EUROPE トリビア 全77件
EUROPEにまつわる事実を、出典付きで77件掲載しています。
Trivia
EUROPEが日本に届いたのは、評論家の伊藤政則がオランダの知人から一枚のアナログ盤を送られたことに始まる。スウェーデンのインディー・レーベル Hot Records から出ていたデビュー作である。伊藤はこれを「絶対いい」とビクターに持ち込み、当時原宿にあった社屋の4階、洋楽部の隅にあった倉庫のような小さなミーティング・ルームで、担当ディレクターと上司の二人がアナログ・プレーヤーで「Seven Doors Hotel」を聴いた。それが日本におけるEUROPEの出発点だった。
日本デビュー作の初回出荷はおよそ3,000枚、売上は度重なる再発分を除けば5,000枚に届くか届かないかだったという。社内の目標は5,000〜10,000枚だったから、決して成功とは言えない数字である。ところが同じ曲を収めたシングル「SEVEN DOORS HOTEL」はよく売れた。新宿のツバキハウスなどのディスコで開かれていたロック・ナイトで繰り返しかかり、曲としての認知度が先に上がっていったのである。担当ディレクターはこれを、メンバーのルックスとは関係なく曲の良さで広まったものだと振り返っている。
日本盤シングル「SEVEN DOORS HOTEL」に収められているのは、アルバム収録版とは異なるミックスである。ビクターがシングル用のマスターをHot Recordsに請求したところ、送られてきた音源のミックスがアルバム・ヴァージョンと違っていた、という経緯だった。したがってこのシングルは、アルバムに先行して出た曲ではなく、アルバム発売後のシングル・カットにあたる。
2作目『明日への翼』からのシングルは、日本と本国でA面とB面が入れ替わっている。スウェーデンのHot Records盤は「Lyin' Eyes」がA面で「Dreamer」がB面だったが、日本盤はこれを逆にして「Dreamer」名義で発売された。日本のリスナーはバラードを好む、という当時の判断による。
3作目からの日本盤先行シングルを何にするかは、ビクター社内で割れていた。候補は「The Final Countdown」と「Rock The Night」の二曲で、最終的に選ばれたのは表題曲のほうだった。担当ディレクターは、アルバム全曲入りのカセットが海外から届いた頃にその議論をしていたと振り返っている。
初来日公演は1986年9月、『ファイナル・カウントダウン』を携えて実現した。会場には中野サンプラザが押さえられており、担当ディレクターは、当時としてはかなりの大物と同じクラスの扱いだったと振り返っている。招聘したのはウドー音楽事務所。ただし東京以外は大阪と名古屋だけで、それ以上は組まれなかった。待たれていた来日ではあったが、ヒット・シングルはまだ1曲だけであり、呼び屋の側からすれば集客が読みにくかったのである。
その初来日ツアーの終盤、キーボードのミック・ミカエリが肺炎にかかった。それでもテレビの収録が残っており、彼は何とか出演をこなしてからスウェーデンへ帰っている。担当ディレクターは、ひどく咳き込んでいたと記憶している。
『ファイナル・カウントダウン』収録の「Love Chaser」は、日本では邦画『プライド・ワン』の主題歌に採用され、それを受けてシングル・カットもされている。ビクターの担当ディレクターによれば、映画のほうはヒットしなかった。カーレースを扱った作品で、有名俳優が出ていたわけでもなかったという。
1991年の大晦日、EUROPEは東京ドームのステージに立っている。ただしこれは自分たちの単独公演ではなく、ウドー音楽事務所が年末恒例として開いていた4回目のロック・フェスティヴァルだった。イベントの名は「FINAL COUNTDOWN '91」。ヘッドライナーはメタリカで、EUROPE、テスラ、サンダーが名を連ねている。自分たちの代表曲と同じ名を冠した年越しイベントに、その曲の作者が出演したことになる。
