MASTODON トリビア 全33件
MASTODONにまつわる事実を、出典付きで33件掲載しています。
Trivia
メジャー移籍第1作『Blood Mountain』の日本盤(WPCR-12457)は2006年10月11日に発売され、13曲目に「Crystal Skull」のライヴ・ヴァージョンが国内盤限定のボーナス・トラックとして加えられた。ワーナーミュージック・ジャパンの商品ページが最初に掲げているのは音楽の説明ではなく「ラウド・パーク06で来日公演決定!!」の一行である。ラウドパーク06の初日は10月14日で、国内盤はその3日前に店頭に並んだことになる。
日本盤の付加価値は、いつも曲とは限らない。『Once More 'Round the Sun』の日本盤(WPCR-15738、2014年6月25日発売)でワーナーミュージック・ジャパンが売り文句に据えたのはボーナス・トラックではなく、メンバー自身が書いた全曲解説の訳を国内盤だけに掲載する、という一点だった。同じ商品ページには収録11曲すべてに片仮名の邦題読みも併記されている。
2014年、『Once More 'Round the Sun』のプロモーションで日本の取材に応じたビル・ケリハーは、MASTODONとして最後に日本へ行ったのは津波の前で、たしかLOUD PARKだったと思う、と記憶をたどっている。ただし彼個人はその年の初めに別のバンドで東京と名古屋を訪れており、そのときは「まんだらけ」でおもちゃを買い込んだという。日本のアニメとおもちゃが好きだから、というのがその理由である。
第60回グラミー賞で「Sultan's Curse」が最優秀メタル・パフォーマンス部門を制したとき、それはMASTODONにとってキャリア初のグラミー受賞だった。同部門に並んだのはAugust Burns Red、Body Count、Code Orange、MESHUGGAHで、このうち後の3組はいずれも初ノミネートである。受賞後のバンドがまず名前を挙げたのは自分たちではなく、道を切り開いた先達のほうで、JUDAS PRIESTとBLACK SABBATHへの謝辞が真っ先に出た。
2006年のラウドパーク06(10月14・15日、幕張メッセ9・10・11ホール)で、MASTODONが割り当てられたのは2日目のステージだった。公式サイトの出演者一覧では、この日のステージ名は「THE UNHOLY ALLIANCE Stage」で、SLAYER、CHILDREN OF BODOM、IN FLAMES、LAMB OF GOD、BLOODSIMPLEと並んでいる。同サイトの告知を追うと日本での日程はそこで終わっていない。翌16日は新木場スタジオコーストのSLAYER単独公演に「SLAYER(with MASTODON)」として組み込まれ、17日にはZepp Osakaの「LOUD PARK Osaka」でSLAYER、IN FLAMESとともに名前が挙がっている。3夜連続の日程である。
バンドの代表曲「Blood and Thunder」を開く重い刻みを書いたのは、ギタリストではなくドラマーのブラン・デイラーである。当時の彼はギターをほとんど弾けず、ビル・ケリハーは、自分がドラムを叩けないのと同程度だと評している。それでもデイラーは思いついたリフをケリハーの手に渡す役回りを続けていた。問題はリズムの捉え方が二人で違ったことで、デイラーが叩いて示す拍とケリハーの演奏がどうしても噛み合わない。アクセントの置き所を直されたケリハーは、その一点の違いを新しい数学を習うようだったと表現している。デイラー側の記憶では、リフが形になったとき全員が同じ部屋に居合わせ、あまりに気持ちが良くて延々と繰り返し続けたという。
「Blood and Thunder」の中間部で吠えているのはバンドの誰でもなく、CLUTCHのニール・ファロンである。両バンドは直前に6週間のツアーを共にしていたが、MASTODON側はファロンのファンでもあったため、参加を頼み出す度胸がなかなか出なかったという。録音時の待遇も律儀だった。当時の宿は長期滞在型モーテルの2部屋を4人で分け合う状態だったが、ファロンが自分のパートを入れに来ると4人が1部屋に固まり、隣の1部屋を彼に明け渡した。壁越しに呼ぶ声が聞こえて何人かが行ってみると、そこまでしなくていい、誰か一緒に泊まればいい、自分は床で寝てもかまわない、とファロンは言ったそうだ。
