KISS トリビア 全145件
KISSにまつわる事実を、出典付きで145件掲載しています。
Trivia
日本盤のKISSには、原題とは別の邦題が長く付けられてきた。1975年のライヴ盤『Alive!』は『地獄の狂獣』、翌年の『Destroyer』は『地獄の軍団』、そして1983年にメイクを落とした『Lick It Up』は『地獄の回想』である。「地獄」を冠するこの命名は日本盤に固有のもので、原題の語義とは必ずしも対応していない。
『Destroyer』は、KISSにとって発売初年度に100万枚を売った初めてのアルバムであり、スタジオ作としては歴代最高の売上を記録した作品でもある——これはレーベルであるユニバーサル ミュージック ジャパンが商品ページに明記している事実である。45周年記念エディションの日本盤には、SHM-CD仕様という日本盤固有の仕様に加え、先着購入者特典として1977年のKISS初来日公演の告知ポスターを復刻したB2ポスターが付けられた。
1977年の初来日で、KISSは羽田空港に降り立つまでに約3時間を要している。ウドー音楽事務所の高橋辰雄によれば、彼らを乗せたパンアメリカン機の機体にはパンナムのロゴと並んでKISSのロゴが描かれていた。プライヴェート・ジェットではなく、半分貸し切りの状態で一般客も乗っていたという。機内では素顔だった四人はメイクをしてから降りようとしたが、入国審査でパスポートの写真と同一人物か確認できないという話になり、いったん機内に戻ってメイクを落とし、手続きを済ませ、また機内でメイクを直してから出てきた。到着ロビーで待っていた数百人のファンは、その間にもう帰ろうとしていたところだった。
1977年の初来日でKISS一行が滞在したのは、東京のホテルオークラだった。ウドー音楽事務所の高橋辰雄によれば、同ホテルは国賓を迎えた実績はあってもロック・バンドを泊めたことがなく、受け入れにあたって条件が付いた。1フロアを丸ごと押さえて他の階へは行かせないこと、そしてすべての出入り口に制服の警備員を24時間配置すること。一行は35〜36人ほどで、同じ階の余った部屋も招聘元が借り上げねばならなかった。空港からホテルへ向かうリンカーン・コンチネンタルは人だかりに囲まれ、フロントガラスの前が埋まって前が見えないほどだったという。
1977年の初来日中、KISSの四人はほとんど外出しなかった。ウドー音楽事務所の高橋辰雄は、彼らが全神経と体力をステージに集中させていたためだと説明している。ホテルの部屋で素顔のまま軍服などを着て写真を撮り合って遊んでいたことが一度あり、ジーン・シモンズとポール・スタンレーを連れて銀座へ買い物に出たこともあった。そのときポールがKISSのロゴ入りTシャツを着てきて、ジーンが怒ったという。二人ともブーツ抜きでも背が高く、それだけで目立つ、というのが理由である。エースは部屋で酒を飲み、ピーターはドラムを練習し、ポールは曲を書いていた。薬物とはまったく無縁だった、と高橋は述べている。
KISSの来日公演は、1977年の初来日から2019年のツアーまで通算12回を数え、そのすべてをウドー音楽事務所が手掛けてきた。素顔のKISSが初めて日本に来たのは1988年で、以後の来日を担当した同社の重冨章二は、当時「自分の知っているKISSとは違う」という印象を受けたと語っている。火薬をふんだんに使うライヴであることは変わらないのに、メイクがないだけで別人のように感じられたのだという。
日本でKISSのショウを行うには、消防法という固有の制約がある。ウドー音楽事務所の重冨章二によれば、天井から火柱を何メートルまで上げてよいかが決められており、一度の特殊効果で使える火薬の量も、公演全体で使える総量も上限がある。そのため、この演出を減らして別の演出を増やすといった調整が毎回必要になる。さらにKISSの公演には必ず消防の担当者が立ち会い、ジーン・シモンズが火を吹く場面が確認される。初来日以来一度も事故は起きておらず信頼関係も築かれているが、それでも担当者は見に来るのだという。
『Hotter Than Hell』の歌詞は、英語と日本語の両方で印刷されていた。日本のファンへの感謝を示すためだったとされる。KISSがこのアルバムを出した1974年10月の時点で、彼らはまだ日本を訪れていない。初来日はその2年半後の1977年である。
2015年1月28日、「ももいろクローバーZ vs KISS」名義のシングル『夢の浮世に咲いてみな』が発売された。作詞はポール・スタンレーと岩里祐穂、作曲はポールとKISS作品を数多く手掛けてきたグレッグ・コリンズ、編曲はKISSのメンバーとコリンズという体制で、歌はももクロ、演奏とコーラスをKISSが担当している。シングルは「ももクロ盤」と「KISS盤」の2形態で出され、KISS盤にはこの曲を裏返した「SAMURAI SON」——メロディをKISSが歌い、ももクロがコーラスに回る——が収められた。
「ももいろクローバーZ vs KISS」のシングルには、ももクロによる「Rock and Roll All Nite」のカヴァーがカップリングとして収められた。編曲を担当したのはNARASAKIとゆよゆっぺの二人で、この組み合わせがももクロの楽曲で実現するのは2013年のアルバム『5TH DIMENSION』収録曲以来のことだった。
2015年3月3日、KISSは結成40周年ツアーの日本最終公演を東京ドームで行い、3万5000人を集めた。この夜のKISSは、ポール・スタンレーが客席に向かって日本語で語りかけ、坂本九の「上を向いて歩こう」を一人で日本語で歌う場面まで用意している。本編最後の「Black Diamond」のあと、スクリーンにKISSとももいろクローバーZのロゴが交互に映し出されるとそれぞれのファンから声が上がり、アンコールで両者が「夢の浮世に咲いてみな」を共演した。締めくくりは全員での「Rock and Roll All Nite」だった。
2019年12月11日、KISSの東京ドーム公演にX JAPANのYOSHIKIがサプライズで登場した。ポール・スタンレーが「今日は特別な日だ」と紹介するとドームが沸き、KISSはYOSHIKIのピアノで「Beth」を演奏、歌はエリック・シンガーが担当した。演奏後、YOSHIKIはドラムに移って「Rock and Roll All Nite」にも加わっている。両者の関係は1994年のトリビュート・アルバム『KISS MY ASS』にさかのぼる。YOSHIKIはそこで「Black Diamond」のオーケストラ・バージョンをプロデュースしており、それが交流の出発点になった。
2019年12月のジャパン・ツアーは、12月8日のセビオアリーナ仙台から始まる全5公演だった。ギタリストのトミー・セイヤーはツアー直前のBARKSの取材に対し、ツアーで各国を回るなかでいちばん気に入っているのはどこかと問われれば迷わず日本だと答える、と話している。アメリカで少年時代を過ごしたKISSファンとして、日本で撮られたKISSの写真が神秘的に見えたのだという。このツアーでは初めて盛岡が日程に入り、2015年の前回ツアーでは初めて仙台での公演が実現していた。
2022年11月30日、KISSは東京ドームで一夜限りの来日公演を行った。<END OF THE ROAD WORLD TOUR>は2019年12月の来日で日本には別れを告げたはずだったが、パンデミックによってツアー日程が組み直され、もう一度来てほしいという要望が各地から寄せられた結果、実現したものである。この夜のセットリストは2019年12月11日の東京ドーム公演とほぼ同じだったが、『Rock and Roll Over』から「Makin' Love」が加えられた。ポール・スタンレー自身が「久しくやっていない曲」と紹介したとおり、このツアーを通じて初めての選曲だったという。
KISSのブランド管理は徹底していることで知られるが、2012年には日本のキャラクターとの提携が実現している。ハローキティとの共同ブランド商品で、Tシャツ、マグ、ソフトビニールのフィギュア、バッジなど、KISSのメイクを施したキティが並んだ。ラスベガスで開かれた発表イベントでは、マイク・タイソンがその一つを試している。
KISSがフェアウェル・ツアーのあとも活動を続けることになった経緯には、東京での食事の場面が関わっているかもしれない、とウドー音楽事務所の重冨章二は語っている。2001年のフェアウェル・ツアー来日時、招聘元主催のディナーで、同社創設者の有働誠次郎が「今辞めるのはもったいない、バンドも元気で客も入っているのに」と切り出した。ジーン・シモンズらも「確かにそうだな」と応じ、その場の空気が明らかに変わったのを感じたという。実際のところは分からない、と重冨は付け加えている。
「Sweet Pain」には、アルバムに入らなかったエース・フレーリー本人のギター・ソロが存在する。この音源は2012年のリミックス盤『地獄の軍団〈リザレクテッド〉』で日の目を見て、2021年の45周年記念エディションではBlu-rayオーディオ盤のボーナス・トラックとして再収録された。同盤ではスティーヴン・ウィルソンがリミックスを手掛け、オリジナル・アルバムが初めてドルビーアトモスと5.1サラウンドで提示されている。
