DEF LEPPARD トリビア 全250件

DEF LEPPARDにまつわる事実を、出典付きで250件掲載しています。

Trivia

2011年11月の来日について、公式年表は日本での歓迎ぶりに触れている。『Mirror Ball』が日本のハード・ロック/ヘヴィ・メタル誌『BURRN!』のチャートで1位になっていたためで、バンドは大阪と東京で各1公演を行ったのち、12月の英国公演へ向かった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

日本のレーベルであるユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィでは、いくつかの作品が邦題で呼ばれている。3作目『Pyromania』は『炎のターゲット』、2作目は『ハイ・アンド・ドライ』、2006年のカヴァー集『Yeah!』は『イエーイ!』である。

出典: ユニバーサル ミュージック ジャパン「デフ・レパード」BIOGRAPHY

ユニバーサル ミュージック ジャパンのバイオグラフィによれば、バンドが初めて日本で演奏したのは『炎のターゲット(Pyromania)』発売後に組まれた1年間のワールド・ツアーの中でのことだった。同ツアーは1984年2月7日、バンコクで終わっている。

出典: ユニバーサル ミュージック ジャパン「デフ・レパード」BIOGRAPHY

『Adrenalize』は全米チャートに初登場1位で入り、5週にわたって首位を保って600万枚を売った。公式年表はそれに続けて、日本とメキシコをはじめとする多くの国では、この作品がそれまでのデフ・レパード作品で最も売れた1枚になったと記している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2015年のセルフタイトル作は10月30日に世界同時発売され、その直前まで行われていた全米アリーナ・ツアーでは新曲が一切演奏されなかった。11月の日本武道館公演を含むジャパン・ツアーが、収録曲がライヴで披露される世界で最初の場になっている。4年ぶりの来日だった。

出典: BARKS「デフ・レパード『DEF LEPPARD』は、『HYSTERIA』以来の名作」

2015年の<デフ・レパード・35周年ジャパンツアー>は、11月9日の日本武道館を皮切りに、10日オリックス劇場(大阪)、12日Zepp Nagoya、13日仙台サンプラザホールの4公演で行われた。招聘はウドー音楽事務所。ジョー・エリオットは事前のインタビューで、日本ではしばらく演奏していない曲も掘り出したいと語っていた。

出典: BARKS【インタビュー】ジョー・エリオット(2015年)

ジョー・エリオットは2015年の来日を前に、日本のファンへ向けてバンドのライティング・エンジニアであるケンジの名を挙げている。世界一のライティング・エンジニアだと考えている、というのが彼の説明だった。

出典: BARKS【インタビュー】ジョー・エリオット(2015年)

2018年、『Hysteria』を全曲再現するワールド・ツアーの日本公演が行われた。10月24日の日本武道館を皮切りに、26日に大阪、29日にZepp Nagoyaという日程である。同作の全曲再現は2013年のラスヴェガス公演(全11公演)で始まり、その模様は『ビバ!ヒステリア』として映像化されていた。

出典: BARKS「デフ・レパード、『ヒステリア』の全曲再現&MOREの来日公演が決定」

BARKSは1987年当時の日本の状況について、テレビでもラジオでも毎日のようにデフ・レパードの曲を目にし耳にする状態だったと記している。同記事は『Hysteria』のセールスを全米1200万枚、全世界2500万枚とし、7曲がシングル・カットされたこと、1stシングル「ウィメン」が全米80位に留まった一方で「シュガー・オン・ミー」が2位、「ラヴ・バイツ」が1位に達したことを並べている。

出典: BARKS「デフ・レパード、『ヒステリア』の全曲再現&MOREの来日公演が決定」

モトリー・クルーとの<The World Tour>日本公演は、2023年11月3日と4日の2日間、神奈川のKアリーナ横浜で行われた。2日間で出演順が入れ替わり、3日はモトリー・クルーが、4日はデフ・レパードが最後に演奏している。招聘はクリエイティブマンとウドー音楽事務所。

出典: BARKS「<The World Tour>、日本公演はKアリーナ横浜2days」

2023年11月のKアリーナ横浜公演では、両日ともオープニングDJとして伊藤政則が出演した。開場中の時間帯に組まれた、日本公演だけの構成である。

出典: 激ロック「ワールド・ツアー日本公演に伊藤政則がオープニングDJとして出演決定」

『Diamond Star Heroes Live From Sheffield』の日本盤には、伊藤政則による解説と歌詞対訳が付き、CDはSHM-CD仕様になっている。ブルーレイ+2CDの構成には日本語字幕も収められた。

出典: 激ロック『Diamond Star Heroes Live From Sheffield』リリース決定

モトリー・クルーとの共同ツアーが日本へ来るまでには時間がかかっている。2022年に北米で行われた<The Stadium Tour>に続き、2023年2月のメキシコ公演から<The World Tour>が始まり、中南米・ヨーロッパ・北米を回った末に、秋の日本とオーストラリアへ到達した。日本公演の実施が発表されたのは2023年3月25日である。

出典: BARKS「モトリー・クルーとデフ・レパードの<The World Tour>が日本上陸」

バンドが最初のリハーサルを行ったのは1977年11月、シェフィールドのブラモール・レーン近くにあったスプーン工場だった。ジョー・エリオット(Vo)、リック・サヴェージ(B)、ピート・ウィリス(G)、トニー・ケニング(Ds)の4人は、その直前にバンド名をDeaf LeopardからDef Leppardへ改めている。同じ年のクリスマスには友人6人だけを前に初めて演奏し、デヴィッド・ボウイとシン・リジィのカヴァーに自作曲「Misty Dreamer」を交えた6曲を披露した。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

バンド名の元になった「Deaf Leopard」という言葉を最初に思いついたのはジョー・エリオットで、公式年表によれば1975年、まだ学生だった頃のことだという。実在しない架空のバンド名として頭の中にあったものが、2年後に実在のバンドの名前になった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

ジョー・エリオットの公式バイオグラフィは、彼が「Deaf Leopard」という架空のバンドの一員になる夢を持っていたと記している。実際に彼が加わったのは、リック・サヴェージとピート・ウィリスが始めていたAtomic Massというバンドだった。バンド名がDef Leppardへ変わったのは、この夢が理由の一端だったという。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」ジョー・エリオット

リック・サヴェージは10代の頃サッカー選手として有望視され、シェフィールド・ユナイテッドから誘いを受けている。公式バイオグラフィはそこに、彼自身はライバルのシェフィールド・ウェンズデイのファンだったという一言を添えている。数年プレーしたのち、彼はバンドを選んだ。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」リック・サヴェージ

1978年1月、スティーヴ・クラークが2人目のギタリストとして加入する。公式年表によれば、その後2月から7月まで延々とリハーサルが続き、しびれを切らしたクラークが「外へ出て演奏しないなら辞める」と言い出したことが、バンドを人前に押し出した。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

スティーヴ・クラークをバンドに引き合わせたのはピート・ウィリスだった。公式バイオグラフィは彼の愛称のひとつが「the Riffmaster」だったと記す。バンドの歴史のなかで独創的なリフを次々に生み出し続けたことが、その呼び名の由来である。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」スティーヴ・クラーク

1978年7月18日、シェフィールドのウェストフィールド・スクールでの公演がバンド初の公開ライヴとなった。ギャラは教師のポケットから出た約5ポンド。50分のセットはすべてオリジナルで、アンコールにだけシン・リジィ「Jailbreak」を演奏した。緊張をほぐすためのビールはバスドラムのケースに隠して持ち込んだという。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

その初公演の冒頭、スティーヴ・クラークはピート・タウンゼント風の大振りなウインドミルでコードを叩きつけた。ところがアンプがスタンバイのままで、音は一切出なかった。ジョー・エリオット自身が公式サイトでこの一件を明かしている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

『The Def Leppard E.P.』は、録音・スリーヴ・プレスを合わせて約600ポンド(当時の約900米ドル)をかけ、自分たちのレーベルBludgeon Riffolaから出された。1978年11月にトニー・ケニングが解雇され、この録音ではフランク・ヌーンが代役のドラマーを務めている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1979年8月5日にPhonogram(英)とMercury(米)との契約が成立すると、メンバーは全員が本業を辞めた。当時まだ15歳だったリック・アレンは、学校をやめている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1979年10月から11月にかけて、バンドはイギリスでAC/DCの前座を務めた。この期間中の11月1日、リック・アレンはロンドンのハマースミス・オデオンで16歳の誕生日を迎えている。バンド初のシングル「Wasted」(プロデュースはニック・トーバー)が世に出たのも同じ時期だった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトの作品データによれば、デビュー作のプロデューサーは「(コーネル)トム・アロム」、録音はバークシャー州アスコットのスターリング・スタジオで1979年12月。追加ミュージシャンとして「Hello America」にクリス・ヒューズのシンセサイザー、「When The Walls Came Tumblin' Down」にデイヴ・カズンズの声が入っている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『On Through The Night』作品ページ

公式サイトの作品説明によれば、1980年3月14日発売のデビュー作は全英15位、ビルボード51位に達した。自主制作EPからの「Rocks Off」と「Overture」は、この盤のために録り直されている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『On Through The Night』作品ページ

1980年8月、レディング・フェスティヴァルに戻ってきたバンドを迎えたのは瓶と空き缶の雨だった。公式年表は、観客が「バンドがアメリカのドルに魂を売り、母国に背を向けた」と信じ込んでいたためだと説明している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトの作品データは、2作目のプロデューサーをロバート・ジョン“マット”ラング、録音場所をロンドンのバッテリー・スタジオと記す。追加ミュージシャン欄にはピート・ウィリス(ギター)の名がある。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『High ‘n’ Dry』作品ページ

1981年11月、アメリカで開局したばかりのケーブル局MTVが「Bringin' On The Heartbreak」のビデオを見つけ、ヘヴィ・ローテーションで流し始めた。公式年表は、これによって『High 'n' Dry』がチャートを再び駆け上がったと記している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

3作目の録音は1982年1月、再びロバート・ジョン“マット”ラングを迎えて始まった。その途中の7月にピート・ウィリスがバンドを去り、後任にはLUCYとGIRLを経てきたフィル・コリンが入っている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトの作品データによれば、『Pyromania』はイースト・サセックスのパーク・ゲイツ・スタジオとロンドンのバッテリー・スタジオで録音され、プロデュースはロバート・ジョン“マット”ラング。追加ミュージシャン欄にはピート・ウィリス(ギター)の名前が記されている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Pyromania』作品ページ

<Pyromania>ワールド・ツアーは1984年2月7日、バンコクで幕を閉じた。その後バンドはアイルランドのダブリンへ拠点を移している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

