STRYPER トリビア 全30件
STRYPERにまつわる事実を、出典付きで30件掲載しています。
Trivia
バンドとして世界のどこかを正式にツアーするより先に、STRYPERは日本へ来ていた。マイケル・スウィートは2023年のインタビューで、1985年に日本へ渡った時点でバンドはまだ世界のどこも正式にツアーしておらず、日本行きが初めての遠征だったと語っている。デビューEPが出た1984年に21歳になったばかりで、日本に着いたときは22歳。うまくいくのだろうかと不安を抱えたまま向かったところ、待っていたのは大勢の観客だった。仏教徒が多数を占める国がクリスチャン・バンドを受け入れたことについて、本人は今も謙虚な気持ちになると述べている。
80年代のうちにSTRYPERは日本へ3度渡っている。1985年、1987年、そして『In God We Trust』を発表したあとの3度目で、この3度目の舞台が日本武道館だった。日本でのレーベルであるアヴァロンは、この3回を80年代の節目として並べている。武道館公演の年については、BARKSのライヴ・レポートが1989年のこととして触れている。
27年ぶりの単独来日を動かしたのは、レーベルでもプロモーターでもなくファンだった。2016年4月の「STRYPER "Yellow & Black is Back" Celebration Tour in Japan」は、「STRYPER Street Team Japan」(SSTJ)というファン・グループなどが長年続けてきた招聘運動によって実現したものだと、クリスチャントゥデイが報じている。日程は15日の大阪・梅田CLUB QUATTROと、16日・17日の川崎CLUB CITTA'。記者が入った川崎公演では、1,300人を収容するスタンディングの会場が満員になった。しかもこの日本公演は、前年の『Fallen』に伴うセレブレーション・ワールドツアーの皮切りでもあった。
2024年4月5日、クリスチャン・ポップのデュオ for KING + COUNTRY(ジョエルとルークのスモールボーン兄弟)が「To Hell With The Devil (RISE)」をシングルとミュージック・ビデオで発表した。クレジットにはラッパーの Lecrae と STRYPER が並ぶ。マイケル・スウィートは原曲終盤の自分のソロをあらためて弾き直しており、曲には暗闇から光へ立ち上がるという主題の新しいセクションが書き足された。発表元は兄弟の家族を描いた伝記映画『UNSUNG HERO』の関連サウンドトラックで、映画の全米公開と同じ4月26日に出ている。同盤にはこれとは別に「Stryper Interlude」と題したマイケル・スウィート参加のトラックも収められた。兄弟は、レコード・プレーヤーの前で『The Yellow and Black Attack』のジャケットの45回転盤を手にしていたことを、自分たちの最も古い記憶のひとつだと語っている。
STRYPERという綴りの出どころは、イザヤ書53章5節である。打ち傷によって癒される、という一節で、この「打ち傷(stripe)」がそのまま黄色と黒の縞という視覚的な記号になった。マイケル・スウィートは、自分たちは演奏するスタイルを変えずに歌詞のほうを書き直し、そこにイザヤ書53章5節を掲げることで、縞模様が単なる意匠ではなく意味を持つものになるようにしたのだと説明している。
STRYPERという名前がつく前、この4人はROXX REGIMEというバンドだった。1983年、ロバートとマイケルのスウィート兄弟が、高校の同級生だったオズ・フォックスと、地元で名の知れたベーシスト、ティモシー・ゲインズを迎えて組んだのがそれである。彼らはこの名義でデモを吹き込み、ハリウッドのクラブ・サーキットを回った。やがてこのバンドがイニグマ・レコードの耳に留まり、まもなくバンド名はSTRYPERへ変わって、最初の全米流通盤『The Yellow and Black Attack』が世に出る。このデモ音源はオーバーダブも録り直しもされないまま2007年にCD化されており、収録曲には、のちにMTVとビルボードでヒットする「Honestly」の最初期ヴァージョンが含まれている。
STRYPERが2人目のギタリストを探していた時期、実際に加入寸前まで行ったのがC.C.デヴィルだった。マイケル・スウィートは自伝刊行時のインタビューで、あとは書類に署名するだけというところまで話が進んでいたと明かしている。決裂の理由は音楽性ではなく、あの黄色と黒の格好はやりたくない、というデヴィル側の判断だった。スウィートは遺恨は残らなかったと述べ、その後POISONで成功した彼の選択も、自分たちの選択も、どちらも正しかったと振り返っている。