『シークレット・ソサエティ』の日本盤は、2006年11月18日にビクターエンタテインメントから発売された(品番VICP-63631)。日本盤のみのボーナス・トラックとして、東京公演からの「Start From The Dark(Live at SHIBUYA-AX)」が追加されている。5作目で一度Epicへ移った日本の権利が、この時期にはビクターへ戻っていたことになる。
『ラスト・ルック・アット・エデン』の日本盤は、2009年10月21日にビクターエンタテインメントから発売された(品番VICP-64772)。日本盤ボーナス・トラックは「Scream Of Anger(Live from Sweden Rock Festival 2009)」で、収録時間は4分54秒、作者はJ.テンペストとM.ジェイコブスとクレジットされている。原曲は1984年の『明日への翼』収録曲である。
ジョーイ・テンペストは、1983年に伊藤政則が自分たちを見つけ、翌1984年のプロモーション来日で2作目『明日への翼』を日本に紹介できたと語っている。そして『ファイナル・カウントダウン』以前について、彼はこう述べている——自分たちを支持してくれていた国は、スウェーデンと日本の二つだけだった。
ジョーイ・テンペストが初めて日本に来たのは1984年、21歳のときだった。2013年の時点で来日は20回か30回に達しているという。同じインタビューで彼は、自宅でも箸を使っていること、息子にも箸の使い方を教えていることを明かしている。
ジョーイ・テンペストは、日本への扉を開けてくれたのはアイアン・メイデンだったと語っている。当人たちは意図していなかっただろうが、初期のEUROPEはその恩恵を受けたという。またテンペストは、これまでに受けた最良の助言としてスティーヴ・ハリスの言葉を挙げている。バンドを続けるには、古い友人や仲間と別れる覚悟が要る、という趣旨のものだった。
2019年4月、EUROPEは川崎クラブチッタで26日・27日・28日の3夜連続公演を行った。特筆すべきはその中身で、3公演とも21曲を演奏しながら、セットリストは毎晩大きく入れ替えられている。テンペストは、毎晩セットリストを変えるバンドはそうはいないだろう、かなりクレイジーだと笑いつつ、それが自分たちにとっての挑戦であり刺激なのだと語った。
2024年2月1日の東京ドームシティホール公演で、ミック・ミカエリは「Carrie」を演奏する前に、これがジョーイ・テンペストと初めて一緒に書いた曲だと紹介した。この日のテンペストは歌詞の一部を変え、「Again..Tokyo Again..」と歌っている。
1982年12月、EUROPEは全国規模のバンド・コンテスト Rock-SM(スウェーデン・ロック選手権)で優勝した。決勝はスウェーデン全土にテレビ生中継され、優勝バンドの賞のほかに、ジョーイ・テンペストが最優秀シンガー、ジョン・ノーラムが最優秀ギタリストの個人賞も持ち帰っている。応募したときの名義はまだFORCEで、デモ・テープを送ったのはバンドではなくテンペストの当時の恋人だった。ライヴ審査に進む頃には、バンドはすでにEUROPEを名乗っていた。
デビュー作を出したHot Recordsは、EUROPEのマネージャー、トーマス・アートマン自身が作ったレーベルである。当時の彼はスウェーデンCBSレコードのプロダクト・マネージャーでもあり、副業のような形でスウェーデンのバンドを集めたコンテストを主催していた。そこに応募してきたのが、EUROPEの前身であるFORCEだった。つまり彼らは、主催者が自分のレーベルから出すために開いたコンテストで優勝し、そのレーベルからデビューしたことになる。
契約を結ぼうにも、Hot Recordsの連絡先はどの業界年鑑を引いても出てこなかった。実体のない自主レーベルだったからである。困ったビクターの担当者は、アルバム裏面に刷られていた本国ファンクラブの私書箱宛に手紙を書いた。「日本のレコード会社です。このアルバムを日本で出したいので、事務所かマネージャーに連絡するよう伝えてください」という内容だった。返事はマネージャーのアートマンからFAXで届き、そこから話は一気に進んだ。
