ACCEPT トリビア 全291件
ACCEPTにまつわる事実を、出典付きで291件掲載しています。
Trivia
その初来日は、そのまま作品になった。バンドは1985年9月19日の名古屋公演を録音することに決め、同じ年の後半に、そのショーからのライヴ・アルバムを『Kaizoku-Ban(海賊盤)』としてリリースしている。正規盤なのに「海賊盤」を名乗るという、日本語を知っていなければ成立しないタイトルである。
日本公演から生まれた公式ライヴ作品は、それだけではない。1990年に出たダブル・アルバム『Staying A Life』も、1985年に大阪で録音されたものである。バンドは今日に至るまで、収録された曲をひとつとして再録音も差し替えもしていないこの作品を、自分たちの最大の功績のひとつだと考えている。つまり1985年の日本ツアーからは、2種類の公式ライヴ盤が残った。
日本盤には邦題の副題が付いた作品がある。1979年のデビュー作『Accept』は『アクセプト~殺戮のチェーンソー』、1981年の3作目『Breaker』は『ブレイカー~戦慄の掟』として国内盤が出ている。
同じ日本盤でも、扱いは作品ごとに違う。2024年の『Humanoid』日本盤(品番GQCS-91457)は日本語解説書と歌詞対訳付きだが、収録は11曲で、輸入盤にボーナス・トラックとして入っているカーティス・メイフィールドのカヴァー「Hard Times」は含まれていない。日本盤が1曲多い作品もあれば、1曲少ない作品もある、ということになる。
『Metal Heart』を携えたワールド・ツアーは1985年2月から9月まで続き、その中にACCEPTにとって初めての日本公演が含まれていた。つまり初来日は、8か月に及ぶツアーの最終盤にあたる。日本から戻ってわずか数週間後、バンドは次作『Russian Roulette』の録音に入っている。
1990年に出たライヴ盤『Staying A Life』の録音は、1985年9月の大阪公演である。プロデュースを担当したのはシュテファン・カウフマンで、同名のVHSビデオ版の演出も彼が手がけた。バンドがすでに解散していた時期に、5年前の日本公演の記録が世に出たことになる。
『Staying A Life』の録音がいつ、どこで行われたのかは、日本の資料では「1985年に大阪で」までしか分からない。会場名と日付を同時に示しているのは、リイシュー元のチェリー・レッド/HNEレコーディングスの商品ページである。そこには「1985年9月18日、日本・大阪のフェスティバルホールで録音されたライヴ・アルバム」と書かれている。
『Breaker』の日本語曲目は、発売元であるユニバーサル ミュージック ジャパン自身の商品ページ2つで食い違っている。廉価盤(UICY-20241)は3曲目を「悪魔の誘惑」、5曲目を「悪魔の呻き」と表記するのに対し、紙ジャケット盤(UICY-94522)は3曲目が「悪霊の誘惑」、5曲目が「悪魔の囁き」である。中黒の有無まで揃っていない。
ウドを擁するACCEPTの最後のワールド・ツアーは、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを回った末に、1996年7月、日本の東京で終わった。つまりこのバンドの第一期は日本で幕を下ろしている。次にACCEPTの名でスタジオ作が出るのは、それから14年後のことである。
1985年の初来日で、ACCEPTはまず日本の習慣に面食らった。午後6時という早い開演時間に慣れていなかったのである。その時間になっても場内は静まりかえっていた。ホフマンは「ほら、やっぱり間違いじゃないか。誰も来ていないよ」と思ったという。ところがステージの幕が開いたら満員だった。日本の観客は、ただ静かに待っていたのである。
その2017年のツアーで、日本はワールド・ツアーの初戦だった。<THE RISE OF CHAOS TOUR>は日本公演を皮切りに始まり、そこからアメリカ、南米、ヨーロッパへと2018年2月まで続く日程が組まれていた。
結成50周年記念作『Teutonic Titans 1976-2026』は、海外が2026年9月4日の発売なのに対し、日本盤はマーキー/アヴァロンから2日早い9月2日に出る。日本先行での発売である。
同じ2005年1月の告知には、日本ツアーの日程も載っていた。7月29日と30日の渋谷AX、7月31日の大阪なんばHatch、8月2日の名古屋ダイアモンドホールという4公演である。ただしこれは告知の時点の予定で、実施を確認できる日本側の資料には到達していない。日本の公式バイオグラフィは2005年について「ヨーロッパの夏のフェスティバル」としか書いておらず、日本公演に触れていない。
ACCEPTの日本盤は、時代ごとに発売元が変わってきた。90年代の再結成期はビクターエンタテインメントで、『Objection Overruled』が1993年2月24日にVICP-5210、『Predator』が1996年1月10日にVICP-5673。2010年から2012年の復活期はユニバーサル ミュージック(『Blood of the Nations』UICE-1167、『Stalingrad』UICN-1010)。2014年から2024年はワードレコーズ(『Blind Rage』VQCD-10387、『Humanoid』GQCS-91457)。そして2026年の50周年盤はマーキーからMICP-90132で出る。
『Balls to the Wall』は、アメリカでゴールド認定を受けている。RIAA(全米レコード協会)のゴールド&プラチナ認定データベースに、1990年11月27日付のゴールドとして登録されているのがそれで、レーベルはエピック、フォーマットはアルバム、RIAA側が持つ発売日は1984年1月31日となっている。アルバム賞のゴールドは50万ユニットである。同データベースでACCEPT名義の認定はこの1件だけで、プラチナへの格上げも記録されていない。
ACCEPTと日本のバンドの間には、直接の仕事の縁がある。OUTRAGEの1991年の4作目『THE FINAL DAY』は彼らにとって初の海外録音で、その場所はドイツだった。プロデューサーを務めたのは、当時「元ACCEPTのドラマーとしても知られていた」シュテファン・カウフマンである。OUTRAGEの公式バイオグラフィによれば、それ以前バンドは理想の音が得られず悩んでいたが、最初に試し録りをしただけで「これだ!」という音が得られたという。
その仕事は音楽とほとんど交わらなかったが、例外が一つある。ホフマンはレス・ポールとチェット・アトキンスの自宅を訪ね、二人の個人ギター・コレクションを撮影した。美しい大判の写真が並ぶ、コレクター向けの本のような形になったという。
ACCEPTは普通、曲を音から作る。「Balls to the Wall」だけは言葉が先だった。当時マネージャー兼作詞者だったギャビー・ホーク(作詞名義デフィ)が、ACCEPTを「balls to the wall」と評したイギリスの雑誌記事を読み、その言い回しを持ち帰ったのである。バンド自身はその言葉を知らなかった。
この企画で最も凝った再録音は「Fast As A Shark」だろう。あのイントロが、バイエルンの「ウンパ」スタイルで録り直されている。ホフマンの友人がバイエルンに住んでいた縁で、伝統的な木管楽団に「Ein Heller Und Ein Batzen」を演奏してもらったのである。1982年に古いレコードから拝借した民謡を、44年後に本物の楽団で鳴らし直したことになる。
その『Kaizoku-Ban』は6曲入りで、選曲は当時の最新作と前作から3曲ずつという構成だった。『Metal Heart』から「Metal Heart」「Screaming For A Love-Bite」「Up To The Limit」、前作『Balls to the Wall』から「Head Over Heels」「Love Child」「Living For Tonite」である。
2010年の再始動後、ACCEPTの日本復帰はフェスからだった。LOUD PARK 10の出演は同年7月16日の「第5弾アーティスト発表」で明かされ、公式サイトはそれを「電撃参戦決定」と書いている。
実際の出演は2010年10月16日、さいたま公演の初日で、17時30分からULTIMATE STAGEだった。この日はHOLY GRAILからKOЯNまで12組が出演している。
そのフェスに合わせるように、『Blood Of The Nations』の日本盤は2010年9月1日に発売された。品番はUICE-1167、税込2,500円で、日本盤ボーナス・トラックを収録している。LOUD PARK 10の公式サイトは当時のバンドを「T.T. QUICKのヴォーカルを新たに迎えた新生ACCEPT」と紹介していた。
2014年の『Blind Rage』の日本盤は日本先行発売だった。日本盤限定のボーナス・トラックとして12曲目に「スローウン・トゥ・ザ・ウルブズ」が収録されている。初回限定盤に付いた映像は、2013年4月12日のチリ公演「メタル・フェスト 2013」のフル収録だった。
その2025年の来日は3公演だった。5月13日の東京LINE CUBE SHIBUYA、15日の大阪なんばHatch、16日の川崎クラブチッタである。公演の公式サイトは、この来日を「パンデミックによる来日公演の延期と中止を乗り越え」ての実現と位置づけている。
そのチケットは会場ごとに形態も価格も違った。東京と大阪は全席指定で前売13,000円(税込)、川崎クラブチッタのみスタンディングで9,800円(税込)である。
その大阪公演を収めたライヴ盤は「Metal Heart」で幕を開け、2曲目に「Breaker」が続く。オリジナルの2枚組も1曲目は同じ「Metal Heart」で、最後は「Outro (Bound To Fail)」だった。
『Kaizoku-Ban』には日本でのもうひとつのタイトルがある。ソニーミュージックの公式ディスコグラフィは、この作品を『ライヴ・イン・ジャパン』として品番MHCP-788で登録している。収録6曲は『Kaizoku-Ban』と完全に一致する。
『Stalingrad』には日本盤のデラックス・エディション(UICN-9005、2012年5月2日、税込3,772円)があり、2枚組でDVDが付いた。DVDの見出しは「ライヴ・アット・バング・ユア・ヘッド2011」だが、収録7曲のうち4・5曲目はマスターズ・オブ・ロック2010のライヴ、6・7曲目はヴィデオ・クリップである。
初期3作は2010年6月23日、ユニバーサル ミュージック ジャパンから紙ジャケット仕様のSHM-CDで再発された。2010年リマスターで、解説はBURRN!の前田岳彦、歌詞と対訳が付く。1stが『アクセプト~殺戮のチェーンソー』(UICY-94520)、2ndが『アイム・ア・レベル』(UICY-94521)、3rdが『ブレイカー~戦慄の掟』(UICY-94522)である。
1985年の初来日でオープニング・ナンバーとして演奏されたのは「メタル・ハート」だった。BARKSはこれを日本のファンには思い出深い曲だと記している。2014年の来日公演では、同じ曲がアンコールの1曲目に置かれた。29年を挟んで、同じ曲がセットの最初と最後に来たことになる。
2014年の来日公演では、日本盤を会場に持参した観客全員にホログラム・ステッカーが配られた。さらに、当初は各会場5名だったミート&グリートの招待枠が、日本盤の売れ行きが良かったことを理由に各会場10名へ拡大されている。