2018年8月に予定されていた来日公演は、オズ・フォックスの急病により延期された。実際に行われたのは翌2019年2月、クラブチッタ川崎での2夜連続公演である。企画の核は1985年の初来日公演の再現で、両日とも第1部を'85年と同じ曲順で通した。細部まで揃えてあり、1曲目ではマイケル・スウィートがギターを持たずハンド・マイクだけで登場している。これも'85年と同じだった。心配されたオズの体調について、ヤング・ギターのレポートは病み上がりという印象は全くなかったと書いている。
日本盤のデビューEPは、本国版と中身が違っていた。1984年にEnigmaから出たこのEPは、日本では翌1985年に、当時のシングル曲を加えた形で発売されている。日本でのレーベルであるマーキー・インコーポレイティド(アヴァロン・レーベル)は、同時期のLAメタル勢と一線を画すメロディの強さが日本のシーンでも受け入れられたと記しており、初来日公演もこの1985年、1stアルバム『Soldiers Under Command』が世に出る前に行われている。
STRYPERとグラミー賞の関わりは、これまでのところ一度きりである。米レコーディング・アカデミーが公開しているアーティスト別の受賞歴データベースでは、バンド名義の記録はノミネート1回・受賞0回。その1回とは1988年の第30回グラミー賞で、部門は「Best Gospel Vocal Performance By A Duo, Group, Choir Or Chorus」、対象作は『To Hell With the Devil』だった。結果は受賞に至っていない。40年を超える活動歴のうち、同データベースに残っているのはこの一件だけである。
日本への帰還はフェスだった。2011年10月15日にさいたまスーパーアリーナで開かれたLOUD PARK 11の公式ラインナップにSTRYPERの名前があり、公式タイムテーブルによれば出番は11時50分から。開場から数えて3組目という早い枠である。その日の最後を締めたのはリンプ・ビズキットで、その前がホワイトスネイクだった。日本でのレーベルであるアヴァロンは、このときの出演を実に23年ぶりの来日だったと記している。
2018年の『God Damn Evil』は、世界に先んじて日本で店頭に並んだ。日本でのレーベルであるアヴァロン(マーキー・インコーポレイティド)は、この作品を4月11日発売と告知したうえで、それが日本先行発売であることを明記している。
来日に合わせて、日本ではもう一種類の『God Damn Evil』が出ている。2018年8月22日発売のツアー・エディションで、レーベルのアヴァロンはこれを来日記念盤と位置づけ、急遽の発売だったと書いている。仕様はSHM-CD。ボーナス・トラックは3曲で、うち2曲は1983年に録音されたバンド結成時のデモ「Loud 'n' Clear」と「Co'mon Rock」だった。
ツイン・ギターのハーモニーはSTRYPERの看板だが、バンドは最初からその形だったわけではない。マイケル・スウィートによれば、初期はしばらく3人編成で、ギターは自分ひとりで全部弾いていたという。音を厚くしてハーモニー・ソロをもっとやりたいという理由から2人目のギタリストを探し始め、かなりの人数をオーディションしている。その中にはC.C.デヴィルと、WHITESNAKEのダグ・アルドリッチもいた。最終的に決まったのが、本名をリチャード・マルティネスというオズ・フォックスだった。
ベーシストのティム・ゲインズの離脱は、2017年に双方の言い分が食い違ったまま公になった。ゲインズはKNAC.COMに対し、離婚を境に事態が一気に悪化した、キリスト教的にはそれがタブーということなのだろう、と語り、離婚を経験しているのは自分だけではないと反論している。これに対しマイケル・スウィート、オズ・フォックス、ロバート・スウィートの3人は同年9月1日に連名の声明を出し、離婚が理由だという見方を明確に否定した。声明によれば、バンドは彼に時間を与えるためにいったん活動を休止したが、3人が意図的・不安定・敵対的と評した振る舞いがバンドを損ない、活動の継続を脅かしたため、袂を分かつ以外に道がなかったという。また2016年に本人が公の場でバンドを訴えると示唆したことを受け、弁護士を立てざるを得なかったとも書かれている。