日本盤のライセンスにビクターが支払ったアドバンス(印税前払金)は3,000ドルだった。当時のレートはおよそ1ドル230円、日本円で70万円ほどにあたる。担当ディレクターはこれを、当時のロック系新人に提示する額としてはほぼ下限に近い金額だったと述べている。初めて取引する相手からの新人であり、様子を見る意味もあっての額だったという。
日本盤のジャケットは、本国盤とまったく別物として作り直された。スウェーデン盤はメンバー4人が並んだ写真だったが、曲やアルバムの印象と合わないという判断で即座に不採用となり、ディレクターと社内デザイン・チームが貸しポジ屋から借りた2枚の写真で新たに構成した。1枚は背景の宮殿、もう1枚は左右に立つ石像である。実はこの対になった石像は、同じ1枚の写真を反転させて並べたものだった。この日本独自のアートワークは、のちに世界共通のデザインとして採用されている。
デビュー作の邦題『幻想交響詩』は、当時MUSIC LIFE誌の副編集長だった酒井康との会話の中から生まれた。さらに日本盤の帯には「ブリティッシュ・ハードの真髄が甦る!」というコピーが刷られている。スウェーデンのバンドを「ブリティッシュ」と呼んだのは、当時まだ「北欧メタル」「北欧ハード・ロック」という言い方が存在せず、北欧の音楽といえばABBAのイメージしかなかったからだった。メタルといえばブリティッシュかジャーマンかの二択で、デビュー作の叙情的で様式美的な内容は前者に近いという判断である。
『ファイナル・カウントダウン』がアメリカで跳ねた背景には、裏方の人選があった。アメリカのマネジメントを引き受けたのは、ジャーニーを手がけていたハービー・ハーバートである。日本でEUROPEの音楽出版を担当していたエイプリルミュージックに、CBS時代にジャーニーのディレクターだった森下彰夫が在籍しており、その森下からハーバートに売り込みが行われた。ハーバートはアメリカのラジオ局に強い影響力を持っており、ニューヨークのEpicのプロダクト・マネージャーと組んでラジオを徹底的に攻めた。知名度ゼロの新人をどう露出させるか、という問いへの答えがそれだった。
『ファイナル・カウントダウン』のヴォーカル録音は予定どおりに終わらなかった。ツアーで声が半分潰れていたためである。それでも発売日は動かせず、ジョーイ・テンペストは急遽ロサンゼルスへ飛んで録り直すことになった。ところがその時期は、日本から伊藤政則とビクターの担当者が取材のためストックホルムへ発つ日程と重なっていた。マネージャーからは何の連絡もなく、一行は現地に着いてから本人が不在だと知る。取材はストックホルムのホテルからアメリカへ国際電話をかけ、担当ディレクターが通訳として間に入る形で行われた。
「The Final Countdown」のミュージック・ビデオがストックホルムで撮影されたのは、予算上の判断だった。当時アルバムのリリース準備はEpicとビクターが共同で進めており、限られた予算でどんな映像を撮るかを相談した結果、地元での撮影に落ち着いている。それでもあの映像が金のかかったものに見えるのは、ヘリコプターからの空撮によるところが大きい。担当ディレクターはこれを「Epicの企画力の勝利」と呼んでいる。
ビクターが持っていた日本での権利は、デビュー作を含む最初の4枚までだった。この上限は2作目のレコーディング中にはすでに決まっていたという。したがって5作目『プリズナーズ・イン・パラダイス』からは、日本でもCBS傘下のEpicからの発売となる。担当ディレクターは、どうしようもないことではあったが残念だったと述べている。
ジョン・ノーラムの脱退時期は資料によって振れがあるが、1986年9月の初来日公演には彼が参加している。ノーラムの公式サイトは、EUROPEでの最後のライヴを1986年10月31日のアムステルダム公演とし、翌11月1日から彼は一人になった、と記している。脱退の理由についても説明は一つではない。テンペストは、曲そのものではなくケヴィン・エルソンによるラジオ向けミックスが問題だったと述べ、ノーラム本人はミックスでリズム・ギターが完全に埋もれたこと、マネージャーのトーマス・アートマンとの不和、そしてアイドル的なイメージへの嫌悪を挙げている。
