SCORPIONS トリビア 全53件
SCORPIONSにまつわる事実を、出典付きで53件掲載しています。
Trivia
日本での成功は早かった。ルドルフ・シェンカーは、1976年の『Virgin Killer』が当時の日本の空気と完全に噛み合ったと述べており、この作品は日本でゴールド・ディスクを獲得している。同じ音がドイツ人の耳にはかなり異様に響いたという対比も彼は語っていて、マイネのかつてのバンド、ザ・マッシュルームズの元同僚は、この作品を3曲聴いたところでヘッドフォンを外し、これ以上は聴けないと言ったという。評価は聴く場所によってそこまで違った。
1970年代のスコーピオンズの日本盤には、原題とは無関係の邦題が付けられていた。しかもその付け方に一貫した型がある。『Fly to the Rainbow』が『電撃の蠍団』、『In Trance』が『復讐の蠍団』、『Virgin Killer』が『狂熱の蠍団』、『Taken by Force』が『暴虐の蠍団』。いずれも漢字二字に「蠍団」を重ねる形で、バンド名そのものを日本語に置き換えた呼び名が定着していたことが分かる。
スコーピオンズが初めて日本を回ったのは1978年4月である。この来日で録られたのが、後に長く聴かれることになるライヴ盤『Tokyo Tapes』で、会場は中野サンプラザだった。ウリ・ジョン・ロートにとっては在籍最後の時期にあたり、彼は2015年に同じ会場で当時の演奏をやり直す公演を行っている。
2016年の来日は9年ぶりだった。東京公演は10月6日、Zepp DiverCity で約100分。1曲目は『Return to Forever』の「Going Out with a Bang」だった。この夜のセットにはモーターヘッドの「Overkill」のカヴァーが入っており、クラウス・マイネはこれをレミーへの手向けだと述べ、演奏中は背後に彼の姿が映し出された。ミッキー・ディーはそのモーターヘッドの元ドラマーである。バンドはこの2日後、10月8日にさいたまスーパーアリーナで開かれた LOUD PARK 16 にも出演している。
2026年1月23日、スコーピオンズは公式サイトで、長年のベーシストだったフランシス・ブッフホルツの訃報を伝えた。文章は「親愛なるファンのみなさんへ」と呼びかける短いもので、長年の友人でありベーシストだった彼の遺したものはバンドとともに永く残り続けること、ともに過ごした良い時間をいつまでも覚えていることが記され、ヘラをはじめとする遺族と友人に向けた言葉で結ばれている。署名はクラウス、ルドルフ、マティアスの3人だった。
バンド自身の略歴は、アメリカでの到達点を3枚の名前で示している。ビルボード200のトップ10に入ったのは1988年の『Savage Amusement』が5位、1984年の『Love at First Sting』が6位、1982年の『Blackout』が10位。主要4市場での認定売上は2,200万枚、全世界の総売上は1億枚を超えるとされ、これによりスコーピオンズは大陸ヨーロッパで最も成功したロック・バンドだと自ら位置づけている。
1990年の『Crazy World』は、バンドにとって二重の区切りだった。まずディーター・ダークスとの長い関係がこの作品の前に終わっている。そしてこれが、スコーピオンズが初めて自分たちでプロデュースしたアルバムでもある。制作はロサンゼルスで行われ、キース・オルセンが共同プロデューサーとして付いた。結果としてこの作品は、それまでで最も成功した1枚になった。
1996年の『Pure Instinct』は、ドラマーが不在のまま仕上がった作品である。ハーマン・ラーベルが1995年の終わり、完成の直前に離れたため、公式のクレジットではドラムはセッション奏者のクルト・クレスが担当している。共同プロデュースはキース・オルセンとエルヴィン・ムスパー。後任は電話一本で決まった。1995年にバンドがマネージャーとして迎えたのは元AC/DCのスチュワート・ヤングで、彼がジェイムズ・コタックに電話をかけ、1996年から97年のツアー要員として雇ったのである。コタックはこのバンドで初めてのアメリカ人となった。