バンド名の候補は四者四様だった。エース・フレーリーはアルバトロス、ピーター・クリスはザ・クリムゾン・ハープーン、ジーン・シモンズに至っては口にしにくい四文字語を推していた。最終的に採用されたKISSはポール・スタンレーの案で、ピーターが以前在籍していたリップスというバンド名が発想のきっかけになっている。
KISSのロゴは、エース・フレーリーがフェルトペンで描いた図案が出発点になっている。ポール・スタンレーはそれを製図用のペンで整え、自動車のエンブレムに近い形へ仕上げた。エース自身は、ポールのほうが手が安定していたから、と説明している。ポールの側も、エースの案は良かったが図案としては完成していなかったと述べており、二人の証言はおおむね一致している。
KISSという名前が「Knights In Satan's Service(悪魔に仕える騎士団)」の頭文字だという説は、長くファンのあいだで語られてきた。実際にはそうした由来はなく、ポール・スタンレーが思いついた名前を他の三人が気に入っただけである。ピーター・クリスは1977年のマーヴル・コミックのプロフィール記事で、キスは誰に対しても最初にする行為であり、死の接吻という意味にもなる、強く覚えやすい言葉だ、という趣旨の説明をしている。
ポール・スタンレーとジーン・シモンズは、KISSを始める前にウィキッド・レスターというバンドを組んでいた。新しいバンドを作るにあたって二人がまずしたのは、そのウィキッド・レスターのメンバー全員を解雇することだった。空いた席は、ローリング・ストーン誌とヴィレッジ・ヴォイス紙に出した募集広告で埋めている。ドラマーのピーター・クリスとギタリストのエース・フレーリーは、いずれもその広告経由で加入した。
ピーター・クリスがKISSに加わるきっかけは、1972年8月31日号のローリング・ストーン誌に彼自身が出した「経験豊富なロック・ドラマー、オリジナル曲をやるグループを探す」という趣旨の広告だった。電話をかけてきたジーン・シモンズは、服装の趣味や髪の長さを執拗に尋ねたという。ピーターは新婚旅行で英国とスペインから持ち帰ったばかりの金色のサテン・パンツとターコイズのブーツで面会に向かい、スタジオの外にいた地味な身なりの二人がその相手だと気づいたときには面食らったと語っている。
エース・フレーリーのオーディションは、とうてい採用されそうにない見た目から始まった。母親のキャデラックで50ワットのマーシャルを運び込み、急いでいたためにオレンジと赤のスニーカーを左右ちぐはぐに履き、緊張をほぐそうと16オンス缶のビールを二本あおってから階上へ上がっている。周囲の第一印象は散々だったが、「Deuce」を弾き始めた瞬間にジーンとポールは顔を見合わせた。オーディションを受けた60人ほどのなかで、探していた音を出したのはエースだけだった。
四人がメイクという発想にたどり着いたのは、アリス・クーパーの公演を観た夜だった。会場を出たジーン・シモンズとピーター・クリスは互いに顔を見合わせ、ロフトに戻ってから「アリス・クーパーが四人いたらどうなる」という話になったという。KISSのキャラクター四人組は、そこから生まれている。ジーンによれば、ポールと二人で15ドルの4フィートの鏡を二枚買い、壁に立てかけたときにわずかに反ってできた歪んだ像が、見世物小屋のような顔を思わせたことも後押しになった。
ポール・スタンレーの目の周りの星は、最初からあの形だったわけではない。当初は目のまわりを丸く塗るだけの図案で、のちに仮面をかぶった時期もある。エース・フレーリーは、あの丸をやめて星にしたらどうかと自分が勧めた、と語っている。ポール自身も、メイクの基本は変わっていないが目のところだけは何度も変わり続けたと述べている。
KISSの初ライヴは1973年1月30日、ニューヨーク州クイーンズのコヴェントリーというクラブだった。観客は数えるほどしかおらず、ライヴを観たのはピーター・クリスの妻リディア、ジーンの当時の恋人とその友人、そしてロード・クルーと店の従業員だけだったという。火曜から木曜までの三日間で受け取ったギャラは30ドル。その全額はロード・クルーに渡された。後年になって分かったことだが、後方で観ていた背の高い眼鏡の男はラモーンズのジョーイ・ラモーンだった。
KISSを世に出したデモは、1973年3月13日にニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオのスタジオBで、たった一日で録られた。エンジニアのエディ・クレイマーが出した条件がその「一日だけ」で、しかも4トラックという古いやり方だった。この日録音された5曲——「Deuce」「Cold Gin」「Strutter」「Watchin' You」「Black Diamond」——はそのままファースト・アルバムの中心になる。クレイマーは、勢いが最も生々しい瞬間を捉えて余計な装飾をしないことが狙いだったと述べている。
KISSはカサブランカ・レコードの最初の契約アーティストである。きっかけは、プロデューサーのケニー・カーナーが社長ニール・ボガートのオフィスから持ち帰ったデモ・テープの箱だった。金曜に聴いたエディ・クレイマー録音のKISSのテープに圧倒されたカーナーは、月曜にテープと白黒写真を持ち込んで契約を勧めた。ボガートは、当時いた会社では契約できないが新しく立ち上げるレーベルなら、と応じ、KISSはその第一号となった。
1973年の暮れ、カサブランカの配給元だったワーナー・ブラザースから、KISSにメイクを落とさせてほしいという申し入れがあった。マネージャーのビル・オーコインが楽屋でその話を伝えると、四人は当惑した顔でオーコインの意見を求め、彼が「メイクは続けるべきだ」と答えると全員が賛成したという。オーコインはワーナー側に、メイクは外さないと回答した。ジーン・シモンズは後年、バンドとメイクは不可分であり、両方を取るか何も取らないかだと伝えたと述べている。
ジーン・シモンズの火吹きが初めて舞台に乗ったのは1973年の大晦日、ニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックだった。そしてその夜、彼の髪は燃えた。ヘアスプレーを吹き付けた髪が可燃性の液体をまとった状態になることを、当時は誰も分かっていなかったためである。同じ夜、火薬入りの紙を客席の上へ投げるという新趣向も試みられたが、狙いが外れて観客の一人の顔の前で破裂した。その客は火傷を負いながら楽屋に現れ、最高だったと言ったという。
カサブランカ・レコードの旗揚げパーティーは1974年2月18日、ロサンゼルスのセンチュリー・プラザ・ホテルで開かれた。費用は4万5000ドル。この席でKISSは大量のスモーク・ボムを焚き、一音も鳴らさないうちに何人かの招待客が身の危険を感じて逃げ出したという。レーベルの首脳ニール・ボガートは当初、彼らのメイクに難色を示していたが、受け入れたあとは演出をさらに大きくする側に回り、せり上がるドラム台や火吹きの導入を後押ししている。
ファースト・アルバム『Kiss』は、ケニー・カーナーとリッチー・ワイズのプロデュースで、録音6日・ミックス7日という短さで仕上げられた。一日に3曲分のベーシック・トラック——ドラム、ベース、リズム・ギター2本——を録り、エースがソロを重ね、最後の3日を歌に充てるという進め方である。二人がめざしたのは、ライヴそのままの生々しさだった。
ファースト・アルバムのジャケットを撮ったのは、ドアーズ『Strange Days』やヴァン・モリソン『Astral Weeks』を手掛けた写真家ジョエル・ブロツキーである。暗闇のなかに四つの塗られた顔が浮かぶあの構図について、ピーター・クリスは、ビートルズの『Meet The Beatles』のような見え方にしたかったのだと説明している。
ファースト・アルバムの一曲目「Strutter」は、もとは「Stanley the Parrot」という別の曲だった。この題はポール・スタンレーをからかったものではない。ジーン・シモンズがこの曲を書いた時点で二人はまだ出会っておらず、1970年に初めて顔を合わせた際、ジーンが弾いて聴かせた曲のひとつがこれだった。ポールはそのコード進行がローリング・ストーンズの「Brown Sugar」に通じるKISS向きの型だと感じ、歌詞をニューヨークの夜の情景に書き換えている。
「Cold Gin」を書いたのはエース・フレーリーで、ニューヨークの地下鉄のなかで歌詞もメロディも頭の中で組み上げたという。ただし歌ったのは彼ではない。ジーン・シモンズは、エースにこの曲を歌うよう強く勧めたが本人が固辞したため自分が歌うことになったと説明している。酒を歌ったこの曲を、生涯を通じて一滴も飲まないジーンが歌い続けてきたわけである。ジーンによれば、原曲は冒頭のリフから先が続かない未完成の状態で、中間部のリフを足したのは自分だという。
