TYGERS OF PAN TANG トリビア 全47件

TYGERS OF PAN TANGにまつわる事実を、出典付きで47件掲載しています。

Trivia

日本語表記は一つに定まっていない。タワーレコード、ディスクユニオン、HMV、BARKS、ユニバーサル ミュージックストアはいずれも「タイガース・オブ・パンタン」と書くが、現在の国内レーベルであるマーキー・インコーポレイティド(アヴァロン)は自社の商品情報で「タイガーズ・オブ・パンタン」と表記している。Amazon.co.jpで、アーティスト名は「タイガース」なのに商品名が「タイガーズ」になっているのはそのためである。

異説あり出典: TOWER RECORDS ONLINE(アーティストページ)

『The Cage』の成功は日本公演につながった。ロッキー・ロウズは「『The Cage』は商業的に成功し、我々のいちばん大きなアルバムになった。そして日本へ行った」と述べている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

英国オフィシャル・チャートに残る成績は、『Wild Cat』が18位で5週、『Spellbound』が33位で4週、『Crazy Nights』が51位で3週、そして『The Cage』が13位で8週。シングルでは「Hellbound」が48位で3週、「Rendezvous」が49位で4週を記録している。最高位を出した『The Cage』が、同時にバンドを解散へ追い込んだ作品でもあった。

出典: Official Charts Company(アーティスト・チャート記録)

現在のヴォーカリスト、ヤコポ“ジャック”メイルの採用は速かった。ロブ・ウィアーの説明によれば、メイルは2004年か2005年にイングランド北東部のニューカッスル・アポン・タインまでオーディションに来た。最初に歌ったのは「Hellbound」で、45秒でウィアーは聴くのをやめ、その場にいた全員を見回して「みんな、これでいいか」と言ったという。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ロブ・ウィアー インタビュー/聞き手ペドロ・アロンソ)

2021年11月、バンドはグレート・ヤーマスで開かれた Hard Rock Hell Awards で NWOBHM 部門を受賞した。受け取ったのはロブ・ウィアーである。公式サイトがこの件で特筆しているのは受賞そのものよりも、旧メンバーであるジョン・サイクスとジョン・デヴェリルから祝いの言葉が届いたことのほうだった。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

2019年の『Ritual』を録音したトリニティ・ハイツ・スタジオは、フレッド・パーサーの持ち物である。1982年にジョン・サイクスの後任として加入し『The Cage』を弾いたその人が、37年後に同じバンドの録音でエンジニアを務めたことになる。プロデュースはバンド自身、ミックスはソーレン・アンダーセンが担当した。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

デビュー・シングル「Don't Touch Me There」は、40周年にあたる2019年に録り直されている。この再録音にはロブ・ウィアー、当時のギタリストであるミッキー・クリスタル、元メンバーでありプロデューサーでもあるフレッド・パーサー、そしてプロデューサーのソーレン・アンダーセンがそれぞれソロを寄せた。発表されたのは12インチ「White Lines」のB面としてである。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

デンマークのマイティ・ミュージック/ターゲット・グループとの長い関係は、偶然から始まった。ロブ・ウィアーによれば、ローマのジェイルブレイクで演奏している最中に客席へ目をやると、1970年代終わりのタイガースの旧マネージャーが立っていたのだという。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

2022年のEP『A New Heartbeat』のジャケットをデザインしたのは、ドラマーのクレイグ・エリスである。エリスはバンドの映像も手掛けており、2024年のライヴ盤に先行したシングル「Gangland」のビデオも彼の制作による。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

2024年のライヴ盤『Live Blood』は、ウェールズのクラムリンにあるザ・パトリオット・クラブで前年に録音された。バンド自身は本作を「各年代の曲を収めた」ものと説明している。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

2024年末の『Animal Instinct』再発は、マルコ・アンジオーニによる新しいリミックスとアンディ・ピルキントンによる新しいジャケットを伴っていた。公式サイトは、その反響が予想を超えて好意的だったと述べている。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

