ASIA トリビア 全226件
ASIAにまつわる事実を、出典付きで226件掲載しています。
Trivia
1987年、ダウンズとウェットンはエイジアを立て直そうとしている。ギターに元シン・リジィのスコット・ゴーハム、ドラムにマイケル・スタージスを迎えた編成だった。ダウンズの公式サイトに残る回想によれば、このとき日本のJVCがかなりの好条件を提示している。だがその頃には勢いが尽きており、ゴーハムとスタージスは21 GUNSの結成へ向かって離れていった。
日本では、ジョン・ペイン期のエイジアが別のアーティストとして扱われている。ソニーミュージックの公式サイトは、この時期の作品を「エイジア・フィーチャリング・ジョン・ペイン」名義のディスコグラフィに置いている。そして『Aria』には『天空のアリア』という邦題が与えられた。同時期に再発された『アクア』『アリーナ』『アーカイヴァ』がいずれもカタカナ表記のままであることを思えば、この一枚だけが日本語の題を持っている。
2026年2月、エイジアは「ASIA IN ASIA」という題で日本へ戻り、1983年の初来日公演のセットリストを再現した。会場はビルボードライブ大阪(2月3日・4日)、ビルボードライブ横浜(2月6日)、ビルボードライブ東京(2月8日・9日)で、各日二回公演。43年前に日本武道館で衛星中継された、あの晩の曲順である。
その2022年のボックスの日本盤には、当時のパンフレットとチケットのレプリカが入っている。いずれも日本で製作されたもので、欧州盤とは別内容である。同じ商品でありながら、封入される紙物が国によって違う。アートワークはロジャー・ディーンの描き下ろし、そして日本盤には日本限定の2枚組LPも付く。
1983年の武道館公演には、衛星中継が終わった後にも演奏された曲がある。アンコールの「Cutting It Fine」と「Daylight」で、当時のビデオとレーザーディスクからは割愛されていた。2022年のボックス・セットで、この二曲がようやく収録された。
1983年の来日公演について、グレッグ・レイクが「Don't Cry」を嫌い、歌うのを拒んだという話が伝わっている。2025年、日本での取材でこれを問われたジェフ・ダウンズは、話を少し戻している。レイクがこの曲をポップでストレート過ぎると言っていたのは事実だが、「拒否した」というほど強いものではなかった、というのである。当時の最新アルバムからのヒット・シングルでもあり、好きではないと言いながらも何回かは演奏していた、とダウンズは述べている。
1983年12月の来日公演が何本だったのかは、当時のビルボードが東京発で伝えている。日本での公演は四本。うち三本が日本武道館で、一本が大阪だった。同じ記事は、この四公演がその翌年に日本でライヴ盤になるかもしれない、とも書いている。
衛星中継された武道館公演の日付は、資料によって12月6日とも7日とも書かれている。これは食い違いではなく時差である。ビルボードの東京発リポートは、公演が「先週水曜(7日)」に滞りなく行われたと書いている。1983年12月7日は水曜、6日は火曜である。米国側の日付が6日、日本側が7日で、同じ一夜を指している。会場は満員の一万人で、その中にはMTVの懸賞に当たった人々もいた。
2022年のボックス・セットで初めて世に出た12月6日の武道館公演は、単なる前夜の公演ではなかった。ビルボードの当時のリポートによれば、この日の公演は予備として収録され、翌日の本番と同じ経路で送られている。技術面の総合リハーサルを兼ねたもので、同時に、生の回線に問題が起きた場合にMTVで流すための備えでもあった。つまり中継が失敗したときに放送されるはずだった一夜が、39年後に商品として世に出たことになる。
この中継は米国だけに向けたものではなかった。ビルボードが関係者として挙げているのは、ツアー主催のウドー音楽事務所、ソニー/PCL、マネージャーのブライアン・レイン、ウエストウッド・ワン、日本のテレビ局tvk、ヴェストロン・ビデオなど。そして日本国内でも放送されている。理由は制度の側にあった——日本の規制上、地元のテレビ局が番組の権利を持たないかぎり信号を茨城へ送れなかったため、放送できるようにする取り決めを急いでまとめる必要があった。ラジオでは285局が同時放送している。
1982年の日本盤LP『詠時感〜時へのロマン』の歌詞カードには、対訳について断り書きが印刷されていた。歌詞が抽象的であること、そして日本で聞き取りを行ったために、対訳の一部で意味が不明瞭になっている——そう了承を求める文言である。当時、英語の歌詞カードがレーベルから供給されず、日本側が耳で書き起こしていたことを、レコードが自ら明かしていることになる。三省堂のコラムでこの断り書きを紹介した泉山真奈美は、自身は輸入盤で聴いており、この日本盤の挿入物を目にしたのはずっと後だったと書いている。
デビュー作に『詠時感〜時へのロマン〜』という邦題を付けたのは、当時の日本での発売元だったソニーである。uDiscover Music Japan のコラムがそう述べている。筆者は東芝EMIで20年以上洋楽の仕事をしてきた森俊一郎で、原題は単に『Asia』であるところへ、日本側がこの題を「つけましたねえ」と書いている。
「詠時感」の三文字は、バンド名を漢字に当てたものである。ただし当て方は途中で破綻している。同じコラムの整理では、「詠」は「エイ」、「時」も「ジ」と読める。しかし「感」を「ア」と読む規則はどこにもない。それでも読者は、力技の雰囲気で三文字を一気に「エイジア」と読まされる、というのが筆者の説明である。
2026年7月3日、東京・お台場で行われたアメリカ独立250年の記念行事に、エイジアのメンバーが出演している。同じ舞台に立ったのはカンサス、REOスピードワゴン、サバイバーのメンバーで、そこへ林芳正総務大臣が上がり、ギターとコーラスで参加した。その映像が話題になった、と uDiscover Music Japan は伝えている。演奏された曲の一つが「Only Time Will Tell」——邦題「時へのロマン」だった。
ジェフ・ダウンズによれば、現在のエイジアで歌うハリー・ウィットリーが舞台で弾いているのは、ジョン・ウェットンがエイジアで使っていたベースそのものだという。2025年の来日前の取材で、そのベースを日本にも持っていくと彼は語っている。今の四人のうち三人はウェットンと共演の経験がある。ウィットリーだけは会う機会が無かったが、もし彼が歌うのを聴いたらジョンはきっと太鼓判を押しただろう、ともダウンズは述べている。
ウェットン側の公式伝記は、この結成の功績を年月とともに書き換えている。2010年から2012年にかけて保存されたウェットン自身のサイト johnwetton.com では、彼はブライアン・レインと手を組み、レインは新進のA&Rマンであるジョン・カロドナーおよびゲフィン・レコードと組んでバンドを編成しようとしており、「レインが理想の編成を見つけた」と書かれていた。2014年以降の版では同じ段落が組み替えられ、カロドナーがバンドを編成しようとし、「彼が理想の編成を見つけた」となる。現在の遺族による公式サイトではレインの名そのものが消え、主語はカロドナーとしか読めなくなっている。文章の残りの言い回しは三つの版を通してほぼそのままである。
1982年のデビュー作を包んだドラゴンについて、ロジャー・ディーンの公式サイトは依頼の中身をこう説明している。絵とロゴは、イエスに似ないものにすること。条件はそれだけで、しかも時間がほとんど無かった。楽しんでやりたかったので、答えとして出てきたのが非常に躍動的なドラゴンだった、という書き方である。
三作目『Astra』には、別の題名が先にあった。ロジャー・ディーンの公式サイトは、この絵が同名のエイジアのアルバムのために構想されたものだと述べたうえで、そのアルバムの最初の題名は『Innocence』だった、と書いている。絵の側の記録は1985年、アクリル、カンヴァス、72×48インチである。
『Aqua』という題名を出したのは、バンドでもレーベルでもなく、ジャケットを描いた画家である。ロドニー・マシューズの公式サイトによれば、エイジアはまだ題名の決まっていないアルバムについて彼に案を求めた。エイジアの慣例では、題名は一語で、前後をaで挟まれていなければならない。そこでマシューズは辞書をめくり、aquaという語を見つけてきた。水の感じと宇宙的な感じの両方を、という要望に応じて描いた七枚のうちから、ジェフ・ダウンズとジョン・ペインが彼のスタジオを訪れて一枚を選んでいる。
1980年代後半に止まっていたエイジアを引き戻したのは、新作の構想ではなく仕事の依頼だった。カール・パーマーの公式伝記によれば、1989年後半、ビーチ・ボーイズとのスタジアム公演に出ないかという誘いが来て、それがパーマーとジョン・ウェットンをエイジアの枠へ戻した。このときギターとキーボードはジョン・ヤングとアラン・ダービーという助っ人である。手応えを得たバンドはその秋にもう一本ツアーを組み、ジェフ・ダウンズを説得して呼び戻した。
1992年、ジョン・ペインがジェフ・ダウンズの招きでエイジアのフロントマンとなり、ジョン・ウェットンの後を継いだ。ペイン自身の公式サイトによれば、以後14年にわたってバンドは世界を回り、彼をフロントに8枚のスタジオ・アルバムと複数のライヴ盤を出した。この期は2006年、ダウンズが25周年のためにオリジナル編成を再結成すべく離れたことで終わる。
現在のエイジアは2023年の追悼公演から生まれた、と語られることが多い。ただし、その夜に演奏していたのは今の四人ではない。ウェットンの妻リサ・ウェットンの声明によれば、あの八月にダウンズが集めた顔ぶれによるエイジアの演奏は五時間に及ぶ夜の最後を飾る一幕で、ハリー・ウィットリーがリード・ヴォーカルとして外の世界に姿を見せた最初の機会だった。ドラムはジェイ・シェレン、ベースはビリー・シャーウッドである。ウィットリーがベースを兼ねるようになり、ヴァージル・ドナティがドラムに入るのは、その九ヶ月後の2024年のツアーからだった。
ペイン側が「ASIA Featuring John Payne」を名乗ることになった合意の日付は、同じ公式サイトの新旧二つの版で一年ずれている。現在のサイトは「2007年5月9日」、2011年に保存された旧サイト(theasiaband.com)は「2006年5月9日」。文面はそれ以外まったく同じで、五人が契約で合意しペインが14年の歩みを続ける、という一文である。流通している2006年という日付は、この旧公式サイトに遡る。
エイジアの公式サイトのディスコグラフィには、ジョン・ペイン期の作品が一枚も載っていない。2026年8月時点で並ぶのは、2026年の『Indigo』から1982年の『Asia』までの十四項目で、2005年の『Gold』の次はいきなり1990年の『Then & Now』へ飛ぶ。「Aura」も「Silent Nation」も、ページのどこにも出てこない。その十五年ほどの間に日本で最高位を記録したアルバムが二枚あることを思うと、この空白は目を引く。
2025年4月10日・11日・12日、エイジアはトレーディング・バウンダリーズで三夜連続の公演を行った。一夜に一枚ずつ、10日が『Asia』、11日が『Alpha』、12日が『Astra』——ゲフィン期の三部作を順に通して演奏し、各日それぞれのヒット曲も加える、という組み立てである。発表はダウンズ、ドナティ、ミッチェル、ウィットリーの連名で2024年12月19日に行われた。
