OZZY OSBOURNE トリビア 全100件
OZZY OSBOURNEにまつわる事実を、出典付きで100件掲載しています。
Trivia
オジーが『Scream』を携えて日本に来たのは2010年10月13日、東京国際フォーラムだった。2002年以来8年ぶりの来日公演で、1曲目は「Bark At The Moon」、2曲目に最新作からのリード・トラック「Let Me Hear You Scream」が続いた。新ギタリストのガス・G、ドラマーのトミー・クルフェトスがそれぞれソロを取り、後半は「Iron Man」「No More Tears」「Paranoid」と代表曲が並んだ。「Crazy Train」では客席から投げ込まれたキャップをそのまま被って歌う場面もあり、予定されていた時間も曲数も大幅に超えたという。
2010年の来日でオジーは、日本のメタル・フェス<LOUD PARK>に初めて出演した。10月16日の神戸ワールド記念ホール、17日のさいたまスーパーアリーナで、5回目を迎えたその年のヘッドライナーを務めている。同年6月23日には3年ぶりの新作『Scream』が日本発売されていた。
オジーとシャロンが主宰する<Ozzfest>が日本で開かれたのは2013年5月11日・12日、千葉の幕張メッセ国際展示場が最初である。1996年に米国で始まったこのフェスの日本開催は初めてで、11日はSLIPKNOT、12日はBLACK SABBATHがヘッドライナーを務めた。発表時点で音楽ナタリーは、オジーを含む編成でのBLACK SABBATHはこれが初来日になると伝えている。
2度目の<Ozzfest Japan>は2015年11月21日・22日、同じ幕張メッセで開かれた。当初はオジー率いるBlack SabbathとKoЯnがヘッドライナーで、シャロン・オズボーンはこれがBlack Sabbathにとって最後の日本公演になると述べていた。その後の第2弾発表で、2日目のヘッドライナーはBlack Sabbathから「Ozzy Osbourne & Friends」へ変更されている。
『Blizzard of Ozz』は本来アルバム名ではなくバンド名だった。オジー・オズボーンがブラック・サバスを離れたあと、ボブ・デイズリー、ランディ・ローズと組んだ新バンドの名がそれで、当時の宣伝資料もバンド名として扱っている。ところがレコード会社のジェット・レコードは、ジャケットにオジー一人を写し、その名前を大きく上に置いた形で発売した。以後この作品はオジーのソロ第1作として扱われ続けている。
サバス解雇後のオジーは、自分でも終わったと思っていた。数か月のあいだ外にも出ず、カーテンすら開けなかったと本人がClassic Rockに語っている。そこへドン・アーデンの娘シャロン・アーデンが訪ねてきて、しっかりしろ、私がマネージメントする、と告げた。オジーは、彼女が関わってからものごとが動き出したとし、あのアルバムを自分から引き出したのはシャロンの功績だと述べている。
ソロ第1作のためのメンバー探しは、ロサンゼルスのリハーサル・スタジオ「メイツ」の掲示板に貼られた一枚の告知から始まった。何か月も決まらないまま過ぎたところへ、カリフォルニアのギタリスト、ランディ・ローズが現れる。オジーはその瞬間を、神が自分の人生に入ってきたようだった、と表現している。二人はまず渡英し、ウェスト・ミッドランズのスタッフォードにあるオジーの実家で最初の曲作りを行った。
リズム隊が決まるまでには時間がかかった。シャロン・オズボーンは2005年の自伝『Extreme』で、ユーライア・ヒープの元ドラマー、リー・カースレイクと元レインボーのベーシスト、ボブ・デイズリーの起用を、コージー・パウエルら他の候補が条件面で折り合わなかった末の最後の手段だったと書いている。バンドが揃った瞬間に相性が噛み合わないと分かったが、もう引き返せないところまで来ていた、とも記している。
『Blizzard of Ozz』の録音は1980年3月22日、イングランド南部サリー州の田園にあるリッジ・ファーム・スタジオで始まった。作業は3月から4月にかけて行われ、アルバムは同年9月20日にジェット・レコードから英国で発売され、全英チャート7位に達した。
1980年1月、オジーはランディ・ローズ、ボブ・デイズリーとサフォーク州イケットシャルで数週間のリハーサルを行っている。ドラマーのリー・カースレイクが加わる前の時期で、この期間に録音されたブルース・ジャムのカセットが、46年後の2026年にサフォーク州の屋根裏から見つかった。発見したのは当時オジーと親交のあったデヴィッド・ジョリー。デイズリーはSky Newsに、聴いた瞬間に自分たちだ、オジーの声だと分かったと語り、当時すでに曲は複数出来ていたので、ドラマーのオーディション中に緩めていたのか、ふざけていたのか判然としない、と付け加えている。
ランディ・ローズはスタジオでの精度に極端にこだわった。オジーとの録音では、ほとんどのギター・ソロを「ダブル」——同じ音符を寸分違わずもう一度弾いて重ねる——で仕上げており、「Crazy Train」の難度の高いソロも例外ではない。あの録音の独特な響きは、その二重録りに由来している。
「Crazy Train」というタイトルは、ランディ・ローズのエフェクターから出ていた奇妙なチャギング音から生まれた。ボブ・デイズリーによれば、ローズもデイズリーも鉄道模型を集める鉄道好きで、まだ曲名も決まっていない段階で音を聴いたデイズリーが、汽車みたいだが正気じゃない、狂った汽車だ、と口にしたところからタイトルが定まったという。リフの原型はローズが持ち込み、ソロの下で鳴るコード進行はデイズリーが用意した。