4作目の作業は1984年春、メンバーがそれぞれドラムマシンを1台ずつ抱えて曲のアイデアを個別に練るところから始まった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1984年8月、オランダのヒルフェルスムにあるヴィッセルロート・スタジオで、ジム・スタインマンをプロデューサーに迎えて録音が始まった。マット・ラングがこの作品を断ったのは、ザ・カーズの『Heartbeat City』を仕上げた直後で消耗しきっていたためである。スタインマンとの相性は合わず、8曲分のバッキング・トラックが破棄された。後任にはラング自身の推薦でナイジェル・グリーンが入る。彼は『High 'n' Dry』のエンジニアだった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1984年12月31日の大晦日、シェフィールド郊外でリック・アレンの車が高速で横転し、彼は車外へ投げ出された。左腕は切断され、顕微鏡下の接合手術も成功しなかった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式バイオグラフィによれば、リック・アレンは半電子式のドラム・キットを使って演奏を取り戻した。1986年の時点でキットは完全に電子化されていたが、1995年以降はスタジオやライヴの条件に応じて一部が再びアコースティックに戻っている。同ページには、ジョー・エリオットが「両腕あった頃より良いドラマーになった」と評したことも記されている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」リック・アレン

1986年夏、長い録音生活から抜け出すためにヨーロッパの<Monsters Of Rock>8公演が組まれた。保険としてステイタス・クォーのジェフ・リッチを帯同させたが、アイルランドでの足慣らし公演でリッチが1本に間に合わなかったことで、リック・アレンが一人で叩けることが全員に分かった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1986年の<Monsters Of Rock>最終公演は8月31日、西ドイツのマンハイムだった。公式年表によれば、この日は土砂降りに見舞われたが、雨が降っていたのはデフ・レパードの出番のあいだだけだった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトの作品説明によれば、『Hysteria』は1987年8月3日にマーキュリーから発売され、全米ビルボード200と全英アルバム・チャートの双方で1位を獲得、世界で2000万枚以上を売り、7曲のヒット・シングルを生んだ。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Hysteria』作品ページ

公式サイトの作品データは、『Hysteria』の録音場所をオランダのヴィッセルロート・スタジオ、アイルランドのウィンドミル・レーン・スタジオ、フランスのスタジオ・デ・ダムの3か所とし、追加ミュージシャンにフェアライトのプログラミングを担当したフィリップ・ニコラスを挙げている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Hysteria』作品ページ

<Hysteria>ツアーは227公演に及んだ。次の作品の作業が始まったのは、それが終わった1988年10月である。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1989年、バンドはMTVビデオ・ミュージック・アワードで「Tear It Down」を演奏した。公式年表は、これがスティーヴ・クラークがバンドと立った最後のステージだったと記している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1991年1月8日、スティーヴ・クラークが亡くなった。公式年表は、その年のうちに肋骨を3本折って処方された鎮痛剤とアルコールが重なったためと記している。バンドは4人編成のまま制作を続け、4作ぶりにマット・ラングは卓を離れて総指揮に回り、長年ミックスとエンジニアを担ってきたマイク・シップリーがバンドと共同プロデューサーに就いた。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

新しい編成が世に披露されたのは1992年4月、ウェンブリー・スタジアムでのフレディ・マーキュリー追悼コンサートだった。DIOとホワイトスネイクでの仕事で知られていたヴィヴィアン・キャンベルが加入し、同じ時期に『Adrenalize』が発売される。同作は全米チャートに初登場1位で入り5週にわたって首位を守った。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式バイオグラフィによれば、ヴィヴィアン・キャンベルにバンドから声が掛かったのは1992年、スティーヴ・クラークが遺した席を埋めるためだった。ウェンブリーのフレディ・マーキュリー追悼公演で正式に紹介されたあと、彼の最初の仕事は1992年と1993年の<Adrenalize>ツアーに同行することだった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」ヴィヴィアン・キャンベル

1992年6月に始まった<Seven Day Weekend>ツアーは、18か月後の終了までに241公演に達した。当時としてはバンド史上最も大規模なツアーであり、イギリスでアリーナ中央にステージを組む形式を初めて採ったのもこのツアーだった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1993年3月、アーノルド・シュワルツェネッガー主演映画『ラスト・アクション・ヒーロー』の製作陣がエンドロール用の曲を依頼してきた。ツアー中で新曲を録る時間がなかったバンドは、イギリスでしか出ていなかったB面曲「Two Steps Behind」を送った。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1993年6月6日、バンドは新設のドン・ヴァレー・スタジアムで演奏した最初のバンドになった。初ライヴからほぼ15年、故郷シェフィールドへの凱旋公演には4万人が集まった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトによれば、1993年10月5日発売の『Retro Active』は1984年から1993年までのセッションから、B面曲や未発表音源に手を入れて集めた作品である。全英6位、ビルボード200で9位。ヴィヴィアン・キャンベルが参加した最初の作品でもある。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Retro Active』作品ページ

1995年10月に出たベスト盤『Vault』は16曲入りで、新曲「When Love and Hate Collide」を1曲だけ含んでいた。この曲は全英2位まで上がり、公式年表によれば同国での彼らの最大のヒットとなった。『Vault』自体は400万枚を売っている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1995年10月、シェフィールド市はバンドを称えてクルックス労働者クラブとドン・ヴァレー・スタジアムに銘板を設置した。バンドは国立ポピュラー音楽センターへ最初の展示品を寄贈し、市長を訪ねている。その日の締めくくりは、1978年に初期の公演を行った定員300人のパブ、ワペンテイクでのアコースティック・ライヴだった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

1995年10月23日、バンドは1日で3大陸を回るという企てを実行した。深夜にモロッコのタンジールの洞窟でアコースティック・セットを演奏し、ロンドンへ飛んで正午に演奏し、最後にカナダのバンクーバーで21時30分に演奏している。移動距離は5,845マイル。この記録はギネス・ブックにも記載された。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトの作品データによれば、『Slang』の「Turn to Dust」にはインドの弦楽器サーランギーのサンプル(ラム・ナラヤン、シャム・ヴァティシュ)、ドール(アヴ・シン)、そしてクレイグ・プルースによる弦とパーカッションの編曲・指揮が加わっている。タイトル曲でスペイン語の声を入れているのはグロリア・フローレス。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Slang』作品ページ

<Slang>ツアーの一環として、1996年12月にバンドは初めて南アフリカを訪れた。ヨハネスブルグ・スタジアムでの公演は4万7千人を集めて完売している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトの作品データによれば、『Euphoria』の「Demolition Man」の最後のギター・ソロを弾いているのはデイモン・“デーモン”・ヒルである。また「Back in Your Face」の掛け声と手拍子には、キーラン・マッゴールドリック、ゲイリー・サリヴァン、リッキー・ウォーウィックが参加している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Euphoria』作品ページ

1999年3月16日、デフ・レパードはアメリカで新設されたダイヤモンド・アワードの初回受賞者の一組になった。1枚のアルバムで米国1000万枚以上を売った作品に贈られる賞で、『Hysteria』は当時米国だけで1200万枚に達していた。公式年表によれば、この水準に到達していたのは61作・45組だけで、うち英国のアーティストは8組しかいなかった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2000年9月、バンドはハリウッドのロックウォークの殿堂入りを果たし、記念プレートを受け取ってセメントに手形を残した。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2002年7月に出た『X』の題名は、ローマ数字の10を意味する。先行シングル「Now」は同年6月に発売された。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

<X>ツアーが正式に始まる前、バンドはイギリス国内でいくつかの公演を行った。そのうちリーズでの1本を、エリザベス女王が観ている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトの作品データによれば、『X』はダブリンのジョーズ・ガレージ、ストックホルムのポーラー・スタジオ、ロサンゼルスのランボ・スタジオの3か所で録音され、プロデュースはバンド、ペール・アルデハイム、アンドレアス・カールソン、ピート・ウッドロフの連名になっている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『X』作品ページ

<X>ツアーは151公演を経て、モスクワで幕を閉じた。公式年表によれば、この行程には長らく訪れていなかったドイツやポーランド、そして初めて足を踏み入れたラトビア、リトアニア、ロシアが含まれていた。日本での公演もこのツアーの一部である。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

カヴァー・アルバムの制作に2004年の大半が費やされたが、その予告として先に世に出たのはベスト盤の1曲だった。同年末に出た『Best Of Def Leppard』に、ザ・キンクスの「Waterloo Sunset」が新録として収められている。翌2005年5月の北米版ベスト盤では、代わりにバッドフィンガーの「No Matter What」が同じ役割を果たした。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトによれば、『Yeah!』はビルボード200で16位、全英アルバム・チャートで52位に達した。バンドにとって初のカヴァー・アルバムである。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Yeah!』作品ページ

『Songs From The Sparkle Lounge』の題名は、2006年のツアー中に楽屋裏へ持ち込んだ簡易スタジオの呼び名から来ている。多くの素材がそこで録音された。2008年4月に発売され、先行シングル「Nine Lives」ではカントリー歌手ティム・マッグロウが共演している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2010年はバンドが29年ぶりに丸1年の休みを取った年だが、その間に初のライヴ盤『Mirror Ball (Live & More)』のための新曲3曲が書かれた。ジョー・エリオットの「Undefeated」、フィル・コリンの「It's All About Believin'」、そしてリック・サヴェージの「Kings Of The World」である。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

「Kings Of The World」について公式年表は、クイーンの「We Are The Champions」の影響が明白であり、それは意図的だったと記している。リック・サヴェージはグロリア・ゲイナー「I Will Survive」やシナトラ「My Way」のような曲の自分なりの版を書こうとしていた。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2012年6月5日、バンドはワーナー・ブラザース映画『ロック・オブ・エイジズ』に合わせて「Rock of Ages」と「Pour Some Sugar On Me」を新たに録音し直し、デジタルで発売した。翌6日にはロサンゼルスのハウス・オブ・ブルースで、映画のプレミア後のパーティーを兼ねた小規模公演を行っている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2012年11月19日、バンドは初のラスヴェガス・レジデンシー<VIVA Hysteria>を発表した。会場はハード・ロック・ホテル&カジノ内のThe Joint。1987年の『Hysteria』を全曲演奏したうえで、ヒット曲と稀少曲のセットを加える構成で、2013年3月22日から11公演が行われた。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

セルフタイトル作は、契約に縛られずに作った初めてのアルバムだった。ジョー・エリオットによれば、デビュー作『On Through The Night』でさえ期待は存在していたが、今回はそれが一切なかった。彼らはスタジオに入った時点でアルバムを作る前提すら持っておらず、自分たちの影響源を素直に出して誇れる曲を数曲書ければいい、という状態から始めている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Def Leppard』作品ページ

2015年のセルフタイトル作は、当初EP1枚分を録るだけの心づもりで始まった。長年の共同作業者ローナン・マクヒューと組んで作業を進めるうちにアイデアが溢れ、最終的に14曲のアルバムになっている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Def Leppard』作品ページ

2017年4月22日、バンドは自主制作盤『The Def Leppard E.P.』をレコード・ストア・デイのために12インチ45回転盤として再発した。1979年に1,000枚が1週間で売り切れた盤である。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2017年8月4日に出た『Hysteria』30周年記念盤は、B面曲やライヴ音源に加え、ライヴ映像作品『In The Round In Your Face』の音声をCDで初めて収録した。この再発により、同作は再びチャート1位に返り咲いている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2018年1月19日、バンドは全カタログをストリーミングとダウンロードで世界に解禁した。公式年表が「Def Leppard Day」と呼ぶこの日を境にデジタルの曲売上は1,422%増え、30か国以上でトップ10入り、全米のカタログ・アルバム・チャートでは1位・2位・3位を独占した。『Hysteria』はビルボード200で3位まで戻り、『Pyromania』と『Vault』は自己最高位を記録している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2018年7月18日、バンドはウェストフィールド・スクールでの初公演から40年を迎えた。同じ年に彼らはロックの殿堂の候補に初めて名を連ねている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