「Firehouse」はポール・スタンレーが高校生の頃に書いた曲である。当時は英国のアルバムを買う金がなく、憧れだけが募っていた時期で、ザ・ムーヴの「Fire Brigade」を下敷きに書き直したものだとポール自身が説明している。この曲はエディ・クレイマーが録った5曲デモにも含まれ、のちにジーンの火吹きを見せる場面として定着した。
「100,000 Years」の出発点は、ジーン・シモンズが読んでいた本だった。10万年前に地球が異星の訪問を受けたという内容の本と、アインシュタインの相対性理論を並行して読み、宇宙と時間についての話が頭の中で渦を巻いていたのだという。ポール・スタンレーに見せると「10万年って何だ」と返されたが、ジーンは試してみようと押し切り、ポールが素材を足し、ジーンがリフを重ねて曲になった。
デビュー作の売り上げが伸び悩むなか、カサブランカのニール・ボガートはKISSに、ボビー・ライデルの50年代のヒット曲「Kissin' Time」を録らせた。1974年5月にアルバムへ追加されたこの曲は、全米各地でキス・コンテストを開くという大掛かりな販促とともに送り出されたが、結果は不発に終わっている。
KISSが最初に切ったシングルは「Nothin' To Lose」だった。チャートには入らなかったが、70年代を通じてライヴの定番であり続けている。この曲にはブルース・フォスターがピアノで参加しており、KISSの曲に外部のミュージシャンが加わった最初の例となった。フォスターは、のちにリッチー・サンボラが最初に在籍したバンド、シャーク・フレンジーの一員でもある。
セカンド・アルバム『Hotter Than Hell』は1974年8月、ロサンゼルスのヴィレッジ・レコーダーズで録音された。プロデューサーのケニー・カーナーとリッチー・ワイズが拠点を西海岸へ移していたためだが、バンドはニューヨークを恋しがりながらカリフォルニアの誘惑に浸るという分裂した状態にあった。ジーン・シモンズは、この時期に自分とエース、ピーターとのあいだに社交面での共通点が何もないことをはっきり自覚したと述べている。作品の音は、日差しとは裏腹に前作より暗く重い。
『Hotter Than Hell』のジャケット撮影の直前、エース・フレーリーはロサンゼルスで自動車事故を起こしていた。飲んだ状態でハリウッド・ヒルズを走り、速度を上げ続けた末に電柱に突っ込んだのだという。負傷は軽かったものの、医師から顔の半分にしかメイクをしてはいけないと言われ、ノーマン・シーフによる撮影ではその状態で臨むことになった。仕上げでは合成によって顔が補われている。
『Hotter Than Hell』には、後年ほかのバンドに引き継がれた曲が二つある。エース・フレーリーが書きジーン・シモンズが歌った重量級の「Parasite」はアンスラックスが取り上げ、ジーンが1970年に書いた不穏なバラード「Goin' Blind」はメルヴィンズがカヴァーした。表題曲の骨格はフリーの「All Right Now」から来ている。
ポール・スタンレーは「Got To Choose」のリフの出どころを自分から明かしている。ヴァニラ・ファッジのメンバーが在籍したブーメランというバンドが演奏していたウィルソン・ピケットの「Ninety-Nine And A Half (Won't Do)」——そのリフをほぼそのまま使ったはずだ、というのが本人の言である。あわせて、この曲は自作のKISSナンバーのなかでも特に気に入っているものだと述べている。
サード・アルバム『Dressed to Kill』をプロデュースしたのは、カサブランカの社長ニール・ボガート自身である。単なる思いつきではなく、政治的な判断だった。他社がKISSに関心を示し始めており、ボガートとマネージャーのビル・オーコインのあいだで主導権争いが生じていたため、プロデューサーとして日々スタジオにいれば彼らを手元に置ける、という計算があった。ボガートは作りを凝らず簡潔に進め、エース・フレーリーはこの作品にはエネルギーがあると評している。
『Dressed to Kill』の制作時、KISSは曲のストックを切らしかけていた。1年で2枚のアルバムを出し、その間ずっとツアーに出ていたためである。数を揃えるために、ポール・スタンレーとジーン・シモンズはウィキッド・レスター時代の「She」と「Love Her All I Can」を作り直して持ち込んだ。ポールによれば、当時の二人は書くのが速く、朝に書き始めて他の二人がスタジオに着く頃には一曲できていることもあったという。
スーツ姿でメイクをしたまま街角に立つ『Dressed to Kill』のジャケットは、ボブ・グルーエンが23丁目と8番街の角で撮影したものである。スーツはマネージャーのビル・オーコインから借りたもので、ジーン・シモンズが履いている靴はグルーエンの妻のクロッグだった。
「Rock and Roll All Nite」は、レコード会社からの発注で生まれた曲である。1974年末、デビュー作は7万5000枚、続く『Hotter Than Hell』は全米100位止まりという状況で、カサブランカのニール・ボガートはポール・スタンレーに、どういう曲が必要かを具体的に指示した。ファンが旗印にできる、バンドが何者かを言い表す一曲。手本として挙げられたのはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「I Want to Take You Higher」だった。
ポール・スタンレーが「Rock and Roll All Nite」を書いた場所は、サンセット・ブールヴァードのハイアット・ハウス——騒々しい滞在客のせいで「ライオット・ハウス」と呼ばれたホテルの一室だった。アコースティック・ギターを取り出すと、コードとメロディ、そして「一晩中ロックして毎日パーティーしたい」という一行が、ほとんど考えるまでもなく出てきたという。曲を完成させたのはジーン・シモンズの書きかけの「Drive Me Wild」で、車を女性になぞらえたその歌詞がヴァースになり、ポールのコーラスと接がれた。
「Rock and Roll All Nite」は、スタジオ版では当たらなかった。1975年4月に出たシングルは全米68位止まりで、収録作『Dressed to Kill』も大きくは動かなかった。転機は同年の『Alive!』である。1975年5月16日にデトロイトのコボ・ホールで録られたライヴ版がシングルとして切り出されると全米12位まで上がり、KISS初の本格的なヒットになった。
「C'mon and Love Me」は、ポール・スタンレーがKISSの曲で初めてリード・ギターを弾いた一曲でもある。冒頭のソロは本人の演奏だ。ポールは、この曲は計算して作ったものではなく、当時の自分の暮らしぶりをそのまま吐き出した自伝的な曲だと述べている。書き方が上手くなるにつれて、初期にあった自由連想の純粋さを失うこともある、という文脈での発言である。
『Alive!』は、追い詰められた末の賭けだった。ジーン・シモンズによれば、当時のカサブランカにはヒットがなく、KISS自身もゴールド・ディスク一枚持っていない。それでもライヴ・アルバムを、しかも2枚組で作ると決めたのだという。録音は4公演——1975年5月16日デトロイトのコボ・ホール、6月21日クリーヴランド、7月20日アイオワ州ダヴェンポート、7月23日ニュージャージー州ワイルドウッド——で行われ、のちにエレクトリック・レディで手が入れられた。プロデュースはエディ・クレイマーである。
『Alive!』のジャケットを撮ったフィン・コステロは、表面の見得を切った写真だけでなく、裏面の一枚も残している。手書きのKISSバナーを掲げるデトロイトの十代の二人——リー・ニーヴズとブルース・レドゥート——が、がらんとしたコボ・ホールを背にして写ったカットである。レドゥートは後年、そのアルバムが出て自分たちの写真を見つけたときの驚きを、夢がかなったようだったと語っている。
KISSのライヴが始まる合図として長く使われてきた「最高のものを求めたお前たちは、それを手に入れた。世界でいちばん熱いバンド、KISS!」というアナウンスは、もともとロード・クルーのJ.R.スモーリングの声だった。『Alive!』の冒頭に刻まれたことで、この口上はバンドの看板として定着している。
『Destroyer』というアルバム題は、バンドの誰の案でもない。ジーン・シモンズによれば、当時KISSのビジネス・マネージャーを務めていたハワード・マークスが、題が決まらず難航する会議のあとで「息子が話を聞いていて、Destroyerはどうかと言っている」と伝えてきたのだという。四人は顔を見合わせ、その場で決まった。ジーン自身が推していたのは『Dynasty』で、そちらは1979年に使われることになる。