「Crazy Train」の終わりで聞こえる歪んだ声は、スタジオのエンジニアがオシレーターを通して「An Egg(卵)」と言っているものである。オジーがその朝の朝食は何だったかと尋ね、返ってきた答えがそのまま録音に残った。
「Crazy Train」のイントロで鳴る乾いたラトル音は、ヴィブラスラップという打楽器によるもの。木製の球と金属の歯を収めた箱をU字型の針金でつないだ、見た目にも風変わりな道具である。同じ楽器はジミ・ヘンドリックスの「All Along The Watchtower」やケイクの「Short Skirt/Long Jacket」など、ジャンルの離れた曲にも使われている。
『Blizzard of Ozz』の1曲目「I Don't Know」の冒頭で鳴るのは、大きな真鍮製のゴングを録音して逆回転させた音である。同じ音は曲の終盤で今度は順方向に流れる。
「Mr. Crowley」を書くきっかけは、スタジオに転がっていた一組のタロット・カードだった。オジーは『The Ozzman Cometh』のライナーノーツで、アレイスター・クロウリーに関する本を何冊も読んでいて、変わった人物なので前から曲にしたいと思っていたこと、『Blizzard of Ozz』を録音中のスタジオにクロウリー自身がデザインしたタロット・カードが置かれていたことを記している。そこから曲が生まれた。
「Mr. Crowley」の冒頭を飾るキーボードは、当時バンドにいたドン・エイリーの作である。イントロが欲しいと言われたエイリーは全員をスタジオから追い出し、30分だけくれと告げて、エンジニアのマックス・ノーマンと二人で組み立てた。戻ってきたオジーはそれを聴いて、自分の頭の中に直接つながったようだと言ったという。エイリーに作曲クレジットは付かなかったが、本人は当時のバンドが資金的にも不安定な賭けの最中だったとして、恨みには思っていないと述べている。
「Mr. Crowley」の終盤に出てくる polemically(論争を招く形で)という語は、アレイスター・クロウリー本人の癖から来ている。クロウリーは本やサインに「Polemically Yours, Aleister Crowley」と書き添えることがあり、それを知ったボブ・デイズリーが歌詞にその語を入れた。
アルバムからの2枚目のシングルとして切られた「Mr. Crowley」は、スタジオ版ではなくライヴ音源だった。1980年10月2日、初の英国ツアー中にサウサンプトンのメイフラワー・シアターで行われた公演の録音である。英国盤のB面には同じ日の「You Said It All」——アルバム未収録曲——が入り、米国ではEP形式で、やはり同じ公演の「Suicide Solution」も加えて発売された。
「Suicide Solution」の solution は「解決」ではなく「溶液」の意味で、酒そのものを指している。誰について書かれたかについては二つの説が並び立つ。オジーは、AC/DCのボン・スコットのことだと述べており、楽屋でスコットが大きなタンブラーにウイスキーを半パイントほど注いでいたのを見た記憶と、その数週間後に姉から彼が飲み過ぎで亡くなったと聞いた経緯を語っている。一方、当時の作詞担当だったベーシストのボブ・デイズリーは、自分が書いた歌詞で、対象は当時アルコールの問題を抱えていたオジー自身だと述べている。オジー自身も2010年のMojo誌では、あの曲は自分が飲んで死にかけていたことについてだと語っている。
「Suicide Solution」は米国で訴訟の対象になった。1984年10月26日、19歳のジョン・マッカラムがオジーのアルバムを聴きながら自室で自らを撃ち、両親がこの曲を名指しして1985年10月に本人とレコード会社を提訴した。訴えは1986年8月にいったん却下され、控訴審も1988年に退けられている。裁判所は、歌詞は自殺を明示的に促すものではなく、音楽は合衆国憲法修正第1条の保護を受けるとした。同種の訴訟は他に2件起こされ、いずれも退けられている。
「Goodbye To Romance」というタイトルは、エヴァリー・ブラザーズが1957年に放った「Bye Bye Love」の歌詞の一節から採られている。オジーはエヴァリー・ブラザーズのような初期ポップの熱心な聴き手で、ビートルズもお気に入りのひとつだった。
「Goodbye To Romance」はブラック・サバス脱退そのものを扱った曲である。ボブ・デイズリーは、当時のオジーがクビになった直後で落ち込み、自信を失っていたと語っており、歌詞の大半はデイズリーが、オジーを励まし脱退後の道を前向きに見られるようにする意図で書いた。タイトルとフレーズの一部はオジーによる。
「No Bone Movies」は、ポルノ映画への嫌悪を歌った曲である。作詞したベーシストのボブ・デイズリーが着想を得たのは、オジーとランディ・ローズの三人で成人映画を観に行ったときだった。ローズがそれを「bone movie」と呼び、その言い回しを初めて聞いたデイズリーが曲の土台にした。なお、この曲は『Blizzard of Ozz』でドラマーのリー・カースレイクに共作クレジットのある唯一の曲でもある。他の曲はドラマーが決まる前に書き上がっていた。
『Blizzard of Ozz』に収められた49秒のアコースティック・インストゥルメンタル「Dee」は、ランディ・ローズが自身の母デロリスのために書き、一人で演奏した曲である。曲はDのキーで書かれている。オジーはこの曲について、収録してもいいかと尋ねてきたローズに、これはお前のアルバムでもあるのだから好きにやればいい、と答えたと述べている。ヘッドバンギングだけで最初から最後まで埋まったものはアルバムとは呼べない、というのが本人の考えだった。