ロックの殿堂は2019年にデフ・レパードを迎え入れ、その紹介文で彼らを「商業的に最も成功したNWOBHMのバンド」であり「1980年代のメタルの時代に火を付けた存在」と位置付けている。殿堂入りの紹介役を務めたのはクイーンのブライアン・メイだった。

出典: ロックの殿堂(Rock & Roll Hall of Fame)殿堂入りアーティスト記録

ロックの殿堂の公式ページで、デフ・レパードの銘板に署名が刻まれているのは6人である。現在の5人に加えて、1991年に亡くなったスティーヴ・クラークの名前も並んでいる。

出典: ロックの殿堂(Rock & Roll Hall of Fame)殿堂入りアーティスト記録

2018年12月12日に殿堂入りが発表され、式典は2019年3月29日にニューヨーク・ブルックリンのバークレイズ・センターで行われた。同時に迎えられたのはザ・キュアー、ジャネット・ジャクソン、スティーヴィー・ニックス、レディオヘッド、ロキシー・ミュージック、ザ・ゾンビーズである。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

『Diamond Star Halos』のアートワークは、写真家・映像作家のアントン・コービンによる写真、マリアム・マラクプールによるスタイリング、英国のマンデン・ブラザーズによるグラフィックで構成されている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Diamond Star Halos』作品ページ

『Diamond Star Halos』の題名はT.レックスの「Bang a Gong (Get It On)」の一節から採られている。客演も豪華で、アリソン・クラウスが「This Guitar」と「Lifeless」で歌い、デヴィッド・ボウイのピアニストだったマイク・ガーソンが「Goodbye For Good This Time」と「Angels (Can't Help You Now)」で演奏している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2022年7月12日、バンドはPandoraから「ビリオネア」プレートを贈られた。同プラットフォームでの累計再生が25億回を超えたことによる表彰で、授与はウェスト・ハリウッドのウィスキー・ア・ゴー・ゴーでの限定公演の楽屋で行われた。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

『Diamond Star Heroes Live From Sheffield』のアナログ盤は赤・白・黒のスプラッター仕様で、これはブラモール・レーンを本拠地とするシェフィールド・ユナイテッドのホーム・キットの色に合わせたものである。同作は同時に、バンドにとって初の4K UHD作品でもあった。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2023年5月19日に出た『Drastic Symphonies』は、過去の代表曲をロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と組んで作り直した作品である。録音はアビイ・ロード・スタジオで行われ、バンドは新たな歌と演奏も加えた。全英4位、ビルボードのクラシカルおよびクラシカル・クロスオーバー両チャートで1位を記録している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2025年10月9日、デフ・レパードはハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの2,825番目の星を贈られた。司会はボブ・バックマン、来賓としてジョン・ボン・ジョヴィとブルース・レズニコフが登壇している。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2026年2月3日、バンドはシーザーズ・パレスのザ・コロシアムでラスヴェガス・レジデンシーを開始した。全公演がソールドアウトで、新しい舞台美術とセットリストが用意されている。5月23日には、この公演で撮影された「Personal Jesus」の映像が公開された。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

2026年4月18日、レコード・ストア・デイに合わせて『Slang』の30周年記念盤が出された。初めて2枚組となり、ジョー・エリオット自身が当時のB面曲や未発表音源を選んだ2枚目が追加されている。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」(バイオグラフィ/年表)

公式サイトのメンバー紹介によれば、フィル・コリンはデフ・レパード以外にもDumb Blondes、Lucy、Tush、Girl、Cybernauts、Man Raze、Delta Deepといったバンドを渡り歩いてきた。生年月日は1957年12月8日、出身はロンドンである。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト「Band」フィル・コリン

公式サイトの作品説明によれば、1992年3月31日に出た『Adrenalize』は、1991年のスティーヴ・クラークの死のあとに発表された最初の作品である。プロデュースはマイク・シップリーとバンド、総指揮はロバート・ジョン“マット”ラング。全英と全米の双方で初登場1位を記録した。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Adrenalize』作品ページ

公式サイトの作品データによれば、『Adrenalize』で外部から加わった演奏者はただ一人、「Stand Up (Kick Love into Motion)」でキーボードを弾いたフィル・ニコラスだけである。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Adrenalize』作品ページ

公式サイトの作品データによれば、『Songs From The Sparkle Lounge』のプロデュースはバンドとローナン・マクヒューの共同で、追加の演奏者として記載されているのは「Nine Lives」で歌うティム・マッグロウただ一人である。同作は2008年4月25日に欧州、29日に北米で発売され、ビルボード200に5位で初登場した。

出典: DEF LEPPARD 公式サイト『Songs From The Sparkle Lounge』作品ページ

「Deaf Leopard」をそのまま使わずに綴りを崩したのは、レッド・ツェッペリンの綴りにヒントを得たからだとSongfactsは記している。Led Zeppelinもまた、Leadから母音をひとつ落として作られた名前である。

出典: Songfacts「Def Leppard Artistfacts」

スティーヴ・クラークがバンドのオーディションで弾いたのは、レーナード・スキナード「Free Bird」の後半のソロだった。あまりの出来にジョー・エリオットは即座に「彼で決まりだ」と言ったという。加入は1978年1月、バンド結成の5か月後にあたる。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

自主制作のデビュー盤『The Def Leppard E.P.』の録音費用を出したのは、ジョー・エリオットの父ジョー・エリオット・シニアだった。150ポンドを工面するために口座を空にしたという。ハルのフェアヴュー・スタジオでの請求額は148.50ポンド。釣り銭の1.50ポンドで、メンバーはシェフィールドへ帰る前にフィッシュ・アンド・チップスを買った。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

レーベル名Bludgeon Riffolaは、もともと悪口だった。1978年9月、シェフィールドのThe Limitでヒューマン・リーグの前座を務めた彼らを、Record Mirror誌が「bludgeon riffola」と切って捨てたのである。ピート・ウィリスがその響きを「イタリアの缶詰食品みたいだ」と評し、冗談としてそのままレーベル名になった。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

バンド初の全国放送は、ジョー・エリオットの待ち伏せから始まった。BBCラジオ1のジョン・ピールがシェフィールド大学でイベントを行った夜、エリオットはステージに飛び乗ってEPを手渡し「このバンドの人間だ、かけてくれ」と言った。翌日の夕方に電話が入り、その日の19時半に「Ride Into The Sun」が全国に流れた。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

メジャー契約の決め手はアメリカ側にあった。EPの1枚がシカゴのMercury RecordsのA&R責任者クリフ・バーンスタインの机に届き、彼はイギリスの同職に「何としても他社に取られるな」と電話をかけた。結果としてバンドはUKのVertigoと契約する。契約が済むとバーンスタインはMercuryを辞め、ピーター・メンシュとともにバンドのマネジメントに回った。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

1979年8月の契約が交わされたのは、ジョー・エリオット、リック・サヴェージ、ピート・ウィリス、スティーヴ・クラークの4人がネブワース・パークでレッド・ツェッペリンを観た翌日だった。リック・アレンはまだ未成年だったため、契約書には両親が署名している。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

『The Def Leppard E.P.』でドラムを叩いたフランク・ヌーンは、録音の翌日に正式加入を打診されている。当時所属していたThe Next Bandへの義理から断り、後年これを「人生最大の後悔」と語った。1週間後、15歳になったばかりのリック・アレンが後任に座る。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

ハマースミス・オデオンでリック・アレンが16歳になった夜、AC/DCのボン・スコットが楽屋に入ってきて「ハッピー・バースデイ」を歌い、大きなボウルいっぱいのスマーティーズを渡していった。アレンはこれを、彼なりの愛情表現だったと振り返っている。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

AC/DCの<Highway To Hell>UKツアーで前座を務めた当時20歳のジョー・エリオットは、同じホテルに泊まった夜のことを覚えている。メンバー4人でビール1杯を分け合っていたところ、ボン・スコットが金を放って寄こし「みんなで飲め」と言った。エリオットは、恩を返す機会がないまま終わってしまったと語っている。スコットはこのツアーの数か月後、1980年2月19日に33歳で亡くなった。

出典: BARKS「ジョー・エリオット、20歳で経験したAC/DCとのツアーを振り返る」

ジョー・エリオットは、AC/DCの前座として毎晩ステージ袖から本編を観ていたと語る。そこで学んだ最大の教訓は「同じことを繰り返す」ことの価値だった。長く残りたければ毎晩セットを変えるべきではない、AC/DCは音も見た目も仕事の流儀も決して変えなかった、というのが彼の受け取り方である。

出典: BARKS「ジョー・エリオット、20歳で経験したAC/DCとのツアーを振り返る」

デビュー・アルバムが録音されたのは、バークシャー州アスコット近郊のティッテンハースト・パークだった。ジョン・レノンが「Imagine」を歌う映像を撮った屋敷であり、レノンがニューヨークへ移ったあとはリンゴ・スターが住んでいた場所でもある。ジョー・エリオットは、くじ引きで当たりを引いてレノンの寝室を使ったと語っている。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

デビュー作は3週間、総額16,000ポンドで仕上がった。当時の基準でも安い部類である。曲はほぼ1年間ライヴで演奏してきたものばかりで、初日だけでバッキング・トラックを9曲分録り終えたという。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

「It Don't Matter」にはカウベルの音が入っているが、スタジオにカウベルが無かった。代わりに叩かれたのはやかんである。ジョー・エリオットによれば音は狙いどおりだったものの、やかんは原形を留めないほど凹み、翌日それを見た通いの家政婦が激怒した。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

デビュー作が全英20位以内に入る前、まだ12歳のジョー・エリオットが初めて観たコンサートはシェフィールド・シティ・ホールでのマーク・ボラン&T.レックスだった。1978年末、彼はその会場の正面扉の脇に「DEF LEPPARD WILL PLAY HERE IN 1980!」とチョークで書いた。予告どおり1980年4月10日、バンドは同ホールでヘッドライナーとして満員の客を前に演奏している。当日、エリオットとリック・サヴェージは実家から52番のバスで会場へ向かった。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

1980年4月のシェフィールド・シティ・ホール公演では、まだ発表されていない新曲3曲も披露された。うち2曲は翌年の『High 'n' Dry』に「Lady Strange」と「Let It Go」(当時の題は「When The Rain Falls」)として、残る1曲は「Medicine Man」から「Rock! Rock! (Till You Drop)」へ姿を変えて1983年の『Pyromania』の開幕曲になった。

出典: Louder(Classic Rock)『On Through The Night』特集

レディングの一件について、ジョー・エリオット自身は「半分は自業自得だった」と認めている。真っ赤なズボンにハートをちりばめた白シャツという出で立ちでステージに上がったのは、革ジャンとジーンズで固めた同時代のバンドと同じ格好はしないという意思表示だった。芝生の塊が飛んできてピート・ウィリスの股間を直撃したのもこの日である。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