ギタリストのジョン・フーティットの加入は2026年1月19日に発表された。公式サイトの告知は短く、今年は路上で、そして年内に出る新しいアルバムで彼を聴くことになる、と述べている。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式サイト(ニュース)

2026年のアルバム『Electrifyed』でヴォーカルのジャック・メイルが挙げている合言葉は、「ヘヴィであればあるほどいい」だった。プロデュースはマルコ・アンジオーニ、ジャケットは Very Metal Art のアンディ・ピルキントンによるもので、本作はジョン・フーティットにとってバンドでの初のスタジオ録音にあたる。

出典: TYGERS OF PAN TANG 公式 Bandcamp

バンド名を持ち込んだのは初代ベーシストのリチャード“ロッキー”ロウズである。創設ドラマーのブライアン・ディックは、ロッキーがマイケル・ムアコックのSF小説『ストームブリンガー』から取ってきたのだと明かしている。ロブ・ウィアーの説明はもう少し具体的で、皇帝の領地へ至るにはパン・タンの断崖を越えねばならず、そこを守っているのが番犬ではなく皇帝の虎だった、というくだりが出どころだという。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

最初に歌っていたのはジェス・コックスではない。初代ベーシストのロッキー・ロウズによれば、曲を書き始めた三人が探して見つけた歌い手はマーク・ブッチャーという男で、彼とは25本ほどのライヴをこなしたという。ブッチャーが去って少し間が空き、また集まったところでジェス・コックスが加わった。多くの紹介記事がコックスを創設メンバーとして扱うが、当人たちの説明はそうなっていない。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

初ライヴはダラムの Coach and Eight。ブライアン・ディックの記憶によれば、客はたった一人だった。演目にはテッド・ニュージェントの「Cat Scratch Fever」やラッシュの「Bastille Day」、モーターヘッドのカヴァーが混じっていたという。ディックはこの夜をもう一つの理由でも覚えている——バス・ドラムをケースに戻すときに、ネズミを真っ二つにしてしまったのである。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

三人が出会った場所はライヴハウスではなく、ニューカッスル・ポリテクニックだった。ブライアン・ディックはAレベルの頃、毎週金曜にそこへ通っており、上階でヘヴィメタルのDJ枠を持っていたロッキー・ロウズと知り合う。ロウズがベースを弾き、しかも同じホイットリー・ベイの近所に住んでいると分かって、二人はロウズの実家のガレージで、彼の友人だったロブ・ウィアーと音を出し始めた。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

ロッキー・ロウズがベースを手に取った理由は、ホークウィンドの『Space Ritual』を貰い、レミーの演奏、とりわけ「Lord of Light」を聴いたことだったという。それ以前に貰った安物のアコースティック・ギターでは、教えてくれる人も弾きたい曲もなく続かなかった。ロウズはまた、ロブ・ウィアーとは最初バンドを組んだのではなく、ウィアーのパンク・バンド Trick のローディーから始めたとも述べている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

1970年代終わりのニューカッスルに、メタルのシーンと呼べるものは無かった。ロッキー・ロウズが当時の地元のメタル・バンドとして挙げるのは三組だけで、まだ「athletic rock」と呼ばれる前のレイヴン、のちにフィストになるアックス、そしてファストブリーダー——後者は、のちにデュラン・デュランへ移るアンディ・テイラーがギターを弾いていたことで知られる。ロウズによれば、この三組とタイガースを分けていたのは、他がパンク以前から居たのに対し、自分たちはパンクのただ中で始まりその影響を強く受けていたことだった。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

レコード契約前の彼らを支えたのは、パブとCIU(労働者クラブ)の巡業だった。クラブでは1時間のセットを二回演奏する決まりで、そのぶん持ち曲が要る。ロッキー・ロウズが挙げるカヴァーはAC/DC、テッド・ニュージェント、モーターヘッド、ステイタス・クォー、ZZトップ。サンダーランドのボイラーメイカーズでは客が拍手をしないので有名で、それでもアンコールは期待された——現地でそれは「false tap」と呼ばれ、まだ生きているなら気に入られたのだろう、という理屈だったという。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

