SLAYER トリビア 全60件
SLAYERにまつわる事実を、出典付きで60件掲載しています。
Trivia
スレイヤーは2009年10月18日、幕張メッセで開かれた LOUD PARK 09 のトリを務めている。ケリー・キングによれば、直前がオーストラリア公演だったため時差ぼけが無く、前日の土曜日から会場に入ってジューダス・プリーストやアーチ・エネミーを客として観ていたという。本番の1曲目に彼らが選んだのは、まだ発売されていなかった新作の表題曲「World Painted Blood」だった。ほとんどの客が聴いたことのない曲で始めるのは賭けだったが、演奏中に客席を見渡すと巨大なピットができていて驚いた、というのがキングの弁である。
スレイヤーが初めて人前で演奏したのは、1981年10月31日、カリフォルニア州サウス・ゲートのサウス・ゲート・パーク・オーディトリアムで開かれたバンド・コンテストである。入場料は1ドルだった。ジェフ・ハンネマンは後年、出番の前は死ぬほど緊張していたが、演奏が始まった途端に楽しくなったと振り返っている。自分は見せびらかすのが好きなのだと彼は言い、ステージに上がってしまえばあとは最高だったという。
2作目『Hell Awaits』は1985年4月にメタル・ブレイドから出ている。『Show No Mercy』の曲がほとんど4分未満だったのに対し、この作品は全7曲のうち3曲が6分を超える。ケリー・キングの説明では、当時の自分とハンネマンはまだ音楽家として自分たちが何者かを探っている最中で、二人ともマーシフル・フェイトの『Melissa』に入れ込んでいた。だから曲数が少なく、しかも1曲が長い。そしてこういうことは後にも先にもこの1回きりだった、と彼は述べている。
『Hell Awaits』のツアー初日は1985年3月15日、サウスカロライナ州コロンビアのストライダーズだった。この日スレイヤーは60分のセットを2回、19時30分と23時に演奏している。バンドが持ち帰った金額は520ドルで、そこからガソリン代、ハワード・ジョンソンのモーテル代、セブン-イレブンでの買い物、そして鏡の代金が差し引かれていく。この記録は当時のツアー・ノートに残っており、その日のセットリストは赤いインクで書かれていた。
イギリスでの初公演は1985年6月24日、ロンドンのマーキー・クラブだった。500人が入り、外に溢れた客が騒がしくなったため、店の従業員が一時は扉を鎖で閉ざし、中止も検討されたという。緊張が頂点に達したところで扉が開いた。前座はアトムクラフトで、機材の不調でセットを切り上げ、腹いせにバス・ドラムを客席へ転がしていった。スレイヤーはその日15曲を演奏している。
2015年の『Repentless』は、アメリカのビルボード200に4位で初登場し、初週で50,000ユニットを記録した。これはそれまで32年に及ぶ彼らのレコード歴の中で最も高い初登場順位であり、2006年の『Christ Illusion』の5位を上回っている。国別ではドイツと日本のインターナショナル・チャートで1位、オランダ2位、オーストラリア3位、ニュージーランド8位、イギリス11位、日本のチャートでも10位に入った。
スレイヤーは1981年にロサンゼルスで結成された。ジェフ・ハンネマンとケリー・キングがギター、デイヴ・ロンバードがドラム、トム・アラヤがベースとヴォーカルという編成である。土台にあったのはブラック・サバス、ジューダス・プリースト、アイアン・メイデンといった正統的なメタルだった。ただしハンネマンはハードコア・パンクの聴き手でもあり、結果としてはそのことが、このバンドの進む方向を決定づけることになる。
『Reign in Blood』の録音は1986年6月、ロサンゼルスのヒット・シティ・ウェスト・スタジオで始まった。プロデュースはリック・ルービン、エンジニアはアンディ・ウォレス。ルービンの方針は余計なものを削ぎ落としてライヴに近い状態を捉えることで、ギターにもヴォーカルにもリヴァーブをかけないという、当時のメタルの常識に真っ向から反する判断が下されている。セッションは夜10時か11時に始まって明け方まで続いた。ロンバードは、事前のリハーサルが行き届いていたためドラムは3〜4日で録り終えたと述べている。