「Wind of Change」を書かせたのはベルリンの壁ではない。きっかけは1989年8月、モスクワのレーニン・スタジアムで開かれたモスクワ音楽平和祭で、スコーピオンズはオジー・オズボーン、モトリー・クルー、シンデレラ、スキッド・ロウ、そしてゴーリキー・パークらロシアのバンドとともに、30万人の前で演奏した。この催しは59か国へ生中継されている。その光景に動かされたクラウス・マイネは曲を書き始めたが、ギターに自信がなかったため、主旋律をギターではなく口笛で示した。あの口笛はそうやって生まれている。
曲と歴史的事件の順番は、一般に思われているのと逆である。ベルリンの壁が崩れたのはモスクワでの催しから数か月後の1989年11月だが、「Wind of Change」が世に出たのはその1年後、1990年のアルバム『Crazy World』の4曲目としてだった。シングルとして切られたのはさらに後で、ヨーロッパでは1991年1月、しかもアルバムからの3枚目である。先行したのは「Tease Me, Please Me」と「Send Me an Angel」だった。マイネは、自分たちはロック・バンドなのだから1枚目も2枚目もロック曲にするという考えだっただけで、壁が崩れたから今この曲を、という判断は誰もしていないと述べている。
クラウス・マイネは2022年、「Wind of Change」の歌詞を書き換えた。ロシアによるウクライナ侵攻を受けてのことで、彼はウクライナのテレビ局TCHに対し、モスクワ川やゴーリキー・パークを歌ってロシアを美化する時ではないと述べている。この曲はもう平和の讃歌でも希望の歌でもなくなってしまった、だから歌詞を変えなければならなかった、というのが彼の説明だった。現在この一節では、地名の代わりにウクライナの名が歌われている。
スコーピオンズを始めたのはルドルフ・シェンカーで、活動は60年に及ぶ。本人によれば、当時の彼には電気工という平凡な昼の仕事があり、その日常と、一度の公演のためにマルセイユまで車を走らせて帰ってくる高揚との落差が、彼を音楽へ押し出した。革のズボンは自分たちで作っていたという。方向を決めたのは一つの判断だった。アモン・デュールのようにドイツ語圏で大きなクラウトロック・バンドになる道もあったが、英語で歌って国外で演奏すれば本当に大きくなれる。どこかで成功すればレコード会社がその国に自分たちの盤を置いてくれる——それが仕掛けだった、と彼は説明している。
ウリ・ジョン・ロートの後任として2人目のリード・ギタリストの席に座ったのがマティアス・ヤプスである。彼はこの席を、他の140人のオーディション参加者を抑えて勝ち取った。加入は1979年の『Lovedrive』の録音に間に合っており、以後この編成が長く続くことになる。
ソ連での公演は思いつきではなく、数年がかりで実現している。ルドルフ・シェンカーが最初にそれを言い出したのは1982年、『Blackout』の北米ツアーがマディソン・スクエア・ガーデンのような会場を回り、「No One Like You」が全米のロック・ラジオで火を噴いていた頃だった。向こうには何も無い、レコード会社すら無い、だからこそドイツの新しい世代が愛と平和とロックンロールを持って行くのだ、というのが彼の言い分である。転機は1984年のモンスターズ・オブ・ロックで、東欧のプロモーター、ラズロ・ヘゲデュシュと話したときに訪れた。ヘゲデュシュはゴルバチョフという新しい人物のことを伝え、話をつけると請け合い、実際にそうした。前座を務めたのはゴーリキー・パークだったが、初日に彼らはマネージャーの不手際でアンプを持たずに現れた。スコーピオンズは自分たちの機材を並べ、好きなものを使えと言った。
