NIGHT RANGER トリビア 全30件
NIGHT RANGERにまつわる事実を、出典付きで30件掲載しています。
Trivia
2026年8月28日、Frontiers Music Srlから『Best Of』がリリースされる。新たにリミックスとリマスターを施した代表曲に、近年の作品からの曲を加えた内容だと公式サイトは説明している。同じページには現在の編成として、ジャック・ブレイズ(ベース、ヴォーカル)、ケリー・ケイギー(ドラム、ヴォーカル)、ブラッド・ギルス(ギター)、エリック・レヴィ(キーボード)、ケリー・ケリー(ギター)の5人が挙げられている。またバンド側の記載によれば、全世界での総売上は1,700万枚を超え、これまでに4,000を超えるステージに立ってきたという。
2023年、ナイト・レンジャーはコンテンポラリー・ユース・オーケストラと共演したライヴ作品『40 Years And A Night with Contemporary Youth Orchestra』を発表した。バンド自身の告知によれば、この作品はビルボードのクラシカル・クロスオーバー・チャートに初登場1位で入っている。フル・オーケストラと生で演奏するという経験について、彼らはそれを素晴らしいものだったと書いている。この公演は1時間のコンサート映像としてAXS TVで2023年10月21日に放送され、11月18日には90分の拡大版も流れた。
「フェアウェル・ジャパン」の告知と、その後の展開は並べて見ておく必要がある。バンドは2025年2月25日、日本での最後のツアーを2025年後半に行うと公式サイトで発表した。『7 Wishes』の発売から40年を記念するもので、バンドはこの作品をダブル・プラチナと記している。日程は10月14日の大阪、16日の東京・武道館だった。ところがその翌年、2026年4月23日に公式サイトが告知したのは、同年8月29日に福岡のみずほPayPayドームで演奏するというものである。最後のツアーと銘打った日本公演のあとに、単発の日本公演がもう一本組まれたことになる。
ナイト・レンジャーは、ブラッド・ギルス、ケリー・ケイギー、ジャック・ブレイズの3人から始まったバンドである。それ以前の3人はルビコンというバンドで活動しており、アルバムを2枚出していた。ただしケイギーはルビコンのレコーディングには参加しておらず、最終ツアーに加わったのだという。
ツイン・ギターに全員が歌えるという、このバンドの骨格は合流によって生まれた。1980年頃、アラン・フィッツジェラルドが、サクラメントにジェフ・ワトソンというすごいギタリストがいるので3人で新しいバンドを組まないか、とブレイズに持ち掛けてきた。ブレイズはそれを聞いて、二つを合体させることを思いつく。全員がシン・リジィの大ファンで、2人のリード・ギタリストのハーモニーと歌えるベーシストという成り立ちなら再現できると考えたのだという。そこに自分たちらしさとして足したのが、全員が歌えるバンドにするというアイディアだった。
ブラッド・ギルスには、ナイト・レンジャーがデビューする直前に別の顔があった。1982年、ランディ・ローズが飛行機事故で亡くなったあとのオジー・オズボーンのバンドに、その後任として加わっているのである。彼はそのツアーを最後まで務め、ライヴ盤『Speak Of The Devil』にも参加した。そしてナイト・レンジャーのレコードが動き出したためオジーのもとを離れている。
そのオジーのバンドへの加入は、わずか数日の出来事だった。当時のギルスは初期のナイト・レンジャーと並行してアラメダ・オール・スターズというクラブ・バンドでも弾いており、1982年初頭のある金曜の晩、そのバンドでオズボーンの曲を2曲カバーした。それを見ていた友人プレストン・スロール——ローズの後任の話を断ったギタリスト、パット・スロールの兄弟——がオーディションを取り付けようと申し出る。ギルスは承知したものの本気にはしていなかった。ところが日曜の朝にはオジー本人から電話で覚える曲のリストを渡され、火曜にはニューヨークにいた。片道の航空券と150ドルだけ。約束されていたホテルの部屋は用意されておらず、自腹で135ドルを払って待つことになる。深夜に呼ばれて上がったオジーのスイートではパーティーの最中だった。ギターを取ってこいと言われて「Flying High Again」を弾き、ソロに差し掛かったところでオジーが立ち上がって彼の肩を抱き、新しいギタリストが決まったと告げたのだという。