2014年の来日は広島、大阪、名古屋、東京の4公演だった。ツアー翌日のインタビューでホフマンは「4回のショウをやったのだけど、最高だった」と振り返っている。
2014年11月11日の東京EXシアター公演では、『Restless and Wild』収録の「アヘッド・オブ・ザ・パック」が日本で初めて披露された。1982年の曲が日本の舞台に乗るまでに32年かかったことになる。
2014年の来日を受けて、BSフジの「伊藤政則のロックTV!」が11月29日に「アクセプト日本ツアー大特集」を放送した。EXシアターのライヴ映像、各地のミート&グリートの模様、伊藤政則によるインタビューが独占で紹介されている。
2017年の来日は4公演。9月10日の福岡DRUM LOGOS、12日の大阪・梅田クラブクアトロ、13日の名古屋ボトムライン、14日の東京・中野サンプラザである。前売はいずれも8,500円で、東京公演のみ全席指定だった。
しかもその日本公演は、バンド史上でも屈指の大舞台の直後だった。2017年8月にヴァッケン・オープン・エアで8万人を前に3部構成の特別公演を行い、その約1か月後の9月14日、東京・中野サンプラザに立っている。
その中野サンプラザ公演で最大のサプライズは「オブジェクション・オーヴァールールド」だった。ウルフとピーター・バルテスは1990年代のウド復帰後の3部作について「あまり良い思い出がない」と語っており、この曲は近年ほとんど演奏されていなかった。それだけに突然の登場には特別大きな歓声が上がった、とBARKSは伝えている。
2025年5月の来日は、2017年9月以来およそ8年ぶりだった。その間、2020年4月に予定されていた来日公演があったが、コロナ禍で翌年に延期され、さらに再延期された末に中止になっている。
2019年から2020年にかけてトリプル・ギター編成になって以降、2025年のHUMANOID JAPAN TOURが日本で初めてのその編成でのツアーだった。日本の観客が3本のギターが並ぶACCEPTを見たのは、このときが最初になる。
2025年5月13日の東京公演では、3人のギタリスト全員がホフマンのシグネチュア・モデルであるフレイマスのVシェイプ「WH-1」を使っていた。ホフマンの個体は軍用機を思わせる“Flying Fortress”、ルリスは“Chaos Artwork”、シャウズは白の“Solid Cream White”という仕様である。4曲目でホフマンは、2014年作『Blind Rage』のアートワークをモチーフにした赤い“Blind Rage”へ持ち替えている。
2025年の東京公演の中盤には「Riff Orgy」と題されたメドレーが組まれた。「Demon's Night」「Starlight」「Losers And Winners」「Flash Rockin' Man」という、レア曲ではないが定番でもない隠れた人気曲を続けて演奏する趣向である。
2025年5月13日の東京公演で、ドラマーのクリストファー・ウィリアムズは「力感謝」という漢字が描かれたTシャツを着て叩いていた。
2025年の来日を記念して、公式グッズ「ハード・メタル・キーホルダー」が数量限定で販売された。左右約50mmの金属製で、表面にはデビュー期のジャケットにも使われたオフィシャル・ロゴ、裏面にはツアー名“HUMANOID JAPAN TOUR 2025”が刻まれている。
ホフマンは日本のファンについて、静と動の落差が面白いと語っている。ライヴ中は静かに聴き入る一方で、ホテルや空港には大勢が待ち構えていて、プレゼントや花束を渡してくれるのだという。南米のクレイジーさとはまた別の熱心さだ、というのが彼の見方である。
クラシック音楽とヘヴィメタルを結びつけるという自分の発想について、ホフマンはアメリカ人とは背景が違うとしたうえで、「日本人はわりと俺たちに近い感性を持っているんじゃないか」と述べている。日本からは常に特に良い反応が得られる、とも語っている。
2017年1月の時点で、ホフマンは日本のファンとの間に強い絆を感じていると述べ、長く来日できていないことを詫びていた。そのうえで「2017年は必ず行けるよう最大限の努力をしたい」と語っている。実際、同年9月の来日は実現した。
2023年4月、元ACCEPTのピーター・バルテスが日本でACCEPT脱退の理由を訊かれたとき、彼は答えなかった。「U.D.O.とダークシュナイダーの話だけにしておこう」「今ここにいられることを凄く幸せに思っている」とだけ述べている。
その2023年の来日で、バルテスは新しく覚えたU.D.O.の曲を本番で弾ききるためのおまじないとして、当日お寺へ行き100円玉を清めてきたと明かしている。彼はその硬貨をポケットから取り出して見せた。
2023年4月10日の渋谷ストリームホール公演は、ウド・ダークシュナイダーがダークシュナイダー名義でACCEPTの楽曲のみを演奏する内容で、そのベースを弾いたのが元ACCEPTのピーター・バルテスだった。二人は「とてつもなく古い曲だ」と紹介してから「I'm A Rebel」を演奏し、それが本編の締めくくりとなっている。
2025年の東京公演の会場は着席形式のホールだった。BARKSの増田勇一は、ダイブもモッシュもサークルピットもないその場に「秩序ある熱狂」があったと書いている。
その日本盤の完全生産限定盤は、数量限定の見開き紙ジャケット仕様で、バンドのライナーノーツと歴史を振り返る48ページの豪華ブックレットが付く。CDは2枚ともSHM-CD仕様である。
ACCEPTの初来日は『Metal Heart』発表直後の1985年9月で、ここまでは資料が揃っている。ただしウルフ・ホフマン自身は2014年の来日インタビューで、「Metal Heart」が日本で非常に人気があったと述べたうえで「86年の日本ツアーはとても盛り上がった記憶があるよ」と語っている。翌1986年にも来日公演があったことになるが、その日程を記録した一次資料や信頼できる媒体の記事は確認できていない。
その日本盤『オブジェクション・オーヴァールールド』は全12曲で、12曲目に「リッチ・アンド・フェイマス」が入っていた。海外盤は11曲で「This One's For You」で終わる。日本盤にだけ1曲多い形だが、商品ページに「日本盤ボーナス・トラック」という表記は無い。
日本のミュージシャンがACCEPTを挙げた記録は多くない。CONCERTO MOONの島紀史は、自分の好きなバンドはどれも固有の「様式美」を持っているとして、ジューダス・プリースト、ANTHEM、レインボー、ディープ・パープル、スコーピオンズ、メタリカと並べてACCEPTの名前を挙げている。
日本での受容の時期について、評論家の増田勇一は、ACCEPTが1980年代前半からマニアの熱視線を集め、同年代半ばにはヘヴィ・メタルを象徴するバンドのひとつとして認識されるようになった、と書いている。
1996年の日本盤『プレデター』は全13曲で、13曲目に「ジス・ワンズ・フォー・ユー(ライブ・バージョン)」が入っていた。日本盤に1曲多く付くという扱いは、3年前の『オブジェクション・オーヴァールールド』と同じである。
『Metal Heart』と『海賊盤』は、日本では1枚にまとめられて再登場している。2013年10月23日にソリッド・レコードから出た「メタル・ハート+海賊盤」(CDSOL-7929)がそれで、1985年のスタジオ作とその年の名古屋公演のライヴ盤が1枚のCDに収まった形になる。
80年代の3作は、2005年7月20日にソニー・ミュージックダイレクトの「メタル・マスター」シリーズとしてデジタル・リマスターで再発された。『レストレス・アンド・ワイルド』がMHCP-785、『ボールズ・トゥ・ザ・ウォール』がMHCP-786である。その4年後の2009年8月26日にはEpic名義の紙ジャケット完全生産限定盤も出ており、『ボールズ・トゥ・ザ・ウォール』がEICP-1252、『メタル・ハート』がEICP-1253だった。
一方で、日本盤として作られずに輸入盤の国内流通仕様でまかなわれた作品もある。『ロシアン・ルーレット』(OTCD-3776)と『イート・ザ・ヒート』(OTCD-3777)は、2014年4月26日にオクターヴ/チェリー・レッドの輸入盤国内流通仕様として流通した。
50周年盤の日本盤は2形態で出る。通常盤がMICP-90132のCD2枚組ジュエル・ケース仕様、完全生産限定盤がMICP-30242で、こちらは見開き紙ジャケット仕様、DISC1・2ともSHM-CD、48ページのブックレット付きである。いずれも2026年9月2日発売。
シュテファン・カウフマンがドラマーとしての活動を終えたのは、1989年ではなく1994年である。同年春の『Death Row』録音中、彼は首の椎間板の重度のヘルニアと診断され、医師からドラムを止めるよう勧告された。彼はそのままサウンド・エンジニアとして同作を仕上げ、制作の途中で演奏メンバーとしてバンドを離れ、同年6月に予定されていたワールド・ツアーを辞退している。
ACCEPTの結成年と創設メンバーは、資料によって食い違ったままである。公式サイトは「1970年代後半にゾーリンゲンで結成」と書きながら、同じサイトで2026年をバンドの50周年としている。ユニバーサル ミュージック ジャパンの公式バイオグラフィーは1972年をバンドが最初に形を成した時期とし、ウルフ・ホフマンの加入は1975年、ハンス・ハイツァーの後任としている。ただしホフマンが「結成者」ではなく「加入者」である点は一致していて、公式サイトの本人プロフィールも「ウルフは16歳でACCEPTに加入した」と書き、本人も「その名前はオレが加入する前から存在していた」と語っている。
『Blind Rage』の先行曲「Stampede」のミュージック・ビデオは、カリフォルニアの高地砂漠にあるデヴィルズ・パンチボウルという異世界めいた岩層で撮影された。監督はグレッグ・アロノウィッツである。レーベルが掲載した撮影レポートを書いたのは別のスタッフのデイヴ・ブラスで、その本文で彼自身がアロノウィッツを「監督」と呼んでいる。ブラスは同じレポートで、自分のチームがACCEPTと組むのは「Teutonic Terror」から数えて3本目のビデオだとも書いている。
1992年の再結成がどう始まったかについて、日本の公式バイオグラフィはこう書いている——ウルフ・ホフマンとピーター・バルテスがドイツを訪ね、ウド・ダークシュナイダーとシュテファン・カウフマンに会って、もう一度一緒にやることを決めた。
『Objection Overruled』は外部プロデューサーを立てずに作られた。レーベルの商品告知によれば、バンド自身が長年の協力者デフィと共同で曲を書き、プロデュースまで自分たちで行っている。編成はウド、ホフマン、バルテス、カウフマンの4人に絞られた。
1997年に出たライヴ盤『All Areas – Worldwide』は、単独公演の記録ではない。1993年の『Objection Overruled』ツアーと、続く1994年の『Death Row』ツアーの録音から編まれている。
ヨルグ・フィッシャーが最初に抜けたのは1981年のツアー後で、バンドは即座に地元ゾーリンゲン出身のヤン・ケメットを後任に据えた。しかしこれは数か月でうまくいかなくなっている。