ミックスが行われたのは、カリフォルニア州バークレーのファンタジー・スタジオである。ケヴィン・エルソンがジャーニーの諸作をミックスした部屋であり、バンドがアメリカの地を踏んだのはこのときが初めてだった。なお1986年のアルバム・スリーヴにはこのスタジオが「Fantasy Studios, San Francisco, CA」と印刷されている。スタジオ自身は一貫してバークレーの2600 Tenth Streetに所在しており、同じスリーヴはパワープレイ・スタジオについても実際の所在地マウアではなくチューリヒと記していて、最寄りの大都市名で書く流儀が両方に適用されている。
6作目『シークレット・ソサエティ』はバンド自身のプロデュースで、ストックホルムのキングサイド・スタジオにてレナート・オストルンドのエンジニアリングで録音された。ミックスはトイタウン・スタジオでステファン・グラウマン、マスタリングはニューヨークのスターリング・サウンドでジョージ・マリーノが手がけている。テンペストによれば、デモはおよそ17曲作られてそのうち11曲がレコーディングされ、録音期間はおよそ60日に及んだ。
『シークレット・ソサエティ』のジャケットについて、EUROPE自身の公式バイオグラフィーは、これを当時までで最良のジャケットだとし、ヒプノシスのストーム・ソーガソンの手によるものだと記している。ただしアルバムのクレジットが挙げているのは個人名ではなく、ソーガソンが率いたデザイン集団StormStudiosであり、アートワークはリー・ベイカー、イラストレーションはダン・アボットとされている。
8作目『ラスト・ルック・アット・エデン』をプロデュースしたのはトビアス・リンデルで、彼はミックスとエンジニアリングも兼ねている。テンペストとミック・ミカエリが追加のプロデュース・クレジットに名を連ねた。録音とミックスはヨーテボリのボーフス・サウンド・スタジオで行われ、ストックホルムの2つのスタジオでも追加録音されている。表題曲などで鳴っているオーケストラはチェコ・ナショナル交響楽団で、指揮はトマーシュ・ブラウネル、録音はプラハのギャラリー・スタジオ、アレンジはミカエリとトミー・ハンソンが担当した。
再結成後のEUROPEは複数の賞を受けている。2015年にはClassic Rock Roll Of Honourの「Comeback Of The Year」を、2018年にはスウェーデンのグラミス賞の最優秀ハード・ロック/メタル・アルバム賞を『ウォーク・ジ・アース』で受賞した。同じ2018年には、スウェーデン・ミュージック・ホール・オブ・フェイムにも殿堂入りしている。
2024年、EUROPEは1988年以来となるインド公演を行った。会場はメーガーラヤ州のMe'Gong Festivalで、バンド自身の公式バイオグラフィーは観客を10万人以上としている。
通算12作目『カム・ディス・マッドネス』は、2026年9月25日にSilver Lining Music/Hell & Back Recordingsから発売される。前作『ウォーク・ジ・アース』から9年ぶりのアルバムにあたる。録音はストックホルムのRMVスタジオ——ベニー・アンダーソンとルドヴィグ・アンダーソンが設立した施設——で行われ、プロデュースはトム・ダルゲティ、ミックスはマイク・フレイザーが手がけた。
『カム・ディス・マッドネス』のプロデューサー、トム・ダルゲティについて、ジョーイ・テンペストはバンドの6人目のメンバーのようだったと述べている。作曲と録音の両方に深く関わったためで、バンドは彼をレコーディングだけでなく制作過程そのものに招き入れた形になった。
『カム・ディス・マッドネス』には、同じスウェーデンの二人がバッキング・ヴォーカルで参加している。ゴーストのトビアス・フォージと、オペスのミカエル・オーカーフェルトである。
「The Cult of Ignorance」は、南米ツアー中にミック・ミカエリがジョーイ・テンペストに持ち込んだアイデアから始まった曲である。タイトルは作家アイザック・アシモフの言葉から採られている。