『Crack the Skye』には映画版の構想があった。帝政ロシア、幽体離脱と時間旅行、ワームホール、信仰といった要素を抱えた筋書きは映像向きで、バンドは本気で映画にしたいと考えていたという。断念の理由は費用である。ブラン・デイラーによれば、使える予算はすべて、ライヴで背景に流すためのクリップ制作に消えた。その出費自体は無駄ではなかったと本人は言う。残された道は4人で企画書を書き、誰かがスーツを着てハリウッドのスタジオに売り込みに行くことだけだが、それは自分たちのやることではない、として、逃がした野心の一つに数えている。
「Curl of the Burl」の題材は、木のこぶを盗む人々である。バール(瘤)とは木がストレスを受けた時期にできる腫瘍のような節で、そこには渦の詰まった独特の木目が生まれる。家具職人は良いバールに高い金を払う。ブラン・デイラーはそこから、太平洋岸北西部でメタンフェタミン中毒の一団がチェーンソーを担いで森に入り、完璧な一個を探し当てて町の家具職人に売りつけようとする、という筋書きを思いついた。『Crack the Skye』のあと彼は樹木の伝承や木の生態についての本を買い込んでおり、この作の裏の主題は木だったと語っている。なお歌い出しの物騒な一行はデイラーの筋書きとは繋がらず、その意味を問われたブレント・ハインズは最後まで謎めかした答えしか返さなかった。
『Once More 'Round the Sun』のジャケットを描いた画家スキナーは、絵に取りかかる前にブラン・デイラーと話し込んでいる。デイラーが伝えたのはアルバム名の着想と、太陽を一匹の獣として捉える見方だった。生と死の幅そのものを体現する存在としての太陽である。スキナー自身は長年のMASTODONのファンで、自分を信じるからバンドのために宇宙を丸ごと絵にしてくれ、というような依頼を受けたのは初めてだったと振り返っている。彼が狙ったのは、ジャケットが聴き手の感じ方を左右していた時代の感覚を取り戻すことで、それは今では失われつつあるものだと述べている。
『Emperor of Sand』のプロデューサーは、あやうくトニー・ヴィスコンティになるところだった。当時バンドはデヴィッド・ボウイの新作に感服しており、ブラン・デイラーは会うためにニューヨークまで出向いている。ところが結局、会わずに引き返した。理由はメンバー各自の事情だった。ビル・ケリハーは母を看取る最中、トロイ・サンダースにも抱えているものがあり、デイラー自身も状況が良くなく、ブレント・ハインズは別バンドで飛び回っていた。この状態で全員がニューヨークに移って作るのは無理だと判断したのである。代わりに選ばれたのが『Crack the Skye』で組んだブレンダン・オブライエンで、決め手は腕前だけではない。オブライエンがアトランタ近郊の人間であり、狙っていたスタジオもケネソーのThe Quarryだったため、通いは長くとも全員が毎晩自分のベッドで眠れた。バンドにはその足場が要る状態だった。
『Emperor of Sand』の相当部分は、病床の脇で書かれている。制作中、ビル・ケリハーの母親は癌で亡くなろうとしていた。彼は母に食事をさせ、手を握り、母が眠るとヘッドフォンを着けてギターをパソコンに繋ぎ、その傍らで弾き、書いた。理由は創作意欲ではない。そうしていなければ泣き崩れて正気を保てなかったからだと本人は言う。数年後の別の取材でも、ホスピスのベッドの脇にノートパソコンとギターを持ち込み、このアルバムのデモのオーバーダブの多くをそこで録ったと語っている。
アルバムの幕を開ける「Sultan's Curse」の主リフは、6年ほど使われずに眠っていたものである。ビル・ケリハーの手元にはこのリフと、曲の最後に置くリフ、それにブリッジがあった。しかしそれらを繋ぐヴァースとコーラスがどうしても出てこず、リフ自体は会心の出来なのに置き場所がない状態が続いた。本人はこれを、仲間のいない一匹狼のようだったと表現している。形になったのは『Emperor of Sand』の制作時で、結局アルバムの1曲目を任される曲になった。
『Hushed and Grim』でプロデューサーが替わったのは、バンドの希望ではなかった。『Crack the Skye』と『Emperor of Sand』の仕上がりに満足していた彼らはブレンダン・オブライエンと再び組む気でいたが、レーベルのWarner Bros.が他の候補とも話すよう求めたのである。その一人がデイヴィッド・ボトリルだった。TOOLと親しいMASTODONがプロデューサーを探していると伝えたところ、彼と組んだ経験のあるTOOL側から強く推されてもいた。決め手はボトリルの準備量で、最初のオンライン通話の時点でデモを全曲聴き終えており、曲ごとに具体的な指摘を山ほど用意していた。実作業にも彼の発想が入っている。同じフレーズのクリーン・ギターを5本重ね、基準ピッチをA=440から442、445、446と少しずつずらして録る手法で、わずかに揃わない5本が自然なコーラス効果を生んだ。テンポを落とすことを知らないバンドの癖を抑えたのも、曲が同じキーに長く留まったときに転調と定型の進行で戻すよう促したのも彼だった。