『Diary of a Madman』というタイトルは、1963年の同名映画から採られている。ヴィンセント・プライス主演のホラー作品である。ボブ・デイズリーは、狂気の側の人物というオジーの評判を考えれば、アルバム名としてふさわしいと思ったと述べている。表題曲はアルバムのタイトルが決まる前から存在していた。
表題曲「Diary of a Madman」の歌詞を書いたのはボブ・デイズリーで、題材は自分自身だった。デイズリーは16歳で最初の神経衰弱を経験しており、自分は昔から敏感な人間だとし、しばしば自分自身こそが最大の敵になる、という主題をそこから引き出したと述べている。曲の原型はランディ・ローズが持ち込み、タイトルはデイズリーが付けた。
表題曲「Diary of a Madman」の変則的な拍を、オジーは最初まったく受け付けなかった。ボブ・デイズリーによれば、リハーサルで聴かせたところ、自分をフランク・ザッパか何かだと思っているのかと言い返され、ここで歌ってここでは歌わない、と一つずつ説明する必要があったという。構造を飲み込んだあとは気に入っていったが、初めは自分の曲ではないという反応だった。
『Diary of a Madman』のジャケットに写っている少年は、オジーの最初の結婚で生まれた息子ルイスである。
「Over the Mountain」の歌詞は、リッジ・ファームでの『Diary of a Madman』録音中にボブ・デイズリーが書き上げた。デイズリーによれば、曲は渡英前のロンドンでのリハーサル段階で音として固まっていたものの、何について書くかが長く決まらなかったという。ありがちなラヴソングは好まず、この曲の攻撃性と重さに軽い言葉は合わないと考えて、やや哲学的で謎めいた内容に落ち着いた。
『Diary of a Madman』の英国録音が決まった背景には、レコード会社の懐事情があった。クワイエット・ライオットのドラマー、フランキー・バナリはSongfactsに、当初はロサンゼルスで録音する予定だったが、ジェット・レコードがロンドン、LA、ニューヨークを行き来させてミュージシャンを探す旅費を使いすぎており、オジーの先行きも読めなかったため、渡航費が一人分で済むイングランド録音に切り替えたと語っている。その一人がランディ・ローズだった。
「S.A.T.O.」というタイトルの4文字は、歌詞のどこにも出てこない。シャロン・オズボーンによれば、これは Sharon Arden, Thelma Osbourne の頭文字である。アーデンはレコード業界の実力者ドン・アーデンの娘であるシャロンの旧姓、セルマ・オズボーンはオジーの最初の妻の名。曲はもともと「Strange Voyage」と題されていたが、作詞したボブ・デイズリーによれば、彼とリー・カースレイクがバンドを離れたあとにオジーとシャロンが改題したという。
「S.A.T.O.」の歌詞は、日蓮が1261年に記した書簡から着想を得ている。「A Ship to Cross the Sea of Suffering(苦海を渡る船)」と英訳される一通で、内省的な内容の下敷きになった。
「Flying High Again」の歌詞の大半はボブ・デイズリーによるもので、着想はオーストラリアで演奏していた頃、薬物をやらない人物と交わした議論から得たという。オジー自身は1986年のSpin誌で、この曲や「Snowblind」を書いていた頃は自分が薬物中毒だったと述べ、ある夜、薬物を肯定する歌と否定する歌を続けて歌っていることに気づいたと語っている。そのうえで、書いた当時の自分がそこにいたのだからそれでいい、それも自分の人生の一部だ、としている。
オジーはランディ・ローズについて、一緒に仕事をした中で最も音楽的な訓練を積んだギタリストだったと述べている。書けて、読めて、弾けて、母の音楽学校で教えてもいた——そのうえで自分に対して忍耐強く、自分が置いたものの上に無理やり乗せるのではなく、こちらに合わせて一緒に作ってくれた、というのが理由である。
ランディ・ローズは1982年3月19日、フロリダでの移動中に小型機の墜落で亡くなった。25歳だった。オジーの乗るツアーバスの上を低空でかすめる飛行のさなか、翼がバスに接触して機体は近くの家屋に墜落し、ローズ、操縦士、ツアーの美容師の3人が犠牲になった。ローズはオジーのソロ第1作と第2作に参加しており、これが最後だった。
1987年の2枚組ライヴ『Tribute』は、ランディ・ローズに捧げられた作品である。収録するライヴ音源は、オジーがローズの母親の助けを借りて選んだ。「Flying High Again」「Goodbye To Romance」「Mr. Crowley」「Crazy Train」がここに入っている。
『Blizzard of Ozz』は米国では翌1981年に発売され、ビルボード・チャート21位に達した。ツアーを終える頃には100万枚を売り、ギター・プレイヤー誌はランディ・ローズを1981年のベスト・ニュー・タレントに選んでいる。
「Crazy Train」は米国のHot 100には入らず、バブリング・アンダーで1週間106位に留まっている。曲としての影響力はその順位とまったく釣り合っておらず、『Blizzard of Ozz』は発売後2年で米国だけで100万枚を超え、最終的には300万枚以上を売った。