「The Cult of Ignorance」のミュージック・ビデオは、バンドの友人たちのカメオ出演で構成されている。女優のマリン・アッカーマン、元世界ランキング1位のテニス選手ステファン・エドベリ、宇宙飛行士のクリステル・フルグレサング、ザ・ハイヴスのハウリン・ペレらが顔を出す。
2022年、EUROPEはYouTubeから特別な賞を受け取っている。発表によれば、一曲で再生10億回を超えた最初のスウェーデンのバンドということだった。その曲はもちろん「The Final Countdown」である。
バンド名はディープ・パープルのライヴ盤から採られた。ジョーイ・テンペストは2015年のインタビューで、パープルが『ライヴ・イン・ジャパン』のあとに『ライヴ・イン・ヨーロッパ』を出したこと、その両方を自分たちが聴き込んでいたことを挙げ、そこからEUROPEという名前を採ったと語っている。もっとも当人いわく、この案をジョン・レヴィンとジョン・ノーラムに切り出すには、まず二人にビールを何杯か入れておく必要があったという。
オリコンが公開している週間アルバム・チャートの記録では、EUROPEの最高位は4作目『アウト・オブ・ディス・ワールド』の4位である。1988年8月31日に日本発売され、チャートには12週登場した。次いで『プリズナーズ・イン・パラダイス』が12位(1991年9月30日発売、4週)、『スタート・フロム・ザ・ダーク』が38位、『ウォーク・ジ・アース』が46位と続く。なお、これは順位の記録であって売上枚数ではない。
あのキーボードのファンファーレは、EUROPEがデビューする前から存在していた。学生だったジョーイ・テンペストが、当時アヴァロンというバンドにいたミック・ミカエリからKorg Polysixを借り、それをいじっているうちに出てきた音である。ミカエリはまだEUROPEのメンバーではなかった。テンペストは「何かある」とは思ったものの曲にできず、1分ほどの断片のまま放置した。転機は、マネジメント事務所の真向かいにあったナイトクラブだった。マネージャーの提案で、その1分の断片をレーザー・ショウの音楽としてクラブで流してもらったのである。バーに立っていたテンペストとベースのジョン・レヴィンが、これをもっと先へ進められないかと話しはじめた。
レコーディングされたイントロの音がどう作られたかについては、二人のメンバーが別々の言い方をしている。キーボードのミック・ミカエリは2006年のインタビューで、Roland JX-8Pで作ったブラス系の音と、Yamaha TX-816のプリセット音を重ねたと説明した。同じ回答の中で彼は、そのYamahaのラックが「基本的にDX-7を8台モジュールにしたもの」だとも述べている。一方ジョーイ・テンペストは、レコーディングではシンセをMIDIで11台つないで録ったと語っている。作曲そのものはKorg Polysixで行われた。
スタジオでこの曲はテンポをめぐって揉め、一日だけ「The Final Breakdown(最終的崩壊)」というタイトルで呼ばれていた。実際にAC/DC寄りの、もっと直線的で遅いテイクも録られている。それでもテンペストはアイアン・メイデン的なギャロップのリズムを残すことにこだわり、結局は元のリズムとタイトルに戻された。跳ねるリズムでなければ、聴き手が飛び跳ねたくならないから、というのが彼の説明である。
「The Final Countdown」の歌詞は、なぜ行き先が金星なのか。ジョーイ・テンペスト本人の答えは身も蓋もない。韻を踏みたかったからである。英語で「seen us(我々を見た)」と「Venus(金星)」が韻を踏む、それだけの理由だという。歌詞の発想そのものについては、彼が生まれて初めて買ったシングルであるデヴィッド・ボウイの「Space Oddity」を挙げている。
『ファイナル・カウントダウン』はスウェーデンでは録音されていない。プロデューサーのケヴィン・エルソンを本国に呼んで2週間ほどプリプロダクションを行ったあと、バンドはスイスのチューリヒ近郊にあるパワープレイ・スタジオへ移り、約5週間そこにこもった。スタジオには寝室があり、彼らは滞在しながら制作している。ジョン・ノーラムは、郊外で外からの邪魔が一切なく、ひたすら音楽に集中できたと振り返っている。