冒頭曲「Angel of Death」を書いたのはジェフ・ハンネマンである。題材は、アウシュヴィッツ=ビルケナウの収容者から「死の天使」と呼ばれたナチスの医師ヨーゼフ・メンゲレで、ハンネマンはメンゲレについての複数の本を読んだうえで詞を書いた。2009年の取材では、書いた場所が当時の恋人の実家だったことを明かしている。怒っているときは曲が出てこず、機嫌のいいときにこそ邪悪なものが出てくるのだ、というのが彼の弁だった。
『Reign in Blood』は完成後、レーベル側の拒否に遭っている。デフ・ジャムの流通を担っていたコロンビア・レコードの社長ウォルター・イェトニコフが「Angel of Death」を反ユダヤ的だとみなし、冒頭のこの曲を外さなければ発売しないと通告したのである。バンドは外すことを拒み、アルバムはゲフィンを通じて世に出た。ルービンはバンドに、この件はうまく使えば有利に働くと伝えたという。当時スレイヤーが主要誌に取り上げられたのは、この配給拒否が『ローリング・ストーン』で報じられたときだけだった、と米国の音楽記者ドン・ケイは述べている。
完成した『Reign in Blood』は10曲で28分しかなかった。契約上、1枚のアルバムと認められるには最低45分の音楽が必要だったため、アラヤはルービンにこれで問題ないのかと確認している。ルービンの答えは、10曲あってヴァースもリードもコーラスも入っているのだからアルバムだ、というものだった。アラヤは後年、この作品が成功した理由を自分でも説明できないとしたうえで、28分しかなかったこともその一つかもしれないと述べている。
ハンネマンがハードコア・パンクに傾倒した時期を、ロンバードは分かりやすい場面として覚えている。ある日ハンネマンが頭を丸めてリハーサルに現れ、これからは自分はパンクだと宣言し、ブラック・フラッグ、TSOL、マイナー・スレット、デッド・ケネディーズ、サークル・ジャークスといったレコードを抱えてきたのだという。そして1984年、ハンネマンとロンバードは自分たちのパンク・バンドを作っている。名前はパップ・スミア。ギターにはスーサイダル・テンデンシーズのロッキー・ジョージを迎え、ハンネマン自身はギターではなくベースに回った。ヴォーカルはリハーサル場に出入りしていたジョーイ・フックスという若者で、金髪でハンネマンに似ていたため「ジョーイ・ハンネマン」と名乗り、弟のふりをすることにしたという。曲は5、6曲できたが、ライヴは一度も行われていない。
『Seasons in the Abyss』8曲目「Temptation」の、二重に重なって聞こえるヴォーカルは事故の産物である。アラヤは曲に合うと感じた歌い方で一度録り、キングが別の案を持っていたためその指示でもう一度録った。どちらを採るかをルービンに判断してもらおうとしたところ、再生時に誤って両方のトラックが同時に鳴り、それが良かった。キングによれば、ルービンはひと言「クールだ」と頷き、全員が残すことに同意したという。
『God Hates Us All』でスレイヤーはリック・ルービンと離れている。2000年にバンドが録音に入ろうとしたとき、ルービンはこれ以上暴力的で攻撃的なアルバムには関わりたくないと伝え、代わりにマット・ハイドを推した。バンドは映画『Dracula 2000』に使われた「Bloodline」で彼を試し、うまくいったため本編もハイドと作ることになる。録音は2001年春、ブライアン・アダムスが所有するヴァンクーヴァーのウェアハウス・スタジオで行われた。ハンネマンとキングが曲を書き始めたのは1999年春で、Ozzfest 1999 や Tattoo the Earth への出演で作業は何度も中断している。
