JOURNEY トリビア 全51件
JOURNEYにまつわる事実を、出典付きで51件掲載しています。
Trivia
結成年については、バンド自身の記述のあいだで食い違いがある。公式サイトの紹介文は、ニール・ショーンが1972年にジャーニーを結成したと書いている。一方、バンド公認のドキュメンタリー映画の公式サイトも、2023年の公式プレスリリースも、結成は1973年としている。ただしどちらの資料も一致している点がひとつある。ショーンは唯一、一度も欠けたことのないメンバーであり、これまでの全アルバムと全ツアーに参加してきた、ということである。
コロンビア・レコードがバンドと契約したのは1974年11月である。デビュー作『Journey』(1975年)、続く『Look into the Future』(1976年)、『Next』(1977年)は、それぞれ前作より高い順位まで上がっていった。当時の彼らは年に9か月を路上で過ごすという過酷な日程を組んでおり、その頃鳴らしていた音楽をショーンは、マハヴィシュヌ・オーケストラのロックンロール版だと呼んでいる。
スティーヴ・スミスは、バンドの外から連れてこられた人ではない。もともと彼はジャーニーのドラム・ローディーだった。1978年に正式に迎え入れられ、ジャズ・フュージョンで培った腕前をバンドの音に加えている。彼が加わって作られた1979年の『Evolution』は、バンドにとって2作目のミリオン・セラーとなった。
1981年の『Escape』は、バンドにとって初めての全米1位アルバムだった。トップ40に1年以上留まり、認定は8回のプラチナに達している。さらに2021年、発売から40年という節目に、この作品はRIAAからダイヤモンド認定を受けた。1000万相当単位以上を売ったことを示す認定である。
ジャーニーには、ダイヤモンド認定を受けた作品が2つある。ひとつは『Escape』、もうひとつは1988年に出たベスト盤『Greatest Hits』である。後者は15回のプラチナ認定を経て2008年4月にダイヤモンドとなり、2021年10月の時点でビルボードのカタログ・アルバム・チャートに通算1,328週ランクインしていた。公式サイトによれば、この編集盤は時期によっては全世界で年に50万枚近く売れており、バンドの全世界売上は1億枚を超えているという。
アーネル・ピネダを見つけるまでのニール・ショーンの探し方は、徹底していた。公式サイトの記述によれば、彼はYouTubeで何千人もの歌い手を観ており、次のリード・ヴォーカリスト探しをもう諦めようかというところまで来ていたという。そこでピネダに行き当たると、今度は投稿されていた40本の動画をすべて観た。加入が発表されたのは2007年12月5日である。リハーサルに入ってから全員が噛み合うまでには数日かかったが、3日目には形になり、時差ぼけが抜けるとショーン、ケイン、ピネダの3人はカリフォルニア州ノヴァートのスタジオへ入って何曲かに取り掛かった。
ジャーニーは1973年、サンフランシスコで生まれたバンドである。中心となったのは、サンタナに在籍していたニール・ショーン(ギター)とグレッグ・ローリー(キーボード、ヴォーカル)、そしてロス・ヴァロリー(ベース)だった。ショーンとローリーはサンタナで知り合っており、両バンドのあいだの時期、ショーンはサンフランシスコ界隈で他の面々と演奏し、ローリーはシアトルで父親とレストランを開いていた。
バンド名は公募で決まった——ということになっている。結成にあたって彼らはサンフランシスコのラジオ局KSAN-FMで名前の公募を行い、優勝者にはライヴの生涯無料チケットを出すと告知した。ところが集まった案がどれもひどく、実際に「Journey」という名前を思いついたのは、バンドの管理側で働いていたジョン・ヴィラヌエヴァだった。そこで彼らは、トビー・プラットという架空のリスナーを当選者としてでっち上げたのである。
ニール・ショーンは10代のうちに、エリック・クラプトンのバンド、デレク・アンド・ザ・ドミノスに加わる機会を断っている。そのあと彼が入ったのがサンタナだった。ドキュメンタリー映画の公式サイトによれば、サンタナに誘われたのは15歳のときで、ギタリストとして2年間在籍したという。
スティーヴ・ペリーがジャーニーに入ることになった経緯には、不幸な出来事が挟まっている。加入前の彼はエイリアン・プロジェクトというバンドにいて、1978年にCBSレコードとの契約が目前まで来ていた。ところがそのバンドのベーシストが自動車事故で亡くなり、契約の話は流れる。それがペリーにとって、ジャーニーのヴォーカリストの座に就くきっかけになった。