エイジアの通算14作目となるスタジオ・アルバム『Indigo』は、2026年11月6日にフロンティアーズ・ミュージックから発売される。2014年の『Gravitas』以来12年ぶりの新作である。参加編成はジェフ・ダウンズ(キーボード)、ヴァージル・ドナティ(ドラム)、ジョン・ミッチェル(ギター)、ハリー・ウィットリー(ベース、リード・ヴォーカル)。
『Indigo』には二人のゲストがいる。創設メンバーのスティーヴ・ハウが「Chesapeake Bay」でアコースティック・ギターを弾き、ドリーム・シアターのマイク・ポートノイがボーナス・トラック「Tattoo Indigo (Part 3)」に参加している。ハウが弾いているこの曲は、ウェットンが生前に手を付けていた曲の一つでもある。なおカール・パーマーは、今回の作品には参加していない。
2025年6月19日、フロンティアーズ・ミュージックがエイジアとの契約を発表した。ダウンズはこれを「バンドにとってまさに帰郷だ」と表現し、ライヴ・アルバム、DVD、そして2026年の新しいスタジオ・アルバムという新章に入る、と述べている。フロンティアーズ副社長のマリオ・デ・リーゾは、この素晴らしい新編成のおかげでエイジアの新曲が実を結び得るようになった、と発表に寄せている。
オリジナル編成が2006年に再結成したことで、それまで15年近くエイジアを名乗ってきた側の扱いが問題になった。ジョン・ペインの公式サイトによれば、2007年5月9日、ペイン、ジェフ・ダウンズ、ジョン・ウェットン、カール・パーマー、スティーヴ・ハウの五人が契約により合意し、ペインは「ASIA Featuring John Payne」として14年の歩みを続けることになった。同サイトは、この名義でのツアーが2008年から北米で行われていると記している。
ウェットンの死後、エイジアは予定通りジャーニーとのアリーナ・ツアーへ出ている。ベースとリード・ヴォーカルを引き継いだのは、ウェットン自身が選んだ後継者とされるビリー・シャーウッドだった。ウェットンの遺族が運営する公式サイトによれば、このツアーではジャーニーのニール・ショーンが毎晩「Lights」を紹介する際に、会場全体に携帯電話をライトの状態に切り替えるよう呼びかけ、それをジョン・ウェットンへの追悼としていた。
2016年に『Phoenix』が再発されたとき、ボーナス・ディスクとして付いたのは2008年の米国盤そのものだった。理由はバンド自身が説明している。米国盤は冒頭の「Never Again」のミックスが異なり、全体のマスタリングも違っていた。そのせいで米国のファンはこのアルバムについて別の印象を持っているかもしれない——それを承知していたので、米国盤を丸ごと収録したのである。
エイジアを組んだのは誰か。マネージャーだったブライアン・レイン自身の説明はこうである。イエスとバグルスを一度の会合で失った翌日、スティーヴ・ハウとジェフ・ダウンズが彼のところへ突然やって来て、前日の件を詫び、イエスを離れたと告げた。そこでレインは「では新しいバンドを作ってみよう」と言った。彼はジョン・ウェットンと親しく——ウェットンの妻はレインの秘書だった——カール・パーマーを引き入れて、エイジアができた。そしてレインはこう付け加えている。これはすべて、おそらく史上最良のA&Rマンであるゲフィン・レコードのジョン・カロドナーの支援のもとに行われた、と。
「Heat Of The Moment」の始まりは、エイジアが存在するより前にある。ウェットンの説明では、書き始めたのは1980年、ウィッシュボーン・アッシュに在籍していた頃である。マイアミのクライテリア・スタジオで『Number The Brave』を録っており、毎晩、その日の録音が終わったあとも一人残って曲の断片を書いていた。この曲もその一つだった。相手については、彼はここで恋人のジルのために書いた、後に妻になった人だ、と述べている。ただし別の取材では、特定の一人ではなく二、三人を合わせた像だとも語っており、この点は本人の説明どうしが食い違ったままである。
「Heat Of The Moment」は全篇が謝罪である、とジョン・ウェットンは述べている。自分が間違えた、こんなことになるつもりはなかった、だから済まない——歌詞が言っているのは要するにそれだけだ、という説明である。2014年の取材で、彼はこの曲をそう要約した。
『Alpha』の「The Smile Has Left Your Eyes」を書かせたのは、同じバンドの人間の失恋である。ウェットンの説明では、ある女性をめぐってジェフ・ダウンズが感情的に完全に打ちのめされていた時期があり、自分はそれに強く重なるものを感じて、家に帰り、ピアノの前に座って五分でこの曲を書いた。心からそのまま出た曲があるとすればこれだ、と彼は述べている。
『Gravitas』は、危うく『Valkyrie』という題名になるところだった。バンドの会議でカール・パーマーが、ワルキューレでは女性的すぎる、強さが足りない、と反対したのである。ウェットンは同意しなかった。神話を見ればワルキューレのほうが男性の神々より力を持っている、というのが彼の言い分だった。それでも彼は引き下がり、次に取り組んでいる曲の題をアルバム名にしよう、と提案した。その曲が「Gravitas」だった。
「Gravitas」の冒頭に置かれたクラシック風の序奏「Lento」は、書こうとして書かれたものではない。ダウンズによれば、あのフレーズはもともと開演前のサウンドチェックで手ぐせのまま弾いていたものだった。それを聞きつけたウェットンが、今のはとても良いから忘れないでおいてくれ、と言った。ダウンズは音楽大学でマーラーやドビュッシーを学んでおり、その影響からあのフレーズが出てきたのだろうと述べている。
『Aqua』の冒頭で鳴っている海の音は、効果音ライブラリのものではない。録音はブライトンの海辺で行われており、ある晩バンドは実際に海へ下りて波を録っている。「Aqua Part 1」に入っているのがそれである。「Back in Town」の頭で走るハーレーダビッドソンも同様で、ブライトンのパブで知り合ったヘルズ・エンジェルスの一人に頼み、バイクを持ってきて通りを行き来してもらい、二本のマイクの間で録った。ジョン・ペインの回想である。
ウェットン脱退後の第一作『Aqua』には、スティーヴ・ハウとカール・パーマーが二人とも参加している。ただしリードとリズムのギターにはアル・ピトレリが起用され、アンソニー・グリンが追加のギターを入れ、ドラムにはサイモン・フィリップスとナイジェル・グロックラーも何曲かで叩いている。ペインの記憶では、サクソンのグロックラーが「Heaven on Earth」ほか数曲、フィリップスが「Back in Town」と「Love Under Fire」である。
エイジアには、アルバムの題名を「aで始まりaで終わる一語」にするという慣例があった。『Asia』『Alpha』『Astra』『Aqua』『Aria』『Arena』『Aura』——2004年まで、すべてその形である。それを破ったのが『Silent Nation』だった。日本の音楽メディアはこの新作を、これまでの「掟」を破った題名として紹介している。
2005年に発表された次作「Architect of Time」は、エイジアのアルバムとしては完成しなかった。ペインの説明によれば、彼とダウンズは次のエイジア作のために60曲ほどを書き、レーベルの全面的な後押しを得てベーシック・トラックの録音に入っていた。ところが間もなくオリジナル編成が再結成し、彼らは別の道を探さざるを得なくなった。この素材は後に、ペイン、ガスリー・ゴーヴァン、ジェイ・シェレンによるGPSへ流れ込んでいる。三人は書き溜めた曲の一部と新曲を組み直し、よりプログレッシヴで長い形へ練り直した。
2006年、オリジナルの四人は集まり直した。ウェットンによれば、会合はパディントンのホテルに設定されていた。問題の中心にいたのは自分とスティーヴ・ハウの二人で、彼はその二人を「主役、あるいは敵役」と呼んでいる。ところが運命のいたずらで、二人は先にロビーで鉢合わせした。何年も顔を合わせていなかった。抱き合い、エレベーターに乗る前にすべては終わっていた、というのが彼の言葉である。
ブラック・サバスの2013年作『13』でドラムを叩く話が、カール・パーマーには来ていた。トニー・アイオミがドラマーを探していた際に彼を推したのである。パーマーはこれを断っている。エイジアでツアーに出ていたためで、やりたかったができなかった、縁が無かった、と彼は述べている。同じ取材で彼は、自分は基本的にロック・ドラマーだがサバスのような純然たるギター・バンドに在籍したことは一度も無いとも語り、エイジアの音楽については「もう少し企業ロック寄りでメロディック」だったと表現している。
2024年7月に始まった北米ツアー「The Heat Of The Moment Tour」では、ロジャー・ディーンが全公演の司会を務めた。ジャケットを描いた画家が舞台に立って進行役をやるという座組みである。ツアーはエイジアがヘッドライナーで、FOCUS、マーティン・ターナー(元WISHBONE ASH)、CURVED AIRが出演し、7月3日から米国とカナダの21公演を回った。ダウンズは告知の締めくくりで、今年は辰年である、最初のエイジアのアルバムを出した1982年もそうだった、と述べている。
グレッグ・レイクのところへ話が来た経緯は、本人が具体的に語っている。ある晩カール・パーマーから電話があり、頼みがあると言われた。ジョン・ウェットンと決裂したところで歌う人間がおらず、公演はすでに押さえてある、二週間ほど日本で一緒にやってくれないか——という内容だった。いつなのかと訊くと、パーマーの答えは「三週間後」。レイクはこれをパーマーへの厚意として引き受けている。
デビュー作がビルボード200の首位にいた9週は、連続ではない。週ごとのチャートを追うと、1982年5月15日と22日で二週、そこでポール・マッカートニーの『Tug Of War』に三週間明け渡し、6月19日から7月31日まで七週続けて戻っている。合わせて九週。ビルボード自身のアーティスト別チャート履歴も「1位・9週」と記録している。
デビュー作の英国での最高位について、日本の資料には「14位で終わった」とするものがある。オフィシャル・チャート・カンパニーは11位とする。この二つは、実はどちらも実在の数字である。週ごとのチャートを追うと、初登場24位、翌週14位、その次の週に11位、続いて17位。14位は上昇の途中で一週だけ記録した順位であって、最高位ではなかった。最高位は11位である。
ウェットンがハウの追放を復帰の条件にした、という筋書きが流布している。しかしダウンズが2001年の取材で語った順序は違う。オリジナルの四人はいったん一緒に活動を再開しており、しばらくリハーサルを重ね、半ダースほどのデモも録っていた。その終わりにウェットンが、スティーヴ・ハウがいる状態では続けられない、と言い出したのだという。ハウ自身の公式サイトも、離脱は三作目のリハーサル中だったとしており、復帰前の取り決めではなく作業開始後の出来事という点で一致する。
40周年のツアーは、結局行われていない。2022年8月にアラン・パーソンズ・ライヴ・プロジェクトとの二枚看板として予定されたものが、パーソンズの手術のため2023年初頭へ延期された。ところが2023年2月の取材でカール・パーマーは、パーソンズの背中の手術のためにツアーは中止になった、主催者が一括での買い取りを望んでいたので代わりの予定も入れられず、連絡が来た時にはもう手遅れだった、そして今のところエイジアには録音もツアーも何も入っていない、と語っている。次に発表された全米ツアーは2024年7月のもので、編成も入れ替わっていた。なおバンド公式サイトは、この40周年ツアーの中止をコロナ禍によるものとしている。
