Blue Jean Blues」は、最初に決まった曲の一つだった。Classic Rockのトラック解説で彼は、この曲には昔から特別なものを感じていたと述べ、収録曲はギタリストで選んだのではないと明言している。ビリー・ギボンズは素晴らしく本物だと思うが、選んだ理由はあくまで曲だ、というのが彼の説明である。
ヘンドリックスの音を初めて聴いたのは、テレビよりずっと後だった。Classic Rockのトラック解説で彼は、子供の頃にテレビで観たのはギターを壊す姿だけで音楽は聴いておらず、彼の音を初めて聴いたのは誰かが『Band Of Gypsys』を買ってくれたときだったと語っている。彼が現れる前にあれをやった者はいない、彼が皆のために扉をこじ開けたのだ、というのが本人の評である。
ビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」を、彼はそれまで一度も弾いたことがなかった。Classic Rockのトラック解説によれば、ずっと好きだったが弾いたことがなく、興味深いコード進行を持つこの曲がどう仕上がるか聴いてみたかったのだという。ラテン版やジョージ・ハリスン版などいくつものバージョンを聴き比べたうえで、バックトラックを録って一気に弾いたと語っている。
「Sun's Up Top's Down」の歌詞は、マイアミでのフェラーリの話である。Classic Rockのトラック解説で彼は、これは自分の曲で、ブルースと呼べるならブルースの原曲であり、意図的にきわめて伝統的な作りにしてあると述べたうえで、歌詞は自分がマイアミでフェラーリを転がしていることについてだと説明している。
「Paint It Black」については、彼は自分がどの調の曲かも知らなかったと明かしている。Classic Rockのトラック解説によれば、ずっと好きだったが弾いたことも歌ったこともなく、ライブ版を含むいくつものバージョンを研究した。分かってみるとこの曲は自分の得意領域である和声的短音階で書かれていたので、思い切り暴れることができたという。
セッション中、彼は「Smoke On The Water」をドイツ語で呼んでいた。Classic Rockのトラック解説によれば、レコーディングの間ずっとこの曲を「Rauch Auf Dem Wasser」と呼んでいたという。長くライブでやってきた曲だとも述べている。彼が初めて手にしたアルバムは8歳のときのディープ・パープル『Fireball』で、10歳になる頃には『Made In Japan』を隅から隅まで、一音残らず弾けたと語っている。
ブルースへの態度は、10年で反転している。Classic Rockの記事によれば、彼は2008年にジャーナリストのスティーヴン・ローゼンに対してブルースを最も限定された音楽と切り捨てていた。2019年にその発言を向けられた彼は、率直に物を言いすぎて後から撤回することもあると認めつつ、自分が反発したのはペンタトニックの枠であって、バディ・ガイやB.B.キング、アンガス・ヤング、ビリー・ギボンズは尊敬していると述べた。B.B.キングの一音には途方もない意味があるので「愚か」という言葉は当たらない、当たるのは「限定的」だ、というのが彼の言い直しである。
彼はステージで毎晩アルビノーニの「アダージョ ト短調」を弾いている。Classic Rockのインタビューで本人が挙げた例で、クラシックの曲でありながらブルースの感覚で弾いている、という文脈で語られたものである。ブルースとは表現なのかペンタトニック・スケールなのか、自分は表現だと思う——というのが彼の立てた問いだった。
自己中心的だという評価は誤解だ、と彼は言う。2019年に『MusicRadar』へ語った内容をBARKSが伝えたところによれば、彼は自分を一点集中型の人間だと説明し、自分の創作の手順はロックンロール・ミュージシャンのそれとは違う、バンドもなければバンドにいるわけでもないと述べた。むしろ画家に近い、部屋にこもって一人で描き続け、すべてを自分で描いて額に入れ、「これが俺の絵だ」と外へ持ち出す、そこには誰の絵筆も近づけさせない——それを自己中心的と考える人もいるかもしれないが、それがアーティストというものだ、というのが彼の説明である。
『Parabellum』のジャケットに使われた肖像画には、画家の名前が残っている。BLABBERMOUTH.NETによれば、この印象的な肖像を描いたのはデヴィッド・ベネガスである。アルバムはCD、赤の透明レコード、デジタルで発売された。
『Parabellum』で彼自身が難物と認めた曲が2つある。Loudwireのインタビューによれば、タイトル曲と「Presto Vivace in C# Minor」は演奏がきわめて難しい。彼は普段、あえて難しいものを作ろうとはしないが、この作品ではそれをやったと述べている。一方で「Eternal Bliss」のような、ギター中心ではなく曲そのものである作品を書けたことにも満足しており、自分は両方やるのだと語っている。
彼のソロは、録音であっても即興である。Loudwireのインタビューで語ったところによれば、ステージでもスタジオでもソロは即興で、テープが回っている状態でその場で何かを出さなければならず、しかもそれが永遠に残るという点でスタジオの方が難しい。ライブは一度きりの出来事だが、レコードは永遠だ、というのが彼の説明である。
コロナ禍の1年を、彼はまるごと作曲と録音に充てた。2021年3月にSiriusXMの番組で語ったところでは、丸1年をこの作品に費やしており、ライブをやりたかったが何が起きたかは皆が知っているとおりだ、と述べている。出来上がった作品については、皆が知っているクラシカルなマルムスティーンでありながら、これまでより速く、あらゆる要素が増えていて、ブルースのような方向転換は無いと説明した。ヴォーカルは再び自身が全て担い、収録曲のうち歌の入るのは4曲だけである。
大阪公演では、東京公演に無かった曲が1曲追加されていた。BARKSのライブ・レポートによれば、大阪ではデビュー作『Rising Force』からさらに「As Above, So Below」がセットに入っていた。同レポートは、リハーサルでも日本3公演目にもかかわらずメンバーと曲のカウントやセットの流れを綿密に打ち合わせていたと伝えている。