そのペリーの採用は、驚くほど速く決まっている。バンドのマネージャーが彼のオーディション・テープを聴いたのは、わずか15秒だった。
サンフランシスコを歌った曲として知られる「Lights」は、実はロサンゼルスで、ロサンゼルスについて書かれた曲だった。当時バンドが拠点を移していた土地であり、歌詞も街の名をそのまま指していたのだが、ペリーはその響きが気に入らず、そのまま放っておいたのだという。やがてジャーニーに入ることになり、湾のことを歌う形に替えたところ、すべてがはまった。彼はそれを、橋を渡る早朝、日が昇って街の灯りが落ちていく光景そのものだったと述べている。
「Wheel in the Sky」の出発点は、バンドの外にあった。ベーシスト、ロス・ヴァロリーの妻ダイアン・ヴァロリーが書いた「Wheels In My Mind」という詩である。そこにバンドの初代ヴォーカリスト、ロバート・フライシュマンが新しい歌詞を付け、ニール・ショーンは公演のあいだを移動するステーションワゴンの後部座席で、アコースティック・ギターを弾きながらメロディを作った。
その「Wheel in the Sky」は、ペリーを迎えて最初のシングルであり、同時にバンドにとって初めてチャートに入ったシングルでもあった。最高位は全米57位である。ペリー加入前の3枚はそれなりに売れてはいたものの、彼らはシングルのバンドではなかった。歌と歌詞よりも演奏が前に出る、プログレッシヴ・ロック寄りの音だったのである。ペリーが持ち込んだのは、大きなフックを持つ簡潔な曲と、彼自身の声だった。
「Open Arms」のメロディは、ジャーニーの曲になる前に一度捨てられている。ジョナサン・ケインが前のバンド、ベイビーズのために書いたものだったが、ヴォーカルのジョン・ウェイトに甘すぎるとして却下されたのである。ジャーニーに移った彼が携帯用のウーリッツァーでおずおずと弾いてみせると、スティーヴ・ペリーは即座にやりたいと言った。ところがバンドの他の面々は乗り気ではなかった。ペリーによれば、ニール・ショーンはその案を嫌がり、ケイン自身も、やはりウェイトが正しかったのかもしれないと思っていたという。
反対を押し切って出た「Open Arms」は、『Escape』からの3枚目のシングルとして、バンド史上最大のヒットになった。ビルボードのホット100で2位に達し、その位置に6週間留まっている。前を塞いでいたのは、まず「Centerfold」、続いて「I Love Rock And Roll」だった。そしてこの曲は、パワー・バラードという枠組みそのものを切り開いたとされる。ペリーは、いまや誰もが1曲は持たなければならなくなったと述べている。却下したジョン・ウェイトの側も、のちにソロでの最大のヒットはバラードの「Missing You」だった。
意外に思われるかもしれないが、バンドで最も有名な「Don't Stop Believin'」は、当時のアメリカで9位止まりだった。同じ『Escape』から出たシングルの成績は、「Who's Crying Now」が4位、「Don't Stop Believin'」が9位、「Open Arms」が2位である。最も知られている曲と、最も売れた曲は違っていた。
「Don't Stop Believin'」は、構造そのものが変わっている。ふつうの曲ならコーラスが何度も繰り返されるところ、この曲でコーラス——そして曲名にあたる一節——が出てくるのは、始まってから3分20秒ほど経った終盤に一度だけで、そこからフェードアウトまで続く。この耳に残りやすさは、その構造によるところが大きい。
「don't stop believin'」という言葉自体は、ジョナサン・ケインの父親のものである。ハリウッドで自分のキャリアに行き詰まっていた頃の彼が、シカゴに戻って夢を諦めるべきだろうかと父に相談したところ、戻ってくるな、この道を進め、必ずそうなる、信じるのをやめるな、という答えが返ってきた。曲はそのコーラスから書き始められている。ケインはその後ベイビーズに入り、1980年にサンフランシスコでジャーニーに加わって、この曲が形になった。
曲に出てくる「streetlight people」という言い方は、デトvロイトで生まれた。公演が続いていたある晩、ペリーはホテルの部屋で眠れずに窓の外を眺めていた。街灯が下を向いて灯っているので周囲は見えない。そこへ、暗がりから人が歩いて光の中に現れてくる。その光景から出てきたのがこの語だったという。彼はのちに、書き始めた当時デトロイトが強く意識の中にあったと述べている。