ヘルマン・フランクがACCEPTに入ったのは『Restless & Wild』の発表後、ツアー体制を整える段階だった。つまり彼はレコーディング後に加わったライヴ要員である。しかも1984年の『Balls To The Wall』ワールド・ツアーでは、フランクに代わって再びヨルグ・フィッシャーがギターを担当している。
そのフィッシャーは『Eat The Heat』のワールド・ツアーの際に再び脱退した。その穴を埋めるために加えられたのが、イギリス人ギタリストのジム・ステイシーである。
のちにMETALLICA、DOKKEN、SKID ROW、オジー・オズボーンらの作品を手がける名プロデューサー、マイケル・ワグナーは、ACCEPTの前身にいた人物である。本人の公式バイオによれば、13歳のときにウド・ダークシュナイダーと組んだバンドが、のちのACCEPTになった。
1976年、アクセプトはデュッセルドルフのバンド・コンテスト「ロック・アム・ライン」に出場した。優勝はしなかった。それにもかかわらず、デルタ・スタジオのオーナーだったマンフレッド・シュンケが、彼らにスタジオでアルバムをレコーディングする契約を申し出たのである。
ワグナーはその後、別の形でACCEPTに戻ってくる。1980年、休暇でアメリカに来ていたウドから声を掛けられ、ヨーロッパでのライヴPAを担当することになった。そのまま1980年末にはスタジオへ入り、プロデューサーのディルク・シュテフェンスのもとで『Breaker』のエンジニアを務めている。
ACCEPTの周辺は、思いがけないところで他のバンドの歴史に接している。DOKKENのデビュー作『Breaking the Chains』の契約は、ACCEPTのマネージャーだったギャビー・ホークの助力で決まった。それはワグナーにとって初めてのプロデュース作でもあった。
1983年には、ウドとワグナーがドイツでDOUBLE TROUBLE PRODUCTIONSという制作会社を共同で立ち上げている。
1979年のデビュー作『Accept』のレコーディング直前、バンドは自分たちの曲に歌詞が一切ついていないことに気づいた。ウドは英語をほとんど話せず、それらしく聴こえる音を適当に乗せて歌っていたのである。メンバーは辞書を引きながら、その音の連なりに意味を持たせようとした。
そのデビュー作『Accept』では、ベーシストのピーター・バルテスが「Sound Of War」と「Seawinds」の2曲でリード・ヴォーカルを取っている。ウドの声とはまるで違う滑らかな歌で、この2枚看板は最後まで完全には解消されなかった。
この外部の曲がもたらしたものは、タイトルだけではなかった。「I'm A Rebel」はACCEPTにとって初めてのミュージック・ビデオになっている。
『Restless and Wild』は、ヨルグ・フィッシャーが抜けた穴を埋める形で、ギター・トラックをウルフ・ホフマンが全て一人で担当して作られた。バンドはケルン近郊シュトメルンにあるディーター・ダークスのスタジオに3か月こもってこれを完成させている。
『Balls to the Wall』はACCEPT自身がプロデュースしたアルバムである。バンドはこのとき、ジューダス・プリーストのエンジニアだったロイス・オースティンを雇っている。
「Balls to the Wall」はゲーム『ギター・ヒーロー』のヒット曲のひとつになり、ミッキー・ローク主演、ダーレン・アロノフスキー監督の映画『レスラー』(2008年)にも使われている。この映画での起用が、後の再始動につながる伏線のひとつになった。
『Metal Heart』の録音は1984年10月から12月にかけて行われ、指揮を執ったのはスコーピオンズのプロデューサーとして知られるディーター・ダークスだった。同バイオグラフィーはこの作品を、クラシックの要素が初めて取り入れられたアルバムだとしている。
タイトル曲「Metal Heart」には、チャイコフスキーの『スラヴ行進曲』とベートーヴェンの『エリーゼのために』の断片が引用されている。同じアルバムには「Teach Us to Survive」のようにジャズ寄りの領域へ踏み込んだ曲も入っており、この作品の振れ幅は当時のACCEPTとしてはかなり大きい。
続く『Russian Roulette』(1986) について、ホフマンは「おそらくオレたちはあのレコードで自分たちの本質に戻ろうとしていたんだ。磨き上げられたアクセプト・サウンドじゃなくてね」と振り返っている。前作『Metal Heart』のよりコマーシャルな響きから距離を置き、初期の暗く重い方へ戻した作品にあたる。
脱退後にウドが活動を止めずに済むよう、「U.D.O.」というバンド名を考え出したのはACCEPTのマネージメントだった。U.D.O.のデビュー作『Animal House』の楽曲はACCEPTのメンバーがウドのために書いたもので、リリースもACCEPTのレコード会社であるRCAから1987年に行われている。
ウドの後任探しには何か月もかかり、何百本ものデモ・テープが聴かれた。一度はイギリスのバンド、ベイビー・タックーの若いシンガーだったロブ・アーミテイジが迎え入れられたが、数日間の討議の末に「完璧なはまり役ではない」という結論になり、探し直しになっている。ケン・テンプリンやマイケル・ホワイトといった名前も挙がったうえで、最終的にデヴィッド・リースが選ばれた。
1993年2月1日に発売された『Objection Overruled』は、アクセプト自身がアルバム・ジャケットを制作した初めてのレコードとして注目された、と日本の公式バイオグラフィーは記している。
最終作となった『Predator』は、ナッシュヴィルの16thアヴェニュー・サウンド・スタジオで、マイケル・ワグナーのプロデュースにより録音された。ドラムには、ダム・ヤンキーズのマイケル・カーテロンが迎えられている。
『Blind Rage』の限定盤に付いたボーナスDVD/Blu-rayの中身は、前作『Stalingrad』のツアー中、2013年にチリで収録されたフルセットのライヴだった。
『The Rise of Chaos』のジャケットを手がけたのは、デストラクションやグレイヴ・ディガーの作品も担当しているハンガリー人アーティスト、ジュラ・ハヴァンチャークである。
そのジャケットに描かれているのは、実はバンド自身の直前のステージ・セットである。ホフマンの説明では、それを「明らかに破壊された」状態にしたもので、イメージは「大惨事の後」だという。
「The Rise of Chaos」のミュージック・ビデオは、動画として撮られていない。ナッシュヴィルのリハーサル施設サウンドチェックで撮影された81,127枚の静止画を、あとから映像として組み立てたものである。使われたカメラはニコンD5が4台だった。
そのヴァッケン公演を収めたライヴ盤『Symphonic Terror』は、ビルボードのクラシック・チャートに16位で初登場した。ヘヴィメタル・バンドの作品が入る場所ではない。
『Too Mean to Die』というタイトルは、コロナ禍を正面からではなく「ひねって」受け止めたものだった。ホフマンの説明はこうである——ACCEPTは「メタル・ソルジャー」だ、我々は行進を続ける、我々は死ぬには意地が悪すぎる。
アルバムの発売日そのものも動いた。プレス工場が新型コロナ関連で閉鎖されたため、完成品が大幅に遅れ、2021年1月15日の予定を1月29日へ2週間ずらすことになったのである。
『Too Mean to Die』のジャケットは、発表の時点では「墓の下に埋められている」という設定で伏せられていた。ファンがSpotifyで先行曲「The Undertaker」を再生すればするほど墓掘り人が速く深く掘り進み、50万再生に達したところでアートワークが姿を現す、という仕掛けである。
同じアルバムの「Zombie Apocalypse」は、ゾンビ映画の歌ではない。マーク・トルニロによれば、これは携帯電話ゾンビの歌である。どこにでもいて、手放せず、充電が切れ、画面から目を離せない——それがゾンビの黙示録だ、というわけである。
結成50周年を記念する『Teutonic Titans 1976-2026』は、2026年9月4日にナパーム・レコーズから発売される。19曲の再構築版に、総勢50名のゲストが参加する構成である。1曲ごとにヴォーカル、ギター、ベース、ドラムの組み合わせが変えられており、同じ編成の曲は2つとない。
タイトルは「1976-2026」だが、収録曲がその50年から満遍なく選ばれているわけではない。選曲範囲は『I'm a Rebel』(1980) から『Eat the Heat』(1989) までの初期作に限られており、1979年のデビュー作からも、1993年以降の作品からも1曲も採られていない。タイトルの数字は収録範囲を示すものではない。
全19曲のうち、現在のACCEPTのメンバーだけで演奏し直されたのは『Eat the Heat』(1989) 収録の「Hellhammer」である。ホフマン、ベースのマルティン・モトニク、ギターのフィリップ・シャウズ、ドラムのクリストファー・ウィリアムズという4人に、ヴォーカルとしてジェイソン・マクマスターを迎えた形になっている。バンドが一度は切り捨てた作品から、あえて1曲を拾い直した格好である。
バルテスの後任として迎えられたマルティン・モトニクには、ミュージシャンとしての経歴のほかにもうひとつの顔がある。マンハイム大学の経営学修士号を持っているのである。彼はウリ・ジョン・ロートに招かれて2008年の米国ツアーに参加し、2009年と2012年にも同行している。
フィリップ・シャウズが3人目のギタリストとして加わったきっかけは、代役の依頼だった。ウヴェ・ルリスが、10年ほど前のバイク事故で負った脚の怪我の再建手術から回復中で、2公演に出られなくなったのである。その穴埋めを探す過程で、その年のシンフォニック・テラー・ツアーで一緒にやったシャウズが良かったと全員が口を揃えたため、彼に頼むことになった。
ホフマンはツアー先で「Wolf's Guitar Lair」という少人数の有料イベントを開いている。開演前に本人からACCEPTのリフやソロを直接教わり、機材について質問できるという内容である。
『The Rise of Chaos』は本国ドイツで3位、日本ではオリコンの洋楽週間ランキングで7位、総合ランキングで54位を記録した。
ピーター・バルテスは2023年の来日インタビューで、現在の活動のひとつとして日本人ギタリストの若井望と組んだASHRAINを挙げている。
ACCEPTにとって最初の本格的な国際ツアーは、ジューダス・プリーストへの帯同だった。それは1981年、プリーストが『Point of Entry』を携えて行ったワールド・ワイド・ブリッツ・ツアーの、2度目のヨーロッパ公演にあたる。1度目のヨーロッパ公演のサポートはSAXONだった。ホフマンはこれを「プロのバンドと初めて回ったツアー」と呼び、グレン・ティプトンとK.K.ダウニングは自分にとってのヒーローだったと語っている。
1993年の再結成作『Objection Overruled』の日本盤は、2月24日にビクターエンタテインメントから品番VICP-5210、税込2,670円で発売された。オリコンの週間アルバムランキングでの最高位は22位、TOP300へのランクインは3週である。
オリコンのアーティスト・ページが自動で表示する「CDアルバム売上TOP3作品」で、ACCEPTの1位は『オブジェクション・オーヴァールールド』である。以下『ブラインド・レイジ』『ヒューマノイド』と続く。日本でのCD売上でいえば、80年代の代表作より90年代の再結成作が上位に来ていることになる。