ニート・レコーズのデイヴィッド・ウッドが彼らを見つけたのは、ホイットリー・ベイ・ハイスクールでの公演だった。ウッドの子どもがその学校に通っていたのである。ロッキー・ロウズは、学校で演奏したのはパブやクラブに入れない年齢の客に届けるためで、学齢期のファン層を持てたことが最初のシングルの売り上げを助けたはずだ、と振り返っている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

MCAとの契約は、活字の誤りから転がり出たものだった。ロッキー・ロウズによれば、契約前で最大の地元公演はニューカッスルのメイフェア・ボールルームでのヘッドライナーで、技術的な問題が続出したうえ本人は緊張から泥酔して立っているのがやっとという有様だったという。それでも1,500人を集めた。この数字が業界誌 Music Week で15,000人と誤って報じられ、その記事の結果としてMCAレコーズとの契約が決まった。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

彼らの最初のスタジオ入りは、作品を作るためではなく安く時間を借りるためだった。ロッキー・ロウズによれば、ウォールセンドのインパルス・スタジオでの初セッションはデイヴィッド・ウッドの発案で、Vitavox Live Sound Awards というコンテストへの応募作品という名目で3曲を録ったもので、そうすれば studio time が安くついた。コンテスト自体は本気にしておらず応募用紙には偽名を書いたのだが、実際に演奏しに行く羽目になり、そして優勝してしまったという。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

編集盤『First Kill』の中身は、作り込まれたデモではない。ロッキー・ロウズによれば、インパルス・スタジオでのセッションのひとつは自分たちのライヴ・セットをそのまま記録するためのもので、止めずに頭から通して演奏し、オーヴァーダブは一切していない。彼はこの音源について、当時の自分たちが実際にどう鳴っていたかのかなり正確な例になっている、と述べている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

インパルス・スタジオでシングルを録っていた頃、そこの下働きの若いスタッフの一人がヴェノムのクロノスだった——と、ブライアン・ディックは回想している。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

デビュー作がロンドンで録音されたのは、プロデューサーが地元のスタジオを断ったからである。ロッキー・ロウズによれば、ニートは自社のインパルス・スタジオで1作目を作らせたがったが、クリス・ツァンガリデスが下見に来て「ここでは仕事ができない」と言い、自分の慣れた部屋であるロンドンのモーガン・スタジオを使うことにした。『Wild Cat』と『Spellbound』はどちらもそこで作られている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

『Spellbound』のデモは、ダラムのガーディアン・スタジオで録られた。ロッキー・ロウズによれば、この時が新加入のヴォーカリスト、ジョン・デヴェリルと新ギタリストのジョン・サイクスを迎えて初めての録音で、家に帰ってデモを聴き返した彼は、この編成がどれほど良く鳴っているか信じられなかったという。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

最初の2作に自己陶酔の余地は無かった。ロッキー・ロウズによれば『Wild Cat』も『Spellbound』も数週間で仕上げられており、ギター、ベース、ドラムスは数テイクで録り、その上にギターのオーヴァーダブと歌を重ねるという手順だった。それでもいくらかの遊びは入れられたようで、ロウズは当時ラッシュに傾倒していたこともあり、ケトルドラムやベース・シンセのペダルを加えたと語っている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

1981年にノッティンガムのロック・シティで録られたライヴ音源は、20年ほど眠ったままだった。ロッキー・ロウズは、ジョン・サイクスがこれを聴いて使い物にならないと言ったため忘れ去られたのだと述べ、理由は今も分からないとしている。そのうえで、あの時点で発表されていればバンドの経歴は大きく違っていたはずだ、と語る。代わりに彼らは、準備の整わないまま『Crazy Nights』を作ることになった。この音源は2001年に『Live At Nottingham Rock City, England '81』として世に出ている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

