TOTO トリビア 全128件
TOTOにまつわる事実を、出典付きで128件掲載しています。
Trivia
TOTOが初めて日本の舞台に立ったのは1980年3月、『ハイドラ』を携えたツアーの一環としてだった。3月2日から13日にかけて全国4都市を回り、公演数は10本。うち3本が東京・中野サンプラザで、同じ会場に3日続けて立つ規模の呼ばれ方をデビュー2年目でしていたことになる。ソニーミュージックはこの初来日の40周年に合わせて、2020年4月3日にソニー時代の全13作品のハイレゾ配信を開始した。
日本には「TOTOの日」がある。デビュー40周年にあたる2018年、日本記念日協会が10月10日を正式な記念日として認定した。「TOTO=トト」と「10(とお)月10(とお)日」の語呂合わせで、記念日登録証は日本のレーベルからメンバーへ届けられることになっていた。海外のバンドの名前が日本語の数字の読みから記念日になるという、この国でしか成立しない祝われ方である。
「TOTOの日」の認定を伝えるソニーミュージックの記事は、故マイク・ポーカロが生前に残した日本についての言葉を引いている。日本で過ごした時間は自分たちの人生の中でも特に思い出深く、そこで長年かけて育まれた友情はかけがえのないものだ——マイクはそう語っていた。バンドと日本のファンの結びつきが折に触れて語られてきたことを、レーベル自身が記録として残している。
『TOTO IV~聖なる剣』の40周年記念デラックス・エディションは日本独自企画である。SACDマルチ・ハイブリッド盤で、5.1chサラウンド音声は日本初リリース。CD層には日本初CD化となるボーナス・トラック4曲が加わった。この4曲は1981年から82年のセッションで未完のまま残されたアウトテイクに、2018年のルカサーとペイチが追加録音を施して完成させたもので、故ポーカロ兄弟との時間差の共演が含まれている。
同じ日本独自企画の封入特典は、1982年の日本を丸ごと復刻する内容だった。5月17日の日本武道館公演のチケットと告知ポスター、ツアー・パンフレット、初回発売時と再発時のアナログLPの帯、当時封入されていたメンバーのセッション・リスト、そして日本でシングル・カットされた7インチ盤のジャケット全種。40年前に日本盤を買った人の手元にあったものが、そのまま並べ直されている。
デビュー40周年を記念した31枚組ボックス『ALL IN』は、アナログLP17枚(13タイトル)、紙ジャケットCD13枚、ブルーレイ1枚で構成された。日本では200セットの数量限定でSony Music Shopのみの販売となり、同梱の80ページのハードカヴァー・ブックを日本語訳した特製ブックレットが購入特典に付いた。ブルーレイには1990年のパリ公演の映像と、『TOTO IV~聖なる剣』の5.1chサラウンドが収められている。
『ALL IN』の目玉のひとつが『LIVE IN TOKYO』だった。1980年3月の初来日=ハイドラ・ツアーの音源を初めて公式化したもので、2020年4月18日にはレコード・ストア・デイ限定の単独アナログ盤として切り出された。初来日から40年という節目に、その夜の演奏がようやく単体の作品として並んだことになる。
TOTOのオリジナル作品のハイレゾ配信は長くファンの要望が届かないままで、デビュー40周年の2018年にも実現しなかった。道を開いたのは『ALL IN』の制作である。ペイチ、ルカサー、スティーヴ・ポーカロ、ジョセフ・ウィリアムスの4人が、エリオット・シャイナーらとともにソニー時代の全作品をリマスターし直したことが、そのまま2020年の配信開始につながった。
2020年4月の配信開始時、通常配信としても初めて世に出た作品が3つある。初来日公演の公式音源『LIVE IN TOKYO』、ジェフとマイクのポーカロ兄弟が存命だった頃の未完トラックに2018年時点の演奏を重ねた全曲未発表の『OLD IS NEW』、そしてデビュー20周年に編まれた未発表音源集『TOTO XX: 1977-1997』である。『TOTO XX』には、デビュー前にボズ・スキャッグスへ提供したヒット曲「Miss Sun」のTOTO自身によるヴァージョンが初めて姿を見せていた。
ソニーミュージックのプロフィールは、TOTOと日本の関係を輸入の一方通行として書いていない。当時の日本人アーティストの多くがTOTOのサウンドを参照し、実際にメンバーをレコーディングに起用してもいて、それが現在世界的に聴かれているシティ・ポップの音像の形成に大きく作用した——レーベル自身がそう記している。日本側がTOTOから何を受け取ったかを、レーベルの言葉で残した一節である。
2023年のジャパン・ツアーは7月10日の福岡公演で幕を開け、全国8都市8公演を回って21日の日本武道館で千秋楽を迎えた。日本でのライヴは2019年以来4年ぶりで、デビュー45周年のアニヴァーサリー・ツアーでもあった。ドラム、ベース、キーボードに新メンバーを迎えた編成が日本で初めてお披露目された機会にあたる。
2019年のデビュー40周年ジャパン・ツアーに合わせ、日本でしか出ない一冊が編まれた。シンコーミュージック刊『AOR AGE Special Edition TOTO』はA5判232ページで、ルカサーの最新インタビューに加え、1979年から2016年までの発掘インタビュー15本を収録。1979年のジェフ・ポーカロとボビー・キンボール、1982年のポーカロ三兄弟、1985年のファーギー・フレデリクセン同席取材といった、その時々に日本の媒体が押さえていた記録が並ぶ。1980年から2016年までの各ジャパン・ツアーの基本セットリスト付き解説も入っている。
2020年4月末から予定されていたスティーヴ・ルカサー&フレンズの来日公演は、新型コロナウイルスの影響で中止となった。感染拡大前に行われた電話取材で、ルカサーは日本の聴き手を「ファン」と呼ぶのはしっくりこない、友人だと言い、音楽を聴いている二時間だけは嫌なことを忘れられる、それを持って日本へ行きたいのだと語っていた。その公演は行われなかった。
35周年記念ジャパン・ツアーは2014年4月23日の名古屋公演から全国7公演で行われた。ルカサーはBARKSの取材で、この日本公演にはネイザン・イーストがベースで参加すること、そして夏のアメリカ・ツアーではデヴィッド・ハンゲイトが弾くことを明かしている。イーストはクラプトンのバンドやフォープレイのツアーで多忙だったが、その編成で日本に立ちたかったので無理を通したのだという。