ゲインズの後任は、いったん別の人選で決まりかけていた。マイケル・スウィートが2017年11月にListenIowaへ語ったところでは、バンドは電話でLYNCH MOBのショーン・マクナブに決めていたという。ところが彼はLYNCH MOBの活動で翌年が埋まる見込みで、ジョージ・リンチやオニ・ローガンと話した末に、揉め事の種になりそうな状況には踏み込まないほうがいいと判断してこの話は流れた。ほかにクリス・ワイズやジェイムス・ロメンゾの名も挙がっていたが、最終的に共同マネージャーが出した名前がペリー・リチャードソンだった。呼び寄せて合わせてみると5曲を覚えてきており、ロバート・スウィートのドラムにぴたりと収まって、コーラスはレコードそのものに聞こえたという。なおリチャードソン本人は加入発表の際、彼らと初めて会ったのは1985年、自分の最初のバンドMAXX WARRIORがノースカロライナ州シャーロットで前座を務めたときだったと明かしている。
ゲインズ解雇の1年あまり前、マイケル・スウィートはメンバーを入れ替えることを強く否定していた。2016年6月の取材では、4人は一緒にやり続けると約束を交わしている、続けられないと判断したときがSTRYPERの終わりだ、うまくいかないなら誰かを入れ替えるのではなく解散すべきだ、と語っている。メンバー交代はバンドとブランドの価値を下げ、ファンに対して不誠実だとも述べていた。結果としてバンドはその翌年にベーシストを入れ替える。後年この矛盾を問われたスウィートはWSOUに対し、考え自体は今も変わらないと答えたうえで、誰かの選択が結果として周囲に及ぶことがあり、そのときは考え直さざるを得ない、オリジナル編成が理想なのは確かだがそうはいかないこともあって残念だ、と述べている。
STRYPERのフロントマンは、一時期BOSTONの一員だった。2007年にBOSTONの歌手ブラッド・デルプが世を去ったあと、中心人物のトム・ショルツが招いたのはマイケル・スウィートとトミー・デカルロの2人で、当初は一度きりの引退公演のつもりだった。ところがショルツがその手応えを気に入り、翌2008年には本格的なツアーへ発展する。スウィートは2011年にBOSTONを離れた。本人は加入を打診されたときに驚いたと述べており、デルプは代わりのきかない歌い手だったという見方も崩していない。
STRYPERのバラードは、ギターではなくピアノの上で書かれている。マイケル・スウィートは曲を書く過程で必要に迫られて弾ける程度にピアノを覚えた奏者だが、「Honestly」も「Together as One」も、バンドのバラードはすべてその鍵盤で書いたと述べている。書き方の周期も一定で、ハードな曲を6、7曲書くとバラードが1曲出てくる。録音された最初期の例はデビュー作の「You Won't Be Lonely」だった。そして順序は世間の記憶と逆だと彼は言う。ラットらと同じ箱を回っていた頃、バラードを演奏していたのはSTRYPERのほうで、80年代のパワー・バラード流行はその後に来た。
『To Hell With the Devil』が手応えのある1枚だと最初にわかったのは、車の中だった。オズ・フォックスは、最終ミックスを収めたカセットを自分のフォード・エスコートに入れ、そのまま座って聴き通したときのことを覚えている。聴きながら、これはいける、と口に出したという。マイケル・スウィートの側の記憶も同じで、鳥肌が立つ類の感触があり、聴かせた相手が誰もが同じ反応をしたと語っている。30年後にこの話をした日、フォックスはたまたま来る途中で日本で撮ったスーツ姿の古い写真を眺めており、その時間の隔たりに打たれたと言い添えた。
『Against the Law』のうち1曲だけ、ベースを弾いているのがバンドの人間ではない。アルバム自体はティム・ゲインズが弾いているが、「Shining Star」で必要とされた運びは当時の彼の手の外にあった。そこでバンドの側からも、プロデューサーの側からも同じ名前が出る——ランディ・ジャクソンである。トム・ワーマンは自分の仕事で彼と組んだことがあり、マイケル・スウィートのほうはジャーニーでの演奏で知っていた。呼び寄せられたジャクソンはその曲を数時間で弾き終え、一緒に食事をして笑って別れ、以後スウィートとは一度も顔を合わせていない。あのベースがなければ同じ曲にはならなかった、というのがスウィートの評価である。
『Against the Law』について、マイケル・スウィートは何度も説明をやり直してきた。嫌っていると受け取られ続けるからである。まず彼はアルバムとプロデューサーを切り離す。トム・ワーマンはこの世代を代表する作品を手掛けた人物であり、今も自分の好きなプロデューサーの一人だ、と。彼の後悔が向いているのは選択のほうで、確立し、プラチナを取り、アリーナを埋めた自分たちの音を投げ捨て、よそのバンドになろうとしたことを悔いている。そして彼はこう続ける——あのとき唯一変えるべきで変えなかったのは、バンド名のほうだった。それでいて彼は、収録曲「All For One」を自分にとって最も好きなSTRYPER曲の一つに挙げてもいる。