『Crazy Nights』が急ごしらえだったことは、当人たちも隠していない。ロッキー・ロウズの説明では、デモを作らずスタジオに入り、かなりの部分がその場で書かれた。録音はベースとドラムスにガイド・ギターを重ねる形で始まったが、歌詞はまだ無くコード進行かリフしかない状態だったため、基本トラックを録る時点で誰も曲を聴いたことがなかったという。オーヴァーダブもコーラスもほとんど入っていない。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

『Crazy Nights』でクリス・ツァンガリデスが外れた理由の一つは、金銭ではなくクレジットだった。ロッキー・ロウズは、単に変化が欲しかったこともあるとしながら、ツァンガリデスが『Spellbound』の一曲に作曲クレジットを求めたことが自分たちを苛立たせたのだと述べている。後任にはゲイリー・ムーアの推薦でデニス・マッケイを迎えたが、ロウズはこれをバンドにまったく合わなかったと振り返る。マッケイは同時期にアメリカでスタンリー・クラークの作品を手掛けており、行き来しながらの作業だったという。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

『Crazy Nights』の録音場所には、少々変わった二か所が含まれている。ロッキー・ロウズによれば、一部はロンドンのトライデント・スタジオで録られ、そこは直後に閉鎖された——自分たちのせいではないと思う、と彼は付け加えている。歌はテムズ川に浮かぶヴァージンの船上スタジオで録音された。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

『The Cage』でプロデューサーに迎えられたピーター・コリンズは、それまでロックを手掛けたことがなかった。ロッキー・ロウズは、コリンズがリハーサルに来て、狭い空間で大音量のロック・ギターを初めて聴いた経験が信じられないと言っていたと振り返る。その経験は悪くなかったらしく、コリンズはこののちラッシュをはじめ多くのロック・バンドを手掛けることになった。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

バンド最大のシングルとなったカヴァー「Love Potion No. 9」を持ち込んだのは、バンドでもプロデューサーでもなかった。ロッキー・ロウズによれば、これを提案したのはピーター・コリンズのマネージャーだったピート・ウォーターマン——のちにストック・エイトキン・ウォーターマンの一角としてカイリー・ミノーグらを手掛ける、あのウォーターマンである。この曲はジョン・サイクスがまだ在籍していた時期に、コリンズとの最初のセッションとして録音された。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

ジョン・サイクスがバンドを去ったのは1982年、ランディ・ローズの死後にオジー・オズボーンのバンドのオーディションを受けるためだった。ロッキー・ロウズは短く記録している——サイクスはその職を得られず、戻りたいと言ってきたが、自分たちは断って後任を探した。その後任がフレッド・パーサーで、当初は予約済みのフランス公演をこなすための臨時要員のはずだったが、うまく噛み合ったのでそのまま正式加入となった。パーサーは地元のパンク・バンド、ペネトレイションにいた人物である。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

レディング・フェスティヴァルには2度出演している。ブライアン・ディックによれば1980年と1982年で、最初の出番は昼間でひどく神経を使うものだった——缶や小銭が飛んでくるのが見えたという。2度目はまったく違い、アイアン・メイデンの前、その日の最後から2番目という位置で、暗くなってからの演奏だった。ディックは何年もあとにBBCの1982年の録音をラジオ6で聴き、その出来に自分でも驚いたと述べ、キャリアの頂点のひとつだと呼んでいる。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

『The Cage』のツアーでニューカッスル・メイフェアに戻ったのは1982年9月3日で、前座はタイタン、チケットは3ポンドだった。ブライアン・ディックはこの夜を三つの理由で覚えている。ロックスターらしくバスで街まで出たこと、公演後に当時の恋人が事故で気を失って数時間を救急外来で過ごしたこと、そして父親が初めて自分たちを観に来たこと。安定した職を捨てたことをまだ残念がっていた父も、この夜のあとには理由が分かったようだった、と彼は書いている。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