ルカサーは2014年のBARKS取材で、TOTOの歩みをローラーコースターに喩えている。上がって下がって目が回るその軌跡を2時間に凝縮したものが日本のライヴになる、と。同じ取材では、「35周年ツアー」と名乗ってはいるが結成からは38年、メンバーと出会ったハイスクール時代まで遡れば41年になるとも述べていた。
2023年の武道館公演で、ルカサーはMCでジェフ、マイク、ジョーのポーカロ三人に捧げると告げてから『Kingdom of Desire』の表題曲を演奏した。ジェフが参加した最後のオリジナル・アルバムの、その表題曲である。開幕は2015年作『TOTO XIV』の5曲目「Orphan」、本編の締めは「Rosanna」から「Africa」、アンコールはビートルズの「With A Little Help From My Friends」だった。
TOTOの母体はボズ・スキャッグス『Silk Degrees』(1976年)のレコーディングに集まった顔ぶれである。ジェフ・ポーカロ(ドラム)、デヴィッド・ペイチ(キーボード)、デヴィッド・ハンゲイト(ベース)の3人に、ジェフの弟スティーヴ・ポーカロ(キーボード)と、そのスティーヴの同級生スティーヴ・ルカサー(ギター)が加わる形でバンドになった。LAのスタジオ・シーンで引く手あまただった若手セッション・ミュージシャンの集団という出自が、そのまま初期作の精度に出ている。
第25回グラミー賞でTOTOは、「Rosanna」で最優秀レコード賞、『Toto IV』で最優秀アルバム賞を受賞した。加えて最優秀プロデューサー賞(ノン・クラシカル)もTOTOに贈られており、公式記録上のクレジットはボビー・キンボール、スティーヴ・ルカサー、デヴィッド・ペイチ、ジェフ・ポーカロ、マイケル・ポーカロ、スティーヴ・ポーカロの6人となっている。
同じ夜、『Toto IV』と「Rosanna」に紐づく賞はさらに3つあった。最優秀編曲賞(インストゥルメンタル&ヴォーカル)がジェリー・ヘイ、デヴィッド・ペイチ、ジェフ・ポーカロに、最優秀ヴォーカル編曲賞(2人以上)がデヴィッド・ペイチに、いずれも「Rosanna」で。そして最優秀エンジニアド・アルバム賞(ノン・クラシカル)が『Toto IV』のトム・ノックス、グレッグ・ラダニー、デヴィッド・レナード、アル・シュミットに贈られている。作品としての受賞は計6つになる。
表彰台でのペイチの一言は、その場を笑わせた。長年ロサンゼルス・タイムズの音楽批評家としてTOTOに冷淡だったロバート・ヒルバーンに向けて、「僕らを信じてくれたことに感謝します」と皮肉を述べたのである。批評家に名指しで言及するグラミーのスピーチは珍しかった。
同じ第25回グラミー賞では、スティーヴ・ルカサーがもう一つ別の賞を手にしている。最優秀R&Bソング賞で、ジョージ・ベンソンのヒット「Turn Your Love Around」の共作者として、ビル・チャンプリン、ジェイ・グレイドンとともに受賞した。TOTOとしての受賞とは別枠の、書き手としての評価である。
とりこぼした賞もある。「Rosanna」はデヴィッド・ペイチを作者として最優秀楽曲賞にノミネートされたが、受賞したのはウェイン・カーソン、ジョニー・クリストファー、マーク・ジェイムズの「Always On My Mind」だった。最優秀アルバム賞で『Toto IV』が破った顔ぶれには、ジョン・メレンキャンプの『American Fool』が含まれている。
グラミー賞公式サイトがTOTOというアーティスト名義に紐づけている数字は、5ノミネート・3受賞である。受賞3つはすべて第25回のもので、残る2つのノミネートは「Rosanna」のポップ・パフォーマンス賞(デュオ/グループ)と、第21回グラミー賞の最優秀新人賞だった。編曲賞やエンジニアリング賞は個人名義で記録されるため、この数字には入らない。
TOTOにとって最初のグラミー賞との接点は受賞ではなくノミネートだった。第21回グラミー賞の最優秀新人賞候補に挙がったが、受賞したのはア・テイスト・オブ・ハニーである。彼らがトロフィーを手にするのは、その4年後の第25回まで待つことになる。
『TOTO IV~聖なる剣』は全世界で1,200万枚以上を売った。バンドにとって初の全米1位シングルとなった「Africa」と、全米2位の「Rosanna」を生んだ作品である。ソニーミュージックはこの数字を、同作の40周年記念盤の告知の中で記している。
公式サイトのバイオが挙げる数字は、その後さらに伸びている。バンドの作品はSpotifyだけで34億回以上再生され、全プラットフォームの合計は50億回に近づいた。中でも「Africa」はSpotify単体で10億回を超え、RIAAによる認定は8xプラチナに再認定されている。2021年時点で6xプラチナだったものが、そこからさらに2段階上がった。
TOTOの数字は、バンド名義の売上だけでは測れない。公式サイトのバイオによれば、メンバー個々の仕事まで含めたファミリー・ツリーは約5,000枚のアルバムに刻まれており、その総売上は5億枚に及ぶ。NARASによるグラミー賞ノミネートも数百に達している。
公式サイトのバイオで、ルカサーとウィリアムスは自分たちを「The Dogz of Oz」と呼んでいる。二人は長い付き合いで、ウィリアムスはルカサーを兄弟のような存在だと述べ、共同作業が互いの人生を豊かにしてきたと語っている。バンド名の由来として語られてきた『オズの魔法使』を、自分たちの呼び名に引き戻した言い方である。
バンドを作った動機は、はっきりしている。彼らはスティーリー・ダン、シールズ&クロフツ、ボズ・スキャッグスらのレコーディングで名を上げた腕利きで、セッション・ミュージシャンとして十分な収入を得ていた。ただし自分たちが演奏している当のアーティストは、それよりはるかに稼いでいた。どうせ同じ現場で一緒に演奏しているのだから、自分たちのバンドを組んで自分たちの音楽を作ればいい——そういう判断だった。
レコード会社を探す必要はなかった。ペイチによれば、セッション仕事を通じて各社の重役とは個人的に面識があり、こちらから電話をかけたことも売り込んだこともない。バンドを組むと口にした途端、向こうから契約を求める電話が次々にかかってきたのだという。ペイチはこの経緯を1979年に英誌サウンズの取材で語っている。