デビュー当時のバンドを「アメリカ寄り」と最初に持ち上げ、次いで最初に叩いたのは同じ媒体だった。NWOBHMの発信源だったSounds誌は、EPをアイアン・メイデンと並ぶ最良の成果として推していたにもかかわらず、その後は母国での成功よりアメリカのドルを追っていると批判に転じた。シングル「Hello America」の題名がその印象を決定づけた。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

Sounds誌でバンドを「変節した」と書いたジェフ・バートンは、その1年後に『High 'n' Dry』へ絶賛のレビューを寄せている。ただしイギリスでの評判は既に傷ついており、同作の最高位26位はデビュー作の15位を下回った。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

ロバート・ジョン“マット”ラングとの初仕事は待つことから始まった。マネージャーのピーター・メンシュはデビュー作から彼を望んでいたが不発に終わり、2作目でも彼はフォリナーの『4』を仕上げている最中だった。1981年1月、さらに1か月待てと告げられたジョー・エリオットは、レコード棚からフォリナーの『Double Vision』を抜き取って真っ二つに折ったという。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

マット・ラングがバッテリー・スタジオを選んだのは、1976年製のCadacアナログ卓のためだった。その建物は70年代にはMorganという名で、レッド・ツェッペリンやピンク・フロイド、ポール・マッカートニーが使っている。デフ・レパードが入る直前まで、隣ではアイアン・メイデンがマーティン・バーチと『Killers』を録っていた。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

「Let It Go」は当初「When The Rain Falls」という題で、雨のせいで実家から出られない、という内省的な歌詞だった。マット・ラングはこれを「Highway To Hell」になり得る曲と見て、もっと大きな世界を歌えと求めた。バンドはクイーンの「We Will Rock You」を念頭に置いて書き直し、改題している。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

「Bringin' On The Heartbreak」も改題された曲で、元の題は「A Certain Heartache」。ヴォーカル録音に行き詰まったジョー・エリオットは、隣のスタジオ2で『Saints & Sinners』を録っていたホワイトスネイクのデヴィッド・カヴァデールに助言を求めに行った。カヴァデールが一発でヴォーカルを録り終えるのを見たあと、ブランデーとディープ・パープル時代の昔話に付き合わされ、その日は歩道で吐いて終わっている。翌日、彼の歌は突然形になった。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

「Bringin' On the Heartbreak」は1981年の初出時にはチャートに入らなかった。『Pyromania』の成功後、1984年の『High 'n' Dry』再発盤にリミックス版が加えられ、シングルとして出し直されて全米61位に達している。作曲はスティーヴ・クラーク、ピート・ウィリス、ジョー・エリオットの3人。

出典: Songfacts「Bringin’ On the Heartbreak」

1987〜88年の<Hysteria>ツアーで、バンドは「Bringin' On the Heartbreak」をアコースティックで始め、ソロでエレクトリックに切り替える構成に変えた。フィル・コリンによれば発案は自分で、当時前座を務めていたTESLAをはじめ、スコーピオンズやボン・ジョヴィなど各バンドが同様のアコースティック・セットを取り入れるきっかけになったという。

出典: Songfacts「Bringin’ On the Heartbreak」

発売当初の『High 'n' Dry』は英米ともに不発だった。アメリカでの売上は25万枚前後で止まり、レコード会社の予測の半分にも届かなかった。ところがMTVが「Bringin' On The Heartbreak」を回し始めると、週1万枚、やがて月3万枚という報告が届くようになる。『Pyromania』が出る頃には、同作はアメリカだけで80万枚に達していた。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

タイトル曲「High 'n' Dry (Saturday Night)」は、1985年に発足したPMRC(Parents Music Resource Center)が「Filthy 15」として名指しした15曲のひとつに入っている。挙げられた理由は薬物と酒の描写だった。

出典: Songfacts「High ‘n’ Dry (Saturday Night)」

「high and dry」は本来「見捨てられて身動きが取れない」という意味の慣用句で、潮が引いて座礁した船に由来する。デフ・レパードはこれを別の意味に読み替え、「high」を泥酔の意で使っている。酒を断つ意味の「dry」と並べたことで、慣用句の意味は反転した。

出典: Songfacts「High ‘n’ Dry (Saturday Night)」

Songfactsは、バンドの緻密な制作手法が『High 'n' Dry』から始まったと整理している。デビュー作でもクイーン流の重ね録りは試していたが、時間をかけずに済ませていた。マット・ラングと組んだことで、アルバムを層の重なった作品として扱う姿勢が身についたという。

出典: Songfacts「High ‘n’ Dry (Saturday Night)」

ピート・ウィリスの飲酒が深刻化したのは『High 'n' Dry』のツアー中だった。ジョー・エリオットはアメリカから、元GIRLのフィル・コリンに何度も電話をかけている。「3日で18曲覚えられるか」と持ちかけては、翌朝には「本人が謝ったから今回は無しだ、ただ頭には入れておいてくれ」と掛け直す、という繰り返しだった。

出典: Louder(Classic Rock)『High ‘n’ Dry』特集

ピート・ウィリス解雇の決め手になった朝のことを、ジョー・エリオットはこう説明している。10時に現れたウィリスは泥酔していて、ギターを裏返しに構え、弦のない背面をかき鳴らしていた。マット・ラングは笑ったあと彼を家へ帰した。エリオットが本当に恐れたのは、ラングがこの仕事から降りることだった。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

『Pyromania』でのピート・ウィリスの貢献をジョー・エリオットは強調している。ウィリスは10曲中4曲の共作者で、そのなかには決定打となったシングル「Photograph」も含まれる。さらに全曲のリズム・ギターを弾いた。フィル・コリンが加わったのは仕上げの段階で、10曲のうち5曲でソロを弾き、残る5曲はスティーヴ・クラークが担当している。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

『Pyromania』を作り始めた頃、バンドはレコード会社に70万ポンドの負債を抱えていて、メンバーの週給は40ポンドだった。最終ミックスが終わったのは1982年のクリスマス直前、9か月がかりで、制作費は100万ポンドを超えた。負債を返すには最低300万枚を売る必要があった。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

マット・ラングは3作目に取りかかる前、バンドに「誰も作ったことのないレコードを作れる」と告げた。同時に、行き止まりに何度も突き当たり、自分でもどこへ向かうのか分からないと予告している。ジョー・エリオットは、実績がなく譲れる余地の大きい自分たちだったからこそラングは何でも試せたのだと振り返っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

「Photograph」の出発点は歌詞の一行だった。マット・ラングが思いついた「All I've got is a photograph」というフレーズから、写真しか手元に残っていない男の歌という着想が生まれている。

出典: Songfacts「Photograph」

ライヴで「Photograph」をマリリン・モンローに捧げることがあり、ビデオにも彼女に似せた女性が出てくるため、この曲はモンローについて歌っているという受け取られ方が広まった。Songfactsによれば、モンローとの結び付きは話を面白くするために後から作られたもので、歌詞に特定のモデルはいない。

出典: Songfacts「Photograph」

リンゴ・スターは1973年に「Photograph」という題の全米1位曲を持っており、主題も近かった。バンドは似すぎているのではと心配したが、マット・ラングは誰も気づかないと考えたという。2005年にはニッケルバックがまた別の「Photograph」で大ヒットを飛ばしている。

出典: Songfacts「Photograph」

「She Blinded Me With Science」を出した直後のトーマス・ドルビーが『Pyromania』に参加している。ソロ名義が知られ始めていたため、ロック作品に本名が載るのは紛らわしいと本人が感じ、マット・ラングが「Booker T. Boffin」という別名を用意した。

出典: Songfacts「Photograph」

トーマス・ドルビーを呼んだのはマット・ラングの判断だった。ラングはフォリナーの『4』でも彼を使い、「Waiting For A Girl Like You」のシンセを弾かせている。『Pyromania』では冒頭曲「Rock! Rock! (Till You Drop)」のイントロに厚いシンセ・コードを重ね、「Foolin'」や「Die Hard The Hunter」にも彩りを加えた。ジョー・エリオットは、スピルバーグ映画の見た目のように響くレコードを目指していたと語っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

「Rock of Ages」の冒頭で聞こえる「Gunter Glieben Glauten Globen」には意味がない。マット・ラングが「1, 2, 3, 4」と数えるのに飽きて口にし始めた言葉である。バンドは意味を尋ねられるたびに、その場で作り話をしていたという。

出典: Songfacts「Rock of Ages」

「Rock of Ages」の題名は聖歌から来ている。曲はできていたが歌詞が出てこなかったある晩、スタジオで聖書研究会が開かれ、翌日ジョー・エリオットは讃美歌「Rock Of Ages」のページが開いたままの聖書を見つけた。その言葉を口ずさんだところ、マット・ラングがコーラスにぴったりだと判断し、題名も歌詞もそこから広がっていった。

出典: Songfacts「Rock of Ages」

ジョー・エリオットは、ジョーン・ジェットの「I Love Rock And Roll」を聴いていなければ「Rock Of Ages」は書かなかったと語っている。真似たのは音ではなく、アンセムとして成立する曲の作り方という一点だけだった、というのが本人の説明である。

出典: Songfacts「Rock of Ages」

「Rock of Ages」のビデオでチェスを指しながら冒頭の言葉を口にしているドルイド僧は、バンドのマネージャーだったピーター・メンシュである。監督はデヴィッド・マレット。

出典: Songfacts「Rock of Ages」

「Rock of Ages」のビデオにフクロウが出てくる理由は語呂合わせである。ジョー・エリオットによれば、監督のデヴィッド・マレットが「all right」の発音が「owl-right」に似ていることを面白がって、その一言のところに鳥を置いた。

出典: Songfacts「Rock of Ages」

「Rock of Ages」のギター・ソロ中に逆回転の声が入っているのは事実だが、意味はない。ジョー・エリオットの説明では、スタジオの新しい機材で遊んでいた産物で、逆さにしたときの響きだけで採用を決めていた。冷戦とフォークランド紛争の空気のなか、思いつくままの言葉を吹き込んでは反転させて笑っていたという。

出典: Songfacts「Rock of Ages」

「Foolin'」のビデオはデヴィッド・マレットが監督し、炎とゴシック的な象徴で『Pyromania』という題を視覚化している。曲に一切登場しないハープを弾いている謎の女性は、当時ビリー・アイドルと交際しており彼のビデオにも出ていたペリ・リスターである。

出典: Songfacts「Foolin’」

1983年8月のある時期、『Pyromania』はアメリカで1日10万枚のペースで売れていた。ビルボード200では2位まで上がったが、1位はマイケル・ジャクソンの『Thriller』だった。ジョー・エリオットによれば、実際に1週だけ『Thriller』を上回った週があり、その週の1位は『Flashdance』のサウンドトラックで、2位が自分たち、3位がジャクソンだったという。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