『ファイナル・カウントダウン』の最後に書かれた曲は「Cherokee」だった。題材は、プロデューサーのケヴィン・エルソンの当時の妻が持っていた本である。スタジオに置いてあったその本をテンペストが目にしたことから生まれた曲だという。
「Carrie」にモデルはいない。実在のキャリーがいたのかと直接問われたジョーイ・テンペストは、特定の誰かのことではないと答えている。若い頃に周囲でありふれていた別れの経験を、一般的な形で書いた曲だという。
ドイツのテレビ番組「Peter's Pop Show」で、ビリー・アイドルはEUROPEのあとに出るのを断った。当時ドイツで「The Final Countdown」は圧倒的なヒットで、午後のサウンドチェックでこれを演奏すると客席が沸きに沸いた。リハーサルではEUROPEがオープニング、アイドルが2番手という順だったが、本番の収録では彼が「あの曲のあとには出られない」と言い出したのである。
『ファイナル・カウントダウン』の頃、EUROPEはABBAのビョルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンに会っている。二人がわざわざ助言したのは、ツアーにばかりかまけず録音そのものに時間をかけろ、ということだった。テンペストいわく、EUROPEらしくその助言をありがたく受け取り、そして正反対のことをした。続く3年のほとんどを彼らはツアーに費やしている。
2作目『明日への翼』が録音されたのは、ABBAが所有するストックホルムのポーラー・スタジオだった。レッド・ツェッペリンが『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』を作った部屋である。ただし押さえられたのは深夜と週末の空き時間で、バンドはその時間帯を安く借りて録っていた。当時19歳か20歳だったテンペストは、エンジニアのレイフ・マセスがツェッペリンの1インチ・テープを回して聴かせてくれたことを憶えている。
『明日への翼』の「Open Your Heart」は、EUROPEにいくつもの扉を開けた曲だった。ニューヨークの反応を引き出したのもこの曲であり、さらにスコーピオンズを手がけていたプロデューサー、ディーター・ダークスが曲を聴いてバンドに直接連絡を寄越し、一緒に仕事がしたいと伝えている。
4作目『アウト・オブ・ディス・ワールド』はロンドンで、ロン・ネヴィソンを迎えて制作された。バンドが彼を選んだ理由ははっきりしている。UFOの『新たなる殺意』『征服者』、そして初期のマイケル・シェンカー・グループを手がけた人物だからである。
『アウト・オブ・ディス・ワールド』のセッション中、EUROPEはフレディ・マーキュリーを怒らせている。ロンドンのタウンハウス・スタジオでロン・ネヴィソンとイアン・ホーグランドのドラムの音を作っていたときのことで、扉がきちんと閉まっていなかった。隣室でオペラを録音していたマーキュリーが入ってきて、「そちらのドラムがこちらのミキシング・コンソールに直接入っている。音量を下げてもらえないか」と申し入れたという。テンペストは、非常に上品で明晰な、しかしかなり苛立った物言いだったと回想している。
「Superstitious」のギター・ソロは、もともとジョーイ・テンペストのデモから始まっている。この時期ジョン・ノーラムはすでにバンドを離れており、テンペストはソロの主旋律を自分でデモに録ってバンドに聴かせた。そこにキー・マルセロがスケールやランを足して、あの形になったという。
5作目『プリズナーズ・イン・パラダイス』のプロデューサーは、当初ボブ・ロックの予定だった。だが彼はメタリカのいわゆるブラック・アルバムの仕事に移り、EUROPEを離れる。後任にはボー・ヒルが入った。
完成した『プリズナーズ・イン・パラダイス』をレーベルに聴かせる試聴会は、バンドにとって苦い記憶になった。イアン・ホーグランドによれば、自分たちは誇らしい気持ちでいたのに、Epic側の反応は「シングルになる曲が聴こえない」といういつもの調子で、テンペストにジム・ヴァランス(当時ブライアン・アダムスの共作者)と組んでもう半ダース曲を書いてこいと告げたという。