契約が決まった経緯はさらに直接的だった。ペイチ、ジェフ・ポーカロ、ハンゲイトがボズ・スキャッグス『Silk Degrees』に参加し、そのツアー・バンドにスティーヴ・ポーカロとルカサーが合流する。スキャッグスの所属先だったコロムビアが、これが新しいバンドの萌芽であることに気づいて契約を持ちかけた。スティーヴ・ポーカロは、オーディションもなく契約が膝の上に放り込まれたのだと語っている。
メンバーの家庭環境は、当時の批評が「甘やかされた金持ちの子ども」と書いた根拠でもあった。ペイチの父マーティは成功した作編曲家、ポーカロ兄弟の父ジョー・ポーカロは著名なジャズ・ドラマー、ハンゲイトの父は下院議員、ルカサーの父はテレビの助監督。ペイチ自身、父親たちがいくつかのドアを開けてくれたことは認めている。ただし、手渡しで何もかも与えられたわけではなく懸命に働いたのだ、とも付け加えている。
ジェフ・ポーカロとデヴィッド・ペイチは、グラント高校の同窓である。二人は在学中にRural Still Lifeという名のバンドを組んでいた。TOTOという共同作業は、レコード会社との契約よりずっと前、高校の教室から始まっている。
バンド名の由来は長く定まらなかった。当初は、スタジオで他のバンドのテープと区別するためにポーカロがデモテープに書きつけていた語だ、というのが定説だった。次にバンドは、『オズの魔法使』の犬の名前だと媒体に語るようになる。最終的に「公式の説明」とされたのはラテン語の in toto で、「すべてを包含する」という意味。多くのジャンルと専門領域を一つにまとめ、実際に何でもやれるバンドだという含意がある、というものだった。この三つが並立していること自体が事実である。
ルカサーの記憶では、バンド名はペイチとジェフ・ポーカロが『オズの魔法使』を観ているときに出てきたものだという。主人公の連れている犬の名がトトである。ラテン語の in toto を由来とする「公式の説明」と、この回想は同時には成り立たない。どちらが正しいかは決着していない。
1977年に活動を始めたとき、彼らが名乗りたかったのはプログレッシヴ・ロック・バンドだった——ただしメロディの感覚を備えた、という但し書き付きで。ルカサーはそう証言している。全員が70年代の巨人たち、イエス、ジェネシス、ピンク・フロイドを聴いて育っており、コーラス・ワークの発想はジェントル・ジャイアントから多くを受け取ったという。
ペイチがルカサーを最初に見たのは高校のダンス・パーティーで、そこでルカサーが弾いていたのはイエスの曲だった。ペイチはその時点で、いつかこの男と一緒にやると決めたという。バンドを始めてからも二人はELPやイエスのレコードを分解し、何がその曲を特別にしているのかを分析して、それを自分たちの曲の土台に使った。
新バンドの音の出発点は、ヘヴィなロックとプログレッシヴ・ロックだった。ペイチはクイーン、レッド・ツェッペリン、イエス、ELPを挙げたうえで、イーグルスにはなりたくなかったと明言している。実際に世に出た音がAORの代表格として受け取られたことを考えると、出発点の申告としては意外なほど尖っている。
デビュー・シングル「Hold The Line」の題は、電話の言い回しから来ている。英語の hold the line は「今の位置を保て」という意味だが、もう一つ、別の電話を取る間「切らずに待ってくれ」と伝える文字通りの用法がある。携帯電話以前、複数の回線を引いて保留にできる家庭がわずかにあり、ペイチの家がそうだった。
ペイチの説明はこうだ。彼の両親は近所で最初に複数回線の電話を入れた家で、高校生になると電話が鳴りやまなくなった。夕食の席で三人の女の子から同時に電話がかかり、保留ランプが一斉に点滅していた。彼はそのとき複数のガールフレンドをやりくりしていて、そこから曲が生まれたのだという。
「Hold The Line」の歌詞は、その大半が It’s not(それではない)で始まる。ペイチによれば、題が決まった後は愛でないものを列挙していく作業になった。消去法で愛が何かを探る、という書き方である。
この曲のピアノは単音を叩き続ける打楽器的な使い方で、当時よく用いられた手法だった。ジェフ・ポーカロはこれを、スライ・ストーンのグルーヴをより硬いロックのアプローチと噛み合わせたものだと説明している。ヘヴィメタル的と評されるギターのコード弾きと、ピアノの連打が同居しているのがこの曲だ、という言い方でもあった。
あの冒頭のリフは、ペイチが大学進学で家を出たときに買った小さなアップライト・ピアノで生まれた。彼は何日もそれを弾き続け、近隣から扉を叩かれて「やめてくれ」と言われ、立ち退きの通告まで受けたという。
1978年のデビュー作について、ペイチはレコード会社に「これは間違いなくダブル・プラチナになる」と言っていた。「Hold The Line」が全米トップ5に入り、その通りになった。
成功はすぐに止まった。2作目『Hydra』(1979年)は実験的なプログレ寄りの内容で売れず、続く『Turn Back』もより直球のロック作だったが同じく振るわなかった。2作続けての失敗でバンドは契約を切られる瀬戸際に立ち、レコード会社の重役はペイチに、まだヒットの作り方を覚えているか見せてもらいたい、と告げている。
「99」を書いたのはペイチで、着想源はジョージ・ルーカスの長編第一作『THX 1138』(1971年)である。25世紀の全体主義国家を舞台に、人間から個性が剥ぎ取られ、番号で呼ばれる存在にされ、政府の投薬によって統制されている——ペイチはその設定を書き残している。
「99」は『Hydra』からの先行シングルであり、同作最大のヒットでもあった。この曲がバンドにとって特別な位置を占めていることは、最初の公式サイトのアドレスが toto99.com だったことに表れている。
ミュージック・ビデオという形式がまだ固まっていなかった時期、レコード会社が求めていたのはステージに立って演奏し、前でファンが手を振っている絵だけだった。ペイチたちはそれを短い映画を撮る機会と捉え、『Hydra』の頃から暗く陰のある映像を作り始めた。予算はあくまで演奏映像のために出ていたものである。