アメリカとイギリスでの温度差は極端だった。Songfactsによれば、『Pyromania』はアメリカで700万枚近くを売った一方、イギリスでの売上は6万枚ほどにとどまっている。母国で本当に売れるようになるのは1987年の『Hysteria』を待つことになった。

出典: Songfacts「Def Leppard Artistfacts」

1983年4月29日に始まった初のアメリカ単独ツアーは、テキサス州オデッサの1万人収容アリーナが4分の1しか埋まらないところから出発した。それが数週間でソールドアウトに変わる。9月17日、サンディエゴのジャック・マーフィ・スタジアムに5万5千人を集めた公演が、当時としてはバンド史上最大の単独公演となった。前座はモトリー・クルー、ユーライア・ヒープ、エディ・マネー。

出典: Louder(Classic Rock)『Pyromania』特集

1983年9月、LAフォーラム公演を控えたバンドのもとに「ブライアン・メイが来たがっている」という連絡が入った。パスの手配かと思ったジョー・エリオットに返ってきたのは、観に来るのではなく一緒に演奏したいという伝言だった。メイは自分の機材を持ち込み、ミキシング卓から見ていたメンバーの前で「Photograph」のリフを弾き始めた。エリオットは、あの瞬間に自分たちがどこまで来たのかを実感したと語っている。

出典: BARKS「デフ・レパード、ブライアン・メイとの共演に『俺ら、ここまで来たか』と感慨」

1983年、「Photograph」はMTVで最も人気のあるビデオに選ばれ、マイケル・ジャクソンを退けた。ジョー・エリオットはそれを大きな節目だったと振り返る一方で、MTVで流れても金がすぐ入るわけではなく、そのツアーが終わるまで週給100ドルで回していたとも語っている。

出典: BARKS「デフ・レパード、ブライアン・メイとの共演に『俺ら、ここまで来たか』と感慨」

イギリスのバンドが成功後に高い税を避けて国外へ移ることは「タックス・エグザイル」と呼ばれる。Songfactsによれば、デフ・レパードも1984年にこれを行い、拠点をアイルランドへ移した。

出典: Songfacts「Def Leppard Artistfacts」

マット・ラングが降りたあと、バンドと経営陣が接触した候補にはクリス・トーマスとトレヴァー・ホーンがいた。二人とも多忙で断り、フィル・コリンズの名も一時挙がっている。最終的にジム・スタインマンを推したのは共同マネージャーのクリフ・バーンスタインだった。

出典: Louder(Classic Rock)ジム・スタインマン・セッション特集

ジム・スタインマン起用の論拠には初めから穴があった。『Bat Out Of Hell』の曲を書いたのは彼だが、プロデュースを担ったのはトッド・ラングレンである。ジョー・エリオットはその点を指摘していたが、当時ほかに選択肢がなかったと振り返っている。

出典: Louder(Classic Rock)ジム・スタインマン・セッション特集

ジム・スタインマンがプロデューサー席に座った初日は1984年8月11日。その日の午後、まだチューニングも済ませていない状態で「Don't Shoot Shotgun」のリフとメロディの一部を流していたところ、スタインマンが「これで録れた」と言った。フィル・コリンが「まだ調弦もしていない」と返したことを、ジョー・エリオットは最初の悪い兆候として記憶している。

出典: Louder(Classic Rock)ジム・スタインマン・セッション特集

スタインマン体制が終わった直接のきっかけは音楽ではなく絨毯だった。彼がコントロール・ルームの絨毯を上等なものに替えろと要求したところで、ジョー・エリオットは「絨毯を替える前にプロデューサーを替えるべきだ」とメンバーに告げた。契約は8週間で打ち切られ、10月半ばにスタインマンは去っている。

出典: Louder(Classic Rock)ジム・スタインマン・セッション特集

ジョー・エリオットは現在も「Hysteria: The Steinman Sessions」と書かれたテープの箱を持っている。本人によれば中身は完成した曲が一つもない状態で、これを世に出すつもりはなく、テープは自宅の書庫に置いたままにしておくという。

出典: Louder(Classic Rock)ジム・スタインマン・セッション特集

スタインマンとの8週間で手を付けられた曲には、のちに『Hysteria』へ収まる「Animal」「Women」「Gods Of War」「Love And Affection」「Don't Shoot Shotgun」「Run Riot」が含まれる。もう1曲、当時「Love Bites」と呼ばれていた曲は、のちに書き直されて「I Wanna Be Your Hero」になった。アルバムに入った「Love Bites」は別の曲である。

出典: Louder(Classic Rock)ジム・スタインマン・セッション特集

リック・アレン本人の回想によれば、事故直後の病院で告げられた入院期間は最低6か月だった。見舞いに来たプロデューサーのマット・ラングに発破をかけられ、毎日健康的な食事を運んできたハレ・クリシュナの人々にも支えられ、彼は1か月で退院している。

出典: Louder(Classic Rock)リック・アレン、1986年ドニントン復帰の手記

アレンは、もう二度と叩けないと繰り返し言われ続けたと書いている。それを信じずに済んだのは、スティーヴ・クラークとフィル・コリンが見舞いに来たときからだった。彼はベッドの足元に置いた大きなスポンジを相手に練習を始め、電子キットを作ったピート・ハーレイという人物の助けを得て演奏を取り戻していく。退院後はダーンフィールドの実家の一室にこもり、ひたすら叩き続けた。

出典: Louder(Classic Rock)リック・アレン、1986年ドニントン復帰の手記

1986年8月16日のキャッスル・ドニントン公演の楽屋で、リック・アレンはオジー・オズボーンからスコーピオンズまで、次々に励ましを受けた。ジョー・エリオットとはウイスキーを1本近く空けている。ジョー・エリオットに紹介されたときの歓声で泣き出した彼は、ペダルの上で泣いたら感電するのではないかと考えたという。彼はこの日を、自分の人生で最も重要な5つの出来事のひとつに数えている。

出典: Louder(Classic Rock)リック・アレン、1986年ドニントン復帰の手記

アルバムの題名を口にしたのはリック・アレンだった。1984年2月、ダブリンで共同生活を始めたばかりのバンドが夜の街で飲み明かした翌朝、目を覚ました彼が「これがヒステリアだ」と漏らした一言が題名になった。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

マット・ラングがバンドに示した目標は明快だった。フィル・コリンによれば、彼は「シングルが7曲取れるアルバム、ロックの『Thriller』を作ろう」と言ったという。完成した『Hysteria』は全12曲中7曲がシングルとして切られた。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

マット・ラングが復帰したあと、バンドは16か月分の録音をすべて捨てて録り直した。ジョー・エリオットによれば、それまでの音は決して悪くなく『Pyromania』並みではあったが、ラングは「『Pyromania 2』を作って何になる」と言った。『High 'n' Dry』から『Pyromania』へ跳んだのと同じ跳躍を、もう一度やる必要があるという理屈だった。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

『Hysteria』の音を作るために、バンドは大型アンプをやめてRockmanという小さな機材に切り替えた。ウォークマンほどの大きさで、音を細部まで制御できる。多層のヴォーカル処理や、手作業でトリガーしなければならないほど原始的なサンプラーもこの時期に試された。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

「Rocket」は、ジョー・エリオットが耳にした部族的なドラムの録音から生まれた。彼はそのテープを持ち出してループを作り、その上に曲を組み立てている。歌詞は自分が育つ過程で通り過ぎてきたものを次々に並べる形を取り、ジギー・スターダストからゲイリー・グリッターまでが名指しで登場する。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

「Rocket」の歌詞は、バンドが影響を受けた曲名を並べた目録になっている。「Jack Flash」「Rocket Man」「Sgt. Pepper and the band」「Ziggy」「Bennie and the Jets」「Jet」「Johnny B」「Jean Genie」「Killer Queen」「Major Tom」――ローリング・ストーンズ、エルトン・ジョン、ビートルズ、デヴィッド・ボウイ、ポール・マッカートニー、チャック・ベリー、クイーンが、いずれも一語ずつで呼び出される。

出典: Songfacts「Rocket」

「Rocket」の冒頭に入っている声を逆再生すると「We're fighting with the gods of war」と聞こえる。同じアルバムに収められた「Gods Of War」を指した仕掛けで、間奏部にはほかのデフ・レパード曲の題名も逆さに入っている。

出典: Songfacts「Rocket」

「Rocket」のコーラスで題名の直後に来る「satellite of love」は、ルー・リードが1972年に発表した曲の題名である。ジョー・エリオットは「Rocket」という題を聞いたとき、真っ先にその曲を思い出したと語っている。

出典: Songfacts「Rocket」

「Love Bites」はもともとマット・ラング自身がカントリーの手触りで書いた曲だった。バンドはそこへ自分たちのバラードの作法を持ち込んでいる。ジョー・エリオットが「シモン・ル・ボン的な部分」と呼ぶ小さな息づかいの音を足したことが曲を一段引き上げた一方で、ラングが用意したコーラスの一組をバンドが却下した。彼の案が退けられたのは、このアルバムを通してこの一度だけである。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

「Love Bites」は『Hysteria』からの5枚目のシングルで、1988年10月に全米1位に達した。バンド唯一のBillboard Hot 100首位曲である。アルバムからはその後さらに2曲、「Armageddon It」(1989年1月・3位)と「Rocket」(同年4月・12位)が切られている。

出典: Songfacts「Love Bites」

Songfactsによれば、『Hysteria』でキーボードが入っている曲は「Love Bites」だけである。

出典: Songfacts「Love Bites」

「Love Bites」の終盤に不吉な言葉が隠されているという噂は長く流れたが、バンドは『Hysteria』のドキュメンタリーなどで繰り返し否定している。Songfactsによれば、実際に入っているのはヨークシャー訛りで独り言を言うマット・ラングの声をヴォコーダーに通したものである。

出典: Songfacts「Love Bites」

「Gods Of War」の出発点はスティーヴ・クラークが作った冒頭のリフだった。歌詞は当時の世界情勢に向けられており、自らの目的のために冷戦を回している指導者たちへの当惑をジョー・エリオットが書いている。『Hysteria』のなかで唯一、政治的な色を持つ曲である。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

「Gods Of War」の終盤には、テロリストに向けて「逃げても隠れられない」と語るロナルド・レーガン米大統領の演説の録音が入っている。

出典: Songfacts「Gods Of War」

11曲が形になった段階で、マット・ラングだけが「まだ足りない」と言い続けていた。予算は尽き、バンドは疲れ切っており、誰も同意しなかった。休憩中にジョー・エリオットがギターで弾いていた思いつきをラングが聞きつけ、「5年ぶりに聞く最高のフック」と評したのが「Pour Some Sugar On Me」である。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

「Pour Some Sugar On Me」の歌詞は、ジョー・エリオットとマット・ラングがそれぞれ録音機に思いつく言葉を吹き込み、互いのテープを聴き合って作られた。冒頭の一行はラングの録音から採られている。曲はアルバムのなかで最も早く仕上がり、実質2日で骨格ができた。

出典: Songfacts「Pour Some Sugar On Me」

ジョー・エリオットが人生で最初に買ったレコードは、1969年にアーチーズがヒットさせた「Sugar, Sugar」だった。その終盤に「Pour a little sugar on me, baby」という一節がある。本人は、これが少なくとも無意識の source になっていたと認めている。