『God Hates Us All』の発売日は2001年9月11日だった。バンドはその日に何が起きるかを知る由もなく、前日はロサンゼルスの自宅にいた。同時多発テロの直後、多くのミュージシャンが民間機に乗ることをためらった時期に、スレイヤーは9月18日にベルギーのルーヴェンからこのアルバムのツアーを始めている。アメリカ国内の公演は10月29日のニューオーリンズから再開した。
バンドが出来るまでの経緯は偶然の連続だった。当時16歳だったケリー・キングは、1981年にクイッツというカヴァー・バンドで一緒だったトム・アラヤと知り合っている。ジェフ・ハンネマンについては、キングが別のバンドのオーディションを受けている彼を倉庫で見かけ、その場で声をかけた。相手はどこにも所属していなかった。こうして出来たスレイヤーの初ライヴは、1981年のハロウィン、カリフォルニア州サウス・ゲートのサウス・ゲート・パーク・オーディトリアムである。
デビュー作『Show No Mercy』は1983年10月、ロサンゼルスのトラック・スタジオで10日間で録られた。エンジニアはビル・メトイヤー、プロデュースはブライアン・スレイゲル。制作費は3,000ドルで、そのほとんどを出したのはトム・アラヤだった。当時バンドで定職に就いていたのは彼だけで、呼吸療法士として働いていたのである。録音は毎晩0時から6時までの時間帯に行われた。その時間ならスタジオ代が安かったからである。
1984年、ケリー・キングは結成間もないメガデスのライヴに参加している。デイヴ・ムステインのバンドとしての初ライヴは1984年2月17日、バークレーのルーシーズ・インで、14曲を演奏するヘッドライナー扱いだった。キングはそこから数本に加わり、4月18日のサンフランシスコのザ・ストーンまで、合わせて5公演を弾いている。両者を引き合わせたのは、ギター・メーカーのB.C.リッチを介した共通の知人だった。
『South of Heaven』でスレイヤーは意図的に速度を落としている。ハンネマンによれば、何をやっても『Reign in Blood』と比較されることは分かっており、実際に速度を落とすことを話し合ったのだという。1年間ツアーを回った直後で、身体的にも限界だった。表題曲についてトム・アラヤは、1989年のBBCのドキュメンタリー『Arena: Heavy Metal』で、これは地上の地獄についての曲だと説明している。希望が無いと言っているのではなく、自分の目に世界がそう映るのだ、というのが彼の言い方だった。
スレイヤーの歌詞にたびたび現れる実在の犯罪者という主題は、トム・アラヤの読書習慣から来ている。きっかけは弟のジョニーが貸してくれた、1930年代の殺人者アルバート・フィッシュについての本だった。そこからエド・ゲインを扱った『Deviant』へ進み、これが「Dead Skin Mask」になる。『Divine Intervention』の「213」の下敷きになったのはイギリスのデニス・ニルセンについての本で、アラヤはジェフリー・ダーマーの事件と経過がよく似ていることに驚き、ダーマーが報道され始めたときには書ける材料が揃っていると感じたと述べている。
『God Hates Us All』という言葉が生まれた場所は、ロサンゼルスの渋滞の中である。ケリー・キングは、身動きが取れずに苛立ちを募らせていたとき、目の前に「God loves you all」と書かれた大きな広告板があるのが見えたと語っている。今の自分はどう見ても愛されていない、と思ったその感覚がそのまま残ったのだという。この題名を冠した1曲目「Disciple」は、キングが詞を書きハンネマンが曲を書くという、二人が長年やってきたやり方で作られた最後の曲でもあった。
『World Painted Blood』は、曲を用意してからスタジオに入るという通常の順序を踏んでいない。ケリー・キングによれば、プロデューサーのグレッグ・フィデルマンのスケジュールとスタジオの押さえ方を考えると準備の時間が取れず、必然的にスタジオの中で書くことになったのだという。フィデルマンを推したのはリック・ルービンで、2008年10月に行った最初のセッションは、彼がプロデューサーとして適任かを見るための試験期間だった。キングは彼をメタリカやスリップノットの作品に関わったエンジニアとしてしか知らず、合わなければ別の人物に頼むつもりでいたと語っている。