2023年8月3日、東サセックスのトレーディング・バウンダリーズで「John Wetton: An Extraordinary Life」が開かれた。遺族とQEDGマネージメントによる事前告知に並ぶ出演者は、クリス・ブレイド、ロジャー・チャップマン、ジム・クリーガン、デヴィッド・クロス、ロジャー・ディーン、クリス・ディフォード、ジェフ・ダウンズ、スティーヴ・ハケット、アニー・ハズラム、デイヴ・キルミンスター、フィル・マンザネラ、ジョン・ミッチェル、マーティン・オーフォード、ガイ・プラット、ジェイ・シェレン、ビリー・シャーウッド、リック・ウェイクマン、ハリー・ウィットリー。ポール・グリーン・ロック・アカデミーが加わり、司会はProg誌のジェリー・ユーイングだった。当日の告知にはメル・コリンズとローリー・ワイズフィールドの名も加わっている。
1996年の『Arena』の冒頭に置かれたインストゥルメンタル「Into The Arena」には、日本のギタリスト布袋寅泰が関わっている。日本盤の商品情報に載る作曲クレジットは、ジェフリー・ダウンズ、ジョン・ペイン、エリオット・ランドール、そして布袋寅泰の四名。レーベル側の紹介文も、この曲に布袋が参加したことを日本のファンにとって誇らしい点として挙げている。
エイジアという名前をめぐる決着について、ペイン自身は法廷まで行っていないと述べている。2013年の取材での説明では、この件は裁判にはならず、弁護士の仲介で調停された。そうせざるを得ないのは悲しいことだが、感情を断ち切れるのは外部の力だけのこともある、と彼は言う。自分としては二つのバンドで並行して回っても構わなかったが、相手側はオリジナル編成に集中したがった、それは理解できる、とも述べている。なお同じ記事の書き手は前書きで「法廷闘争に勝った」という枠組みを用いており、それはペインの答えと食い違っている。
ジョン・ウェットンの生誕70年にあたる2019年6月12日、それまで誰も聴いたことのないエイジアのリハーサル録音が公開された。1981年6月12日、つまり誕生日と同じ日付に録られた、その場に居合わせたような性格の記録である。ボックス・セット『An Extraordinary Life』の予告として出されたもので、記事はこの断片がどの曲になったのかを問いとして残している。同じ日の前夜、エイジアはペンシルヴェニア州ベツレヘムでイエスの「Royal Affair Tour」の全米28公演を始めていた。
エイジアのライヴでは、ジェフ・ダウンズの前歴であるバグルスの「Video Killed The Radio Star」も演奏される。そのバグルスについて、ハンス・ジマーがメンバーだったという説をダウンズは否定している。ジマーはプログラミング担当だった、というのが本人の説明である。もともとダウンズとトレヴァー・ホーンはクロミウムという企画を組んでおり、そのプログラミングに起用したのがジマーで、そこからバグルスへ発展した。ジマーはエレクトリック・ティンパニのような音やシンセサイザーの音を作り、映像にも出演した。あのビデオでモーグのモジュラー・シンセを弾いているのが彼である。
2012年、デビュー30周年に合わせて出た箱には、ロジャー・ディーンが新たに描いた絵が使われた。1982年のジャケットにあった竜と真珠を、2012年——中国暦の壬辰、水の龍の年——に合わせて描き直したものである。箱の中身は、リマスターしたデビュー作と稀少なライヴ音源のCD二枚、分厚い歴史ブックレット、限定Tシャツ、1982年のツアーの品々、そしてドキュメンタリー『ASIA - 30 Years On』のDVDだった。
1982年のデビュー作は、ビルボード自身のチャート・データベース上でビルボード200の首位に立ち、その座を通算9週保っている。初登場は1982年4月3日付で28位、首位に届いたのは5月15日付。チャートに残った期間は64週である。
ジョン・ウェットンは2017年1月31日火曜の未明、長く勇敢な結腸癌との闘いの末に亡くなった。訃報は、彼が11年を超える断酒を大切にしており、同じ問題を抱える人々との集まりに時間を割いて自分の経験と力と希望を分かち合っていたことにも触れている。遺されたのは、直前に結婚した妻リサ、18歳の息子ディラン、兄弟のロバート、母のペギーだった。
2024年にダウンズが新しい編成を発表したとき、ダウンズ以外にオリジナル・メンバーがいないのだからエイジアを名乗るべきではない、という反発があった。これに対して、ウェットンの妻リサ・ウェットンが声明を出している。ダウンズ以外にバンド・メンバーがいないエイジアを否定するのは簡単だが、問題が一つある——ジョン・ウェットン自身は音楽が生き続けることを望んでおり、このツアーを承認していたはずだ、というのがその趣旨である。ジェフが先導する限り名前が残ることを彼は望んでいたはずで、名義の変更はその願いに反する。依然としてこれはエイジアである、と彼女は書いている。
2026年の『Indigo』は、十年以上前に始まった作業の続きである。ダウンズによれば、最初の作曲期間は2014年の『Gravitas』の後、2015年に始まった。彼とウェットンはもう一度スタジオへ入るつもりでアイデアを出し合っていた。その途中でウェットンが重い病に倒れ、計画は保留となり、続きを完成させる前に彼は亡くなった。この曲たちを仕上げないまま終わらせるのは惜しい、といつも思っていた、とダウンズは述べている。そして2023年の追悼公演が、彼を大きく後押しした。
日本盤のデビュー作は、曲名にも邦題が与えられている。ユニバーサル ミュージック・ジャパンが用いる表記は順に、ヒート・オブ・ザ・モーメント/時へのロマン/孤独のサヴァイヴァー/ワン・ステップ・クローサー/タイム・アゲイン/この夢の果てまで/ウィズアウト・ユー/流れのままに/ときめきの面影。九曲のうち五曲は原題の音をカタカナに移したものではなく、日本側で新たに付けられた言い回しになっている。
2022年、デビュー40周年に合わせて出た日本盤のデビュー作(UICY-40355、2022年1月26日)は、二つの時代の日本と米国を一枚に同居させている。紙ジャケットは米国初回盤LPをミニチュアで再現したもので、その外側に巻かれる帯は日本初回盤LPの意匠を再現している。音は米国オリジナル・アナログ・テープを基にした2010年のDSDマスターを352.8kHz/24bitへ変換したもので、生産限定。ボーナス・トラックは10曲目の「ライド・イージー」一曲である。
2022年1月26日、ユニバーサル ミュージック・ジャパンはデビュー40周年を機に四タイトルをハイレゾCDで再発した。『詠時感(エイジア)〜時へのロマン〜 +1』『ゼン・アンド・ナウ』『アストラ』『アルファ +2』の四枚で、いずれもMQA-CD/UHQCDの生産限定盤である。並べてみると、この四枚はゲフィン期とその直後だけで、ジョン・ペイン期の五作は一枚も入っていない。
同じ2022年のシリーズで、『アルファ』は「+2」として出ている。11曲目の「デイライト」と12曲目の「ライイング・トゥ・ユアセルフ」が加わったもので、後者はスティーヴ・ハウが『Alpha』の制作で唯一クレジットされ、アルバム本体からは外れた曲である。音源は米国オリジナル・アナログ・テープを基にした2014年のDSDマスターで、デビュー作の2010年マスターとは年代が違う。
『Axis XXX Live In San Francisco』の日本盤には、日本で撮られた映像が加わっている。2012年9月25日、東京・渋谷公会堂での「時へのロマン」「孤独のサヴァイヴァー」「ヒート・オブ・ザ・モーメント」の三曲である。日本盤の発売は2015年7月1日で、国際盤より早い。
2026年のライヴ盤『Asia - Live In England』でも、日本盤だけが違う。「デイライト」は国際盤では映像特典としてのみ収録されているが、日本盤CDでは13曲目の音源として入っている。同じ演奏が、盤によって聴けたり見るだけだったりする。
『ASIA IN ASIA 1983』のボックスは、日本で2022年5月27日に先行発売された。海外盤は6月10日で、二週間の差がある。日本での公演を収めた作品が、日本で先に出た形である。
1983年の初来日の直前に何が起きたかについて、言い方は出典によって違う。日本のレーベル、ワードレコーズの特設ページは端的で、来日公演が実現する直前にジョン・ウェットンが解雇されるという事故が起き、バンドはグレッグ・レイクを加入させて日本へ来た、と書いている。一方、バンド自身の公式サイトは同じ出来事を「1983年12月に一時的に離脱していた」と表現する。ウェットン本人は後年、自分は追い出されたのだと語っている。
『Indigo』は2026年11月6日の世界同時発売である。日本盤の規格番号はCDが GQCS-91792、CD+ブルーレイ・オーディオ(ドルビー・アトモス)が GQCS-91793〜4、2LPが GQJS-90012〜3。これに加えて、ジェフ・ダウンズ直筆サイン入りカードが付く通信販売限定の WRDZX-332 がある。
『Indigo』の日本盤には、他のどの盤にも入っていない曲が一つ加わる。17曲目の「チェサピーク・ベイ (feat. ジョン・ミッチェル)」で、国際盤でスティーヴ・ハウが弾いている同じ曲の、ミッチェルによる別ヴァージョンである。日本盤には日本語解説書と歌詞対訳が付き、発売は世界同時の2026年11月6日。
『Indigo』のアナログ盤には、日本だけの仕様がある。完全日本国内生産、日本限定のウルトラ・クリア・カラーで、カッティングも国内、プレスはソニー・ミュージックソリューションズ大井川プロダクションセンター。国際市場向けにフロンティアーズが出すブラック、ゴールド、スプラッター等の各色とは別の盤である。
『Omega』は、日本盤と世界盤で曲目そのものが違う。バンド公式サイトのディスコグラフィは両者を並べて掲げており、世界盤に入っている「Emily」が日本盤には無く、代わりに「Drop a Stone」が入っている。この曲は他のどの版にも載っていない。
『Phoenix』のアコースティック・ボーナス・トラックは地域ごとに違っていた。バンド公式サイトのディスコグラフィによれば、ヨーロッパ限定盤には「An Extraordinary Life」、日本盤には「I Will Remember You」が入っている。
『Gravitas』の日本盤は2014年3月19日、国際盤より先に出ている。日本限定のボーナス・トラックは12曲目の「ロシアン・ドールズ(アコースティック ヴァージョン)」。初回限定盤のCDに付く10曲目・11曲目のアコースティック二曲は日本限定ではなく、この12曲目だけが日本盤固有である。
『Silent Nation』の日本盤は2004年9月22日、ビクターから VICP-62852 として出ている。11曲目に日本盤ボーナス・トラック「RISE」が入り、解説書と歌詞対訳が付いた。なお米国で予定されていたDVD付きの限定盤は、日本では発売されないことが事前に告知されている。
衛星生中継の当日、カール・パーマーは楽しむどころではなかった。英紙 Daily Star に語ったところでは、今から振り返るのはいいが当時はとても恐ろしかった、失敗する可能性はあった、衛星の信号が正しく送受信できなくなるかもしれないと考えていた。何が起きるだろうという不安ばかりで神経がすり減った、とも述べている。
その日本盤LPは当時2,500円した。輸入盤より高い値段である。しかもこの1982年のライナーノーツと歌詞・対訳は、後にCD化されたときの日本盤にもそのまま流用された。断り書きの付いた対訳が、そのまま次の世代の規格へ持ち越されたことになる。