『Blackout』は評価の高い作品だが、クラウス・マイネにとってはキャリアで最も苦しい時期にあたる。セッションが始まった段階で彼の声の異常に最初に気づいたのは、長年バンドを手掛けてきたプロデューサーのディーター・ダークスだった。結果として、声帯にできた結節をレーザー手術で取り除くことになる。マイネは当時の医師から、声帯は何年かごとに薄く削られていくようなものだと言われたと語っている。今でも歌うには入念な準備と時間をかけた発声が必要で、ライヴでは本当に怖くなることがある、歌えなければ曲は成立しないのだから、と述べている。
ドイツ国内での評価を問われたルドルフ・シェンカーの答えは、自分たちには自前の空港と自前の切手がある、というものだった。実際、ハノーファー空港はバンドに敬意を表して Hub Of The Scorpions と改称されており、同空港のターミナルBには Rockstage と名付けられたスコーピオンズの常設展示が置かれている。
クラウス・マイネがスコーピオンズに入ったのは1969年の冬である。それ以前、彼はルドルフの弟であるミハエル・シェンカーとコペルニクスというバンドをやっていた。レッド・ツェッペリンやテイスト、ロリー・ギャラガーのカヴァーを演奏する組で、練習に使っていたスタジオはスコーピオンズのリハーサル室の真隣だった。ルドルフはそこでよく聴き耳を立てていたという。弟が何をやっているのかを知りたかったのである。マイネとルドルフはそれ以前、1960年代半ばから互いを知っていた。
スコーピオンズが世界に出られた理由の一つは、契約に入れた一つの条項である。ルドルフ・シェンカーは、デビュー作の契約の時点から、自分たちが公演した国では必ずレコードが店頭に並ぶという条項をすべての契約に入れさせた。海外で好評を得ても盤が現地に無ければ意味が無い、という判断である。そもそも当時の彼はギタリストであり作曲者であると同時に、バンドのマネージャーでもあった。本人によれば、1960年代の西ドイツではなぜかバンド・マネージメントという業態が認められておらず、自分たちで何とかするしかなかった。公演を取ってくるのに職業安定所を使うのが普通だったという。
『Blackout』のとき、マイネの声はいったん戻らなくなった。最初に診た医師は職業を尋ね、ロック歌手だと答えると、自分なら別の仕事を探すと言ったという。手術しか道は無く、声帯にできた結節はレーザーで取り除かれた。入院中の彼は筆談でしかやりとりできず、その間バンドはシュトメルンのダークス・スタジオで作業を続けている。術後、最初に彼の歌を聴いたのは妻のガビだった。ビートルズの曲を数曲、たどたどしく歌ってみせたのである。さらに検診で傷口にポリープが見つかり、二度目の手術を受けることになった。マイネは一度、別の歌手を探してくれとバンドに申し出ている。彼らは断った。最終的に彼を立て直したのは、オペラ歌手を診てきたウィーンの専門医だった。スタジオに戻った日、全員が耳を澄ませて彼の声を待ったという。
1979年2月、マティアス・ヤプスはヘリコプターでツアーに合流している。事の起こりはミハエル・シェンカーからの電話で、ドイツ・ツアーの代役をケルン公演から務めてほしいという依頼だった。ヤプスは即座に断り、頭を冷やすために北海のシュピーカーオーク島へ渡る。ところが到着した晩、凍える2月の気温の中をバスローブ姿の地元の巡査が電報を持って呼び鈴を鳴らした。翌日かけるべき番号が書かれていた。1979年に携帯電話は無いので、彼は小銭をかき集めて島の公衆電話から掛ける。出たのはEMIのゲルト・リュティッケで、ミハエルがケルンに現れなかったから急ぎ何とかしてくれ、という話だった。引き受けると、EMIはシュピーカーオークにヘリコプターを寄越した。そこからブレーメンへ、列車でハノーファーへ、駅からタクシーで空港へ、そしてフランクフルトへ。バンドはそこで彼を拾った。翌日のベーブリンゲン公演のセットリストは一晩で覚えている。『Lovedrive』の曲は問題なかったが、残りは『Tokyo Tapes』からの曲で、ホテルの部屋でギターを合わせながら聴き直したという。