『Destroyer』のプリプロダクションは、KISSにとって初めての体験だった。それまでは曲を書いてスタジオに入り録るだけだったからである。ボブ・エズリンはリハーサル室で首から笛を下げ、四人を「キャンパー(合宿生)」と呼び、必要とあれば面と向かって怒鳴った。ポール・スタンレーはこれを音楽の新兵訓練だったと表現している。アリーナを満員にしていた当事者にとっては屈辱的でもあったが、エズリンの言うことは正しかったので従った、というのが彼の説明である。
1976年の時点でクリック・トラックという技術は存在しなかった。そこでボブ・エズリンが持ち込んだのは、葉巻の箱である。中にマイクを仕込み、ドラムスティックで叩いてテンポの支柱にした。ピーター・クリスはこの作品を非常に難しい仕事だったと振り返り、当時ジョン・レノンが通ったのと同じプライマル療法の施設へ行ったほど追い詰められたと語っている。同時に、エズリンはどこまで押していいかを正確に知っていた人だとも述べている。
「Detroit Rock City」の物語は、実際に起きた出来事から来ている。ポール・スタンレーは、以前のツアーで会場の外にいた人物が車にはねられて亡くなったことを思い出し、これから祝祭に加わろうとしている人間がその途中で命を落とすことの奇妙さを歌詞の起点にした。ボブ・エズリンはそこに主題を見て、歌詞を仕上げるよう促している。完成した曲は、自分の死をラジオのニュースで聞く少年の話になった。
『Destroyer』の冒頭、交通事故を伝えるラジオのニュースを読む声はジーン・シモンズではない。プロデューサーのボブ・エズリン本人である。エンジニアのコーキー・スタシアクによれば、その声はいったん小型ラジオを通して鳴らし、それを録り直しているという。ヘッドフォンで聴くと、事故が自分の身に起きているような不気味さが出る、というのが狙いだった。
「Detroit Rock City」の中盤で二本のギターが絡み合うあのソロは、ボブ・エズリンが書いたものである。運転席から見た緊張の場面に付ける音楽として頭の中で組み立てたもので、楽器には触れていないという。本人はこれをハードロックに移し替えた古いフラメンコの型であり、自分なりの剣闘士の音楽だと説明している。エズリンは音符もハーモニーもそのまま歌ってみせ、エース・フレーリーにそれを覚えさせた。ポール・スタンレーはのちに、ドラムのパターンもベースラインも実はすべてボブのものだった、と認めている。
「Detroit Rock City」のヴァースを支えるベースラインは、ハードロックの外から来ている。ジーン・シモンズは、自分らしくない非常にR&B寄りのパートで、カーティス・メイフィールドの「Freddie's Dead」に近い感触だと説明している。ただし音符をそのままなぞったわけではない、とも付け加えている。
「Detroit Rock City」の三番には「Movin' fast, on 95」という一行がある。95号線はニューヨーク市を通るがデトロイトは通らない。デトロイトを走るのは75号線である。この食い違いを収めるため、KISSは歌詞カードでは「Movin' fast, doin' 95」——時速95マイルで飛ばしている、という意味に書き換えて掲載した。
ジーン・シモンズの代名詞となった「God of Thunder」を書いたのは、ジーンではなくポール・スタンレーである。しかも自分のためのテーマ曲として書いた曲だった。デモを録り、ボブ・エズリンとリハーサルに入ったところでテンポを落とす案が出て、それは重くて良かった。だが続けて「これはジーンが歌う」と言われたとき、ポールは言葉を失ったという。プロデューサーの判断が最終決定という取り決めがあったためそれに従い、後年になって、あれは完璧にジーンの曲であり自分には同じことはできなかったと認めている。
「God of Thunder」の背後で聞こえる不気味な子どもの声は、ボブ・エズリンの息子たちのものである。当時9歳のデヴィッドと4歳のジョシュがレコード・プラントを訪れた際、エズリンがパリで買い与えていた玩具——片方が宇宙ヘルメット、もう片方が送話器という無線機セット——を身に着けていた。ヘルメットにマイクを立て、怪物の声を出させ、あとでピッチを下げるつもりだったが、そのままのほうが奇妙だったのでピッチを下げずに採用された。二人は3年前にルー・リードの録音にも参加しており、この時点ですでに経験者だった。
「Shout It Out Loud」の合唱句は、KISS以前にさかのぼる。ポール・スタンレーとジーン・シモンズがウィキッド・レスターでやっていたホリーズの「I Wanna Shout」がもとで、ジーンはそこから「Shout it, shout it, shout it out loud」という形を持ち込んだ。ボブ・エズリンとポールから「何を叫ぶんだ」と問われたジーンは、何でもいい、と押し切ったという。曲そのものはエズリンのニューヨークのアパートで、三人がピアノを囲んで30分ほどで形になった。掛け合いのコーラスはフォー・トップスのモータウン流を狙ったものである。
『Destroyer』収録の「King Of The Night Time World」は、KISSのオリジナルではない。ロサンゼルスのバンド、ハリウッド・スターズの曲で、キム・フォーリーがKISSに持ち込んだものである。共作者のマーク・アンソニーによれば、曲を書いたのは自分で歌詞の発想はフォーリー、そこにボブ・エズリンが「あの曲はどうなった」と電話をかけてテープをポールに渡し、ポールが歌詞に手を入れて構成を組み直した。同じアルバムの「Do You Love Me」もフォーリーとの共作である。
「Flaming Youth」の題は、フィル・コリンズが在籍した同名の英国バンドとは関係がない。ジーン・シモンズによれば、KISSがニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックで初めて演奏したとき前座を務めた相手が、フレイミング・ユースというニューヨークのバンドだった。その話をボブ・エズリンにしたところ、エズリンが題として気に入り、その場で曲を書くことが決まったのだという。曲そのものはジーンの「Mad Dog」という別の曲のリフを核に、断片を継ぎ合わせて組み立てられた。
「Beth」の原型は「Beck」という題の曲で、KISS以前にさかのぼる。ピーター・クリスが1970年から72年にかけて在籍したチェルシーというバンドのギタリスト、スタン・ペンリッジとの共作である。ペンリッジは2000年にKissFAQへ、リハーサル中に何度も電話をかけてくるギタリストの妻に、夫が返していた言葉をほぼそのまま書き留めたのがあの歌詞だと説明している。彼はその言葉を小さなノートに三、四日かけて書きためていた。
ボブ・エズリンが最初に聴いた「Beth」は、バラードではなかった。もっと威勢のよい、家には帰らない、仲間のほうが大事だ、という調子の跳ねた曲だったという。エズリンは52丁目の自宅のピアノに向かい、そこで出てきたメロディを前にして、これは本来とても悲しい歌だと気づいた。なぜ帰らないのか、相手を傷つけていると分かっているのに、と。こうして曲は繊細で悲しいバラードに作り替えられ、ピーター・クリスのかすれた声がそれにはまった。バンドの他のメンバーはKISSらしくないと感じていたが、エズリンにはヒットだと分かっていた。
「Beth」がヒットしたのは、ラジオ局が単純に裏面を選んだからである。1976年7月、『Destroyer』からの三枚目のシングルとして「Detroit Rock City」が各局に届いたとき、多くの局がひっくり返してB面のバラードを流した。レコード会社はほどなく表裏を入れ替え、「Beth」は全米7位まで上がってKISS史上最大のヒットになった。
『Destroyer』にはクレジットされていないギタリストがいる。デトロイト出身のセッション奏者ディック・ワグナーで、エース・フレーリーが不在がちだった局面をボブ・エズリンが旧知の彼に埋めさせた。「Sweet Pain」のソロ、「Flaming Youth」終盤のフレーズ、そして「Beth」のアコースティック・ギターがそれにあたる。ワグナーは二日ですべてを弾き終えたと述べ、クレジットされなかった理由については、当時のKISSやエアロスミスはバンド自身が全部演奏しているように見せたがっていたのだろう、と語っている。
『Destroyer』のジャケットは、当初フランク・フラゼッタに依頼される予定だった。ジーン・シモンズは、コナン・ザ・バーバリアンの表紙を手掛けたフラゼッタに電話をかけ、ギターもドラムも描かず四人をスーパーヒーローとして立たせてほしいと伝えたという。しかし提示された金額が折り合わず、代わりにケン・ケリーが起用された。ケリーはフラゼッタの縁者にあたる。
『Destroyer』のジャケット画は二枚存在する。マネージャーのビル・オーコインによれば、最初に上がった油彩は迫力に欠けており、描き直しを依頼したのだという。ケン・ケリーが二度目に描いたものが、現在知られているあの絵である。最初の一枚では四人の衣装が実際とは違っていた、という記録も残っている。