「Crazy Train」がビルボードHot 100に入ったのは、オジーの死後だった。2025年8月2日付のチャートに46位で初登場している。1980年の発売から40年以上を経て、この曲が同チャートに現れたのは初めてのことだった。
「Crazy Train」に公式のミュージック・ビデオが付いたのは、発売から40年後だった。2020年9月、『Blizzard of Ozz』40周年企画の一環としてアニメーション映像が公開されている。手描きのオジーとバンドが登場し、ランディ・ローズのソロが終わると、そのローズがバンド仲間に見送られながら天へ昇っていく。
「Crazy Train」は1999年に三菱自動車のCM、2012年にホンダ・パイロットのCMに使われている。また、トリック・ダディがトゥイスタとリル・ジョンを迎えた2004年の全米7位「Let's Go」は、この曲のインストゥルメンタルをビートに使ったものである。
MTVのリアリティ番組『The Osbournes』の主題歌に使われたのは、オジー本人の「Crazy Train」ではなく、ルイス・ラメディカによるカバーだった。なお、オジーの隣人だった元ゴスペル歌手のパット・ブーンも、アルバム『In a Metal Mood』でこの曲を取り上げており、口笛とコーラスの「チュー、チュー」を添えたラウンジ調の演奏になっている。
「Bark at the Moon」というタイトルは、オジーがよく話していた小噺の落ちから来ている。『The Ozzman Cometh』のライナーノーツで本人が、その落ちの一節をそのまま曲名にしたこと、自分にはヴォーカル・ラインの案があり、ジェイク・E・リーがリフを持ってきたこと、そしてこれが二人で書いた最初の曲だったことを記している。
「Bark at the Moon」のビデオでオジーはマッド・サイエンティストを演じ、自作の薬で狼男に変身する。マイク・マンスフィールド監督によるオジー初のコンセプト・ビデオで、この狼男への変身はマイケル・ジャクソンの「Thriller」より1か月ほど早い。ただし同じ効果は1981年の映画『狼男アメリカン』ですでに使われていた。オジーによれば、特殊メイクには8時間を要し、撮影は古い精神科病院で行われ、ある部屋にはホルマリン漬けの胎児が瓶に入って置かれていたという。
『Bark at the Moon』は全曲がオジーの単独作としてクレジットされているが、実際にはそうではない。ジェイク・E・リーとボブ・デイズリーは共作していながら、レコード会社との取り決めでクレジットに載らなかった。デイズリーはSongfactsのインタビューで、出版社との折り合いの関係で、リーと二人ともクレジットと印税を放棄する代わりに一括払いを受け取ることに同意した、と説明している。
ジェイク・E・リーは2013年12月のUltimate Classic Rockのインタビューで、『Bark at the Moon』の曲作りの大半は自分とボブ・デイズリーで進めたと述べている。表題曲についてはリフを弾いたところ、すでにアルバム名を決めていたオジーがその場でこれを「Bark At The Moon」にしようと言ったという。オジーはそうしたアイディアを置いていくが、その後は飲んで眠るか帰るかで、残った二人がスタジオで曲を仕上げていく形だった。リーはデイズリーとの作業を楽しかったと振り返り、歌詞は全部デイズリーが書いたとしている。
ジェイク・E・リーは2019年のBARKSのインタビューで、『Bark at the Moon』のミックスがマックス・ノーマンではなくトニー・ボン・ジョヴィ——ジョン・ボン・ジョヴィの従兄弟——の手によるものだったと語っている。当時は弱々しくフィルターがかかったような音だと感じて大嫌いだったが、年月が経ってみると良いアルバムだったと思えるようになった、とも述べた。続く『The Ultimate Sin』はロン・ネヴィソンによるもので、ハート等を手掛けた彼の作るポップな音だったため、リミックスすればもっとヘヴィにできると考えている。
ジェイク・E・リーは2019年のBARKSのインタビューで、オジー側から共演のオファーが過去に2度あったと明かしている。リーはそれに対し、『Bark at the Moon』に自分の名前をクレジットしてくれればいい、と答えたが、2度ともそこで話が止まったという。金銭の問題ではなく、自分がこの作品を書いたという証としてクレジットが欲しいのだ、とリーは説明している。またオジーとは1987年頃から話していないとし、ブラック・サバス再結成ツアーにケヴィン・チャーコの客として行くはずだったがシャロンが認めなかった、とも述べている。
『Bark at the Moon』のバラード「So Tired」には弦楽セクションが入っている。編曲を担当したのはルイス・クラークで、エレクトリック・ライト・オーケストラでの仕事で知られる人物である。英国で小ヒットとなったこの曲はオジー初期のバラードの成功例となり、以後のアルバムでも「Mama, I'm Coming Home」「Road To Nowhere」のようにスロー・ナンバーを織り交ぜる方向につながった。
「So Tired」のビデオ撮影中、鏡が割れる場面でガラス片がオジーの喉に刺さる事故が起きた。数公演の延期を余儀なくされたが、その後完治している。なおこのビデオでオジーは主要な役をすべて自分で演じている。
オジーは2019年のRolling Stoneのインタビューで、ソロ作の中で最も気に入らないのは『The Ultimate Sin』だと述べている。曲が悪かったのではなく置かれ方が変で、全部が同じように感じられ同じように聞こえた、想像力がなかった、というのが理由で、リミックスしてやり直せる作品があるとすればこれだ、とも語った。批判の矛先はプロデューサーのロン・ネヴィソンに向けられている。