スコーピオンズが初めてソ連で演奏したのはレニングラードで、時期は1988年の春である。クラウス・マイネは2025年のバンド公式の楽曲解説で、たしか4月だったとしたうえで、このとき10公演を行ったと述べている。彼はまた、モスクワで演奏できたのはその1年後の平和祭が最初だったとも語っている。当時の彼らには東へ行くという願望があった。東ドイツで演奏する機会は一度も無く、壁の向こうへ行く手段が無かったからである。マイネはこのときのことを、親の世代は戦車で来たが自分たちは新しい世代としてギターを持って来た、撃ち合うのではなく一緒に歌いたいのだ、という言い方で振り返っている。なお、バンド自身の略歴は、西側のロック・バンドとして5日連続の完売公演をレニングラードで行ったのは自分たちが最初だと記している。
ウリ・ジョン・ロートは、1977年の『Taken by Force』を録る前の時点ですでに脱退を決めていた。本人の説明では、この作品での自分は「Sails of Charon」と「We'll Burn the Sky」を除いて惰性で弾いていたという。決定的だった瞬間として彼が挙げるのは、1978年の中野サンプラザのステージでのサウンドチェックである。「Earthquake」の冒頭を弾いたとき、これはスコーピオンズの曲ではないと確信した。だから抜けるのが正しかったのだ、というのが彼の言い方である。
スコーピオンズは一度、活動を終えると公表している。2010年1月、『Sting in the Tail』を携えた Get Your Sting And Blackout ツアーが引退前の最後のツアーになると発表した。ツアーは2010年から2012年にかけておよそ200公演に及び、2012年12月のミュンヘン公演で幕を閉じる予定だった。ところが終わりに近づくほど、やめるという判断への疑いが強くなっていったという。クラウス・マイネの言い方では、自分たちは間違っていたと気づいた、まだ尾に毒針が残っていたのだ、ということになる。
2015年の『Return to Forever』は、新作を作るつもりで始まった企画ではない。もともとは、使われないまま残っていた古い曲の断片を形にしてみようという作業だった。マティアス・ヤプスによれば、その素材の多くは1980年代前半、『Blackout』や『Love at First Sting』の頃のもので、歌詞も歌も無く、クリックに合わせて録られてもいなかった。そうやって8曲ほどが早々に出来てしまい、気づけばそのまま新曲を書く作業に流れ込んでいったという。プロデュースは『Sting in the Tail』と同じミカエル・ノード・アンデションとマルティン・ハンセン。この作品がジェイムズ・コタックの録音物としての最後の参加になった。
2022年の『Rock Believer』は、本来ロサンゼルスでグレッグ・フィデルマンと作られるはずだった。それが感染症の流行で不可能になり、フィデルマンとの作業は遠隔に切り替わり、最終的にバンドは自分たちでプロデュースすることを選ぶ。エンジニアはハンス=マルティン・ブッフ。録音は地元ハノーファーのペパーミント・パーク・スタジオで、全員が同じ部屋に入って一発で録るという、1980年代のやり方に戻す形で行われた。ミックスはベルリンのハンザ・スタジオでミヒャエル・イルベルトが担当している。ミッキー・ディーにとっては初めてのスタジオ作品となった。
デビュー作『Lonesome Crow』は、60周年に合わせて手を入れ直された。2026年に出たこの版はグラミー受賞歴を持つハンス=マルティン・ブッフによるリミックスで、透明の限定盤アナログとCDで発売され、クラウス・マイネとルドルフ・シェンカーによるライナーノーツが添えられている。
ドイツ国内では『Crazy World』1作だけで100万枚を超えて売れており、1991年に同国でダブル・プラチナに認定された。スイスとカナダでも同様の認定を受けている。ロックの領域でこの数字は、ニルヴァーナの『Nevermind』、AC/DCの『Back in Black』、ガンズ・アンド・ローゼズの『Use Your Illusion I』とドイツ市場で肩を並べる規模だと、バンド自身が説明している。シングル「Wind of Change」は7か国で1位を獲得した。
