LAMB OF GOD TRIVIA
Trivia
『Into Oblivion』の日本盤には、他の国では手に入らない曲が入っている。本編10曲のあとにボーナス・トラックの「Wire」が続き、さらに日本盤だけの曲としてブラック・サバスのカバー「Children Of The Grave」が収録された。発売元はソニー・ミュージック・ジャパン・インターナショナル、規格番号はSICP-6767で、解説と歌詞、対訳が付く。
2026年9月10日時点で公式サイトが掲げている今後の日程は、10月のオーストラリア5公演と、その直後のクルーズ・フェスティバルである。オーストラリアは10月2日のパースを皮切りに、アデレード・エンターテインメント・センター、メルボルンのジョン・ケイン・アリーナ、ムーア・パークのホーダン・パヴィリオン、ブリスベンのリバーステージと回る。10月30日から11月3日にかけては、マイアミを発着する自主開催のクルーズ<Headbangers Boat 2026>。
キリスト教において「神の子羊」はイエスを指す。バンドがこの名前を選んだのは、自分たちの攻撃的な音楽と、しばしば終末的な歌詞との対比が際立つからだった。もともとの名前はバーン・ザ・プリーストで、その時点で既にキリスト教由来の語彙を使ってもいた。もっとも彼らは、自分たちが反キリスト教的なバンドではないことをはっきりさせてきた。
「Redneck」のミュージック・ビデオの設定は、ラム・オブ・ゴッドが子どもの誕生日パーティーの余興として雇われる、というものである。ランディ・ブライがSongfactsに語ったところでは、この内容は歌詞とは何の関係も無く、ただ面白い思いつきだった。できるだけ馬鹿げたものにしようとした結果、近所の住人は完全に怯えていたという。
ラム・オブ・ゴッドのロゴが変わったのは2026年、12作目にあたる『Into Oblivion』の発表時である。それまで20年以上にわたって使われていた書体はPapyrusで、聖書の時代を思わせるという理由で選ばれていたものだった。これがモダンな書体に差し替えられた。ランディ・ブライは、古いロゴはファラフェル屋のメニューのように見えたと述べている。
『Into Oblivion』の録音は、バンドの成り立ちに結びついた複数の場所に分かれている。プロデュースとミックスは長年の仕事仲間であるジョシュ・ウィルバー。ドラムは地元ヴァージニア州リッチモンドで録られ、ギターとベースはマーク・モートンの自宅スタジオで録られた。そしてランディ・ブライのヴォーカルを録ったのは、カリフォルニア州レドンドビーチのトータル・アクセス・スタジオである。ブラック・フラッグ、ハスカー・ドゥ、ディセンデンツといったパンクの重要作が生まれた場所だ。
『Into Oblivion』という題名の理由を、ランディ・ブライは率直に述べている。そこへ向かっているからだ、というのである。アルバム全体が扱っているのは、とりわけアメリカにおける社会契約の継続的かつ急速な崩壊であり、20年前なら人々が恐怖したであろうことが今では許容されている、というのが彼の説明だ。
2026年6月4日、ラム・オブ・ゴッドは地元リッチモンドの球場カーマックス・パークに現れた。マイナーリーグのリッチモンド・フライング・スクワレルズ対エリー・シーウルヴズの試合である。国歌を演奏したのはギターのマーク・モートンとウィリー・アドラーの2人だけ。そのあとバンドは始球式のボールを投げた。球場内のザ・バックストップではファンとの交流会も行われ、先着1,000人には記念ポスターが配られている。7回のセブンス・イニング・ストレッチでは、ドラムのアート・クルーズとランディ・ブライが「Take Me Out To The Ballgame」を歌った。この日はカーマックス・パークにとって初めての「ヘヴィメタル・ナイト」だった。
『Into Oblivion』の日本発売に合わせて、ベースのジョン・キャンベルが激ロックの取材に応じている。話題になったのは、日本盤だけに入ったブラック・サバスのカバー、メタル史に残るイベントとなった<Back To The Beginning>での出来事、そして再び日本へ来ることへの思いだった。同誌はこのインタビューを2026年3月号に掲載し、動画メッセージも併せて公開している。
ランディ・ブライがバンドに入ったのは1995年で、誘ったのはギタリストのエイブ・スピアだった。当時の彼はリッチモンド近郊で飲食店の仕事をしていたが、関心はそちらよりも音楽を作ることに向いていた。彼が入るまでのバンドはインストゥルメンタルだった。
初期のラム・オブ・ゴッドは、ヴォーカルのことをほとんど考えていなかった。マーク・モートンによれば、当時の彼らはグラインドで耳障りで、ある程度テクニカルでグルーヴィなインストゥルメンタル・バンドであり、ランディ・ブライはその上で自分のことをやっている――バンドは長いことそう捉えており、ブライ自身もそう見ていたと思う、というのが彼の説明である。年月をかけて彼らが学んだのは、音数や技巧の密度を押したり引いたりして、フロントマンであり中心であるブライのための場所を作ることだった。ヴォーカルはとても重要だ、というこの意見は、25年前の自分からはまず出てこなかっただろうとモートンは認めている。