その縁は40年以上経っても切れていなかった。2025年7月26日、ミシガン州マウントプレザントのステージで、ナイト・レンジャーはオジー・オズボーンの「Crazy Train」を演奏した。その前の週にオジーが亡くなったことを受けた追悼である。ギルスは演奏に入る前、1982年の経緯を客席に説明したうえで、自分にスタートを与えてくれたのはオジーだと述べて礼を言った。ジャック・ブレイズもマイクを取り、自分とトミー・ショウがオジーのアルバム『Ozzmosis』で曲を書いたこと、彼がバンドの良き友人だったことを話している。なおナイト・レンジャーは近年、ギルスの在籍時への目配せとして「Crazy Train」を定期的に演奏している。
「Sister Christian」は、ドラマーのケリー・ケイギーが10歳下の妹について書いた曲である。妹の名前の綴りはKristyで、これが正しいとケイギー自身がSongfactsに述べている。もともとの曲名も「Sister Kristy」だった。ところが他のメンバーが、彼は「Sister Christian」と歌っていると思い込んでいたため、そちらがタイトルになってしまったのだという。
曲中で繰り返される「motoring」という語には、地域の言葉としての背景がある。ケイギーが育ったオレゴン州ユージーンでは、友達と車で走り回ること——しばしば女の子に声を掛けようとしながら——を指してそう言ったのだという。この曲で彼が最初に書いたのがそのコーラス部分で、少し歯応えがあって動きのあるもの、それでいて中心から少し外れて分かりやすすぎないものを狙ったと述べている。
ナイト・レンジャーの曲の大半でリード・ヴォーカルを取るのはジャック・ブレイズだが、「Sister Christian」は違う。書いたケイギー自身が歌っており、ライヴでもドラム・セットに座ったまま歌う。続くシングル「When You Close Your Eyes」や、ブレイズが書いた「Sentimental Street」でもリードを取っているのは彼である。
『Midnight Madness』の先行シングルとして選ばれたのは、アップテンポの「(You Can Still) Rock in America」だった。次のシングルにレコード会社がバラードの「Sister Christian」を持ってきたとき、バンドは驚いたという。自分たちにバラードでヒットが出せるとは思っていなかったからである。結果はその逆で、この曲はバンドをポップの聴き手にまで広げた。
「(You Can Still) Rock in America」は、イリノイ州スプリングフィールドの安宿で生まれた。1983年、デビュー作を携えたツアーでサミー・ヘイガーに帯同していたときのことである。休みの日にブレイズがロック雑誌を何冊も買い込んだところ、どれもロックは死んだと書いていた。ところが実際にヘイガーと回っている先々では、何千人もの客が毎晩騒いでいる。言っていることと目の前の光景が合わない。だったらアメリカではまだロックできるじゃないか、と彼は考えた。まずその一行とコーラスができ、そこから曲になった。歌詞の主人公は、親に内緒で家を抜け出してライヴに来たと彼に話した一人の少女から取られている。
「When You Close Your Eyes」の歌詞は、ハリウッドから逃げ出して書かれた。『Midnight Madness』の録音中、スタジオにはモトリー・クルーの面々が入り浸り、夜はレインボーに繰り出すという有様で、何曲か歌詞が仕上がらないまま録音が終盤に差し掛かる。プロデューサーに催促されたブレイズは飛行機に乗り、両親が住むアリゾナ州スコッツデールへ向かった。木曜の夜に着き、金曜から日曜まで誰もいないプールサイドに座り続けて、3曲分の歌詞を書き上げる。月曜に戻って全部歌った。この曲のコーラス自体は、スタジオの奥の部屋でピアノを弾いていたときに出たもので、普段ギターで曲を書く彼にとっては珍しい生まれ方だった。
