METALLICA トリビア 全11件
METALLICAにまつわる事実を、出典付きで11件掲載しています。
Trivia
公式サイトの通史は、バンドの誕生日を1981年10月28日と明記している。きっかけは求人広告で、ラーズ・ウルリッヒがロサンゼルスのフリーペーパー『The Recycler』に出した広告を通じて、ジェイムズ・ヘットフィールドと顔を合わせたのが始まりだった。ほどなくして、ヘットフィールドの友人で同居人でもあったロン・マクガヴニーがベースに、デイヴ・ムステインがリード・ギターに迎えられている。つまり最初の編成には、後に世界的に知られることになる4人のうち2人しかいない。
METALLICAという名前を思いついたのは、バンドのメンバーではない。公式の通史によれば、この名前はベイエリアのメタル・シーンにいた友人ロン・キンターナの提案を受けて採られたものである。つまりバンドは、外から差し出された言葉を自分たちの名前として引き受けたことになる。
『Master of Puppets』は、アメリカ議会図書館が保存対象として選ぶ National Recording Registry に収められている。発表は2016年3月で、その年に加えられた25作品のうちの1枚だった。選定の基準は文化的・歴史的・美的に重要であることで、対象となるのは発表から10年以上を経た録音に限られる。バンド自身は公式サイトで、1986年当時の自分たちは主流からかなり外れたところにいたと振り返り、この選出に驚きを隠していない。
2013年12月8日、METALLICAは南極大陸のカルリーニ基地でライヴを行った。会場はヘリポート脇のドームで、観客は基地の研究者と応募で選ばれた当選者を合わせた120人。約1時間で10曲が演奏された。この公演には他に類のない条件が付いている。環境への騒音を避けるため、音は通常の拡声装置を使わず、観客全員が着けたヘッドフォンへ送られたのである。バンド自身はこれを自分たちのサイレント・ディスコと呼んだ。この一夜によって、彼らは12か月のうちに7大陸すべてで演奏した最初のバンドになった。
1作目『Kill 'Em All』を録るために、バンドはニューヨークまでU-Haulのレンタル・トラックで移動している。話を持ちかけたのは東海岸のメタル商人ジョン・ザズラで、彼のインディー・レーベル Megaforce Records との契約が動き出したのが1983年のことだった。そして到着からまもない同年4月、リード・ギターのデイヴ・ムステインが外れ、EXODUSにいたカーク・ハメットが加わる。デビュー作の録音は、その顔ぶれで始まった。
2作目『Ride the Lightning』が作られたのは、アメリカではなくデンマークだった。公式の通史によれば、バンドは1984年の夏をコペンハーゲンのSweet Silence Studiosで過ごし、プロデューサーのフレミング・ラスムッセンと組んで録音している。ラスムッセンとの関係はここから続き、次の『Master of Puppets』、さらに4作目『...And Justice for All』にも及んだ。
1986年9月27日、スウェーデンでの移動中にツアー・バスが横転し、ベースのクリフ・バートンが亡くなった。バンドが次のベーシストを迎えるまでには、40人を超えるオーディションが行われている。最終的に選ばれたのは、FLOTSAM & JETSAMにいたジェイソン・ニューステッドだった。公式の通史は、バートンがジャムと実験を重ねるDIYの姿勢と、確かな音楽理論の知識の両方を持ち込んだ人物で、バンドの音楽的成長への影響は計り知れなかったと記している。
1987年に出したカバー曲のEP『The $5.98 E.P. - Garage Days Re-Revisited』は、スタジオを借りずに作られている。録音場所はラーズ・ウルリッヒのガレージで、しかもそこを小さなスタジオに仕立て直す作業自体、バンドが自分たちの手で行ったものだった。ジェイソン・ニューステッドを迎えてすぐの時期の作品である。
4作目『...And Justice for All』の制作は、一度つまずいてから立て直されている。当初はGUNS N' ROSESの仕事で知られるマイク・クリンクとの作業が試みられたが、それがうまく運ばなかった。そこで『Ride the Lightning』『Master of Puppets』を手掛けたフレミング・ラスムッセンが再び呼び戻され、今度はロサンゼルスのOne On One Studiosで録音が進められた。1988年8月に発売された本作は、全米チャートで6位に入っている。
METALLICAが初めてミュージック・ビデオを作ったのは、結成から7年が経った1988年、『...And Justice for All』収録の「One」でのことだった。それまでバンドは映像を作らずに来ている。公式の通史はこの映像を、暗く、モノクロで、暴力的で、感情を揺さぶるものと形容し、バンドの他に類を見ない性格を際立たせた作品だと位置づけている。
1991年のセルフ・タイトル作、通称ブラック・アルバムから、バンドの規模は別物になった。新たに迎えたプロデューサーのボブ・ロックは、より厚みのある音と、より率直な曲の組み立てへバンドを導いている。作品は世界各国で発売と同時に1位に立ち、その位置を数年にわたって手放さなかった。公式の通史によれば全世界で1600万枚以上を売り上げ、これに伴うツアーは3年で約300公演に及んだ。ガンズ・アンド・ローゼズとの共同ヘッドライナーによるスタジアム・ツアーも、この時期のことである。