ジェフ・ハンネマンは2013年5月2日の午前11時ごろ、南カリフォルニアの自宅近くで亡くなった。49歳だった。バンドが当日出した発表では、彼は地域の病院にいて肝不全を起こしたとされている。その1週間後、バンドは死因がアルコールに起因する肝硬変であったことを公表した。壊死性筋膜炎の感染が彼の健康をひどく損なっていたことは事実だが、肝臓の状態がどこまで進んでいたかは、本人も近しい人々も最期の数日まで把握していなかったという。またバンドは、報じられていたのとは異なり、彼が移植の待機リストに載ったことは一度も無いと述べている。
『Repentless』はハリウッドのヘンソン・スタジオで、プロデューサーにテリー・デイトを迎えて録られた。これによって、リック・ルービンとの23年に及ぶ制作上の関係が終わっている。曲のほとんどはケリー・キングが書いた。彼によれば、2010年にハンネマンが病に倒れた時点で、ジェフがどれだけ書けるのか、そもそも書けるのかが分からなかったため、すぐに大量に書き溜め始めたのだという。表題曲について彼は、これはジェフのために書いた曲で、自分では「ハンネマンセム」と呼んでいると述べている。
スレイヤーは2018年1月22日、最後のワールド・ツアーで活動を終えると発表した。告知には、経歴全体にわたる記事の切り抜き、初期のポスター、宣材写真をつないだ映像が使われている。ツアーは2018年5月10日から2019年11月30日まで、1年半にわたって7つの行程に分けて行われ、30か国と全米40州で140を超える公演を数えた。最後の行程は The Final Campaign と名付けられ、プライマス、ミニストリー、フィリップ・H・アンセルモ&ジ・イリーガルズが全日程に帯同した。最終公演は2019年11月30日、カリフォルニア州イングルウッドのフォーラム。20曲の本編は「South of Heaven」で始まり「Angel of Death」で終わっている。
2015年の来日では、LOUD PARK 15 の初日(10月10日)のヘッドライナーに加えて単独公演が2本組まれた。10月6日の大阪なんばHATCHと、10月8日の東京・新木場STUDIO COASTである。前座は同じマネージメントに所属するフランスのゴジラで、こちらは正真正銘の初来日だった。STUDIO COAST でのスレイヤーの演奏は90分を超えている。翌9日の午後、トム・アラヤは都内で取材に応じ、日本のファンは世界のどこのファンとも変わらず、とにかくクレイジーになるのだと語った。以前より解放されているようにも感じるという。そして客席に若い顔が増えており、その中には親からバンドのCDを全部譲り受けたという者もいる、と述べている。
デビュー作を出した直後の1984年1月28日、スレイヤーはロサンゼルスを出て北上し、バークレーのルーシーズ・インで初めて演奏している。この店での評判は良く、数か月後に再訪した際、地元誌の編集者ロン・キンターナは、スレイヤーが今夜ルーシーズに戻ってくる、ただし前回のアイライナーは無しで、と書いた。初期の彼らが目のまわりを黒く塗っていたことと、それを早々にやめたことが、この一行から分かる。
デビュー作『Show No Mercy』は1983年12月3日、メタル・ブレイド・レコードから出た。レーベル自身が40周年の告知の中でこの日付を明記しており、参加編成もトム・アラヤ(ヴォーカル、ベース)、ケリー・キング(ギター)、ジェフ・ハンネマン(ギター)、デイヴ・ロンバード(ドラム)と記載している。