出典: Songfacts「Pour Some Sugar On Me」

「Pour Some Sugar On Me」の歌詞は、まず音の響きだけを当てはめた仮の音節から始まり、あとで言葉に整えられた。ジョー・エリオットによれば、これはT.レックス「Bang A Gong (Get It On)」のやり方に倣ったもので、意味は通らなくても響きが良いという基準で書かれている。

出典: Songfacts「Pour Some Sugar On Me」

ヴァースにラップ的な言い回しが入っているのは意図的である。ジョー・エリオットはKaos2000誌に対し、この曲はRUN-D.M.C.とエアロスミスの「Walk This Way」があったからこそ書かれた、ロックとラップが混ざり得ると分かったので自分たちの版を作ったのだ、と説明している。

出典: Songfacts「Pour Some Sugar On Me」

『Hysteria』の売れ行きは一度止まっている。500万枚前後で伸びが鈍ったところへ、アメリカのストリップ・クラブのダンサーたちが「Pour Some Sugar On Me」を使い始めたことで口コミが広がり、ラジオでの回転数が跳ね上がった。以後は1日に数万枚という規模で動き、最終的に1600万枚に達した。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

「Animal」はイギリスで初めてヒットしたデフ・レパードの曲である。アメリカで1000万枚を超えた『Pyromania』でさえ母国ではほとんど無視されていたなか、この曲が壁を破り、バンドは初めて『Top Of The Pops』に出演した。

出典: Songfacts「Animal」

「Animal」の原型を書き、デモに録ったのはフィル・コリンだった。パリでの録音中にジョー・エリオットが入れた歌をマット・ラングが気に入り、そのヴォーカルを軸に曲全体を書き直している。完成まで3年かかったこの曲は、バンド初の全英トップ10シングルになった。

出典: Songfacts「Animal」

アメリカでの先行シングルに「Animal」ではなく「Women」が選ばれたのは計算ずくだった。バンド自身は「Animal」が自然な選択だと考えていたが、『Pyromania』を1000万枚以上買った中心層である男性のファンに向けた第一報が欲しかったのである。「Women」は全米80位に留まったものの、ロック局で流れて『Hysteria』への地ならしになり、次の「Animal」が出るまでにアルバムは約150万枚を売った。

出典: Songfacts「Women」

「Women」という題にもかかわらず、そのビデオには女性が一人も映らない。少年が読んでいる魔法の漫画本のなかを除けば、画面上に女性は登場しない。監督は「Hysteria」「Love Bites」も手がけたジャン・ペルラン。

出典: Songfacts「Women」

タイトル曲「Hysteria」について、フィル・コリンは精神的な悟りを主題にした曲だと語っている。題名の印象から取り乱すことを歌っていると思われがちだが、実際には別のところを指している、というのが本人の説明である。

出典: Songfacts「Hysteria」

「Hysteria」の起点はリック・サヴェージが弾いていたギター・パートだった。ダブリンでそれを聴いたフィル・コリンが即興でメロディを乗せ、サヴェージが別の展開を返し、二人はダブリンの服飾デザイナーの友人宅までアコースティックで持ち込んで聴かせた。ところがコーラスだと思っていた部分について、マット・ラングは「良いヴァースと良いブリッジだ、コーラスはこれから」と告げたという。

出典: Songfacts「Hysteria」

ジョー・エリオットはKaos2000誌に対し、「Hysteria」には11本のギター・パートが重ねられていると説明している。そのままでは再現できないため、ライヴでは本当に聞こえる音とそうでない音を選り分け、2本に集約した混成版を作ったという。

出典: Songfacts「Hysteria」

「Armageddon It」は語呂合わせである。「Are you getting it?」と「Armageddon it」を重ねた題で、同じ手口は「Rocket」(Rock it)にも使われている。

出典: Songfacts「Armageddon It」

Songfactsは、アリーナの中央にステージを組んで演奏した最初の大手ロック・バンドがデフ・レパードだったと記している。<Hysteria>ツアーのアメリカ日程で採用されたこの形式は、より多くの席を売ることを可能にした。

出典: Songfacts「Armageddon It」

<Hysteria>ツアーでアリーナの中央にステージを組んだ結果、バンドは楽屋からステージへ観客のあいだを通って移動する必要が生じた。その手段として使われたのが、洗濯物運搬用のカートだった。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

マット・ラングは『Hysteria』のミックスに5か月を費やし、その大半を空気づくりに使った。仕上げの途中で脚を痛めて3週間入院するという事態もあり、完成したのは1987年の初頭。通常10曲のところを12曲入りにしたのは、長い制作のあいだに新曲が生まれ続け、12曲まで絞ったところで誰も落とすことに賛成しなかったためだとリック・サヴェージは説明している。

出典: Louder(Classic Rock)『Hysteria』制作記

スティーヴ・クラークは死の前年、1990年9月にバンドから無条件・無期限に近い6か月の休養を与えられていた。解雇ではなく、後任を探すつもりもないと明言された上での措置で、ジョー・エリオットは「アルバムの作業を続けているから、2月にまた様子を見よう」と伝えている。クラークはロンドンのチェルシーに越したばかりの自宅へ戻った。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

スティーヴ・クラークは、亡くなる前の初期の作曲作業に深く関わっていた。『Adrenalize』の収録10曲のうち6曲が彼の共作である。バンドは葬儀の翌日には作業に戻った。「曲が良すぎたし、辞めることをスティーヴが望むはずがなかった」というのがジョー・エリオットの説明である。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

ギターを一人で全部弾くと決めたのはフィル・コリンだった。外から人を入れれば教えることから始めなければならない、というのが理由である。彼はスティーヴ・クラークと二人で4トラックに残したデモから相方のパートを覚え直しており、その作業を「幽霊の演奏を聴いているようだった」と表現している。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

マット・ラングがプロデューサーを務められなかったのは、ブライアン・アダムスの『Waking Up The Neighbours』にかかりきりだったためである。バンドは彼の右腕だったマイク・シップリーに切り替えた。『Hysteria』をミックスし『Pyromania』をエンジニアリングした人物である。それでもラングは毎日電話をかけてきて、アダムスの日程の合間には曲作りに加わり、バッキング・ヴォーカルも入れた。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

スティーヴ・クラークの死後に書かれた曲は2曲だけだった。「White Lightning」と「Let's Get Rocked」である。前者の音楽をフィル・コリンが一人で作り、『Hysteria』の「Gods Of War」を意識して構成した。ジョー・エリオットの歌詞にはクラークの物語と、若くして亡くなったジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンの姿が重ねられている。エリオットはこれを、自分が書いたなかで最も個人的で最も心を動かす歌詞だと語っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

「White Lightning」を仕上げたあと、バンドには正反対の何かが必要だった。そこで生まれた「Let's Get Rocked」は、プリンスの『Purple Rain』収録曲「Let's Go Crazy」の気分と題名に触発されている。ジョー・エリオットとフィル・コリンは当時プリンスに夢中で、彼が作りそうな曲をスタジアム向けに作ろうとした。歌詞はエリオットが『ザ・シンプソンズ』を1話観たあとで書いたものである。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

「Let's Get Rocked」の歌詞にある「I suppose rock's out of the question」という一行について、ジョー・エリオットはKaos 2000誌に対し、冗談として書いた部分が真面目に受け取られたと語っている。彼はこの曲を、巨大なドラムとベースの上で歌っているだけの構造だとし、プリンスの「When Doves Cry」や「Little Red Corvette」から遠くないと考えている。

出典: Songfacts「Let’s Get Rocked」

ジョー・エリオットによれば、「adrenalize」という単語は辞書に載っていない。それでも響きが正しく、電源を入れ直してバンドを音楽的に再起動させるという意図に合っていたため題名に採用された。

出典: Louder(Classic Rock)『Adrenalize』特集

ヴィヴィアン・キャンベルは、デフ・レパード加入前の2つの経験――DIOとホワイトスネイク――がどちらも良い終わり方をしなかったと語っている。彼の見立てでは、その違いは自我の置き方にある。デフ・レパードでは全員が音楽に奉仕しており、ここでは横柄な振る舞いをする余地がまったくない、というのが本人の説明である。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

「Two Steps Behind」が最初に世に出たのは1992年、イギリス盤シングル「Make Love Like A Man」のカップリングとしてだった。翌年マイケル・ケイメンが弦のアレンジを加え、映画『ラスト・アクション・ヒーロー』のために作り直されたヴァージョンがサウンドトラックに収められ、シングルとしてもヒットしている。この曲はジョー・エリオットが単独で書いた数少ないデフ・レパード曲のひとつである。

出典: Songfacts「Two Steps Behind」

『Retro Active』はヴィヴィアン・キャンベル加入後の最初の作品であると同時に、前任のスティーヴ・クラークの最後の仕事も収めている。Louderは、レッド・ツェッペリンの「Kashmir」を下敷きにした「Desert Song」と「Fractured Love」に、クラーク特有のリフの色が濃く出ていると評している。

出典: Louder(Classic Rock)DEF LEPPARD 作品ガイド

『Retro Active』に収められた「Miss You in a Heartbeat」は、フィル・コリンが書いた曲を先にザ・ローの1991年の唯一のアルバムが録音していたものである。同バンドの歌い手はコリンの友人ポール・ロジャースで、ケニー・ジョーンズとピノ・パラディーノも在籍していた。コリンによれば、この曲は生まれたばかりの息子ローリーと離れて過ごす時間について書いたものだという。

出典: Songfacts「Miss You in a Heartbeat」

『Slang』の制作中、バンド内での仮題は「Commercial Suicide」だった。ジョー・エリオットによれば、何をやっているのかと訝しがられるのは分かっていたが、『Adrenalize』と同じアルバムをもう一度作るわけにはいかなかった。彼はこの作品を「大人になったアルバム」と呼んでいる。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

『Slang』はスペインの一軒家で作られた。英国のコメディ・ドラマ『Auf Wiedersehen, Pet』の第2シリーズの舞台になった家で、バンドはそこに住み込み、そのままスタジオとして使っている。リック・サヴェージによれば録音は昔ながらのやり方で、バッキング・トラックはほぼ一発録り、リハーサル室で鳴っている音をそのまま捉えてから足していった。リック・アレンもこの作品でセミ・アコースティックのキットに戻している。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

ヴィヴィアン・キャンベルにとって『Slang』は、デフ・レパードとして作る最初のフル・アルバムだった。本人の回想によれば、はっきりした指示は「デフ・レパードらしいレコードは作らない」という一点だけで、彼は波風を立てないよう黙って流れに従いながら、内心では何が起きているのか分からずにいたという。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

『Slang』の最後を占める3曲――「Blood Runs Cold」「Where Does Love Go When It Dies」「Pearl Of Euphoria」――がこの作品の芯にあたる。「Blood Runs Cold」はジョー・エリオットとフィル・コリンによる、スティーヴ・クラークへの2つ目の追悼曲である。エリオットは「White Lightning」を壮大な映画版だとしたうえで、こちらはより生々しく、地面すれすれのスティーヴ・クラークを描いたものだと説明している。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