4作目に取りかかる前、コロムビアはマネージメント経由でバンドに冷たい見立てを伝えていた。TOTOは一発屋だと思っている、次の1枚の成績を見てオプションを行使するかどうか決める——ペイチはそう聞かされたと語る。『Turn Back』は全米41位止まりでヒット・シングルもなく、デビュー作の200万枚がすでに遠かった。
ペイチの最初の答えは、意図的にヒット・シングルを書くことだった。演奏の水準が高く、歌詞に訴える力があり、記憶に残るサビがあり、プロダクションが良い曲。そうして書き上がったのが5分31秒の「Rosanna」である。録り終えたトラックをコロムビアのアル・テラーに聴かせたところ強い手応えがあり、バンドは以降の制作予算を確保した。
「Rosanna」という題は、当時スティーヴ・ポーカロと交際していた女優ロザンナ・アークエットから取られている。書いたのはポーカロではなくペイチで、曲そのものは彼の高校時代の恋のひとつについてのものだった。ペイチによれば、親友のポーカロが彼女の名前を曲の題にしたがっていて、この曲にちょうど嵌まったのだという。
「Rosanna」のシャッフルについて、ルカサーはジェフ・ポーカロがレッド・ツェッペリンの「Fool In The Rain」とバーナード・パーディのグルーヴを掛け合わせたのだと説明している。ジェフはツェッペリンを熱心に聴いており、そこから先はバンド全員で形にしていった。
曲の細部は分担で詰められた。キンボールとルカサーが調を移して、ヴァースとサビを二人で受け渡すデュエットにできるようにし、スティーヴ・ポーカロとペイチは朝の5時にキーボード・ソロを仕上げた。基本のリズム・トラックは午後の一回で録り終わり、最初のギター・ソロは初めて通したその場で作られたものがそのまま残っている。
「Rosanna」のビデオの発端はペイチの思いつきだった。曲中の「Not quite a year since she went away」で入る指パッチンから『ウエスト・サイド物語』を連想し、フィル・コリンズのビデオで見た、路地で二人が逆光の中で指を鳴らすだけの控えめな映像のようなものを考えていた。監督のスティーヴ・バロンに伝えて撮影所に行くと、革ジャンを着た男が十組、跳ね回って踊っていた。バンドがペイチを見る目は冷ややかだったという。
ビデオで踊っている女性はシンシア・ローズで、後に映画『ダーティ・ダンシング』でペニーを演じる。パトリック・スウェイジも同じビデオに映っており、ロザンナに言い寄る男たちの中で赤いジャケットを着ているのが彼である。『ウエスト・サイド物語』式のダンス・ファイトは、マイケル・ジャクソンが「Beat It」でそれをやるおよそ1年前だった。
ペイチはさらに一歩踏み込んだ見立てをしている。「Rosanna」のビデオで使った金網のフェンスをマイケル・ジャクソンが見て、「Beat It」に取り入れたのではないか、というものだ。そしてその金網はといえば、ペイチ自身がザ・チューブスの舞台装置から拝借したものだった。人が人のビデオを見て学ぶ、そのバタフライ効果だと彼は言う。
「Africa」を書いたのもペイチである。ベスト盤『Toto’s Best Ballads』のライナーノーツで彼は、80年代の初めに深夜のテレビでアフリカの人々の死と苦難を伝えるドキュメンタリーを観たこと、その映像が頭から離れず、自分がそこにいたらどう感じ何をするだろうと想像しようとしたことを記している。
書いた時点で、ペイチはアフリカに行ったことがなかった。ルカサーはこの点をさらに縮めて、ペイチがアフリカの上空を飛んだことすらあるかどうか怪しい、と言っている。曲の舞台は完全に想像の中で組み立てられたものである。
ペイチが描いたのは、アフリカに渡ってその土地で働くことに愛着を持ち、同時に人を愛してしまい、一生を人助けに費やすか家庭を持つかの選択を迫られるソーシャル・ワーカーの物語だった。彼はそこに自分自身を少し混ぜている。当時は仕事に24時間浸かりきりで、自分が仕事の犠牲者になりつつあると感じることがあった——結婚や家庭といった、同年代の人が普通にしていることに手が回らない、という感覚である。
「Africa」のあのリフは、ペイチが手に入れたばかりのヤマハCS-80から出てきた。金管のようなフルートの音色を偶然見つけ、弾き始めて2分でリフができていたという。彼はこの曲をアルバムのセッションの終わり際までスタジオに持ち込まず、ピアノで弾き、歌詞のないメロディを口ずさんで、バンドに聴かせた。
冒頭のループは、その場で手作りされたものだ。ジェフ・ポーカロがエンジニアのアル・シュミットに、いまここでドラム・ループを作れないかと尋ねた。シュミットは2インチのテープをスタジオ中のマイクスタンドに巻き渡していき、完成した頃には全長およそ12フィートになっていた。そこにジェフとリン・ドラムの発明者ロジャー・リンの演奏を録ったものが、あのイントロである。
そのループの上には、さらに打楽器が積み上げられた。ジェフ・ポーカロは父でジャズ・ドラマーのジョー・ポーカロと、名付け親でシナトラからザッパまで叩いてきた打楽器奏者エミール・リチャーズをスタジオに呼んだ。TOTOのパーカッショニスト、レニー・カストロと三人で、24トラックのテープをさらに2本埋めている。ルカサーによれば、エミールはアフリカの民族楽器のコレクションで知られ、ジョーはマリンバ、レニーはシェイカーやコンガやベルを持ち込んだ。ワールド・ミュージックという言葉がまだ存在しない時期の作業だった。
リード・ヴォーカルの多くはボビー・キンボールが担っていたが、「Africa」のヴァースを歌ったのは書いたペイチ自身である。「as sure as Kilimanjaro rises like Olympus above the Serengeti」のように語数の詰まった行が続き、キンボールには扱いづらかった。サビをキンボールが取ることで、曲の中に大きな声の振幅が生まれている。
サビのキンボールのパートについて、ルカサーは音域が高すぎて一度しか出せなかったと明かしている。レコードに残っているのはその一度きりの歌唱で、彼は以降それを再現できなかった。
名前を伏せたメンバーの一人がタイム誌に語ったところでは、彼らはアルバムを締めくくる曲が一つほしかっただけで、「Africa」がこれほど当たるとは考えていなかった。同じ記事では、「catch some waves」の箇所で注意して聴くと、何人かが「catch some rays」と歌っているのが分かるとも述べている。