『Marrow Deep』の通し主題は、ギリシア神話の運命の三女神モイライである。神話を持ち込もうと言い出したのはブラン・デイラーで、三女神を軸に置くという案も彼のものだった。トロイ・サンダースは、バンドの中核が自分とビル・ケリハーとデイラーの3人であることは偶然だろうと断りつつ、過去・現在・これから進む先という三つの時間が今のMASTODONの状態にそのまま重なるので、着想としてよくできていると述べている。アルバムを締めくくる12曲目の題は「The Three Fates」である。
『Marrow Deep』の材料は、ツアーの移動中に溜まっていったものである。ビル・ケリハーはPro Toolsの機材を持ち歩いて絶えず書き続けており、トロイ・サンダースの記憶では、制作が本格的に動き出したのは2024年、LAMB OF GODとの北米ツアー「Ashes of Leviathan」の最中だった。『Hushed and Grim』のツアーを打ち切って次に移らねばならないという意識が、この時期に強まったという。2025年前半はケリハー宅の地下にある小さなスタジオでのデモ作業に費やされ、骨組みだけの曲が32本まで膨れ上がった。多すぎるので、そこから絞り込む作業が始まる。レコーディングの開始は2025年9月。5人が同じスタジオに揃っていた期間は5週間で、サンダースはこの作品で最も誇らしいのは音そのものではなく、その5週間に全員の足並みが揃っていたことだと語っている。
バンド名が決まったのは、ビル・ケリハーの部屋のソファの上だった。2000年、候補を出しては潰していたところで、ブレント・ハインズがケリハーの腕のタトゥーに目を留める。スター・ウォーズ好きのケリハーが彫っていたボバ・フェットの意匠が、ハインズにはマンモスの頭骨に見えたのだという。あの鼻の長い先史時代の象のような生き物は何という名前だったか、と聞かれたケリハーが「マストドンか?」と返し、その場で全員の答えが出た。ただし綴りまでは詰めておらず、最初の数公演で売ったTシャツには Mastadon と刷られている。あとで調べたら正しいのは o の方だった、とケリハーは振り返っている。
マストドンに落ち着くまでには、長い候補リストがあった。ケリハーが挙げて見せた没案は Abra Cadaver、Everyday I'm Dead、Savage Hamper、Rabid Taxi、そして Fishy Joe and the Pickles である。同じ取材でケリハーは、バンド名は中身をひと目で見せる包装のようなものでなければならないという考えを述べ、良い名前の例として、水の上を走る爬虫類を指す The Jesus Lizard と Neurosis を挙げている。逆に、名前の悪さがバンドの足を引っ張った例も心当たりがあるという。
のちにマストドンの中核になる二人は、最初は客と演者だった。ニューヨーク州ロチェスターに出てきたばかりのビル・ケリハーは、友人に連れられて地元バンド Lethargy を観に行く。ドラムを叩いていたのがブラン・デイラーで、ケリハーは他州から来たツアー・バンドだと思い込むほど巧いと感じたという。その Lethargy がギタリストを1人欠いたのをきっかけにケリハーが加入し、数年を共にする。ただし当時の二人は親しくはなく、練習と酒の席で顔を合わせる程度だった。距離が縮んだのはその後、デイラーが Today Is The Day に誘われ、数か月後にベーシストとしてケリハーを呼び戻してからで、マサチューセッツ州クリントンの小さな町でデイラーの狭いスタジオに二人きりで籠もり、映画を流しながら朝まで音を出す日々を通じてだった。
結成の逸話としては、アトランタでの High on Fire 公演で四人が出会ったという筋が知られている。ただしケリハー自身の説明はもう少し込み入っている。Today Is The Day のツアーの合間にアトランタの恋人を訪ねた際、彼はすでにブレント・ハインズと面識を得ていたという。バンドが空中分解した後、その恋人の住まいを頼りにデイラーを誘ってアトランタへ移り、ちょうど自分たちの側も曲を書き始めていたところで、解散寸前だったハインズとトロイ・サンダースと合流する。持ち寄られたのは、南部でのツアーの土地勘、サンダースのヴァン、前のバンドから余っていた曲、そしてケリハーたちの数曲だった。さらに Today Is The Day の縁で Relapse Records が最初から関心を示しており、レーベルは新バンドが最初に録ったものを聴かせろと言ってきていた。