2008年の来日公演で追加された5月13日の渋谷C.C.Lemonホール公演は、二部構成の特別な内容として告知された。第一部は新曲とヒット曲に加えて、ジェフ・ダウンズ、スティーヴ・ハウ、カール・パーマー、ジョン・ウェットンそれぞれのキャリアを彩った曲——つまりバグルス、イエス、EL&P、キング・クリムゾンの曲を演奏する。そして第二部は、デビュー作『詠時感(エイジア)〜時へのロマン』の完全再現だった。
その来日公演では、バグルスの「ラジオスターの悲劇」も演奏されている。原曲の特徴的な加工された声は、エフェクターではなく、メガホン型のハンドマイクを使って再現された。2008年5月12日、東京国際フォーラム ホールAのリポートに記録が残っている。
5月12日と13日の東京二公演は、看板の上では別物だった。13日はメンバーの元バンドの曲+デビュー作完全再現として告知されていたからである。ところが実際には、元バンドの曲の選び方はほぼ同じだった。違ったのは一箇所、スティーヴ・ハウのアコースティック・ギターのソロで、東京国際フォーラムでは「The Clap」、C.C.Lemonホールでは「Mood for a Day」が演奏された。
2011年4月、東日本大震災の翌月に、BARKS はジョン・ウェットンから日本へ宛てたメッセージを掲載している。四月に皆さんに会うのを楽しみにしている、神のご加護がありますように、という短い言葉だった。メッセージはミュージック・ペンクラブ・ジャパンとウドー音楽事務所の協力で集められたものである。
2012年9月、オリジナル編成のエイジアが来日した折の取材現場を、BARKS の山崎智之が記している。テレビ収録のため四人が一つのソファに座ることになっていたが、まずジョン・ウェットンとジェフ・ダウンズが現れて腰を下ろした時点で、ソファの三分の二が埋まった。その後に細身のハウとパーマーが来て、四人はどうにか収まったという。
邦題の後半「時へのロマン」は、このアルバムのために作られた言葉ではない。セカンド・シングル「Only Time Will Tell」に先に与えられていた邦題である。つまり日本盤の題は、バンド名の当て字とシングルの邦題を繋いだものだった。同じコラムは、ゲフィン期のカタログがワーナー・パイオニアを経てユニバーサルへ移った後も、この邦題が引き継がれていることを指摘している。
『Aria』の日本盤には、曲名にも詩的な邦題が付いている。「最期の夏」(Summer)、「TOWA NO TOKI〜永遠の瞬間」(Remembrance Day)、「時空の戦士」(Military Man)、そして表題曲の「天空のアリア」。2012年の紙ジャケット盤では、ボーナス・トラックとして「リアリティー」と、2003年のアコースティック・ライヴによる「時空の戦士」が加えられた。
デビュー作の邦題の作り方は、後の作品にも尾を引いている。オリコンの記録では、2012年の『XXX』は日本で『XXX〜ロマンへの回帰』(2012年6月20日、最高36位、5週)、2014年の『Gravitas』は『グラヴィタス〜荘厳なる刻』(2014年3月19日、最高42位、4週)として出ている。原題に日本語の副題を「〜」で継ぎ足す形は、1982年の『詠時感〜時へのロマン〜』と同じである。
2012年9月19日、ソニー・ミュージックジャパンインターナショナルはジョン・ペイン期の作品を、日本で初めて紙ジャケット仕様で再発した。Blu-spec CD、2010年の最新デジタル・リマスター、新規書き下ろしの解説と歌詞対訳付き。理由として挙げられていたのはエイジアの30周年と来日公演である。『Aqua』の日本盤にはボーナス・トラックが3曲加わった——「とりつかれて」と、1992年のライヴによる「リトル・リッチ・ボーイ」「ラヴ・アンダー・ファイアー」である。
2012年9月25日、エイジアは30周年の『XXX』ツアーで渋谷公会堂に立っている。この夜の三曲——「時へのロマン」「孤独のサヴァイヴァー」「ヒート・オブ・ザ・モーメント」——は、BSフジの「伊藤政則のロックナイト!エイジア特集」のために撮影されたものだった。その映像は後に再編集され、『Axis XXX Live In San Francisco』の日本盤に、三曲ともフルの形でボーナスとして収められた。
オリジナル編成が再結成して初めて日本を回ったのは2007年3月、結成から25年目のことだった。主催はウドー音楽事務所。日程は3月4日 愛知県勤労会館、5日 大阪厚生年金会館大ホール、7日・8日 東京厚生年金会館、10日・11日 渋谷C.C.Lemonホール。加えて9日の渋谷公演が追加されている。
オリジナル編成の再結成ツアーが日本へ来る前に、ウェットンとダウンズは二人組として来日している。2006年10月、アイコン名義での公演で、24日 原宿アストロホール、25日 名古屋ブルーノート、26日 大阪ブルーノート。二作目『ルビコン』は日本先行で発売された。
2025年4月の来日公演「Heat of the Moment JAPAN Tour 2025」は、ビルボードライブ大阪(4月15日・16日)とビルボードライブ東京(4月18日・19日)の四日間で、各日1stステージと2ndステージの二回公演だった。バンドが「日本での8公演」と呼んでいるのは、この四日×二回のことである。
2013年にブルガリアのプロヴディフでオーケストラと共演した公演を収めた『シンフォニア〜ライヴ・イン・ブルガリア 2013』は、2017年2月10日に日本先行で発売された。日本盤には日本語解説書と日本語字幕が付き、日本盤限定のボーナス・トラックとして、2014年10月19日カリフォルニアのザ・キャニオン・クラブ公演からの「ワルキューレ」が収められている。発売はウェットンの死の直後だった。
ディーンの公式サイトは、イエスの『Relayer』とエイジアの『Alpha』を並べて、張った紙に「描いた」時代の頂点にあたる二枚だとしている。彼が大きなカラー作品を、紙ではなくカンヴァス(多くはリネン)へ直接描く方式へ移る前の到達点、という位置付けである。
『Astra』の絵に描かれているものが何なのかは、ディーンの店の記述が答えている。プリントの説明はこの絵を「The Asia Astra Robot」と呼んでいる。カタログ側の作品名は単に「ASTRA」なので、被写体の呼び名としてはこちらのほうが具体的である。
マシューズにとってエイジアの仕事は二度目が『Arena』だった。彼のサイトによれば、ジェフ・ダウンズからの注文ははっきりしていて、肯定と否定、善と悪が向かい合う場面を、というものだった。何枚か下描きをしたが手応えが無く、採用された案でようやく的に当たった。この構図なら核のマークを大きく扱い、それを頭蓋骨へ変えることができた。チェルノブイリ以来、原子力を使うことの危うさについて彼の懸念は強まっている、と記述は続く。選んだのはダウンズとジョン・ペインである。
現在のエイジアが生まれた場所と、ジャケットが描かれてきた場所は、同じ建物の中にある。2023年8月3日にジェフ・ダウンズがジョン・ウェットンの追悼公演を開いた東サセックスの会場トレーディング・バウンダリーズには、ロジャー・ディーンのアトリエが同居している。バンド自身の公式サイトは、これを偶然だと書いている。
2026年の『Indigo』の先行曲「The Traveller (Into The Light)」は、ダウンズとハリー・ウィットリーが最も早い段階のアイデアの一つとして書き始め、自然にまとまっていった曲だという。ダウンズはこれを、プログレッシヴな仕掛けをいくらか持ちながら、初期からエイジアの signature であり続けた分かりやすいコーラスの塊は手放さない曲だと説明している。歌詞の主題は未来へ目を向けること、そして「光の中へ」旅することである。
ダウンズの側から見ると、復帰の引き金はツアーではなくレーベルだった。彼の公式伝記によれば、ウェットンとパーマーが何人ものギタリストと新しいキーボード奏者ジョン・ヤングを連れてヨーロッパの一部を回っていたが、自分が呼び戻されたのは、ゲフィンが本腰を入れて新しいベスト盤『Then And Now』の発売を認めたときだった。
1990年前後のエイジアは、新作への関心を作るために激しく動いている。パーマーの公式伝記はこの時期のギタリストをパット・スロールとし、ドイツ、英国、日本、ブラジル、ロシアで成功したツアーを行ったと記す。とりわけロシア公演はバンドの歴史の中でも一つの頂点で、CDと映像作品『Asia Live in Moscow』として残された。
この編成も長くは続かなかった。カール・パーマーの公式伝記によれば、1991年に新しいアルバムを書き始めようという段になってジョン・ウェットンが脱退を決め、パーマーはキース・エマーソン、グレッグ・レイクとELPを再結成する機会に飛びついた。ウェットン自身の公式サイトの言い方は違っていて、80年代の終わりにバンドはまだ好調だったものの音が疲れて聞こえ、自分は休みたかった、としている。
そのハウの参加は、復帰ではない。彼の公式サイトは1990年代の項で、ダウンズからアルバムへの参加を招かれ、バンドとは「スペシャル・ゲスト・アーティスト」としてツアーを回った、と記している。メンバーとして戻ったのではなく、客演としての関わりだった。
『Aqua』のワールド・ツアーは、ヒットした「Who Will Stop The Rain」を軸に、スティーヴ・ハウを迎えて回っている。ダウンズの公式伝記によれば、そのツアーが終わるとハウはソロの仕事へ戻り、ダウンズとペインは1994年の『Aria』を、ギターにアル・ピトレリ、ドラムにマイケル・スタージスを迎えて作った。
1996年の『Arena』を、ダウンズとペインはマネージメント無しで作っている。ダウンズの公式伝記の一文は短い——二人はマネージメントを付けずに続け、1996年に『Arena』を作った。
『Arena』のジャケットに描かれた獅子と大蛇は、アルバムの主題をそのまま図にしたものである。ダウンズは、このアルバムには多くの葛藤がある、とりわけジャケットで闘技場の両端に置かれた獅子と蛇にそれが出ている、と説明している。そして最後の曲「Bella Nova」は、その後で何か気持ちの晴れるもので終わりたかったから置いた、とも述べている。
『Arena』には支援ツアーが一本も付かなかった。ダウンズの公式伝記によれば、それに加えてオリジナル編成でのツアーを再結成しようという試みも失敗し、彼はエイジアを一旦棚上げして、1999年に自身のソロ作『The World Service』を出した。
武道館でウェットンの代役を務めたレイクについて、カール・パーマーは後にこう述べている。ジョンの立場に飛び込んで見事にやってのけた、歌う曲があれだけあったのに実にうまくこなした、印象的だった、と。2022年、当時の音源がボックス・セットとして出るときの公式発表での発言である。
武道館の舞台装置について、ジェフ・ダウンズは、直前の全米ツアーで使っていたのと同じ「Aフレーム」型のステージだったと述べている。壮大で贅沢な催しで、クルー、照明デザイナー、カメラマン、バック・シンガーと、背後には相当な人数がいた。最後にはうまくやり遂げたと思う、というのが彼の総括である。
スティーヴ・ハウはこの公演を「重要な世界規模の約束」と呼び、だからこそ自分たちはその場に応えなければならなかった、そしてグレッグの助けで応えられた、彼なしには絶対に無理だった、と述べている。
再結成の日付は特定されている。2006年1月6日、オリジナル・メンバーの四人がロンドンのホテルの一室に集まり、復帰の計画を立てた。バンド公式サイトによれば、狙いは1981年の結成から25年を祝って世界を回り、デビュー作を丸ごと演奏することだった。