スレイヤーがアメリカ国外で初めて演奏したのは、1985年5月26日、ベルギーのポペリンゲで開かれた Heavy Sound Festival である。それまでで最大の観客数で、バンド自身が集まった人数に驚いたという。ツアー・マネージャーのダグ・グッドマンによれば、直前のバンドがセットを終えてアンコールに応えようとしたところ、客席が一斉に「スレイヤー」と連呼し始め、そのままステージから追い出す形になったという。
『South of Heaven』を携えた1988年8月から1989年1月にかけての World Sacrifice Tour は、機動隊、ヘリコプター、逮捕者、客同士の衝突で記録に残っている。ニューヨークのフェルト・フォーラムでは混乱を収めるためにバンドが途中でステージを降りることになり、トム・アラヤは客席に向かって、自分たちで台無しにしたのだと言い放った。
「Seasons in the Abyss」のミュージック・ヴィデオが撮影されたのは、1990年、ギザの大ピラミッドである。監督はマルクス・ブルンダーで、彼は砂漠のセットで舞台裏のスチール写真も撮っていた。その写真は長く行方が分からなくなっており、近年になってバンドのアーカイブから再発見されている。
スレイヤーは1996年の第1回オズフェストに出演している。当時のオズフェストはまだアリゾナ州フェニックスとカリフォルニア州サンバーナディーノの2会場だけの催しだった。その後この祭典が大きくなってからも、彼らは1998年、1999年、2002年、2004年、2016年と繰り返し呼ばれている。1999年の出演について『ワシントン・ポスト』紙は、その日の顔ぶれの中で最も重く最も速く、こだわりのある聴き手にとってはその日の最良だったと評した。
最初の2作『Show No Mercy』と『Hell Awaits』は、アメリカのアンダーグラウンド・レーベル、メタル・ブレイドから出ている。同レーベルのオーナー、ブライアン・スレイゲルは、自分のところは小さな会社でバンドは急速に大きくなっており、メジャーへ移るのは筋が通っていたと語る。実際にキャピトルやワーナー・ブラザーズとの面談が持たれたが、最も強く口説いたのはデフ・ジャムのリック・ルービンで、バンドは彼を選んだ。
リック・ルービンがスレイヤーを初めて観たのは、ニューヨークのザ・リッツでのライヴだった。本人の説明では、その時点でバンドについて何も知らないまま足を運び、圧倒されたのだという。当時ルービンが率いていたデフ・ジャムはラン・DMCなどを抱えるヒップホップのレーベルであり、スラッシュ・メタルのバンドが行き着く先としては筋の通らない場所だった。アラヤは、大手から資金を得たばかりの人物が、ファンとして自分たちと組みたがっている状況をこれ以上ない幸運だったと振り返っている。
「Raining Blood」はスタジオに入った時点でまだ詞がついていなかった。アラヤによれば、彼らは毎回スタジオで曲を仕上げており、この作品でそうなったのがこの曲だったという。ケリー・キングは、ハンネマンが中で別のトラックを録っている間に自分がスタジオのロビーで書き上げたと述べている。ハンネマンはその部分について案を持っていなかったため、キングが引き取った形である。
『Reign in Blood』に向かう時期に、バンドの曲作りのやり方そのものが変わっている。それまでは全員が集まって叩き上げていたが、ハンネマンが録音機材を買い、基本的なドラム・パターンとリフ、簡単な構成まで入れたデモを自分で作ってカセットで持ち込むようになった。ロンバードは、それによって彼が何をやろうとしているのかが一目で分かるようになったと述べている。次の作品が前作より速くなること以外、バンドが決めていたことは何も無かったという。
『Reign in Blood』のアメリカのビルボードのチャートでの最高位は94位である。極端な内容の作品としては健闘した数字だが、同時期のメタリカ『Master of Puppets』のような商業的爆発ではなかった。それでもメタル・ブレイドのブライアン・スレイゲルは、極端で重い音楽を一般のリスナーのところまで持ち出した作品としてはこれが最大の商業的成功だったと述べている。