「Blood Runs Cold」の中間部には女性ヴォーカルのソロが重なっている。フィル・コリンによれば、共同プロデューサーのピート・ウッドロフが「ありきたりの中間8小節はやめて、注意をよそへ持っていこう」と提案したことから生まれた構成である。同曲ではベースが前面に出ており、コリンはこれもバンドとして初めての試みだったと語っている。

出典: Songfacts「Blood Runs Cold」

『Euphoria』という題名はアルバムが作られる前から決まっていた。『Pyromania』『Hysteria』と同じ響きを持つ言葉で、バンドが自分たちの歴史と本来の姿へ戻ることの表明でもあった。ジョー・エリオットは、『Slang』を「ゼロ地点」と呼び、そこから新しく始め直したのが『Euphoria』だと説明している。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

『Euphoria』の中心曲「Promises」は、フィル・コリンが書いたリフを持ちながらコーラスが見つからずにいた。バンドはマルチトラックをスイスにいたマット・ラングへ送り、1、2週間後に返ってきたものを聴いて「これがコーラスだ」と気づいたという。ラングはその後ダブリンへ飛び、長い週末のあいだに「It's Only Love」と「All Night」の2曲を共作し、バッキング・ヴォーカルも一緒に録っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

『Euphoria』の「Back in Your Face」は70年代前半のグラム・ロックへの回帰である。ジョー・エリオットによれば、狙いはグリッター・バンドの音で、そのためにマイク・リアンダーの現場にいたエンジニアに連絡を取り、手拍子とスネアにかけていたディレイのミリ秒単位の値を聞き出したという。門外不出とされていた数字だった。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

『Euphoria』の「Paper Sun」の歌詞は、1998年に北アイルランドのオマーで起きた爆弾事件のあとに書かれた。29人が死亡し200人以上が負傷した事件である。フィル・コリンは、自分たちは政治的な立場を取らないバンドだが、この件は本当にこたえたと語っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

『X』では外部の作曲家が5曲に関わった。「Now」「Everyday」「You're So Beautiful」はエアロスミスと組んだ経験を持つマーティ・フレデリクセンとの共作、「Long, Long Way To Go」はウェストライフ「Flying Without Wings」を書いたウェイン・ヘクター、「Unbelievable」はペール・アルデンハイム、アンドレアス・カールソン、マックス・マーティンによる。ジョー・エリオットは外部作家の起用そのものに反対だったと語っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

『X』は失敗作ではなかった。全英14位、全米11位まで上がっている。ただしLouderは、実験的な方向へ振れた『Slang』がバンド屈指の深みを持つ音楽を生んだのに対し、『X』はそこまで届かなかったと総括している。ジョー・エリオット自身も、傑出したアルバムではないが完全な失敗作でもない、という評価を下している。

出典: Louder(Classic Rock)『Slang』『Euphoria』『X』特集

2006年5月23日に出た『Yeah!』は、60年代後半から70年代にかけて彼らが聴いてきた曲を集めたカヴァー作である。ザ・キンクス、バッドフィンガー、T.レックス、デヴィッド・ボウイ、スウィート、ロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープル、フリー、フェイセズ、シン・リジィが並ぶ。ELOの「10538 Overture」、T.レックスの「20th Century Boy」、シン・リジィの「Don't Believe A Word」、ボウイの「Drive-In Saturday」などが収録された。

出典: BLABBERMOUTH.NET『Yeah!』収録曲発表

『Yeah!』は英国の批評家から手厳しく扱われた。Louderは、そのなかに一語だけの評「No.」があったことを紹介したうえで、この作品はもっと良い扱いを受けてよかったと書いている。とくにデヴィッド・エセックス「Rock On」とELO「10538 Overture」の再解釈を評価している。

出典: Louder(Classic Rock)DEF LEPPARD 作品ガイド

2005年、ミシシッピ川沿いの州フェアでの公演が転機になった。フィル・コリンが「俺たちはこんなところにいるバンドじゃない」と怒りをあらわにし、全員がそれに同意した。マネジメントをQ-Primeからハワード・カウフマンのHK Managementへ移し、アリーナ級の共同ヘッドライナー興行へ戻る方針が決まる。翌2006年には『Yeah!』からの「Rock On」と「No Matter What」が米国のロック局で再び回り始め、ジョー・エリオットが『Hysteria』以来最大の全米ツアーと呼ぶ規模につながった。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

「Nine Lives」は、ティム・マッグロウとフィル・コリン、ジョー・エリオット、リック・サヴェージの共作である。話を動かしたのは2005年、マッグロウの長年のツアー・マネージャーだったロバート・アレン――リック・アレンの兄弟――だった。実際の作業は翌年、マッグロウがハリウッド・ボウル公演に加わったところから始まっている。

出典: Songfacts「Nine Lives」

「Nine Lives」が最初に世に出たのは音楽ゲーム『ギターヒーローIII』の中だった。ジョー・エリオットはNMEに対し、新曲をかけてくれるラジオ局がもう無く、ゲームが次善の場だったと説明している。

出典: Songfacts「Nine Lives」

Louderは『Songs From The Sparkle Lounge』を『Hysteria』以来の最良作と評している。とくに、リック・サヴェージが書いた「Love」を、クイーンへのオマージュとして最も冒険的な曲だとしている。

出典: Louder(Classic Rock)DEF LEPPARD 作品ガイド

テイラー・スウィフトとの共演は、彼女の側からの一言で始まった。2008年、<Songs From The Sparkle Lounge>ツアー中のジョー・エリオットは楽屋でノートパソコンを見せられ、そこに映っていた新人歌手が「<Crossroads>をやるならデフ・レパードしかない」と話していた。仲介が容易だったのは、当時スウィフトのツアー・マネージャーがリック・アレンの兄弟ロバートだったからでもある。

出典: Louder テイラー・スウィフトとの<CMT Crossroads>特集

<CMT Crossroads>の収録は2008年10月初旬、ナッシュビルのアクフ・シアターでの2公演にわたって行われた。放送は11月8日、テイラー・スウィフトの2作目『Fearless』発売の3日前だった。番組では11曲が共演され、幕開けはスウィフトとジョー・エリオットによる「Photograph」だった。

出典: Louder テイラー・スウィフトとの<CMT Crossroads>特集

リック・サヴェージは、テイラー・スウィフトとの<CMT Crossroads>が何人かの目を開かせたと語っている。デフ・レパードにはハード・ロック以上のものがある、という認識を思い出させる出来事だった、というのが彼の受け止め方である。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

『Songs From The Sparkle Lounge』でユニバーサル・ミュージックとの契約は満了し、更新の申し出はなかった。ジョー・エリオットはその後の数年について、自分たちが「地球最大の家内工業」になったと表現している。自前のレーベルBludgeon Riffolaを持っていたため、作品ごとに配給先を選べたのである。2011年の『Mirrorball – Live & More』と2015年の『Def Leppard』は独立系の配給で世に出た。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

『Mirror Ball』からの先行曲「Undefeated」は、2011年4月12日に英プラネット・ロックのロブ・バーニーの番組で初オンエアされた。同局ではジョー・エリオット自身が土曜夜に番組を持っている。

出典: Songfacts「Undefeated」

11作目にバンド名をそのまま冠した理由を、フィル・コリンはBillboard誌にこう説明している。業界の状況を考えれば次のデフ・レパード作があるかどうか分からず、この盤は本当に自分たちを表しているから、と。レーベルや事業上の思惑ではなく自分たちの解釈によるデフ・レパードを作ったのはこれが初めてで、そのぶん怖くもあった、というのが彼の言い分である。

出典: Songfacts「Let’s Go」

ジョー・エリオットは、完成したアルバムを人に説明しようとするたびに「まさにデフ・レパードという感じ」としか言いようがないことに気づいたという。他の題名も検討したが決まらず、フィル・コリンが「いっそ『DEF LEPPARD』でどうだ」と言い出して全員が納得した。35年間セルフタイトルをやってこなかったのだから、という理屈も添えられている。

出典: BARKS【インタビュー】ジョー・エリオット(2015年)

2015年のセルフタイトル作では、過去を参照することを恐れなくなったとジョー・エリオットは語っている。フィル・コリンが持ち込んだベースラインは本人が「クイーンの『Another One Bites The Dust』に似すぎている」と気にしていたが、バンドはむしろ面白がって採用した。それが「Man Enough」になっている。

出典: BARKS【インタビュー】ジョー・エリオット(2015年)

「Man Enough」の題名を出したのはジョー・エリオットだった。フィル・コリンによれば、リック・アレンの50歳の誕生日会の場でエリオットが「この曲のいいアイデアがある、題は Are You Man Enough To Be My Girl だ」と言い出したという。曲のもとになったベースラインは、コリンがマイケル・ジャクソン「Billie Jean」に近いディスコ感を狙って作ったものだった。

出典: Songfacts「Man Enough」

2015年作の制作で最も難航したのは曲順だったとジョー・エリオットは語っている。議論が収拾しなくなり、最後は全員が自分の考える曲順を書いて提出し、他人の案を見比べながら折り合いをつけたという。

出典: BARKS【インタビュー】ジョー・エリオット(2015年)

2015年作の「Sea Of Love」には、フィル・コリンが別バンドDelta Deepで組んでいるデビー・ブラックウェル=クックがヴォーカルで参加している。コリンによれば、この曲はもともとDelta Deep用に書いたつもりだったが、バンドに聴かせたところ気に入られてデフ・レパードの曲になった。リック・アレンがドラムを入れたことで、当初のレニー・クラヴィッツ風のロック/ソウルからさらにジャズ寄りへ変化したという。

出典: Songfacts「Sea Of Love」

2018年、バンドはニューヨークのスポティファイ・スタジオでのセッションでデペッシュ・モードの「Personal Jesus」をカヴァーした。同年11月にはこの曲の公式ビデオが公開され、11月30日発売のベスト盤『The Story So Far – The Best Of』に収録されている。初回プレスのアナログ盤には、同曲の7インチ・シングルが付けられた。

出典: Louder「Personal Jesus」カヴァー・ビデオ公開

『Diamond Star Halos』の当初の計画は、1999年以来続けてきたとおりダブリンのジョーズ・ガレージで作ることだった。ところが最初のロックダウンが、バンドがダブリンに集合する予定だったその週に始まる。結果として各自が自宅のノートパソコンで断片を録り、Dropboxで共有し、プロデューサーのローナン・マクヒューが自宅裏庭のスタジオで一本にまとめる形になった。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

ジョー・エリオットは、離れて作ったことがむしろ有利に働いたと語っている。時差があったおかげで、ダブリンで目覚めるとフィル・コリンからの新しいアイデアが届いている、という進み方になった。彼はこの方法を、今後も従来型には戻らないだろうと評している。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

ブルーグラスの世界にデフ・レパードの愛好者が多い理由を、アリソン・クラウスはMojo誌にこう説明している。高い男声のリードの下にバリトンを積み重ねる形はブルーグラスにとって英雄的な響きであり、『Hysteria』のようにコーラスを重ねた作品はその感覚に直結する、と。ジョー・エリオットはこれを聞かされて驚いた。ブルーグラスの聴き手が自分たちを聴いているとは知らなかったのである。