同じ曲に出てくる「South Detroit」という地名は、実在しない。デトロイトの市内が区別するのはイースト・サイドとウェスト・サイドだけで、南へ向かえば行き着く先はカナダである。ペリー本人も地理的な正確さにはこだわっていなかったと認めており、east、west、north と語感を試したものの、South Detroit ほど響きが良く、感情として本当らしいものは無かったのだという。存在しない地名だと知ったのはここ数年のことだが、それでも構わない、と彼は述べている。
この曲が2000年代に息を吹き返した起点は、2003年の映画『モンスター』だった。ローラースケート場で二人の登場人物がこの曲に合わせて滑る場面で使われている。監督のパティ・ジェンキンスは撮影の時点でこの曲を流しており、完成した映像をバンドの面々に送って、限られた予算で使用の許可を求めた。ペリーは折り返し電話をかけてきて、許可しただけでなく、作品の他の場面で使う音楽を選ぶのまで手伝った。彼は音楽コンサルタントとしてクレジットされている。この場面が評価されたことで、ハリウッドはこの曲を懐メロとしてではなく見るようになり、映画やテレビからの使用依頼が相次いだ。
決定的だったのは、2007年6月10日に放送された『ザ・ソプラノズ』の最終話である。主人公がジュークボックスでこの曲をかけ、番組はその途中で唐突に暗転して終わる。ペリーはこの使用にあたって、どう使われるのかを教えてもらうまで許可を出さなかった。もし最終場面が血の海になるのなら、その一部にはしたくなかったからである。制作側は彼に結末を明かし、その代わり誰にも言わないと誓わせた。
『ザ・ソプラノズ』での使用のあと、この曲の売れ方は加速した。2008年11月、デジタル配信以前の時代に作られた曲としては初めて、iTunesでのダウンロードが200万を超えたことが発表されている。2000年代の後半には、アメリカでもっともよく歌われるカラオケ曲の一つにもなった。
2009年5月、テレビ番組『glee/グリー』のキャストによるカバーがビルボードのホット100に4位で初登場した。ジャーニー自身の版が到達した最高位より、5つ上である。イギリスでも同様のことが起きており、翌2010年1月17日付のシングル・チャートにグリー版が5位で入り、ジャーニーのオリジナルはその1つ下に並んだ。同じ曲の2つの版がチャート上で隣り合ったのは、2008年12月のアレクサンドラ・バークとジェフ・バックリィによる「Hallelujah」以来のことだった。
イギリスでのこの曲は、最初の発売時には62位までしか行かなかった。ところが2009年11月、ジョー・マケルダリーがテレビ番組『Xファクター』で歌ったことをきっかけに再発売され、今度は19位まで上がっている。番組を率いるサイモン・コーウェルは、優勝したマケルダリーの版をそのまま優勝記念シングルとして出したがったが、ジャーニーはこれを断った。ショーンによれば、彼らはアレンジを変えて作り直したいという打診を聞いたうえで、オリジナルに問題はないのだから直す必要はないと判断したのだという。彼らは、それがイギリスでの1位を逃すことになるかもしれないと分かっていた。バンドでベースを弾いていたランディ・ジャクソンからも、1位になるだろうから許可すべきだと迫られたが、決定は変えなかった。
「Faithfully」を書くのに、ジョナサン・ケインは30分ほどしかかけていない。サラトガ・スプリングスへ向かうバスの中で書き始め、翌日目を覚ますとナイトスタンドの脇にナプキンが置いてあり、そこに冒頭の一行が書かれていた。それを見た瞬間に残り全部が降りてきたのだという。彼はほとんど慌てるようにして書き取り、ナプキンをポケットに入れたままピアノのところへ行って、通して弾いてみて、これは良い、と思ったと述べている。普段なら誰かに仕上げを手伝ってもらうところを、この曲では一人で書き切った。
「Separate Ways (Worlds Apart)」は、バンドが辛い時期にあるときにツアー先で書かれた。当時ニール・ショーンとロス・ヴァロリーが、巡業生活の負荷の中で離婚の手続きの渦中にいたのである。ペリーはケインに、この状況をもっと魂のある見方で捉える方法があるはずだと持ち掛け、二人はホテルの部屋でケインの小さなカシオのキーボードを使って曲を組み立てた。バンド全員がそれを形にしたのは翌日の午後のサウンドチェックで、そのままその晩のセットに入れて演奏している。ケインによれば、ペリーは歌詞の半分ほどを口の中でごまかしながら歌っていたが、客席は完全に沸いたという。