『Reign in Blood』のツアーは1986年のハロウィンに、シアトルのムーア・シアターで始まった。前座はニュージャージーのオーヴァーキルで、同バンドのボビー・ブリッツ・エルスワースは、登場した瞬間に濡れた紙タオルやジッポー、硬貨が飛んできたと振り返っている。彼によれば客席が煽られて徐々に荒れたのではなく、最初から荒れていた。ロンバードは、終演後に会場を歩くと床に血だまりができていることがあったと述べている。
そのツアーの途中でロンバードが脱退している。本人の説明は金銭面で、メジャーと契約して大がかりなツアーに出ているのに、帰ってきても基本的な支払いができないことに納得がいかなかったというものである。残りのW.A.S.P.のツアーはニューヨークのウィップラッシュのトニー・スカリオーネが叩いた。ロンバードによれば、その間ルービンがほぼ一日おきに電話をかけてきて、戻る気になったときには自分で車を出して迎えに来てリハーサルへ連れて行き、メンバーに引き合わせ直したという。
ハンネマンはパップ・スミアで1枚録るつもりでいたが、『Reign in Blood』の作業に入っていたリック・ルービンに止められている。ロンバード自身も、意識がスレイヤーから逸れていると感じていたと述べている。結局パップ・スミアのデモは未発表のままだが、「D.D.A.M.M.」と「Can't Stand You」の2曲は、1996年のパンク・カヴァー集『Undisputed Attitude』でスレイヤーとして録り直された。
「Dead Skin Mask」は、連続殺人犯エド・ゲインを扱った書籍『Deviant: The Shocking True Story of Ed Gein, The Original Psycho』を下敷きにしている。4分13秒あたりで聞こえる幼い子供の声は、バンドの友人マット・ポーリッシュによるものである。アラヤは彼に、遊びをやめて早く帰ってきなさいと言われた子供のつもりで話すよう頼み、録った声を子供に聞こえる高さまでピッチを上げた。ハンネマンはこの曲をアルバムで一番気に入っており、リフがとにかく不気味なのだと語っている。
それまでのスレイヤーの曲作りはハンネマンとキングが主導していたが、『Seasons in the Abyss』ではアラヤが大きく関わっている。全10曲のうち4曲を彼が書き、さらに2曲をハンネマンと共作した。アラヤは2008年の取材で、これが全員で座って一緒に作った最後のアルバムであり、完成した曲を渡されるのではなく自分も曲作りの一部だと感じられた最後の作品だった、と述べている。なお録音の期間中、ハンネマンとアラヤは同居していた。
『Seasons in the Abyss』は、ラジオでかかることのないバンドの作品でありながら、それまでの2作を数字の上で上回った。アメリカでは40位に入り、これがスレイヤーにとって初のトップ40である。イギリスでは18位。ゴールド認定は3作目で、しかも前の2作より短い期間で到達している。
『Seasons in the Abyss』を携えて、スレイヤーはメガデスとの Clash of the Titans ツアーに出ている。9月からのヨーロッパ公演ではテスタメントとスーサイダル・テンデンシーズが前座に付き、翌春のアメリカ公演ではアンスラックスとアリス・イン・チェインズが加わった。この最初の行程は1990年10月14日のウェンブリー・アリーナ公演で幕を閉じており、スレイヤーはその日の映像を「War Ensemble」のヴィデオに使っている。アラヤはこのツアーでアリス・イン・チェインズのジェリー・カントレルと親しくなり、後に同バンドの1992年作『Dirt』の「Iron Gland」にゲスト参加した。
アメリカのドラマ『Californication』の主人公である作家ハンク・ムーディーは、自作の小説にスレイヤーのアルバム名を付けている。1作目が『South of Heaven』、2作目が『Seasons in the Abyss』、3作目が『God Hates Us All』である。しかもこの3作目については、出版社サイモン&シュスターが実際に同名の本を刊行しており、劇中の設定が現実の書籍として存在する状態になっている。