『Alive!』のジャケットでポール・スタンレーが構えている黒いギブソン・ファイアーバードは、『Destroyer』の録音中に壊れている。エンジニアのコーキー・スタシアクの証言によれば、カサブランカの首脳を招いて新作を聴かせる場でヴォーカルのオーバーダブをすることになり、ヘッドフォンのコードを引いたところ、そのコードがギター・ストラップに通されたままだった。立てかけてあったギターは倒れ、ナットの部分で首が折れた。スタシアクはポールがそれを実に鷹揚に受け止めたと述べ、今でも申し訳なく思っていると語っている。
『Destroyer』のセッションでは、ピーター・クリスが歌うもう一曲が録音されながら見送られている。「Ain't None Of Your Business」というハードロック曲で、ボブ・エズリンは、他の曲ほど作りが凝っておらずこのアルバムには合わなかったと説明している。この曲はマイケル・デ・バレスがモナークというバンドにいた頃に書いたもので、2021年11月に出た45周年記念ボックス・セットまで未発表のままだった。
『Destroyer』の最終曲、断片をつないだ音のコラージュは、時間を埋めるために置かれたものである。ボブ・エズリンとバンドが作り込んだ本編は35分に満たず、その尺を補うために加えられた。後年、この部分もアルバムの一部として自然に聞こえるようになっている。ちなみにエズリンは『Destroyer』という題そのものを気に入っておらず、否定的な響きがあると考えていたが、ポール・スタンレーが使わない手はないと押し切った。
ボブ・エズリンが『Destroyer』で狙ったのは、客層そのものを変えることだった。彼の説明によれば、当時のKISSは15歳前後の少年にしか届いておらず、そこには天井があった。エズリンは映画『乱暴者』を引き合いに出し、リー・マーヴィンの役は徹頭徹尾ただの悪党だが、マーロン・ブランドの演じた人物にはどこか危うさと人間味があり、だからこそヒロインが惹かれるのだと説いた。今のKISSは前者だ、というのが彼の指摘だった。その転換の要になったのが、バラードに作り替えられた「Beth」である。
1976年の『Destroyer』ツアー初期、KISSのステージには本物の映画の小道具が置かれていた。1931年のユニヴァーサル映画『フランケンシュタイン』の実験室で使われた放電装置である。ケン・ストリックファデンの設計による巨大なテスラ・コイルで、色のついた電光を放つこの装置は「God Of Thunder マシン」と呼ばれた。ただし扱いが重く故障も多かったため、まもなく使われなくなっている。
『Destroyer』の作り込みは、当時のファンには不評だった。ジーン・シモンズは端的に「ファンは嫌った」と述べている。そこで8か月後に出た『Rock and Roll Over』では、装飾を削って『Alive!』の原始的な手触りを取り戻すことが目標になった。録音場所に選ばれたのはニューヨーク州ナニュエットの使われていない劇場スター・シアターで、プロデューサーは『Alive!』と同じエディ・クレイマーである。会場そのものの響きが、荒削りな曲によく合った。
「Hard Luck Woman」は、もともとKISSの曲として書かれたものではない。ポール・スタンレーがロッド・スチュワートに提供するつもりで書いた曲で、結局バンドが録り、ピーター・クリスがロッド流の歌い方で歌った。この曲もヒットしている。
「Calling Dr. Love」の題は、テレビで観ていた三ばか大将から来ている。ジーン・シモンズの説明によれば、もとは「Bad Bad Lovin'」という誰にも好かれなかった曲があり、それを手直ししているさなかに、三人が医者になりすまして病院を走り回り「ハワード先生、ファイン先生、ハワード先生をお呼びします」と館内放送を繰り返す場面が目に留まったのだという。そこからコーラスを書き直し、独特の方法で患者に注射を打つ「ラヴ先生」が生まれた。
「Calling Dr. Love」でバック・ヴォーカルを歌っているのは、のちに『Married with Children』のペギー・バンディ役や『Sons of Anarchy』のジェマ役で知られる俳優ケイティ・サガルである。当時は歌手を志すウェイトレスで、ジーン・シモンズが立ち寄った店で顔を合わせたのがきっかけだった。彼女が組んでいたグループ・ウィズ・ノー・ネームは1976年、ジーンの口利きでカサブランカ・レコードと契約している。
「Love Gun」は日本行きの機内で書かれた。ポール・スタンレーによれば、頭の中だけで全部でき上がっており、着陸してから実際に弾いてみて確かめたという。彼はこの曲を、演奏していていちばん楽しい曲であり、KISSの本質を示す代表曲の五本の指に入ると述べている。歌の主題を問われたときの返答は決まっており、ラヴ・ガンとは生まれつき備わっていて外れることのない銃だ、というものだった。
表題曲「Love Gun」のベースを弾いているのは、ジーン・シモンズではなくポール・スタンレーである。キーボードはプロデューサーのエディ・クレイマーが担当した。
「Christine Sixteen」の題は、ジーン・シモンズがポール・スタンレーをからかった言葉から生まれた。女の子と恋愛の歌ばかり書いていると詰り、その例として口から出まかせに挙げたのが「Christine Sixteen」という題だった。言った本人がそれを悪くない題だと気づき、実際に曲を書いてしまった、というのが経緯である。
「Christine Sixteen」のデモには、ヴァン・ヘイレンのエディとアレックスの兄弟が参加していた。ジーン・シモンズが1977年に二人を呼んで『Love Gun』用のデモ素材を作らせたもので、アルバムに残ったソロは、そのときエディが弾いたフレーズをエース・フレーリーが音符どおりになぞったものである。ジーンは1976年、ヴァン・ヘイレンの最初のデモ・テープを自費で制作している。
「Shock Me」は、エース・フレーリーが実際に感電しかけた事故から生まれた。1976年12月12日、フロリダ州レイクランドの公演で、接地の不十分なセットの金属手すりに触れた瞬間に電流が体を走り、彼は意識を失って倒れた。意識が戻ったあと、手の感覚がないまま最後まで演奏している。この一件を曲にしてはどうかと勧められて書いたのがこの曲だった。
「Shock Me」はエース・フレーリーがKISSのアルバムで初めてリード・ヴォーカルを取った曲だが、その歌入れは仰向けに寝た状態で行われた。1992年にギター・ワールド誌でダイムバッグ・ダレルから理由を尋ねられたエースは、高音を出すためではなく、緊張していて歌う姿を見られたくなかったからだ、と答えている。プロデューサーのエディ・クレイマーに照明を落とさせ、自分から見えない位置に横たわって歌った。
『Love Gun』は、四人全員がリード・ヴォーカルを取った最初のKISSアルバムであり、同時に、オリジナル・メンバー四人が全曲に参加した最後のアルバムでもある。次の『Alive II』ではエース・フレーリーが新録のスタジオ曲のほとんどに不在で、1979年の『Dynasty』ではピーター・クリスの参加が1曲のみになる。
1977年の『Alive II』は3面がライヴ、残る1面が新録のスタジオ曲という構成だった。そのスタジオ側で、エース・フレーリーは自身の曲「Rocket Ride」を除いてほとんど演奏していない。代わりに弾いたのはボブ・キューリックで、1973年の結成時にギタリストのオーディションを受けた旧知の人物である。この交代は当時公にされなかった。
1978年5月、KISSはテレビ映画『Kiss Meets The Phantom Of The Park』の撮影に入った。企画はハンナ・バーベラ側から「『スター・ウォーズ』と『ハード・デイズ・ナイト』を合わせたもの」として持ち込まれたという。現場は惨憺たるもので、ジーン・シモンズによればピーターとエースは撮影に現れないことがあり、ピーターの台詞は聞き取れないという理由で全編別の俳優の声に差し替えられた。当然ながら本人はこれに激怒している。ポール・スタンレーは、撮っているあいだは皆が傑作になると言い続けていたが、出来上がったものはひどかったと述べている。
1978年にKISSの四人が同じ日にソロ・アルバムを出したのは、バンドを解散させないための応急処置だった。ジーン・シモンズによれば、エース・フレーリーとピーター・クリスが脱退を口にし始めたため、マネージャーのビル・オーコインがその場で「四人それぞれソロを出せばいい」と思いついたのだという。ソロだがKISSの作品でもある、という理屈である。ニール・ボガートは大きな企画を好み、四枚を同じ日に、左上にKISSのロゴを入れて出すことを決めた。
四枚のソロ・アルバムは1978年9月18日に一斉発売された。ジャケットはいずれもエラルド・カルガティの絵で統一され、宣伝費は250万ドル。四枚とも「プラチナ出荷」を掲げていた。四人はそれぞれ、自分以外の三人へアルバムを献辞しており、また誰も他のメンバーの作品には演奏していない。