2007年、ニール・ショーンはYouTubeで新しい歌い手を探していた。そこで見つけたのが、フィリピンでジャーニーのカバー・バンド、ザ・ズーで歌っていたアーネル・ピネダである。彼が新しいリード・ヴォーカリストとして発表されたのは2007年の終わりだった。ピネダを迎えて作られた2008年の『Revelation』はビルボード誌で最高5位に入っている。
その加入の経緯はドキュメンタリー映画になった。日本では『ジャーニー/ドント・ストップ・ビリーヴィン』の題で2013年3月16日から劇場公開されている。滞日中に取材に応じたピネダは、この映画で伝えられるのは、自分を信じて懸命に取り組み続ければ必ず辿り着ける場所があるということだと語った。ドラマーのディーン・カストロノヴォは、台本に基づいた場面が一つも無く、すべてが自分たちのそのままの姿だと述べている。ピネダによれば、疲れ切って絶望的な気分でいるときにも撮られており、それでも演技をしようとは考えなかったという。
2017年、ジャーニーはロックの殿堂入りを果たした。同じ年に選ばれたのは、2パック、パール・ジャム、イエスらである。来日直前のインタビューで感想を訊かれたニール・ショーンは最高の気分だと答え、ジョナサン・ケインは待った甲斐があったと述べた。ロス・ヴァロリーは、自分がとくに嬉しいのはファンや友人のことで、メディアも業界もみな盛り上がってくれているからだと語っている。
2017年2月のジャパン・ツアーには、特別な一夜が用意されていた。最終日となる2月7日の日本武道館公演で、『Escape』と『Frontiers』の2枚を完全に再現するというものである。これは世界で初めての試みだった。この時のツアーには黄金期を支えたドラマー、スティーヴ・スミスが復帰しており、ニール・ショーン、ロス・ヴァロリー、ジョナサン・ケインにアーネル・ピネダを加えた5人で回っている。ツアーは2月1日の大阪城ホールから始まり、愛知、仙台を経て武道館2days で締めくくられた。
2017年の時点で、アーネル・ピネダの在籍は10年に達していた。これはジャーニーの歴代ヴォーカリストの中で最も長い期間である。
「Don't Stop Believin'」に付いた記録は、いくつもの水準を超えている。2024年3月、フォーブス誌はこの曲を「史上最大の曲」と位置づけた。同じ時点で全米レコード協会(RIAA)による認定はシングルとして18回のプラチナに達しており、また、20世紀に作られた楽曲としては最も売れたデジタル・トラックで、ダウンロードは700万を超えている。
2025年11月、ジャーニーはフェアウェル・ツアーの開催を明らかにした。これに先立つ同年10月17日、キーボードのジョナサン・ケインはラジオ番組で自身の去就について語っている。当時75歳だった彼は、これから先の2本のツアーをやってそれで区切りをつけるつもりだと述べ、80歳になってツアー先で死ぬような終わり方は望まない、家族や孫と過ごすのに良い時期だと感じている、と説明した。ファンに別れを告げずに抜けることは絶対にしない、最後にもう一度だけやると常に考えていた、というのが彼の言い方である。ただし彼の広報担当は、ケインは引き続きジャーニーの現役メンバーであり、今後数年のツアーに専念する意思があって、引退はもっと後の話としてしか述べていない、とする声明を出している。
ペリーを迎えて作られた4作目『Infinity』のプロデュースを手掛けたのは、ローリング・ストーンズ、クイーン、ザ・カーズなどを手掛けたロイ・トーマス・ベイカーだった。
2022年の『Freedom』の制作にあたって、バンドはもう一人を迎え入れている。ベースのランディ・ジャクソンである。彼は1986年の『Raised on Radio』で既にジャーニーの作品に参加していた人物で、36年を隔てて再び同じバンドのアルバムに加わったことになる。
ジャーニーを名乗る前、彼らはザ・ゴールデン・ゲイト・リズム・セクションという名前で活動していた。
初期の顔ぶれは、それぞれ既に名の知れた場所から来ていた。ベースのロス・ヴァロリーはスティーヴ・ミラー・バンドで弾いていた人物であり、最初のドラマーだったプレイリー・プリンスはチューブスのメンバーだった。もっともプリンスは、ジャーニーで何本かステージを踏んだのち、チューブスに残ることを選んでいる。彼のあとに入ったエインズレー・ダンバーは、ジェフ・ベック、ジョン・メイオール、ルー・リード、デヴィッド・ボウイと演奏してきた人物で、ジャーニーを離れたあとはジェファーソン・スターシップに加わった。