サンセット・サウンドでの最終日、バンドは完成した「Africa」を通しで聴いた。隣の部屋で初のソロ作に取り組んでいたイーグルスのドン・ヘンリーが顔を出し、二台の大きなスピーカーの中間に腰を下ろす。照明を落として再生し、最後の余韻が消えたとき口を開いたのはヘンリーだけで、いいレコードだと言った。ルカサーは、ヘンリーが辛口の批評家であることを知っていたので、その一言が特にありがたかったと語っている。
「Africa」はアルバムに入らないところだった。ルカサーとキンボールがRock Eyezに語ったところでは、収録を後押ししたのはCBSにいたアル・ケラーという人物である。ルカサー自身はアルバムで最悪の曲だと思っており、歌詞は意味をなさず曲調も浮いていると考えていた。もしこれがヒットしたらハリウッド大通りを裸で走ると宣言していたという。彼はその後、シングルを見抜く自分の目のなさを笑い話にしている。
先行シングルは「Rosanna」だったが、アルバムの流れを変えたのは「Africa」のシングル・カットである。イギリスでは2枚目、アメリカでは3枚目のシングルとして出て、ビルボードのHot 100で1位に達した。
イギリスでは「Africa」がアフリカ大陸の形に抜かれた限定ピクチャー・ディスクとして発売された。この仕掛けが後押しとなって全英3位まで上がり、同国での彼らの最大のヒットになっている。
『Toto IV』からはいくつものシングルが出たが、アダルト・コンテンポラリー・チャートで首位に立ったのはルカサーが書いた「I Won’t Hold You Back」だけである。バンドにとって同チャート初の1位だった。「Africa」は同じチャートでは5位までだった。
「I Won’t Hold You Back」のサビでコーラスを付けているのは、イーグルスのベーシスト、ティモシー・B・シュミットである。この曲は後年に別の形でも生き延びた。DJ/プロデューサーのロジャー・サンチェスが2001年の「Another Chance」でサンプリングし、同曲は全英1位になっている。
『Toto IV』の中で、デヴィッド・ハンゲイトのベースが入っていない曲が一つだけある。「Waiting For Your Love」で、ペイチがベース・ギターを使わない初期のデモを気に入り、完成版でも同じやり方を通した。この曲はもともとキンボールが1970年代に書いたもので、当初の題は「You Got Me」だった。
『Toto IV』からの2枚目のシングルは「Make Believe」だった。書いたのはバンドの中心的なソングライターであるペイチで、リード・ヴォーカルはボビー・キンボール。かつての恋人に、もう一度恋をしているふりをしてくれと頼む歌である。
TOTOの最初の7枚のアルバムには、いずれも女性の名前を題に持つ曲が最低1曲入っている。『Toto』の「Angela」、『Hydra』の「Lorraine」、『Turn Back』の「Goodbye Elenore」、『Toto IV』の「Rosanna」、『Isolation』の「Carmen」と「Holyanna」、『Fahrenheit』の「Lea」、『The Seventh One』の「Pamela」と「Anna」。その多くをペイチが書いている。
その習慣には出どころがある。ペイチの父マーティ・パイチは、レイ・チャールズのアルバム『Dedicated to You』(1961年)の編曲を手がけており、そこでは全曲の題が女性の名前だった。ペイチはそのレコードを引っ張り出して「全部女の子の名前じゃないか」と気づき、自分もそうし始めたのだと語っている。父親の仕事への、ささやかな返礼である。
「Africa」はその後、どのヒット曲とも違う伸び方をした。ペイチは、この曲のヴァリエーションが最後に数えたときで138種類あったと述べ、TikTokやYouTubeに上がってくるものを見ては首をかしげているという。狙って作れるものではなく、純粋に心から書いた音楽だった、というのが本人の総括である。
『Toto IV』を出した1982年、ルカサー、ペイチ、ジェフ・ポーカロ、スティーヴ・ポーカロの4人はマイケル・ジャクソン『Thriller』の録音にも関わっていた。『Toto IV』は1983年に最優秀アルバム賞を獲り、『Thriller』はその翌年に同じ賞を獲っている。2年続けての最優秀アルバムに、同じ演奏者たちが関わっていたことになる。
スティーヴ・ポーカロはすでに前作『Off The Wall』にシンセ奏者兼プログラマーとして参加していた。『Thriller』の制作でクインシー・ジョーンズがTOTOに求めたのはロック・ナンバーで、ジャクソンはザ・ナックの「My Sharona」のようなものを探していた。ところが見つかったのはスティーヴ・ポーカロが書いたバラード「Human Nature」だった。自分の曲をTOTOでは通しにくかった彼にとって、これ以上ない形の承認になった。彼はジャクソンがこの曲のヴォーカルを録る場に居合わせている。
ジャクソンが求めていた「My Sharona」は結局「Beat It」になった。ギター・ソロを弾いたのはエディ・ヴァン・ヘイレンだが、リフとベースを弾いたのはスティーヴ・ルカサーで、ドラムはジェフ・ポーカロである。デヴィッド・ペイチは「Billie Jean」を含む『Thriller』の複数曲でキーボードを弾いた。
ペイチはポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンのデュエット「The Girl Is Mine」で演奏し、ルカサーとクインシー・ジョーンズとともに編曲にも関わった。その日の部屋にはポールとリンダのマッカートニー夫妻、ジョージ・マーティン、ジェフ・エメリック、クインシー・ジョーンズ、ブルース・スウェディンが揃っていて、ジェフ・ポーカロも居合わせていた。プロデューサー天国に来てしまったようだった、とペイチは振り返っている。