『The Ultimate Sin』はビルボード200で6位に達し、米国では1986年5月14日にRIAAのプラチナ、1994年10月にダブル・プラチナの認定を受けている。ただし2019年時点で物理盤は廃盤となっており、ストリーミングでのみ聴ける状態にあった。
『The Ultimate Sin』の曲作りは、オジーがベティ・フォード・センターに入っている間に進んだ。ジェイク・E・リーは1986年のGuitar World誌に、ドラム・マシンと簡易スタジオ、シャーヴェルの安いベースを用意して、ほぼ曲単位で書き上げたと語っている。メロディと歌詞はオジーが大幅に変えるだろうと考えて手を付けず、リフとヴァース、コーラス、ブリッジ、ソロの箇所、そして頭の中にあったドラムとベースのパートまでを録音した。そうして12曲ほどを渡し、うち半分ほどがアルバムに残ったという。
『The Ultimate Sin』最大のヒット「Shot In The Dark」のタイトルは、1964年のピンク・パンサー映画『暗闇でドッキリ』から来ている。作曲クレジットはオジーと、このアルバムだけ在籍したベーシストのフィル・スーザンの二人。スーザンはこの曲を数年前に書いており、英国人としてピンク・パンサー・シリーズの愛好家でもあった。当初の歌詞は映画寄りの内容だったが、オジーがはるかに不穏な方向へ書き換えている。
「Shot In The Dark」のビデオを監督したのはアンディ・モラハン。ガンズ・アンド・ローゼズの「November Rain」やジョージ・マイケルの「Faith」を手掛けた人物である。オジーがコンサートに来た少女に取り憑く筋立てで、その少女を演じたのはロサンゼルス・ラムズのチアリーダー。観客役の一人としてドゥイージル・ザッパが出演している。
『No Rest for the Wicked』の「Miracle Man」は、テレビ伝道師ジミー・スワガートを槍玉に挙げた曲である。作詞したボブ・デイズリーは当初スワガートの名を歌詞に入れていたが、名指ししないほうが効くと判断して外した。スワガートは1985年、「Suicide Solution」を聴いていた少年の自殺を機にロック音楽を攻撃する運動を展開し、オジーを執拗に批判していた。その2年後の1987年、スワガート自身が娼婦との関係を発覚させ、ポルノ依存を認めている。
「Miracle Man」のビデオは英国の教会を舞台にしており、撮影には豚が持ち込まれた。オジーによれば、再生された音楽があまりに大音量だったため、60頭の豚が一斉に糞を漏らしたという。本人は下ろしたてのスエードのブーツを履いており、以後二度と履かなかったと語っている。
「Bloodbath In Paradise」が扱っているのは、チャールズ・マンソンとその一派が1969年に起こした事件である。『No Rest for the Wicked』はオジーの作品の中では最もコンセプト・アルバムに近く、収録曲がそれぞれ何者かの行いを咎める構成になっている。「Miracle Man」のジミー・スワガート、「Hero」での自分を崇める聴き手、そしてこの曲でのマンソンが、その並びに入っている。
ザック・ワイルドがオジーのバンドに加わるきっかけは、ハワード・スターンのラジオ番組だった。オーディションが行われていることをその放送で知り、応募して職を得た。ワイルドはその後3期にわたってオジーのギタリストを務めている。1987年から1992年、2001年から2009年、そして2017年から2025年のオジーの死までである。2009年の中断は、自分の曲がブラック・レーベル・ソサイアティに似てきたのではないかとオジーが懸念したことによる。
『No More Tears』は、オジーが素面で作った最初のアルバムである。20年以上にわたる酒と薬物の生活を断ってから初めての作品で、タイトルとジャケットからも悪魔的な意匠が消えた。『The Ultimate Sin』『Diary of a Madman』『Talk Of The Devil』と続いてきた流れの中で、邪悪さや狂気に触れない題名は初めてだった。ジャケットのオジーには天使の翼が描かれている。
『No More Tears』にはモーターヘッドのレミー・キルミスターが4曲で共作者として参加している。「Mama, I'm Coming Home」「I Don't Want To Change The World」「Desire」「Hellraiser」の4曲である。「Mama, I'm Coming Home」の歌詞をレミーはある午後に2時間もかけずに書き上げた。オジーはMojo誌に、レミーは伝言でも書くように歌詞を書く、そしてそれが並外れて良い歌詞なのだと語っている。
「Mama, I'm Coming Home」の「ママ」は母親ではなく、妻のシャロンを指している。「ママ」はオジーが彼女を呼ぶときの愛称で、1981年の「Flying High Again」や2001年の「Running Out of Time」でも同じ呼び方が使われている。オジーは『The Ozzman Cometh』のライナーノーツで、メロディは何年も頭の中にあったがザックと『No More Tears』を作るまで形にできなかったこと、そしてこの言葉はツアー終盤に妻へ電話で言う決まり文句だったことを記している。