ラム・オブ・ゴッドのDNAにはパンク・ロックが濃く入っている。彼らが出てきたリッチモンドのDIYパンク・シーンは、GWARやミュニシパル・ウェイストを生んだのと同じ場所である。マーク・モートンの説明では、ベースのジョン・キャンベルはワシントンD.C.のフガジのシーンに浸かっており、ブライはパンクの歴史に詳しい。モートン自身はもう少しざらついたスラッシュ・メタルの子どもだったが、17歳でリッチモンドに来た彼は、それまで弾いていたテクニカルなものを「弾かない」やり方を即座に覚え、汚くてノイジーなパンク・ロックを弾くようになった。周りがみなそうしていたからである。最初期のツアーの組み方も、電話番号がずらりと載っているあの古いジン『Maximum Rocknroll』を使って自分たちでブッキングするというものだった。
インターネット以後の時代に失われたものとして、ランディ・ブライが挙げるのは「地域シーンの死」である。彼が例に出すのは、1980年代のワシントンD.C.にあったディスコード周辺の音、独自の音を持つニューオーリンズ、シカゴのタッチ・アンド・ゴーの音とウォックス・トラックスの音、そして聴けばそれと分かったニューヨーク・ハードコアである。地域ごとにはっきりした音色の輪郭があった、というのが彼の見方だ。
先行シングル「Sepsis」の重く沈むベース主体のサウンドがどこから来ているのかを、ブライとモートンは具体的な名前で説明している。テキサス州オースティンのノイズ・ロック、ザ・ジーザス・リザードのデイヴィッド・ヤウと、リッチモンドのマス・ロック・バンド、スライアング・ラオスのアンドリュー・シーグラーである。二人がその音楽を聴いていたのは、皿を洗い、板に釘を打ち、あまりに安い金で食いつないでいた時期だった。
20年以上前の「Laid To Rest」や「Redneck」を超えなければというプレッシャーは無いのか、という問いに対する二人の答えははっきりしている。ランディ・ブライは、あれを超える必要があるとは思っておらず、今この瞬間に作れる最良のレコードを作りたいだけだと述べ、キャリアの後半で人と繋がった曲として2020年の「Memento Mori」を挙げた。マーク・モートンのほうは、いま自分たちはあの2曲を書かないだろうと認めつつ、曲としては気に入っており演奏するのも楽しい、フェスで3、4万人があのリフに合わせて跳ねているのを見るのはいつだって楽しい、と語っている。
旧作を録り直すことに、ラム・オブ・ゴッドは関心を持っていない。ランディ・ブライの言い方では、1枚ごとのレコードはその時点のバンドを写したスナップショットである。昔の音源を聴いて、もっと考えていればここはうまく歌えた、この歌詞はぎこちない、と思うことはある。それでも直したいとは思わない。直すべきものなど本当は無く、それがその瞬間の自分たちだからであり、各作品はその意味で良くも悪くも正確な記録になっている、というのが彼の説明である。
在籍30年を過ぎたバンドの内情について、ランディ・ブライは、いまが史上いちばん仲が良いと述べている。若くしてバンドに入れば一致団結の集団になるというイメージを人は持つが、実際にはその要素もありつつ長年にわたる意見の衝突も多かった。それが今は、肉体的にも感情的にも、ひとつの単位としてこれまでで最もうまく機能している。理由として彼が挙げるのは、全員が自分たちで作り上げたこのバンドという存在の利益を考えるようになったことである。マーク・モートンによれば、5人は思想的にも政治的にも信仰の面でも幅広く散らばっており、ほとんど何についても一致していない。それでも成り立つ理由をブライはこう説明する――自分たちは大人だから話し合う、火花が散ることもあるが大人なのだ、と。
解散する必要は無い、というのがランディ・ブライの現在の考えである。いずれ膝が言うことを聞かなくなる日は来るし、85歳のラム・オブ・ゴッドがステージに立っていることはたぶん無い。それでも解散する必要は無い、と彼は言う。自分はこのバンドの一員のまま死にたい――ただしそれは今すぐという意味ではなく、100歳まで生きたい、とも付け加えている。
「Laid To Rest」のミュージック・ビデオを監督したのはクリス・シムズで、初公開の場はMTV2の番組『Headbangers Ball』だった。2004年、まだYouTubeが無かった時代である。放送後、この映像はダウンロード用に公開された。当時のファンはQuickTimeのファイルを――多くはダイヤルアップ回線で――長時間かけて落とし、自分のパソコンで低解像度の映像を再生した。
2012年にチェコで勾留されていた間に、ランディ・ブライは2曲を書いている。「Still Echoes」と「512」で、どちらも2015年の『VII: Sturm und Drang』に収められた。512というのは、彼が入れられていたプラハのパンクラーツ刑務所の房番号である。Songfactsの取材に対して彼は、この曲は当時の自分の精神状態のスナップショットだと述べている。なお彼はその後の裁判で全ての訴追を退けられている。