バラードの成功は、そのまま縛りになった。「Sister Christian」が当たると、レコード会社はアルバムごとにバラードを求めるようになる。バンドは『7 Wishes』で「Sentimental Street」、『Big Life』で「Hearts Away」を出したが、1988年の『Man in Motion』ではついにバラードを入れずに納品した。会社はそれを認めず、「I Did It For Love」を録らせている。バラードであるだけでなく、ラス・バラードという外部の書き手による曲だった。自分たちで書いてきたバンドにとっては受け入れがたい話だったが、当時は人気に陰りが見えており、従うほかなかったとケイギーは述べている。
ブレイズが振り返ってバンドにとって最もきつかったと言うのが、『Man in Motion』を出したあとの時期である。自分たちの信条は爽快なアメリカン・ロックをやることなのに、それができなくなっていた。この状態が続くならもう自分たちのバンドとは言えない、とまで彼は感じたという。1988年の終わりから翌年にかけて、ナイト・レンジャーは活動を停止した。
1996年の再結成は、日本から始まった。メンバーで話し合った際、とりあえず1回だけライヴをやってみてはどうか、ではどこで、それなら日本で、というやりとりがあったのだとブレイズは憶えている。実際に日本公演をブッキングしてみるとたちまち売り切れ、追加公演まで行うことになった。本番も大盛況で、その反応があったからこそバンドは活動の継続を決め、その後のアメリカやヨーロッパのツアーに繋がっていった。彼は、日本のファンがいなかったら今のナイト・レンジャーは無かったかもしれない、とまで述べている。
2011年、東日本大震災と津波、そして原発の事故を受けて来日公演を延期する海外アーティストが相次いだなか、ナイト・レンジャーは予定どおり日本にやってきた。ブレイズは、心配しているだけでなく何かできることがあるはずだと考えた、ライヴをやってたった2時間でも笑顔を取り戻してもらえたら、と語っている。その際に彼が口にしたのが「You can still Rock in Japan」という言葉だった。自分たちのアンセムをそのまま置き換えた一言である。来日して受けた印象として彼が挙げたのは、表面上は何も変わっていないのに人々の心の中に深い悲しみがあること、そして成田の外国人入国審査の列に自分たちを含めて3人しかいなかったことだった。ギルスによれば、日本行きの機内にアメリカ人は5人しかいなかった。
2025年10月の来日公演は「FAREWELL JAPAN - The "Goodbye" Tour」と題された。10月14日のグランキューブ大阪と、16日の日本武道館である。ナイト・レンジャーが武道館に立つのは1986年以来、39年ぶりだった。ブレイズによれば、チープ・トリックの『at武道館』が出て以降、アメリカのバンドにとってあの会場に立つことは目標になった。『7 Wishes』のツアーで武道館公演が決まったときは本当に誇らしかったという。なお彼個人はその後、松本孝弘のTMGの一員として2004年にも武道館のステージに立っている。
ただし「フェアウェル」はバンドの終わりを意味していなかった。2025年9月の取材でブレイズは、活動はもう少し続けるつもりだと明言している。理由は、いまだに年間80〜90公演をこなしていて人生を楽しむ余裕もないからで、これから先はライヴのペースを落としていくのだという。本当の最終公演がいつになるかはまだ分からないが、その時が来れば自分たちで自然に気付くはずだ、と彼は述べた。実際、この来日の翌月にはアメリカで8公演が予定されており、2026年の予定も固まりつつあった。
初代キーボード奏者のアラン・フィッツジェラルドは、当時ジャック・ブレイズのルームメイトだった。当時のベイエリアではジャーニーがキーボードを多用して人気を集めており、自分たちにもキーボードが必要だと考えたのだという。彼はもともとモントローズでベースを弾いていた人物で、その後サミー・ヘイガーのバンドでキーボードを担当していた。