「Mama, I'm Coming Home」の楽曲を書いたザック・ワイルドは、ピアノで作曲し、オジーともピアノで詰めていった。しかし録音の段になって12弦ギターに移し替えることを思いつき、そのまま録音した。フォーク・ロックの定番楽器を持ち込んだ結果、この曲は一度聴けば分かるイントロを得た。
「Mama, I'm Coming Home」は、リタ・フォードとのデュエット「Close My Eyes Forever」(1989年)を除けば、オジーが米国トップ40に送り込んだ唯一の曲である。『No More Tears』は米国だけで400万枚以上を売り、発売時42歳だったオジーに90年代の足場を与えた。
「Mama, I'm Coming Home」のビデオは、セピア調の映像で知られるサミュエル・ベイヤーの初期作の一つである。ベイヤーは同時期にニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」も撮っている。
「Mama, I'm Coming Home」は1991年、湾岸戦争の数か月後に発売された。オジーは2021年の30周年再発に寄せた文で、米軍の兵士たちがこの曲を妻に送っていると聞いた、今も兵士たちに愛されている、と述べている。
「Mama, I'm Coming Home」は2022年、キャリー・アンダーウッドがApple Music Sessions用のEPで取り上げている。アンダーウッドは、昔からオジー・オズボーンのファンで、この曲は自分にとって歴代の愛聴曲のひとつだと述べ、前々からカントリー・ソングのように感じていたのでずっとカバーしたかった、と語った。
オジーが最初のグラミー賞を受けたのは、1993年のライヴ盤『Live And Loud』収録の「I Don't Want To Change The World」だった。部門はベスト・メタル・パフォーマンス。2000年には、ブラック・サバスの『Reunion』収録「Iron Man」で同じ部門を再び受賞している。
『No More Tears』を携えたツアーは「No More Tours」と名付けられた。オジーはこれを最後に引退して家族と過ごすつもりだったからである。ところが退屈してしまい、2年後には「Retirement Sucks(引退なんてくだらない)」と題したツアーで戻ってきた。
表題曲「No More Tears」の骨格は、リハーサル中の即興から生まれた。ザック・ワイルドはSongfactsに、マイク・アイネスがベースで弾き始めたところにランディ・カスティロがドラムを重ね、そこへジョン・パーデルがキーボードを足していった、と説明している。曲はオジー、ワイルド、カスティロ、アイネス、そしてプロデューサーのパーデルの共作としてクレジットされている。
オジーは『No More Tears』の制作について、プロデューサーのデュエイン・バロンとジョン・パーデルの働きを高く評価している。2021年の30周年再発に寄せて、スタジオに入る前に何をやるかを全部話し合っていた、書いた時点で頭にある音の像に対して、良い方向に裏切られることも失望させられることもあるが、二人は並外れた仕事をした、と述べた。各曲に長い時間をかけ、細部を詰めるためにさらに時間を割いたという。
『No More Tears』の最終曲「Road To Nowhere」は、自分の来歴を振り返った曲である。20年以上の酒と薬物を断った直後に書かれ、オジーは自分を生かしてくれたのは妻でありマネージャーでもあるシャロンだとしている。共作はギタリストのザック・ワイルドとドラマーのランディ・カスティロ。
『Ozzmosis』の「Perry Mason」は、1930年代にアール・スタンリー・ガードナーが小説に書き、1957年から1966年までレイモンド・バー主演でテレビ・シリーズにもなった架空の弁護士を題材にしている。音楽を書いたのはザック・ワイルドとキーボードのジョン・シンクレアで、ワイルドはSongfactsに、シンクレアが弾いていたものに自分が乗り、そこから組み立てていったところへオジーが歌を乗せ始めた、という流れを説明している。
『Down to Earth』からの先行シングル「Gets Me Through」のビデオは、2001年9月11日の同時多発テロの直前に完成していた。炎と血の映像が含まれていたため、MTVは配慮した編集を求めて差し戻し、オジー側が作り直した版が放送された。監督はU2やマドンナとも仕事をしたヨナス・オーカーランド。
『Down to Earth』のツアーは、当初「Black Christmas」と名付けられる予定だった。2001年9月11日の同時多発テロを受けて「Merry Mayhem」に改められ、10月31日のハロウィンに開幕している。オジーは事件当日ニューヨークにいた。前夜に娘がマディソン・スクエア・ガーデンのマイケル・ジャクソン公演に行くため、シャロンとともに滞在していたのである。
『Down to Earth』の「Dreamer」は、発売の3年ほど前に書かれていた曲である。2001年10月の発売時には9月の同時多発テロを経て別の重みを帯びた。オジーはこの曲をジョン・レノンの「Imagine」になぞらえており、本人はアルバム中で最も気に入っている曲だとも述べている。またThe Sun紙には、この曲でベースを弾いてほしいとポール・マッカートニーに頼んだが、すでにそこにあるものを自分が良くすることはできない、と断られたと語った。
「Dreamer」のビデオを監督したのはロブ・ゾンビである。ゾンビはその年、オジーの「Merry Mayhem」ツアーに同行していた。