四枚のソロ・アルバムについては「プラチナで出荷され、ダブル・プラチナで返品された」という冗談が長く定説のように語られてきた。実際に返品は起きており、事務的な手違いで店に送りすぎた在庫が数千枚単位で戻ったという記述がある。一方、ジーン・シモンズはClassic Rock誌に対し、四枚とも最低でも100万枚は売れていると述べている。売れ行きの評価そのものが二通り並立している。
ジーン・シモンズのソロ・アルバムは、参加者の顔ぶれで他の三枚と一線を画していた。ジョー・ペリー、ボブ・シーガー、ドナ・サマー、そして当時の恋人だったシェールが名を連ねている。希望はさらに大きく、ジョン・レノンとポール・マッカートニーにも声をかけたが実現しなかった。ディズニーの『ピノキオ』の「When You Wish Upon A Star」を録った際、ジーンは歌いながら涙を流したという。本人はこの作品を、まとまりを欠いたものだったと振り返っている。
四枚のソロ作のうち最も売れたのは、エース・フレーリーのアルバムだった。ラス・バラードが書き、英国のバンドHelloが先にヒットさせていた「New York Groove」のカヴァーが全米トップ20に入り、アルバムを引っ張っている。プロデュースはエディ・クレイマー。この成功はエース本人の自信を大きく押し上げ、後年彼自身が、あれで目が開いて少し傲慢になり、いずれ自分の道を行くという種が蒔かれたと述べている。
1979年の『Dynasty』でドラムを叩いているのは、ほとんどがピーター・クリスではない。彼は前年に自動車事故で重傷を負っており、それに薬物問題が重なって、演奏できる状態にも意欲のある状態にもなかった。参加したのは自作の「Dirty Livin'」1曲だけで、残りは南アフリカ出身のセッション奏者アントン・フィグが叩いている。フィグは翌年の『Unmasked』でも同じ役割を務めた。
「I Was Made for Lovin' You」は、ディスコ調の曲を書くのがいかに簡単かを証明するために書かれた。書籍『KISS: Behind the Mask』によれば、ポール・スタンレーはソングライターのデズモンド・チャイルド、プロデューサーのヴィニ・ポンシアと組んでこれに取りかかったのだという。結果は100万枚を超えるヒットで、ライヴでも定番になった。ちなみに『Dynasty』の音の方向は、当時バンドが通っていたマンハッタンのクラブ、スタジオ54の空気とも無縁ではない。
「I Was Made for Lovin' You」は、ロック・バンドが外部の職業作家と組むことへの抵抗を崩した一曲でもある。デズモンド・チャイルドはSongfactsのインタビューで、当時のバンドはメンバー同士かプロデューサーとの共作までは許容されても、外部のソングライターを入れることは「自分たちで書けない」と見られるのを恐れて避けられていた、と説明している。彼にとってはこれが作家としての最初のヒットで、この一件がきっかけとなって道が開け、次に組んだボン・ジョヴィとは初日に「You Give Love A Bad Name」を書き上げている。
「I Was Made for Lovin' You」のメロディの出どころを、ポール・スタンレー自身がSongfactsのインタビューで明かしている。フォー・トップスの「Standing In The Shadows Of Love」のフックで、二つを並べて聴けば分かるという。なお、この曲のドラムを叩いているのはピーター・クリスではない。ジャケットにもビデオにも登場しているが、実際の録音はセッション奏者のアントン・フィグである。
『Unmasked』の「Shandi」で実際に演奏しているKISSのメンバーは、ポール・スタンレー一人である。歌とギターをすべて彼が担当し、ドラムはアントン・フィグ、ベースはKISSのローディだったトム・ハーパー、キーボードは職業作家のホリー・ナイトが弾いている。ポールとプロデューサーのヴィニ・ポンシアの共作で、ポンシアはバック・ヴォーカルにも参加した。この曲は全米47位だったが、オーストラリアで5位、ニュージーランドで6位と、南半球で特に強く支持された。
ピーター・クリスがKISSのメンバーとして最後に姿を見せたのは、「Shandi」のミュージック・ビデオである。演奏には加わっていないが、ビデオには四人全員が出ている。彼はその後1980年にバンドを離れ、ソロ活動へ移った。
ピーター・クリスの後任として1980年5月に加入したエリック・カーには、当初「ザ・ホーク(鷹)」というキャラクターが用意されていた。マネージメント側の意向だったが、仕上がりは狙いから外れていた。本人はのちに、自分は鷹ではなくチキン・マンに見えた、大きな鶏のようだった、と語っている。最終的に彼は自分で「ザ・フォックス(狐)」という役柄を考え出している。
『Music from "The Elder"』の物語は、ジーン・シモンズがビヴァリーヒルズ・ホテル滞在中に書いた短編である。本人の説明では、エルダーとは肉体を持たない生命体で、善意ではあるが対立するものの均衡に忠実であり、闇が強くなりすぎたときに均衡を戻すため英雄が生まれる、というものだった。バンドがエース・フレーリーのコネチカットの自宅スタジオで曲を書き始めたとき、ボブ・エズリンはこの筋書きを黒板に図解している。
『Music from "The Elder"』には、ルー・リードが共作者として名を連ねている。ボブ・エズリンの推薦によるもので、「Mr. Blackwell」と「A World Without Heroes」の2曲が該当する。
『Music from "The Elder"』は、トロント近郊の農場にあるボブ・エズリンのスタジオで録音された。ジーン・シモンズは、真冬で外は鴨と馬糞ばかりだったと振り返っている。このセッションには一人、ほとんど姿を見せなかった人物がいる。エース・フレーリーである。彼はこのコンセプトそのものを嫌っており、結局アルバムでは「Dark Light」1曲を録っただけだった。
『Music from "The Elder"』は映画のサウンドトラックとして構想されていたが、その映画は作られなかった。ジーン・シモンズは、俳優の起用まで話が進んだところで企画が動かなくなったと述べている。さらに発売直前になって曲順が変更され、ただでさえ入り組んでいた筋書きは追えないものになった。結果としてこれは、KISSにとって初めて全米ゴールドに届かなかったアルバムになる。ジーン自身の総括は身も蓋もない。批評家に迎合した唯一の一度で、自分たちは正気を失っていた、というものである。
エース・フレーリー脱退後の空席を埋めるため、KISSは80人ほどのギタリストをオーディションした。そのなかには、のちにボン・ジョヴィに加わるリッチー・サンボラもいる。彼は演奏そのものは気に入られたものの、次々に曲名を挙げられて「これは知っているか」と問われ、どれも知らなかったと振り返っている。もう一人の候補はエディ・ヴァン・ヘイレンだった。当時自分のバンドの状況に不満を抱えていた彼は加入を望んだが、ジーン・シモンズと兄アレックスに思いとどまらせられている。
『Killers』と『Creatures of the Night』の時期にKISSを立て直したのは、外部の共作者たちだった。カナダ出身のアダム・ミッチェルはプロデューサーのマイケル・ジェームズ・ジャクソンから声をかけられて参加し、依頼の趣旨は「コンセプト・アルバムはもう十分だ、KISSらしい良いロックンロールを書こう」というものだったという。『Killers』の新曲4曲のうち「Down On Your Knees」には、当時まだ若手だったカナダのソングライター、ブライアン・アダムスが共作者として加わっている。
『Creatures of the Night』のジャケットにはエース・フレーリーが写っているが、演奏には参加していない。録音時点で彼はすでに脱退の意思を固めており、ギターは複数の奏者が分担している。ヴィニー・ヴィンセント、ボブ・キューリック、ロベン・フォード、そしてのちにミスター・ミスターに加わるスティーヴ・ファリスが参加した。表題曲の中盤のリフを弾いたのは、共作者のアダム・ミッチェル本人である。
ヴィニー・ヴィンセントは1982年末にKISSへ正式加入したが、その立場は給与制の「議決権を持たない」メンバーだった。キャラクターは「ザ・ウィザード」。芸名も割り当てられている。本人が希望した「ミック・フューリー」は却下され、ヴィニー・ヴィンセントという名が与えられた。彼は公式伝記『Behind The Mask』のなかで、ファンが心から愛している人物の後釜に座るのがつらかった、誰かの代わりになりたかったわけではない、と述べている。ステージ・デビューは1982年12月、ノースダコタ州ビスマークだった。