第1期EUROPEの最後のステージは、1992年3月15日、イングランドのポーツマス・ギルドホールだった。イギリス・ツアーの千秋楽であり、その時点でバンドはすでに止まることを決めていたが、公式の発表は行われていない。決定はポーツマス公演のあとのミーティングでのことで、テンペストが活動休止とソロ・アルバムの制作を切り出し、他のメンバーは難色を示した。彼自身の説明では、正式に解散したわけではなく「ひとまず止めて、また話そう」という合意だったという。実際には次に5人が同じステージに立つまで7年かかった。
EUROPEを再び動かしたのは、1999年の大晦日にストックホルムで行われた一夜だった。会場は街の真ん中に浮かべた大きな艀(はしけ)で、日付が変わる直前に彼らは「Rock The Night」と「The Final Countdown」の2曲だけを演奏している。ジョン・ノーラムとキー・マルセロという二人のリード・ギタリストが同じステージに立った、EUROPE史上唯一のコンサートでもあった。テンペストによれば、決定的だったのは本番よりもそのリハーサルで、終えたときには全員が「これはやるしかない」という顔になっていたという。
2003年の再結成にあたり、ジョン・ノーラムが出した条件は明快だった。スタジオ・アルバムでは自分が唯一のギタリストであること。キー・マルセロが何本かライヴに立つのは構わないが、レコードでギターを分け合うのは受け入れられない、というものである。当時の彼はUFOのフィル・モグからマイケル・シェンカーの後任にというオファーも受けており、その二つを天秤にかけていた。
再結成第1作『スタート・フロム・ザ・ダーク』は、意図的に速く、生々しく作られた。テンペストによれば、作曲に半年、リハーサルとレコーディングとミックスを合わせて「40日と40夜」。目指したのは、自分たちが最初に作ったアルバムのような、荒くて新鮮で要点だけの作品だった。再び一緒にやっているという興奮をそのまま捉え、そこから先へ進むための1枚だったという。
『スタート・フロム・ザ・ダーク』のバラード「Hero」は、シン・リジィのフィル・ライノットに捧げられた曲である。テンペストは16歳か17歳の頃にライノットと会っており、その相手が自分に対して温かく接してくれたことを、後々まで残る経験として語っている。
『バッグ・オブ・ボーンズ』のレコーディング中、コントロール・ルームで1分間の黙祷が行われた。捧げられた相手は人ではなく、1980年代のサウンドとその制作手法である。プロデューサーのケヴィン・シャーリーを含むその場の全員が頭を垂れ、それに永遠の別れを告げた。テンペストいわく、そのあとに新しいバンドが生まれた。
『バッグ・オブ・ボーンズ』は2012年4月27日にearMUSIC/Edelから発売された。プロデュースはケヴィン・シャーリー。ゲストとしてブルース・ロック・ギタリストのジョー・ボナマッサが参加している。
『ウォー・オブ・キングス』の表題曲の題材は、ジョーイ・テンペストが子どもの頃に読んだ一冊の本にさかのぼる。フランス・G・ベングトソンがスウェーデン語で書いた『Röde Orm(赤毛のオルム)』、英語圏では『The Long Ships』として知られる小説で、ヴァイキング時代初期の権力争いを扱っている。
『ウォー・オブ・キングス』は、当時できたばかりのストックホルムのパンガイア・スタジオで録音された。新品の部屋で録れば当然新しい音になる。それを避けるため、バンドはヴィンテージのマイク、コンプレッサー、エフェクトをわざわざ借りてきて持ち込んだ。プロデュースはデイヴ・コブである。
EUROPEがデイヴ・コブを起用したのは、ライヴァル・サンズの作品を聴いたことがきっかけだった。マネジメントを通して打診したところ、返ってきた答えは意外なものだった。コブは子どもの頃、EUROPEのレコードに合わせてドラムを叩いていたというのである。
『ウォーク・ジ・アース』のジャケットは、Tシャツから生まれた。レコーディングの現場に現れたプロデューサーのデイヴ・コブが、ロサンゼルスのアーティスト、マイク・スポルテスのデザインが入ったTシャツを着ていたのである。バンドはそれを気に入り、スポルテスにアルバムのために描き下ろしを依頼した。