2017年2月のクルーズ・トゥ・ジ・エッジに、エイジアは出演することになっていなかった。同クルーズの公式サイトの出演者一覧に載っているのはジョン・ウェットン個人であって、バンドとしてのエイジアではない。ウェットン自身の声明も、ビリー・シャーウッドが代役を務めるのはジャーニーとの12公演についてだと明記している。ウェットンは出航の一週間前に亡くなった。
ハリー・ウィットリーは1995年、北ウェールズのレクサム近郊の生まれである。エイジアとジョン・ウェットンの音楽を教えたのは、かつての恩師であり友人でもあるティモシー・ジョーンズだった。バンドに加わったとき、彼はまだ二十代である。
ウェットンの死後、新録をエイジア名義で出すことはなくなったが、「ASIA Featuring John Payne」という名前そのものが消えたわけではない。新しい録音はデュークス・オブ・ジ・オリエントへ移った一方、ライヴ活動は途切れずに続いており、公式サイトは2027年までの日程を告知している。
『Indigo』の曲数は、聴く形によって変わる。フロンティアーズの商品情報では、CDとアナログ盤は三部構成の「Tattoo Indigo」を一トラックとして扱うため、本編13曲+ボーナスという構成になる。一方、配信版は Part 1 から Part 3 までを別々に立てるので16トラックになる。2枚組アナログではこの組曲がB面の締めに置かれ、ポートノイ参加のボーナス・トラックがD面の最後に来る。
フロンティアーズは『Indigo』を、少なくとも七つの形態で出している。CD(FRCD1602)、CD+ブルーレイのドルビー・アトモス仕様デジパック(FRCDBR1602)、黒の2LP(FRLP1602)、金の2LP(FRLP1602GO)、赤青スプラッターの2LP(FRLP1602RBS)、「KiTalbum」(FRKIT1602)、そしてアナログのテスト・プレス(FRLP1602TP)である。これに日本盤の四形態が加わる。
2019年、イエスの「Royal Affair Tour」にエイジアが同行したとき、スティーヴ・ハウは毎晩エイジアの舞台に上がっている。バンド代表曲を数曲演奏し、友人ジョン・ウェットンを追悼するためである。公式発表によれば、ハウがエイジアと共演するのは脱退以来初めてのことだった。
その2019年の編成でギターとリード・ヴォーカルを務めたのが、元ガンズ・アンド・ローゼズのロン“バンブルフット”サールである。公式発表によれば、誘ったのはカール・パーマーとジェフ・ダウンズの両方で、きっかけはダウンズが The Platinum Rock All Stars という企画で彼と共演していたことだった。ダウンズはサールを、驚くほど革新的なギタリストで音域の広いリード・ヴォーカルもこなす人物と評し、バンドの持ち曲にまったく新しい次元が加わるだろうと述べている。
スティーヴ・ハウの後任として2013年に加入し、『Gravitas』を弾いたサム・コールソンは、2018年にバンドを離れている。ソロの活動に集中するためで、五年間の貢献に対する感謝がバンドから表明された。
2012年の『XXX』(トリプル・エックスと読む)は、フロンティアーズ・レコードから7月3日に発売された。プロデュースはマイク・パクスマン、ジャケットはロジャー・ディーンの新作である。先行シングル「Face On The Bridge」は5月14日に世界同時で出ている。
2013年1月10日、エイジアはサム・コールソンの加入と同時に、次のスタジオ作の題名も発表している。『Valkyrie』である。フロンティアーズ・レコードのために2013年中に録音する、という内容だった。実際に2014年に出たアルバムの題は『Gravitas』で、「Valkyrie」はその一曲目になっている。
2011年のライヴ作品『Spirit Of The Night』のDVDには、興味深い映像が付いている。キング・クリムゾンの創設メンバーであるイアン・マクドナルドが参加した「In The Court Of The Crimson King」の演奏である。フロンティアーズの発表によれば、CDは13曲で、「Fanfare For The Common Man」はCDのみの収録、「Midnight Sun」がボーナス・トラック。DVDは85分の本編に加えてEPKなどの特典を収めている。
ライヴ作品『Resonance – The Omega Tour』は、2010年5月4日のスイス・バーゼル公演を収めている。オリジナル編成の四人による『Omega』ワールド・ツアーの一夜で、北米は11月27日、ヨーロッパは11月23日の発売だった。
その三夜はすべて録音・撮影されており、一夜ずつライヴ作品になる予定である。第一夜、つまりデビュー作を通して演奏した日が『Asia – Live In England』として2026年3月13日にフロンティアーズから出た。バンドはこれを三部作の一枚目と位置付けており、『Alpha』の夜と『Astra』の夜が続く。
2021年12月3日、BMGから10枚組のボックス『The Official Live Bootlegs Volume 1』が出ている。オリジナル編成による完全な五公演を2枚組×5で収めたもので、内訳は1982年バッファロー、1983年ウスター(いずれも米国)、2007年サンパウロ、2008年東京、2010年ロンドン。同じ年の4月に出たスタジオ作の5枚組ボックスに続くものである。
2021年6月11日にBMGから出た5枚組ボックス『The Reunion Albums: 2007–2012』は、2枚組の『Fantasia, Live In Tokyo』に『Phoenix』『Omega』『XXX』を組み合わせたものである。デザインは、これらのアルバムのジャケットをすべて手掛けたロジャー・ディーン。ボックスの表に使われた絵はそれまで未使用のもので、『Fantasia』のスリーヴもディーンが手を入れ直している。
2021年、エイジアはBMGと契約し、再結成期の作品を40周年の2022年に向けて再発することを決めている。対象は『Phoenix』『Omega』『Fantasia: Live In Tokyo』『XXX』と、サム・コールソンが参加した『Gravitas』。同じ発表の中で、1983年の衛星生中継を収めた『ASIA In Asia』のボックス・セットも計画として挙げられている。
2022年に出た『Asia In Asia: Live at the Budokan, Tokyo, 1983』のデラックス・ボックスの中身を、バンド自身が公式チャンネルで紹介している。カラー2LP、2枚組CD(MTV衛星中継の公演と、その前夜の公演)、リミックスされた音源、未発表曲、メンバーの新しいコメントを収めた40ページ・12インチの書籍、ブルーレイの映像、印刷された記念品、そして「Asia」のピン・バッジ。
『Indigo』は2025年を通して録音され、プロデュースはダウンズとバンド自身が担当した。ミックスとマスタリングはギターのジョン・ミッチェルが手掛けている。演奏、制作、仕上げまでを、外部を入れずにバンドの内側で回した作りである。
『Indigo』の後の予定について、フロンティアーズの商品ページはバンド自身の発表よりも踏み込んでいる。米国・日本・ヨーロッパでのライヴ活動の再燃を受けて、2026年後半に北米ツアー、2027年初頭にヨーロッパ公演が計画されている、という記述である。ただし具体的な日程も都市名も挙げられていない。
ジョン・ウェットンの病気が公になったのは2015年5月25日、バンドの公式声明によってである。5月16日に手術を受け、1キロの悪性腫瘍の摘出に成功した、という内容だった。同じ年の8月、バンドは彼自身の言葉を伝えている。明日から化学療法を始める、癌の進行は速いので、定期的に検査を受けてほしい——そう呼びかけるものだった。
2017年1月11日、ウェットンは自身の声明を出している。新しい化学療法の処置のために飛行機に乗れなくなるため、クルーズ・トゥ・ジ・エッジと、ジャーニーとのツアーの第一脚(3月15日〜4月4日)を欠席する、という内容だった。友人のビリー・シャーウッドがエイジアの中で自分の代わりを務め、最初の12公演のあいだ席を温めておいてくれる、と彼は書いている。歴史的なツアーになると分かっているものの出だしを逃すのは残念だが、2017年の後半にはエイジアと共に舞台へ戻るつもりだ——署名はボーンマスから。三週間後、彼は亡くなった。
バンドが出した訃報の中で、カール・パーマーはウェットンの二つの闘いを並べて書いている。アルコール依存を克服したことは、同じ闘いをしている多くの人にとっての励みだった。そして彼を知り共に働いた者にとっては、癌との勇敢な闘いがさらなる励みだった、と。その才能とユーモアと人を巻き込む笑顔が恋しい、と続けたあと、パーマーは彼を送り出す言葉に、バンド自身の曲の題を借りている——安らかに、旧友よ。
現在のエイジアに、残る二人のオリジナル・メンバーがいない理由は、バンド自身の公式サイトに書かれている。スティーヴ・ハウはイエスの舵を取り続けており、カール・パーマーは「An Evening With Emerson, Lake & Palmer」で世界を回っている。そこでダウンズが、新しい時代のためにエイジアを構想し直すことになった、という説明である。ジョン・ミッチェルとハリー・ウィットリーに、2013年から2015年までUKの一員としてウェットンとツアーを回ったヴァージル・ドナティが加わって四人になった。
新しい編成の二人は、どちらもウェットンと直接の縁がある。ジョン・ミッチェルはウェットン/ダウンズの別企画アイコンの創設メンバーで、最初の二枚のスタジオ作に参加し、長年ウェットン自身のライヴ・バンドの一員でもあった。ヴァージル・ドナティは2013年から2015年にかけて、UKの一員としてウェットンとツアーを回っている。
その2016年の再発は、バンド自身が持つレーベルから出ている。ASIA Music Ltd という自社レーベルで、流通はチェリー・レッド。オリジナル・メンバー四人の連名による発表だった。自社レーベルであるため、ディスクが一枚増えたぶんの卸値の上昇を最小限に抑えられた、と発表は述べている。
バンド名を大陸の名前にすることを言い出したのは、当時のマネージャー、ブライアン・レインだった。BARKS の追悼記事がそう伝えている。四人の経歴からすればいくらでも重い名前が付き得たところに、実際に選ばれたのは、地図の上にある一語だった。
「スーパーグループ」という呼び方を、ジョン・ウェットンは受け入れていない。自分たちはその言葉を一度も使っていない、あれはレコード会社がこのバンドを売るために都合よく貼った札で、こちらが考える間もなくアメリカ中のDJが使い始めた——ウェットンはそう述べている。そのうえで彼は、四つのエゴを一つの瓶に詰めたのだから、いずれ何かが弾けるのは時間の問題だった、と続けている。2010年の取材での発言である。
レコード会社の会議室で組み立てられたバンドだ、という見方に対して、ウェットンは工程を数えて反論している。シェパーズ・ブッシュの狭いホールで半年リハーサルをやり、そのあとさらに半年かけてレコードを作った。四人のスターがスタジオへふらりと現れて電話で追加録音を済ませたわけではない、というのが彼の言い分である。