その起用のきっかけは、ACCEPTではなくU.D.O.の音だった。YOUNG GUITARは、OUTRAGEのギタリスト阿部洋介がU.D.O.の『FACELESS WORLD』(1990年)の音を気に入り、カウフマンをプロデューサーに起用できないかと思い立った、と阿部の証言として記している。
そのドイツでの録音には、食べ物の逸話が残っている。レコーディングを始める日、カウフマンがOUTRAGEの面々に前夜の過ごし方を尋ねたところ、彼らは近くのスーパーでビール2ケースとブラートヴルストを買い、それを「パッケージを開けて食った」と答えた。カウフマンは衝撃を受け、「お前たち、生で食ったのか?」と訊き返したという。
その縁はさらに続く。1999年、カウフマンがウド・ダークシュナイダーの弟ピーターが歌うバンドVANIZEをプロデュースした際、彼はOUTRAGEの「Call Of The Hunter」をカヴァーするよう自ら勧めた。「素晴らしい曲だとずっと思っていた。ただし原曲はどうも、ちゃんとあるべき姿にプロデュースされていなかったようにも感じていた」というのがその理由である。
日本でACCEPTを1章分まるごと扱った書籍もある。ミュージシャンのROLLYがヤング・ギター誌で連載し2019年に書籍化されたギタリスト論『ROLLYのロック・ギター異人館』は、第4章にウルフ・ホフマンを立てている。連載はROLLY自身の「心に火を点けた」ギタリストを紹介する趣旨だった。
シンコーミュージックが2019年に刊行した奥村裕司著『詳説 ジャーマン・メタル』のスペシャル・アンケート増補版では、海外のミュージシャンにも「永遠のジャーマンHR/HM曲ベスト3」を訊いている。ANVILのロブ・ライナーは1曲目にACCEPTの「Breaker」を、DARK MOORのエンリク・ガルシアは「Metal Heart」を選んだ。
90年代の失速について、ホフマンは比喩を使って説明している。『Objection Overruled』が売れたことは認めたうえで、90年代はメタルが求められなくなり、時代に合わせようとした必死の試みはうまくいかなかった、と。『Death Row』以降のバンドは「ゆっくり沈んでいく船」だったというのが彼の言い方である。
解散していた8年のあいだに、ホフマンは1枚のソロ・アルバムを作っている。1997年録音の『Classical』で、レーベル資料はこれをACCEPTの長期休止期間中の初のソロ作としている。彼の説明によれば、クラシックの要素は「Metal Heart」などでACCEPTに取り込んできたが、もっとやれるのにACCEPTに詰め込みすぎたくなかった、というのが作った理由である。
その『Classical』は、ストリングスもオーケストラも使っていない。ギターだけでクラシック曲を「メタル化」した作品だった、というのがホフマン本人の説明である。オーケストラと組んだ第2作『Headbangers Symphony』が出るのは、それから19年後の2016年になる。
ホフマンの写真は、ツアー先での観光写真から始まっている。それが自宅に暗室を作って現像するほどの執着になり、90年代にバンドが終わったとき「第二の情熱を本気でやってみよう」と考えてプロになった。音楽業界に少し疲れてもいた、というのが本人の説明である。
その写真業は趣味の域ではなかった。2005年の時点でホフマンは「この8年間、写真だけで生計を立ててきた」と語っている。最初の3年はとても厳しかったが、直近5年は広告代理店や雑誌の仕事で順調だったという。
ホフマンは2022年の時点で写真家業から引退している。写真は「常に人生の二番目の愛」であり、ステージや録音と同じ満足感は得られなかった、というのがその理由である。
音楽から完全に離れていたわけでもない。この時期ホフマンはランディ・ローズのトリビュート盤に複数曲で参加している。同じスタジオでレコーディングしていたHAMMERFALLからも参加を口説かれたが、そちらは断ったという。
再結成の数年前、ホフマンは雑誌で辛辣なことを言っていた。45歳を過ぎて昔の曲を演り続けるのは馬鹿げている、という趣旨である。2005年の取材で彼はそれを「意図的にやった」と認めつつ、いま自分たちがやっているのはそれとは違う、と説明している。
2005年の再結成の話は、バンドの側からは始まっていない。ドイツの雑誌Rock Hardの編集長ゲッツ・キューネムントが、ホフマンの妻でありバンドの長年のマネージャーだったギャビーに接触したのが発端だった。同誌の20周年フェスに合わせた「20年ぶりの再結成」という構想である。
2005年に発表された再結成の日程は、ヨーロッパの夏のフェス6本だった。ロック・ハード・フェス(ゲルゼンキルヒェン)、ヴァルトロック(オランダ)、スウェーデン・ロック、ゴッズ・オブ・メタル(ボローニャ)、トゥスカ(ヘルシンキ)、そしてヴァッケン・オープン・エアである。
2005年のセカンド・ギターにはまずシュテファン・カウフマンが検討されたが、本人に興味が無く、そもそも彼はACCEPTのギタリストだったことがない、という理由で見送られた。選ばれたのは『Balls to the Wall』期のギタリストであるヘルマン・フランクで、彼は即答で引き受けたという。
フランクに声をかける前に、バンドはオリジナル・ギタリストのヨルグ・フィッシャーを探していた。しかし居場所がまったく分からず、連絡が取れなかった。ホフマンは彼を知る人たちにも当たったが駄目で、「もうギターを弾いていないと思う」とも述べている。
2005年のセットリストは意図的に80年代に限定された。「'82年から'86年まで」の曲だけである。90年代の3部作から演奏しないことは早い段階で決まっていた。理由についてホフマンは、「これは90年代版のACCEPTなのか?」という議論になるのを避け、一部のファンにとってACCEPTではない曲も外して「'86年か'87年で止めればいい」と決めたのだと説明している。
2005年にツイン・ギター編成を採ったのは、ホフマン個人の好みではなかった。「これがACCEPTのライヴを観られる最後の機会かもしれない、ならファンが最も観たいものを」と考えた結果だという。彼自身は4人編成の方が好きだと明言している。
その2005年の再結成について、ホフマンは舞台の上と下をはっきり分けて語っている。ステージ上は円満だった。しかしそこに至るまでの舞台裏の交渉は「悪夢」だった、というのである。
ウド側の説明はもっと素っ気ない。2005年はフェス出演だけで、レコーディングや活動継続の計画は最初から一切なかった。プロモーターから要望があり、U.D.O.が休みだったので「じゃあやるか」と応じただけだ、というのである。
2009年の再始動にウドが加わらなかった理由について、本人はこう説明している。再結成するならU.D.O.を縮小しなければならず、U.D.O.はかなり成功していた。そこで彼はホフマンにこう言った——「この再結成がうまくいかなかったら、自分はACCEPTの名前で続けなければならない」。つまり名前の権利を求めたのである。ホフマンがその条件に応じなかったため、ウドは「幸運を祈る」と言って降りた。
『Restless and Wild』のジャケットにはヘルマン・フランクの名がクレジットされているが、独ROCKS誌は「ジャケットの記載に反して、ヘルマン・フランクは『Restless And Wild』では聴こえない」と書いている。ディーター・ダークスのスタジオでの本番の録音にギタリストとして居合わせたのはホフマンだけだった、というのが同誌の見方である。
2009年の再始動にあたってヨルグ・フィッシャーを呼べなかったのか、と問われたホフマンの答えは短い。「ヨルグについては何も。我々にとって彼は20年前に痕跡もなく消えた」。
1994年、『Death Row』の制作中に空いたドラムの席を埋めたのはシュテファン・シュヴァルツマンだった。そのオーディションのタイミングについて本人はこう語っている——「結婚式の翌日にオーディションを受けたんだ。それがロックンロールだろう」。
ウヴェ・ルリスがACCEPTに入るまでの経緯は、本人の言葉で語ると偶然の連続である。友人であるバンドのドラム・テック、アンディに2012年の夏フェスを手伝ってほしいと頼まれ、「自分はギター・テックじゃない」と言いながら引き受けた。フェスが終わったらやめるつもりだったのに、2年半後もまだその仕事をしており、そのままバンドに加入していた。
ドラマーのクリストファー・ウィリアムズを見つけたのはピーター・バルテスだった。ナッシュヴィルのヘヴィメタル好きが集まるジャム・セッションに彼を知っており、「ナッシュヴィルにこういう奴がいる、試してみるべきだ、素晴らしい」と推薦したのである。呼び寄せたバンドがテストしたのは、「Princess of the Dawn」のビートのような、基本的でまっすぐな要素だった。
『The Rise of Chaos』でウヴェ・ルリスはギターを弾いていない。ホフマンははっきりこう述べている——ドラムのクリストファーは素晴らしいのでアルバムに入れたかったが、ギターは全部自分が弾いた、ウヴェはアルバムでは弾いていない、と。必要性と実務上の都合であり、彼には十分に弾く力があるとも付け加えている。「ウヴェは主にライヴのための存在だ」というのが同じ回答の締めくくりである。
その体制について、ハーマン・フランクは在籍中から不満を抱えていた。2014年、彼はACCEPTでは作曲を任されなかったと語り、「ピーターとウルフが『我々がACCEPTだ、自分たちだけでやりたい』と決めた」と述べている。
2016年、フランクはACCEPTを去った理由をより直接的に語っている。ステージの右側で暗がりに立って誰かのギターをなぞるだけで残りの人生を過ごしたくなかった、というのがそれである。
2005年の再結成でドラムを叩いたのはシュテファン・シュヴァルツマンだが、当初発表されたラインナップは違っていた。2005年1月の告知でドラマーとして名前が挙がっていたのはフランチェスコ・ヨヴィーノである。ホフマンによれば、はじめウドが自分のドラマーを連れてくることを提案して実際に試したが、ヘルウィンを辞めたばかりのシュヴァルツマンが空いたため彼を起用したのだという。
ACCEPTの2度目の解散を受けて、シュテファン・カウフマンは1996年にU.D.O.へギタリストとして加入した。彼はそのバンドで9枚のアルバムに参加している。ACCEPTでドラマーとして参加したスタジオ作も9枚だった。
その最初のバンドの名前は「Band X」だった。ワグナーによれば、ウドとは7歳頃からの同級生で、二人でバンドをやろうと決めたものの名前が思いつかず、それで「Band X」にしたのだという。
ワグナーがそのバンドを離れた理由は徴兵だった。住んでいたヴッパータールから350マイル離れたハンブルクに配属され、練習に出られなくなったのである。
バンド名を誰が付けたのかについては、当事者の説明が食い違っている。ワグナーは「バンドを抜けたとき、ウドとの最後の仕事がACCEPTという名前を考えることだった」と語る。日本の公式バイオグラフィーも彼の証言として、名前は1970年に出たブリティッシュ・ブルース・バンド、チキン・シャックのアルバムから取ったのだと掲載している。一方ウド・ダークシュナイダーは、ACCEPTという名前は1968年から自分が考えていたものだと述べている。