オジーのバンドでの初日は楽な夜ではなかった。ギルスは2021年の取材で当時をこう振り返っている。ホテルの部屋で小さなアンプとラジカセ、そして数か月前に録られたランディ在籍時のライヴ音源のカセットを使って毎日練習し、夜はサウンドボードの位置から本番を見ていた。ところが初日のサウンドチェックでは18曲のセットのうち7曲しかやれず、オジーは現れなかった。本番はニューヨーク州ビンガムトンのソールドアウト、8,000人。彼は「Revelation (Mother Earth)」で速いセクションに早く入ってしまい、バンド全員に見られたという。いったん演奏を止めて立て直し、そのあとは大きなミスなく最後まで務めた。
1982年のデビュー作『Dawn Patrol』は、ボードウォーク・レコードのために作られた唯一の作品である。同社が事業を畳んだため、バンドはMCAと契約し直すことになった。
バンドを広く知らしめた「Don't Tell Me You Love Me」はジャック・ブレイズが書いた曲で、ファンの一番人気でもある。彼はコーラスを先に作り、そのあと歌詞を書いたが、あまりに簡単に出来てしまったので言葉が足りないのではないかと不安になったのだという。プロデューサーの答えは、最小限の言葉で曲の狙いを全部伝えられているのだから、それは多くの人には難しいことだ、というものだった。
その「Don't Tell Me You Love Me」には25歳という年齢が出てくる。では歳を重ねた今のステージではどう歌っているのか、と訊かれたブレイズの答えは、当時のままだ、というものだった。書いた時の言葉なのだから変えない。仮に自分の実年齢に合わせて歌ったら、ニール・ヤングが「64歳」と歌うようなもので、どうにも空虚に響くだろう、と彼は言っている。
「Sentimental Street」の題は、サンフランシスコの通りの名前から来ている。1975年にこの街へ移り住んだブレイズは、空港へ向かう道すがら通るアベニューズという地区が気に入っていた。そこはジューダ、カークハムといったアルファベット順に並ぶ通り名が、番号の付いたアベニューと交差する場所である。その並びの中に「センチメンタル」という名の通りがあったら面白い——人生を考えながらその通りを歩けたら——という思いつきが、そのまま曲名になった。彼はこれを自分が作った中で最も気に入っている曲のひとつだと述べている。
「Four in the Morning」は、文字通り午前4時に書かれた曲である。目が覚めたところにコーラスの断片が浮かんでおり、その場で書いた。曲名をどうするかと考えたとき、まさに自分が午前4時にそこに座っているという状況そのものを歌詞にすればいい、と思いついたのだという。
活動停止のあと、ジャック・ブレイズはテッド・ニュージェント、トミー・ショウとダム・ヤンキーズを結成し、そちらに専念することになる。同バンドの代表曲「High Enough」は、ニューヨークにあるショウの部屋に着いたばかりのブレイズが、地下で洗濯をしながら口ずさんでいたフレーズから生まれた。それを聞きつけたショウが上に呼び、ピアノで、次いでギターで弾き合ううちに、30分ほどで曲が出来上がったのだという。
日本との関係は最初から熱かった。1983年に初めて来日したときには空港に大勢のファンが待ち構えており、ビートルズの映画を思わせるほどだったという。大阪では、ライヴを終えてホテルに戻りロビーに降りたところ200人近いファンが一気に押し寄せ、メンバーはエレベーターに押し込まれて身動きが取れなくなった。ホテルの支配人が前に立ちはだかって場を収めたが、かなりの騒ぎだったとブレイズは振り返っている。
2021年のアルバム『ATBPO』というそっけない題は、頭字語である。And The Band Played On——バンドは演奏を続けた、という意味になる。制作は全編リモートで行われた。もっともメンバーは以前からそれぞれ別の街に住んでおり、自分たちで制作も手掛けてきたため、多くのバンドほど作り方を崩されずに済んだ。先行シングル「Breakout」はブラッド・ギルスが持ってきたトラックから始まり、そこにブレイズがバンドと一緒に歌詞を付けていったという。ケイギーによれば、当時は1日に20回も電話でやりとりし、この行はどうか、こちらはどうかと詰めていったそうである。