1985年、スコーピオンズはブラジルのロック・イン・リオに出演している。他のドイツのバンドが国外で演奏することすら夢だった時期のことである。この公演を含む記録がライヴ盤『World Wide Live』になり、バンド自身はこれをアメリカでの最終的な突破口であり、世界屈指のライヴ・バンドという評価を決定づけた作品と位置づけている。
近年のスコーピオンズはラスベガスで長期公演を重ねている。会場はいずれもプラネット・ハリウッドのPHライヴで、2022年の Sin City Nights、2024年の Love at First Sting Las Vegas、そして60周年にあたる2025年の Coming Home to Las Vegas と、3度の公演がいずれも完売した。2026年にも9月17日から10月3日までの日程が組まれており、ゲストは前回に続いてバックチェリーである。
スコーピオンズの音を長く決めることになるプロデューサー、ディーター・ダークスとの仕事が始まったのは1975年の『In Trance』からである。バンド自身の通史はそう記したうえで、この作品がRCAにとって日本で最も売れたアルバムだったことも併せて書いている。
1980年の『Animal Magnetism』に入っている「The Zoo」は、動物園の歌ではない。題名はマンハッタン中心部の42丁目に付いていた通称から採られている。バンドが1979年のアメリカ・ツアーでその呼び名を知り、曲になった。詞はクラウス・マイネ、リフはルドルフ・シェンカーである。
1993年の『Face the Heat』は、ベースが替わった最初の作品である。フランシス・ブッフホルツが1992年の『Crazy World』ツアーの終わりで離れ、ラルフ・リッカーマンが入った。共同プロデューサーはブルース・フェアバーンで、彼は「Under the Same Sun」でバッキング・ヴォーカルの一部も歌っている。この作品はビルボードのアルバム・チャートで24位に達した。
1999年の『Eye II Eye』はピーター・ウルフのプロデュースで、ジェイムズ・コタックにとって初めてのスタジオ作品にあたる。この作品にはバンド史上初めてドイツ語の歌詞を持つ曲「Du Bist So Schmutzig」が入っている。公式のクレジットには外部の名前も並び、ギターにフォリナーのミック・ジョーンズ、鍵盤にプロデューサーのピーター・ウルフ自身、バッキング・ヴォーカルにジェイムズ・イングラムとシーダ・ギャレットが記載されている。
オーケストラとの共演作『Moment of Glory』の制作は、2000年1月にウィーンでクリスティアン・コロノヴィッツと始まった。オーケストラの録音を担ったのはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で、そのパートは同年4月に録られている。仕上げは4月から5月にかけてベルギーのギャラクシー・スタジオで行われた。初の公演は2000年6月22日、ハノーファーの万国博覧会である。
2001年の『Acoustica』の公式クレジットには、ベースが2人並んで記載されている。パヴェウ・マチヴォダとラルフ・リッカーマンである。ほかに鍵盤としてクリスティアン・コロノヴィッツ、パーカッションとしてマリオ・アルガンドーニャの名前が入っている。
2004年の『Unbreakable』は3か月で作られた。プロデュースはエルヴィン・ムスパーで、彼は1988年以降プロデューサーやエンジニアとしてこのバンドに関わり続けてきた人物である。そしてこの作品から、ベースがパヴェウ・マチヴォダになった。
2024年1月10日、スコーピオンズは公式サイトでドラマーのジェイムズ・コタックの訃報を伝えた。61歳。バンドは彼を20年にわたって自分たちのドラマーだった人物として紹介している。