1983年6月、KISSはリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで、バンド史上最大規模の公演を行っている。ジーン・シモンズはその日の観客を19万人から21万人ほどと述べ、「ひとつの国のようだった」と表現した。しかし本国の状況は正反対だった。同じ時期の全米ツアーでは会場が半分も埋まらず、KISSは方針転換を迫られる。その答えがメイクを落とすことだった。
KISSが素顔を公にしたのは1983年9月、MTVを通じてだった。放送は日曜の午後11時。10年にわたって隠されてきた四人の顔が、スタジオの照明の下でひとりずつ映し出されていく。ポール・スタンレーはこの日を、自分にとっては拍子抜けだったと述べている。神秘性はオリジナルの四人にあったのであり、その顔ぶれではなくなった時点で、素顔の公開はうまい売り方以上のものではなかった、というのが理由である。
1983年の「素顔公開」の9年前、KISSはすでにメイクなしで撮影されていた。仕掛けたのはロック誌クリームのアート・ディレクター、チャーリー・オーリンガーである。マネージメント側の了解を取ってあると伝えて撮影に持ち込んだが、実際には了解など取っていなかった。それでもクリームは、注意深く作られた神秘性を守るため、その写真を掲載しないことに同意している。
メイクを落とす案を最初に出したのはポール・スタンレーで、『Creatures of the Night』の時点で提案していた。断ったのはジーン・シモンズである。KISSには、誰かが嫌がることはやらないという取り決めがあったため、このときは見送られた。ジーンにとってデーモンの人格は舞台上で解き放つもので、それを失うことは容易ではなかった。決断は『Lick It Up』の録音中に持ち越され、それでもジーンは最後まで迷った。写真撮影で並んでみて「これでは他のバンドと同じだ」と感じ、一枚の写真で自分が舌を出しているのを見て、以前のKISSとのつながりが必要だと考え、目をつぶって承知したのだという。
素顔になった直後のKISSが撮った「Lick It Up」のミュージック・ビデオは、MTVが取り上げた最初のKISS作品となった。曲を書いたのはポール・スタンレーとヴィニー・ヴィンセント。映像は終末後の荒れ地のような場所を舞台にしており、MTVでの初公開時には四人の脚だけを映すところから始めて、素顔を見せる瞬間をもう少しだけ引き延ばしている。
「Lick It Up」のシングルは、アルバムと同じ1983年9月18日に発売された。KISSにとって歴史的な一日で、この日彼らはメイクも衣装も着けずに公の場へ現れている。ジャケットの四人は、ロック・バンドとしてはごく普通の姿だった。同日には各種の宣伝出演もこなし、その注目がアルバムの売り上げを押し上げた。
『Animalize』はマーク・セント・ジョンが参加した唯一のKISSアルバムである。彼はヴィニー・ヴィンセントの後任として選ばれたが、在籍期間はわずか8か月で終わった。関節炎の一種を発症して左手の関節や膝、アキレス腱が腫れ上がり、一時は杖が必要な状態になったためである。アルバム中2曲は彼が弾いていない。1984年11月29日のニューヨーク州ビンガムトン公演がKISSでの最後のステージとなり、彼は2007年に51歳で亡くなった。
『Animalize』は事実上ポール・スタンレー一人で仕上げられた作品である。ジーン・シモンズが映画やテレビの仕事に時間を割いていたため、ポールが制作を引き受けた。ギターのマーク・セント・ジョンとの作業も難航している。ポールによれば、ソロを組み立ててくるよう家に帰しても翌日にはまったく別のソロを弾き、結局ポールがソロを歌って示したり、自分で弾いたりする場面もあったという。ジーン自身も後年、この時期に自分がバンドから目を離していたことを認めている。
ブルース・キューリックがKISSに入った経緯は変わっている。彼はKISSのセッションを何度も務めたボブ・キューリックの弟で、70年代末に兄を介してポール・スタンレーと知り合っていた。『Animalize』でマーク・セント・ジョンの体調が悪化した際、代役として2曲を弾いたのが始まりである。その作業中にポールから「髪を切るなよ」と言われ、何かあると察したという。1984年9月30日のブライトン公演が正式なKISSでの初舞台で、緊張のあまり動けず、その場で「スプルース・グース」という渾名を付けられた。正式加入の連絡は同年12月に届き、彼はその後10年間バンドに在籍する。
『Crazy Nights』の先行シングルとなった「Crazy Crazy Nights」は、ポール・スタンレーと職業作家アダム・ミッチェルの共作である。ミッチェルは2011年の書籍『The Eric Carr Story』のなかで、デモの出来には満足していたと述べている。観客が一緒に歌う体裁のバック・コーラスが巨大に響き、それこそが曲の眼目だったからである。しかしプロデューサーのロン・ネヴィソンのミックスではその群衆の感触が失われてしまい、自分は気に入らなかった、ポールも口には出さなかったが同じだったと思う、と語っている。
KISSの英国での本格的なブレイクは、70年代ではなく80年代に訪れた。1987年、『Crazy Nights』の冒頭を飾る「Crazy Crazy Nights」が全英シングル・チャートで4位に達したのである。アメリカで「Rock and Roll All Nite」や「Beth」によって広く知られるようになってから、11年後のことだった。
1989年の『Hot in the Shade』は、KISSのキャリアで唯一、全曲に外部の共作者が入ったアルバムである。ポール・スタンレーは「Forever」をマイケル・ボルトンと、「Hide Your Heart」をデズモンド・チャイルドとホリー・ナイトと書いた。ボルトンはバラードの人という印象が強いが、マイケル・ボロティンの名でロックをやっていた時期がある書き手でもある。
「Forever」は全米8位まで上がり、KISSにとって「Beth」に次ぐ高順位のシングルとなった。ちょうどガンズ・アンド・ローゼズの「Patience」やエクストリームの「More Than Words」が受け入れられていた時期で、ハードロック側の書き手が広い層に届くバラードを出しても違和感のない空気があった。マーク・レジカが監督したビデオは、部屋で演奏するだけの簡素なもので、メイクを落として以降のバンドの姿がよく分かる映像になっている。
『Hot in the Shade』最大のヒットとなった「Forever」で、ベースを弾いているのはジーン・シモンズではない。ギタリストのブルース・キューリックである。このアルバムはポールとジーンの共同プロデュースで、デモに重ね録りしていく方式で作られた。キューリックは、二人が同時にプロデューサーを務めると「この曲は好きだがあれは嫌だ」という妥協が入るのが弱点だった、と述べている。ポール自身も、船長のいない船のようだったと振り返っている。
エリック・カーは1990年に心臓の腫瘍が見つかり、1991年11月24日に亡くなった。フレディ・マーキュリーが亡くなったのと同じ日である。後任探しでは、デヴィッド・ボウイからジャーニーまで渡り歩いたベテラン、エインズレー・ダンバーの名も挙がったが、知名度が高すぎるという理由で見送られた。選ばれたのはエリック・シンガーで、ポール・スタンレーの80年代末のソロ・バンドで叩いた経験があり、カーの代役として1991年の映画『ビルとテッドの地獄旅行』用に録音された「God Gave Rock And Roll To You」にも参加していた。
1992年の『Revenge』は、KISSを原点へ引き戻すために作られた作品で、プロデューサーには三度目のボブ・エズリンが起用された。意外だったのは共作者の顔ぶれである。1983年に不和のうちにバンドを去り、その後長く舌戦を続けてきたヴィニー・ヴィンセントが3曲に名を連ねた。先行シングル「Unholy」もその一つである。アルバム末尾のドラム・ソロ「Carr Jam 1981」は前年に亡くなったエリック・カーへの追悼で、作品全体も彼に捧げられている。
『Carnival of Souls: The Final Sessions』は、当初グランジ寄りの新作として作られていた。1994年、ポール・スタンレーとジーン・シモンズはアリス・イン・チェインズを手掛けたプロデューサーのトビー・ライトと会っている。ライトによれば、彼らは当時の流行だったグランジに乗りたがっており、要はレコードを売りたかったのだという。しかし完成間近になってジーンに電話が入る。オリジナル・メンバー全員でメイクを戻すという条件の提案だった。ライトはその言葉が出た瞬間に、自分たちの仕事は終わったと分かったと述べている。アルバムは棚上げされ、1997年に世に出た。
オリジナルのKISS四人が再び同じ舞台に立ったのは、1995年8月9日のMTVアンプラグドだった。エース・フレーリーとピーター・クリスが、当時の編成であるポール、ジーン、ブルース・キューリック、エリック・シンガーに加わった形である。この日は、エースとピーターがキューリックとシンガーと同時に演奏した唯一の機会であり、同時に、オリジナル四人がメイクをせずに揃って演奏した唯一の機会でもあった。ここでの手応えが、翌年の本格的な再結成につながる。