ブライアン・ディックがタイガースに入るために辞めた「安定した職」とは、タイン・アンド・ウィア州議会のコンピュータ・オペレーターだった。彼はニート・レコーズでの録音が契約と出版契約、全国規模の公演、そして初めての海外渡航につながったと振り返っている。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

初めての前座仕事はアイアン・メイデンだった。ロッキー・ロウズによれば、ロンドンのマーキーで2晩。バンドにとって遠出しての演奏も、彼自身にとってロンドンへ行くことも、これが初めてだったという。会場は満員で、ロウズは「メイデンは信じられないほど良く、大きくなると分かった」と述べている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

初の全国ツアーはマグナムの前座としてのものだったが、力関係はのちに逆転する。ロッキー・ロウズは、後年マグナムが自分たちのUKツアーをサポートすることになり、あまり喜んでいなかったと書き添えている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

サクソンとのツアーで彼らがよくしてもらったのには、前段がある。ロッキー・ロウズによれば、サクソンが同じ立場だった頃にモーターヘッドが彼らによくしてくれたからだという。ロウズにとってサクソンはNWOBHMで一番好きなバンドで、ツアー中は面白半分にスモークマシンやドライアイス発生器、スポットライトの操作を手伝っていたと語っている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

スコーピオンズの前座は、危うくクビになりかけた仕事だった。ロッキー・ロウズによれば、自分たちは大会場に慣れておらず最初の何本かでスコーピオンズを感心させられず、ツアーから外される寸前だったという。グラスゴーでの猛烈な一夜がそれを覆し、以後は問題なくなった。ロウズは、スコーピオンズが何もかもを非常に専門的にこなすのを見て多くを学んだとも述べている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

ブライアン・ディックが好きな一枚を訊かれて挙げるのは、「文句なしに」『Spellbound』である。彼の挙げる愛着のある曲は「Gangland」と「Hellbound」で、ライヴでやるとテンポが振り切れる、と付け加えている。もう二曲、彼が即座に思い出すのは「Life of Crime」と「Stormlands」——どちらもB面で、どちらも5分で録音され、まともなプロダクションは無いという。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

ブライアン・ディックにとってバンドは、劇的にではなく自然に終わった。彼は「1987年の秋ごろ、ヨーロッパ本土での最後の一連の公演のあと、タイガースは自分にとって自然な終わりを迎えた」と述べている。ディックは6枚のスタジオ作で叩いている。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

タイガースを離れたあとのブライアン・ディックは、サージェントというバンドにいた。ギターはスティーヴ・ラム——のちに『Burning In The Shade』で弾くことになる人物である。ディックによれば、サージェントはそのツアーでアクセプトの前座を務めており、彼はハマースミス・オデオンでのヴォーカリスト、トニー・リドルをよく覚えている。本番に近すぎる時間に食事をとったリドルはステージで吐き、「ロックンロール」と叫び、客席は総立ちになったという。

出典: ALIKIVI(ブライアン・ディックへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

ニート・レコーズ時代の音源はすべてスティーヴ・トンプソンがプロデュースしている。ロッキー・ロウズはトンプソンについて、これほど音楽を知らないバンドと仕事をしたことは無かっただろう、自分たちは全員でスケール一つ弾けなかったのだから、と振り返っている。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)

彼らがNWOBHMという言葉を初めて目にしたのは、サウンズ誌のジェフ・バートンの記事だった。ロッキー・ロウズによれば、同誌がデフ・レパードとアイアン・メイデンを取り上げたあと、バンドのマネージャーが「ニューカッスルにも同じようなバンドがいる」とテープを送り、翌週の特集に載った。そこから状況が動き始めたという。

出典: ALIKIVI(リチャード“ロッキー”ロウズへのインタビュー、聞き手ゲイリー・アリキヴィ)