ロンバードが1992年にバンドを離れた理由については、本人の説明が時期によって食い違っている。2014年には、息子の誕生に立ち会うために抜けたのだ、それだけだと述べている。一方2008年に『Decibel』誌に語ったところでは、エジプトでピラミッドを見てカイロの砂地を馬で走った旅の頃に、自分の気持ちがもう続いていないことに気づいたのだといい、このときは金銭の問題ではなく興味を失ったのだと明言している。彼は2006年の『Christ Illusion』から2度目の在籍に入り、2013年に離れた。
『God Hates Us All』でドラムを叩いたのはポール・ボスタフである。彼は2001年末に肘を痛め、9年在籍したバンドを12月7日に離れた。当時バンド側が出した資料は慢性的な肘の故障を理由として挙げているが、ボスタフは後に、辞めた本当の理由は音楽的なものだったと述べている。彼によれば腕の不調はソフトボールで負った古傷で、空港でノートパソコンを持ち上げた際にぶり返したものだった。
スレイヤーは『Reign in Blood』以降、リック・ルービンのアメリカン・レコーディングス(およびその前身)と長く関係を続け、離れたのは2015年である。この年、11作目のスタジオ・アルバム『Repentless』をニュークリア・ブラストから出すことが発表された。ケリー・キングは『Seasons in the Abyss』について、ルービンが実質的に関与した最後の作品はおそらくこれで、以降の彼はドラムとヴォーカルとミックスのときだけ現れるタイプのプロデューサーになっていった、と述べている。
スレイヤーが初めてレコードに音を残したのは自分たちのアルバムではない。メタル・ブレイドのブライアン・スレイゲルは1983年7月、アナハイムでビッチの前座に出ていた彼らを観ている。持ち時間は短く半分はカヴァーだったが、重さと激しさが際立っていたという。スレイゲルは当時のマネージャーに声をかけてコンピレーション『Metal Massacre III』への参加を打診し、1983年秋に出た同作の1曲目に「Aggressive Perfector」が収められた。
『Reign in Blood』のジャケットを描いたのはラリー・W・キャロルである。彼は2枚の絵を仕上げて持ってきたが、バンドはそれを1枚の画面にまとめるよう求めた。最終的な体裁を与えたのはデザイナーのスティーヴ・バイラムで、彼は同じ年にビースティ・ボーイズの『Licensed to Ill』のジャケットを手掛けたばかりだった。当のバンドの反応は冷ややかで、キングは1987年にメタル・ハマー誌に対し、誰もこのジャケットを望んでいなかったと述べている。ただし後年の彼の評価は逆で、このアルバムが古典になった理由の一つはジャケットの衝撃だとしている。
「Angel of Death」を書いた当時、ハンネマンはメンゲレについての本を数冊手に入れたばかりだった。彼の父は第二次世界大戦に従軍しており、戦死したドイツ兵から取った勲章を持ち帰っていたという背景もある。録音でのトム・アラヤの冒頭の絶叫については、全部で3、4回録ったが2回目で欲しいものが録れていた、というのが本人の説明である。
「Raining Blood」は2001年、トーリ・エイモスがアルバム『Strange Little Girls』でカヴァーしている。きっかけはベックのベーシスト、ジャスティン・メルダル=ジョンセンで、メタルの曲を1曲やってみてはどうかと勧め、自分の愛聴盤である『Reign in Blood』を彼女に聴かせたのだという。ハンネマンは2011年の取材で、この曲の数あるカヴァーの中で彼女の版が最も独創的だと認めている。キングの反応はもっと率直で、本人に言われなければ自分たちの曲だと気づかなかっただろう、と述べている。