ウルフ・ホフマンの記憶は、この論争の外側にある。バンド名がチキン・シャックのアルバムから来ていることは彼も認めているが、そのうえで「自分が加入する前から名前は存在していた」と述べている。メンバーは既にその名前で地元で何度か演奏していたのだという。
そのバンド名について、ホフマンはずっと不満だったと打ち明けている。ACCEPTはメタルらしい名前ではない、というのである。「他のバンドの方がずっとカッコいい名前だと思っていた。たとえばBLACK SABBATHとか、JUDAS PRIESTとか。あれは完全にメタルだ」。
ACCEPTという名前の権利をめぐっては、ウドが後年こう語っている——それを失ったことが、自分のキャリアで最大の失敗だった。1980年から81年にかけて大量の書類にサインした中に、名義がウルフ・ホフマンに渡ると書かれた一枚が紛れていたのを、後になって見つけたのだという。
ACCEPTが生まれたゾーリンゲンは、剣・ナイフ・剃刀の生産で中世から知られる街で、「刃物の街」と呼ばれてきた。Classic Rock誌は1982年の『Restless and Wild』の鋼のような音を、その街の性質になぞらえている。
ホフマンによれば、ACCEPTが始まった当時は「ヘヴィメタル」という言葉すら定着していなかった。自分たちはハードロック・バンドだと思っていたのだという。
ホフマンがACCEPTを始めたとき、彼は16歳だった。後年、彼はその時代の感覚をこう説明している。「当時いちばん年上のミュージシャンでも30代で、50歳のロック・ミュージシャンなんて存在しなかった。これがどこまで続けられるのか、誰も知らなかったんだ」。
デビュー作が売れなかったあと、レコード会社がバンドに告げたことは身も蓋もなかった。君たちは作曲がうまくないのだから、外部のソングライターを使ってみてはどうか——それが第2作『I'm a Rebel』の出発点になる。
その外部の曲というのが「I'm a Rebel」だった。作者はアンガスとマルコム・ヤングの兄アレックス・ヤングで、AC/DC自身が1976年に録音しながら未発表のまま眠らせていた曲である。ACCEPTはそれを3年後にカヴァーし、アルバムのタイトル曲にした。
そのAC/DC版が録音された経緯も残っている。1976年9月15日、ハンブルクのファブリークでのライヴを観た音楽出版社のルディ・ホルツハウアーが依頼し、その翌晩、スタジオ・マッシェンで数時間のうちに録られたものだった。同じホルツハウアーが、後にその曲をACCEPTに持ち込んでいる。
そのアレックス・ヤングは、ACCEPTのレコーディング現場にも現れ、自分がプロデュースしたいと申し出た。ホフマンの回想は冷ややかである。「彼とはうまくいかなかった。少し押しつけがましくて、傲慢だったと記憶している」。
未発表のままだったAC/DC版を、ホフマンは後年になって実際に聴いている。晩年のホルツハウアーがライヴ会場に来た際、彼のiPhoneに音源が入っており、全員でそれを囲んで聴いたのだという。歌っていたのはボン・スコットだった、というのがホフマンの証言である。
『Restless and Wild』の冒頭を飾る「Fast as a Shark」を持ち込んだのはドラマーのシュテファン・カウフマンで、その案は「最初から最後までツーバスで通す」というものだった。ウルフ・ホフマンはこれを「クレイジーなアイデア」と呼んでいる。ウド・ダークシュナイダーによれば、バンドの最初の反応は「こんな曲は演奏できない」だったという。
「Fast as a Shark」の冒頭で鳴る古い童謡のレコードは、録音場所だったディークス・スタジオの持ち主ディーター・ダークスの、母親のレコード棚から借りたものだった。しかもその盤には、子どもの頃のダークス本人が歌って参加している。バンドは針が飛ぶ音を録るために盤を傷つけており、ホフマンは「ママ・ダークスのレコードを台無しにした」と語っている。
あのイントロの狙いは、これから起きることと正反対のレコードをかけて、買った人に「盤を間違えたのでは」と思わせることだった。ホフマンは当初オペラの一節を使うことも考えていたという。実際に使われたのはドイツ民謡「Ein Heller und ein Batzen」の、歌詞が付いていない「ハイ・ディ・ハイ・ド・ハイ・ダ」の部分だけである。ドイツ語の歌詞を入れると「ドイツ臭く」なってしまう、国際的に聴こえるものにしたい、というのがその理由だった。
その民謡の選択は、思わぬところで問題になった。第二次大戦を描いた映画で、ポーランドへ進軍するドイツ兵が歌う曲として使われてきた歌だったのである。バンドはそれを全く知らずに使っていた。ホフマンは現在も、ポーランドで演奏するときは敬意からこのイントロを外していると語っている。なお同記事は、曲そのものは1830年頃の酒場の歌でナチスとは関係がない、とも補足している。
ANTHRAXのチャーリー・ベナンテがバンドに加わった経緯には、この曲が直接関わっている。スコット・イアンとダン・リルカーが彼と初めて顔を合わせた席で、ベナンテは先回りして「まさか『Fast as a Shark』を弾けと言うんじゃないだろうな」と釘を刺した。その場で演奏を求められ、しかもレコードより速く叩いてみせたことで、加入が決まったという。
「Fast as a Shark」を「史上初のスピード・メタル曲」と呼ぶ言い方は広く流通しているが、ホフマン自身の言い方はもう少し慎重である。彼はそれを「多くのジャーナリストがそう言っている」という形で紹介し、そのうえで、80年代に『Restless and Wild』を聴いて人生が変わり今の自分になったと語るミュージシャンが数多くいる、と述べている。
2026年5月24日、フランクフルトのドイチェ・バンク・パルクでのMETALLICA公演中、カーク・ハメットとロバート・トゥルヒーヨが恒例の「ドゥードゥル」としてACCEPTの「Fast As A Shark」を演奏した。METALLICAが土地ごとに地元バンドの曲を弾くこの余興でACCEPTが選ばれるのは初めてではなく、2018年4月30日のライプツィヒ公演では「Balls To The Wall」が取り上げられている。
『Restless and Wild』を締めくくる「Princess of the Dawn」について、ホフマンは奇妙な告白をしている。リハーサルでは退屈で飛ばしたくなるが、ライヴで客が乗ってくると自分のお気に入りの1曲になる、というのである。
『Breaker』の歌詞には、意味の通らない一節が残っている。「icicle brains(つららの脳)」と「bicycle chains(自転車のチェーン)」を韻で並べた箇所がそれで、プロデューサーのアンディ・スニープによれば、当時のバンドは英語が得意でなく、書いた歌詞を辞書で引いて意味が通るか確かめる作業をしていた。この一節はその網をすり抜けたのだという。
同じ『Breaker』に入る「Son Of A Bitch」について、Classic Rock誌は、レコード会社との駆け引きに向けた露骨な中指だったと書いている。デビュー作が売れず「君たちは作曲が得意ではないから外部のソングライターを使っては」とレーベルに言われた直後の時期にあたる。
ホフマン自身は、最初の2作について音楽的にバラバラだったと認めており、『Breaker』を「今でも聴きたいと思える、最初の本気のACCEPTアルバム」と評している。2021年の取材での発言である。
その言葉に付けるリフとコーラスは、ホフマンが自宅で座っているときに5分でできた。テープに録ってリハーサル室へ持ち込み、そこから曲として形になるまでさらに15分ほど。ペーター・バルテスがヴァースのアイデアを出したことで全体が噛み合ったと、ホフマンは別の取材で述べている。
あまりに出来上がって聴こえたため、ホフマンは本気で不安になったという。このリフはもうこの世に存在していて、自分はそれを忘れたまま誰かから盗んでしまったのではないか、と疑ったのである。
ヴァースの歌い方は最後まで決まっていなかった。ウド・ダークシュナイダーによれば、シュテファン・カウフマンのスタジオで二人きりになり、かなり酒が入った状態で歌い出したものが、そのまま採用になったのだという。
バンドはこの1曲のミックスだけに6日をかけ、アルバムの残り全部には2日しかかけなかった。全員がこの曲が勝負曲だと分かっていて、外すわけにいかなかったからだとホフマンは説明している。
『Balls to the Wall』のジャケットで壁を拳で突く毛深い脚の男は、しばしばメンバーの誰かだと思われてきたが、そうではない。ホフマンによれば、起用されたのはボクサーで、体を鍛え上げたパーソナル・トレーナーだった。ジャケットのアイデアを出したのもギャビー・ホークである。
「Balls to the Wall」のミュージック・ビデオは、ロンドンのヒースロー空港にほど近い廃工場で撮影された。持ち込まれた照明リグと発電機が巨大すぎ、しかも空港に近すぎたため、管制塔から「気が散る」という苦情が来たという。
その撮影は1月のロンドンで、凍えるような寒さだった。ウドは鉄球(レッキング・ボール)に乗るよう求められて「頼むから、それはやりたくない」と抵抗したが、若かったので結局は乗ったと振り返っている。
そのビデオはMTVの『ビーバス&バットヘッド』に取り上げられ、二人にさんざんこき下ろされた。ホフマンはそれを気にしていない。「彼らはビデオを気に入らず、俺たちをバカにした。でもそれで構わなかった。名誉なことだ」というのが本人の受け止めである。
バンドの説明によれば、この曲は書かれて以来ACCEPTの全公演で演奏され、しかも常に最後に置かれている。ホフマンいわく、簡単すぎて弾き甲斐がないので、リハーサルでは普通この曲を飛ばすのだという。
アメリカでは、この曲とジャケットをめぐって「ACCEPTはゲイのバンドではないか」という受け取られ方が生まれた。ホフマンは、歌詞の大半をギャビーが書いていたために女性の視点が入っていたことが一因だろうと語っている。バンドは他が扱わない題材を選んで挑発しようとしていた、とも述べている。
この曲を反抗のアンセムにしたのは、ギャビーの歌詞である。彼女は意図的に「抑圧への抵抗」という主題を選んだ。ホフマンは当時のバンドについて、歌詞は書けず、政治のことなど何も知らないドイツの若造だった、と身も蓋もない言い方をしている。
「Balls to the Wall」はローリング・ストーン誌の「史上最高のヘヴィメタル・ソング100選」に選ばれている。同誌の評はやや変わった角度から書かれている。メタル・バンドは弱さを認めたがらないものだが、西ドイツのACCEPTは自分たちの限界を認めるだけの分別があり、自分たちより英語の達者なマネージャーのギャビー・ホークに作詞を頼んだ——というのである。
アメリカでのブレイクは、ウドの表現では一夜にして起きた。120局を超えるラジオがプレイリストに加え、当時まだ新しかったMTVがミュージック・ビデオをヘヴィ・ローテーションで回した。そこからKISSとのツアーが始まり、それがバンドの世界的な成功の出発点になったという。
ホフマンは、キャリアで最も充実したアルバムとして2枚を挙げている。1枚が『Balls to the Wall』で、ソニーと国際契約を結び、初めてアメリカをツアーした時期にあたる。彼の言い方では、地方都市のドイツから出てきて世界を見た、という体験だった。もう1枚は復活作『Blood of the Nations』である。