ペイチによれば、ミュージック・ビデオについてマイケル・ジャクソンとよく話をしていたという。当時のレコード会社はビデオに金を出したがらず、価値を認めていなかった。ペイチはTOTOがビデオをマーケティングの道具として本気で信じていたことを伝え、ジャクソンは自分の金を注ぎ込むと言った。ジャクソンが「Billie Jean」などで自費を投じるようになった背景にはそうしたやり取りがあった、というのがペイチの見方である。
ペイチのプロデュース仕事にはジャクソンズの『Victory』も含まれる。「Wait」と「The Hurt」の2曲を、スティーヴ・ポーカロと共同でプロデュースした。彼はほかに、映画『シャーリー・バレンタイン』の主題歌でアカデミー賞にノミネートされた「The Girl Who Used to Be Me」や、父マーティと組んだシェリル・リンの「Got to Be Real」も手がけている。
『Toto IV』の次に来た1984年の『Isolation』は、比較的無名だったデニス“ファーギー”・フレデリクセンをヴォーカルに迎えた作品だった。同時にこのアルバムは、マイク・ポーカロがTOTOで初めてレコーディングに参加した作品でもある。ジェフとスティーヴに続いて三人目のポーカロがバンドに入った。
『Isolation』の「Holyanna」はペイチとジェフ・ポーカロの共作で、リード・ヴォーカルもペイチが取っている。カトリック系の学校に通いながら奔放な一面を持つ少女の歌で、ペイチによれば、妹とその友人たちが女子カトリック校に通っていたことが下敷きになっている。何人かの友人を一人の「ホーリーアンナ」にまとめたのだという。題そのものにも holy が仕込まれている。
「Holyanna」のビデオを撮ったのは、「Rosanna」と「Africa」と同じスティーヴ・バロンである。ホーリーアンナ役を演じたのはアリス・アデアで、後に『ビバリーヒルズ・コップ2』に出演している。
『Isolation』が振るわなかったあと、声がかかったのがジョセフ・ウィリアムスだった。彼はもともとLAで長年の顔見知りであり、加えてペイチやポーカロ兄弟と共通するものがあった。父が映画音楽の作曲家ジョン・ウィリアムスで、そのジョン・ウィリアムスはペイチの父とも、ジョー・ポーカロとも仕事をしていたのである。ウィリアムスはオーディションでボビー・キンボールのように歌ってみせて合格した。
1986年の『Fahrenheit』はウィリアムス加入後の最初のアルバムであると同時に、スティーヴ・ポーカロが正式メンバーでいた第一期の終わりでもあった。「Human Nature」で相当の実入りを得ていたにもかかわらず、彼はバンドの中で脇に置かれていると感じていた。ペイチのためにプログラミングをしているだけで、必要とされている実感がなかったという。彼はその後もTOTOのアルバムに関わり、ツアーにも2度出ているが、抜けたこと自体は安堵だったと語っている。
『Fahrenheit』収録の「Don’t Stop Me Now」でトランペットを吹いているのはマイルス・デイヴィスである。デイヴィスはスティーヴ・ポーカロが書いた「Human Nature」をカヴァーしており、その縁でバンドが録音への参加を口説いた。ルカサーによれば、彼らはメロディを空けたままトラックを録っておき、来たデイヴィスに「好きに吹いてみてほしい」と頼んだ。デイヴィスはハーマン・ミュートを取り出して一度で吹き切り、フェイドアウトの後もブルースを吹き続けたという。後日この話を聞いたデヴィッド・サンボーンが自分も参加させてくれと申し出て、メロディを重ねている。
「I’ll Be Over You」はルカサーとナッシュヴィルのソングライター、ランディ・グッドラムの共作である。ただし発端は依頼仕事だった。二人はフリオ・イグレシアスに提供する曲を書くよう求められていた。グッドラムによれば、どちらもイグレシアスのファンではなく、その方向に寄せようとしても自分たちの創作の神経が受け付けなかった。彼が半ば意地でイグレシアス的でない歌詞を書き、ルカサーがそれに強く反応した時点で、この曲は依頼から離れていた。
この曲がTOTOに届いた経路も、狙ったものではなかった。グッドラムは自分のデモの鳴りが他のスタジオでどう聴こえるか確かめたくて、同じ型のモニターを持っていたペイチのスタジオでラフ・ミックスを聴いてきてほしいとルカサーに頼んだ。すると居合わせたメンバーの誰かが「あれは何だ、録ろう」と言い出す。グッドラムはバンドの人間ではないと断ったが、それは構わないという返事だった。
「I’ll Be Over You」はヒット・ポップとしては珍しく、伴奏なしの歌から始まる。グッドラムはその理由に見当をつけている。彼のデモにはドラムのパターンより前に2小節の歌が入っており、ジェフ・ポーカロはヘッドフォンでそのデモを聴きながら叩いたらしい。だとすると、その2小節はカウントとして使われたことになり、イントロを置く余地がそもそもなかった。彼自身、この冷たい入り方をレコードの美点のひとつだと考えている。
「I’ll Be Over You」でバック・ヴォーカルを付け、ビデオにも姿を見せているのはマイケル・マクドナルドである。当時、彼のバンドであるドゥービー・ブラザーズは活動を休止していた。
そのビデオの撮影は難航した。監督のニック・モリスは当初、ハリウッドのランドマークだったベキンズ・ビルの屋上で撮る予定だったが、当日の朝に段取りが崩れ、全員を一度帰した。別の建物を確保して撮り直すも、数時間で雨が降り出す。雨の絵そのものは良かったが、ルカサーがギターを濡らしたくないと言い、安価なレプリカを使う案も拒んだため、雨中のTOTOの映像はほとんど残っていない。分かる人には分かる、というのが彼の理由だった。
ビデオには物語の断片も残っている。俳優が演じる男女が、『Fahrenheit』のジャケットに写っている建物の外にいる。最初の編集ではその話が展開していたが、モリスから受け取ったバンドはそのほとんどを削らせ、屋上での演奏に焦点を戻した。
グッドラムとルカサーの共作関係はこの一曲では終わらなかった。二人はその後もTOTOのために「Anna」「Melanie」「No Love」「One Road」を書いている。グッドラムはルカサーの2008年のソロ作『Ever Changing Times』でキーボードも弾いた。
ジョセフ・ウィリアムスが去った後の8作目『Kingdom of Desire』では、リード・ヴォーカルをすべてスティーヴ・ルカサーが歌った。TOTOのアルバムで一人の歌い手が全曲を担ったのは、この作品が初めてである。