「Gets Me Through」でザック・ワイルドが弾いたワウ・ペダルを効かせたソロは、ギター・ワールド誌が2015年にまとめた歴代最高のワウ・ソロのリストで11位に入っている。ワイルドはジム・ダンロップ社から自身のシグネチャー・ワウ・ペダルも出している。
『Black Rain』の表題曲でいう「黒い雨」は石油の比喩である。イラク戦争が石油によって動かされたという、オジー自身の見方を表した曲になっている。
10作目のアルバムは当初『Soul Sucka』と題される予定だった。ファンから否定的な反応が返ってきたため、オジーは他の候補名を並べたリストを公表し、投票を呼びかけている。その結果選ばれた題が『Scream』だった。曲名としての「Soul Sucker」はアルバムに残っている。
「Soul Sucker」の特徴的なトークボックス・サウンドは、ギタリストのガス・Gの提案から生まれた。ガスはMusicradarに、最後の方に録った曲で、リフ自体は悪くないが特別でもなかったため、共同プロデューサーのケヴィン・チャーコと改善策を話していたときに、ピーター・フランプトンの大ファンである自分がトークボックスを使ってはどうかと言い出した、と説明している。試すと良かったので、チャーコがトークボックスで「Soul Sucker」と喋ってみてはと重ね、それがさらに良い結果になった。
『Scream』の先行シングル「Let Me Hear You Scream」は、米国では2010年4月14日放送のドラマ『CSI:NY』の一編で初公開された。刑務所の暴動シーンに使われたもので、エグゼクティブ・プロデューサー兼この回の脚本家ピーター・M・レンコフは、その狂騒を売り込むために高エネルギーで型破りな曲を探していた、と述べている。オジーは18歳になる前に強盗で英国の刑務所に入った経験があり、刑務所の暴動シーンに使われると聞いて、それなら自分がよく知っている分野だと思った、と語った。
『Scream』は、ファイアーウインドのギタリスト、ガス・Gがオジーのバンドで初めて参加した作品である。ザック・ワイルドの後任として迎えられ、先行シングル「Let Me Hear You Scream」がその初仕事となった。
『Scream』の「Latimer's Mercy」は、カナダで実際に起きた事件を扱っている。カナダでのアルバム発表記者会見でオジー自身が説明したところによれば、サスカチュワン州の農業者ロバート・ラティマーが1993年に重い障害のある娘の命を絶った件で、ラティマーは第二級殺人で有罪となった。オジーはCanWest News Serviceに、生活の質を奪われた子どもが生まれ、その苦痛を見続けるのは非常に難しいことに違いない、と語っている。
『Ordinary Man』の表題曲では、オジーがエルトン・ジョンとデュエットしている。オジーによれば、書いているうちにエルトンの昔の曲を思い出し、彼に歌ってもらえないだろうかとシャロンに言ってみたところ、依頼が通って本人が歌とピアノで参加することになった。ドラマーのチャド・スミスはSiriusXMの番組で、ピアノが入る曲なので上手いピアニストをと考えてエルトンに行き着き、アンドリュー・ワットと二人でアトランタまで録音に行った、そのあとで一節歌ってもらってはどうかという話になった、と説明している。
「Ordinary Man」がビルボードのメインストリーム・ロック・エアプレイ・チャートに2020年2月29日付で34位初登場したとき、エルトン・ジョンにとっては1992年のエリック・クラプトンとの共演曲「Runaway Train」以来、27年ぶりの同チャート登場となった。27年という間隔は当時の同チャート史上最長で、それまでの記録はクイーンのブライアン・メイが持つ26年だった。
そのエルトン・ジョンの記録は、2年半後にやはりオジーの曲で破られた。ジェフ・ベックが参加した「Patient Number 9」がビルボードのメインストリーム・ロック・エアプレイ・チャートに20位初登場した際、ベックにとっての前回の同チャート登場は1994年、シールとのジミ・ヘンドリックス「Manic Depression」のカバーだった。28年4か月の間隔は、エルトンの27年5か月を上回る新記録となっている。
『Ordinary Man』は米英双方のチャートで3位に初登場した。米国では2007年の『Black Rain』以来の高さで、初週は77,000ユニット(うち65,000枚が実売)。英国ではこれがオジーのソロ作として自己最高位で、それまでの最高は1980年のデビュー作『Blizzard of Ozz』の7位だった。
『Ordinary Man』の「It's A Raid」は、オジーが実際に経験した出来事から生まれた。アルバム試聴会で本人が語ったところによれば、ブラック・サバスが1972年の『Vol. 4』を作っていたカリフォルニア州ベルエアの邸宅で、暑くなったオジーが空調のスイッチだと思って押したボタンが、実は警察への通報装置だった。周囲に薬物が散らばっていたため慌てた本人が「It's a raid(ガサ入れだ)」と叫んで浴室に隠れたのがそのまま曲名になっている。共演はポスト・マローン。
『Ordinary Man』の「Eat Me」は、2001年にドイツで起きたアルミン・マイヴェスの事件をきっかけに書かれた。オジーはこの事件をThe Sun紙で読み、ロサンゼルスの健康志向の食習慣——どこもかしこもヴィーガンになってしまった——と並べて可笑しく感じたという。共作者はプロデューサーのアンドリュー・ワット、ソングライターのアリ・タンポシ、ガンズ・アンド・ローゼズのダフ・マッケイガン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのチャド・スミス。曲はオジー本人のブルース・ハーモニカで始まる。