『Balls to the Wall』はビルボードで最高74位を記録した。BURRN! ONLINEは、これが1980年代のACCEPTにとってチャート最高位だったと位置づけている。
『Metal Heart』のプリプロダクションが行われた場所は、よりによってアメリカのヴァーモント州に借りた一軒家だった。『Balls to the Wall』のツアーが何か月も続いた直後で、バンドには勢いが残っており、ドイツへ帰る気になれなかったのだという。そこで全ての下準備を済ませてから、ディーター・ダークスと合流して録音に入った。
そのクラシック要素はプロデューサーの発案ではない。ホフマンは、ダークスから出た話ではないはずだと述べ、その理由として、スタジオに持ち込んだデモの段階で既にその要素が入っていたことを挙げている。
アンディ・スニープによれば、ホフマンは「Metal Heart」のあのギター・パートの多くを、1984年のモンスターズ・オブ・ロックの舞台で既に弾いていた。つまりアルバムに収録されるより前に、あの一節は人前で鳴っていたことになる。
アルバムのコンセプトの出所は、当時マネージャーだったギャビー・ホーク(のちにホフマンの妻)が読んだ、機械の心臓についての雑誌記事か書籍だった。いつか人間は臓器の代わりに機械を胸に入れて歩くようになる、という内容である。40年近く経った現在、ホフマンはそれが実際にそうなったと述べている。
同じアルバムの「Teach Us to Survive」が生まれたきっかけは映画だった。アメリカで『The Teacher』という映画が作られており曲を探している、という業界の話がバンドの耳に入ったのである。録音ではスティックの代わりにブラシを使うなど、普段と違う楽器の使い方も試された。映画の方は結局どこかへ消えてしまい、曲だけが残った。
『Metal Heart』収録の「Living For Tonite」のギター・ソロを弾いているのは、ホフマンではなくヨルグ・フィッシャーである。ACCEPTのギターはホフマン一人が弾いているという印象が強いが、この曲は例外にあたる。
『Russian Roulette』のジャケットは、バンドがロシアン・ルーレットに興じているように見える演出写真である。当時の雑誌広告では、その画像の大部分が警告表示で覆い隠された。表示にはこうあった——「警告:この広告は露骨な映像を含み、自由な社会において自分自身や他者に向けられた暴力を是認する意図はない」。
その『Russian Roulette』を携えた1986年の鉄のカーテンの向こう側、ポーランドでの公演では、当局からアルバムのタイトルをそのまま名乗らないよう求められた。「ロシアン・ルーレットとは呼ばせてもらえなかった。『ルーレット・オブ・ライフ』と呼んでいただけますか、と言われた」とホフマンは語っている。歌詞も事前に提出させられたはずだという。
『Russian Roulette』や『Metal Heart』の頃、ACCEPTは軍服めいた出で立ちでステージに立っていた。ホフマンの説明では、あれは軍事的なものを茶化す、ユーモラスな試みだったという。歌詞では同じ題材をあくまで真剣に扱っていたが、ステージ上では真面目一辺倒のつもりではなかった、というのが本人の言い分である。
80年代のACCEPTの歌詞にクレジットされている「Deaffy(デフィ)」という名義の正体は、マネージャー兼作詞者のギャビー・ホーク(のちにホフマン姓)である。彼女は長年すべての取材を断っており、2004年にファンサイトが行った取材が初のインタビューだった。
彼女の関与は途中から一気に深くなる。『Restless and Wild』では数曲の作詞にとどまっていたが、『Balls to the Wall』以降は全曲の詞を書くようになった。ホフマンは彼女を「このバンドの目に見えない静かな原動力」と呼び、歌詞の多くとアルバム・ジャケットの多くが彼女の担当だったと語っている。
1987年にウド・ダークシュナイダーがACCEPTを離れた経緯について、本人は「自分から辞めた」のではないと一貫して述べている。「彼らは俺をクビにしたんだ。これは非常に重要な点だ」「自分のバンドをクビになるというのは、なかなか興味深い経験だよ」というのがウドの言い方である。
ウドは、その決定の理由についても具体的に語っている。「もっとコマーシャルになるために」自分をクビにしたのだと述べ、バンド側から「ウドがいてはアメリカ市場を突破できない」と言われた、という言い方をしている。
その『Animal House』の中身についてウドはこう語っている——あれは本来『Russian Roulette』の次に出るはずだったACCEPTのアルバムで、バンドから「もう要らないから曲は全部持っていっていい」と言われたのだ、と。つまり幻に終わったACCEPTの新作が、そのままU.D.O.のデビュー作になったことになる。
そのリースは当時、コロラドの山中に身を潜めるように暮らし、真冬に働いていた。そこへウルフ・ホフマンから電話がかかってきて、2日後にはデュッセルドルフ行きの飛行機に乗っていたという。
リースのオーディションは6週間に及んだ。バンドが絶対に確信を持ちたかったからである。最終審査はケルンのクラブ「ジ・エンパイア」での実演で、「これが最終オーディションだ、このクラブで演奏する」と告げられたという。一夜明けて、ギャビー・ホフマンが手を差し出して言った——「ようこそACCEPTへ。採用よ」。
その最終オーディションの公演には、ギャビー・ホフマンが業界関係者を大勢招いていた。リースは後になって、客席にブルース・ディッキンソン、K.K.ダウニング、グレン・ティプトンがいたと聞かされたという。
リースは正式加入が決まったその日に、ピーター・バルテスとケルンへ出かけてACCEPTのタトゥーを入れている。そして解雇された後、真っ先にしたのはタトゥー・ショップへ行くことだった。彼はそれを髑髏で上書きして消した。
プロデューサーのディーター・ダークスは、リースにこう告げたという。「お前は自分が何者なのか分かっていない。それを見つけ出すのが俺の仕事だ」。二人はそこから約9か月をかけて歌を作り込み、リースは別のヴォイス・トレーナーにも通わされた。
制作の終盤、ダークスはテープ・マシンを止め、真顔でリースに向き直ってこう言った。「これが失敗したら、責められるのは俺とお前だ」。理由は身も蓋もないものだった——「ウドは商標なんだ」。
そのレコーディングは一度中断している。リースによれば、ダークスは制作中に心臓の持病でニトログリセリン錠を服用しており、心臓発作を起こしてスイスで療養したためである。
『Eat the Heat』のドラムは電子ドラムで録音された。ホフマンは機種をシモンズのものだったと思うと述べたうえで、「高価だったが、まるで使い物にならなかった」と切り捨てている。さらに、ダークスがドラムの一打一打まで細かくアレンジしたため、シュテファン・カウフマンは普段の叩き方ができなかったとも語っている。
『Eat the Heat』にはジム・ステイシーがセカンド・ギタリストとしてクレジットされているが、ホフマンは「彼は弾いていないと思う」と述べている。自分がいつもギター・トラックの大半を弾いていた、というのが理由である。
この時期の穏やかな逸話も残っている。リースはボンのクラブで行われたスティーヴィー・レイ・ヴォーンのライヴにホフマンを連れて行った。ホフマンはビールに一切手をつけないほど演奏に見入り、その帰り道、24時間営業の店に寄ってヴォーンのアルバムを片端から買い込んだという。
『Eat the Heat』のツアーは、始まりと終わりの落差が激しかった。W.A.S.P.との帯同初日はテキサス州サンアントニオで約1万人。ところが後半は失速し、ボストンでは予定されていた劇場公演が直前に200人規模のクラブへ移され、3バンド合わせて客は約100人だったという。
リースがACCEPTとしてヨーロッパで演奏したのは、オーディションを兼ねたケルンの一度きりだった。正規のヨーロッパ・ツアーは一度も行われていない。「アメリカを攻略しなければ」というのが当時のバンドの方針だったためである。
そのツアーの途中でシュテファン・カウフマンが叩けなくなり、代役としてケン・メリーが加入した。メリーはセットの全曲をわずか2日で覚えたという。なお、このときカウフマンが降りた理由については説明が割れている。日本の公式バイオグラフィーとケン・メリー本人は背中の不調を挙げるが、カウフマン側の公式バイオはデヴィッド・リースとの不和だけを理由に挙げ、背中には一切触れていない。
ツアーは最後まで行かずに打ち切られた。ケン・メリーは、電話で「帰るぞ」と告げられたときのことを、冗談だと思ったと振り返っている。日程はまだ1か月ほど残っていた。
1989年のバンド崩壊について、ホフマンは意外な見立てを述べている。決定打はヴォーカリストとベーシストの衝突ではなく、シュテファン・カウフマンがツアー中に脱落したことだった、というのである。背中の問題だけでなく精神的な限界も大きかった、とも彼は見ている。
リースの離脱についてホフマンは、婉曲な言い方をしていない。「彼が辞めた——というより、我々が事実上クビにした。そしてあのアルバムの後、バンドは解散した」というのが本人の表現である。
ホフマンは『Eat the Heat』そのものについて「最初から狂っていたアルバム」と切り捨てている。曲は良かったが、ダークスに任せきりにして時間をかけすぎ、客観性を失ってしまった、というのが彼の振り返りである。90年代を含むこの時期をまとめて「ACCEPTの歴史の暗い時代」とも呼んでいる。
リース本人の総括は、バンド名に向かっている。あのときACCEPTは名前を変えるべきだった、というのが今も変わらない彼の考えである。既存のブランドに乗ったことが裏目に出た、というのがその理由だ。
商業的な失敗作とされる『Eat the Heat』だが、ノルウェーとスウェーデンではゴールドを獲得している。リースはそれを雑誌で知ったという。CBSに問い合わせると「600ドルで買える」と言われ、記念盤はもらえなかった。後年、コレクターの友人がヨーロッパ5万枚達成の記念盤を額装して贈っている。
ピーター・バルテスはMetal Hammer誌に「ACCEPT最悪のアルバムは?」と訊かれ、『Eat the Heat』を挙げたと語っている。理由は明快だった。バンドのサウンドそのものだった歌い手を失い、アメリカ人シンガーでDEF LEPPARDのような音を出そうとした——それが当時の判断だった、というのである。
再結成の引き金は郵便物だった。ウドによれば、ライヴ盤『Staying a Life』がよく売れ、世界中から「また一緒にやってくれ」というファンレターが山のように届いた。そこで1992年に会合が持たれ、「よし、もう一度やってみよう」ということになったのだという。
ホフマンは、再結成作に特有の熱量をこう説明している。「解散して、また集まるたびに、余分なエネルギーが湧いてくるんだ。まだやれるんだと世界に証明したくなるからね」。彼によれば、同じことは後年マーク・トルニロを迎えて『Blood of the Nations』を作ったときにも起きたという。
しかしシュテファン・カウフマンによれば、再結成の直後にはもう最初の問題が起きていた。「ウルフとピーターは、ウドと自分とは違う音楽をやりたがった。『Death Row』はその不一致の産物で、『Predator』が決定打だった」というのが彼の説明である。