このバンドに至る糸は、結成の五年前に始まっている。ウェットンがまだロキシー・ミュージックに在籍していた1976年、サンタモニカ・シビックでの公演のあと、楽屋に見慣れない男が現れ、ブライアン・フェリーのバックを弾くのがお前の運命ではないだろう、という趣旨のことを浴びせた。これがジョン・カロドナー——当時はロキシーのレーベルであるアトランティックでAOR西海岸部門を率いていた人物で、後にゲフィン・レコードでエイジアを手掛けることになる。
エイジアは四人組として知られているが、当初の設計図は五人組だった。ジェフ・ダウンズによれば、それがレコード会社の望みで、一時ジャーニーに在籍していたロバート・フライシュマンをオーディションし、トレヴァー・ラビンも訪ねてきた。ラビンが加わらなかった理由をダウンズは、スティーヴ・ハウが二人目のギタリストを喜ばなかっただろうから、と説明している。そして「もう一人」を探している間、歌っていたのはウェットンだった。結局それでいいということになり、四人のまま進んだ。なお別の記事は「ラビンは短期間メンバーだった」と書いており、この点は食い違ったままである。
その五人目候補は、オーディションだけで終わったのではない。ロバート・フライシュマンは実際にスタジオまで来てバンドに合流している。ダウンズの説明では、リハーサルで歌の面をリードしていたのはウェットンだった。そこで四人でいい、ということになり、フライシュマンは帰された。
ギタリストを二人置く案が検討されていた時期があり、カール・パーマーは同郷ミッドランズのロイ・ウッド(ザ・ムーヴ)を初期のリハーサルに呼んでいる。ウッドは左右で色の違う靴を履いて現れ、ウォッカを一瓶空け、スティーヴ・ハウに向かって「もっと気取ったフレーズを弾けよ」と言い続けた。それでも、進めなかった理由としてパーマーが挙げているのは酒でも靴でもなく、バンドは人間関係の面ですでに十分固まっていた、ということである。
契約先が決まる場面には、ヴァージンのリチャード・ブランソンが登場する。ダウンズの回想では、ある日のリハーサルにブランソンがヴァージンの一行六人ほどを従えて一列で入ってきて、何曲か聴き、英国とヨーロッパの権利に対しておよそ6万ドルをマネージャーのブライアン・レインに提示した。レインはこれを話にならない額と見なし、世界権に対して大きな条件を出したゲフィンが持っていった。
ダウンズは、エイジアが新興のゲフィン・レコードにとって最初に契約したバンドだったと語っている。それ以前にレーベルが出していたのはジョン・レノンのソロ作とサイモン&ガーファンクルのライヴ盤で、つまりバンドとの契約はエイジアが一組目だった、という説明である。デヴィッド・ゲフィンには証明すべきことがあり、だから手加減は無かった、と彼は続けている。
デビュー作のプロデューサー選びでは、ボブ・エズリンやジミー・アイオヴィンとも会っている。アイオヴィンは、君たちは自分でやれる、と正直に伝えたという。最終的にマイク・ストーンの名を出したのはカロドナーだった。ストーンはクイーンの録音技師を務めた人物で、前年にはジャーニーの『Escape』を共同プロデュースしている。
デビュー作の録音は1981年の夏から秋にかけて、ロンドン西部の二つのスタジオで行われた。リチャード・ブランソンのタウンハウス・スタジオと、マーカス・スタジオである。ウェットン、ダウンズ、ハウ、パーマーによる曲作りが始まったのは、それとは別のノミス・スタジオだった。
ウェットンとダウンズを結び付けたものの一つに、英国の教会音楽がある。ウェットンは、兄が聖歌隊の指揮者でありオルガン奏者であり、自分はその音楽を聴いて育ったと述べている。ダウンズの側は、英国の教会音楽こそエイジアのサウンドの土台であり、あの讃美歌のようなコード進行はそこから来ていると言い切っている。
「Heat Of The Moment」が短時間で仕上がったという話は、二つの半分が既に出来ていたことを踏まえないと意味が取れない。ダウンズの説明では、ウェットンはレコードに収まったのとは違う拍子のコーラスを持っており、自分にはヴァースがあった。その二つを繋いだのが一度の短い作業で、中間部はその翌日に書いた。元の拍子について、ウェットンは自分のコーラスを6/8だったと言い、カントリーの曲としてよく出来たはずだと笑っている。一方ダウンズは2025年の発表で3/4と述べており、数字は一致していない。ダウンズ自身も2018年の取材では数字を挙げず「違う拍子」とだけ言っていた。
ドラゴンという着想の出方について、ディーン自身はもっと素っ気なく語っている。スタジオでバンドと会ったとき、机の上にはデザイン案が並んでいたが、どれも彼らの気に入らなかった。そこでディーンは、イエスとまったく似ないものなら作れる、たとえばドラゴンのようなものを描く、と言った。自分はドラゴンそのものを提案していたわけではなく、違うものを描くのは難しいことではないと言っただけだ、と彼は断っている。ロゴについても同じ理屈で、角の立った書体ならイエスのロゴとは別物になる、と。
そのディーンの起用に、最初から賛成していなかったメンバーがいる。カール・パーマーである。ブライアン・レインとスティーヴ・ハウは初めからディーンを望んでいたが、自分はそうでもなかった、とパーマーは認めている。理由はELPが長年ディーンについて抱いていた見方で、腕は確かだが少しやり過ぎではないか、というものだった。最終的には説得された、と彼は述べている。
ジャケットの絵と歌詞のあいだに、打ち合わせのない一致がある。ディーンの絵は、鱗に覆われた海の竜が水面から立ち上がり、知恵の真珠を追う姿を描いている。Louder によれば、ウェットンが真珠と竜の翼を題材にした歌詞を書いたのは、バンドがその絵を初めて見たまさにその日だった。どちらが先でもなく、別々にたどり着いた符合だった、というのがこの記事の書き方である。
そのジャケットとロゴを、レーベルは歓迎しなかった。ディーンによれば、ゲフィンが最初にロゴを見たときの反応はにべもなく、絵も気に入られなかった。ずっと後になってウェットンがディーンに語ったところでは、アルバムを納品したとき、ゲフィンの最高責任者が彼の肩に腕を回してこう言ったという——誰にも読めないロゴがあり、暗すぎるジャケットがあり、そしてヒット・シングルが聞こえてこない、と。
二作目『Alpha』のジャケットについて、ディーンはほぼ自由にやらせてもらったと述べている。ただしバンドとは話をしていて、メンバーがそれぞれまったく違う考えを持っていたので、それらをいたずら心で一枚の絵の中に取り込んだ、というのが彼の説明である。どの案が誰のもので、絵のどこになったのかは語られていない。
『Astra』のロゴには、使われなかった兄弟がいる。ディーンを取り扱うギャラリーの作品記録によれば、彼は題名が確定する前に、同じ書体で複数の別の単語を描いている。記録に挙がっているのは「ACADAMIA」と「ARCADIA」である。つまりあの書体は、結局アルバムの題名にならなかった候補のために先に用意されていた。
「Heat Of The Moment」の冒頭を飾るギターの音型を、スティーヴ・ハウは進んで弾いたわけではない。ダウンズは、あれはハウらしさから非常に遠いパートで、本人はポップに寄りすぎていると感じており、ひと悶着あったと述べている。それでも最後には引き受けた。そしてそれがバンド最大のヒットになった、とダウンズは付け加えている。
その曲のヴァースが、バグルスの「Video Killed The Radio Star」と拍子の面で似ていることは、しばしば指摘されてきた。ダウンズはそれを認めたうえで、自分で自分を写すのは構わない、という趣旨のことを述べている。曲を決定的にしている冒頭のパワー・コードについては、スタジオに入るまで思い付かなかったと語っている。
カール・パーマーの記憶では、「Heat Of The Moment」を録ったのは午前2時、セッションのかなり遅い時間だった。記事は、それはハウの手前でこの曲の重みをことさら小さく見せようとする無意識の振る舞いだったかもしれない、という見立てを添えている。
「Only Time Will Tell」は、その謝罪への返し手にあたる。ウェットンの説明では、「Heat Of The Moment」で悪いのは自分だと言った側が、この曲では相手に向かって、新しい男は自分ほどではない、いずれ分かる、あなたは大きな間違いをしている、と言っている。この歌詞のせいで女性蔑視だと叩かれた、とも彼は述べている。
デビュー作の冒頭三曲を、ウェットンは一続きの感情の弧として説明している。一曲目が謝罪、二曲目が怒りの告発、三曲目が、もう乗り越える、という決意である。同じ型を人は好んだ、と彼は言い添えている。
この二曲は、作られ方まで裏返しになっている。「Only Time Will Tell」はウェットンの詞で、関係の終わりを歌った非常に個人的な曲であり、ヴァースが彼、コーラスがダウンズ。「Heat Of The Moment」はその逆だった、と彼は述べている。
エイジアの最初の三枚には、同じことが三度起きている。最後に録音した曲が、そのまま先行シングルになったのである。「Heat Of The Moment」、『Alpha』の「Don't Cry」、『Astra』の「Go」。ウェットンはその理由を、録音の終盤になるとダウンズと自分の集中が極めて高くなるからだと考えている。
デビュー作がなぜ私的な内容になったのかを、ウェットンはジョニ・ミッチェルの影響として説明している。一人称で告白するように書く方法を彼女から受け取った結果、最初のエイジアのレコードは自分の経験と感情で埋め尽くされた。ほとんどどの曲も自分の実体験だ、と彼は述べている。
「Only Time Will Tell」と「Heat Of The Moment」のプロモーション映像は、どちらも同じ二人組が撮っている。10ccから分かれたゴドレイ&クレームで、当時の映像作家として最も引きが強かった名前である。
「Only Time Will Tell」の映像に出てくる、スローモーションの体操選手には意味が無い。ケヴィン・ゴドレイの説明では、面白く見えるだろうというだけで選んだもので、最初から何かを意味させるつもりで動いていたわけではない。音楽の感触にある程度合っていた、というのがもう一つの理由である。
『Alpha』の「Don't Cry」は、最後に書かれた曲である。1983年のラジオ取材でジェフ・ダウンズは、アルバムの幕開けにふさわしい曲が無いと感じたので急いで書いた、と説明している。作り方は、自分の案とウェットンの案を一つに繋ぎ合わせるというものだった。
『Alpha』の曲は、すべてウェットンとダウンズが書いている。デビュー作でスティーヴ・ハウには五曲の共作クレジットがあったが、二作目のクレジットはゼロになった。ハウ自身は、『Alpha』にも自分の曲はあった、ただ仕上げられなかっただけだと述べている。
そのハウが『Alpha』の制作で唯一クレジットされた曲は、アルバムには入っていない。「Lying To Yourself」で、「The Smile Has Left Your Eyes」のシングルB面に置かれた。
『Alpha』の「My Own Time (I'll Do What I Want)」について、ウェットンはコーラスが言っている通りの意味だと述べている。自分のやりたいことを、やりたいときにやる——それだけである。もっとも本人の後年の評価は温かくない。今でも「あれが君の最高の曲だ」と言われるが、実際にはひどく苦い曲だった、と彼は振り返っている。
再結成作『Phoenix』の「Never Again」について、ウェットンは事実上モーセの十戒だと説明している。人を裁く者にも、殺す者にも、悪意を持つ者にもなりたくない、という内容だという。ギターのイントロと強いコーラスのせいで「Heat Of The Moment」を思わせるが、それは意図したものではない、それでも構わないと思う、と彼は付け加えている。