1992年8月5日の夕方、ジェフ・ポーカロが38歳で亡くなった。公式に記録された死因は化学物質による中毒に起因する心停止で、自宅の庭で殺虫剤を使用していた際のアレルギー反応によるものとされている。『Kingdom of Desire』は彼の死の後に世に出た。
『Kingdom of Desire』のジャケットを選んだのはジェフ・ポーカロだった。墓から爪で這い出そうとする骸骨の絵である。ルカサーがその図像の意味に気づいたのは、アルバムが世に出た後だった。まるで予感していたかのようだった、と彼は語っている。
ジェフの死後、最初に言葉を交わしたとき、ペイチとルカサーはTOTOは終わりだという結論で一致していた。それを覆したのはポーカロ家である。音楽をやりなさい、ジェフもそれを望むはずだ——家族からそう言われて、バンドは続く道を選んだ。イギリス人ドラマーのサイモン・フィリップスを迎え、『Kingdom of Desire』のツアーに出ている。
『Kingdom of Desire』から『Toto XIV』のあいだに、オリジナル曲のアルバムが3枚出ている。メンバーの出入りが続いたこの時期でもっとも意外だったのは、ボビー・キンボールの復帰だった。1999年の『Mindfields』と2006年の『Falling in Between』で彼が再びマイクの前に立っている。
『Falling in Between』は2006年1月25日に発売され、およそ7年ぶりのスタジオ作となった。ルカサーは当時、公式サイト toto99.com に載ったインタビューで、前作『Mindfields』以上に良い曲が書けたと述べ、新曲に対して「これが本当に彼らなのか」という反応が返ってきているが、それは意図したことだと語っている。
TOTOは何度も活動を休んでいるが、解散を宣言したのは一度だけである。2008年、当時ただ一人残ったオリジナル・メンバーだったスティーヴ・ルカサーが、バンドの公式サイトに声明を出した。彼はそこで、これは休止ではなく終わりだと明言し、19歳で録音した曲をこれ以上まじめな顔で演奏することはできない、自分はもう50だ、と書いている。2010年、彼らは再び一緒に演奏を始めた。
再結成のきっかけは病だった。2010年にマイク・ポーカロのALS罹患が公表され、それを受けてバンドが集まり直し、ALSへの理解を広げるためのワールド・ツアーが組まれた。この時にスティーヴ・ポーカロとジョセフ・ウィリアムスが戻り、ルカサー、ペイチと並び、ベースにネイザン・イーストが入っている。
2010年の再始動には、もう一つ具体的な目的があった。ルカサーはBARKSの取材で、活動再開の理由の一つがマイク・ポーカロの治療費を捻出することだったと述べている。同じ取材で彼は、活動を止めていた期間にTOTOというバンドがいかにかけがえのないものかを再認識した、とも語っている。
サイモン・フィリップスがバンドを離れた後にドラム席へ座ったのはキース・カーロックだった。ルカサーによれば、フィリップスとは21年をともにしており、それでも次に呼んだカーロックのスタイルはフィリップスとまったく異なり、むしろジェフ・ポーカロに近いのだという。カーロックはスティーリー・ダンでの仕事で知られるが、ルカサーは4年前にニューヨークのクラブで、ビル・エヴァンズのトキシック・モンキーというプロジェクトで一緒に演奏していた。スタジオに招いた結果、全員の顔に答えが書いてあったと彼は語っている。
『Toto XIV』が作られたのは、契約がまだ1枚残っていたからである。2006年に『Falling in Between』を出した時点で、バンドはあれが最後のアルバムになるだろうと考えていた。ところが確認してみると、レコード会社にもう1枚納める義務が残っていた。ペイチはこれを嬉しい驚きだったと述べ、寄せ集めを並べるのではなく、ゼロから有機的に書き下ろした作品にしようと決めたのだと説明している。
ルカサーの言い方はもう少し身も蓋もない。彼は『Toto XIV』を訴訟から生まれたアルバムだと呼び、弁護士に「争うより作ってしまったほうが簡単だし、はるかに安上がりだ」と言われたのだと明かしている。それでいて彼は、これを本物の深さと質を備えた作品だと考えており、クラシックなTOTOのレコードを作ろうとしたのだとも語っている。
『Toto XIV』の先行シングル「Burn」は、ジョセフ・ウィリアムスが書いた一曲丸ごとの、いちばん最後の部分から生まれた。ウィリアムスがペイチに聴かせると、ペイチは曲を気に入ったのではなく、ごく短いエンディングだけを気に入ったと答えた。そこにあったピアノのリフが、繰り返し鳴り続けて曲全体を駆動する心臓になった。ペイチによれば、新作のために最初に書き始めた曲がこれだったという。
ルカサーは2014年4月の時点で、次のアルバムの題は『TOTO XIV』になり、2015年の初めに出すつもりだと述べ、その時点で5曲を書き終えていた。彼にとってこれは特別な布陣だった。ジョセフ・ウィリアムス、スティーヴ・ポーカロ、デヴィッド・ペイチと自分の4人でアルバムを作るのは、1988年の『The Seventh One』以来なのだという。
『Toto XIV』の録音編成には、もう一人の創設メンバーが戻っている。ベースのデヴィッド・ハンゲイトである。ルカサーはこのアルバムについて、スティーヴ・ポーカロが27年ぶりに正式メンバーとして参加した作品であることの意味を強調し、TOTOにはポーカロがいることが大事なのだと語っている。
『Toto XIV』には、ジェフ・ポーカロに捧げられた曲が入っている。「Unknown Soldier (For Jeffrey)」である。ルカサーは、自分にとってTOTOはいまだにジェフのバンドであり、ステージに立つたびにジェフが一緒にいると感じる、と語っている。
『Toto XIV』が『Toto IV』と比較されるようになった発端は、スティーヴ・ポーカロの発言だった。彼は自分にとってこれは『Toto IV』の自然な続編だと述べており、その間に作ってきた作品を軽んじる意味ではなく、音楽的にはここへ進むはずだったという感覚だと説明している。