創設メンバーのドラマー、クリス・アドラーが2017年に起こしたバイク事故は、鎖骨と右肩を粉砕し、腰には骨片を残した。脱退が正式に発表されたのは2019年だが、その時点でアート・クルーズは既に1年近くツアーで代役を務めていた。
マーク・モートンにとって『Into Oblivion』は、創作の上で息のできる余白があった作品である。流行にも期待にも合わせなければならないという感覚が無く、格好いいと自分たちが思う音楽を作ろう、という以外に何の意図にも縛られていない。それは元々そこから始まったことだ、と彼は述べている。
『Into Oblivion』に先行して出た「Sepsis」は、バンドにとって2022年以来はじめての新曲だった。この曲が敬意を向けているのは、彼らの形成期を作った1990年代初頭のリッチモンドのアンダーグラウンドである。
『Into Oblivion』は2026年3月13日に発売された。前作『Omens』以来のフル・アルバムであり、レーベルはアメリカがエピック、ヨーロッパがセンチュリー・メディアという分担になっている。収録は10曲である。
『Into Oblivion』の告知の週、バンドは自分たちのウェブサイトに何の予告もなく初回プレス盤を出した。告知が無いまま置かれたその一次販売分は、即座に完売している。
「Sepsis」が出た2025年は、バンドにとって節目の年だった。ディスコグラフィの25周年にあたり、メタル史に残ることになったコンサート<Back To The Beginning>に出演し、その流れでブラック・サバスの「Children Of The Grave」のカバーを発表。さらにInkcarcerationやLouder Than Lifeといったフェスに出演し、地元リッチモンドに新しくできた7,500人収容の野外会場アリアンツ・アンフィシアターでは、そのこけら落としの年にヘッドライナーを務めている。
『Into Oblivion』の発売2日後にあたる2026年3月15日、ラム・オブ・ゴッドはフィラデルフィアのTLA(シアター・オブ・リヴィング・アーツ)で単発の公演を行った。この規模の会場で彼らを見られる機会は稀である。会場をフィラデルフィアにしたことには意味があり、この街は彼らを世に押し上げるのを助けた場所であり、2005年のプラチナ・ディスク作品『Killadelphia』の舞台でもあった。前座はフィット・フォー・アン・オートプシー。この夜のセットでは「Into Oblivion」と「Parasocial Christ」がライヴ初披露され、「Grace」は2010年以来はじめて演奏されている。
ラム・オブ・ゴッドの作品のうち、アメリカレコード協会からゴールド認定を受けているのは『Ashes of the Wake』と『Sacrament』の2枚である。グラミー賞にはこれまで5回ノミネートされている。
『Into Oblivion』の発売前、ラム・オブ・ゴッドはMetal HammerとKerrang!の両誌で表紙を飾った。発売形態も凝っており、コレクター向けのCDには限定のジンが付いた。中身はアルバム・アートのスケッチ、手書きの歌詞、そして未公開のスタジオ写真である。
『Into Oblivion』は、ドラムのアート・クルーズにとって初めて素面で作ったレコードである。彼の説明では、以前の自分は酒に自分を埋めるような飲み方をしており、その場に完全に居るという状態が無かった。素面で臨んだ今回は感情が大きく響き、匂いも強く、スタジオも強く、照明も明るく感じられたという。この変化は創作の進め方から演奏、体の作り方や食事の管理にまで及んだ。一方で彼は自分に厳しくなりすぎ、この部分は良くないと過度に神経質になってしまったので、そこから抜け出す方法も学ばねばならなかったと述べている。今回の経験から持ち帰ったものとして彼が挙げているのは、より少ないほうが多い、ということだった。
アート・クルーズの1作目にあたる2020年のセルフタイトル作について、本人は「安全なアルバム」と呼んでいる。当時の彼はスレイヤーの最後のツアーを終えて帰ってきたところで、バンドに入りたいかと訊かれて頷いた直後に、もう曲はあるからレコードを作る、と告げられた。何が起きているのかと思う間もなく制作に放り込まれた形である。そこで彼は既にあるものから大きく離れず、このバンドのやり方を覚えることに徹した。『Into Oblivion』は彼にとって3枚目で、ようやく自分そのものが出せた作品だという。
『Into Oblivion』が何に対して怒っているのかについて、ランディ・ブライは3つを挙げている。環境の問題によって地球が深刻な状況にあること、少なくとも西側の社会において富の集中と格差の拡大が進んでいること、そして一部の技術があまりに速く開発され採用されていることである。3つ目について彼が付け加えているのは、自分たちはその技術を理解しておらず、それは推測ではない――開発している当人たちが、自分たちにも何が起きているのか分からないと言っているからだ、という点だった。