『Death Row』は、ホフマンの言い方では「自家製プロダクション」だった。録音場所はバンドのリハーサル施設内にある、シュテファン・カウフマン所有のスタジオで、外部の人間は一切入っていない。次作『Predator』の方が音がずっと良い理由を訊かれた彼は、マイケル・ワゲナーがミックスしたからだと即答している。
『Death Row』には、『Eat the Heat』収録曲「Generation Clash」の再録音が入っている。ホフマンによれば、これはシュテファン・カウフマンの発案だったという。元の製作が正しくなく、自分たちのデモ版の方が良かった、というのがその理由である。
カウフマンは1994年に正式メンバーではなくなった後も、バンドから完全に離れたわけではなかった。本人によれば、ライヴ盤のための録音を担当して6〜7公演に帯同し、そのポストプロダクションと最終ミックスも手がけている。
その『Predator』では、ベーシストのピーター・バルテスが3曲でリード・ヴォーカルを取っている。さらに「Crossroads」ではウドとヴォーカルを分け合っており、ウド在籍期の作品としては異例の配分だった。
『Predator』の作り方は意図的に変えられていた。シアトルとグランジで音楽の流れが変わった時期にあたり、ホフマンによれば「より生々しく、より即興的に。作り込みを減らし、オーヴァーダブは確実に減らす」方向へ寄せている。一時は「オーヴァーダブなし、オーヴァーダブなし」と考えていたという。
二度目の終わりについては、当事者の説明が真っ向から分かれている。ホフマンの側の説明はこうだ——『Predator』の時点でウドの脱退は既に双方分かっており、歌に身が入っていなかった。出来が悪かったのでピーター・バルテスが仮に入れていたヴォーカルの一部をそのまま残したところ、それがウドを激怒させ、彼はバンドを去った。
ウド側の説明はこれとは別のところを見ている。「険悪というほどではないが、空気が違っていた。音楽的にもう化学反応が起きなくなっていたんだ」。そのうえで1996年の最終ツアーを終えたところで「ACCEPTは完全に終わり」と決め、再びU.D.O.を始動させたのだという。スクラッチ・ヴォーカルの件には触れていない。
ホフマンはこの時期を思い出したがらない。「あの頃のことはなるべく考えないようにしている。嫌な時期で、バンドの空気は最悪だった」と語り、このアルバムをあまり聴きたくないとも述べている。
90年代のACCEPT作品について、ホフマンの評価は率直である。「振り返ると、正直なところ90年代は丸ごと忘れてしまいたい」。フランネルシャツとグランジの時代で、派手なギター・ソロの入るヘヴィメタルを誰も求めていなかったため、作風をかなり変えざるを得なかったというのがその理由である。
ドラムを断念したシュテファン・カウフマンは、ACCEPT解散後の1996年末、U.D.O.にギタリストとして加わった。ウドによれば、彼はドラムを始める前からギターを弾いていたのだという。「でも、もうドラムは叩けない。大きな背中の問題を抱えているんだ」というのがウドの説明である。
2009年の再始動を後押しした要素のひとつは、映画だった。マーク・トルニロによれば、『レスラー』が公開されて「Balls to the Wall」が劇中で2回も使われ、曲に注目が集まった。やるならいまだ、とホフマンとバルテスは考えたのだろう、というのが彼の見立てである。当時バルテスは、サーファイア・スタジオで息子のレコードをプロデュースしていた。
トルニロの名前を最初に出したのは、その場に居合わせたスタジオのオーナー、ジョーイ・デマイオだった。ホフマンとバルテスがぼやいているのを聞いて「マークに電話したらどうだ」と言ったのだという。バンド側の反応は「マークって誰だ?」だった。
運命を決めたジャム・セッションの日、トルニロは気管支炎でひどい状態だった。ほとんど喋れないほどだったが、「どうせ行く」と決めて出かけ、ウルフとピーターと午後いっぱい演奏した。それでも何とか歌は出せたという。
トルニロはその日を、その場限りの遊びだと思っていた。2週間後にまた電話が鳴り、バルテスが「レコードを作ってツアーに出るというのはどうだ」と訊いてきた。彼が妻に「レコードとツアーってどう思う?」と相談すると、返ってきた答えは「やった方がいいわよ」だったという。
加入が発表されると、トルニロは四方八方から攻撃された。殺害予告まで届いたという。バンドはそこで制作の速度を落とし、「やるなら、とんでもないアルバムを1枚書くしかない」と腹を括った。
『Blood of the Nations』は、レコーディングに入る前の作曲だけで1年近くかかっている。トルニロはアンディ・スニープを迎えられたことを「ケーキの上のアイシング」——仕上げの一手——と呼び、「スニープがいなければ、今の位置にはいなかったと思う」と語っている。
新生ACCEPTの代表曲になった「Teutonic Terror」は、もともとACCEPTの曲ではなかった。ベートーヴェンの交響曲第9番第2楽章を下敷きに、ホフマンが何年も前に録音していた素材である。再結成して『Blood of the Nations』に取りかかった頃、それをアンディ・スニープらに聴かせたところ全員が気に入ってしまい、結局そのリフを土台にACCEPTの曲が作られることになった。
マーク・トルニロを擁するACCEPTの初ライヴは、2010年5月8日、ニューヨークのザ・グラマシーだった。収容750〜800人程度の会場で、アルバムはまだ発売前。先行曲の「The Abyss」だけが出ていた時期である。
『Blood of the Nations』の初週チャートは、ドイツ4位、スウェーデンとハンガリーが7位、フィンランド9位、ビルボードのヨーロピアン・チャートで12位、オーストリア19位、チェコ27位。ホフマンはその結果に「完全に足をすくわれた」と驚きを表明している。
一方、アメリカでの数字はまったく違っていた。『Blood of the Nations』の米国初週売上は約2,900枚、ビルボード200では187位である。ヨーロッパで一桁順位に入った同じアルバムが、アメリカではこの位置だった。
復活直後の2010年、ACCEPTはニューヨークのソールドアウト公演で新編成をお披露目したあと、80日間で16か国を回った。その中にはAC/DCの前座を務めた2公演も含まれている。アメリカをツアーするのは14年ぶりだった。
2012年の『Stalingrad』の表題曲は、英雄譚として書かれていない。近代史でも最悪の戦闘のひとつを扱いながら、バンドが疑ったのは前提そのものだった——最期の一息を吸うとき、人間の頭にあるのは本当に敵を殺すことだけなのか。二人の人間が死につつあるという視点を、彼らは「Brothers in death」と呼んでいる。
『Stalingrad』のギターの録り方には、当時公表されなかった事情がある。ホフマンはアルバム全編をケンパー・プロファイリング・アンプで録音していた。自前のマーシャルやランドールなどをケンパーに通してプロファイルし、それを鳴らして録るという手順である。反発を恐れて彼はそれを黙っていた。「本物のマーシャルじゃないのが聴けば分かる、と言われるに決まっているからね」というのが理由だった。
『Stalingrad』の初週はハンガリー5位、ドイツ6位、フィンランド8位、スウェーデン10位。イギリスは総合32位だがロック・チャートでは2位、アメリカは81位で、初週売上は約5,400枚だった。
2012年のKREATORとの共同ヘッドライン・ツアー「Teutonic Terror Attack」は、ドイツ産メタルを前面に打ち出す企画だった。ホフマンは両バンドがともに製鉄地帯ルール地方の出身だと指摘し、その少し前にイギリスの鉄鋼業地帯から同じようにバンドが生まれてきたことと重ねている。
『Blind Rage』の制作でACCEPTは、自分たちにとって初めての経験をした。曲が余ったのである。8か月かけて18曲を完全に書き上げ、そのうち15曲をレコーディングまで持っていった。ホフマンいわく「昔の我々は曲が足りないことで有名だった」——だからこれは初めてのことだった。
その書き直しの徹底ぶりを、ホフマンは日本の取材で数字にして説明している。曲作りに6〜8か月をかけ、どの曲も最低5〜7回は書き直した。とくに「ワナ・ビー・フリー」については、最初のバージョンから完成形に至るまで「百万回アレンジし直した」という言い方をしている。
『Blind Rage』というタイトルは、収録曲から取られたものではない。ホフマンいわく「面白いことに、Blind Rage という曲は入っていないんだ」。タイトルとアートワークに惚れ込んで、それだけで決めたのだという。
『Blind Rage』は、米国のラジオ番組「METAL ON METAL」が選ぶ2014年のベスト・アルバム25で1位を獲得した。
2017年ヴァッケンでのオーケストラ共演は、そもそもACCEPTの企画ではなかった。ヴァッケン側がホフマンをソロ作『Headbangers Symphony』の公演に招いたところから話が転がり、「あなたもいる、ACCEPTもいる、オーケストラもいる。ACCEPTの曲もやったらどうか」という流れになったのだという。
その編曲は本番の約1年前から始まっていた。ホフマンが組んだのは友人のメロ・マファリで、彼はこの一連のアレンジの「設計者、あるいはマエストロ」だったという。オーケストラに合わないと判断した曲には、そもそも手を付けなかった。
その公演でホフマンが選んだ相方は、ヴァイオリンだった。エレクトリック・ギターとヴァイオリンを組み合わせて興味深いデュエットにする、という発想である。起用されたアヴァ=レベッカ・ラーマンは10歳でソロ・デビューし、BBC交響楽団やロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とも共演してきた奏者だった。
その『Too Mean to Die』の録音中、プロデューサーのアンディ・スニープはコロナ対策の入国規制でアメリカに入れなくなった。バンドはナッシュヴィルのスタジオで自分たちだけで録り、スニープはオンラインで全テイクを聴いて指示を出した。このリモート方式になったのは最後の4〜5曲だという。
その「The Undertaker」は、同名で知られるプロレスラーとは何の関係もない。作り方も彼らには珍しく、マーク・トルニロが謎めいた葬儀屋についての歌詞を先に書き、ホフマンがその言葉に曲を付けている。
曲を書くときホフマンの頭にあったのは、西部劇に出てくる葬儀屋だった。黒ずくめの不気味な男というイメージが曲全体を決めたという。イントロとギター・ソロにマカロニ・ウエスタン的な色が付いているのはそのためである。
「Overnight Sensation」は、当初「These Annoying YouTube Kids」といった仮題で構想されていた。曲中のカーダシアン家への言及はマーク・トルニロのアイデアで、彼が歌詞を書き殴っていく過程で出てきたものだという。
2024年の『Humanoid』のテーマは「人間対機械」である。どれだけ機械やロボットが自分たちの生活を支配しているのか、これからどうなるのか——ホフマンはそう説明する。ただし彼は、これはコンセプト・アルバムではないとも明言している。
『Humanoid』の制作過程で、ホフマンは実際にAIに歌詞のアイデアを出させて試している。結果は「怖いくらい良かった」。それでも最終的に、彼はそのひとつも使わなかった。
一方でAIは、別の形で作品に入っている。表題曲「Humanoid」のミュージック・ビデオで、バンドの背後の巨大なヴィデオ・ウォールに流れるアートワークは、すべてAIが生成したものである。アルバムのテーマに合わせた選択だった。