デビュー40周年のベスト盤『40 Trips Around the Sun』のために書き下ろされた新曲が「Alone」である。作者はペイチ、ルカサー、スティーヴ・ポーカロ、ジョセフ・ウィリアムスの4人。ルカサーはビルボード誌に、4人だけで部屋にこもって4曲をゼロから書き、書くのも録るのも演奏も全部一緒にやったと述べている。曲名は「一人」だが、内容は年を重ねることについての、前向きで力のあるものだという。
2018年のデビュー40周年ヨーロッパ・ツアーは、ルカサー、ペイチ、スティーヴ・ポーカロ、ジョセフ・ウィリアムスに、シェム・ヴォン・シュロック(ベース)、シャノン・フォレスト(ドラム)、レニー・カストロ(パーカッション)、ウォーレン・ハム(サックス/ヴォーカル)を加えた布陣で回られた。3月17日のアムステルダム公演がライヴ作品として収録され、日本では2019年2月の来日公演を前に、1月30日に日本先行で発売されている。
2021年11月、「Africa」のSpotifyでの再生回数が10億を突破した。アメリカだけで6xプラチナに達しているTOTO最大のヒットである。共作者のペイチは、夢が実現したという以上のことだと述べ、家族と友人とファン、そしてSpotifyへの感謝を並べたうえで、1992年に世を去った共作者ジェフ・ポーカロがこの瞬間を一緒に笑って祝っているのが分かる、と書いた。
2017年12月、ウィーザーに「Africa」をカヴァーさせることだけを目的としたTwitterアカウントが立ち上がった。運営していたのは14歳の少女で、ハッシュタグ付きの投稿を積み重ねた。2018年5月29日、ウィーザーは実際にカヴァーを発表する。TOTOはその返礼として、ウィーザーの「Hash Pipe」をカヴァーした。
そのやり取りの後日談は、あまり和やかではない。ウィーザーの「Africa」は2005年の「Beverly Hills」以来のゴールド・ディスク認定を彼らにもたらしたが、ルカサーはローリング・ストーン誌の取材で、リヴァース・クオモに連絡を取ろうとしたのに応じてもらえなかったと不満を述べている。世界的なロック・スターの多くと友人でいる自分と話すのを拒むのは彼だけだ、と。ただしルカサーはバンド全体を悪く言うつもりはないとも付け加えており、ウィーザーは米テレビでこの曲を演奏する際にスティーヴ・ポーカロをゲストに迎えている。
「Africa」は思わぬ経路でも広がった。90年代末、インディアナ大学のアカペラ・グループ、ストレート・ノー・チェイサーが持ち歌にしていたが、レパートリーの幅を見せたくてセットから外し、代わりに自分たちの「Twelve Days of Christmas」の中へメロディを紛れ込ませた。1998年のキャンパスのクリスマス公演での内輪の遊びである。2006年にメンバーの一人がその映像をYouTubeへ上げると、初期のバイラル動画のひとつとなり、アトランティックとの契約とグループの再結成につながった。
テレビでの使われ方にも独特のものがある。2004年の『Scrubs』では、『オズの魔法使』へのオマージュとして構成された回に置かれた。犬のトトの名を持つバンドが、その理由で選ばれている。ほかに『ストレンジャー・シングス』のシーズン1、2009年の『CHUCK/チャック』でも使われた。
『Toto IV』は最優秀アルバム賞を獲ったが、「Africa」自体は最優秀レコード賞にも最優秀楽曲賞にもノミネートされなかった。両部門に推され、レコード賞を獲ったのは「Rosanna」のほうである。全米1位になったのは「Africa」だった。
TOTOに早くから公然と味方したビッグ・ネームの一人がエルトン・ジョンだった。逆に、早い時期に公然と貶した側の代表がジョン・メレンキャンプである。批評家だけでなく同業者の間でも、このバンドは扱いが割れていた。
音楽メディアはキャリアのほぼ全期間にわたってTOTOに厳しかった。結成当初はセッション・ミュージシャンであること自体を——生々しさのない、本物ではない演奏者として——叩かれ、ラジオでヒットを飛ばすようになると今度は、当時流行していた他のバンドと似すぎていると非難された。彼らの職人的な技量そのものを疑う声はなかった。批判の主眼は、磨かれすぎているという一点にあった。
ルカサーの言い分はこうだ。パンクが登場したばかりの70年代末に世に出た自分たちは、その正反対の存在だった。セッション・ミュージシャンだから「魂がない」と言われ、フロントに見栄えのする男を立てるようなイメージ戦略を持たなかったから「顔がない」と言われた。本物ではない、と。彼はそれを、自分たちが報道の格好の標的だったからだと総括している。
『Toto IV』の成功のさなか、バンドはローリング・ストーン誌の表紙を断っている。ルカサーによれば、どうせ切り刻まれると分かっていたからだ。当時の彼らは、報道を味方につける必要がないほど大きかった。
ヒットを持っていることをルカサーは否定しない。それが良い暮らしをもたらしたことも認めている。ただ彼は、当時のコロムビアがもっと歯応えのある曲をシングルとして出してくれていたらとも言う。TOTOを「あのAfricaのバンド」として知っている人は少なくないが、ヒットしか知らずにライヴへ来た客が、実際のバンドの姿に驚くのを彼らは何度も見てきた。レコードは物語の一部でしかなく、プログレの先達と同じくアルバムは跳躍台なのだ、というのが彼の言い分である。
スティーヴ・ポーカロは、3分半のポップ・ソングを書く技術の価値をバンドが早くから理解していたと述べている。それはキャリアを進めるうえで重要であり、賢くやって自分の音楽的信条を損なわないかぎり何も悪くない、と。彼の見立てでは、TOTOはイエスやジェネシスがその結論に至る数年前にそこへ辿り着いていた。ただし自分たちが先駆者だと名乗るつもりはない、とも付け加えている。
アメリカのプログレッシヴ・シーンに40年いながら、ペイチはスティクスやカンサスとの共通点は少ないと考えている。彼らの音楽は好きだが、自分たちよりポップ寄りだというのが彼の見方で、TOTOはむしろイギリスのシーンに近いところにいた、と語っている。
バンドには「Toto Mode」という言い方がある。ペイチの説明では、メンバーはそれぞれが独立したソングライターでありプロデューサーだが、スタジオに入ると一種の魔法のようなことが起こり、この編成のためだけの断片を書き始める。誰かが持ち込んだ小さな断片を他の誰かに聴かせ、二人が組んで転がし始める——そこから曲になる。