バンドが最初に世に出した音源は、文字通り手作りだった。トロイ・サンダースによれば、のちに『Lifesblood』となるこのEPはもともと Nine Song Demo と呼ばれており、4週間から6週間ほどでまとまったという。プレス工場には出していない。自宅のDVDデュプリケーターで1枚ずつ焼き、有り金を持ってコピー店へ行ってジャケットを複写し、それで手元に残ったのは60枚ほどだった。しかもその作業は完結していなかった。会場へ向かうヴァンの中で切っては貼り、着くまでに製品にしていたのだと本人は語っている。
ニック・ジョンストンがこの席に座ることになった発端は、コーヒーの席だった。ジョンストンは業界の仕組みが分からなかった時期にブレンドン・スモールを助言者として頼っており、二人でよく落ち合っていた。そこへある日ブラン・デイラーが顔を出し、意気投合する。ジョンストンは、自分がガヴィン・ハリスンやマルコ・ミンネマンら名うてのドラマーと組んできたことが、デイラーに「知っている相手」だと感じさせたのではないかと見ている。何かあったら最初に電話するのは君だ、とデイラーは当時言っていたそうで、実際にそのとおりになった。ケリハーの側も、求めているのは腕の立つギタリストというだけでなく、全員と気が合って長く続く相手だと語っていた。
バンドが一度、本当に終わりを覚悟したことがある。2007年、MTVのアワード授賞式の直後にハインズが暴行を受け、頭部に重い傷を負った。デイラーの説明では、カジノを歩き回るうち相手を怒らせ、殴られて倒れた際に頭を打ったことが最も大きな損傷につながった。あのときは彼を失うかと思った、というのがデイラーの言葉である。ケリハーはさらに直截で、バンドは終わったと思った、脳の損傷は元に戻らず深刻なものになると考えていたと述べている。ところが回復期のハインズはアコースティック・ギターを抱えて曲を書き続けた。そこから出てきた素材が『Crack the Skye』になり、ケリハーはこれを生まれ直しのようだったと振り返り、サンダースは当時彼が持ち込むものすべてに畏れを抱いたと語っている。
バンドにとっての底は『Hushed and Grim』の時期だったと、トロイ・サンダースは自分たちの映像作品の中で述べている。この2枚組を録っていた期間、ハインズの意識は明らかにバンドから離れており、注ぐ労力の向け方も変わっていた。サンダースはこの制作を、同じスタジオにいながら四人が最も離れていた時期だと表現する。飲酒とその周辺の問題が、それまでのどの時期より強く彼に食い込んでいたとも語っている。続くツアーについては、この10年で最も結束も演奏も弱かったとし、このまま頭打ちになれば次は下降するしかないと当時から感じていたという。
『Leviathan』から『Emperor of Sand』まで、MASTODONのスタジオ作6枚には必ず1曲、NEUROSISのスコット・ケリーがゲスト・ヴォーカルとして入っている。該当曲は『Leviathan』の「Aqua Dementia」、『Blood Mountain』の「Crystal Skull」、『Crack the Skye』の表題曲、『The Hunter』の「Spectrelight」、『Once More 'Round the Sun』の「Diamond in the Witch House」、『Emperor of Sand』の「Scorpion Breath」。抜けているのはデビュー作『Remission』だけだが、これは日程の問題ではない。ブラン・デイラーによれば、そもそも頼む勇気が出るまでに数年かかったのだという。断られるのが怖かった、と本人は説明している。
ケリーとデイラーの縁は、MASTODONが存在するより前の1999年にさかのぼる。当時デイラーはToday Is the Dayの一員としてNEUROSISのヨーロッパ公演に同行しており、その少し前に十代の妹スカイを亡くしていた。ツアー中の静かな時間に二人はよく話し込み、ケリーはデイラーに、こんなことは全部やめて自分のバンドを始めろと言ったという。デイラーはのちに、このときの会話こそがMASTODON結成の引き金だったと語り、ケリーを当時の自分に必要だった兄のような存在だったと振り返っている。
2010年の映画『ジョナ・ヘックス』のスコアは、MASTODONにとって初めての映画音楽の仕事だった。依頼は監督のジミー・ヘイワードから直接来たもので、『Blood Mountain』を繰り返し聴いていたことがきっかけだったという。トロイ・サンダースはPaste誌の取材に、面識のないファンからいきなり電話が来た形で、共作の始まり方としてこれ以上なく素直なものだったと述べている。作り方も通常のアルバムとは違い、スタジオで映像を見ながらその場で曲を組み立てていった。Reprise Recordsは映画公開の翌々週にあたる6月29日、このスコアから6曲を収めたEPを発売している。