『Murder by Pride』は、予定が前倒しになったところから生まれている。マイケル・スウィートはある時期に録音が始まると考えていたが、レーベルから連絡が入り、それより早く始めたいと告げられた。彼は相手には言わなかったものの内心で身構え、自分のスタジオに1か月こもって書くことだけに費やす。本人の記憶では、そこで出てきた13曲がそのままアルバムの中身になった。締切が決まれば世間を遮断して曲を出せるのが自分の性分で、それは悪い癖でもあると彼は言っている。
『The Covering』に1曲だけ入っている新曲「God」は、一晩で形になっている。スタジオ入りを前にどうしてもオリジナルを1曲置きたいと考えていたマイケル・スウィートは、ベッドに入ってから旋律を思いつき、階下へ降りてギターを取り、その場で和音を当てた。そして自分の携帯から自宅の固定電話にかけ、留守番電話に旋律を吹き込んでから寝直している。翌朝それを再生して記憶を戻し、台所のカウンターでコーヒーを飲みながら歌詞を書き上げた。彼の作り方は常に旋律が先で、歌詞は最後に回る。
『The Covering』の曲目には、落選した候補がある。バンドは以前からスウィートの「Fox on the Run」を遊びで演奏しており、「Set Me Free」の枠にこれを入れる案も出ていた。外したのはマイケル・スウィートで、理由は演奏ではなく歌詞だった。彼の受け取り方では、体型の変わってしまった女性に対して男がもう名前も知りたくないと歌う曲であり、STRYPERが出すべき言葉ではないと判断している。他人の曲を並べるアルバムでも、題材の適否は選考条件だった。
『No More Hell to Pay』の素材は、数か月かけて携帯電話に溜められたものだった。マイケル・スウィートはiPhoneを持ち歩き、スーパーでも劇場でも飲食店でも、思いついた旋律やリフをその場でボイスレコーダーに吹き込んでいる。集まった断片は40件。そこから自宅の地下スタジオにこもり、2週間で11曲へ組み上げた。本作で彼が書いていないのは、カヴァーの「Jesus is Just Alright」1曲だけである。
『No More Hell to Pay』に収められた「Jesus is Just Alright」は、アーサー・レイド・レイノルズが書いた古い曲で、バーズやドゥービー・ブラザーズらが取り上げてきた。マイケル・スウィートはこれを自分たちのテーマ曲だとし、できれば自分たちで書きたかった曲だと述べている。彼の説明では、バンドは30年にわたって同じことを言い続けてきたが、聞かされる側の多くはイエスを実在しないもの、退屈なもの、あるいは冗談のようなものと見なしてきた。キリスト教徒になることは髪を切ることでも、ロックの服や機材を手放すことでもない、というのが彼が重ねて言うところである。
『Fallen』の1曲目「Yahweh」は、バンドの外から届いた1本のリフから始まっている。マイケル・スウィートの妻は以前からセヴンダストの熱心な聴き手だったが、本人はそのバンドをよく知らなかった。ところが同じ飛行機に乗り合わせたラジョン・ウィザースプーンとクリント・ロウリーの側から声をかけられ、連絡先を交換することになる。後日スウィートがロウリーに、リフをいくつか送ってアルバムに参加してくれないかと持ちかけると即答で承諾があり、届いたのが冒頭のリフだった。それをSTRYPER流に作り替えたのがこの曲で、ロウリーがいなければ生まれなかった曲だとスウィートは言い切っている。
『Fallen』の「Big Screen Lies」が向いている相手はハリウッドである。映画やテレビにキリスト教徒が出てくると、たいていは笑われる側か、呆れられる側に置かれている——長年そう感じてきたことをそのまま曲にしたとマイケル・スウィートは述べている。この曲は業界に向かって腕を突き上げ、描き方が違うことにこちらは気づいている、と言うためのものだという。制作途中の別の取材では、映画産業はキリスト教徒を徹底して間抜けとして描くとさらに強い言い方をしたうえで、実際にそういう手合いもいるが彼らが全員を代表しているわけではないとも言い添えている。
STRYPERのカタログだけで組まれた家庭用ゲームの追加コンテンツが存在する。Digital Praise社は2010年、同社のPC用ギター・コントローラー・ゲーム『Guitar Praise』向けに、バンドの25周年を記念した拡張パックを発売した。中身はSTRYPERの楽曲25曲で、発表文が例示した曲目は『Reborn』『Murder by Pride』の各作と、ライヴ盤『7 Weeks: Live in America』から採られている。単体では動作せず、本体の『Guitar Praise』とワイヤレス・ギター1〜2本を必要とし、価格は19.95ドルだった。同社CEOのトム・ビーンは、STRYPERの音源がゲームという形で流通したのはこれが最初で唯一だと述べている。