出典: Songfacts「Def Leppard Artistfacts」

『Diamond Star Halos』は14曲でいったん完成していた。そこへ土壇場で加わったのが「Kick」である。フィル・コリンがデイヴ・バセットと、当初は女性アーティスト向けに書いた曲だったが、ジョー・エリオットに聴かせたところ「これは明らかにデフ・レパードの曲だ」と言われた。結果としてアルバムは15曲になり、この曲が先行シングルにも選ばれている。完成版にはコリンのデモのギターとバッキング・ヴォーカルがそのまま残っている。

出典: Songfacts「Kick」

『Diamond Star Halos』の「Fire It Up」は、クイーンの「We Will Rock You」とジョーン・ジェット版「I Love Rock 'N' Roll」を土台に置いて書かれた。フィル・コリンによれば狙いはロック・アンセムで、安っぽくならずに書くのが難しい種類の曲だという。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

『Diamond Star Halos』に入った「This Guitar」は、17年ほど前から手元にあった曲だった。フィル・コリンがCJ・ヴァンストンと共作したもので、ジョー・エリオットは今度こそ形にしたいと申し出ている。歌はダブリンの自宅で、200ドルのマイク1本を使ってノートパソコンに録音された。エリオットはこれを自身の最良のヴォーカルのひとつだと語っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

アルバムの最後を締める「From Here To Eternity」の歌詞は、フィルム・ノワールから発想されている。リック・サヴェージによれば、思い浮かべていたのはハンフリー・ボガートとローレン・バコールで、恋人を撃たれた男がその犯人を撃ち、電気椅子へ向かうという1940年代の犯罪劇の筋書きである。ジョー・エリオットはこれをバンドの「マーダー・バラッド」と呼んでいる。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

『Classic Rock』誌のライター投票により、『Diamond Star Halos』は2022年の年間最優秀アルバムに選ばれた。Louderの記事は、これが現編成による作品として最良のものだと評価している。

出典: Louder『Classic Rock』誌 2022年 年間ベスト・アルバム発表

2023年5月22日、バンドは故郷シェフィールドのブラモール・レーンで演奏した。モトリー・クルーとの欧州ダブル・ヘッドライナー・ツアーの初日で、結成から47年目の凱旋公演にあたる。故郷のスタジアムで演奏したのはこれが2度目で、観客は4万人近くに達した。この日の模様は2025年11月21日に『Diamond Star Heroes Live From Sheffield』として発売されている。

出典: 激ロック『Diamond Star Heroes Live From Sheffield』リリース決定

2024年6月13日に出たシングル「Just Like '73」には、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのトム・モレロがゲストでソロを弾いている。きっかけはモレロがフィル・コリンとジョー・エリオットだけで作った初期デモを聴いたことで、ソニー・ミュージックのブライアン・モナコを介して話が進んだ。モレロ自身は、大学時代のカヴァー・バンドで「Rock of Ages」を弾いていたと語っている。

出典: Songfacts「Just Like 73」

「Just Like '73」の音づくりは狙いが明確だった。フィル・コリンによれば、70年代前半にゲイリー・グリッターの作品を手がけたプロデューサー、マイク・リアンダーのドラム・サウンドを目指し、そこへスレイド流の、叫ぶような荒っぽいバッキング・ヴォーカルを重ねている。ジョー・エリオットは、73年という時代の空気を映す歌詞を書きたかったと語っている。

出典: Songfacts「Just Like 73」

2026年1月22日に出たシングル「Rejoice」は、バンドの通常の作り方を逆にした曲である。ふだんはフィル・コリンがリフを持ってきてジョー・エリオットが歌詞を乗せるが、この曲ではエリオットが先に構想を持ってきた。どん底から這い上がるという筋書きに合う音楽はないかと訊かれたコリンが、以前から温めていたリフを出してきた。

出典: Songfacts「Rejoice」

「Rejoice」の骨格を作ったのはドラム・ループだった。フィル・コリンはジョー・エリオットから歌詞の構想を聞いたあと、伝統楽器の音を使ったドラム・ループを組み、温めていたアレンジと合わせてエリオットへ送った。エリオットはそこへ即座に歌を乗せている。プロデューサーのローナン・マクヒューが別の音でより本格的なループを作り直し、曲は力強いチャントの形にまとまった。

出典: 激ロック「ニュー・シングル「Rejoice」リリース&リリック・ビデオ公開」

ジョー・エリオットがバンドに加われたのは、歌が上手かったからではない。本人の回想によれば、1977年の最初のセッションで試したレッド・ツェッペリンの「Stairway To Heaven」は1オクターブ下でしか歌えなかった。音楽を教えてくれる兄がおらず、T.レックスのファンだった彼はツェッペリンやサバス、ディープ・パープルをよく知らなかったのである。次に試したデヴィッド・ボウイの「Suffragette City」はましだったが、彼自身は、リハーサル場所の掃除を手伝った自分を追い出しづらかっただけだろうと考えている。

出典: BARKS「ジョー・エリオット、デフ・レパードに加入できたのは…」

ジョー・エリオットは、バンドに誘われたきっかけを何度も同じように説明している。仕事帰りにピート・ウィリスと出くわし、バンドを作ると聞いて飛びついた。決め手になったのは自分のレコード・コレクションと、背が高かったことだという。あの夜バスに乗り遅れていなければウィリスに会うこともなかった、というのが彼の言い方である。

出典: BARKS「ジョー・エリオット、デフ・レパードに加入できたのは…」

バンドの結束の源を問われたジョー・エリオットは、出自の話をしている。イングランド北部の労働者階級の町では、工場で働くのでなければサッカー選手か、ミュージシャンか、銀行強盗しか道はなく、しかもチャンスは一度きりだった、というのが彼の説明である。リック・アレンが腕を失ったときには既に5年以上を共に過ごしていて、兄弟が事故に遭ったからといって家から追い出す者はいない、という感覚だったと彼は語る。続けられるかどうかを判断するのは本人だ、と伝えたことが、アレンに挑戦する自信を与えたのだという。

出典: BARKS「ジョー・エリオット、サミー・ヘイガーとの対談でデフ・レパード結束力の源を語る」

セットリストが変わらないという批判に対して、ジョー・エリオットは変えていないわけではないと反論している。ただし全部を入れ替えるのではなく、ところどころを変える。観に来る客の多くは1年か2年ぶりで、その曲をもう一度聴きたいと思って来ている、というのが理由である。自分もローリング・ストーンズを2年で2度観て9割が同じでも構わない、と彼は続けている。

出典: BARKS「デフ・レパード、『いつも同じ』と言われるセットリストについて語る」

2001年にVH1が放送した伝記映画『Hysteria – The Def Leppard Story』について、ジョー・エリオットは失敗の理由を具体的に挙げている。低予算の実験的企画であり、話を早く進めるためにフィル・コリンを1981年の<High 'n' Dry>ツアー――彼の加入前――に登場させていた。エリオットは訂正を求めたが直らなかったという。撮影地がカナダだったため、車が走る車線もイギリスとは逆になっていた。

出典: BARKS「ジョー・エリオット、過去のバイオグラフィ映画、失敗の要因を語る」

フィル・コリンが1986年に酒をやめたことは、彼の体格と直結している。スティーヴ・クラークと二人で「The Terror Twins」と呼ばれていた時期を経て断酒し、以後はキックボクシングとヴィーガン食を軸にした生活を続けている。60代に入っても20代の頃より調子がいい、というのが本人の弁である。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

ヴィヴィアン・キャンベルは2013年に癌と診断されている。本人は、その言葉を最初に聞いたときは世界が抜け落ちるが、その先は対処するだけだと語る。自分の世界観がそれで大きく変わったとは思っておらず、もともと持っていた「人は時間に追われている」という感覚が増幅されただけだ、という言い方をしている。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

ヴィヴィアン・キャンベルの加入は1992年で、以後デフ・レパードの編成は変わっていない。2022年の時点で30年、バンド結成からは45年が経っていた。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

リック・サヴェージは、90年代半ばにバンド全員が死にかけた出来事を語っている。ルイジアナ州シュリーヴポートからシカゴへ向かう飛行機が雹の嵐に叩かれ、エンジンが止まる音がしたあと2000フィート急降下した。客室乗務員は泣き叫び、彼は助からないと確信したという。スティーヴのこと、リックのことをくぐり抜けてきた末に飛行機事故で死ぬのはいかにも自分たちらしい、とそのとき考えたと本人は振り返っている。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

バンド内の力学について、リック・アレンはジョー・エリオットとリック・サヴェージを対照的な存在として説明している。エリオットが原動力で、バンドの生命線。サヴェージは控えめだが、実際に考えているのは彼だ、というのが彼の見立てである。サヴェージ自身は、口論が煮詰まったところで結論を出す役回りを自認しており、ベーシストは音楽とリズムの橋渡しをするので自然と間に立つことになる、と説明している。

出典: Louder(Classic Rock)『Diamond Star Halos』制作記

メンバー個人には薬物やアルコールの深刻な問題があった一方で、ツアー中のバンドは驚くほど大人しかったとSongfactsは記している。ジョー・エリオットは、ロック・バンドが会計士を雇うようになってからは1台500ポンドのテレビを窓から投げなくなった、という言い方でその変化を説明している。

出典: Songfacts「Def Leppard Artistfacts」

『Pyromania』から切られたシングルは4曲で、いずれもヒットした。「Photograph」はビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで1位、Hot 100で12位。「Rock Of Ages」も同ロック・チャートで1位、Hot 100で16位。「Foolin’」はロック・チャート9位、Hot 100で28位。最後の「Too Late For Love」もロック・チャート9位に達している。

出典: Songfacts 特集記事「How Def Leppard’s Hysteria Became a Comeback Album」

「Animal」は全英シングル・チャートで6位に達し、バンドにとって母国で初のトップ10入りとなった。同じ『Hysteria』からは「Love Bites」が全米1位、「Pour Some Sugar On Me」が全米2位、「Armageddon It」が全米3位を記録している。

出典: Songfacts 特集記事「How Def Leppard’s Hysteria Became a Comeback Album」

『High ‘n’ Dry』のビルボード200での最高位は38位だった。収録曲「Bringin’ On The Heartbreak」のビデオは1982年、開局まもないMTVで流れた最初期の映像のひとつになったが、曲自体はHot 100に入らず、1984年のリミックス版が61位に達したのが最高である。

出典: Songfacts 特集記事「How Def Leppard’s Hysteria Became a Comeback Album」

2024年4月26日に出た『Pyromania』の拡大版には、デモやラフ・ミックスに加えて未発表曲「No You Can’t Do That」が収められた。ジョー・エリオットによれば、埃をかぶったカセットを掘り起こし、長年のエンジニアであるローナン・マクヒューが復元したもので、行方の分からなくなっていた未完成の「11曲目」を見つけ出す作業だったという。

出典: Louder『Pyromania』40周年エディション発表