「Wind of Change」については、CIAが書いたという説が一時期広まった。『ニューヨーカー』誌の記者パトリック・ラデン・キーフがこの説を扱ったポッドキャストが世界的に聞かれ、キーフ本人がドイツまで来てクラウス・マイネにその話を持ちかけている。マイネは、聞かされたときは笑ってしまったと振り返り、もし本当だとしてもそれは音楽の力を証明しているだけだ、と述べている。ルドルフ・シェンカーの見立ては単純で、話としてよく出来ているからだ、というものである。
英語で歌う判断は、すぐには受け入れられなかった。クラウス・マイネによれば、英語で歌詞を書くこと自体が最初は容易ではなく、しかも国外では出自を理由に差別的な扱いも受けた。英国の音楽メディアは彼らを紹介するのに戦時中になぞらえた言い回しを繰り返し使っている。それが変わったのは論争によってではなく、公演の出来によってだった。演奏が良くなるにつれ、聴き手はどこの国のバンドかを忘れるか、あるいは気にしなくなった、というのが彼の言い方である。
「Wind of Change」の売上は1,400万枚を超えており、ドイツのアーティストによるシングルとしては最も売れた1枚とされている。バンドの商業的な頂点でもあり、『Blackout』の成功をもってしても、この1曲の到達点には届いていない。
バンドの伝記映画『Wind of Change』が作られている。監督はアレックス・ラナリヴェロ、製作はアリ・アシュファー。撮影の大半はイングランドのハートフォードシャーにあるワーナー・ブラザース・スタジオ・リーヴスデンで行われ、リヴァプールでも追加撮影が組まれた。リーヴスデンには、1965年にスコーピオンズが現れた当時の戦後ドイツを再現したセットが建てられている。ルドルフ・シェンカー役はアレクサンダー・ドレイモン、クラウス・マイネ役はルートヴィヒ・トレプテが演じる。
ルドルフ・シェンカーが懐かしく語る一場面に、ジャーニーのニール・ショーンが前触れもなくアメリカ公演に現れた日のことがある。ショーンは車を運転中、カーラジオから流れてきた『Lovedrive』の1曲目「Loving You Sunday Morning」を聴いて、そのまま会場へ来たのだという。
60周年に合わせて出た2枚組のベスト盤『From The First Sting: The Best Of 60 Years』には、それまで未発表だった「Still Loving You」のライヴ音源が入っている。録音は1996年、フランスのテレビ番組『Taratata』で、ヴァイオリンのヴァネッサ・メイと共演したときのものである。ルドルフ・シェンカーがその収録で一番よく覚えているのは演奏ではなく、司会者がアラニス・モリセットに向かって、スコーピオンズは1985年のフランスでベビーブームを起こしたのだと話していたことだという。
マイネの声は、もともとハード・ロック向きではなかった。コペルニクスの前に在籍したザ・マッシュルームズでヒット曲のカヴァーを歌っていた頃、彼の声は澄み切っていたという。本人はそれを不足と感じ、ジョン・レノンやロジャー・ダルトリーのようなざらついた質感に近づけようと意識的に努力した。長年そうやって歌ううちに、声帯そのものがハード・ロック向きに変わっていった、というのが彼の説明である。
国外へ出たのは野心だけが理由ではない。当時の西ドイツはクラウトロック一色で、シェンカーによれば、その界隈や『ムジークエクスプレス』のような媒体に受け入れられることはスコーピオンズにとってあり得ない選択だった。だから外へ出るしかなく、まずベルギー、オランダ、フランスへ向かう。フランスの『Rock & Folk』誌は初期の公演を絶賛し、イギリス初公演も『メロディ・メイカー』誌に好意的に扱われた。国外での高評価がドイツの音楽記者たちを当惑させる、という順序だったのである。ただし現実は華やかではなかった。初のイギリス・ツアーでは、プロモーターがロンドンのマーキーやリヴァプールのキャヴァーンといった大きな公演を日程の最後に置き、それまでの宿は暖房と湯にコインを入れる方式の安宿だった。