『ジョナ・ヘックス』のスコアは、当初まったく別の座組で始まっていた。バンドが招かれた2009年9月の時点で組む相手は作曲家ジョン・パウエルだったが、追加撮影とそれに伴う再編集で日程が延び、すでに『ナイト&デイ』と『フェア・ゲーム』を抱えていたパウエルは離脱する。ブレント・ハインズによれば揉めたわけではなく、映像としての方向が決まらないなら先に行く、という別れ方だった。代わりに入ったマルコ・ベルトラミは別の方向へ進み、その間ハインズはワールド・ツアーの最中で、新しく届く場面に対して映画の音を事前に構想する余裕がなかったという。毎日同じ動きを繰り返している状態で創造的でいるのは難しい、というのが本人の弁である。
MASTODONは『ゲーム・オブ・スローンズ』に二度出演している。入り口は曲だった。2015年前半に公式ミックステープ『Catch the Throne, Vol. 2』へ「White Walker」を提供したところ、バンドのファンだった共同制作者のダン・ワイスから直接声がかかったのである。ブラン・デイラー、ビル・ケリハー、ブレント・ハインズの3人は壁の北側の野人として登場し、殺されたうえでホワイト・ウォーカーに蘇らされる。デイラーは当時の声明で、目の前で親友2人が殺され、自分も腹を刺されて何度も喉を切られたが少しも嫌ではなかった、と書いている。2年後のシーズン7最終話にも同じ3人が戻り、今度は死者の軍勢の一員として南へ進んでいた。
サマーソニック09でMASTODONに与えられたのは、2009年8月8日、千葉マリンスタジアムのMARINE STAGEだった。順番はトップバッターのHOLLYWOOD UNDEADとTHE ALL AMERICAN REJECTSに挟まれた位置で、激ロックのレポートは、スタジアム前方の入りが直前のバンドの半分ほどまで減っていたと書いている。SEを流さずにメンバーが現れ、当時の最新作『Crack the Skye』の1曲目「Oblivion」で幕を開けたが、そのあとに続いたのは「Bladecatcher」「Colony Of Birchmen」「The Wolf Is Loose」「Crystal Skull」という前作『Blood Mountain』からの4曲だった。最新作からはこのほか「The Czar」と表題曲しか演奏されていない。書き手は、メタル勢の集まった3日目のMOUNTAIN STAGEであれば違う結果になったのではないかと惜しんでいる。
MASTODONが日本で初めて自分たちだけの公演を行ったのは、2015年4月1日、恵比寿リキッドルームでのことだった。それ以前の来日はEXTREME THE DOJO、LOUD PARK、SUMMER SONIC 09といずれもフェスやパッケージ公演で、BARKSのレポートはSUMMER SONIC 09以来およそ6年ぶりの日本上陸だと記している。ニュージーランドとオーストラリアを経由して入った東京公演は、MCがほぼ皆無のまま約80分。最新作『Once More 'Round the Sun』収録の全11曲のうち8曲が演奏され、開幕は同作の1曲目「Tread Lightly」だった。翌4月2日の大阪BIG CAT公演を控えていたため、レポートはセットリストの掲載を意図的に見送っている。
『Once More 'Round the Sun』の先行シングルに「High Road」を選んだのは、バンドではなかった。ビル・ケリハーは、決めたのはレコード会社であり、何が最善かを分かっているのは彼らのほうだと述べている。彼自身にとってはどの曲でもあり得た選択で、「Chimes At Midnight」や「Diamond In The Witch House」が選ばれていた可能性も具体的に挙げていた。
2022年8月14日、幕張メッセ1〜3ホールで開かれたDOWNLOAD JAPAN 2022にMASTODONは出演している。このイベントは2019年に初上陸し、2020年の開催が新型コロナウイルスで中止となったため、3年越しの仕切り直しとなった回だった。全11曲のセットは「Pain With An Anchor」で始まり「Blood And Thunder」で終わっている。背景の映像には蜘蛛や暗闇で光るクラーケンが蠢き、「Black Tongue」ではブレント・ハインズとビル・ケリハーが向かい合って笑みを浮かべながら弾いていた、と激ロックのレポートは伝えている。