オリジナルKISSの復活を世界に告げたのは、意外な人物だった。1996年2月28日、ロサンゼルスで開かれた第38回グラミー賞のプレゼンターを務めたトゥパック・シャクールが、会場に向かって何か違うもの、驚きが必要だと語りかけたあと、四人を呼び込んだのである。ポール・スタンレー、ジーン・シモンズ、エース・フレーリー、ピーター・クリスがフル・メイク、フル・コスチュームで同じ舞台に立つのは17年ぶりだった。四人は多くを語らなかったが、それで十分だった。
再結成ツアーの記者会見は、マンハッタン沖に停泊する航空母艦イントレピッドの上で行われた。1996年4月16日のことである。オリジナル四人がコスチュームを着けて演奏するのは1979年以来だった。初日はデトロイトの5万人収容タイガー・スタジアムに設定されている。ジーン・シモンズは自伝のなかで、売り切れるかどうか不安だったと書いている。チケットは金曜の夜に売り出され、翌朝6時にマネージャーのドク・マギーから電話が入り、悪い知らせのほうは「もう売る券がない」というものだった。1時間足らずでスタジアムが埋まったのである。
再結成後の『Psycho Circus』は、オリジナル四人の作品として売られたが、実際に四人全員が同じ曲で演奏しているのは、エース・フレーリーが歌う「Into The Void」1曲だけである。外部の演奏者を使う判断はプロデューサーのブルース・フェアバーンによるものだったと、エンジニアのマイク・プロトニコフは述べている。ピーター・クリスのドラム・パートはセッション奏者ケヴィン・ヴァレンタインが、ギターの多くはのちにエースの後任となるトミー・セイヤーが弾き、ブルース・キューリックも数曲に参加した。エース本人は、自分は録音に呼ばれなかったのだと語っている。
1998年に始まった『Psycho Circus』ツアーは、3Dで演出された最初のロック・コンサートだった。観客は開演前に配られた眼鏡を持ち、公演中の指定された場面でそれを掛けて映像効果を見る仕組みである。舞台には毎晩数トンの火薬が持ち込まれた。
トミー・セイヤーがスペースマンの衣装をまとった最初の機会は、正式加入よりずっと前だった。フェアウェル・ツアー中のカリフォルニア公演で、エース・フレーリーが時間になっても現れなかったため、当時ツアー・マネージャーだったセイヤーがメイクと衣装を整えて出番に備えたのである。ポール・スタンレーによれば、エースは開演20分ほど前に楽屋へ入ってきて、すでにギターを提げて準備万端のセイヤーを見ると、やあトミー元気か、とだけ言ったという。
KISSがロックの殿堂入りしたのは2014年で、資格を得てから15年が経っていた。しかし式典では演奏していない。殿堂側が、当時の現役メンバーであるトミー・セイヤーとエリック・シンガーを対象に含めなかったためである。ジーン・シモンズはSongfactsのインタビューで、その判断への違和感を別の例えで説明している。自分が主催する殿堂に相手を招くとして、家族を全員連れてきてよい、ただし最初に付き合った恋人だけで、妻も子も駄目だと言われたらどう感じるか、というものだった。
1975年、ミシガン州キャデラックの高校アメフト部は不調のさなかにあった。コーチのジム・ネフがバスとロッカールームでKISSのアルバムを流し始めたところ、チームはシーズン終盤に7連勝してカンファレンス優勝を果たす。ネフがKISSのマネージメントに連絡を取ったことから話は思わぬ方向へ進み、KISSは実際にこの町を訪れて校内で公演を行い、ホームカミング・パレードにも参加した。町の通りには後年キッス・ブールヴァードの名が与えられ、バンドは市の鍵を贈られている。
1977年、マーヴル・コミックからKISSのコミックが出版された。この本の赤いインクには、バンドの血が混ぜられていたとされる。KISSの商品展開はその後も止まらず、2001年にはオリジナル・メンバーの写真とサインが入った棺「キッス・キャスケット」の製造が始まった。2004年12月に亡くなったパンテラのダイムバッグ・ダレルは、この棺に納められて葬られている。彼にとってKISSは最も好きなバンド、エース・フレーリーは最も好きなギタリストであり、葬儀では彼の愛した「Cold Gin」が流された。
KISSは2023年12月2日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで<END OF THE ROAD>ツアーの最終公演を行い、そのアンコールで舞台を降りた。四人がいなくなったステージには、デジタル・アバターとなったKISSが現れ「God Gave Rock And Roll To You」を演奏している。アバターを制作したのはインダストリアル・ライト&マジックで、出資と制作はロンドンの「ABBA Voyage」を手掛けたスウェーデンの企業ポップハウス・エンターテインメントが担当した。ポール・スタンレーは客席に向かって、ロードの終わりは別のロードの始まりであり、自分たちはどこへも行かない、と語った。
1978年の映画『サージェント・ペパー』で悪役バンド、フューチャー・ヴィラン・バンドを演じる話は、最初にKISSへ来ていた。四人は、悪役を演じることが自分たちのイメージに与える影響を懸念して断っている。役は最終的にエアロスミスが引き受けた。
ポール・スタンレーは右耳に聴力を持たずに生まれた。2011年にCNNに語ったところによれば、レベル3の小耳症という外耳の軟骨の先天的な形成不全で、およそ8000人から1万人に1人の割合で生じるという。外耳道がなく、内耳へ音が届く経路もないため、骨伝導を除けば右側はほぼ聞こえない状態だと本人が説明している。彼は埋め込み型の補聴器を使ってきた。
「Beth」を誰が書いたのかについては、二つの説が並んで立っている。共作者としてクレジットされているピーター・クリスは、メロディはニューヨークへ向かう列車のなかで自分に浮かび、スタン・ペンリッジと仕上げた、題を「Beck」から「Beth」に変えたのはボブ・エズリンだ、と述べている。一方ポール・スタンレーは2014年にローリング・ストーン誌へ、この曲はほぼすべてペンリッジが書いたもので、クリスの寄与はごくわずかだったと語った。KISS最大のヒットの作者をめぐる話であり、両者の説明は今も食い違ったままである。
ヴィニー・ヴィンセントの在籍は『Lick It Up』ツアーの終わりとともに終わった。ロサンゼルスのフォーラム公演で彼が意図的にギター・ソロを引き延ばし、袖で出番を待つポール・スタンレーを待たせ続けたことがあり、終演後の楽屋で二人は取っ組み合い寸前まで行ったと伝えられている。ヴィンセント自身は1985年、脱退後まもない時期に、自分は力を出し切れていなかった、『Lick It Up』は自分にできることの25パーセントほどしか示していない、と述べている。ポールは後年、彼が解雇されたことをはっきり認めた。
ピーター・クリスが二度目にKISSを離れたのは、ツアーの途中だった。サウスカロライナ州ノース・チャールストン公演の最後にドラム・セットを蹴り倒し、大きなタムがポール・スタンレーのほうへ転がっていったという。彼はその夜のうちにツアーとバンドを離れ、残りの日程は前任者でもあるエリック・シンガーが引き継いだ。クリスは2002年に一度戻り、2004年に三度目にして最後の離脱をしている。
2009年の『Sonic Boom』は、KISSにとって11年ぶりのスタジオ作だった。この作品でトミー・セイヤーが初めてKISSのスタジオ・アルバムに参加し、1曲でリード・ヴォーカルも取っている。エリック・シンガーも同様に1曲を歌った。ポール・スタンレーは題について、地響きがして耳を聾するようなこの作品にふさわしい、と述べている。
エリック・カーは、KISSのメンバーのなかでも特にファンとの距離が近い人物だったという。ブルース・キューリックによれば、彼は届いたファンレターにすべて返事を書き、ときには電話までかけていた。ホテルのロビーにファンが入れてもらえないときには、凍えるような屋外でサインに応じていたこともあったと、キューリックは振り返っている。
「Plaster Caster」の題材になったシンシア・プラスター・キャスターは、実在の人物である。イリノイ大学の課題で「形を保てる固いもの」を石膏で型取りするよう言われたことから始まり、彼女と仲間はミュージシャンの型を取るという方法にたどり着いた。本人は2014年にSongfactsへ、最初にこの曲を知らされたときは嬉しくなかったと語っている。ジーン・シモンズが自分も型を取られたと思わせるための曲に見えたからだ——実際には彼が型を取られたことはない。ただし年月を経てレモンヘッズがカヴァーした頃には、メロディの良さに気づいて受け入れるようになった、とも述べている。