『Humanoid』のシングル「The Reckoning」の歌詞は、ベーシストのマルティン・モトニクが全て書いたものである。ホフマンはその歌詞に、後から曲を付けた。
同じアルバムの「Frankenstein」を持ち込んだのはギタリストのウヴェ・ルリスだった。彼が「フランケンシュタイン」と口ずさむ基本コンセプトを持ってきて、そこにトルニロが物語を付けている。アルバムのテーマと重なったのは偶然だったという。マーク・トルニロの説明では、この曲は怪物の側から語られる——彼は巻き込まれただけの傍観者で、蘇らせてくれと頼んだわけではないが、生きていること自体は嬉しがっている。
『Humanoid』のバラード「Ravages of Time」は、加齢が自分に及ぼす代償を歌ったものである。ホフマンの言い方はこうだ——気分はいまだに16歳のままなのに、鏡を見ると64歳の男が映っている。
アンディ・スニープについて、ホフマンは「もはや家族の一員のようなものだ」と言う。スニープはもともとACCEPTを聴いて育った人物で、「ACCEPTのファンが何を求めるかを本当に理解している。彼自身がそうだったから」というのがホフマンの評である。
そのスニープがACCEPTを知ったきっかけは、1982年末のKerrang!の表紙だった。白いフライングVを持ったウルフ・ホフマンが線路にまたがっている写真である。
「Balls to the Wall」の新録では、ジューダス・プリーストのロブ・ハルフォードが歌い、ソロをスコーピオンズのマティアス・ヤプスが弾いている。ベースはPANTERAのレックス・ブラウン、ドラムはBULLET FOR MY VALENTINEのジェイソン・ボウルド。ただしリズム・ギターについてホフマンは、「全部おれが弾いた」と述べている。
GHOSTのトビアス・フォージが「Save Us」で歌うことになった経緯は偶然に近い。彼がストックホルム公演に現れ、ホフマンに向かって「自分の一番好きなACCEPTの曲は Save Us で、GHOSTでカヴァーしようとしたこともある」と話したのである。ホフマンの反応は「Save Us? そんな曲のことなんて覚えてもいない。誰も話題にしたことがないよ」だった。彼は自分で聴き直すことになった。
参加者の側から見ると、この企画の規模がよく分かる。MR. BIGのビリー・シーンは4曲でベースを弾いたと語っているが、思い出せたのは「Fight It Back」と「Restless And Wild」の2曲だけで、残り2曲は忘れたと言っている。ANTHRAXのフランク・ベロは「Save Us」の担当だった。
参加曲が本人の口から明かされた例もある。QUEENSRŸCHEのトッド・ラ・トーレは、2026年6月19日のヘルフェストでACCEPTと「Run If You Can」を共演し、これが新作で自分の参加した曲だと明かした。
『Blood of the Nations』から『Humanoid』まで6作を手がけてきたアンディ・スニープは、この50周年盤の制作陣には入っていない。ホフマンによれば、理由は本人が「1年休ませてくれ」と申し出たからである。「プロデュースしてくれと頼み込んだんだが」とホフマンは付け加えている。代わりにプロデュース、ミックス、マスタリングを担当したのは、スニープの友人であるクリス・“ズース”・ハリスだった。ただしスニープの名前がこの作品から消えたわけではない。彼は「Demon's Night」に演奏ゲストとしてクレジットされている。
1989年のツアーで代役として叩いたケン・メリーは、そのACCEPTの50周年記念アルバムでも2曲でドラムを叩いたと語っている。ホフマンとバルテスとは今も友人で、これまでに何度か正式加入を打診されたこともあるという。
50周年ツアー「Half A Century Of Metal」は、2026年11月から12月にかけて欧州11か国で24公演が組まれている。ゲストはDYNAZTYとTAILGUNNERである。
50周年の祝賀はライヴの側でも始まっている。最初のスペシャル・ゲストとして迎えられたのは元MEGADETHのショーン・ドローヴァーで、2026年5月の3公演(ノルウェーのカルモイゲドン、ヨーテボリ、ストックホルム)に参加した。ストックホルム公演にはさらに、EUROPEのジョン・ノーラム、OPETHのフレドリク・オーケソン、THE HAUNTEDのオーラ・エングランドが飛び入りしている。
2024年、ホフマンは自分の立場をこう表現した。「自分は船長で、他の全員が船を降りてしまい、新しい乗組員を乗せている感じだ」。ただし彼はそれを誇ってはいない。そうなったのは「消去法でそうなっただけ」だとも述べている。
2014年12月、ギタリストのハーマン・フランクとドラマーのシュテファン・シュヴァルツマンが同時に離脱した。バンドの声明は円満退団を強調するものだった。「彼らには自分たちのキャリアがあり、いずれ我々の力の及ばないスケジュール等の衝突が起きることは、我々もファンも分かっていた」。
ところが翌月、ウド・ダークシュナイダーが正面から違うことを言った。「言っておくが、彼らはバンドを辞めたんじゃない。クビになったんだ」。ウドはハーマン・フランクと大の親友だとも付け加えている。
そしてホフマンの説明は、そのどちらとも少し違う。日本の取材に対し彼は「ハーマンとステファンのバンドからの脱退はかなり突然の出来事だった」と述べ、「彼らは自分達のプロジェクトを持っていて、そっちに集中したくなって、ある日突然告げられた」と語っている。そのことに敬意を払って二人を解放した、というのが彼の言い方である。同じ出来事について、三者三様の説明が並んでいることになる。
後任のギタリストとして2015年に加入したウヴェ・ルリスは、それ以前からACCEPTのギター・テックとしてバンドを手伝っていた人物だった。ホフマンは2017年1月の取材で、GRAVE DIGGERでの活動は知っていたが個人的に知り合ったのは「3〜4年前に彼がギター・テックとして俺達をヘルプするようになってから」だと語り、こう続けている——「あんなに素晴らしいギタリストだってことは、俺はまるで知らなかった」。
2018年11月28日、ピーター・バルテスが自ら「ACCEPTのベーシストとしての脱退をここに表明する」と発表した。ホフマンの声明はこうだった——四十年をともに過ごし、良いときも悪いときも通り抜けた、ステージ上の素晴らしい瞬間をいくつも覚えている。そのうえでバンドは「全速力で続く」と宣言した。
そのときホフマンが書いた一節は、後になって別の色を帯びる。「とくにこの10年は、ACCEPTの復活があまりに楽しく、あまりにうまくいっていたので、このまま永遠に続いて、二人でことわざ通りの夕日へ向かって船を進めるものだと思っていた——どちらかがステージの上で倒れるまで」。
バルテス本人の説明は、それとはまるで温度が違う。彼は後年、終盤のACCEPTでは自分は正式メンバーですらなく「雇われの鉄砲玉」だったと語っている。意思決定に関われなくなったのなら続ける意味がない、というのが彼の言い分である。
バルテスは音楽面の理由も挙げている。復活1作目の『Blood of the Nations』は、自分が長年ためてきたアイデアをホフマンと共作したもので手応えがあった。しかしその後は「またあの同じリフだ、同じ歌メロだ。言葉が違うだけ」と感じるようになった、というのである。
そのシャウズは、ACCEPTに入る前にKISSの二人と長く仕事をしていた。エース・フレーリーのソロ・ツアー・バンドに4年、ジーン・シモンズのソロ・バンドに2年である。現在はナッシュヴィル在住で、スウェーデンのノンアルコール・ビール会社Rock N Röllの共同創業者でもある。
そのシャウズがツアーに出られなくなった際、助っ人としてジョエル・ホークストラが入った経緯は極端に速い。紹介したのはDAMN YANKEESとLYNYRD SKYNYRDのマイケル・カルテローネで、連絡が来てから1分ほどでホフマンと繋がり、その2日後ほどにはナッシュヴィルでコーヒーを飲みながら話がまとまっていた。
2025年9月25日、ACCEPTはウヴェ・ルリスとの決別を発表し、伝統的なツイン・ギター編成に戻った。声明は「この決定は純粋にロジスティクス上の問題によるもので、個人的にも音楽的にも一切の不和はない」としている。3本のギターを並べた体制は、この時点で一区切りとなった。
その3本ギター体制について、かつてホフマンとツイン・リードを組んでいたハーマン・フランクは2024年、皮肉を隠さなかった。「今の彼らは、俺がウルフとツイン・リードでやっていたことをやるのに、3〜4人のギタリストが必要なんだ。情けないよ」。
80年代を生き延びた理由について、ホフマンは薬物に一切近づかなかったことを挙げている。マネージャーだった妻のギャビーが、バンドの誰もドラッグに近づかないようにしていたのだという。ホフマン自身は「マリファナすら吸ったことがない」と語っている。
そのホフマンが、酔った状態でステージに立ったのは生涯で一度だけだという。80年代後半、ロサンゼルスのトルバドールでの公演で、客席にはレミーがいた。テキーラを1杯多く飲んでしまい、自分がどこにいるのか、次にどのパートが来るのかも分からないまま、自動操縦で弾いていたと本人は語っている。
80年代初頭、ブルックリンのラムーアでのアメリカ初公演は、チケットが売れすぎて危険なほどの超満員だった。そしてこの店のハウス・バンドが、マーク・トルニロのT.T. Quickだった。ホフマンは「あれほど人生を変えた出来事はない」と言いながら、こう続ける——「それなのに、俺たちは彼らに会わなかったんだ」。トルニロが加入するのは、そこから四半世紀後である。
ACCEPTは母国ドイツで長く認められなかった。ホフマンによれば、それが変わったのは1984年にアメリカから帰国したときである。初めてアメリカへ渡って8か月滞在し、帰国後最初のドイツ公演がカールスルーエのモンスターズ・オブ・ロックだった。バンを降りてステージ裏に着いただけで場内が沸き、留守の間に何かが変わったのだと悟ったという。
ホフマンには音楽以外にもうひとつの職歴がある。写真家としても成功しており、本人いわく「生活のためだけなら、一日中写真を撮っている方がずっと楽でストレスも少ない」。それでも音楽の方が報われるから、ACCEPTを続けているのだという。
読者から「一番ロックンロールらしくない趣味は?」と訊かれたホフマンは、質問者が挙げた編み物や園芸は自分の予定表には無い、と答えたうえでこう続けた——写真と、家を設計して建てることは大いにやっている、と。
鉄のカーテンの向こう側では、ACCEPTのアルバムは店では買えなかった。1980年代の旧ソ連圏では、それがファンからファンへ自家製のカセットで手渡されていたという。当局の音楽規制に対する抵抗の一形態でもあり、現地のガレージ・バンドはリフやメロディだけでなく、ロゴまで真似たと伝えられている。
細かい偶然だが、ピーター・バルテスとウド・ダークシュナイダーの誕生日は2日しか離れていない。バルテスが4月4日、ウドが4月6日である。
ホフマンは2024年8月末、シンフォニック・テラーのツアーで共演したヴァイオリニストのアヴァ=レベッカ・ラーマンと結婚したことをインスタグラムで発表した。前妻でありバンドのマネージャーだったギャビー・ホフマンは、2019年7月にACCEPTの職務から引退している。