『Ordinary Man』の「Scary Little Green Men」のビデオには、俳優のジェイソン・モモアがオジー役で出演している。黒い革のロング・コートを着てマイクの前に立ち、口を合わせて歌う内容である。モモアは熱心なメタル愛好家で、Metal Hammer誌には自分の役作りをメタルの曲から組み立てていると語り、コナンはパンテラ、アクアマンはトゥールとメタリカの『Kill 'Em All』が中心だったと述べている。曲そのものは、オジーが地球外生命を扱ったテレビ番組を観て書いたもので、以前から使いたかったメロディがここで形になった。
『Ordinary Man』からの先行シングル「Under The Graveyard」のビデオは、若き日のオジーを俳優のジャック・キルマーが、シャロンをジェシカ・バーデンが演じるドラマ仕立てで撮られた。監督はヨナス・オーカーランドで、ロサンゼルスで撮影されている。1978年にサバスを解雇されたあとの酒と薬物の日々を追い、やがてシャロンに救われるまでが描かれる。オジーは、自分の人生で最も暗かった時期に引き戻されるので観るのがつらいと述べ、そのときシャロンが自分を立て直してくれたし、それが最後ではなかった、と語っている。
『Ordinary Man』の制作は、ポスト・マローンとの共演曲「Take What You Want」がきっかけになっている。同曲を手掛けたプロデューサーのアンドリュー・ワットがアルバムでも指揮を執り、ベースにガンズ・アンド・ローゼズのダフ・マッケイガン、ドラムにレッド・ホット・チリ・ペッパーズのチャド・スミスを連れてきた。オジーは、日中に三人でジャムをして夜に曲をまとめる進め方だったと振り返り、アルバムを作るべきだとシャロンには言っていたものの、内心ではその体力が残っていないと思っていた、それをワットが引き出した、と述べている。
『Patient Number 9』の「One Of Those Days」でギターを弾いたエリック・クラプトンは、クリスチャンとして歌詞の一節に引っかかりを覚えた。オジー側はその行を書き換えようと複数の案を試したが、どれも機能しなかったため元の歌詞のまま残している。オジーはこの曲が反キリスト教的な歌ではないことを明確にしている。
『Patient Number 9』からの2枚目のシングル「Degradation Rules」は、2023年のグラミー賞でベスト・メタル・パフォーマンス賞を受賞した。同じ式典で『Patient Number 9』はベスト・ロック・アルバム賞も獲得している。この曲でギターを弾いたのはブラック・サバスの盟友トニー・アイオミで、作曲者としてはクレジットされていないが、アイオミはRolling Stoneに、自分が書いてオジーに送り、オジーが歌を乗せたと語っている。
「Patient Number 9」の冒頭で重なり合う複数の話し声は、すべてオジーが即興で吹き込んだものである。プロデューサーのアンドリュー・ワットによれば、長いイントロにオジーの声が入らない時間ができてしまうため、何か喋ってほしいと頼んだところ、1テイクであの語りを録り終えた。オジー自身がもう1本重ねたら面白いかもしれないと言って2テイク目を入れ、隙間を埋めたいと言ってさらに3テイク目を録音した。3本続けて、考え込む間もなく完成している。
「Patient Number 9」の2本のギター・ソロは、いずれもジェフ・ベックによるものである。プロデューサーのアンドリュー・ワットは、重い前半のソロは思い切り弾き、アコースティック・ギターに乗る終盤のソロはメロディックに、とだけ伝えたと語っている。ベックは4回か5回録り直し、もっと良くできると言っては送り返してきたという。ワットは自分からは何も言う必要がなく、すべてベック自身が押し上げていったと述べている。この曲はビルボードのメインストリーム・ロック・エアプレイ・チャートで1位となり、ベックにとって同チャート初のトップだった。
オジーは2024年10月19日、ソロ・アーティストとしてロックの殿堂入りを果たした。2006年のブラック・サバスに続く2度目の殿堂入りである。紹介役を務めたのはテネイシャスDのジャック・ブラックで、13歳の頃レコード店で迷っていた自分に、見知らぬロック好きの年長者が『Blizzard of Ozz』を薦めてくれたという逸話を語った。オジーは巨大なコウモリの翼をあしらった玉座に座って受賞し、長い独白で退屈させるつもりはないと前置きして短く済ませ、ランディ・ローズに出会っていなければここにはいなかったこと、そして妻シャロンが自分の命を救ったことを挙げた。
オジーが最後にステージに立ったのは2025年7月5日、バーミンガムのヴィラ・パークで行われた<Back To The Beginning>である。黒い玉座に座って歌い、ソロ・セットは『Blizzard of Ozz』からの「I Don't Know」「Mr. Crowley」「Suicide Solution」「Crazy Train」に「Mama, I'm Coming Home」を加えた5曲。バンドはザック・ワイルド、マイク・アイネス、アダム・ウェイクマン、トミー・クルフェトスだった。続いてトニー・アイオミ、ギーザー・バトラー、ビル・ウォードが加わり、ブラック・サバスとして「War Pigs」「Iron Man」「N.I.B.」「Paranoid」の4曲を演奏している。オジーはこの17日後の7月22日に亡くなった。