マティアス・ヤプスの加入はオーディションらしくない形で始まっている。ルドルフ・シェンカーに誘われて出向いたのはジャム・セッションで、本人は新しいリード・ギタリストになるつもりなど無く、力を抜いたまま入っていったという。そこで知っている曲を何曲かと、後に『Lovedrive』になる出来たての曲を弾いた。話が進み、ダークス・スタジオでのテスト録音が組まれる。この段階まで残っていたのは彼のほかにもう一人、ザ・プリティ・シングスのピーター・トルソンだけだった。
その代役は、当初は一時的なものとして話がついていた。ヤプスによれば、ベーブリンゲンの公演の直後にドイツの大物プロモーター、フリッツ・ラウやディーター・ダークスらとの会合が持たれ、彼が残りのドイツ公演を務めた後に離れるという合意ができた。実際にそうなり、続くフランス公演にはミハエル・シェンカーが戻っている。ところが1、2公演で彼はまた姿を消し、ヤプスの電話が再び鳴った。このときヤプスは、今度こそ恒久的な話でなければ考えないとはっきり伝えている。以来、彼はスコーピオンズのリード・ギタリストであり続けている。
2007年の『Humanity: Hour I』に収められた「The Cross」には、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンがゲスト・ヴォーカルとして参加している。ルドルフ・シェンカーは、ダークスとの徹底した作り込みが結果としてメタリカ、ヴァン・ヘイレン、イングヴェイ・マルムスティーンといった面々に加え、オルタナティヴ側のコーガンのような音楽家までスコーピオンズの聴き手にした、という文脈でこの参加に触れている。
1970年代のスコーピオンズのジャケットは、国によって差し替えが起きている。ウリ・ジョン・ロートによれば、『In Trance』はアメリカ盤だけがパッケージ規制の厳しさを理由に絵柄を変えられ、日本盤は元の意匠のまま出た。ヨーロッパでは特に問題にならなかったという。彼はまた、自分が在籍した時期の作品のジャケットには、シェンカーとマイネだけでなくフランシス・ブッフホルツやルディ・レナーズも含めて全員が関わっていたと述べている。
2010年の『Sting in the Tail』は、ハノーファーのスタジオで、スウェーデンのミカエル・ノード・アンデション、マルティン・ハンセンの2人と作られた。北米での発売は同年3月23日。初週のアメリカでの売上は18,500枚で、ビルボード200に23位で初登場した。これは当時のバンドにとって20年以上ぶりの高い初登場順位である。ロック・アルバム・チャートでは6位に入った。
2011年の『Comeblack』は新曲のアルバムではない。収録は2つに分かれており、片方は自分たちの代表曲7曲の再録音、もう片方は1960年代から70年代初頭のロックのカヴァー6曲である。カヴァーには「Tainted Love」「Children of the Revolution」「Across the Universe」「Tin Soldier」などが並ぶ。バンドはこの作品を、長年のファンへの礼と、その時代のバンドたちへの敬意の両方だと説明しており、スタジオに戻ろうという発想自体が、終わるはずだったツアーの最中に出てきたものだったという。
ミッキー・ディーは、最初から加入する話ではなかった。2016年4月にバンドが発表したのは、ジェイムズ・コタックが治療のために休みを取るあいだ、北米の12公演で代役を務めるという内容である。当時クラウス・マイネは、コタックに戻ってきてほしいと明言していた。結果としてコタックは同年5月に健康上の理由で離れ、代役として入っていたディーがそのまま正式なドラマーになった。
『Rock Believer』はドイツで2位、イギリスで18位に入った。イギリスでトップ20に入ったのは、1988年の『Savage Amusement』以来およそ34年ぶりのことである。日本盤は2022年2月25日に発売され、日本向けにだけSHM-CDで製造されたうえ、日本盤のみのボーナス・トラックが1曲加えられた。海外のデラックス盤には別の5曲が入っており、日本盤と内容が異なる。