1978年に出た4作目『Infinity』は、バンドにとって初めてのプラチナ・ディスクとなった。デビューから3枚は商業的な成功に届いていなかったが、1977年にペリーが加わると状況は一気に変わっている。続く1979年の『Evolution』は全米20位、1980年の『Departure』は全米8位まで上がった。
創設メンバーのグレッグ・ローリーは、ツアーによる疲労などを理由にバンドを離れた。その後任として迎えられたのがジョナサン・ケインである。これによりニール・ショーン、スティーヴ・ペリー、ロス・ヴァロリー、スティーヴ・スミス、ジョナサン・ケインという5人編成が固まり、1981年の『Escape』へと向かうことになる。
そのグリーでの使用を、ニール・ショーンは当初こわがっていた。ティーンエイジャー向けの番組だと思っており、自分たちには似合わないと感じたからである。結果として若い世代がバンドの音楽に触れる入口になった。彼は自分をロックとブルースの人間だとしたうえで、自分が甘ったるいと思ったものはたいてい大きくなる、というのがバンド内での冗談になっていると語っている。
ランディ・ジャクソンは、テレビの審査員として知られるようになる前、ジャーニーでベースを弾いていた人物である。『アメリカン・アイドル』の審査員だった彼は、スティーヴ・ペリーにゲスト審査員として出演しないかと持ち掛けた。ペリーは断っている。人の真剣な情熱や才能を裁く側に座ることに、自分は良い感情を持てないから、というのがその理由だった。誰かが演奏したいという情熱を持っているなら、周りが何と言おうとやるべきだ、と彼は述べている。
「Faithfully」の歌詞には、身内への目配せが入っている。道化がいてくれるから笑えるのだ、という趣旨の一節は、ジャーニーのロード・マネージャーだったパット・モローと、ステージ・マネージャーのベニー・コリンズに向けたものだと、バンドの編集盤『Time3』のライナーノーツに書かれている。
ニール・ショーンとジョナサン・ケインは1987年、ジョン・ウェイトとバッド・イングリッシュを結成した。ウェイトは、ケインがジャーニーに入る前に在籍していたベイビーズの歌い手であり、「Open Arms」のメロディを甘すぎるとして却下した当人でもある。このバンドは1989年に「When I See You Smile」で1位を獲得している。
その2013年、ジャーニーは4年ぶりのジャパン・ツアーを行っている。この時の日本武道館公演は、実に30年ぶりのことだった。
2024年10月、ジャーニーは7年ぶりに来日した。バンド結成50周年を祝う「50th ANNIVERSARY TOUR」の一環で、10月19日にAsueアリーナ大阪、21日にパシフィコ横浜、23日に日本武道館という日程だった。
ニール・ショーンについて、細かいがはっきりした事実がある。彼は自分の姓を「ショーン」と発音する。ただし本人がより気にしているのは姓の読みではなく、名の綴りのほうで、しばしば Neil と書かれてしまうのだという。正しくは Neal である。
スティーヴ・ペリー自身は、この曲がシングルになる素質を持っていると当初から思っていた。ただし発売当時のラジオでの扱いは良くなく、一方でライヴでは常に受けていたのだという。彼が本当に何かが起きていると感じたのは、パティ・ジェンキンスの映画『モンスター』でこの曲を観たときだった。歌詞については、諦めないことを歌った強い言葉であると同時に、若くあること、たむろすること、そして誰もが探している何かについての歌でもあると彼は述べている。
アーネル・ピネダにとって、この曲の主題は加入よりも前から自分のものだった。2012年の取材で彼は、「Don't Stop Believin'」を知るより前から、自分を信じることをやめないというのが自分の信条だったと述べている。自分が通ってきた苦しい時期を通じて、いつか何か素晴らしいことが起きると信じることをやめなかったのだという。
ドラマーのディーン・カストロノヴォは、叩きながら歌う場面が少なくない。ジャーニーでリード・ヴォーカルを取った曲としては、2005年の『Generations』収録の「A Better Life」と、2022年の『Freedom』収録の「After Glow」がある。またツアーでは、1970年代の代表曲である「Lights」を彼が歌うのが通例になっている。彼はレヴォリューション・セインツというバンドでもフロントを務めている。