『Phoenix』の組曲「Parallel Worlds / Vortex / Deya」は、書かれた時期がまるで違う断片を繋いだものである。ウェットンによれば「Deya」は1976年、スペイン・マヨルカ島のデイアで書かれた。「Parallel Worlds」はナイアガラの滝のセネカ・ホテルで書かれ、当初は「Sitting on Top of the World」という題だった。「Vortex」はダウンズがごく最近書いたものだという。
『Phoenix』の「An Extraordinary Life」について、Prog 誌のウェットン追悼記事は、2007年に受けた緊急の心臓手術を題材にした曲だと述べている。ただしこれは同誌の記述であって、ウェットン自身がそう語った取材は見つかっていない。この曲名は後に、彼の没後のボックス・セットと公式伝記の題にもなった。
『Omega』の「Finger On The Trigger」は、エイジアのために書かれた曲ではない。ダウンズによれば、この曲はすでにウェットンと自分のアイコン名義のアルバム『Rubicon』で録音済みで、レコード会社がエイジアの曲としてふさわしいと判断したものだという。同じアルバムの「Never Again」と「An Extraordinary Life」は、初めからエイジアを念頭に書かれている。
『XXX』の「I Know How You Feel」について、ダウンズは、これがウェットンのお気に入りだと思う、と述べている。二人の作曲セッションから出てきた曲で、最初から感情が多く込められていた。自分とジョンの書き方はきわめて心情に根ざしている、というのが彼の説明である。
『Gravitas』の「Valkyrie」は、身近な人の死から生まれている。ウェットンは、自分を戦場に横たわる死者の位置に置き、そこへ精霊が来て自分を運び去る、という視点で書いたと説明している。暗い曲ではあるが喜びのある曲で、最後には勝利がある、と彼は述べている。誰が亡くなったのかは語られていない。
表題曲の「Gravitas」が指しているのは、語のとおり尊厳である。ウェットンの説明では、離婚の渦中にいる男の話で、その男はただ、これをいくらかの尊厳を保ったまま終えられないだろうか、と言っている。
アルバム全体を歌詞の面で要約する一曲として、ウェットンは「The Closer I Get To You」を挙げている。何が起きているのか分からず、理解もできず、感情の渦の中で迷っている男の歌だという。『Gravitas』には尊厳への言及が至るところにある、と彼は述べている。
『Gravitas』という題名は、バンド全員の一致で決まった。BARKS はこの語を「尊厳、重み」の意と説明している。同じ記事は、「Russian Dolls」がロシア・ツアーの道行きを描いたロマンチックな曲だとしている。
『Gravitas』について、ウェットンはエイジア史上初めて外部の干渉を受けずに作ったアルバムだと語っている。レコード会社からの注文は無く、プロデューサーも立てず、全曲を彼とダウンズが書き、二人でプロデュースした、というのがその中身である。なおこれはウェットン自身の評価であり、彼が不在だったジョン・ペイン期の五作をどう数えているかは述べられていない。
『Aqua』に入っている二曲は、エイジアの曲として書き始められたものではない。ジョン・ペインによれば、彼はダウンズと組んで「Rain」という名前になる予定の企画を進めており、ロンドンのアドヴィジョン・スタジオで「Don't Call Me」と「Who Will Stop the Rain」を録音していた。ペインがエイジアに加わる前の話で、二曲はその後『Aqua』のために仕上げられた。
アルバムを締めくくる「Echo Of You」も、ダウンズとウィットリーの主要な作曲セッションから出てきた曲である。ダウンズによれば、この曲は開発の後半でまったく別の角度を帯び、エレクトロニカ寄りの、宇宙的な音作りへ向かった。歌詞は郷愁を帯びているが曲そのものは明るく高揚する、ひねりのあるラヴ・ソングだという。終わりは対位的な主題とコード進行が入り乱れ、懐かしさへの目配せとして昔ながらのフェイドアウトで消える。
2008年の『Phoenix』に入っている「An Extraordinary Life」は、アメリカのテレビ番組『America's Got Talent』のテーマ曲に採用された。バンド/レーベル側の資料に記載がある。
その時期に出た編集盤『Then & Now』からのシングル「Days Like These」は、1990年8月18日にビルボードの Mainstream Rock Airplay に登場し、9月15日付で2位に達している。在位11週。1982年から83年にかけての首位曲を除けば、このチャートでのエイジアの最高位はこの曲である。
ペインへの誘いは、前触れなく来ている。ダウンズとそのマネージャーが彼をスタジオへ呼び出し、着いたところでエイジアへの加入を打診された。ペインはこれを少し戸惑って受け止めている。ウェットンが抜けるという話を耳にしていなかったからである。話し合いと考える時間を経て、彼はバンドの新しいベーシスト兼シンガーになった。ベースを弾いた経験も、職業として歌った経験もあったが、その二つを同時にやったのはエイジアが初めてだった。
『Aqua』が作られたのは、ブライトンにある教会を改装したスタジオだった。ペインの回想では、彼らはアルバムの制作中そこに住み込んでいる。四ヶ月のあいだ、毎日12時間、来る日も来る日もそこにいた、というのが彼の言い方である。
『Aqua』のドイツでの成績は、公式チャートに記録が残っている。1992年6月29日に85位で登場し、最高51位に1週、最後にチャートに載ったのは9月14日の97位で、通算11週。ペインは、ドイツでは他のどこよりも多く売れたと述べている。
2001年の『Aura』の演奏編成は、ジョン・ペイン(ヴォーカル、ベース)、ガスリー・ゴーヴァン(ギター)、ジェフ・ダウンズ(キーボード)、クリス・スレイド(ドラム)。プロデュースはバンドとサイモン・ハンハートの共同で、ハンハートはエンジニアも兼ねている。ミックスはペインとティム・ルイス、マスタリングはレイ・スタッフ。
『Aura』は客演の多い作品である。Get Ready to ROCK! が名を挙げているのは、サガのイアン・クリッチトン、スティーヴ・ハウ、そしてマイケル・スタージス。ハウの参加はプログレ誌 Prog/Louder も別に確認しており、当時のダウンズ/ペイン編成のメンバーではないにもかかわらず2001年のこの作品に客演したことに触れている。
『Aura』のデジパック仕様には、通常盤に入っていない3曲がある。「Under The Gun」「Come Make My Day」「Hands Of Time」である。日本では2001年1月31日にビクターエンタテインメントから11曲入りで出ており(VICP-61250)、この3曲は入っていない。後の2008年1月25日、MSIが2枚組(MSIG-0448〜9)として再発した際に、1枚目へ加えられた。
2004年の『Silent Nation』はインサイド・アウトから出ており、プロデュース、エンジニア、ミックスをジョン・ペイン自身が担当している。演奏はペイン(ヴォーカル、ギター、ベース)、ガスリー・ゴーヴァン(ギター)、ジェフ・ダウンズ(キーボード)、クリス・スレイド(ドラム)。プリプロダクションの段階ではアント・グリン、ビリー・シャーウッド、ジェイ・シェレンも関わっている。
『Silent Nation』は一年をかけて作られている。ペインの説明では、彼とダウンズは50曲ほどを書き、それを20曲に絞り、さらに13曲か14曲まで削ってから録音に入った。
グレッグ・レイクがエイジアに留まらなかった理由を、本人はこう述べている。企業ロックの方向へは行きたくなかった、そういう類の音楽を自分は信じていなかった、だから続けなかった、と。彼が関わったのは短い期間だけだった。
そのとき彼が見たバンドの内側について、レイクは遠慮のない言い方をしている。当時のエイジアは妙な連中の集まりで、誰もが誰かを解雇していた、大がかりな陰謀があった、廊下を歩けばどの部屋でも互いを首にする相談をしていた——というのが彼の描写である。今はもっと落ち着いているだろうけれど、と彼は付け加えている。
『Alpha』の時期がどうだったかを、スティーヴ・ハウはかなり具体的に語っている。世に流れている話は自分は好きではない、そう単純ではない、と前置きしたうえで、何もかもが手に負えなくなった、誰一人『Alpha』のミックスに満足していなかった、ツアーはクレイジーで朝からシャンパンだらけだった、と述べる。そして彼は、バンドと同じ飛行機に乗るのをやめ、車で移動するようになった。カオスだった、というのが彼の言葉である。
エイジアの成功は、四人に等しく心地よかったわけではない。ハウの見方では、イエスが崩れた後だっただけに正しさを証明できたようで嬉しくはあったが、自分は既にイエスで全米ソールドアウトのアリーナ公演のような経験をしていたし、パーマーも同様だった。ジョンにとってはそれが違った、と彼は言う。本当に強い重圧がかかり、ウェットンは非常に内向きになり、壁を作るようになった——ハウはそう述べている。
二作目『Alpha』についてのカール・パーマーの評価は厳しい。2016年の書籍『Time and a Word: The Yes Story』で彼は、あれは完全な間違いで、おそらく強欲とシングル追いの症候群から組み立てられたものだった、ポップな曲ばかりで惨めに死んでいった、と述べている。売上については出典が食い違っており、Ultimate Classic Rock は米国で100万枚超・英国で約6万枚とし、Louder の Prog 特集は「1983年の急いで作られた『Alpha』の300万枚は期待外れと見なされた」と書いている。
2012年12月に予定されていた英国での30周年ツアー七公演は、開幕直前に中止された。カール・パーマーが重い大腸菌感染症にかかったためである。彼の声明によれば、ツアーを回れる見込みは10%未満と言われ、木曜の午後には感染に負けて立っていることさえ難しくなり、医師の厳しい指示で中止を決めた。47年の音楽家生活で一度もツアーを中止したことがないのが自分の誇りであり、個人的な目標でもあったが、それは今失われた——彼はそう書いている。
ウェットンが1983年の来日に加わらなかった理由を、カール・パーマーは健康の問題として語っている。彼を連れて行けなかったのは体調が良くなかったからで、ウェットンは長年アルコール依存に苦しんでおり、重圧が大きすぎた、というのがパーマーの説明である。一方ウェットン自身は、自分は策略によってバンドから追い出されたのだと述べており、同じ場面についての言い方が当事者どうしで違っている。
デビュー作のRIAA認証は、一度で4×プラチナになったわけではない。認証の履歴は、1982年6月2日にゴールドとプラチナ、1984年10月22日に3×プラチナ、そして1995年2月10日に4×プラチナ。四百万枚に達したという認証が出たのは、発売から13年後である。なお同じデータベースの発売日欄は「1992年3月18日」となっているが、これは年の誤記である。
グレッグ・レイクを推したのは誰か、という点について、ダウンズは2001年に問われて「カールだと思う」と答えている。そして、日本公演はウェットンとの問題が噴出する二ヶ月前から決まっており、約束は既にできていた、という事情も説明したうえで、レーベル側、とりわけジョン・カロドナーもレイクの起用にかなり関わっていた、と述べている。