ライブについての彼の考え方は単純である。『Tokyo Live』に寄せた言葉では、人の前で演奏することこそが本質で、危険を冒さなければならず後から直すこともできないから刺激的なのだ、と述べている。
2023年6月に60歳を迎えた彼は、その節目をあまり大きく感じなかったと語っている。Classic Rockのインタビューによれば、大きな区切りだから本来はそう感じるべきなのだろうが実際はそうでもなく、25歳の頃より今の方が体調は良い、酒も薬も一切やらず、驚くほど健康で気分も素晴らしい、というのが本人の答えだった。
彼の自伝は『Relentless: The Memoir』という題で2013年に出ている。Classic Rockのインタビューでは、クラシック作品、ブルース・カバー集、カバー・アルバムを作ってきた、と話を振られた彼が「本を忘れているぞ」と割り込み、他の本は読むなと付け加えた。彼の名を冠した本には、彼自身が書いていないものもあるという含みである。
彼はオンラインの教則コースも持っている。Classic Rockのインタビューによれば、「Maestroclass」と名づけられたこの講座では左右の手をそれぞれ近接カメラで捉え、タブ譜が付き、必要なら再生速度を落とせる。あらゆる技量の人に向けたもので、自分がなぜそうするのか、どうやるのかをよく喋ると本人は説明している。
40年前の曲を毎晩違う弾き方で演奏することを、彼は自分に課している。Classic Rockのインタビューでこれから何をやり残しているかと問われた彼は、特に何も無いとしたうえで、毎晩ステージで40年前に書いた曲を演奏し、それを違う弾き方でやるという挑戦を自分に課していると答えた。自分はジュークボックスではない、それが面白さの源で、ギターを繋ぐたびにいまだに新鮮に感じる、というのが彼の言葉である。
スタジオでソロが決まらないとき、彼は粘らない。Classic Rock Revisitedに語ったところでは、ソロを録りに入ってすぐに出てこなければ、そこで切り上げて出て行く。何度もテイクを重ねることはせず、出るか出ないかのどちらかだという。ステージでは客から得るもので集中が保たれるので、ツアー・バスで音楽を聴くこともしない。オートパイロットに切り替えることはいつでもできるが、それは自分にとって本物ではないから、というのが理由である。
作品の方向をあらかじめ決めない、というのが彼のやり方である。2026年のインタビューで語ったところによれば、自分のスタジオを持っているという贅沢があるので、インスピレーションが湧いたときに入る。ブルース・アルバムを作る、アコースティック作品を作る、と決めて臨んだことはあるが、通常の「イングヴェイ・マルムスティーンのアルバム」を作るときは流れに任せる。100くらいのアイデアを出し、そこから9曲か10曲、最もドラマティックで面白いと思うものを採る、というやり方だと述べている。パガニーニの「強く感じなければ人を強く感じさせられない」という言葉を引き、自分は音楽に強く感じているのでそれが伝わるのだろうと語った。
グラハム・ボネットとの関係は、後年になって修復されている。2014年にLouderが伝えたところでは、ボネットはMetal Rulesに対し、悪い時期もあったが今は改まって悪感情は消え、また友人になったと語った。ボネットの見立てでは、当時のイングヴェイは19歳の若者で、皆が自分を好いていることが分かっていた。彼が偉大なギタリストだからバンドを離れたのだ、というのがボネットの説明である。二人はイングヴェイが1984年にアルカトラスを離れるまで一緒にやっていた。
『War to End All Wars』はスピットファイア・レコードから14曲入りで出ている。BLABBERMOUTH.NETのレビューが載せた収録曲は「Prophet Of Doom」「Crucify」「Bad Reputation」「Catch 22」「Masquerade」「Arpegios From Hell」「Miracle Of Life」「Wizard」「Prelude」「Wild One」「Tarot」「Instrumental Institution」「War To End All Wars」「Black Sheep Of The Family」の順である。
新作のインストゥルメンタル2曲は、科学の話題から名前を採っている。BLABBERMOUTH.NETによれば、『Hell Or High Water』収録の「Antikythera」と「Beyond Zeta Reticuli」は、いずれも重要な科学的発見や到達にちなんで名づけられた。同記事は、「(On The) Battlefield」と「Eye For An Eye」に彼のこれまでで最も強いヴォーカルが入っているとも書いている。
ティム・"リッパー"・オーウェンズとの最初の共演は、彼のバンドに入る前だった。BLABBERMOUTH.NETによれば、二人はオジー・オズボーンのトリビュート盤『Flying High Again: The World's Greatest Tribute to Ozzy Osbourne』(2006年3月、Magick Records)で「Mr. Crowley」のカバーを一緒に録っている。オーウェンズが彼のバンドの新ラインナップに名を連ねたのは、その2年後の2008年2月だった。
リクエストで作ったアルバムは1枚だけだ、と彼は言う。58歳の誕生日に行ったYouTubeのライブ配信で、昔のような作品を作る気はあるかと問われた彼は、多くの人が自分の音楽を好んでくれるのは光栄だが、好まない人も大勢いることは分かっている、だからリクエストでアルバムを作ることはしない、と答えた。ただし2019年の『Blue Lightning』だけは少しリクエストに近かった、それでも結局は自分のやりたいようにやったが——というのが彼の但し書きである。『Parabellum』については、自分から出てきたものそのままの、非常に正直な作品だと述べ、昔を思い出させると言う人がいるがそれは意図したものではないと語った。