「Seasons in the Abyss」のミュージック・ヴィデオはエジプトで撮影されている。これを言い出したのはリック・ルービンで、バンドに対し、エジプトへ飛ばすからそこで撮ってほしいと持ちかけたのだという。撮影が行われたのは湾岸戦争へ向けて情勢が動いていた時期で、軍事演習が行われ、外交交渉が組まれ、防空壕が作られていくその只中でスレイヤーがヴィデオを撮っていた、というのがルービン自身の回想である。
ポール・ボスタフがスレイヤーに入るまでには一段階ある。ケリー・キングは彼のフォービドゥンでの演奏を聴いて、特別なところは無いと一度は見切っていた。考えを変えたのはギター・テックの一言で、もう一度ちゃんと聴いてみろと言われたのだという。ボスタフは『Divine Intervention』の前にオーディションを受け、その場で決まった。
『Diabolus in Musica』という題名は、ある音の並びの呼び名から採られている。トム・アラヤの説明では、これは1400年代に教会によって禁じられた音階で、人の中の悪魔を呼び出すと考えられていたのだという。この作品は本来1997年に出るはずだったが、レーベルのアメリカン・レコーディングスがコロンビアに買収されたため遅れ、発売は1998年6月9日になった。初週の売上は約46,000枚で、アメリカのビルボードで31位、イギリスで27位に入っている。
『Diabolus in Musica』はほぼハンネマン一人で書かれている。本人の説明では、前作『Divine Intervention』のときは行き詰まって気に入るリフが出てこず、気づいたときにはキングがほとんどを書き上げていた。その反省から今度は自分が本腰を入れたのだという。一方のキングはこの作品を、自分たちの歴史の中でおそらく最も好きではない1枚だと述べている。
2006年の『Christ Illusion』は、アメリカのビルボードのアルバム・チャートに5位で初登場している。ケリー・キングは同年の取材で、自分たちは確かに爪痕を残したと言えるし、レーダーにでかい点を打った、この順位を見れば誰かが注目しているのだろう、と述べている。この作品はデイヴ・ロンバードが2度目の在籍で参加した最初のアルバムでもある。
2011年1月、ジェフ・ハンネマンは壊死性筋膜炎にかかった。原因は蜘蛛に咬まれたことではないかとされている。以後、手術と皮膚移植とリハビリが続き、彼はツアーに戻れなくなった。ケリー・キングによれば、負傷からおよそ7か月が経った頃から、ツアーのたびに彼をリハーサルに呼んで復帰させようとしていたという。本人も努力していたが状態が伴わず、まだ無理だと本人に告げなければならなかったことを、キングは自分が口にした中で最もつらい言葉だったと述べている。この間、スレイヤーのツアーでギターを弾いたのはエクソダスのゲイリー・ホルトである。
ゲイリー・ホルトがスレイヤーのツアー・ギタリストになったのは2011年1月、ハンネマンが倒れた時点である。エクソダスのメンバーでもある彼は、『Repentless』の曲作りには関わっていないが、同作の12曲のほとんどでギター・ソロを弾いている。最終公演の翌日に出した別れの言葉で彼は、自分はこの役目を望んだことなど一度も無く、そこに立っているべきだったのはジェフだったと書いた。そして硬膜外注射3回、コルチゾン注射7回、トリガー・ポイント注射を挙げ、それでも痛みの一秒一秒に見合うものだったと続けている。
その最終公演から4年あまりを経た2024年2月21日、スレイヤーはステージに戻ることを発表した。編成はトム・アラヤ、ケリー・キング、ゲイリー・ホルト、ポール・ボスタフ。発表されたのは同年9月の大型フェス2本のヘッドライナーで、22日にシカゴの Riot Fest、27日にルイヴィルの Louder Than Life である。復帰後最初の公演となった Riot Fest では20曲を演奏し、その半分を『Reign in Blood』と『Seasons in the Abyss』が占めた。「Reborn」は2014年以来、「213」は1998年以来の演奏だった。