ハリー・ウィットリーがどう見つかったのかについて、話は一つに定まっていない。ダウンズはある取材でツイッター経由でエイジアのカヴァーが送られてきたと語り、別の取材ではユーチューブのチャンネルで見つけたと述べ、日本での取材では「ユーチューブというよりツイッターだったと思う」と保留を付けたうえで、知人から教えられたのが最初だとも語っている。決め手になった曲についても、ダウンズは「Heroine」を挙げ、ウィットリー本人は「Heat of the Moment」だと述べている。共通しているのは、彼が自分で公開していたエイジアのカヴァーがきっかけだったという一点である。
オリコンの記録では、エイジアの日本での最高位は『天空のアリア』——ペイン期の作品である。1994年5月10日発売、週間アルバム・チャート最高20位、登場4週。同じくペイン期の『アクア』が21位、その次に高いのが1990年の編集盤『ゼン・アンド・ナウ』の24位である。日本でのチャートに関するかぎり、ペイン期の二枚が上位を占めている。
2019年にエイジアを歌ったロン“バンブルフット”サールは、その翌年に「Only Time Will Tell」のアコースティック・カヴァーを録音している。カヴァー曲を集めたEP『Barefoot 3』に収められ、2020年6月5日にバンドキャンプ限定で発表され、7月17日に公式ミュージック・ビデオが公開された。
2006年秋、ウェットンとダウンズは二つのバンドを同時に走らせていた。オリジナル編成のエイジアで全米ツアーを終えたばかりで、まもなく英国でも数公演を控えていた一方、二人名義のアイコンの二作目『Icon II – Rubicon』がフロンティアーズから11月10日にヨーロッパで発売される予定だった。この作品では、ザ・ギャザリングのアネク・ヴァン・ギースベルゲンが「To Catch a Thief」と「Tears of Joy」の二曲でウェットンとデュエットしている。
「ASIA Featuring John Payne」という名前は、2017年に使われなくなった。フロンティアーズの発表によれば、この集団は2007年、ダウンズがオリジナル編成に戻った後も続いたバンドとして始まり、ペインはエリック・ノーランダーを迎え、ガスリー・ゴーヴァンとジェイ・シェレンと共に米国公演と最初の録音を行った。ゴーヴァンはその後 THE ARISTOCRATS を結成するために離れている。ウェットンの死後、ペインとノーランダーはそれらの録音を新しいバンドの出発点とすることにした——それが DUKES OF THE ORIENT である。
ペイン側のバンドは現在も活動している。2025年7月下旬、ジョン・ペインは編成の刷新を発表し、そこにはIT BITESとTHE SYNのフランシス・ダナリーの名があった。ツアーは8月2日にニューヨーク州ニューパルツで始まる予定だった。ダナリーは1公演で辞めている。理由として彼が述べたのは、その役割に自分を合わせることが不可能だ、ということだった。なおこれはダウンズが率いるエイジアではなく、ペイン側のバンドの話である。
2005年8月、ペイン期のエイジアはドラムのクリス・スレイド(THE FIRM、AC/DC)と円満に別れ、ジェイ・シェレン(BADFINGER、HURRICANE)を迎えた。ペインは、シェレンは常に後任の第一候補で、『Silent Nation』の何曲かのデモでも叩いており、最初から息が合っていたと述べている。バンドはこのとき、『Silent Nation』に続く作品の録音に入ったところで、仮題は「Architect of Time」、2006年前半の発売予定とされていた。この題名の作品は結局発表されていない。
2022年1月、エイジアは40周年の編成を発表している。創設メンバーのカール・パーマーとジェフ・ダウンズに、長くベースとヴォーカルを務めてきたビリー・シャーウッド(YES)、そして新加入のギター/リード・ヴォーカルとしてマーク・ボニーラ(キース・エマーソン・バンド)という四人だった。ダウンズは、初期のアルバムで得た成功が自分たちを支え、2006年に再結成したときの土台になった、と述べている。
結成の年について、出典の記述には揺れがある。Blabbermouth は2021年の記事でバンドを「1981年にロンドンで結成」と明記しており、これが同社の記事で最もはっきりした記述である。一方、2025年のフロンティアーズの宣伝文は「1982年」としている。バンド自身の公式サイトとバイオグラフィは1981年の結成としており、本サイトもそれに従っている。
首位を獲った週のチャートには、押しのけた相手が並んでいる。1982年5月15日付のビルボード200で1位が『Asia』、前週は2位、チャート入り7週目。その下、2位に落ちているのがヴァンゲリスの『炎のランナー』サウンドトラックで、こちらは在位31週目だった。
ビルボードの1982年の年間アルバム・チャートで、『Asia』は1位である。2位はゴーゴーズの『Beauty And The Beat』、3位はフォリナーの『4』だった。
ビルボードHot 100でのエイジアの最高位三曲は、「Heat Of The Moment」の4位(1982年4月17日初登場、6月26日付で最高位、18週)、「Don't Cry」の10位(1983年9月17日付)、「Only Time Will Tell」の17位(1982年9月18日付、14週)である。
ラジオでの強さは、Hot 100の順位よりはっきりしている。現在ビルボードが Mainstream Rock Airplay と呼ぶチャートで、「Heat Of The Moment」は1位を6週保った。1982年4月3日初登場、4月24日付で首位、在位22週である。「Don't Cry」も1983年8月20日付で1週だけ首位に立っている。
デビュー作からは、1982年のうちに六曲がロック・ラジオのチャートに入っている。「Heat Of The Moment」1位、「Only Time Will Tell」8位、「Sole Survivor」10位、「Wildest Dreams」28位、「Here Comes The Feeling」40位、「Time Again」43位。九曲入りのアルバムのうち三分の二である。ビルボードはこのチャートでのエイジアの登場を通算14曲としている。
ロック・ラジオでのエイジアの成績は、1983年で終わっていない。1990年の編集盤『Then & Now』からの「Days Like These」は、Mainstream Rock Airplay で2位まで上がっている。1990年8月18日初登場、9月15日付で最高位、在位11週。1983年以降でこれを上回る同チャートの成績は無い。
ビルボード200での二作目以降の落差は大きい。『Alpha』は6位(1983年8月27日初登場、9月10日付で最高位、25週)、『Astra』は67位(1985年12月7日初登場、12月28日付で最高位、17週)である。
英国では、デビュー作は米国ほどの位置には届いていない。オフィシャル・チャート・カンパニーの記録では最高11位、レーベルはゲフィン、規格番号 GEF85577、初チャート入りは1982年4月10日。ただし居座り方は長く、チャートに38週入っており、うち13週はトップ20、24週はトップ40の中にいた。
英国でエイジアが最も高く上がったアルバムはデビュー作ではなく『Alpha』である。オフィシャル・チャート・カンパニーの記録で最高5位(ゲフィン GEF25508、1983年8月20日初チャート入り、11週、うち2週がトップ10)。『Astra』は1985年12月14日から68位に1週入っただけだった。
英国のシングル・チャートでは、エイジアの最高位は代表曲ではない。四つのエントリのうち最も高いのは「Don't Cry」の33位(1983年8月13日から5週)で、「Heat Of The Moment」は46位(1982年7月3日から5週)、「Only Time Will Tell」は54位(1982年9月18日から3週)、「The Smile Has Left Your Eyes」は81位(1983年10月22日から2週)にとどまっている。
英国の本チャート(オフィシャル・アルバム・チャート)に入ったエイジアのアルバムは五枚しかない。『Asia』11位、『Alpha』5位、『Astra』68位、『XXX』69位(2012年7月14日)、『Gravitas』92位(2014年4月5日)である。再結成期の『Phoenix』と『Omega』は本チャートには一度も入っていない。
同じ再結成期の作品は、英国のインディペンデント・アルバム・チャートでははるかに良い成績を残している。『XXX』8位(2012年7月14日から3週)、『Phoenix』10位(2008年4月19日から2週)、『Omega』13位(2010年5月8日)、『Gravitas』16位(2014年4月5日)。本チャートに入れなかった二枚も、こちらには入っている。
1990年代のエイジアが英国のチャートに残した唯一の痕跡は、『Arena』である。オフィシャル・ロック&メタル・アルバム・チャートで1996年3月16日から2週、最高34位。そして三十年後の2026年3月26日、同じチャートにライヴ盤『Live In England』が14位で初登場している。
エイジアの名前は、ビルボードのクラシック・チャートにも一度だけ載っている。2013年にブルガリア・プロヴディフで録音されたオーケストラ共演のライヴ『Symfonia: Live In Bulgaria 2013』で、クレジットは「Asia With The Plovdiv Opera Orchestra」。2017年3月18日に初登場し、クラシカル・アルバムとクラシカル・クロスオーバー・アルバムの両方で5位に達している。
米国での売上について、監査を経た数字は一つだけである。RIAAはデビュー作『Asia』を4×プラチナに認定しており、認定日は1995年2月10日。レーベルはゲフィン、区分はアルバムである。
RIAAの認定はほかに二つある。『Alpha』のプラチナ(1983年10月11日)と、1990年の編集盤『Then And Now』のゴールド(1998年7月23日)である。いずれもゲフィン、区分はアルバム。
カナダでは、デビュー作の四つの認定がすべて同じ日付で並んでいる。ミュージック・カナダのデータベースは、『Asia』のゴールド、プラチナ、ダブル・プラチナ、トリプル・プラチナを、いずれも1983年2月1日付として記録している。
カナダの『Alpha』はゴールドとプラチナで、こちらも二つとも1983年11月1日付である。
エイジアは第25回グラミー賞の最優秀新人賞にノミネートされている。1981年10月1日から1982年9月30日までの作品を対象とする、1983年の授賞式である。受賞したのはメン・アット・ワークで、ほかの候補はストレイ・キャッツ、ジェニファー・ホリデイ、ヒューマン・リーグだった。
後年の作品は、本チャートよりインディペンデント系のチャートで健闘している。『XXX』は2012年7月21日の週にビルボードのインディペンデント・アルバムで21位、インディ・ストア・アルバム・セールスで9位に入った。同じ週のビルボード200では134位である。『XXX』と『Gravitas』はいずれもトップ・ロック・アルバムで45位に達している。
同じ日、ジェフ・ダウンズはバンドを続ける意思を示している。我々全員にとって一つの時代の終わりだ、しかし我々は進み続ける、ジョン・ウェットンの音楽は屋根の上から高らかに響かせなければならない——彼はそう書いた。