『ウォーク・ジ・アース』はロンドンのアビイ・ロード・スタジオで、デイヴ・コブのプロデュースにより、確保できた2週間の枠に収める形で制作された。この枠を押さえたのはテンペストの友人だという。バンドは古い機材を使い、曲をほぼ一発録りで通してから良いテイクを選ぶという作り方をとった。
2015年、EUROPEはアメリカの保険会社GEICOのコマーシャルに出演した。ただし条件をつけている。1986年のオリジナル音源は使わせず、新たに録り直した音源を自分たちで用意すること。使われたのは2013年か2014年のドイツ公演からのライヴ音源で、観客の音を抜いてミックスし直したものだった。さらに彼らは、現在の自分たちの姿で出ることを求めている。テンペストいわく、オリジナルの音源と30年前の格好を求められていたら、この話は受けなかった。
そのGEICOのコマーシャルは、EUROPEにアメリカでの初のチャート1位をもたらした。2015年9月にCMが流れたあと、「The Final Countdown」はビルボードのHard Rock Digital Songsチャートで4週にわたり1位を守っている。Billboard誌は、この期間に3万7千ダウンロード、680万ストリームを記録したと報じた。1986年のヒットから29年後のことである。
プロレスラーのブライアン・ダニエルソンは、長らく「The Final Countdown」を入場曲としてきた。だがリング・オブ・オナーはテレビ放映契約に伴い、使用料が現実的でないとして使用の継続を断念している。2021年にAEWへ移った際も、権利者側の条件——年に20回ほどの使用で数十万ドル規模——が折り合わず、彼は新たなテーマ曲を作らせた。2023年6月、AEWと新日本プロレスの共同興行「Forbidden Door」で、彼はオカダ・カズチカ戦にこの曲を使っている。AEW代表のトニー・カーンは、何年も交渉を続けた末に自身最良のレートを引き出したと語った。
2019年11月、イギリスの総選挙戦のさなかに、EUROPE側は保守党に対して「The Final Countdown」の使用をやめるよう求めた。同党の本部でスタッフを鼓舞するために流されていたと報じられたためである。バンドのマネージャー、アダム・パーソンズは、ジョーイ・テンペストが使用の中止を望んでいると述べた。
ロサンゼルスのレインボー・バー&グリルで、EUROPEの何人かがレミー・キルミスターに引き合わされたことがある。ピンボール台の前にいた彼に「ロック・バンドのEUROPEです」と誰かが声をかけると、レミーは顔も上げずに「EUROPEはロック・バンドじゃない」と返した。テンペストはこれを最高に格好いい返しだったと語り、一同は呆然としつつも笑って済ませ、その後も関係は良好だったという。数週間後、Kerrang!誌がEUROPEのライヴ評で彼らを「モーターヘッドよりうるさい」と書いたのが、ささやかな仕返しになった。
EUROPEはデフ・レパードの『ヒステリア』ツアーのアメリカ公演でスペシャル・ゲストを務めている。「Pour Some Sugar On Me」が全米1位を走り、行く先々が売り切れという夏だった。テンペストによれば、ジョー・エリオットはのちにEUROPEを、自分が知る中で最も派手に打ち上げるバンドだと評している。
キャリアの最低点はどこかと問われたジョーイ・テンペストは、自分とジョン・ノーラムが口をきかなくなった時期を挙げている。移動は別々のリムジンで、用件はバンドのロード・マネージャーを介して伝えた。あの経験から多くを学んだ、今はいつでも話している、と彼は続けている。
ジョーイ・テンペストが育ったストックホルム郊外のアップランズ・ヴェスビーは、キャンドルマスのレイフ・エドリングやイングヴェイ・マルムスティーンも住んでいた土地である。契約が決まるまでの彼は、印刷会社の清掃の仕事で生活費を稼いでいた。ある日その会社が音楽雑誌を刷り、そこに自分が載っていた、という妙な出来事も起きている。